小公女

A LITTLE PRINCESS

フランセス・ホッヂソン・バァネット Frances Hodgeson Burnett

菊池寛訳

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      十一 ラム・ダス

 時とすると、広場で見る夕焼ゆうやけもなかなか美しいものです。が、街からは、屋根や煙突に囲まれたほんの少しの空しか見えません。台所の窓からは、そのほんの少しも見えはしないでしょう。壮麗そうれいな夕焼の空をくまなく見渡すことのできるのは、何といっても屋根裏の天窓ひきまどです。セエラは夕方になると、用の多い階下からそっとぬけて来て、屋根裏部屋の机の上に立ち、窓から頭を出来るだけ高く出して見るのでした。大空はまるでセエラ一人のもののようでした。どの屋根の上にも、空を眺めている人の頭は見えませんでした。セエラは一人何もかも忘れて、いろいろの形にかたまったり、解けたりする雲を、見つめていました。
 ある夕方、セエラはいつものようにテエブルの上に立って、空を眺めていました。西の空は金色こんじきの光に被われ、地球の上に金のうしおを流しているようでした。その光の中に、飛ぶ鳥の姿が黒々と浮んで見えました。
「素敵、素敵。何だか恐ろしいほど素敵な日没だわ。何か思いがけないことでも起るのじゃアないかしら。」
 とふいに、何か聞きなれぬ物音がしました。振返ると、お隣の窓が開いて、白い頭布タアベンを捲いた印度人の頭が、続いて白衣びゃくえの肩が出て来ました。――「東印度水夫ラスカアだ。」と、セエラはすぐ思いました。――彼の胸もとには、一匹の小猿がまつわりついていました。さっき聞いた妙な音は、小猿の声だったのでした。
 セエラが男の方を見ると、男もセエラを見返しました。男の顔は悲しげで、故郷ふるさと恋しいというようでした。霧の多いロンドンでは、めったに太陽を見ることが出来ないので、男はきっと印度で見なれた太陽を見に上って来たのでしょう。セエラはまじまじと男を見て、それから屋根越にほほえみました。セエラは辛い日を送って来た間に、たとい知らぬ人からでも、ほほえみかけられるのはうれしいということを、身にみて感じていたのでした。
 セエラの微笑ほほえみは、男を喜ばしたに違いありません。彼は夕闇ゆうやみのような顔をぱっと輝かして、白い歯並を見せて笑いました。
 猿は男が挨拶しようとした隙に、ふと男の手を離れて、屋根を飛びこえ、セエラの肩に足をかけて、部屋の中に飛びこんでしまいました。セエラは面白がって笑い出しました。が、すぐ猿を主人に――あのラスカアが主人なら、あのラスカアに――返してやらなければならないと思いました。が、セエラはどうして猿を捕えたらいいか、判りませんでした。下手に捕えようとして、逃げ失せられでもすると大変です。で、セエラは、昔ならい覚えた印度の言葉で、
「あの猿は、私に捕るでしょうか?」と、訊ねました。
 男は、セエラが自分の国の言葉で話すのを聞くと、ひどく驚き、同時に喜びました。そしてべらべらと、その言葉でしゃべり始めました。彼の名はラム・ダスというのだそうでした。猿はなかなかいうことを聞かないだろうから、セエラが許してくれるなら、自分が行って捕えようと、彼はいいました。
「でも、屋根と屋根との間を飛んで来られて?」
「造作ないことです。」
「じゃア来てちょうだい。怯えて向うへ行ったり、こっちへ来たり、大騒ぎしているから。」
 ラム・ダスは、天窓からするりと屋根の上に上ると、生れてから今まで屋根を渡って暮して来たかのように、身も軽々とセエラの方へ渡って来ました。彼[#「彼」は底本では「後」]は足音も立てず、天窓からセエラの部屋にすべりこみ、セエラに向き直って、印度流の額手礼サラアムをしました。猿はラム・ダスを見ると小さな叫声さけびごえを揚げました。が、彼が天窓を閉めて捕えにかかると、戯談じょうだんにちょっと逃げ廻って、すぐラム・ダスの首にかじりつきました。
 ラム・ダスは、セエラに厚く礼をいいました。彼のすばやい眼は、室内の惨めな様子を、一目で見てとったようでしたが、セエラに向っては何にも気づかぬふりをして、まるで王女にでも物をいうように話しかけました。彼はじき暇を告げました、「病気の御主人は、猿を失ったらどんなに落胆したでございましょう」などと、繰り返しお礼をいいながら。
 ラム・ダスが去ったあと、セエラはしばらく屋根裏部屋の真中に立ったまま、思い出に耽っておりました。セエラはラム・ダスの印度服や、うやうやしげな態度を見ると、印度にいた時のことを思い起さずにはいられませんでした。一時間前には、料理番にまで罵られていた今のセエラが、かつてはたくさんの召使にかしづかれていたのだと思うと、おかしいくらいでした。それはもう過ぎ去った昔のことで、そんな身分にまたなれるとは思えませんでした。ミンチン先生はセエラが相当の年になるのを待って、たくさんの組を受け持たせるでしょう。そのつとめが、今の雑用より楽だとは思えません。着るものなどは先生らしくさせられるかもしれませんが、それとてきっと女中の着るようなひどいものでしょう。これから先、何かよい方に変化が起って、再び幸福な身分になろうとは、セエラにはどうしても思えませんでした。
 ふと、また何かを思いついたので、セエラの頬は紅くなり、眼は輝き出しました。彼女は痩せた身体をしゃんと伸し、顔を起しました。
「どんなことがあっても変らないことが、一つあるわ。いくら私が襤褸ぼろや、古着を着ていても、私の心だけは、いつでもプリンセスだわ。ぴかぴかする衣裳を着て宮様プリンセスになっているのは容易たやすいけど、どんなことがあっても、見ている人がなくても、宮様プリンセスになりすましていることが出来れば、なお偉いと思うわ。マリイ・アントアネットは玉座を奪われ、牢に投げこまれたけど、その時になってかえって、宮中にいた時よりも、女王様らしかったっていうわ。だから、私マリイ・アントアネットが大好き。民衆がわアわア騒いでも、女王はびくともしなかったそうだから、女王は民衆よりずっと強かったのだわ。首を斬られた時にだって、民衆に勝ってたんだわ。」
 この考えは、今考えついたわけではありません。セエラはいままででも、辛い時には、いつもこの事を考えて、自分を慰めていたのでした。ミンチン先生にひどいことをいわれる時など、セエラは心の中でこういいながら、黙って先生を見返しているのでした。
「先生は、そんなことを、宮様プリンセスにいってるのだということを御存じないのね。私がちょっと手を上げれば、あなたを死刑にすることだって出来るのですよ。私は宮様プリンセスなのに、先生は愚かな、意地悪なお婆さんなのだと思えばこそ、何といわれても、赦してあげているのよ。」
 セエラは宮様プリンセスである以上、礼儀深くなければいけないと思いましたので、ミンチン先生はもとより、召使達が彼女にどんなひどい事をした時も、決して取り乱した様子などしませんでした。
「あの若っちょは、バッキンガムの宮殿からでも来たみてエに、いやにもったいぶってやがる。」と、料理番も笑ったほどでした。
 ラム・ダスとお猿の訪問を受けた次の朝、セエラは教室で、下の組の少女達にフランス語を教えていました。授業時間が終ると、セエラは教科書を片付けながら、御微行ごびこう中の皇族方がさせられたいろいろの仕事のことを考えていました。――アルフレッド大帝は、牛飼のおかみさんにお菓子を焼かされ、横面よこつらを張りとばされました。牛飼のおかみさんは、あとで自分のした事に気づいて、どんなに空恐ろしくなったでしょう。もしミンチン先生に、セエラがほんとうの宮様みやさまだと解ったら、先生はどんなに狼狽あわてるでしょう。――その時のセエラの眼付がたまらなかったので、ミンチン先生は、いきなりセエラの横面を張りとばしました。今考えていた牛飼の女のした通りのことをしたわけです。セエラは夢から醒めて、この事に気がつくと、思わず笑い出しました。
「何がおかしいんです。ほんとにずうずうしい子だね。」
 セエラは、自分が宮様プリンセスだったということをはっきり思い出すまで、ちょっとまごまごしていました。
「考えごとをしていたものですから。」
「すぐ『御免なさい』といったらいいだろう。」
 セエラは答える前に、ちょっと躊躇ためらいました。
「笑ったのが失礼でしたら、私あやまりますわ。でも、考えごとをしていたのは、悪いとは思えません。」
「いったい何を考えていたのだい? え? お前に、何が考えられるというのさ。」
 ジェッシイはくすくす笑い出しました。それからラヴィニアと肱をつつきあいました。ミンチン先生がセエラに喰ってかかると、生徒達は皆面白がって見物するのでした。セエラは何と叱られても、少しもへこたれないばかりか、きっと何か変ったことをいい出すのです。
「私ね――」と、セエラは丁寧にいいました。「私、先生は御自分のなすってることが、何だか御存じないのだろうと、考えていたのです。」
「私のしていることが、私に解らないっていうのかい?」
「そうです。私が宮様プリンセスで、先生が宮様プリンセスの耳を打ったりなどなさったら、どんなことになるかしら――私は宮様プリンセスとして、先生をどう処置したらいいだろうか、と思っていたところです。それから、私が宮様プリンセスだったら、先生は私が何をしようと、耳を打つなんてことは、なさらないだろうと思っていました。それからまた、お気がついたら、先生はどんなに驚いて、お狼狽あわてになるだろうと――[#「――」は底本では「―」]
「何、何に気がついたらというんですよ。」
「私が、ほんとうの宮様プリンセスだということに。」
 教室にいるだけの少女達の眼は、お皿のようになりました。ラヴィニアは席から乗り出して来ました。
「出て行け。たった今、自分の部屋に帰れ。皆さんは傍見よそみせずに勉強なさい。」
 セエラはちょっと頭を下げ、
「笑ったのが失礼でしたら、御免下さい。」といい残して、教室を出て行きました。
「皆さん、セエラを見て? あの子の、妙な様子を見て?」ジェッシイがまず口を開きました。
「私だけは、セエラは身分のある子だということが今にわかっても、ちっとも驚きゃアしないわ。もしあの子がえらくなったら、どうでしょう。」

      十二 壁を隔てて

 壁つづきに出来た家並やなみの中に住んでいますと、壁のすぐ向うの物音に、つい気をとられるものです。印度の紳士のうちは、セエラの学校と壁一つでつながっていますので、セエラはよく紳士の生活を空想して、心を楽しませました。教室と、紳士の書斎とは、背中合せになっていますので、セエラは放課後など、やかましくはないだろうかと心配しました。音の通らないように、壁が厚く出来ていればいいがとも思いました。
 セエラは、印度の紳士がだんだん好きになりました。大屋敷が好きになったのは、家族が皆幸福そうだったからでしたが、印度の紳士は不幸そうに見えたので、好きになったのでした。紳士は何か重い病気がなおりきらない風でした。台所の人達の噂によると、彼は印度人ではなく、印度に住んでいたイギリス人で、非常な失敗のため、一時は命までも失いかけたというのでした。彼の事業というのは、鉱山に関したものだそうでした。
「その鉱山やまからダイヤモンドが出るんだとさ。」と、料理番はいいました。「鉱山やまなんてものはなかなか当るもんじゃアないさ。殊に、ダイヤモンドの鉱山やまなんてものはね。」彼は横眼でセエラをじろりと睨みました。「わしらは、誰だって、そんな事ぐらい知ってるさ。」
「あの方は、お父様と同様の目におあいになったのだわ。」と、セエラは思いました。「それから、お父様と同じ病気におかかりになったのだわ。ただあの方は生き残ったばかりだわ。」
 こうしたことから、セエラの心はますます印度の紳士の方へ惹き寄せられて行きました。夜お使に出される時など、窓から、あのお友達の姿が見られるかもしれないと思うと、何となしにいそいそしました。そこらに人影のない時には、セエラは鉄の格子につかまって、彼に聞かすつもりで、「お休みなさい」といって見たりしました。
「聞えないにしても、きっと何かお感じにはなるわ。あたたかい気持ってものは、窓とか、壁とか、そんな障碍物しょうがいぶつを越えて、相手の心に通じるものだと思うわ。貴方はなぜか、和んで温くなるような気がなさりはしない? 私が外で、御病気のよくなるように祈っているからよ。私、あなたがお気の毒でならないの。お父様が頭の痛む時してあげたように、私、あなたの『小さい奥様』になって慰めてあげたいわ。お休みなさい、安らかに。」
 セエラはそういうと、セエラ自身温められ、慰められるのが常でした。
「あの方は、今あの方を苦しめているもののことを、考えていらっしゃるようだわ。でも、もう失ったお金は戻ってきたのだし、御病気だってじきによくおなりになるのだから、あんな悩ましい顔をなさってるはずはないのに。きっと何か、別の御心配があるのよ。」
 もし別の心配があるとすれば、あの大屋敷のお父さんだけは知っているはずだ、とセエラは思いました。モントモレンシイ氏は、よく印度の紳士を訪ねました。モントモレンシイ夫人も、子供達も、時々紳士を訪問しました。病人は、上の二人の女の子――あのセエラがお金をもらった時、馬車の中にいたジャネットとノラを可愛がっているようでした。病人は、子供に対して――殊に小さい女の子に対して、やさしい気持を持っているようでした。ジャネットとノラも、非常に病人になついていました。
小父様おじさまは、お気の毒な方なのよ。私達が行くと、小父様は元気が出るのですって。だから、静かにしていて、元気のつくようにしてあげなければならないわね。」
 ジャネットは長女でしたので、弟や妹が暴れ出さないように、気をつけていました。病人の様子を見て、よい時には印度の話をしてもらったり、疲れたようだと思うと、あとをラム・ダスに頼んでそっといとまを告げたり、そんな気使いをするのもジャネットでした。子供達は皆ラム・ダスが好きでした。ラム・ダスに英語が話せたら、きっと面白い話をたくさんしてくれるだろう、と思っていました。
 印度の紳士は、名をカリスフォドといいました。ある時、ジャネットが彼に『乞食じゃアない小さな娘』に出会った時の話をすると、カリスフォド氏はひどく心を惹かれたようでした。更にラム・ダスが、彼女の屋根裏部屋で猿を捕えた話をすると、ますます心を動かされたようでした。ラム・ダスは、屋根裏部屋の中の様子を、目に見えるように話しました。その話を聞くと、カリスフォド氏は大屋敷の主人にいいました。
「カアマイクル君、この近所には、そんなひどい屋根裏がきっとたくさんあるのだろうね。そして、たくさんの惨めな少女達は、そんな堅い寝床にねているわけだね。それなのに、私は枕の上に身を投げて、財産という重荷にひしがれ、悩まされぬいているのだ。しかも、その財産というのは、大部分私のものじゃアないのだ。」
「いや、しかし。」カアマイクル氏は元気づけるようにいいました。「そう自分ばかり責めるのは、早くめた方が、あなたのためにいいですよ。たとい貴方が、全印度の富をことごとく持ってらしったところで、世の中からわざわいをなくすわけにはいかないでしょう。この近所の屋根裏部屋をことごとく改築したところで、他の方面の屋根裏部屋は、やはり惨めな状態にあるということになりますからな。それまで改築しようっていうのは、無理ですよ。」
 カリスフォド氏は、炉の火をみつめて坐ったまま、爪を噛んでいました。
「どうだね。あの例の子が――私の忘れたことのないあの子が――ひょっとして――いやほんとに、隣家となりのその気の毒な娘みたいな境涯きょうがいにおちこむようなことも、ないとはいえないだろう。」
「もし、パリィのパスカル夫人の学校にいた子が、あなたの捜している娘だとすると――」カアマイクル氏は、宥めるようにいいました。
「あの子は、何不自由なく暮しているはずですね。そのロシヤ人は、非常な金持で、死んだ自分の娘と仲よしだったというので、あの子をもらい受けたという話ですからね。」
「そして、パスカルという女は、あの子がどこへ伴れて行かれたかは、ちっとも御存じないのだからな。」
 カアマイクル氏は、肩をすぼめました。
「何しろ、あの女は抜目のない、俗物のフランス女ですからね。父親を失って、仕送りの絶えたあの子を、うまい具合に手離すことが出来たので、大よろこびだったらしいですよ。すると、養父母達は、あとかたも見せず行方をくらましてしまったわけさ。」
「だが、君は、その子が、もし私の捜している子であったら、というんだろう。『もしも』とね。『確かに』じゃアないんだ。それに、名前も少し違うっていうじゃアないか。」
「パスカル夫人は、カルウと発音したようです。――が、ちょっと発音を間違えただけじゃアないのですかね。境遇は不思議なほどよく似ています。印度にいる英国士官が、母のない娘の教育を頼んだというのですからね。しかも、その士官は破産して死んでしまったというのですからね。」カアマイクル氏は、ふと何かを思いついたらしく、ちょっとの間口を噤んでいました。「が、娘は確かにパリイの学校に入れられたというのですか。確かにパリイだったのですか?」
 カリスフォド氏はいらいらと、せつなそうに口を開きました。
「いや君、私には何一つ確かなことはないんだ。私はその子も、その子の母というのも見たことはないのだからね。ラルフ・クルウとは、少年時代には親友だったが、学校を出てから、印度で会うまで、ずっと離れ離れだったのだからね。私は、大仕掛な鉱山の計画に没頭していた。あの男も夢中になっていた。だから、二人は会えばほとんどその話ばかりしていた。知っているのはただ、その子がどこかの学校に入っているという事だけなのだ。だが、どうしてその事を知ったか、それも、今は思い起すことが出来ない。」
 カリスフォド氏は昂奮して来ました。彼は、病後の頭で、失敗当時のことを考え出すと、きまって昂奮して来るのでした。
 カアマイクル氏は、心配そうに病後の人を見守っていました。大事なことを訊かなければならないのでしたが、今の場合十分注意して、静かに訊ねなければならないのでした。
「でも、学校は、パリイだとお考えになる理由はあるのですか。」
「ある。というのは、あの子の母はフランス人だった! それに、母親は、娘をパリイで教育したがっていた、と聞いたことがある。」
「すると、パリイにいそうですな。」
 印度の紳士は、身体をのめり出させ、長い骨ばかりの手で、テエブルを叩きました。
「カアマイクル君、私はどうしてもその娘を見付け出さにゃアならん。生きてるなら、見付かるはずだ。その娘がひとりぼっちで一文無になってでもいたら、私が悪いからだということになる。こんな煩いが心にあるのに、何でのんきな顔をしていられる? 我々の夢が実現されて、ふいに幸運が舞いこんで来たというのに、あの娘は往来で物乞いをしているかもしれないのだ。」
「いや、そう昂奮なさらないで。あの子が見付かりさえすれば、一財産渡してやれるのだと思って、お気を静めて下さい。」
「あれは、いつも娘のことを『小さい奥様』と呼んでいた。だが、あの鉱山奴やまめのおかげで、我々は何もかも忘れてしまったのだ。あれは娘の学校の話をしたかもしれない。が、私は忘れてしまった。すっかり忘れてしまった。どうしても思い出せない。」
「しかし、まだその娘を見付けることは出来ます。パスカル夫人の所謂いわゆる『御親切なロシヤ人』の捜索を続けるんですな。あの女は、何だかモスコウにいるような気がするといっていましたよ。それを手がかりとして、とにかく、私はモスコウへ行ってみることにしましょう。」
「旅行の出来る身体なら、私も一緒に行きたいのだけれど、この健康では、こうして毛皮にくるまって、じっと火を見ているより他ないのだ。何だか火の中から、クルウ大尉の若い、快活な顔が、私を見返しているような気がする。何か私に訊ねているような顔付だ。私はよくあれの夢を見る。夢の中では、その訊ねたいことを、口でちゃんというのだ。君、あれがどんなことを訊くと思う?」
「よくわかりませんね。」
「あれは、いつでもこういうのだ。『トム、なつかしいトム。小さな奥様はどこにいるのだい?』とね。」彼はカアマイクル氏の手をしかと掴んで、握りしめました。「私は、それに返事が出来るようにならなければならん。どうか、あの娘を見付けてくれ。頼む。」
          *        *        *
              *        *        *
 壁の向うでは、セエラが、晩の食事にまかり出て来たメルチセデクと話していました。
「メルチセデクや、今日という今日は、宮様プリンセスつもりも辛かったわよ。いつもどころの辛さじゃアなかったわよ。だんだん寒くなって、往来がじめじめして来ると、私の務は辛くなるばかりだわ。ラヴィニアったら、私が裾を泥んこにしているって、嗤うのよ。私、思わずかっとして、あぶなく何かやり返してやるところだったけど――でも、やっと我慢したの。かりにも宮様プリンセスが、ラヴィニアみたいな下等な人の相手になるわけにはいきませんものね。でも、舌でも噛まなきゃア我慢出来なかったわ、私自分の舌を噛んだの。今日はおひるすぎから、とても、寒くなったのね。今夜も寒いわ。」
 ふと、セエラは黒髪を両手の中にうずめました。彼女は一人だと、よく頭を抱えるのでした。
「ああお父様、もうずいぶん昔だわね、私がお父様の『小さな奥様』だったのは。」
 同じ日のうちに、壁の向うとこちらとに、こんなことが起ったのでした。

      十三 人の子

 惨めな冬でした。セエラは幾日となく雪を踏んで使に出ました。雪解ゆきどけの日は、更に使い歩きが辛いのでした。かと思うと、ひどい霧の日が続きました。そんな時、街路は幾年か前セエラが初めて父と辻馬車を走らせた時のようでした。そんな日には、あの大屋敷の窓は、殊にも居心地よさそうに見えました。印度紳士のいる書斎は、いかにも温かそうでした。それにひきかえ、屋根裏部屋の暗さといったらありませんでした。もう眺めようとしても、夕焼や日の出は見られませんでした。星もあるとは思えませんでした。雲は低く、泥のような灰色でした。霧はなくても四時にはもう日が暮れた感じで、蝋燭なしには、梯子を登ることも出来ませんでした。台所の女中達も、気がくさくさするとみえ、ますます辛くあたりました。ベッキイはまるで奴隷の子のように逐い使われました。
「お嬢様、あんたでもいなかった日には――あんただの、バスティユだの、隣の部屋の囚人だってつもりだのがなかった日には、私死んじまいそうだわ。この頃はここ、まったくバスティユみたいじゃない? 先生はだんだん看守頭みたいになってくるし、私、いつかお嬢様の仰しゃった大きな鍵ね、あれを先生が持っているのが、見えるような気がするわ。あの料理番ね、あれは下まわりの看守よ。お嬢様、その先を話してちょうだいな。あの壁の下へ掘った地下道の話をして。」
「何かもっと温かいお話がいいわ。」セエラはがたがた震えていました。「あなたも、夜具を持って来てくるまるといいわ。私も夜具を着るから、寝台の上で、夜具をよくまきつけて、それから、あの印度紳士の猿のいた熱帯の森の話をしてあげるわ。」
「そのお話の方が温かいことは温かいわ。でも、お嬢様が話すと、バスティユのお話を聞いてても、何だか温かになるのよ。」
「話に気をとられて、寒いことを忘れるからよ。私こう思うのよ。心の職務つとめは、身体が可哀そうな状態にある時、何かほかへ気を向けさせるようにすることだと。」
「そんなこと、あんたに出来て?」
「出来ることもあるし、出来ないこともあるわ。この頃幾度もそんな経験をしたので、前よりはずっと出来やすくなったわ。何かたまらないことがあると、私いつでも一生懸命、自分は宮様プリンセスだと考えてみるの。『私は、妖精フェアリイ宮様プリンセスだ、妖精フェアリイの私を傷けたり、不快にしたり出来るものがあるはずはない。』私自分にそういってみるの。そうするとなぜだか、いやな事は皆忘れてしまってよ。」
 そのうち、こんなことが起りました。四五日雨の続いた後で、町は肌を刺すように寒く、ぬかるみの上に物憂い霧がたてこめていました。そんな日に限って、セエラは何度となく使に出されるのでした。濡れそぼれて帰ってくると、ミンチン先生は何かの罰だといって、御飯も食べさせてくれませんでした。餓え、凍え、顔までつめられたような色になったセエラは、道行く人の同情を惹くくらいでした。が、彼女は同情の眼で見られているのも知らず、力の限り『つもり』になろうと努力していました。
「私は乾いた服を着ているつもりになろう。満足な靴を穿き、長い厚い外套を着、毛の靴下を穿き、漏らぬ雨傘を持っているつもりになろう。それから、それから――焼きたてのパンを売ってる店のそばまで来ると、二十銭銀貨が落ちていたとする。そしたら、私は店へ入って、ふうふういうような甘パンを買って、息もつかずにぺろぺろと食べてしまうわ。」
 そう独言をいいながら、足許に気をつけ、ぬかるみの中を歩道へ渡ろうとしますと、そこの溝の中に、何か光っているものがあるのを、セエラは目にとめました。泥にまみれてはいましたが、それは確かに銀貨でした。二十銭ではないが、十銭の銀貨でした。
「まア、ほんとだったわ。」セエラは、思わず呼吸をはずませました。
 とまた、嘘のようではありませんか。セエラが眼を上げると、真向いにパン屋の店があるのでした。店では一人、愉快な血色のよい母親らしい様子の女が、竈から今取り出したばかりの甘パンを――大きくふくれた、乾葡萄ほしぶどうの入った甘パンの大皿を、窓をさし入れているところでした。
 セエラは、この不思議な出来事にどきどきしているところへ、窓に甘パンの出てくるのを見、パン屋の地下室から漂うて来るおいしそうなにおいを嗅いだので、ちょっとくらくら倒れそうな気持になりました。
 セエラは、この銀貨を使ったってかまわないのは知っていました。もう長いこと、泥濘ぬかるみの中に落ちていたようですし、この人混の中で、落した人の判ろうはずもありません。
「でも私、パン屋のおかみさんに、何かお落しになりはしなかって? と訊いてみよう。」
 セエラは元気なくそう独言すると、歩道を横切り、濡れた足で入口の階段を登ろうとしました。その拍子に、セエラは何かをふと目に止め、思わず足を止めました。
 セエラの足を止めたのは、セエラよりも惨めな子供の姿でした。子供の姿は、まるで一塊ひとかたまり襤褸ぼろでした。赤い泥まみれな素足が、その襤褸の中から覗き出していました。恐ろしくこんがらがった髪の下から、大きな、ひもじそうな眼を見張っていました。セエラは一目で、この子が餓えているのを知りました。と、たちまちセエラは可哀そうでたまらなくなりました。
「この娘も、やっぱり人の子なのだわ。そして、この子は私よりもひもじいようだわ。」
 その子は、顔を上げてちょっとセエラを見つめると、身体をずらせて、セエラの通る隙をつくりました。その子は誰にでも道をゆずりつけていたのです。巡査にでも見付かったが最後「退け!」といわれることも、のみこんでいました。
 セエラは銀貨を握りしめ、ちょっとためらってから、その子供にいいかけました。
「あなた、ひもじい?」
「ひもじいのなんのって、たまらないの。」
「お午昼ひるを食べなかったの?」
「お午飯ひるどころか、朝飯も、晩飯もあったものじゃアないわ。」
「いつから、食べないの?」
「知るものか、今日は朝から何一つ食べやしない。どこへ行ってもくれないの。あたい、下さい下さいって歩き廻ったんだけど。」
 その子の姿を見ているだけで、セエラは気絶しそうにお腹が空いて来ました。セエラは切なくてたまらなくなりました。が、頭の中にはふと、またいつもの空想が働き出して来ました。
「もし、私が宮様プリンセスなら――位を失って困っている時でも――自分より貧しい、ひもじい人民にあったら、きっと施しをするわ。私は、そんな話をたくさん知っているわ。甘パンは二十銭で六つ――と、六つばかり一人で食べたって足りないくらいだわ。それに、私の持ってるのは十銭銀貨だけど、でも、ないよりかましだわ。」
 セエラは乞食娘に、
「ちょっと待ってらっしゃいね。」といい残して、パン屋の店へ入って行きました。店の中は温かで、おいしそうな匂がしていました。おかみさんは、ちょうどまた出来たての甘パンを窓に入れかけているところでした。
「ちょっとお伺いしますけれど、あなたはあの、十銭銀貨をお落しになりませんでしたか?」
 いいながらセエラは、たった一つの銀貨をおかみさんの方にさし出しました。おかみさんは銀貨を眺め、それからセエラの顔を眺めました。ずいぶん汚れた着物を着ているけれど、買った時にはなかなかよいものだったにちがいない、と思いました。
「どう致しまして、私落しはしませんよ、お拾いなすったの?」
「ええ、溝の中に落ちてたの。」
「じゃア、遣ったってかまわないでしょう。一週間ぐらい溝の中に転がってたのかもしれませんからね。誰が落したか、判るものですか。」
「私もそう思ったのですけれども、一応お訊ねした方がよくはないかと思って。」
「珍しい方ね。」
 おかみさんは人のいい顔に、困ったような、同時に、何か心を惹かれたような表情を浮べました。そして、セエラがちらと甘パンの方を見たのを知ると、
「何かさしあげましょうか。」といいました。
「あの甘パンを四つ下さいな。」
 おかみさんは、窓から甘パンを出して袋に入れました、六つ入れたのを見て、セエラは
「あの、四つでいいんですよ。私、十銭しか持ってないんですから。」といいました。
「二つはおまけですよ。あとでまた上るといいわ、あなたお腹がすいてるんでしょう。」
「ええ、とてもひもじいの、御親切にして下すって、ありがとうございます。」
 セエラは、外には自分よりも、ひもじい子がいるのだということを、口に出しかけましたが、あいにくそこへお客が二三人一度に入って来ましたので、とうとうそれはいわずにしまいました。
 乞食娘は、入口の階段の隅にちぢこまっていました。びしょびしょな襤褸ぼろにくるまった彼女は、気味悪いばかりでした。彼女は、じっと目の前を見つめ、苦痛のあまりぽかんとした顔をしていました。ふいに涙が湧き上って来たので、彼女はびっくりして、ひびだらけの黒い手の甲で眼を擦りました。何か独言をいっているようでした。
 セエラは、袋をあけて、甘パンを一つ取り出しました。セエラの手は熱いパンのおかげで、もう少し温かくなっていました。
「ほら、これは温かでおいしいのよ。食べてごらんなさい。少しはひもじくなくなるから。」
 乞食娘は、思いがけないよろこびにかえって怯えたらしく、セエラの顔を穴のあくほど見ていましたが、じきひったくるようにパンを取ると、夢中で口の中につめこみました。
「ああおいしい、ああおいしい。ああ、おいしい。」
 しゃがれた娘の声は、聞くに忍びないようでした。セエラは甘パンをあと三つ娘にやりました。
「この子は、私よりもひもじいのだわ。この子は餓死うえじにしそうなのだわ。」四つ目のパンを渡す時、セエラの手はわなないていました。「でも、私は餓死うえじにするほどじゃアないわ。」そういって、セエラは五つ目のパンを下に置きました。
 餓えきったロンドンの野恋娘のこいむすめが、夢中でパンをひったくり、貪り食っているのを見棄てて、セエラは「さようなら。」といいましたが、娘は食べるのに夢中でしたから、礼儀をわきまえていたにしたとこで、セエラに一言いちごんお礼をいう暇もなかったに違いありません。まして彼女は、礼儀などというものは、少しも知らぬ野獣に過ぎなかったのでした。
 セエラは車道を横切って、向うがわの歩道に辿りついた時、もう一度娘の方をふりかえって見ました。娘はまだ食べるのに夢中でしたが、かじりかけてふとセエラの方を見て、ちょっと頭を下げました。娘はそうしてセエラが見えなくなるまで、かじりかけのパンをかみきりもせず、じっとセエラを見守っていました。
 ちょうどその時、パン屋のおかみさんが窓から外を覗きました。
「おや、こんな事ってないわ。あの娘はくれともいわないのに、この乞食にパンをやってしまったんだね。しかも、自分は食べたくないどころか、あんなにひもじそうな顔をしていたのに。」
 おかみさんは窓の奥でちょっと考えていましたが、何でも、様子を訊いてみたくなったので、乞食娘のいる方へ出て行きました。
「そのパンは、誰にもらったの?」
 娘はセエラの行った方に頭を向けて、こっくりしました。
「あの子は、何といったの?」
「ひもじいかって。」
「で、何と答えたの?」
「その通りだといったの。」
「すると、あの子はパンを買って、お前にくれたのだね。」
 娘はまたこっくりをしました。
「で、いくつくれたの?」
「五つ。」
 おかみさんは考えこんで、小声にいいました。
「自分のためには一つしか残しておかなかったのだよ。食べようと思えば、一人で六つ残らず食べてしまえるくらい、お腹がすいてたのにね。」
 おかみさんは、向うの方に消えて行くセエラの小さな後姿を見送りながら、いつになく心の乱れるのを覚えました。
「もっとゆっくりしていてくれればよかったのにねえ。あの子に十二も上げておけばよかった。」それから、乞食娘の方にいいました。
「お前、まだひもじいの?」
「ひもじくない時なんてありゃアしない。でも、いつもみたいに、ひどくひもじかアないわ。」
「こっちへ、お出で。」
 おかみさんはそういって、店の戸を開きました。そして、奥の暖炉を指していいました。
「さア温まるといいわ。いいかい、これから一かけのパンも得られない時には、ここへ来て、下さいというのだよ。あの娘のために、私はいつでも、お前にパンを上げるから。」
          *        *        *
              *        *        *
 セエラは残った一つの甘パンで、どうやら自分を慰めることが出来ました。とにかく、それは熱かったし、ないよりはましでした。セエラは歩きながら、小さくちぎって、すこしずつゆっくりと食べました。
「このパンが、魔法のパンで、一口食べると、お午飯ひるを食べたぐらいお腹がふくれるといいな。そうすると、これだけ皆食べたら、食べ過ぎてお腹がはちきれそうになるはずだわ。」
 日はもう暮れかけていましたが、大屋敷の窓にはまだ鎧戸よろいどが下してありませんでしたので、内部なかの様子をちらと覗くことが出来ました。いつもは、父親が椅子に坐って、子供達に取りまかれているのでしたが、今日は旅にでも出るらしく、母親や子供達とお別れの接吻をしていました。
 玄関の戸が開いたので、セエラはいつかお金をもらった時の事を思い出し、見つからぬ先に逃げ去ろうとしました。が、こんな話は聞き洩しませんでした。
「モスコウは、雪で包まれてるでしょうね。どこも、かしこも、氷ばかりなのでしょうね?」というのはジャネットの声でした。
「お父様、露西亜馬車ドロスキイにお乗りになる?」もう一人の娘はいいました。「皇帝ツアルにもお会いになる?」
「そんなことは手紙で知らせるよ。農民ムジイクやなんかの絵端書えはがきも送ってやろう。さ、もううちにお入り。いやにじめじめしているね。お父さんは、モスコウなんかへ行くのはやめて、皆とうちにいたいんだけどな。」
 彼は、それから「おやすみ」をいって、馬車へ飛び乗りました。
「お父様、その娘にあったら、よろしくいって下さいね。」
 ギイ・クラアレンスは、靴脱のところで跳ねまわりながらいいました。
 戸を閉めて、室内へやに戻る道々、ジャネットは、ノラにいいました。
「あの『乞食じゃアない小さな女の子』が通って行ったのを見た? ずぶぬれで、寒そうな顔していたわ。あの子は振り返って、肩の上から私達の方を見ていたわ。お母さんのお話だと、あの子の着物は誰か大変お金持の人からもらったもののようですって――きっと、もういたんで着られなくなったから、あの子にやったのね。」
 セエラは街を横切って、ミンチン先生の地下室に入って行きました。ぞくぞくして、倒れそうでした。
「ギイ・クラアレンスのいったその娘というのは、誰なのかしら?」

      十四 メルチセデクの見聞記

 ちょうどこの日の午後、セエラが使に出ている留守に、屋根裏部屋には奇妙なことが起りました。それを見聞みききしたのはメルチセデクだけでした。彼はセエラの出た後へ、何か嗅ぎ出しに出かけて来ていたのでしたが、やっと一つパン屑を見付け出したとたん、屋根の上で何かがたがたというのを耳にしました。物音はだんだん天窓に近づいたと思うと、不思議や天窓は押し開かれ、黒い顔が一つ、そこから部屋の中を覗きました。続いてまた別な顔が、その背後うしろに現れました。黒い顔はラム・ダスで、もう一人は印度の紳士の秘書役だったのですが、メルチセデクにはそんなことは判るはずもありませんので、黒い顔の男がかたとも音を立てずに、軽々と窓口から下りて来るのを見ると、尻尾をまいて、自分の穴へ逃げ帰ってしまいました。彼は穴の口に平たく坐り、眼をお皿のようにして、様子を見ていました。
 若い秘書役はラム・ダスと同様、音も立てずに天窓からすべりこんで来ました。彼はメルチセデクの尻尾をひっこめるところを、ちらと見て、小声でラム・ダスに訊きました。
「ありゃア鼠かい?」
「はい、鼠でございますよ。壁の中にどっさりおります。」
「へエ、あの子が怖がらないなんて不思議だね。」
 ラム・ダスはそれを聞くと、手を上げてちょっと様子をつくり、慎ましやかにほほえみました。彼はまだ一度しかセエラと話したことはないのですが、セエラについてなら、何でも詳しく語ることが出来ました。
「子供というものは、何とでも友達になるものでございますよ。私がそっと来て、ここから覗いておりますと、あの子は、雀や鼠まで手なずけているんでございますよ。ここの奴隷娘は、毎日あの子を慰めに来ます。こっそりあの子に会いに来るちいちゃな子もございます。それから、その子よりは大きい子で、あの子の話をきもせず聞いている子も一人ございます。女主人などは、あの子をまるで非人ペエリア扱いにしていますが、でも、あの子は王族の血でもひいてるような挙止ものごしをしています。」
「君は、だいぶ詳しく知っているようだね。」
「あの子の生活なら、何でも毎日見て知っております。出かけて行くのも、戻ってくるのも、知っております。凍えていることも、ひもじいことも、夜中まで勉強していることも、知っております。子供達が忍んで来ると、あの子もうれしいと見え、ひそひそと話したり、笑ったりしています。病気にでもなったらすぐ判りますから、そんな時には、出来ることなら、来て看護してやりたいと思っております。」
「でも君、大丈夫かい? 誰か来やアしないかい? あの子がだしぬけに戻って来るようなことはないかい? 僕達が来ているのを見つけでもしたら、あの子はたまげてしまうだろう。すると、カリスフォドさんのせっかくの計画も、水の泡になるからね。」
 ラム・ダスはそっと戸口に身をよせて立ちました。
「あの子の他、誰も来るはずはありません。今日は手籠を持って出て行きましたから、なかなか戻っては来ないでしょう。それに、ここに立ってさえいれば、誰の足音だって、梯子を登りきらぬうちに聞えるから、大丈夫です。」
「じゃア、しっかり耳を澄ましていてくれたまえ。」
 秘書はそういうと、部屋の中を静かに歩き廻って、そこにあるものを手早く手帳に書き込みました。彼はまず寝台をおさえて、思わず声をあげました。
「まるで石だ。あの子のいない間に取りかえておかなければ。何か、特別の方法で持ち込むんだね。今夜は、とてもだめだろうが。」
 彼は汚れた夜具や、火のない炉などを見廻り、それらのものを書きこんだ一枚を手帳から破り取って、ポケットに入れました。
「だが、妙なことを始めたものだね。誰がこんなことをするといい出したんだい?」
「実は、私が初めに思いついたんでございますよ。私は、あの子が好きなんでございます。お互に一人ぼっちでございますのでね。あの子はよく自分の空想を、忍んで来る友達に話して聞かせます。ある晩のこと、私も悲しい思いに打たれておりましたので、あの天窓の所に身をよせて、中の話を聞いておりますと、あの子は、この部屋が居心地よくなったら、どんなにいいだろう、といっておりました。話しているうちに、あの子はふとその事を思いついたのです。御主人にそれをお話しますと、では、あの子の空想を実現させてやろう、と仰しゃるのでした。」
「だが、あの子の寝ている間に、そんなことが出来るだろうかね。もし眼を覚しでもすると――」
「私は、猫の足で歩くように歩いてお目にかけますよ。子供というものは、不幸な時でも、ぐっすり眠るものでございます。今までとても、入ろうとさえ思えば、あの子に寝返り一つ打たせず、入って行くことが出来たに違いありません。ですから、誰かが窓から品物を渡してくれさえすれば、私は巧くやりおおせてごらんに入れます。あの子はあとで眼を覚して、魔法使でも来ていたのだろうと思うでございましょう。」
 二人は、またそっと天窓から脱け出して行きました。二人が見えなくなると、メルチセデクはほっとして、パン切でも落して行きはしなかっただろうかと、そこらを駈け廻りはじめました。

      十五 魔法

 セエラがお使から帰ってくると、隣家となりでは、ラム・ダスが鎧戸を閉めているところでした。セエラは鎧戸の間から、ちらと部屋の中を覗きました。覗く拍子に、もうずいぶん長いこと綺麗な部屋の中に入ったことはないなと思いました。
 窓の中にはいつものように、赤々と火が燃えており、印度紳士は相変らず悩ましげに、頭を抱えて坐っておりました。
「お可哀そうに! あんなにして、何を考えていらっしゃるのかしら?」
 紳士が考えていたのは、次のような事でした。
「もし――せっかくカアマイクル君がモスコウに行ってくれても、その娘が我々の捜している子供でなかったら、どうすればいいのだろう。」
 セエラはうちに入ると、いきなりミンチン先生に、遅いといって叱られました。料理番も叱られたあとだったので、殊更ひどくセエラにあたりました。
「あの、何かいただけませんか?」
 セエラは元気のない声で訊ねました。
「お茶は出からしで、もう駄目だよ。お前のために温かにして、とっといてやるとでも思っていたのかい?」
「私、お午飯ひるもいただきませんでしたの。」
「戸棚の中にパンがあるよ。」
 セエラは古いパンだけを食べて、長い梯子段を登って行きました。いつまでたっても登りきれぬ気のするほど、セエラは疲れていました。セエラは少し登っては休み休みしました。やっと登りきろうとすると、屋根裏部屋の戸の下から、あかりが洩れているので、うれしくなりました。またアアミンガアドが来ているのでしょう。セエラはまるまるとしたアアミンガアドが赤いショオルにくるまっているのを見るだけでも、わびしい部屋が少し温まるようでうれしかったのでした。
 アアミンガアドはセエラを見ると、寝台の上からいいました。
「セエラさん、帰って来て下すってよかったわ。メルチセデクが、いくら逐っても、私のそばへやって来て、鼻をくんくんさせるのですもの、私怖かったわ。メルチイは飛びつきゃしないこと。」
「いいえ。」と、セエラは答えました。
「セエラさん、あなた大変疲れてるようね。顔色が大変悪いわ。」
「とても疲れちゃったわ。」セエラはびっこの足台にぐたりと坐りました。「おや、メルチセデクがいるのね。可哀そうに、きっと御飯をもらいに出て来たのだわ。でも、今夜は一かけも残っていないのよ。帰ったらおかみさんに、私のポケットには何にもなかったといっておくれ。あんまり皆に辛くあたられたので、お前のことは忘れてしまって、悪かったわね。」
 メルチセデクは、どうやら合点がいったようでした。彼は、満足そうではありませんでしたが、諦めたように、脚ずりをして帰って行きました。
「アアミイ、今夜会えようとは思わなかってよ。」と、セエラはいいました。
「アメリアさんは、伯母さんの所へ泊りにいらしったのよ。だから、いようと思えば、明日の朝までだっていられるわけよ。」
 アアミンガアドは、天窓の下のテエブルを指さしました。その上には、幾冊かの本が積んでありました。彼女はがっかりしたように、
「お父様がまた本を送って下すったの。」といいました。セエラはたちまちテエブルに走りより、一番上の一巻を取ると、手早くページをめくり出しました。もう一日の辛さなどは、すっかり忘れていました。
「何て綺麗な本でしょう。カアライルの『フランス革命史』ね。私、これをよみたくてたまらなかったのよ。」
「私ちっともよみたかなかったわ。でも、読まないとパパに怒られるのよ。パパは、私がお休みにうちに帰るまでに、すっかり憶えさせようってつもりなのよ。私どうしたらいいでしょう。」
「こうしたら、どう? 私がよんで、あとですっかりあなたに話してあげるわ。憶えやすいようにね。」
「あら、うれしい。でも、あなたにそんなこと出来るの?」
「出来ると思うわ。小さい人達は、私のお話をよく憶えてるじゃアないの。」
「もし、あなたが憶えやすいように私に話して下さるなら、私、何でもあなたに上げるわ。」
「私、あなたから何にもいただこうとは思わないけど、でも、この本は欲しいわ。」
「じゃアあげるわ。私は本なんか、好こうと思っても好きになれないのよ。私は利口じゃアないの。ところが、お父様は御自分が何でもお出来になるものだから、私だって出来ないはずはないと思ってらっしゃるのよ。」
「私に本を下すったりして、あとでお父様に何て仰しゃるつもり?」
「何ともいわないわ。私がお話を憶えていさえすれば、よんだのだと思うでしょう。」
「そんな嘘をいうものじゃアないわ。嘘は悪いばかりでなく、卑しいことよ。だから、御本を読んだのは、セエラだと仰しゃればいいじゃアないの?」
「でも、パパは私に読ませたいのよ。」
「読ませたいよりは、憶えこませたいのよ。だから、憶えさえすりゃア、よんだのは誰だって、きっとおよろこびになるわ。」
「どのみち、憶えさえすりゃアいいのよ。あなたが私のパパだったら、きっとそれでいいとお思いになるでしょう。」
「でも、あなたが悪いからじゃアないわ。あなたの――」
 頭の悪いのは、とあぶなくいいかけて、セエラは口をつぐみました。
「私が、どうしたの?」
「すぐ憶えられないのは、あなたが悪いからじゃアないっていうのよ。すぐ憶えられたって、ちっとも偉かアないのよ。親切なことの方が、どんなに値打があるかしれないわ。ミンチン先生なんか、いくら何でも知っていたって、あんなだから皆に嫌われるのよ。頭はよくても悪い事をしたり、悪い心を持ってたりした人がたくさんあるわ。ロベスピエルだって――憶えてるでしょう? いつかお話してあげたロベスピエルのこと。」
「そうね、少しは憶えてるけど。」
「忘れたのなら、もう一度話してあげるわ。ちょっと待ってね。この濡れた服を脱いで、夜具にくるまるから。」
 セエラは寝台の上で肩を夜具に包み、膝を抱えて、血腥ちなまぐさいフランス革命の話を始めました。アアミンガアドは眼を見張り、固唾をのんで耳を傾けました。怖いようでしたが、同時にまたぞっとするような面白さもありました。ロベスピエルのこと、ラムバアル姫のことなど、忘れようと思っても、忘れられなくなりました。
 二人は、父のセント・ジョン氏に、セエラに話してもらって憶える計画を、正直に打ちあけることにきめました。で、本は当分セエラの所に置くことにしました。
 セエラは話している間も、倒れそうに空腹でした。アアミンガアドが帰ってしまったら、ひもじさのあまり、眠られなくなりはしまいかと思いました。いつもは、そんなことに一向気のつかないアアミンガアドも、ふとセエラを見てこういったくらいでした。
「私、あなたぐらいに痩せたいと思うわ。でも、今日はあなたいつもよりも痩せて見えるわね。眼もいつもより大きいようだし、肱のところには、とがった骨が出ているわ。」
 セエラは、自然にまくれ上った袖口を、引き下しました。
「私、小さい時から痩せてたのよ。そして、大きな緑色の眼だったのよ。」
「私、あなたのその不思議な眼が好きなの。どこか遠いところを見ているようで、とてもいいわ。その緑色がとてもいわ。でも、たいていは黒いように見えるのね。」
「猫の眼なのよ。でも、猫のように暗いとこまで見えるわけじゃアないのよ。見えるかと思ってやってみたけど、駄目だったわ。暗くても見えるといいわね。」
 ふと、天窓の上にかすかな音がしました。二人とも見ずにしまいましたが、黒い顔が天窓に現れて消えたのでした。
「今の音は、メルチセデクじゃアないわね。何かが石盤瓦スレエトの上を、そうっと擦って行くような音だったわ。」
 耳の早いセエラは、そういいました。
「何でしょう? まさか、泥棒じゃアないでしょうね。」
「まさか。盗んで行くものなんか、何もないじゃア――」
といいかけた時、また何か物音がしました。今度は二階で、ミンチン先生が怒鳴っている声でした。セエラは寝台から飛び降りて、火を消しました。
「先生は、ベッキイを叱ってるのよ。」
「ここにやって来やアしない?」
「大丈夫。寝たと思ってるでしょう。でも、じっとしていてね。」
 ミンチン先生は、屋根裏まで上って来ることなど、めったにありませんでした。が、今夜は立腹のあまり、中途までぐらいは上って来ないとも限りませんでした。それに、ベッキイを小突きまわしながら、あとから上ってくるような気配さえしました。
「嘘つき! 料理番の話だと、なくなったのは今日ばかりじゃアないそうじゃアないか。」
「でも、私じゃアございません。私、お腹はすいてたけど、そんな、そんな――」
「監獄に入れてやってもいいくらいだ。盗んだり、つまんだり。肉饅頭ミイト・パイを半分も食べちゃったんだね。」
「私じゃアないんですってば! 食べるくらいなら、皆食べちまうわ。――でも私、指一つさわりゃアしなかったんだわ。」
 そのパイは、ミンチン先生が夜おそく食べようと思って、とっておいたものでした。先生は息を切らして階段を上りながら、ぴしぴしベッキイを打っているようでした。
「嘘なんかつくな。たった今、部屋に入ってしまえ。」
 戸がしまって、ベッキイが寝台に身を投げる音がしました。彼女は泣きじゃくりながらいいました。
「食べる気なら、二つぐらい食べちまうわ。一口だって食べやしなかったのに。料理番が、あの巡査に食べさしたんだわ。」
 セエラは真暗な室内に立ったまま、歯をくいしばり、手をさしのべて、てのひらを開いたり握りしめたりしていました。もうじっとしてはいられないという風でしたが、でも、ミンチン先生が降りて行ってしまうまでは、身動きもせずにおりました。
「ずいぶんひどいわ。料理番はベッキイに自分の罪をなすりつけてるのよ。ベッキイはつまみ食いなんかするものですか。あの子は、時々ひもじくてたまらなくなると、塵溜ごみためからパンの皮を拾って食べてるくらいだけど。」
 セエラは両手をひしと顔に押しあてて、欷歔すすりなきはじめました。セエラが泣くとは――アアミンガアドは、何か今まで気のつかなかったことに気のついた気がしました。ことによると――ことによると――彼女の親切な鈍い心の中に、恐ろしい事実がようよう姿を見せはじめました。彼女は手さぐりでテエブルの所へ行き、蝋燭に火をつけました。灯がともると、身をこごめて気づかわしげにセエラを見ました。
「セエラさん、あの――あなた、一言も話して下さらなかったけど、あの、失礼だったら御免なさい――でも、あなた、ひもじいんじゃなかったの?」
「ええ、ひもじいのよ。あなたにでも食いつきたいほどひもじいのよ。それに、ベッキイの泣声を聞くと、よけいひもじくなってくるの。あの子は私よりもひもじいのよ。」
「あら、私、ちっとも気がつかなかったなんて!」
「私も、あなたにさとられたくなかったのよ。あなたに知られると、私乞食になったような気がするからいやだったの。もう見たところは乞食も同じですけどね。」
「そんなことないわ。着物はちょっと変だけど、乞食になんて見えるものですか。お顔が第一、乞食とは違うわ。」
「いつか私、小さい男の子から施しを受けたことだってあるのよ。」セエラは自分をさげすむように笑って、衿の中から細いリボンを引き出しました。「ほら、これよ。私の顔が物欲しそうだったからあの坊ちゃんもクリスマスのお小遣を、下さる気になったのよ。」
 その銀貨を見ると、二人は眼に涙をためながら、笑い出しました。
「その坊ちゃんて、だれなの?」
「可愛い坊ちゃんだってよ。大屋敷の子供の一人で、足がまるまるしてるのよ。きっとあの子は自分は贈物やお菓子の籠をたくさん持っているのに、私は何一つ持っていそうもないと思ったのね。」
 アアミンガアドは、[#「は、」は底本では「、は」]ふと何かを思いついて、ちょっと飛び下りました。
「セエラさん、私莫迦ね、今まであのことに気がつかないなんて。」
「あのことって。」
「いいことなの。さっき伯母様から、お菓子の一杯つまった箱が届いたのよ。私お腹が一杯だったし、本のことで悩んでいたので、手もつけずにおいたの。中には肉饅頭ミイト・パイだの、ジャム菓子だの、甘パンだの、オレンジだの、赤葡萄酒あかぶどうしゅだの、無花果いちじくだの、チョコレエトだのが入ってるのよ。私ちょっと取りに行ってくるわ。ここで食べましょうよ。」
 セエラは食物たべものの話を聞くと、思わずくらくらしました。彼女はアアミンガアドの腕にしがみついて、
「でも、行って来られる?」といいました。
「来られるわよ。」アアミンガアドは戸の外に頭を出して、耳をすましました。「燈火あかりはすっかり消えてるわ。皆もう眠っちゃったのね。だから、そっと誰にもわからないように、そっと這って行って来るわ。」
 二人は手をとりあってよろこびました。セエラはふと、また眼をきらめかせていいました。
「アアミイ! ね、またつもりになりましょうよ。宴会だってつもりにね。それからあの、隣の監房にいる囚人も御招待しない?」
「それがいいわ。さ、壁を叩きましょうよ。看守になんて聞えやしないでしょう。」
 セエラは壁ぎわに行って、四度壁を叩きました。
「これはね、『壁の下の脱道ぬけみちよりきたれ、お知らせしたいことがある』という意味なの。」
 向うから五つ打つ響がありました。
「ほら、来たわ。」
 戸があいて、眼を紅くしたベッキイが現れました。彼女はアアミンガアドがいるのを知ると、気まり悪そうに前掛で顔を拭きはじめました。で、アアミンガアドはいいました。
「ちっともかまわないのよ、ベッキイ。」
「アアミンガアドさんのお招きなのよ。今いいものの入った箱を持って来て下さるんですって。」
「いいものって、何か食べるもの?」
「そうなの。これから、宴会のつもりを始めるの。」
「食べられるだけ食べていいのよ。私、すぐ行って来るわ。」
 アアミンガアドはあまり急いだので、出しなに赤いショオルを落しました。誰もそれには気がつかないほど、夢中でした。
「お嬢様、すてきね。私を招くようにあの方に頼んで下すったのは、お嬢様でしょう? 私それを思うと、涙が出て来るわ。」
 その時セエラは、眼にいつもの輝きをたたえながら、辛かった一日のあとに、ふいにこんな愉快なことが起ったのを、不思議に思い返していました。何か救いが来るものだ、まるで魔法のようだと、彼女は思いました。
「さ、泣かないで、テエブルを整えることにしましょう。」
 セエラはうれしそうにベッキイの手を握りました。
「テエブルを整えるって? 何を乗せればいいの?」
 セエラは部屋の中を見廻して笑いました。テエブル掛も何もあるはずはありません。ふと、セエラは赤いショオルが落ちているのを見つけて、それを古いテエブルの上に掛けました。赤は非常にやさしく、心を慰める色です。テエブルに赤いショオルが掛ると、部屋の中は急にひきたって来ました。
「これで、床に赤い敷物が敷いてあったら、すてきだわね。敷物のあるつもりになろう。」セエラが床に眼を落すと、そこにはもうちゃんと敷物が敷いてあるのでした。
「まア、何て厚くて、柔かなのでしょう。」
 セエラはベッキイの方に笑顔を向けながら、さも何か敷物でも踏むように、そっと足を下しました。
「ほんとに柔かね。」と、ベッキイも真顔でいいました。
「今度は何をしましょう。じっと考えて待っていると、何か思いつくものだわ。魔法の神様がそれを教えてくれるのだわ。」
 セエラのよくする空想の一つは、うちのそとでいろいろの思いつきが呼び出されるのを待っているというのでした。セエラがじっと立って何を待ち設けているのを、ベッキイはよく見ました。セエラはいつものようにしばらくじっと立っていましたが、やがてまたいつものように、明るい笑顔になりました。
「そら来た。私、何をすればいいか判ったわ。私が宮様プリンセス時代に持っていた、あの古鞄ふるかばんをあけてみましょう。」
 鞄の隅には小さな箱があり、その中に小さな手巾ハンケチが一ダース入っていました。セエラはそれを持っていそいそとテエブルの方に走って行き、レエスの縁がそり返るように工夫して、赤いテエブル掛の上に並べました。並べる間も、彼女は何か魔法に動かされているようでした。
「そこにお皿があるの。黄金こがねのお皿よ。それから、このナプキンには手のこんだ刺繍ししゅうがしてある。スペインの尼さんが尼寺の中でした刺繍なのよ。ほら、目に見えて来るでしょう。」
 セエラはまた鞄の中から、古い夏帽子を見附け出し、かざりの花を引きはがして、テエブルの上に飾りました。
「いい匂がするでしょう。」
 セエラは夢の中の人のように、幸福そうな微笑ほほえみをたたえながら、石鹸皿を雪花石膏アラバスタア水盤すいばんに見たてて、薔薇の花を盛りました。それから毛糸を包んだ紅白の薄紙で、お皿を折り、残った紙と花とは、蝋燭台を飾るのに用いました。セエラは一歩退いて、飾られたテエブルを眺めました。そこにあるのは、赤い肩掛をかけた古テエブルと、鞄から出した塵屑ごみくずとだけでしたが、セエラは魔法の力で、奇蹟が行われたのを見るのでした。ベッキイまで、そこらを見廻していうのでした。
「あの、これが――これが、あのバスティユ?――何かに変ってしまったの?」
「そうですとも。饗宴場きょうえんじょうに変ったのよ。」
 その時戸が開いて、アアミンガアドがよろよろと入ってきました。彼女は肌寒い暗闇の中から、すっかり飾られた部屋に入って来ると、思わず声をあげました。
「セエラさん、あなたみたいに何でも上手な方は見たことないわ。」
「すてきでしょう? 皆、古鞄の中にあったのよ。魔法の神に伺ってみたら、トランクを開けてみろと仰しゃったの。」
「でも、お嬢さん、セエラ嬢さんにいちいち何だか話しておもらいなさい。ね、あれはみんな――セエラ嬢さん、この方にも話しておあげなさいよ。」
 で、セエラはアアミンガアドに、黄金こがねのお皿のこと、まる天井のこと、燃えさかる丸太のこと、きらめく蝋燭のことなどを話して聞かせました。魔法の力の助けで、アアミンガアドもそれらのものをおぼろに見る気がしました。手籠の中から、寒天菓子や、果物や、ボンボンや、葡萄酒が取り出されるにつれ、宴会はすばらしいものになって来ました。
「まるで、夜会ね。」と、アアミンガアドは叫びました。
女王クウィイン様の食卓みたいだわ。」と、ベッキイは吐息をつきました。
 すると、アアミンガアドは眼を光らせて、
「こうしましょう、ね、セエラ。あなたは宮様プリンセスで、これは宮中きゅうちゅう御宴ぎょえんなの。」
「でも、今日の主催者はあなたじゃアないの。だから、あなたが宮様プリンセスで、私達は女官なの。」
「あら、私なんか肥っちょだから駄目よ。それに宮様プリンセスはどうするものだか、知らないんですもの。だから、やっぱりあなたの方がいいわ。」
「あなたがそう仰しゃるなら、それでもいいわ。」それから、またセエラは何か思いついたらしく、さびた煖炉の所に飛んで行きました。
「紙屑や塵がたまってるから、これに灯をつけると、ちょっと明くなるわ。すると、ほんとうに火のあるような気がするでしょう。」
 セエラは火をつけると、優雅しとやかに手をあげて、皆をまた食卓へ導きました。
「さア、お進みなされ御婦人方。饗宴のむしろにおつき召されよ。わがやんごとなき父君、国王様には、只今、ながの旅路におわせど、そなた達を饗宴にしょうぜよと、わらわ御諚ごじょう下されしぞ。何じゃ、楽士共か。六絃琴ヴァイオル、また低音喇叭バッスウンを奏でてたもれ。」そういってから、セエラは二人にいってきかせました。
宮様プリンセス方の宴会には、きっと音楽があったものなのよ。だから、あの隅に奏楽場そうがくじょうがあるつもりにしましょう。さ、始めましょう。」
 皆がお菓子をやっと手にとるかとらないうち、三人は思わず飛び上って、真蒼な顔を戸口の方へ向け、息をこらして耳を澄ましました。誰かが梯子を上って来るのです。もう何もかもおしまいだと、皆は思いました。
「きっと奥様よ。」ベッキーは思わずお菓子のかけらを取り落しました。
「そうよ。先生に見付かったのだわ。」
 セエラも真蒼になって、眼を見張りました。
 ミンチン先生は扉を叩きあけて入って来ました。怒りのあまり、先生の顔も真蒼でした。
「何かこそこそやってるようだとは思ってたけど、こんな大胆不敵なことをしようとは夢にも思わなかった。ラヴィニアのいったのはほんとうだ。」
 告口つげぐちをしたのはラヴィニアだと、三人は知りました。ミンチン先生は、足を鳴らして進みよると、またベッキイの耳を打ちました。
畜生ちくしょうめ、夜があけたら、さっさと出て行け。」
 セエラは身動きもせず立っていました。眼はいよいよ大きくなり、顔色はますます蒼ざめていきました。アアミンガアドはわっと泣き出しました。
「どうか、ベッキイを逐い出さないで下さい。伯母さんがこの手籠を下すったので、みんなで、ただあの――宴会ごっこをしていたのです。」
「案の定、プリンセス・セエラが上座に坐ってるね。皆セエラの仕業なんだ。ちゃんと解ってるよ。ベッキイ、お前はさっさと自分の部屋に帰れ。セエラ、お前の罰は明日だ。明日は朝から晩まで、何にも食べさしてやらないから。」
「今日だって、おひるも晩もいただきませんでしたよ。」
「そんならなおいいさ。何か心にこたえることをしてやらなければ。アアミンガアド、ぼんやり立ってるんじゃアないよ。食物を皆手籠にしまうんだよ。」
 ミンチン先生は、自分でテエブルの上のものを手籠の中へ払い落しましたが、またしてもセエラが大きな眼をして見詰めているのに気がつくと、先生はセエラに食ってかかりました。
「何を考えてるんだよ。なんだって、そんな眼をして私を見るんだよ。」
「私、お父様がこれを御覧になったら、何と仰しゃるだろう、と思っていましたの。」
 それを聞くと先生は、いつかの時のように腹が立ってたまらなくなりました。で、思わずセエラに飛びかかって、彼女のからだをゆすぶりました。
「まア、失敬な! ずうずうしいにも程がある。」
 先生は手籠や本をアアミンガアドの腕に押しこみ、彼女を小突いて先に立てながら、セエラの部屋を出て行きました。
 夢はすっかりさめてしまいました。炉の中の紙屑は消えて黒い燃殻もえがらになり、テエブルの上に飾ったものは、鞄の中にあった時のように古ぼけて、床に散らばっていました。セエラはエミリイが壁に寄りかかっているのを見付けると、震える手で抱き上げました。
「もう御馳走どころじゃアないのよ。宮様プリンセスもなにもいやしないのよ。バスティユの囚人がここにいるばかりだわ。」
 セエラはべたりと坐って、両手で顔を被おうとしました。その間にさっきの黒い顔が、また天窓の上に現れました。が、セエラはそれには気がつきませんでした。セエラはやがて立ち上って寝床の方に行きました。もう何のつもりになる張合はりあいもありませんでした。
「あの炉に火が入っているといいな。火の前には、気持のいい椅子テエブルがあって、暖かな晩御飯が乗っているといいな。それから、あの――」と薄っぺらな夜具をかけながら、「これが、柔かな寝台で、羊毛の毛布や、ふうわりした枕がついているのだったら、そして、それから――」
 セエラは思っているうち疲れはてて、いつかぐっすり眠ってしまいました。
          *        *        *
              *        *        *
 どれほど眠ったか、セエラには判りませんでした。彼女は疲れきっていましたので、メルチセデクが騒いでも、天窓から誰かが入って来ても、何にも知らずにぐっすり眠っておりました。
 天窓がぱたりと閉る音を聞いたと思いましたが、セエラは眠くてたまらないので――それに、何か妙にぽかぽか温かくて気持がいいので、すぐには眼を開けませんでした。余りの気持よさに、セエラは何だかまだ夢心地だったのでした。
「いい夢だわ。私、覚めなければいいと思うわ。」
 まったく夢にちがいありません。温かな夜具もかかっているようですし、毛布の肌触りも感ぜられます。手を出すと、繻子しゅす羽根蒲団はねぶとんらしいものが触るのです。セエラはこの夢から覚めまいと思って、一生懸命眼をつぶっていましたが、ぱちぱちと火のぜる音を聞くと、眼をあけずにはいられませんでした。眼を開けて見て、セエラはまだ夢を見ているのだと思いました。――
 炉にはあかあかとほのおが燃え立っています。炉棚の上には小さな真鍮の茶釜が、ふつふつと煮え立っています。床には厚い緋色の絨毯が、炉の前には、座褥クッションをのせた畳みこみの椅子が置いてあります。椅子のそばには白いテエブル掛をかけた小さな食卓が据えてあって、茶碗や、土瓶や、小皿や、きれをかけた料理のお皿などが並べられてあります。寝台の上には温かそうな寝衣ねまきや、繻子の羽根蒲団がかけてあります。寝台の下には、珍らしい綿入れの絹の服や、綿の入ったスリッパや、小さな本などが置いてあります。それに、テエブルの上には、薔薇色傘のついた明るいラムプが点っているのです。セエラは、夢の国から妖精の国に来たのではないかと思いました。
「消えてなくなりもしないようだわ。こんな夢って、見たこともないわ。」
 セエラは、しばらく寝台の上に肱をついて、部屋の中を見ていましたが、やがて、夜具を押しのけて、足を床に下しました。
「夢を見ながら、とこから出て行くのだわ。このままであればいい。私はこれがほんとなのだと、夢見ているのだわ。夢じゃアないと、夢のうちで思っているのだわ。魔法にかかった夢のようだわ。私も何だか魔法にかかっているようだわ。きっと私はただ見えると思ってるばかりなのよ。いつまでもそう思っていたいわ。でも、どうでもいいわ。どうでもいいわ。」
 セエラは、燃え立つ火の前に跪いて、火に手をかざして見ました。火に手を近づけすぎたので、熱さのあまり飛びさがりました。
「夢で見ただけの火なら、熱いはずはないわ。」
 セエラは飛び上って、テエブルや、お皿や、敷物に手を触れて見ました。それから、寝台の毛布に触ってみました。柔かな綿入の服を取り上げて、ふいに抱きしめ、頬ずりしました。
「温かくて、柔かだわ。本物に違いないわ。」
 セエラはその服をひっかけて、スリッパを穿きました。それから、よろよろと本の所へ行き、一番上の一冊を開いてみました。
『屋根裏部屋の少女へ、友人より』
 扉にそう書いてあるのを見ると、セエラはその上に顔を伏せて、泣き出しました。
「誰だか知らないけど、私に気を付けて下さる方があるのだわ。私にも、お友達があるのだわ。」
 セエラは蝋燭を持ってベッキイの所に行きました。ベッキイは眼を覚して、緋色の綿入服を着たセエラを見ると、吃驚びっくりして起き上りました。昔のままのプリンセス・セエラが立っていると、ベッキイは思いました。
「ベッキイ、来て御覧なさい。」
 ベッキイは、驚きのあまり口を利くことも出来ず、黙ってセエラに従いました。ベッキイはセエラの部屋に入ると、眼が廻りそうでした。
「みんなほんとなのよ。私、触って見たのよ。きっと私達の眠っているに、魔法使が来たのね。」

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底本:「小學生全集第五十二卷 小公女」興文社、文藝春秋社
   1927(昭和2)年12月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
 その際、次の書き換えを行いました。
「或→ある・あるい 居→い・お 却って→かえって 彼処→かしこ 難→がた 曽て→かつて 此処・此室・此家・茲→ここ 此方→こっち 毎→ごと 悉く→ことごとく 此の→この 直き→じき 切りに→しきりに 従って→したがって 暫く→しばらく 知れない・ません→しれない・ません 直ぐ→すぐ 凡→すべて 其処→そこ 傍→そば 沢山→たくさん 忽ち→たちまち 給→たま 度→たび 為→ため 何誰→だれ 丁度→ちょうど 就いて→ついて 唯→と 何処→どこ 何誰・何方→どなた 何の→どの 共に→ともに 何故→なぜ 筈→はず 頁→ページ 殆んど→ほとんど 先ず→まず 全く→まったく 迄→まで 間もなく→まもなく 若し→もし 勿論→もちろん 尤も→もっとも 許→もと 貰→もら 易→やす 他所→よそ 宜し→よろし」
※底本は総ルビでしたが、一部を省きました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ひ」「あかり」と読んで単独で用いる際は「灯」、熟語をつくる際は「燈」とする底本の使い分けをなぞりました。
※ジュフアジ/ジュフラアジ、ベッキィ/ベッキー/ベッキイ、パリィ/パリイ、蹈/踏の混在は底本の通りです。
入力:大久保ゆう
校正:門田裕志、浅原庸子
2005年5月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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