覚え書き
クレール光の伝説


 【メニュー】
 同盟他
 検索エンジン

※真田伊豆守信之(信幸)の子供達に関する覚え書き※
長男
真田信吉 孫六郎・蔵人
上野沼田二代藩主
1593(文禄二)〜1634(寛永十一)行年四十二
1622(元和八)年、父・信之の移封に伴い沼田藩主(三万石)に。
1634(寛永十一)年江戸で没。
沼田領は長子熊之助が継いだが、これも早世した。
子供は、三人
熊之助、信利、女

次男
真田信政 
1597(慶長二)〜1658(万治一)行年六十二
沼田生まれ。幼少期、家康のもとで人質。
1622(元和八)年、松代分封藩(埴科藩 一万石)藩主就任。
1638(寛永十五)年、甥の熊之助急逝を受けて翌年沼田藩(三万石)藩主に。
1656(明暦二)年、父・信之隠居により松代藩(十万石)藩主に。
1658(万治一)年、父に先立って没。
子供は六男六女
信就(旗本)、某、某、女、某、某、女、女、女、女、幸道(松代四代藩主)

三男
真田信重 隼人正
1599(慶長四)〜1648(慶安一)行年五十
沼田生まれ。
父の松代改易に伴い、七千石の旗本に。
1638(寛永十五)年、兄・信政が沼田藩主となったのを受け、埴科藩(松代分藩 一万石)二代藩主となる。
相撲と鷹狩りが趣味。
武蔵国鴻巣にて客死。
(公式文書では松代で死んだことになっている。
 仮にも大名が領地の外で死んだのでは、諸々都合が悪かったのだろう。
 武蔵国鴻巣は、母親の小松殿の死地であり、彼女の墓もあるから、おそらく墓参り・寺参りの途中で死亡したものと考えられる)
後嗣なきため、埴科藩は断絶・廃藩。
知行(七千石+一万石)は松代藩主である父・信之に還付。


なお、信之には他に娘が四人。

また、七十歳代の時の隠し子と言われる人物有り。
これは側室の子だが、家督争いを恐れた次室・右京が隣藩に預けた。
長じて出家し、僧として生涯を終えたという。
ただし、これはあくまで噂であり、傍証はない。


埴科藩は現在の千曲市あたりを領地としているが、藩主の屋敷や行政府があった場所などは判然としない。
実際に「独立した藩」として機能していたかどうかは疑わしい。


松代(長野県長野市) 千曲市