胎動の【皇帝(ジ・エンペラー)】
 ぬるい鉄サビの臭いと生暖かい腐肉の臭気が、大理石の床の上で淀んでいる。
 さながら、時間など思慮の外にあるかのような空間だった。
 精気のまるで感じられない影が、無数にたむろしている。
 それらは皆、一つの方向に顔を向けていた。
 玉座がある。
 その主がいる。
 影どもはざわついているが、玉座の主に言葉はない。ただ無言で、掌の上で一つの赤い珠を玩んでいる。
 遠目には人に見えた。
 中肉だが堂々とした体躯、きらびやかで品のある衣装、威厳ある険しい顔立ち。
 そして頭上に冠するのは……二本の鋭利な角。
 玉座の主は美しく切りそろえた頬髭をなでながら、彼にかしずく者達を睥睨していた。
 丸で動きの無かった空気が、ドアのきしむ音と同時にわずかな風となった。
 影どもの視線が乱れ、ざわめきが増した。
 玉座の主はゆっくりとまぶたを開き、闇の中に四角く切り取られた外界との接点をにらんだ。
 それも遠目には人に見えた。
 細身だががっしりとした体躯、古めかしいが上品な衣装、威厳ある柔和な顔立ち。
 そして頭上にはやはり……二本の鋭利な角。
 床を埋め尽くしていた無数の影どもが、この外から来た者のために道を開けた。
「珍しいことよな、【愚者(ザ・フール)】。卿がここに来るとはな」
 玉座の主の声が、荘厳に響いた。
「【皇帝(エンペラー)】陛下にお聞きしたいことがありましてね」
 外から来た者が静かに答えた。
 彼は玉座の前に片膝を付き、頭を下げた。
「よい。朕は弟である卿に、宮殿内で帯刀することと、朕に対して敬礼しないことを許可している」
 【皇帝】は笑顔を浮かべた。尖った犬歯が唇の端からのぞいた。
 顔を上げた【愚者】の口元からも、やはり牙が見える。
「して、弟よ。朕に訊ねたいこととは?」
「まず第一。何故、ユミルに手を出されました?」
 【皇帝】の笑顔が凍った。【愚者】は続ける。
「陛下は私に彼の地の女王を我が陣営に取り込め、と命ぜられた。それ故私は彼の地におもむき、その内情を密かに探っていた」
「確かに朕は卿にギネビア=ラ=ユミレーヌを籠絡せよと命じた」
「では何故、ユミルにオーガを2匹も使わされましたか?」
「弟よ、それはユミルに対する派兵ではない。ミッドに対する宣戦布告だ」
 ユミルは大陸の東端の地、ミッドは中央であり、二国は遠く離れている。
「御意が、はかりかねます」
「ミッドの使節がユミルに赴いたでな。そやつを抹殺したまでのことだ」
「高々うらなりの官僚一人のために、マジュスケェルを2匹も……ですか」
「アーム文字の研究者だったセイン=クミンの倅だ。我らの『秘密』を知っているやもしれぬ」
「用心深いことで」
 【愚者】は吐き捨てるように言い、口元を歪めた。
 【皇帝】の目が険しく光った。
「何が、可笑しい?」
「陛下が派遣した2匹のマジュスケェル・オーガ……。そのセイン=クミンの倅、レオン=クミンに屠られましたよ。至極、あっさりとね」
「何!」
 驚愕のざわめきが空間に満ち、【皇帝】は玉座から立ち上がった。
「当然アーム……【節制(テンペランス)】と【死神(ザ・デス)】は彼の物となりました」
「たわけたことを言うな! そのような、莫迦なことが……」
「私が陛下に対して偽証したことが、今までありましたか?」
 落ち着き払った【愚者】の声に、【皇帝】は納得せざるを得なかった。
「それで、陛下。第二の疑問にお答え願いましでしょうか」
 【皇帝】はこめかみの皮膚の下で血管を痙攣させながら玉座に座り直した。
「申せ」
「ミッドは、殲滅させるご予定ですか?」
「知れたことを」
「大公ジオ3世だけ屠れば充分だと思うのですがね……」
 言って、【愚者】は兄の眉間あたりをにらんだ。
「……陛下が欲しているのは、大公妃ヒルデガルドの身柄だけでしょうから」
「何が言いたい?」
 はっきりといらだちの聞き取れる声で、【皇帝】は下問する。
 その声音を合図に、【愚者】のために広げられた空間が、影達によって狭められた。
 【愚者】はニタリと笑い、
「陛下、あなたの配下のミヌゥスケェルどもに『その男にふれるな』と下命した方が良くはありませんか」
 言葉が終わる寸前のことだ。ミヌゥスケェル・オーガ……小さい喰人鬼……と呼ばれた無数の影が【愚者】に襲い掛かった。
 あるものは腕にかみつき、あるものは背にツメを立て、首根を絞めようとするものもあり、腹を引き裂こうとするものもある。
 だが、【愚者】の表情は変わらなかった。
 そして【皇帝】の口からも下命が発せられることはなかった。
「好きにして良い、と取りますよ」
【愚者】が言うと同時に、彼に襲い掛かった影たちが、苦痛の表情を浮かべた。
 そして、【愚者】が、
「うつろな魂の抜け殻どもよ。
 許されざる存在よ。
 消えろ、我が前より。
 消えろ、未来永劫に」
 と、詩を詠じるように言い終えたとき、影たちはその体から火柱を上げた。
 悶絶する間も絶叫する間もなかった。消し炭も灰の一片すらも残らなかった。【愚者】の言葉の通りに、彼らは消え失せたのだ。
 【愚者】に飛びかからなかった他のオーガどもは、驚愕と不安のまなざしを玉座に向けた。
 無言の問いかけに、【皇帝】はむしろ楽しげな口調で答えた。
「それが【愚者】の力だ。ふれたモノすべてが無に帰る。どだい、その力の差を見抜けぬようなモノは、我が旗下には不要。代わりはいくらでも作り出せるゆえ、な」
 【愚者】が鼻笑でそれに応じる。
「なるほど、私は体の良い在庫整理係でしたか」
「卿は実に頼りになる」
 ニマリと笑った【皇帝】であったが、
「ミッドにどれほどの兵を送ったかは存じませんが、それがすべて整理されないことを祈った方がよいでしょう」
 という【愚者】の言葉で、笑顔は消えた。
「何をたくらんでおる?」
 【愚者】の答えは簡潔だった。
「落ち穂拾いを」
「何と?」
「陛下が刈りこぼした命を、すべて拾わせていただきます。……できることなら、あなたが収穫した以上に」
「朕に逆らうと言うのか?」
 【皇帝】が大河のうねりにもにた低い声で問いただす。
「先ほども申しましたが、私は陛下に対して偽証したことがありませんよ」
 【愚者】は湖水の面のように穏やかな声で応えた。
「卿ほどの切れ者がそれが可能だと思っておるのか?」
 【愚者】は答えなかった。
 ただにこりと笑うと、そのままきびすを返し、【皇帝】に背を向けて歩き出した。
 来たときと同じように道が造られた。
 もっとも、来たときに道が開いたのは畏敬のためであり、去るときに道が開いたのは畏怖のためであるが。
 ……先ほど消滅した同類のさまを見て、彼の行く手を阻もうと思うモノはいなかった。
 それでも、
「陛下……よろしいのですか、あの者を放っておいても……?」
 と、おそるおそる聞く何者かがいた。
 【皇帝】は歯ぎしりした後、何故か笑みを浮かべた。
「アレを止めても無駄だ。おまえたちが見ているのは、虚像に過ぎぬ」
「虚像……? ではあれは幻に過ぎぬと? あれほどの力を発揮したのに?」
「実体は別のところに居よう。賢い弟のことだ、おそらくはすでにミッドへ向かっている」
 【皇帝】の笑みが、より一層楽しげなものに変わった。
「それもまた、好都合」
 ドアはまたきしみながら閉じた。
 空気は再び淀み、この空間は外界から切り離された。

メニュー