長野県長野市松代(海津城周辺)小旅行

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信之公墓所脇にある鈴木忠重の墓。
鈴木忠重(すずき ただしげ、天正2年(1574年) - 明暦4年(1658年))
上野名胡桃城(沼田の支城)城代・鈴木主戸重則の子で、幼名・小太郎。通称名・右近。

天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田領を北条に引き渡すことになった折、名胡桃は真田に安堵と言うことにされた。
しかし、北条家臣で沼田城主・猪俣邦憲の策略によって、名胡桃城は奪われ(名胡桃事件)、鈴木主戸は自害。忠重(当時15歳)は母とともに北条氏に捕われる。

その後開放されると、真田昌幸に引き取られその家臣となった。

ところが19歳の時に出奔。(昌幸に寵愛されすぎたことを同僚に嫉まれたためとも)
この出奔の最中、柳生宗章(十兵衛三厳の伯父)の弟子となり、柳生の庄で柳生宗厳(石舟斎。宗章の父。柳生心影流の祖)にも剣を学んだという。
7年間漂泊の後に帰参。

ところがところが関ヶ原の戦いの前後に再度出奔した(原因不明)。
十余年後に真田氏に帰参し京の伏見真田屋敷留守居役を務める。

昌幸死後は沼田城主・真田信之の家臣として、真田氏の松代転封後は重臣に名を連ねる。
主君・信之が参勤交代で江戸に向かった後には藩政を司るため松代城に残っていたとされる。

信之病没後に殉死した。
享年84。

時の将軍は三代・家光。(家諸法度に殉死禁止が明記されたのは、五代将軍・綱吉の時代)
太平の世となり、殉死は自粛せよとの風潮だったが、忠重は信之との生前の約定があると書簡で説明し、幕府直々の許可を得て殉死したという。

ファイル名 P9120099.JPG データ更新日 2010/09/12 13:38:10
メーカー OLYMPUS OPTICAL CO.,LTD 機種名 C730UZ
レンズ F 値 F3.2 露光制御モード 低速プログラム
ISO 感度 64 撮影日時 2010:09:12 13:38:11
露光補正値 EV0.0 測光モード マルチセグメント
フラッシュ フラッシュ強制オフ 焦点距離 10.30 (mm)
露光時間 10/500 (秒)

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