その彭は、ある日
「あなたは、
彭が声をかけると女は恥かしそうに顔を赤らめたが、そのままその顔を老婆の方へやって、
「婆や、早く行きましょうよ」
と言ってからむこうのほうへ歩いた。彭は引きずられるように老婆の後から
すこし行くと女は斜に後ろを振り返って、老婆の横から彭を覗くようにした。女の気配に彭は顔をあげたが、その拍子に女の視線と視線が合った。女はきまり悪そうにあわてて
女の眼の色に親しみを見出した彭は、非常に気が強くなってそのまま随いて行ったが、女も老婆も不思議に足が早いので、路の曲っている所などでは、ときどき二人の姿を見失いそうになった。
彭はすこしも油断することができなかった。孤山の麓にある水仙廟がすぐ眼の前に見えてきた。もう陽が入って西の空が真赤に夕映えていた。女と老婆は水仙廟の手前から廟に沿うて折れて行った。その二人の顔に夕映の色がうっすらと映っていた。
みるみる女と老婆は水仙廟の後ろへ行ったが、そのまま見えなくなった。彭は女の姿が見えなくなると、小走りに走って廟後へ着くなり、ぴったり走ることを止めて、そのまわりに注意して廻ったが、何所へ行ったのかもう影も見えなかった。
彭はしかたなしに
「おい、彭君じゃないか」
だしぬけに声をかけるものがあった。彭は
「ああ君か」
「君は、いったい
彭は女を捜しているとも言えなかった。
「散歩に来たところなのだ」
「そうかね、じゃ、いっしょに帰ろうじゃないか」
彭は友人と
彭はとうとう病気になって、飯もろくろく
「公主からお迎えにあがりました」
眼を開けて見ると、
「
彭は急に体を起した。
「水仙廟で逢った公主というのですか」
「そうでございます、公主から貴郎のお供をしてくるようにという、お使いでございます」
「公主とは、どうした方です」
「いらしてくだされたら、お判りになります」
「では、行ってみましょう」
彭は起きて着物を
彭は生き返ったような軽い気もちになっていた。路は彼方に曲り此方に曲って行った。
「やっとまいりました」
彭はその声に顔をあげて見た。水仙廟の後ろと思われる山の麓に楼閣が
「公主のいらっしゃる所は、別院でございます、私がまいりますから、そっといらっしてくださいまし」
彭はうなずいてみせた。女の子はすぐ眼の前にあった朱塗の大きな門を入って、玉を敷いてあるような綺麗な路を行った。路の両側には花をつけた草や木が一めんに生えていた。椿のような花の木もあれば、牡丹のような大きな花をつけた草もあった。白い花をつけた高い木には、
路は爪さきあがりにあがっていた。その路をすこし歩いていると、すぐなだらかな路になった。と、洞穴の口のように見える建物の入口がきた。その入口には「水晶城」とした額がかかっていた。建物の周囲には水があって、白や紅の蓮の花が月の光の中の下に夢見るように咲いていた。水に臨んで朱塗の欄干も見えていた。
女の子はその中へ入って行った。彭もそれに随いて行った。其所は窓という窓は皆水晶で、それに青白い月の光が射していた。公主といわれているかの女は欄干に
「あの
かの女は此方を見るなりすぐ体を起して寄ってきた。
「
女はにっと笑いながら彭の手に自分の手をかけた。彭はきまりが悪いので、微笑するだけで何も言えなかった。
「すこしお眼にかからない間に、こんなにお痩せになりまして」
女はこう言ってから傍に立っていた女の子の顔を見た。
「あの
女の子はちょっと頭をさげて次の
「これは
彭はそれを飲みながら不思議な
「此所は何所でしょう」
「此所は
女は冗談に言って笑った。彭はもう何の遠慮もいらなかった。彼はいきなり女を抱きあげて綺麗な
已而菌縟流丹、女屡乞休始止。彭と女とはその後で話をした。彭は匂いのある女の体を撫でながら言った。
「貴女は、
女は艶めかしそうに笑った。
「貴郎は、物に怖れない方だから申しますが、私は水仙王の娘で、
「舅さんは、どうした方です」
「蟹の王ですよ、今この西湖の判官になっております」
朝になって寺の鐘が鳴り出したので、彭は急いで起きて帰ってきたが、それから毎晩のように行って朝早く帰った。
ある朝、二人が寝すごしたところで、女の
「曲者をひっ捕えてまいりました」
捕卒の一人は
「
判官は急いで彭を縛った縄を解いたが、彭にはその意味が判らなかった。
「私はいつか貴君に助けられた者だ」
彭は女から舅さんは蟹の王であると言われたことを思いだした。彭はふと気が
「さあどうか、おあがりくだされ」
判官が
「
「私は南昌の者で彭徳孚と申します」
「貴君は
「ありません」
「では、良縁だ、私の姪と結婚して貰いたい」
彭はもとより望むところであった。その席には保姆もいた。判官は保姆に言いつけた。
「あれを呼んでこい」
保姆は公主を連れて入ってきた。女は恥かしそうにして顔をあげなかった。判官の夫人も其所へ入ってきた。
「この方が、わしの恩人じゃ、あれをお願いすることにした」
彭は女と結婚の式をあげて水晶館にいることになった。彭は琴が上手であった。彭が琴を
風のない暖かな日であった。前からそろそろと漕いできた一艘の舟があったが、その舟の中から声をかける者があった。
「彭君じゃないか」
彭は聞き覚えのある声を聞いて顔をあげた。それは銭塘の友人であった。
「やあ」
「君は、いったい何所を歩いてるのだ、君の家から手紙がきたから、僕はこの間中、君の居所を捜していたのだよ」
その時、舟と舟の
「それはすまなかったね」
「では手紙を渡すよ」
友人は手にしていた手紙を此方の舟の中へ投げ込んだ。
「ありがとう」
「では明日にでもまた逢おう、やってきたまえ」
「ああ、行くよ」
舟は見る間に行き過ぎてしまった。彭は急いで手紙を開けて見た。それは母親の病気を知らしてきたものであった。
「母が病気だ」
彭は母の病気が心配になってきたが、しかし、女と離れるのが苦しいので困って考え込んだ。
「お母さんが御病気なら、お帰りにならなくちゃいけません、私もごいっしょにまいります」
二人は其所から引返して判官の前へ行った。判官は女の体が弱いと言って、いっしょに行くことを許さなかった。
「これは体が弱いから遠くへは行けない、しかし、お母さんの病気は、もう好くなっているから心配はないが、貴君は子として一度は帰ってくるがいいだろう」
判官は一粒の丸薬を出して彭に渡した。
「帰ったらこれをお母さんに飲ますがよい、これを飲むと決して年を取らない」
彭は一人で帰ることにして女に言った。
「秋にはきっと帰ってくる」
すると女は涙を見せて言った。
「この二三ヶ月、お腹の具合が変でございます、どうか忘れずにいてください」
彭はその日出発して故郷へ帰ったが、帰ってみると母の病気は癒っていた。彭は母を連れて銭塘の方へこようとしたが、母が遠くへ出るのを嫌うので、一人で引返して
簷を並べていた楼閣は影もなくなって
そのうちに日が暮れかけた。彭はしかたなしに
「貴郎」
「お前か」
二人は手を取り合った。
「家がなくなっているが、どうしたのだ」
「家が焼けたものですから、雷峰塔の下へ移りました」
「そうか、ちっとも知らなかった」
二人は其所から舟を雇うて雷峰塔の下へ行った。雷峰塔の下には楼閣が簷を並べていた。
「此所ですよ」
二人は舟をあがって行った。朱の柱をした綺麗な室が二人を待っていた。女は迎えに出てきた
女は彭に絡まりついて離れなかった。それがために彭は翌日体が起たなかった。女はすこしも傍を離れないで介抱をした。彭はそれが非常に
たちまち帷をはねあげて入ってきた者があった。彭は驚いて重い眼を開けた。それは自分の傍にいる女とすこしも変らない女であった。入ってきた女は彭の傍へ寄るなりその背を撫でさすりながら泣いた。そして彭の枕頭にいる女に指をさして罵った。
「この悪魔、私の
彭は二人の顔を見較べてみたが、顔から髪から着物の色合から何方がどうとも
「二人とも何も言うな、俺はもうすぐ死んじまうのだ」
入ってきた女はまた声を出して泣きだしたが、急になにか思いだしたようにそのまま走って出て行った。
彭はそのままぐったりとなっていた。それは夕方であった。さっきの女が侍女を連れて、それに体の真黒な頂の
「これは、雷峰塔の蛇が、私に化けていたものですよ、私が舅さんに随いて、
女は侍女にその玉を渡して薬を拵えてこさした。侍女は次の室へ行ってすぐ薬を拵えてきた。
彭は三日ばかりすると起きれるようになったので、女といっしょに帰って行った。其所はやはり孤山の麓にある水晶閣であった。
女は生れて二月ぐらいになる
「この子は
それを聞くと女は泣きだした。
「私はこの子の成長を見ることができませんから、貴郎が好く面倒を見てやってください」
「何故そんなことを言うのだ」
「私は
女はそう言って泣きながら彭の手から児を取って乳を飲ましていたが、すぐそれを彭に返してひらひらと出て行った。そして、十足ばかり行くともう見えなくなってしまった。