長野県長野市松代(海津城周辺)小旅行

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松代城址・太鼓門と前橋
2004年(平成16年)に復元された物。

松代城、元の名は海津城(かいづじょう)ないし貝津城。
茅の生い茂った地であったため、茅津城(かやつじょう)と呼ばれていたという説もある。

『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収。足軽大将の山本勘助に命じ、その縄張りによって、海津城は1560年(永禄3年)頃築城されという。
海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置していた。 1561年(永禄4年)9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると、城代の春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城して信玄本隊の到着を待った。
同10日には八幡原において両軍の決戦(いわゆる「第四次川中島合戦」)が行われたという。

1582年(天正10年)武田氏滅亡後に、織田氏家臣の鬼武蔵こと森長可の居城となる。
1582年(天正10年6月2日/ユリウス暦で6月21日、グレゴリオ歴換算で7月1日)本能寺の変が起こると、長可は信濃を放棄して退却。
以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となる。

1598年(慶長3年)上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられた。
1600年(慶長5年) 2月に田丸直昌の後釜として森忠政が入封。同時に豊臣家の蔵入地では無くなる。このころ「待城(まつしろ)」と改名。
(元々、忠政の兄である兄長可の旧領であったため、「城も森家が帰ってくるのを『待って』いたに違いない」というわけで「待城(まつしろ)」と改名させたとか……。)
忠政は 1603年(慶長8年) 森忠政が美作へと加増転封されると松平忠輝が入封する。
この忠輝領主時代に「待城」から「松城」へと改名。
(「待城」時代に色々良くないことがあったので、松平の「松」をとって「松代」に変えちゃえ、と)
忠輝以後は松平忠昌、酒井忠勝と続く。
1622年(元和8年) 真田信之が入城。以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となる。
1711年(正徳元年) 幕命により「松代城」と名を改められた。
(一節に、信之が「松平の城」じゃなくて、長生きの象徴でもある「松」に「末代まで続く城」の意を込めて「松代」に変えたとも)
1717年(享保2年) 火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失。
1742年(寛保2年) 戌の満水により被害を受ける。
1770年(明和7年) 花の丸に御殿を移す。
1853年(嘉永6年) 火災により花の丸を焼失。
1872年(明治5年) 廃城。

明治の廃城後は建物が打ち壊されたため、城としての景観を失い、わずかに石垣が残るのみであった。

1981年(昭和56年)、現存する城郭建築である新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定される。
1995年(平成7年)から長野市による環境整備工事が行われ、発掘・文献調査開始。
2004年(平成16年) 太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元された。

ファイル名 P9120048.JPG データ更新日 2010/09/12 10:56:56
メーカー OLYMPUS OPTICAL CO.,LTD 機種名 C730UZ
レンズ F 値 F5.6 露光制御モード 低速プログラム
ISO 感度 64 撮影日時 2010:09:12 10:56:57
露光補正値 EV0.0 測光モード マルチセグメント
フラッシュ フラッシュ強制オフ 焦点距離 5.90 (mm)
露光時間 10/4000 (秒)

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