宵闇の中、倒壊した家屋敷を前に、庄屋と軍人は呆然と立ちつくしている。
 村の外から来た者達の内、足腰の立つ連中は、早々にその場を立ち去っていた。
 ……どうやら形を残していた高価そうな装飾品や美術品の類が、まるきりなくなってしまった理由が、その内の誰にあるのかは判らない。
 足腰の立たぬ者達は、いくつかに分散して村人の家に担ぎ込まれた。
 怪我をした者ばかりでなく、恐ろしい化け物の所行に正気を逸してしまった者も多数いた。
 エル・クレールはシィバ老人のラボの片隅でシーツにくるまって、一晩、全身を襲う痛みに耐えていた。
「覚えてない、なんて陳腐な台詞じゃ許さねぇぞ」
 夜が明けて、相当に日が高くなったころ、ようやく起き出したらしいブライトが怒鳴り声に近い声音で言った。
 言いながら、彼は自身の右腕の包帯を、忌々しくももどかしげにほどいている。
「俺ぁこの耳で、お前さんの口からけったいなお題目が飛び出したのを聞いたんだからな。どうあっても説明してもらわないことには、ここンところの痛みが消えねぇんだよ」
 包帯の中から現れた、割れたはずの爪や弾けたはずの皮膚がうっすらと痕をのこしつつもぴたりとふさがっている指先で、彼は己の後頭部を指さした。
 エル・クレールは口をつぐんでいた。上目でブライトを見る視線は、申し訳なさそうに潤んでいる。
 苛ついて、さらに何か言おうと彼が口を開くのと同時に、
「公都から、伝令が来たそうな」
 シィバ老人が薬湯の注がれたカップを二つ携えて入ってきた。
「タイミング良すぎるぜ」
 不機嫌に言うブライトに、老人は
「あたりまえじゃわいな。ちゃんと計っておるでな」
 にやりと笑ってみせる。一方、エル・クレールに対しては、
「思い出せなんだからと言って、気に病むことはないぞえ。人の心という奴は良くできて追ってな。思い出すと心が壊れてしまうような出来事は、無かったことにしてしまうようになっておる。そうやって忘れるからこそ、人は心を保ち続けられるのだろうよ」
 エル・クレールはやはり言葉を出せずにいたが、それでも安心した様子で小さくうなずいた。
 渡された薬湯を、鼻をつまんで飲み下したブライトは、眉間と鼻の頭にしわを寄せて、
「じいさん、公都から伝令が来たって?」
「おお、それじゃそれじゃ。厳密に言うと、隣の皇帝直轄地の代官からの伝令じゃがの。
『ムスペル火山が噴火して、ミッドは国土の七割が火山礫の下に埋まり、臣民の八割と大公ご一家の命は絶望的。よってこの地区は今後代官所の管轄に入る』
 だそうな。……魔物が出ただの、死人が歩き回っただの、それを退治して回った若造がいただの、お姫様がただ一人助かって逃げ出しただのは、ナイショの話か、本当に誰も知らぬか……」
「どっちでもかまわねぇさ」
 ブライトはカップを放った。それが床に落ちる前に、件の手袋の集団が受け止めるだろうことが判っていた。
「そうよな。どちらにせよ、エル坊は……いや、坊や扱いしては畏れおおいわいな……クレール姫さまはもはや死んだ者の扱い。ミッドの土地にも、ハーンのご家名にも縛られぬ存在ということじゃ」
 老人の言葉を、エル・クレールは身を固くして聞いている。
 彼女は実のところ、まるきり何も覚えていないという訳ではなかった。
 奇妙な感覚だけは覚えていたのだ。
 なま暖かい皮膚の感触。辺りはほの明るい。何故だか心の安まる空間だった。
 そして、遠くから声が聞こえた。
 歩くことはできず、漂うように泳いで、彼女はその声の元へ向かった。
 声は赤子の泣き声そのものだ。だが泣いているモノは、人の形をしていなかった。
 幾つももの赤くかすかな光。燃えつきる寸前の揺らめく灯明のように、危うい輝き……それが産声とも断末魔とも付かぬ声で泣いている。
 手を差し伸べると、その泣き声がかすれた大人の声に変じた。
『もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もう一度……』
 幾人もの声が、バラバラに、しかし同じ言葉を繰り返している。
 彼女はその声の主を「哀れだ」と感じた。
 まるで許しを請う罪人の様だと。
 そんないくつもの光が、一斉に彼女が差し伸べた手に近づいた。
 熱はない。逆に冷たさえ感じる。
 冷たい光はエル・クレールの掌をすり抜け、胸元に揺れ浮かび、やがて腹の辺りに集結した。そうして、一塊りになって彼女の胎に入り込んだ。
 彼女はその苦痛に幸福感を覚えた。同時に底知れぬ不安をも感じた。
 動悸がし、全身が重くなった。
「……つまり、お主らは死人と同じ事よ」
 老人の声で、エル・クレールは我に返った。
 目を見開いて驚愕している彼女に、老人はあわてて、
「書類の上では、という意味じゃて」
 と付け足した。
 エル・クレールはうつむいて、弱々しくうなずいた。
 ブライトは不機嫌そうに頭を掻き、シィバ老人は気まずそうに杖を玩び、エル・クレールはつらそうに息をついた。
 誰も、何も言わない。
 しかし、その重い雰囲気はあまり長く続かなかった。
 手袋ホムンクルスもどきが一匹、彼ら専用の小さなドアをくぐって駆け込んできたのだ。
 彼(と呼んで良いのか判らないが)は主の足元で飛び跳ね、親指を大きく振っている。
「客が来たか?」
 老人は面倒臭そうに部屋を出て行ったが、すぐに戻ってきた。
 彼の後ろには、小太りの若い男と、痩せた若い女が立っていた。
 結婚式を訳のわからない化け物に台無しにされた、カリストとハンナである。二人とも、体中に包帯を巻き付けていた。
「父が……その、何というか……。有り体に言えば、呆けてしまいまして。僕が名代で、来ました」
 父親の横暴な口ぶりとは似てもにつかないおっとりと優しい口調で、カリストが切り出した。
「父が、軍の最上層から、どのような役目を、言い渡されていたのか、僕は、よくしりませんでした。正直に言えば、今もさっぱり判りません。おおよそ、優秀で有益な人物を、捜しているのだろう程度のことは、なんとなく判っていましたけれど。でもそれが、どのような『優秀な者』であるかまでは……。今父に訊いても、まるで判らないでしょうから……」
 彼は自分の考えていることを的確に言い表すための言葉を、彼なりに一生懸命選んでいるらしい。
 ただし、その口ぶりは慎重とと言うよりは愚鈍であった。結局何を言いたいのか伝わってこない。
 彼らが来る以前から苛ついていたブライトが、
「それで?」
 と脅しさながらに続きを促す。 
 カリストは元々下がりきっていた眉毛をさらに下げ、元々脂ぎっていた額に脂汗を滲ませた。
「つまり、父の判断は仰げないので、僕の判断で行いたいのです。なぜなら、先ほど僕はこの村を、暫定的に統治する役目を仰せつかったので。ですからこれを、僕の権限で、渡しても良いと思うのです」
 しどろもどろ、おどおど、もたもたと、彼はなにやら袋を取り出した。そしてそれをエル・クレールの目の前に差し出す。
「中に、たくさん、色々な物が入っているのですけれど、どれが何を意味しているのか、僕にはさっぱり判りません。
 でも、双頭の龍が太陽と月を従えている紋章の入ったタリスマンは、皇帝陛下の直属の部下である証だと、言うのは判ります。
 多分、父が探し出した優秀な人材は、これを差し上げても良いという事だと思うので」
 エル・クレールは袋を受け取り、その中を覗き込んだ。
 袋には、貴金属の鎖や指輪、宝石のルースや原石といった高価な代物が、その高価さとは裏腹の雑然さで詰め込まれている。
 カリストの言う「帝室の紋章が入ったお守り」らしい金属片も、敬意を払われる様子の微塵もない扱いを受けて、袋の底に納められていた。
 エル・クレールの横からやはり袋を覗き込んだブライトは、視線を落としたまま顔も上げず、
「じいさん」
 シィバ老人を手招きした。
 老人はその場から一歩も動かなかった。
 それも予測済だったらしいブライトは、老人の方を向き帰りもせずに、革袋に手を突っ込んだ。
 慌てて、エル・クレールは袋を持つ手に力を入れる。もぞもぞと中を探っていたブライトは、やがて、
「そこの花婿のオヤジが、関所フリーパスの鑑札をくれるってほざいてたってな?」
 小さな銀盤を引きずりだした。
 老人は顔だけを彼を呼んだ者の方へ向け、
「……のようじゃな」
 興味なさげに答えた。
 ブライトは銀の板に一瞥をくれると、すぐにそれをエル・クレールに押しつける。そして、頭の後をさするようにかきつつ、目玉だけをぎょろりとカリストに向けた。
「同じ様なのが幾つも入ぇってるぜ、若様。全部ここで渡しちまっちゃぁ、さすがに不味いんじゃないのかい?」
「僕は、そちらが適任だとは確信しましたけれど、それ以外に、誰か相応しい人物がいるかどうかまでは、きっと解らないと思います。もし余って仕方がないと言うなら、そちらで良いと思う人材に出会った時に、適当に渡してあげてください」
 思いもかけない言葉だった。
 件の守り札は、仮にも皇帝の直臣を示す身分証なのだ。それを「余る」だの「適当に」たどのいう言葉であしらうとは。
 それも、帝室嫌いのブライトがいうならまだしも、「一応国家の重臣」であった人物の息子が、である。
 おっとりとした若様以外の人間は、一様に驚き、しばらく声も出せずにいた。

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