仙石騒動の流れ
文政7年5月3日(1824年5月30日)但馬国出石藩主・仙石政美が、参勤交代で出府の途中で発病。江戸で急死。
嗣子がなかったので、隠居していた政美の父・久道が親族を集めて後継者の選定会議を江戸で開き、久道の末子(政美の異母弟)である仙石久利が後継者と決まる。
この時、分家筋で筆頭家老である仙石左京久寿が実子・小太郎を伴って国元から出府したため、左京の政敵である手方頭取家老(財務会計担当)・仙石造酒久恒とその一派は、
「我が子を藩主に立てて主家を乗っ取るつもりだ」
と久道に訴えた。
文政8年(1825年)に左京は大老職を罷免されて失脚した。
これによって造酒が藩政の実権を握ったが、窮乏する藩財政の再建策は立てられず、また自身の派閥の内紛が起こり失脚。造酒はほどなくして病死する。
左京が再び藩政を掌握。
以前の重商主義政策に加えて、厳しい倹約や運上(営業税)の取立て強化などを行なった
左京が実子・小太郎の妻に幕府老中・松平康任の姪を迎え、康任に接近するのを見た酒匂清兵衛(造酒の実弟)が、
「左京は主家を横領している」
と先々代藩主久道に訴えるが、久道はこの訴えを却下し、逆に酒匂らは蟄居に追い込まれる。
追放とされた勝手役家老・河野瀬兵衛が、分家筋の旗本・仙石弥三郎の附人・神谷転(うたた)と手を結んで、幕閣に左京の非を訴えた。
この時の上書が久道夫人の目に入り、経費削減により江戸屋敷も困窮していたことから、
「左京が藩士から取上げた俸禄を不正に蓄財している」
と久道に訴える。
左京派は逃走した河野瀬兵衛を追い、天領である生野銀山で捕縛。
本来天領での捕縛には幕府の勘定奉行の許諾が必要でだったが、左京は懇意の老中松平康任に頼み、事実をもみ消してもらう。
残る造酒派の脱藩者の捕縛も狙うが、町奉行所に捕縛された神谷転は虚無僧の体となっていたことから、普化宗一月寺が
「僧は寺社奉行の管轄、町奉行に捕縛権限はない」
と寺社奉行所へ訴える。
神谷が寺社奉行所に顛末を訴え、また久道夫人も実家の姫路藩主酒井忠学の妻(将軍家斉の娘)に騒動について語ったため、騒動が表面化。
寺社奉行・脇坂安董(と部下の川路聖謨)が取り調べの上、老中・水野忠邦に出石藩の騒動と松平康任の関係を報告。
水野忠邦と脇坂安董は、
「左京が仙石家の乗っ取りを策謀している」
として将軍・家斉に言上。
娘経由で騒動を耳にしていた家斉は、評定所での裁定を命じると共に、責任者を脇坂安董とすることに決める。
天保6年12月9日(1836年1月26日)裁定が下され、
・仙石左京は獄門、
・左京の子である小太郎は八丈島へ流罪(八丈島に向かうために立ち寄った三宅島で病没)、
・妻と娘は追放(娘は私娼になったが、正直が功を奏して大店の正妻に迎えられた)
・左京派の側近や用人は死罪、
・老中の松平康任は隠居謹慎
となった。
藩主の久利本人への直接的な咎めは無かったが、
「家政不取締り」を理由に知行を5万8千石から3万石に減封された。
また幕府内でも、老中松平康任は他の不正も発覚したこともあって、隠居を命じられた。
松平康任を失脚させた水野忠邦は老中首座となり、天保の改革を推し進める。脇坂安董は寺社奉行から老中に就任する。
仙石久利は戊辰戦争では新政府に恭順した。
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仙石騒動
仙石久寿
仙石久利
コトバンク
日本大百科全書(ニッポニカ)「仙石騒動」の解説