間道の【塔】タワー


 深い森の獣道である。行き来するのは地元の猟師か、通行手形のない無頼者ばかりだ。
 その、木漏れ日の届かない深遠で、うごめくいくつもの影を見たとたん、エル・クレール=ノアールは脱兎の勢いで駆けていた。
 女の悲鳴がする。哀願と拒絶と、そして断末魔の叫びだった。
 食い物と酒と女に餓えた無頼どもである。
 6人がかりで1人の農婦を襲った。
 おそらく、猟に出た夫のためにでも用意したのだろう。1つのパンと1本の葡萄酒を携えた初々しい若妻は、連中の欲をかき立てたが、満たすには不充分だった。
「莫迦、待てっ!」
 ブライトの声は、逆上しているエルの耳に入らない。
 しかし。
 間伐されていない茂みと、朽ち木の根に足を取られ、ようやくたどり着いたときには、もはや手遅れだった。
 日に焼けた浅黒い肌の、痩せた婦人だった。肌を覆う物はすべて引き裂かれていた。
 古ぼけた手提げ籠は腐葉土の上に転がり、ライ麦パンのくずをまき散らしいている。
 素焼きの酒瓶は、空っぽになってから、岩場に叩き付けられ、割られた。
 男どもは、全員が半裸である。下半身をだらしなく晒していた。
「下司どもがっ!」
 雄叫びをあげながら、エルは腰の剣を抜いた。
 一瞬、無頼どもは身構えたが、直後にはせせら笑っていた。
 『優男』が抜き払ったサーベルが、樫でできているのが見えた。
「間抜けめぇ」
 6人の内、誰かが言った。言い終わる前に、全員がその辺りに投げ放り投げて置いた剣を拾い、槍を構えた。
「はぁぁぁっ!」
 雄叫びをあげながら、身を低くし、エルは駆けた。
 長剣を持ったひょろ長い男が上段に構えた。小柄な剣士は、振り下ろされる剣の軌跡の内に入り込み、樫の剣を振った。
 胴をなぎ払われたそいつは、目を剥いたまま仰向けに倒れた。それきり、ぴくりともしない。
「野郎!」
 別の男が、エルの背後から槍を突き出した。
 刃こぼれした槍先は、華奢な背中を突き刺せなかった。そのかわり、太い木の幹に突き刺さっていた。
 エルは、右に体をかわしていた。
 めり込んだ切っ先抜くのに手間取っている間に、その男は、柄を掴んでいた両腕を激しく打たれた。
 肘と手首とのちょうど中間の骨が、両腕とも折れた。
「ぎゃっ!」
 短く鳴くと、男はそのまま失神した。
 左手から、細身のさび付いた刃が突き出た。
 エルはからくり時計の人形のようにくるりと身を転じ、勢い余ってつっこんできたそやつの後頭部を、飾られたサーベルのグリップで殴りつけた。
 そのまま前のめりに地面に叩き付けられた者は、痙攣(けいれん)しながら、口から汚れた泡を吹き出した。
「畜生め!」
 太った男が、肩からタックルを仕掛けた。
 予想外の攻撃だった。
 エルは避けきれず、吹き飛ばされて、大木の根本に倒れ込んだ。
 硬い樹だ。その上、張り出した根に、瘤があった。
 エルの銀色の髪に包まれた頭は、その瘤の上に落ちた。
 気が遠くなる。霞む目に、先ほどの太った男の顔が映った。
 瞳に、怒りと悲壮も恐怖が燃えていた。
「ちきしょう! よくも兄貴をぉ!」
 太った男は、エルの細い体に馬乗りになり、巨大な拳をとがった顎に振り下ろした。
 顎に痛みは感じなかった。むしろ、頸椎と頭蓋の接合点辺りに、激しい痛みを覚える。
 それが、太った男には気にくわないらしい。
 襟を掴むと、激しく揺する。
 ボタンがはじけ、生地が裂けた。
 胸がはだけた。薄絹の帯布で締め付けてられた乳房の谷間が、太った男の目に飛び込んだ。
 男の、目の色が変わった。怒りも、悲壮も、恐怖もない。
 鼻の穴を大きくふくらませ、唇を引きつらせながら、眼に異様な光を湛え、男は、エルの胸を覆い隠している絹に手をかけた。
 途端。
 太った男の鼻柱を、黒い影が殴りつけた。
 ……正確には、蹴り上げた、であった。
 焼けるような痛みと、獣の糞の臭いが、強烈に鼻を突く。
 同時に、暖かい液体が、鼻の穴から噴き出た。
 しかも男の巨躯は、エルの体の上から軽々とはじき飛ばされていた。
 別の木の根本で尻餅を突いた太った男の顔面を、再びあの痛みと臭いが襲った。
 黒い影は、古びたブーツであった。
 山犬か狼の柔らかい糞がたっぷりとまぶされた上に、赤黒い血糊が付いている。
「ふざけてやがって」
 低い声が、そのブーツの上方から聞こえる。
 太った男は、鮮血を吹き出す鼻を押さえながら、見上げた。
 背の高い、中年の男が立っていた。
 鬼神の形相で彼をにらみつけている。
 太った男は、あわてて辺りを見回した。まだ2人、仲間がいるはずだ。
 仲間は、確かにいた。
 1人は尻を高く持ち上げ、股間を両手で押さえたまま、地面とキスをしている。
 1人は大木を背に立ちつくし、頬に靴底型の烙印を押されて、前歯と奥歯の混じった血の固まりをおう吐している。
「よくも、俺のクレールを……」
 中年男……ブライト・ソードマンは、わざわざ犬の糞を踏みつけたそのブーツで、太った男を三度蹴り倒した。
 本気ではない。前2回のような鋭さがない。ただ、この下司野郎をひざまずかせるための蹴りだ。
「ひぃ!」
 震えがきた。太った男は這いつくばって逃げようとした。
 しかし、動けない。背中を、ブライトの汚れたブーツが踏みつけている。
「よくも俺のクレールのかわいいおっぱいを見やがったなぁ」
 ブライトは太った男を踏みつける足に力を入れた。四つん這いの手足が一度に崩れ、男はうつぶせになった。
 そのまま首を回し、ブライトを見上げた。
「俺サマだって、まだちゃんと拝んだことがないんだぞぉぉ!」
 ブライトは、本気で慟哭していた。

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