何もない日
灰が煙る空に樫の枝が一本、吸い込まれるように舞い上がった。
やがて弧を描き、柔らかな地面の上に突き刺さったそれを、エル・クレールは、奪うように拾い上げた。
腕にはいくつもの青あざ。手の甲は赤く腫れ上がり、人差し指の爪がバックリと割れていた。
急作りの木刀を掴んだかと思うと、彼女は着ていた古いシャツの右袖を引きちぎり、木刀諸共血まみれの手にぐるぐると巻き付けた。
「今一度」
泣きはらした目と、叫び潰れた声が訴える。
「あきらめが悪いってのは、まれ〜に美徳の場合もあるが、おおよそは悪徳に分類されるモンだせ?」
ブライトは頭を掻きながら、それでも一応、両手握りの長剣を模した木の枝を左上段に構えた。
「私があなたに勝つ方法が判るまでは、続けます」
エルは正眼に構え、大きく息を吐いた。
瞬間。
ブライトの視界から、エルの上体が消えた。
『下、か』
小柄でしなやかな彼女の身体が、前屈したままの低い弾道で、急激に間合いを詰めようとしている。
横払いに、胴を打つ。
「浅い!」
ブライトは半歩下がった。木刀の先がシャツのボタンに触れた。
長く太い木刀が、エルの肩を激しく打った。
「あぅっ」
細い身体は、地面に叩き付けられた。
「しまったっ!」
ブライトは、『上段からならもう一度剣をたたき落とさせる。中・下段ならば打ち込んで寸止め』の予定でいた。
切っ先が衣服に触れるその時までは、そのつもりでいた。
だが、身体が勝手に「容赦のない一撃」を繰り出していた。
エルはもがきながら、身を起こそうとしている。緩慢なその動きからは、もう一度立ち上がろうという気力が感じられない。
「鎖骨、イッちまったか」
不安げに声をかけるが、ブライトは彼女を助け起こすつもりはない。
その場に立って、彼女が自力で起きるのを待っている。
「大…丈夫です」
ようやく上体を起こしたものの、エルはその場にへたり込んでいた。
「リーチが違う、体力が違う、腕力が違う、技量が違う。総てが私より勝っているあなたのような相手に立ち向かう術は…」
苦痛に眉を顰めている…しかし、口元に笑みがあった。
「やはり『虚』でしょうか?」
「…おまえさんのような『子供』が、大人と対等に渡り合うのに、手っ取り早いのは『虚を突く』であるのは確かだ。だがそれがおまえさんの性質そのものかってぇと、断ずるに早過ぎる」
ブライトは、ドカリと音を立てて地面に胡座をかいた。
「大体おまえさん、歳ゃいくつさ」
「13です」
目で泣いて、鼻で怒って、口で微笑み、エルは答えた。
確かに幼顔で、華奢な体つきではあるが、自己申告の歳には逆立ちしても見えない。
男装して、少年のように振る舞っている今でも16.7歳。
髪を結い、化粧すれば18.9に見えるだろう。
「餓鬼…なんだよなぁ、どう足掻いても」
「人間は、1年に1つしか歳をとれません」
悔しそうに、エルが言う。
そりゃそうだが…と、つぶやいてから、ブライトは
「虚を付くってのは、ようするに敵の予想外の動きをするってことだ。そりゃつまり、無駄に動くってこった」
エルが小さくうなずくのを見てから、ブライトは続けた。
「無駄に動けば、隙がでかくなる。…初撃を外され、反撃されたら、虚を突かれるのは自分になる」
エルはうつむいて唇をかんだ。
「早く戦えるようになりたいのです」
「てめえ独りで、か?」
「はい」
「そりゃ無理だ」
きっぱりと言い切るブライトの声に、エルは顔を上げた。
「人間は1年に1つしか歳をとれねぇンだ。14と15をすっ飛ばして、今すぐ16になるのは無理だぜ」
「そんなこと、判ってます!」
ブライトの言うことは正しい。
涙がこぼれそうになるのを、エルはじっと堪えていた。
「弱い自分が、それでも独りで戦おうってのが、そもそも間違ってるってのも、判ってるか?」
正論が、エルの瞼の堰を打ち砕いた。涙が滝となって頬を伝い、大地に落ちる。
「泣くな」
ブライトは視線を逸らした。
「俺は女の涙に弱い。泣いてる女を見ると、無性に助けたくなる」
無精ひげの中の口元に、微笑みが見えた。
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