始め、不可解な化け物の赤く濁った目玉は、えぐれた大地に押し込まれたボロ雑巾二枚をねめつけていた。
 仰向けに倒れるブライトの胸の上に、エル・クレールの小さな身体が乗っかっている。
 二人の手には、掴んでいたはずの赤く光る武器はなかった。
 ブライトの【恋人達】は、再び主の掌の中に戻っていた。
 そして、エル・クレールの頼みとする【正義】は、彼女の手を離れ、丸い宝玉の形をなして、土埃の中に埋没していた。
 二人は、しばらく経ってもぴくりとも動かなかった。化け物はやがて、胴にめり込んだ首を捻り回した。
 二番目にそれが目を向けたのは、星の瞬く空だった。
「いのち……てにいれた。おれはいきている。いきているぞーぉ!」
 牙の生えた口を顎が外れるほどに大きく開き、それは咆吼した。
 生臭い呼気が激しい振動を生み、大地もその上に立つ物も、何もかも全てがビリビリと揺れた。
 窓枠に残っていたガラスが、全て砕け飛び散った。破片は建物が傾いたときに割れたそれよりも細かく、鋭利だった。その尖った切っ先は、叩き付ける雨の勢いで人々を襲い、皮膚に食い込み、肉を切り裂いた。
 人々は悲鳴を上げ、逃げまどった。
 男は女を突き飛ばし、若者は父母を踏みつけにし、親は子を投げ捨てて、各々が安全だと思い込んだ方角に向かって、バラバラに走り回っている。
 化け物の目がギョトリと動き、三度目に止まったのは、パニックを起こしている人々の醜態の上、だった。
「おまえたち、いきて、いるな? いのち、もっているな?」
 化け物は、弛んだ肉襞の下の裂けた口から粘りけの強いよだれを垂れ流し、ゆっくりと大股で、人々に近づいた。
「いのちをよこせ、もっとたくさんのいのちをよこせ。たくさん、たくさん、つなぎあわせて、おおきないのちするから。おれのからだにあったおおきさになるまで、つなぎつづけるから」
 化け物は間違いなくそう言った。
 そうして、巨大な掌を突き出し、人間を鷲掴みにした。
 最初に掴まれたのは、ガラスで切った首から血を吹き出している男の頭蓋であった。
 化け物は男のダラリと落ちた手足を見、
「おまえ、いのち、もう、ない」
 そのまま頭骨を握りつぶした。
 指の間から、すり下ろした人参の色をした血肉が吹き出した。
 次に捕まれたのは、腰を抜かした老婦人の胴だった。
 婦人は必死に足掻いた。化け物の手を引きはがそうと腕に力を込めた。
 それははまったくの徒労だった。
「おまえの、いのち、よわい」
 化け物は残念そうに言うと、胴を握りつぶした。
 老女の体は、パン種が引きちぎられたように、二つに分かれて落ちた。
 その次は中年の農夫の腰が掴まれた。
 激しく手足を振り回し抵抗する農夫を見、
「おまえ、いのち、つよい。うまそう」
 化け物はバックリと口を開けた。
 その大穴は、ちょうど子供の頭が入るほどの大きさだった。
 農夫はいっそう手足を大きく振り、あるいは化け物の腕を殴りつけ、顔を蹴り飛ばし、どうにかその場から逃れようとした。
 生皮を裂く音がした。その音は、化け物の口から発せられている。
 口角が裂けた。裂けた唇と頬肉は、化け物の牙を覆うことを止めた。下顎が顎が大きく下がり、上顎が大きく上がった。
 穴は、大人一人ゆっくり落ち込めるほどの大きさに広がった。そして本当にその穴に農夫は落ちていった。
 咀嚼とか、嚥下とか、おおよそ生き物が食事を摂るのに行われる動作は、まったくなかった。
 下顎が持ち上がり、上顎がずり下がり、再び化け物の口は、上を向いた鼻と垂れ下がった頬肉の間に埋没した。
「いのち、まだたりない。もっと、たくさん、ほしい」
 化け物の赤い目が、濁った光を放った。
 それは、逃げられぬ人々のまだ暖かみのある肉体を踏みつぶしながら、逃げまどう人々を追い、掴まえ、巨大な口の中に放り込む。
「おまえ、いのち、よこせ。おまえ、いのちいらない」
 化け物は収穫物を選別し続けた。食べるに値する物は飲み込み、値しない物は握りつぶす……それを繰り返していた。
 やがて化け物は、崩れた建物の影に、命を見つけた。
 それは二つ、最初は寄り添っていた。
 化け物が、その二つの命を覆い隠していた壁材の残骸を取りのけたとき、その内の一つが飛び出してきた。
 いや、正確に言うと、突き飛ばされたのだ……もう一方の命の持ち主に。
 その命の持ち主は、丸い体を鞠のように転ばせた。そして鞠のように化け物の脚に当たり、鞠のように跳ね返って、結局元の残骸の辺りで止まった。
 脂汗の浮いたバラ色の頬、紫に変色したサクランボの唇、埃を被った金の巻き毛の、ぷっくりと太った若者は全身を震わせた。
 おそるおそる顔を上げる。
 目の前では土埃で汚れた花嫁衣装を着た田舎娘が、溶けたアイラインで目の回りを真っ黒に染めていた。
 白塗りの頬がげっそりと痩けたさまとあいまって、まるきり目玉のはまった髑髏のような面体だった。
「ハンナ、なんて事を」
 カリストが力無く言う。ハンナは震えながら、しかし力を振り絞って、再度夫を突き飛ばした。
「うあ!」
 その悲鳴を残し、ハンナはその場から逃げ出した。
 膨らんだペチコートが脚にまとわりつき、ハイヒールが爪先を締め付ける。
 十歩も進めず、彼女は剥がれた床板の間に倒れ込んだ。
 鼻孔の奥を震わせる不快な呼吸音がした。
 振り返り、仰ぎ見る。
 豚の頭と人の手足を持つ小山のような化け物が、礼服を着た小太りの若者の襟首を掴み、立っていた。
 ハンナに悲鳴を上げる自由はなかった。
 大きく開いた口は、化け物の手でふさがれた。血やリンパ液や消化液や、あるいは種類の知れない液体や半液体、臓物らしい肉片と、髪の毛の生えた皮膚らしい物とにまみれた、巨大な手である。
 口をふさぎ、顎を掴んだその手が上へと持ち上げられて行くに連れ、ハンナの体も上へと吊り上げられた。
 化け物が大きく口を開ける。大きい肉の穴蔵の底には、潰れたり溶けたり砕けたりした人間の体がいくつも重なっていた。
 そしてそれは動いていた。
 動いて、手招きをしている。
『おいで、おいで。一つになろう。さあ我々と一緒に手を繋いで……』
 耳で聞いているのか、脳に直接響いているのか知れぬ「声」が、化け物に吊り上げられた新婚夫婦を、仲間に引き込もうと呼びかける。
「嫌だ! 嫌だ! 放せ、下ろせ! チクショウ、チクショウ」
 カリストは手足を振り回してわめいた。
 その足先が、化け物の喉の柔らかいところに当たった。
 すると、化け物は
「げぇ」
 カエルのように一声上げ、吊り上げていた二人を投げ出した。
 カリストはしたたか腰を打った。
 ハンナは、どこも打ち付けなかった。
 彼女はすっと立ち上がると、悶絶している新郎を指さした。そして再び自分たちを捕らえようとしている化け物に向かって、叫んだ。
「あたしなんかより、このデブを食べなさいよ! この人を丸飲みにすれば、いくら底なしでもお腹が膨れるでしょう?! そしたら満足して、あたしのことは逃がして頂戴!」
 が。
 大きく裂けた口の向こう側に、わずかに見える化け物の目玉は、むしろ彼女を見ていた。
「おまえ、とがった、いのち。ささりそうな、いたい、いのち」
 化け物は目を光らせた。トリュフを見つけた豚のような目であった。
「おまえ、いのち、よこせ」
「イヤァ!」
 ハンナは大穴の中に放り込まれた。だが、なんとか化け物の唇にしがみついた。
 化け物は何故か彼女に噛み付いたりはしなかった。丸飲みにしないと命を我が物にはできないと思っているのかも知れない。
 行儀悪く麺をすするように、化け物はハンナの体を飲み込もうとした。
 ハンナは足先の亡者達を蹴飛ばしながら、必死で穴から抜け出そうとした。
「助けて、誰か! だれかあたしを助けて!」
 思い切り、手を伸ばした。その手を、誰かが掴んだ。
 その腕は、流行遅れだが仕立ての良い略礼服を着ていた。細身で、華奢だった。白髪のような長いプラチナブロンドが見えた。
 その顔を伏せて立っている若者をハンナは見覚えていた。確か、披露宴の会場に一番最後に入ってきた客だ。
「助けて!」
 ハンナは若者の腕にしがみついた。
 若者は口元に笑みを浮かべ、ゆっくりと頭を上げた。
 整った顔立ちに赤く透き通った瞳が輝いていた。

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