資料室に
坂口安吾の随筆「
推理小説について」と、岡本綺堂の戯曲「修禅寺物語」の
新字新仮名版&
旧字旧仮名版を追加。
「
推理小説について」」は、横溝正史の「
蝶々殺人事件」をメインテクストに、
角田喜久雄、
小栗虫太郎、
木々 高太郎、などを俎上に上げ、日本の推理小説についてちょびっと苦言を呈する内容。
ドストエフスキーなんかも引き合いに出されていたり。
日本の探偵小説は衒学すぎるところがある。ヴァン・ダインの悪影響かと思うが、死んだ小栗虫太郎氏などゝなると、探偵小説本来の素材が貧困で、それを衒学でごまかす、こういう衒学は知性のあべこべのもので、実際は文化的貧困を表明しているものなのである。世間一般にあることだが、独学者に限って語学の知識をひけらかしたがるが、語学などは全然学問でも知識でもなく、語学を通して読まれたテキストの内容だけが学問なのだが、一般に探偵小説界は、まだ知識の語学時代に見うけられる。
法医学上のことなども、衒学的にふりかざゝれており、別にそうまで専門的なことを書く必要もないところで法医学知識をふりまわす。そのくせ重大なところで、実は法医学上の無智をバクロするというような欠点もある。
「推理小説について」を読む「修禅寺物語」は、鎌倉時代を描いた戯曲。
綺堂が修善寺に遊んだ折り、修禅寺に伝わる寺宝「頼朝の面」という奇妙な木彫の面を見て着想した物語。
源頼家は征夷大将軍・源頼朝の嫡男。
父の急逝により、若くして二代将軍となった彼は妻・若狭の実家である比企家を後ろ盾としていた。
しかし母・北条政子とその一族である北条氏は、頼家の独断的な政治手法を嫌い、病を得た彼を廃して弟である実朝を三代将軍に立てようと画策。
外戚間に対立が起きた。
比企と北条の対立は、比企能員が北条方に謀殺されたこと(比企能員の変)により収束。
頼家は鎌倉から追われ、伊豆に流された。
これが1203年迄の出来事。
「修禅寺物語」はここから始まる。
元久元年七月十八日(1204年8月14日)。
能面師・夜叉王は、二人の娘「かつら」「かえで」、弟子の晴彦の四人で、伊豆・修善寺に暮らしている。
長女のかつらは、都生まれの亡き母親に似たか、公家気質で気位が高く、高貴な身分の男性と結婚を望み、二十歳の歳になった今でも独身でいる。
十八歳の次女かえでは、父親似の職人気質で、父の弟子である晴彦を夫に迎えていた。
夜叉王は伊豆に流された頼家から、彼の顔を写した能面を作るように依頼されていたが、半年を過ぎても納品できずにいた。
その日、痺れをきらした頼家が、自ら夜叉王の工房へ催促にやってきた。
気性の激しい頼家は、まだ納得行く作品ができぬという夜叉王に斬り掛かる。
慌てた晴彦ができあがっていた面を持ってくる。
頼家はその出来を褒めたが、夜叉王は納得していない。
生きた人を写した面に「死相」が浮かんでいると言うのだ。
しかし面を気に入ったという頼家。かつらは面を箱に収め献上する。
かつらの美しさをみとめた頼家は、かつらに奉公に上がるよう命ずる。
かつらは自らの望みかなったと喜び、面を携えて家を出て行く。
修禅寺に戻った頼家は、かつらに亡き妻の名である若狭を名乗らせた。
一時、心安らぐ頼家主従。
しかしその夜、北条方が修禅寺を襲撃した。
俄に聞こえる騒乱の物音に、かつらの身を案じる夜叉王一家。
夜陰から現れた落ち武者をかえで・晴彦夫婦が助け起こすと、それは男装したかつらだった。
父の打った面を被り頼家の衣裳を身につけたかつらは、自ら頼家と名乗りを上げることにより、我が身に敵を引きつけ頼家を逃がそうと務め、深手を負ったのだった。
しかし、寺より避難してきた僧侶から、すでに頼家も討たれたと聞かされ、かつらは力を失う。
かつらが身につけ、敵の返り血を浴びた頼家の面を手にした夜叉王は、今事切れようとする娘を前に歓喜し、笑う。
「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸神に入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう。」
死に行くかつらもまた笑う。
「わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。ちっとも早う上様のおあとを慕うて、冥土のおん供……。」
娘の苦しげな顔を見た夜叉王は、弟子に筆と紙を取りに行かせ、若い娘の断末魔を「後の手本」に写生するのだった。
「修禅寺物語」
新字新仮名版を読む&
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