薤露行

夏目漱石




 世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸そぼくという点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫のそしりは免がれぬ。まして材をその一局部に取ってまとまっ たものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりして かなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではな い。そのつもりで読まれん事を希望する。
 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分 あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台におどらせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するにはおおいに参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似まねがしたくなるからやめた。

     一 夢

 百、二百、むらがる騎士は数をつくして北のかたなる試合へと急げば、石にりたるカメロットのやかたには、ただ王妃ギニヴィアの長くころもすそひびきのみ残る。
 薄紅うすくれないの一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、もすそのみはかろさばたまくつをつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたるきざはしの正面には大いなる花を鈍色にびいろの奥に織り込める戸帳とばりが、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をかく。聴きおわりたる横顔をまた真向まむこうえして石段の下を鋭どき眼にてうかがう。こまやかにを流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇ばらが暗きをれてやわらかきかおりを放つ。君見よとよいに贈れる花輪のいつくだけたる名残なごりか。しばらくはわが足にまつわる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、と立ち直りて、ほそき手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、まばゆき光り矢の如く向い側なるしつの中よりギニヴィアのかしらいただける冠を照らす。輝けるは眉間みけんあたる金剛石ぞ。
「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天をはばかり、地を憚かる中に、身も世もらぬまで力のこもりたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠をおそれず。
「ギニヴィア!」とこたえたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ばうずめてまたき返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、ほおの色はり合わず蒼白あおじろい。
 女は幕をひく手をつと放して内にる。裂目さけめを洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立きわだちて見える。左右に開く廻廊には円柱まるばしらの影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。
「北のかたなる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたるまゆに晴れがたき雲のわだかまりて、弱きわらいいてうれいうちより洩れきたる。
「贈りまつれる薔薇のいて」とのみにて男は高き窓より表のかたを見やる。折からの五月である。館をめぐりてゆるく江に千本の柳が明かに影を※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)ひたして、空にくずるる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて隠れに白く※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)く筋の、一縷いちるの糸となってけむりに入るは、立ちのぼる朝日影にひづめちりを揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北のかたへと飛ばせたる本道である。
「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈るき身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみのえにしとならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚さんごの唇をぴりぴりと動かす。
「今日のみの縁とは? 墓にかるるあの世までもかわらじ」と男は黒きひとみを返して女の顔をじっと見る。
「さればこそ」と女は右の手を高くげて広げたるてのひらたてにランスロットに向ける。手頸てくびまと黄金こがねの腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇のに酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。つかの間に危うきをむさぼりて、長きふちと変らば……」といいながら挙げたる手をはたと落す。かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然かつぜんと瞬時の響きを起す。
「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。
 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事のかなわばこの黄金、この珠玉たまの飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえるさまである。白きかいなのすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりになびきつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣のそでは、胸を過ぎてより豊かなるひだを描がいて、裾は強けれどもかたからざる線を三筋ほどゆかの上まで引く。ランスロットはただ窈窕ようちょうとして眺めている。前後を截断せつだんして、過去未来を失念したる間にただギニヴィアの形のみがありありと見える。
 機微のふかきを照らす鏡は、女のてるすべてのうちにて、もっとも明かなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわがかしらを抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影のきが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛くもの巣と消えてあますはうれしき人のなさけばかりである。「かくてあらば」と女は危うきひまに際どくり込む石火の楽みを、とこしえにづけかしと念じて両頬にえみしたたらす。
「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。
「されど」と少時しばしして女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄のあとを追い懸けて病えぬと申し給え。この頃の蔭口かげぐち、二人をつつむうたがいの雲を晴し給え」
「さほどに人がこわくて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高きしつの静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「このとばりの風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞じゃくまくもとに帰る。
よべ見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔にはたちまこう落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心さわぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。
「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間にしたるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一ぴきの蛇は黄金こがねうろこを細かに身に刻んで、もたげたるかしらには青玉せいぎょくがんめてある。
「わが冠の肉にい入るばかり焼けて、頭の上にきぬる如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪をめぐりて動き出す。頭は君のかたへ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見るに、君とわれはなまぐさき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるにすべなし。たといいまわしききずななりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣こころやりなりき。まるるともさるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇の花のくれないなるが、めらめらと燃えいだして、つなげる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる一尋ひとひろ余りは、真中まなかより青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしきにおいを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えてせよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢はめたり。醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、よべの名残かと骨をゆるがす」と落ち付かぬ眼を長きまつげの裏に隠してランスロットの気色けしきうかがう。七十五度の闘技に、馬のすべるは無論、あぶみさえはずせる事なき勇士も、この夢をしとのみは思わず。快からぬ眉根はおのずかせまりて、結べる口の奥には歯さえ喰いばるならん。
「さらば行こう。おくせに北のかたへ行こう」とこまぬいたる手を振りほどいて、六尺二寸のからだをゆらりと起す。
「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。
「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりとくびすめぐらして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき百合ゆり花弁はなびらをひたふるに吸える心地である。ランスロットはあとをも見ずして石階を馳け降りる。
 やがて三たび馬のいなながして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿たかどのを下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓にりて、かの人のいづるを遅しと待つ。黒き馬の鼻面はなづらが下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなるを振る。頭に戴ける金冠の、美しき髪を滑りてか、からりと馬の鼻をかすめて砕くるばかりに石の上に落つる。
 やりの穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹をける。白きかぶと挿毛さしげのさとなびくあとに、残るは漠々ばくばくたるちりのみ。

     二 鏡

 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高きうてなの中に只一人住む。ける世を鏡のうちにのみ知る者に、おもてを合わす友のあるべき由なし。
 春恋し、春恋しとさえずる鳥の数々に、耳そばだてて隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。あざやかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。
 シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、かすかなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳をおおうてまた鏡に向う。河のあなたにけぶる柳の、果ては空とも野とも覚束おぼつかなき間よりづる悲しき調しらべと思えばなるべし。
 シャロットのみち行く人もまたことごとくシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白きひげゆるき衣をまといて、長きつえの先に小さきひさごくくしつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときはかしらよりただ一枚と思わるる真白の上衣うわぎかぶりて、眼口も手足もしかと分ちかねたるが、けたたましげにかね打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これはらいをやむ人の前世のごうみずから世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。
 旅商人たびあきゅうどに負えるつつみの中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚さんご瑪瑙めのう、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女のひとみには映ぜぬ。
 古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らしてえらぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちにながとどまる事は天にかかる日といえどもかたい。ける世の影なればかくなきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際にけよりて思うさま鏡のほかなる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女にのろいのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐きょくせきせねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住みめば山にのがるる心安さもあるべし。鏡のうちなる狭き宇宙の小さければとて、き事の降りかかる十字のちまたに立ちて、行きう人に気を配るらさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃ばんけいの乱れは永劫えいごうを極めて尽きざるを、渦く中にかしらをも、手をも、足をもさらわれて、行くわれのはては知らず。かかる人を賢しといわば、高きうてなに一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆あほうの極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物のたすけにて、よそながらうかがう世なり。活殺生死かっさつしょうじ乾坤けんこん定裏じょうり拈出ねんしゅつして、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心をさわがして窓のそとなる下界を見んとする。
 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄くろがねの黒きをみがいて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇るかがみの霧を含みて、芙蓉ふようしたたる音をくとき、むかえる人の身の上に危うき事あり。※(「(彡をつらぬいてたてぼう)/石」、第4水準2-82-32)けきぜんゆえなきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期まつごの覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月いくとしつきの久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。あしたに向いゆうべに向い、日に向い月に向いて、くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとするおそれありとは夢にだも知らず。湛然たんぜんとして音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗えいろうたるおもてを過ぐる森羅しんらの影の、繽紛ひんぷんとして去るあとは、太古の色なきさかいをまのあたりに現わす。無限上に徹する大空たいくうを鋳固めて、打てば音ある五尺のうちし集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。
 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡のそばに坐りて、夜ごと日ごとの※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたを織る。ある時は明るき※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたを織り、ある時は暗き※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたを織る。
 シャロットの女の投ぐるの音を聴く者は、さびしきおかの上に立つ、高きうてなの窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しきにただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居すまいである。つたとざす古き窓よりるる梭の音の、絶間たえまなき振子しんしの如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。しずかなるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにもまさる。恐る恐る高き台を見上げたる行人こうじんは耳をおおうて走る。
 シャロットの女の織るは不断の※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたである。草むらの萌草もえぐさの厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散るなみの花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒きに、燃ゆるほのおの色にて十字架を描く。濁世じょくせにはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯たてよこの目にも入ると覚しく、焔のみは※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたを離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋はけ落つるかと怪しまれて明るい。
 恋の糸とまことの糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いをたてに怒りをよこに、あられふる木枯こがらしの夜を織り明せば、荒野の中に白きひげ飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしきくれないと恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和おとなしき黄と思い上がれる紫をかわがわるに畳めば、魔に誘われし乙女おとめの、われがおに高ぶれるさまを写す。長きたもとに雲の如くにまつわるは人に言えぬねがいの糸の乱れなるべし。
 シャロットの女はまなこ深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日ののぼりてより、刻を盛る砂時計のここのたび落ち尽したれば、今ははやひる過ぎなるべし。窓を射る日のまばゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟どうくつの如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手めてより投げたる左手ゆんでに受けて、女はふと鏡のうちを見る。ぎ澄したるつるぎよりも寒き光の、いつもながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事なにごとぞ!音なくてと曇るは霧か、鏡のおもては巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うてきつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女のまぶたは黒きまつげと共にかすかにふるえた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷いっさつに晴れて、河も柳も人影も元の如くにあらわれる。梭は再び動き出す。
 女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。
  うつせみの世を、
  うつつに住めば、
  住みうからまし、
  むかしも今も。」
  うつくしき恋、
  うつす鏡に、
  色やうつろう、
  朝な夕なに。」
 鏡の中なる遠柳とおやなぎの枝が風になびいて動くあいだに、たちましろがねの光がさして、熱きほこりを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊をねらわしの如くに、影とは知りながらまたたきもせず鏡のうちつむる。十ちょうにして尽きた柳の木立こだちを風の如くにけ抜けたものを見ると、鍛え上げたはがねよろいに満身の日光を浴びて、同じかぶと鉢金はちがねよりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ※(「参+毛」、第3水準1-86-45)さんさんと靡かしている。栗毛くりげこまたくましきを、かしらも胸もかわつつみて飾れるびょうの数はふるい落せし秋の夜の星宿せいしゅくを一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼をえる。
 曲がれるどてに沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩にたてを懸けたり。女はえりを延ばして盾に描ける模様をしかと見分けようとするていであったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜けるいきおいで、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わずげて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットはかぶとひさしの下より耀かがやく眼を放って、シャロットの高きうてなを見上げる。爛々らんらんたる騎士の眼と、針をつかねたる如き女の鋭どき眼とは鏡のうちにてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓のそばけ寄ってあおき顔を半ば世の中に突きいだす。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。
 ぴちりと音がして皓々こうこうたる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたるおもては再びぴちぴちと氷を砕くが如くこな微塵みじんになってしつの中に飛ぶ。七巻ななまき八巻やまき織りかけたる布帛きぬはふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切ちぎれ、解け、もつれてつち蜘蛛ぐもの張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期まつごのろいを負うて北のかたへ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分のわきを受けたる如く、五色の糸と氷をあざむく砕片の乱るる中に※(「革+堂」、第3水準1-93-80)どうたおれる。

     三 袖

 可憐かれんなるエレーンは人知らぬすみれの如くアストラットの古城を照らして、ひそかにちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。う人はもとよりあらず。共に住むは二人の兄とまゆさえ白き父親のみ。
「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。
「北のかたなる仕合に参らんと、これまではむちうって追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえわかれたるを。――乗り捨てし馬も恩にいななかん。一夜の宿の情け深きにむくいまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なるほうに姿を改めたる騎士なり。シャロットをせる時何事とは知らず、岩のくぼみの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るまで、ほおあおきが特更ことさらの如くに目に立つ。
 エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何いかなる風の誘いてか、かく凛々りりしき壮夫ますらおを吹き寄せたると、折々はつるせたる老人の肩をすかして、恥かしのまつげの下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るるすべもあろう。偃蹇えんけんとして澗底かんていうそぶく松がには舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶こちょうは薄き翼を収めて身動きもせぬ。
「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日あすと定まる仕合の催しに、おくれて乗り込む我の、何のたれよと人に知らるるは興なし。新しきをきらわず、古きを辞せず、人の見知らぬたてあらば貸し玉え」
 老人ははたと手をつ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーはさんぬる騎士の闘技に足を痛めて今なおじょくを離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合にきずつきて、その創口きずぐちはまだえざれば、赤き血架はむなしく壁に古りたり。これをかざして思う如く人々を驚かし給え」
 ランスロットは腕をやくして「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。
「次男ラヴェンは健気けなげに見ゆる若者にてあるを、アーサー王のもよおしにかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛のひづめのあとにし連れよ。翌日あすを急げと彼に申し聞かせんほどに」
 ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人のほおに畳めるしわのうちには、うれしき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。
 木にるはつた、まつわりて幾世を離れず、よいいてあしたに分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。ほそき身の寄り添わば、幹吹くあらしに、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかにくくる恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けてまぶたに余る、露の底なる光りを見ずや。わが住めるやかたこそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物のあわれの胸にみなぎるは、とざせる雲のおのずから晴れて、うららかなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷をうずめて千里のほかに暖かき光りをひく。明かなる君が眉目びもくにはたと行き逢える今のおもいは、あなを出でて天下の春風はるかぜに吹かれたるが如きを――言葉さえわさず、あすの別れとはつれなし。
 しょく尽きてこうおしめども、更尽きて客はねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理にひとみの奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんとつとめたれどせんなし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼のうちに潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。たまえるものの話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛かわゆき者の前に夢の魔を置き、物の怪のたたりを据えてのおそれと苦しみである。今宵こよいの悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消えせて、求むれどもついに得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我をつかさどるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるをしく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへかうしなえる。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、ひさし深きかぶとの奥より、高きやぐらを見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンはせてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンはかすかなる毛孔けあなの末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千の香油を注いで、日にそのはだえなめらかにするとも、潜めるエレーンは遂に出現しきたはなかろう。
 やがてわが部屋の戸帳とばりを開きて、エレーンは壁にる長ききぬを取りいだす。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこるよるんで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如くあざやかである。エレーンは衣のえり右手めてにつるして、しばらくはまばゆきものとながめたるが、やがて左に握る短刀をさやながら二、三度振る。からからとゆかに音さして、すわというひらめきは目をかすめてくれない深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭てしょくは、風に打たれてと消えた。外は片破月かたわれづきの空にけたり。
 右手めてささぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居すまい、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。
 聞くならくアーサー大王のギニヴィアをめとらんとして、心惑える折、ながらに世の成行なりゆきを知るマーリンは、首をりて慶事をがえんんぜず。この女のちに思わぬ人を慕う事あり、娶る君にくいあらん。とひたすらにいさめしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ思わぬ人たれなるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。思わぬ人の誰なるかを知りたる時、あめしたに数多く生れたるもののうちにて、この悲しきさだめめぐり合せたる我を恨み、このうれしきさちけたるおのれをよろこびて、楽みと苦みのないまじりたる縄を断たんともせず、この年月としつきを経たり。心ましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をもかもせと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃をてず。ただ疑の積もりて証拠あかしと凝らん時――ギニヴィアの捕われてくいに焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。
 眠られぬ戸に何物かちょとさわった気合けわいである。枕を離るるかしらの、音するかたに、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸なきがらに脈も通わず。しずかである。
 再び障った音は、ほとんどたたいたというべくも高い。たしかに人ありと思いきわめたるランスロットは、やおら身を臥所ふしどに起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭ろうそくの火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女のかたにまたたく。乙女の顔はかざせる赤き袖の影に隠れている。面映おもはゆきは灯火ともしびのみならず。
「この深きを……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。
「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――ねずみだに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。
 男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹もみ衝立ついたてに、花よりも美くしき顔をかくす。常にまさ豊頬ほうきょうの色は、く血潮のく流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたるびんの毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪したり。
 白き香りの鼻をって、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴィアの夢の話が湧き帰る。何故なにゆえとは知らず、ことごとく身はえて、手に持つ燭を取り落せるかと驚ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。
くれないに人のまことはあれ。恥ずかしの片袖を、われぬに参らする。かぶといて勝負せよとの願なり」とかの袖を押し遣る如く前にいだす。男は容易に答えぬ。
「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔をのぞく。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「たたかいに臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知らず。いまだ佳人の贈り物を、身に帯びたるためしなし。なさけあるあるじの子の、情深き賜物をいなむは礼なけれど……」
「礼ともいえ、礼なしともいいてやみね。礼のために、を冒して参りたるにはあらず。思のこもるこの片袖を天が下の勇士に贈らんために参りたり。切に受けさせ給え」とここまで踏み込みたる上は、かよわき乙女の、かえって一徹に動かすべくもあらず。ランスロットはまどう。
 カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返しての仕業しわざ故である。闘技のらちに馬乗り入れてランスロットよ、後れたるランスロットよ、とうたわるるだけならばそれまでの浮名である。去れど後れたるは病のため、後れながらも参りたるはまことの病にあらざる証拠あかしよといわば何と答えん。今さいわいに知らざる人の盾を借りて、知らざる人の袖をまとい、二十三十の騎士をたおすまで深くわがおもてを包まば、ランスロットと名乗りをあげて人驚かす夕暮に、――たれかれ共にわざと後れたる我をうけがわん。病と臥せる我の作略さりゃくを面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットはようやくに心を定める。
 部屋のあなたに輝くは物の具である。よろいの胴に立て懸けたるわが盾を軽々かろがろと片手にげて、女の前に置きたるランスロットはいう。
「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士のほまれ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。
「うけてか」と片頬かたほめる様は、谷間のひめ百合ゆりに朝日影さして、しげき露のあとなくかわけるが如し。
「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身かたみと残す。試合果てて再びここをぎるまで守り給え」
「守らでやは」と女はひざまずいて両手に盾をいだく。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。
 この時やぐらの上をからす鳴き過ぎて、はほのぼのと明け渡る。

     四 罪

 アーサーをきらうにあらず、ランスロットを愛するなりとはギニヴィアのおのれにのみ語る胸のうちである。
 北のかたなる試合果てて、行けるものは皆やかたに帰れるを、ランスロットのみは影さえ見えず。帰れかしと念ずる人の便たよりは絶えて、思わぬものの※(「金+(鹿/れっか)」、第3水準1-93-42)くつわを連ねてカメロットに入るは、見るも益なし。一日には二日を数え、二日には三日を数え、ついに両手の指をことごとく折り尽して十日に至る今日こんにちまでなお帰るべしとのねがいを掛けたり。
「遅き人のいずこにつながれたる」とアーサーはさまでに心を悩ませる気色けしきもなくいう。
 高きしつの正面に、石にて築く段は二級、半ばは厚き毛氈もうせんにておおう。段の上なる、おおいなる椅子いすに豊かにるがアーサーである。
「繋ぐ日も、繋ぐ月もなきに」とギニヴィアは答うるが如く答えざるが如くもてなす。王を二尺左に離れて、床几しょうぎの上に、ほそき指を組み合せて、ひざより下は長きもすそにかくれてくつのありかさえ定かならず。
 よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえおどるを。話しの種の思う坪にえたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアはまた口を開く。
おくれて行くものは後れて帰るおきてか」といい添えて片頬かたほに笑う。女の笑うときは危うい。
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
 恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、きりに刺されしいたみを受けて、すわやと躍り上る。耳の裏にはと音がして熱き血をす。アーサーは知らぬ顔である。
「あのそでの主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿毛さしげに、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残るいくを繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
美しき少女! 美しき少女!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄きくつに三たび石のゆかを踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。
 夫に二心ふたごころなきを神の道とのおしえは古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみをうれしと見しも君がためなり。春風しゅんぷうに心なく、花おのずから開く。花に罪ありとはくだれる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡のあきらかなるは鏡の徳なり。かく観ずるうちに、人にも世にも振りてられたる時の慰藉いしゃはあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台はくつがえされて、くびすささうるに一塵いちじんだになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたればとがも恐れず、世をはばかりのせき一重ひとえあなたへ越せば、生涯のつきはあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府よみつる。わがわる床几の底抜けて、わが乗る壇の床くずれて、わが踏む大地のこく裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨もくだけよとす。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸のもだえを人知れぬかたらさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、またおのれいたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間にのどまろでたり。
 ひくなみの返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸をいきおいの、前よりはすさまじきを、浪みずからさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然ゆうぜんとして常よりも切なきわれにかえる。何事も解せぬ風情ふぜいに、驚ろきのまゆをわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーはしばらく前のアーサーにあらず。
 人をきずつけたるわが罪を悔ゆるとき、傷負える人の傷ありと心付かぬ時ほどくいはなはだしきはあらず。聖徒に向ってむちを加えたる非の恐しきは、むちうてるものの身にね返る罰なきに、みずからとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然しょうぜんとして骨に徹する寒さを知る。
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、とつぎてより幾夜か経たる。赤き袖の主のランスロットを思う事は、御身おんみのわれを思う如くなるべし。贈り物あらば、われも十日を、二十日はつかを、帰るを、忘るべきに、ののしるはいやし」とアーサーは王妃のかたを見て不審の顔付である。
美しき少女!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとてはあわれを寄せたりとも見えず。
 アーサーは椅子に倚る身を半ばめぐらしていう。「御身とわれと始めて逢える昔を知るか。じょうに余る石の十字を深く地にうずめたるに、つたいかかる春の頃なり。みちに迷いて御堂みどうにしばしいこわんと入れば、銀にちりばむ祭壇の前に、空色のきぬを肩より流して、黄金こがねの髪に雲を起せるはぞ」
 女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。ゆかしからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然こつぜんと容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、しおれたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、あまくだれるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
 けるは追えども帰らざるに逝けるとこしえに暗きに葬むるあたわず。思うまじと誓える心に発矢はっしあたる古き火花もあり。
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして何処いずこへとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬をおさえながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう。――王妃の顔はしかばねいだくが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、ののしる如き幾多の声は次第にアーサーの室にせまる。
 入口に掛けたる厚き幕はふさに絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多くたけ高き一人の男があらわれた。モードレッドである。
 モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いてるはアグラヴェン、たくましき腕の、ゆるき袖を洩れて、あかくびの、かたく衣のえりくくられて、色さえ変るほど肉づける男である。二人のあとには物色するいとまなきに、どやどやと、我勝ちに乱れ入りて、モードレッドを一人ひとり前に、ずらりと並ぶ、数はすべてにて十二人。何事かなくてはかなわぬ。
 モードレッドは、王に向って会釈せるかしらもたげて、そこ力のある声にていう。「罪あるを罰するは王者おうしゃの事か」
「問わずもあれ」と答えたアーサーは今更という面持おももちである。
「罪あるは高きをも辞せざるか」とモードレッドは再び王に向って問う。
 アーサーは我とわが胸をたたいて「黄金の冠はよこしまの頭にいただかず。天子の衣は悪を隠さず」と壇上に延び上る。肩にくくの衣の、裾は開けて、白き裏が雪の如く光る。
「罪あるを許さずと誓わば、君がかたえに坐せる女をも許さじ」とモードレッドはおくする気色もなく、一指を挙げてギニヴィアの眉間みけんす。ギニヴィアはと立ち上る。
 茫然ぼうぜんたるアーサーは雷火に打たれたるおしの如く、わが前に立てる人――地をき出でしいわおとばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。
「罪ありと我をいるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。いつわりは天も照覧あれ」とほそき手を抜け出でよと空高く挙げる。
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」とたかの眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪はのがれず」と口々にいう。
 ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛にたすけて「ランスロット!」とかすかに叫ぶ。王は迷う。肩にまつわる緋の衣の裏を半ば返して、右手めてたなごころを十三人の騎士に向けたるままにて迷う。
 この時館の中に「黒し、黒し」と叫ぶ声が※(「土へん+楪のつくり」、第4水準2-4-94)せきちょうひびきかえして、窈然ようぜんと遠く鳴る木枯こがらしの如く伝わる。やがて河に臨む水門を、天にひびけと、びたる鉄鎖にきしらせて開く音がする。室の中なる人々は顔と顔を見合わす。只事ただごとではない。

     五 舟

※(「(矛+攵)/金」、第3水準1-93-30)かぶとに巻ける絹の色に、槍突き合わす敵の目もむべし。ランスロットはその日の試合に、二十余人の騎士をたおして、引き挙ぐる間際まぎわに始めてわが名をなのる。驚く人のめぬを、ラヴェンと共にらちを出でたり。行く末は勿論もちろんアストラットじゃ」と三日過ぎてアストラットに帰れるラヴェンは父と妹に物語る。
「ランスロット?」と父は驚きのまゆを張る。女は「あな」とのみ髪にす花の色をふるわす。
「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かのやりを受け損じてか、よろいの胴を二寸さがりて、左のまたきずを負う……」
「深き創か」と女は片唾かたずを呑んで、懸念の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはる。
くらに堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに暮れて、あおゆうべを草深き原のみ行けば、馬のひづめは露にれたり。――二人は一言ひとことわさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたあるまじき派手やかさをしのぶ。風渡るこずえもなければ馬のくつの地を鳴らす音のみ高し。――路は分れて二筋となる」
「左へ切ればここまで十マイルじゃ」と老人が物知り顔にいう。
「ランスロットは馬のかしらを右へ立て直す」
「右? 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。
「そのシャロットのかたへ――あとより呼ぶわれを顧みもせでくつわを鳴らして去る。やむなくてわれも従う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくもいななける事なり。嘶く声のはて知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の足掻あがきの常の如く、わが手綱たづなの思うままに運びし時は、ランスロットの影は、と共にかすかなる奥に消えたり。――われは鞍をたたいて追う」
「追い付いてか」と父と妹は声をそろえて問う。
「追い付ける時は既に遅くあった。乗る馬の息の、やみ押し分けて白く立ち上るを、いやがうえにむちうって長き路を一散にけ通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる時、われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。黒きものは聞かざる真似まねして行く。かすかに聞えたるはくつわの音か。怪しきは差して急げる様もなきに容易たやすくは追い付かれず。ようやくの事あいだ一丁ほどにせまりたる時、黒きものは夜の中に織り込まれたる如く、ふっと消える。合点がてん行かぬわれはますます追う。シャロットの入口に渡したる石橋に、蹄も砕けよと乗り懸けしと思えば、馬は何物にかつまずきて前足を折る。るわれはたてがみをさかにいて前にのめる。かつと打つは石の上と心得しに、われより先にたおれたる人のよろいの袖なり」
「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。
「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」
「倒れたるはランスロットか」と妹はたまゆるほどの声に、椅子のはじを握る。椅子の足は折れたるにあらず。
「橋のたもとの柳のうちに、人住むとしも見えぬ庵室あんしつあるを、試みに敲けば、世をのがれたる隠士のきょなり。幸いと冷たき人をかつぎ入るる。かぶとを脱げば眼さえ氷りて……」
「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットをよみがえしてか」と父は話し半ばに我句を投げ入るる。
「よみ返しはしたれ。よみにある人とえらぶ所はあらず。われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。魔に襲われて夢に物いう人の如く、あらぬ事のみ口走る。あるときは罪々と叫び、あるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。隠士が心を込むる草のかおりも、煮えたるかしらには一点の涼気を吹かず。……」
枕辺まくらべにわれあらば」と少女おとめは思う。
一夜いちやのちたぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士のねむり覚めて、病む人の顔色の、今朝けさ如何いかがあらんと臥所ふしどうかがえば――らず。つるぎの先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追いわれは罪を追うとある」
のがれしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。
「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。茫々ぼうぼうと吹く夏野の風の限りは知らず。西東日の通う境はきわめがたければ、ひとり帰り来ぬ。――隠士はいう、やまい怠らで去る。かの人の身は危うし。狂いて走るかたはカメロットなるべしと。うつつのうちに口走れる言葉にてそれと察せしと見ゆれど、われはしかと、さは思わず」と語り終ってさかずきに盛る苦き酒を一息に飲み干してにじの如き気を吹く。妹は立ってわが室に入る。
 花に戯むるるちょうのひるがえるを見れば、春にうれいありとは天下を挙げて知らぬ。去れど冷やかに日落ちて、月さえやみに隠るるよいを思え。――ふる露のしげきを思え。――薄き翼のいかばかり薄きかを思え。――広き野の草の陰に、琴のつめほどちいさきものの潜むを思え。――畳む羽に置く露の重きに過ぎて、夢さえ苦しかるべし。果知らぬ原の底に、あるに甲斐かいなき身を縮めて、誘う風にも砕くる危うきを恐るるはさびしかろう。エレーンは長くは持たぬ。
 エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺め暮している。その盾には丈高き女の前に、一人の騎士がひざまずいて、愛と信とを誓える模様が描かれている。騎士の鎧は銀、女の衣は炎の色に燃えて、は黒に近き紺を敷く。赤き女のギニヴィアなりとは憐れなるエレーンの夢にだも知る由がない。
 エレーンは盾の女を己れと見立てて、跪まずけるをランスロットと思う折さえある。かくあれと念ずる思いの、いつか心のうちを抜け出でて、かくの通りと盾の表にあらわれるのであろう。かくありて後と、あらぬいしずえを一度び築ける上には、そら事を重ねて、そのそら事の未来さえも想像せねばやまぬ。
 重ね上げたる空想は、また崩れる。児戯に積む小石の塔をかえす時の如くに崩れる。崩れたるあとのわれに帰りて見れば、ランスロットはあらぬ。気を狂いてカメロットの遠きに走れる人の、わがそばにあるべき所謂いわれはなし。離るるとも、ちかいさえかわらずば、千里を繋ぐつなもあろう。ランスロットとわれは何を誓える? エレーンの眼には涙があふれる。
 涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓にはれず。この誓だに破らずばと思い詰める。エレーンの頬の色はせる。
 死ぬ事の恐しきにあらず、死したる後にランスロットに逢いがたきを恐るる。去れどこの世にての逢いがたきに比ぶれば、未来に逢うのかえってやすきかとも思う。罌粟けし散るをしとのみ眺むべからず、散ればこそまた咲く夏もあり。エレーンは食を断った。
 衰えは春野焼く火と小さき胸をかして、うれいは衣に堪えぬ玉骨ぎょっこつ寸々すんずんに削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもとむさぼる願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、つかの春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、日に開くつぼみの中にもうらみはあり。まるく照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。
 今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへのふみかきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なんとする人の言の葉を一々に書き付ける。
あめしたに慕える人は君ひとりなり。君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。陽炎かげろう燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、土水どすいの因果を受くることわりなしと思えば。まつげに宿る露のたまに、写ると見れば砕けたる、君の面影のもろくもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらばそそげ。基督キリストも知る、死ぬるまで清き乙女おとめなり」
 書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手のふるえたるは、おいのためともかなしみのためとも知れず。
 女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこのふみを握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しききぬにわれを着飾り給え。隙間すきまなく黒き布しき詰めたる小船こぶねの中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇ばら、白き百合ゆりを採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
 かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開くなし。父と兄とは唯々いいとして遺言のごとく、憐れなる少女おとめ亡骸なきがらを舟に運ぶ。
 古き江にさざなみさえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑りむる陰を離れて中流にづる。かいあやつるはただ一人、白き髪の白きひげおきなと見ゆ。ゆるくく水は、物憂げに動いて、一櫂ごとに鉛の如き光りを放つ。舟は波に浮ぶ睡蓮すいれんの睡れる中に、音もせず乗り入りては乗り越して行く。うてな傾けて舟を通したるあとには、かろく波足と共にしばらく揺れて花の姿は常のしずけさに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。
 舟は杳然ようぜんとして何処いずくともなく去る。美しき亡骸なきがらと、美しききぬと、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐらす。木に彫る人をむちうってたしめたるか、櫂を動かす腕のほかにはきたる所なきが如くに見ゆる。
 と見れば雪よりも白き白鳥が、収めたる翼に、波を裂いて王者の如く悠然ゆうぜんと水を練り行く。長きくびの高くしたるに、気高き姿はあたりを払って、恐るるもののありとしも見えず。うねる流を傍目わきめもふらず、へさきに立って舟を導く。舟はいずくまでもと、鳥のに裂けたる波の合わぬしたがう。両岸の柳は青い。
 シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲しき声が、左の岸より古き水の寂寞じゃくまくを破って、動かぬ波の上に響く。「うつせみの世を、……うつつ……に住めば……」絶えたる音はあとを引いて、引きたるはまたしばらくに絶えんとす。聞くものは死せるエレーンと、ともに坐る翁のみ。翁は耳さえ借さぬ。ただ長き櫂をくぐらせてはくぐらする。思うにつんぼなるべし。
 空は打ち返したる綿を厚く敷けるが如く重い。流をはさむ左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々もうもうと烟る。娑婆しゃば冥府めいふさかいに立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色けしきである。に似たる少女おとめの、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。
 舟はカメロットの水門に横付けに流れて、はたと留まる。白鳥の影は波に沈んで、岸高くそばだてる楼閣の黒く水に映るのが物凄ものすごい。水門は左右に開けて、石階の上にはアーサーとギニヴィアを前に、城中の男女なんにょことごとく集まる。
 エレーンのしかばねすべての屍のうちにて最も美しい。涼しき顔を、雲と乱るる黄金こがねの髪にうずめて、笑える如くよこたわる。肉に付着するあらゆる肉の不浄をぬぐい去って、霊その物の面影を口鼻こうびの間に示せるは朗かにもまた極めて清い。苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世にいまわしきもののあとなければ土に帰る人とは見えず。
 王はおごそかなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休めたる老人はおうしの如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階をくだりて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手に握るふみを取り上げて何事と封を切る。
 悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。
 読み終りたるギニヴィアは、腰をのして舟の中なるエレーンの額――透きとおるエレーンの額に、ふるえたる唇をつけつつ「美くしき少女!」という。同時に一滴の熱き涙はエレーンの冷たき頬の上に落つる。
 十三人の騎士は目と目を見合せた。





底本:「倫敦塔・幻影の盾 他五篇」岩波文庫、岩波書店
   1930(昭和5)年12月20日第1刷発行
   1990(平成2)年4月16日第23刷改版発行
   1997(平成9)年1月16日第29刷発行
※校正には、1997(平成9)年9月5日発行の第30刷を使用した。
入力:鈴木厚司
校正:藤本篤子
1999年3月6日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について