幻惑の【聖杯の3】
「今、なんて言った?」
 ブライト=ソードマンは両の目と顎とをぱっくりと開いた。土埃の舞う田舎道の端、ちょうど大人一人が腰を下ろすのに具合の良い大きさの石の上であった。
 その黄檗きはだ色の目玉には、傍らで立つエル・クレール=ノアールの青白い仏頂面が写り込んでいた。
「ですから、私は禅譲の儀を知らない、と」
 エル・クレールの返答に、ブライトは目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。
 皇帝がおのれの血族以外の者に位を譲ることを「禅譲」という。
 当時後嗣の無かったハーンのラストエンペラー・ジオ三世は、宰相であったヨルムンガンド=ギュネイに帝位を譲った。ヨルムンガンドは確かに貴族ではあったが、皇室と血縁はなく、従ってこの権力の移行はまさしく「禅譲」である。
「……てめぇの父親が演じた、一世一代の茶番劇だぜ?」
「茶番?」
 今度はエルが目を見開いた。
「重要な国家行事を、そんな言い方で……」
 ジオ三世の退位は四〇〇年続いた王朝が滅びることを意味し、ヨルムンガンドの即位は新たな国家が誕生すること……それも争いごと抜きで……を意味していた。
 禅譲の儀は、盛大な葬式兼誕生祝いの儀式であり、盛大華美に執り行われた。
「けっ」
 ブライトはつばを吐き出した。
「あんなモン、わざわざ『そのための神殿』まで新築してど派手にやる必要なんざなかったのさ。せいぜい民衆の前で互いに誓詞にサインするだけで済むことを、あんなもったいぶった金ぴかの宗教儀式にしやがって……」
 言いながら、ブライトはエルの顔色が極端に変わったことに気付いた。
 瞳に輝きが増し、頬に赤みが差している。
「あなたは……禅譲の儀をご覧になった?」
「あ?」
 ブライトは頭をかきながら、一瞬考え込んだ。

 人の背丈の三倍の高さはある石の祭壇は、花と作物と屠られた家畜とで飾り立てられていた。
 見上げると、抜けるような青空に無数の紙銭と花びらが舞っている。
 そして会場は怒号のような万歳の声で満ちていた。
 太陽光を凹面鏡で集めて灯した「聖なる炎」が、巨大なたいまつとなって燃えさかり、じりじりと壇上を照らす。
 たいまつの足下には金箔張りの玉座があり、喪服じみた黒い法衣をまとったジオ三世が座していた。
 やがて産着じみた白い法衣を着たヨルムンガンドが現れ、玉座の前で跪く。
 ジオ三世は赤い宝玉で飾られた笏杖をヨルムンガンドに渡すと、玉座からおりた。
 代わりにヨルムンガンドが玉座にどかりと腰を下ろし、ジオ三世の平伏拝礼を受けた。

 ……何故……俺はこの光景を知っている?……
 ブライトが「その時の自分」を思い出そうとした途端、後頭部がぎりぎりと痛みだした。
『余計なことばかり思い出して、肝心なところへくると……これだ』
 舌打ちしたブライトは、
「……どうやら、そうらしい」
 とだけ、低く答えた。
「うらやましい」
 エルはふわりと微笑みを浮かべ、ブライトをじっと見た。
 そのうっとりとした視線に、彼はたまらない面映ゆさを感じ、急に顔を背けた。
「後からうらやましがるンなら、最初からしっかり見とけ。お前さん仮にも皇族なんだから、特等席で見物できたろうに」
 かさぶたがぼろぼろと落ちるブライトの後頭部に向かって、エル・クレールはぽつりと言った。
「それは……無理です。私には無理なんです」
「だってお前、一九年前、いや二十年か……ともかく、そのころのお前さんは、田舎公女じゃなくて、歴とした皇帝陛下の第一皇女、つまり皇太子様クラウンプリンセスだったろう?」
 ブライトは眉間にしわを寄せ、禅譲式の光景を思い出した。
 帝位を部下に譲った元皇帝の傍らに、幼顔の女性がいた。
 今目の前にいる娘の男装をドレスに替え、下げ髪を結い上げれば、その女性の姿と重なる。
「それは、母です」
「は……母……親?」
「だいたい、私がその場にいられるはずが無いのです。……まだ生まれてさえいないのですから」
「……は? 生まれて……無いって……?」
「私は今、十三歳です。二十年前の儀式に立ち会うことなど、不可能です」
 冷静に考えれば、確かにそのとおりだった。
 大体、ジオ三世は「後嗣がない」から御位を部下に譲ったのだ。ジオ三世がミッド大公に移封されて以降にようやく授かった一粒種のクレール姫が儀式を目の当たりに出来るはずがない。
 それにしても。
「じゅう、さん、さい?」
 白髪にすら見えるプラチナの髪、彫りの深い目鼻立ち、引き締まった頬、薄いがつややかにぬれた唇、細い首、なだらかな肩の線、小振りで丸い臀部。
「この世の何処に、ンな艶っぽい十三歳がいるってんだ? いや、目の前にいるって答えは聞きたかねぇぞ。聞きたかねぇから訊いてやる。どんな滋養のある飯を食えば、十三でそんなカラダになれるってんだ?」
 まくし立てるブライトに、エル・クレールはただ困惑した顔を向けるしかなかった。
「これを」
 困惑顔のまま、彼女は小さな金貨を差し出した。
「滅多にないことですし、朝廷から許可が下りたのが不思議なくらいなのですが……つい数日前にミッドで発行された『大公の五十五歳の誕生日と第一公女の十三歳の誕生日を記念した』硬貨です。表がジオ三世の肖像、裏が後継ぎ娘の肖像になっています」
「てめぇの父親とてめぇ自身に対して、随分客観的な物言いをするな」
 呆れと感心を足して三で割ったような声で答えながら、ブライトはその金貨の両面を眺めた。表には初老の紳士の横顔が、裏には幼い少女の横顔が、髪の一筋までわかる精密さで刻まれていた。
 常識で考えれば、レリーフの幼女が目の前にいる娘の顔になるには、少なくても五,六年はかかりそうだ。
「私自身、なんでこんな姿になったのか、まるでわかりません」
 そう言ってエル・クレールは不安色を下目をブライトに向けた。ブライトは顔を上げず、金貨の幼女をじっと見つめている。
「此間、話したっけな。普通でない力を手に入れた人間の『変化』は、表情が変わるぐらいじゃ済まない、って」
「はい。ですが、それは」
「最初に『強くありたい』と願ったのが、おまえさん自身か、おまえさんに守って欲しいとすがり付いて死んだ臣民どもかは判らんが、ともかくおまえさんは訳の解らない敵と戦える体になることを望んだんだ」
「では私自身のせいだと?」
「『こっち』のせい、かも知れん」
 ようやっと顔を上げたブライトは、金貨を指先ではじくと同時に、エル・クレールの左脇腹下をするりとなで上げた。
「あっ」
 という悲鳴が、双方の口から漏れた。
「いきなり何をなさるんです!」
 真っ赤になったエル・クレールの顔を、ブライトはまるで見ていなかった。
 彼の視線は自身の手のひらにあった。そしてひとしきり、拳を握ったり開いたりした後でつぶやいた。
「親子して同じコト言いやがる」
「え?」
「おまえさんのそこンとこに収まってる【アーム】さ」
「ア……【アーム】? 父の魂が、何と?」
 エル・クレールは目を輝かせてブライトに詰め寄った。彼はその鼻先に、手のひらを突きつけた。指先がやけどのように赤く腫れ上がっている。
「触れるな、とさ。自分だけで娘を守りたいらしいな。まったく、過保護な親父だ」
「私にはそんな声は聞こえません」
「それが父親ってもんだろ? 特に娘には面と向かって会話することすらできやしないくせに、外に向かっては強がりを言う」
 エル・クレールの輝いていた瞳が、一気に赤く潤みだした。
「先ほどから聞いていると、あなたは私の父を侮辱したとしか思えないのですが?」
「そのつもりはない。少なくても今のところは、だがね」
 エル・クレールの目の前にあった男の掌が急に動き、その掌底が彼女の己の胸ぐらを激しく突いた。突然のことに受け流すことも逆らうこともできなかった彼女は、そのまま狭い道の真ん中あたりまで突き飛ばされ、背中から転んだ。
 あわてて起きあがった彼女の目に映ったのはブライト=ソードマンの姿ではなく、不可解な小動物の群れであった。

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