日本合戦譚 大阪夏之陣 | |
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも) 戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。 大阪の陣/大阪の役は、慶長19年(1614年) - 慶長20年(1615年)、江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした戦いの呼称。 (2009/12/23(Wed) 18:42)「冬の陣」 徳川家康は慶長19年(1614年)4月に豊臣家が再建させた方広寺の鐘銘に難癖を付け、これを口実にしてに豊臣を攻撃。 慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手。 集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人。著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登、塙直之、大谷吉治などがいた。 10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発。 慶長19年(1614年)11月19日、戦闘は木津川口の砦で始まる。 数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収。豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲。苛烈な攻撃を加えつつ、12月3日より和平交渉を行う。 交渉は18日より開始。19日には講和合意。冬の陣は終結。 大阪城は外堀・内堀とも埋立られる。 「夏の陣」 慶長20年(1615年)3月15日、大阪城の修復、京・伏見放火の風聞が家康の耳に届き、4月6日、諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じる。 豊臣方は4月26日に大和郡山城を落とし、28日には堺を焼き打ちする。 5月6日、大和路を大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃。寄せ集めの豊臣方は密な連絡が取れず後退。 同日、河内路を大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃を豊臣勢が迎撃。しかし壊滅状態となる。 豊臣方は大坂城近郊に追い詰められる。 5月7日、正午頃に天王寺・岡山合戦が開戦。例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となる。 豊臣方の真田信繁・毛利勝永・大野治房などにより幕府方の大名・侍大将に死傷者が出、家康・秀忠本陣は大混乱に陥る。 しかし兵力に勝る徳川方は態勢を立て直し、反撃。豊臣軍は午後三時頃には壊滅。 堀を埋められた大坂城には攻撃を防ぐ術はなく、徳川方は城内に続々と乱入。 放たれた火により天守も炎上。5月7日深夜に大坂城は陥落。豊臣秀頼は淀殿らとともに自害。 戦後、大坂城は将軍家直轄となり、跡地に新たな大坂城が建てられた。 | |
日本合戦譚 小田原陣 | |
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも) 戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。 小田原陣・小田原の役・小田原攻め・小田原征伐・小田原合戦・小田原平定とも。 (2009/12/23(Wed) 16:58)1590年(天正18年)に豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降した戦役。小田原城の攻囲戦だけでなく、平行して行われた北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含む。 1582年(天正10年)、後北条氏は織田信長の武田征伐に参加。武田方の諸城を攻略したものの、戦後の恩賞は皆無。北条家は織田家へ不満を抱き、本能寺の変で信長が横死した直後、織田家と断交。 甲斐の支配を目論んでいた徳川家康との間に武田遺領を巡る天正壬午の乱が勃発する。 一時は信濃の大半を支配下に置いたが、徳川方の依田氏の工作により真田氏が離反。 後北条氏は、家康の娘・督姫を氏直に嫁がせ、武田遺領のうち後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を実質領有することで講和。 しかし、徳川傘下となった真田氏は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒。真田は徳川氏からも離反し上杉家を頼る。 以前から後北条氏を警戒していた豊臣秀吉は、後北条氏と真田氏のを仲裁。 後北条氏が沼田城を領有して紛争地域の大半を後北条領とし、名胡桃城を真田分とし、和解条件として氏政・氏直のどちらかの上洛を要求した。 1589年(天正17年)11月、後北条方の猪俣範直による名胡桃城占領と言う事態が発生。 これに対し秀吉は後北条氏の討伐令を全国の諸大名に通知、同年12月13日朱印状を以って陣触れを発した。 後北条氏側は徴兵を行い、小田原城修築、城砦の整備をするなど、戦闘体制を整えていた。 1590年(天正18年)春頃から豊臣軍主力が黄瀬川周辺に集結。3月27日には秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃開始。 後北条氏側の城砦を陥落させつつ進軍。先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着。 小田原包囲戦が始まると秀吉は石垣山に石垣山一夜城を築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。 一方、前田上杉ら北国勢と信州勢を主力とする北方隊、及び徳川勢からの応援部隊が支城を攻略。 後北条側は外部との連絡が不通になり、士気の低下は避けられなくなった。 7月5日、北条氏直が徳川方に己の命と引き換えに城兵の助命を申し出る。家康は秀吉に氏直の降伏を伝えた。 ここに小田原城は陥落。 7月11日、氏政・氏照自害。氏規と氏直は高野山へ追放となった。 戦後、後北条の旧領はそのまま家康に宛がわれることとなった。 | |
日本合戦譚 応仁の乱 | |
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも) 戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。 応仁の乱は、室町時代の8代将軍・足利義政のときに起こった内乱。 室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し戦国時代に突入するきっかけとなった。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、終息したのが文明9年(1477年)のため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。 元々は、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発している。 (2009/12/23(Wed) 16:11) |
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