松平忠固(まつだいら ただかた)文化9年7月11日(1812年8月17日)〜安政6年9月14日(1859年10月9日)
信州上田藩松平家第六代藩主。
幼名は玉助(たますけ)。初名は忠優(ただます)。号は慎斎。
官位は従五位下、左衛門佐、従四位下、侍従、伊賀守
播磨国姫路藩主・酒井雅楽頭忠実(さかい うたのかみ だたみつ)の次男として江戸に生まれる。
実母は遠江国横須賀藩主・西尾忠移(ただゆき)の女(むすめ)。
文化10年(1815)、上田藩第5代藩主・松平忠学(たださと)の養子となり、文政13年(1830)4月家督相続し藩主となる。
上田に産物会所をつくり、上田縞の改良・品質向上を図り、販路を広げ、養蚕業を奨励する。
天保5年(1834)には23歳で奏者番(そうじゃばん/将軍と大名の取次ぎなどの役)、天保9年(1838)に27歳で寺社奉行、弘化2年(1845)に34歳で大阪城代となる。
大阪城代に就任すると大阪難波橋のたもとに上田産物売捌(うりさばき)所を設置して上田縞や上田紬などの販路を広げた。
嘉永元年(1848)5月、37歳で老中に就任、海防掛(かいぼうがかり)となる。
嘉永6年(1853)米国のペリーが国交を開くよう強く求めると、老中主席阿部正弘と穏便・開国論を主張。鎖国・攘夷論の徳川斉昭と対立する。
嘉永7年3月27日(1854年4月24日)吉田松陰が黒船への密航を企て、失敗。翌日幕吏に捕縛されると、松陰の師である佐久間象山も連座する形で、投獄。
幕府内に両名を死罪にしようという動きがあるなか、忠固は両名に同情し、老中首座の福山藩主・阿部正弘と共に死罪への反対論を唱えた。
両名は助命され、松陰は長州に移されて萩の野山獄で幽囚、象山は信州松代で蟄居となる。
安政元年(1854)のペリー再来航の際には海防掛として日米和親条約を締結した。
象山・松陰への助命の行動や、条約締結に不満をもった徳川(水戸)斉昭は、幕府の参与を辞任し、安政2年(1855)8月、忠優を罷免する。
安政3年(1856)米国総領事のハリスが日米修好通商条約の調印を求めるなど対外事情は重大な局面を迎える。
幕府では佐倉藩主堀田正睦が老中主席となり、老中阿部正弘が没すると、安政4年9月、忠固は再び老中(次席)を任ぜらる。このとき、名を忠優(ただます)から忠固(ただかた)に改めた。
安政4年(1857)7月、上田藩士の櫻井純蔵と恒川才八郎を萩の松陰のもとに送り、象山を赦免しようとしている忠固の意向を松陰に伝えている。
安政4年10月付けの、松陰が桂小五郎(木戸孝允)に宛てた書簡によると
上田藩臣に櫻井純蔵・恒川才八郎なる者あり、皆吾が師を知り、因って遂に僕を知れる者なり。二氏會て其の君賢明の状を以て、告げ語ること甚だ悉せり。其れ或いは僕の言を以て通ずべし。
(略)
僕秘かに当世を歴観するに、此の説や、二侯に非ずんば其れ孰れか聴きて之を納容せん。而して僕獨り上田侯に眷々たるものは、櫻井・恒川二子の言猶耳に在るを以てなり。
足下固より報国の志を抱く者にして、又吾が師の平生を知る。
(略)
足下何ぞ天下国家の為めに一たび此の意を上田侯の下執事に呈鳴せざるや。
※足下は桂小五郎のこと、上田候は上田藩主である松平忠固のこと。
安政5年(1858)4月に彦根藩主井伊直弼が大老に就任。
同年6月19日、日米修好通商条約の調印に際し、勅許不要論を展開、即時調印を主張する。
直弼は天皇の勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結び、通商条約及び貿易章程に調印。
直後の同月23日、その責任を堀田正睦と松平忠固にとらせて、両名は老中職を解任され、忠固は蟄居を命じられる。
なお日米修好通商条約の調印に先立ち、忠固は上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げ、生糸輸出を準備させていた。横浜開港と同時に生糸の輸出を始めたのも上田藩であった。
安政6年(1859)9月12日、急逝。享年48。
病死とされているが、暗殺説も根強い。
長男、次男が夭逝していたため、家督は三男の忠礼(ただなり)が襲った。
幕府譜代筆頭酒井家出身のも絵慰問意識が強かったという。
墓所は天徳寺(東京都港区虎ノ門3丁目)であったが、後に改葬され多磨霊園(東京都府中市多磨町)。
遺髪と遺歯を埋納した墓が上田市の願行寺にある。
遺訓は「交易は世界の通道なり。皇国の前途は交易によりて隆盛を図るべきなり。世論囂々たるも開くべきの通道必ず開けん。汝らはその方法を講ずべし」
三男・忠礼と四男、忠厚はこの遺訓に従って、廃藩置県後に米国に留学。
忠礼は明治12年(1879年)に帰国し、外務省に入省。
忠厚は米国に残って現地で妻を娶る。後に土木工学者として三角法を使った画期的な測量法を開発し、全米で有名になった。
聡明で思考も現実的な政治家であったが、幕府譜代筆頭酒井家出身の名門意識が強かったという。