いにしえの【世界】 2

 言い放つと同時に、クレールはその赤い剣を振るった。刃は空気を斬るような軽さで、動く死体を切り裂く。
 赤い光りの筋が通り抜けた跡には、動かない死骸が横たわっていた。
 クレールは肩を揺らして息を吐き、視線を周囲に巡らせる。
 眼差しは、何もない、誰もいない大広間の、ある一点で止まった。
 東の壁際。一段高い床の上。シンプルで威厳のある一脚の椅子。
 そこに一人の男が掛けていた。
 いや、それを「男」と呼んでよいものだろうか。
 こめかみの当たりから二本の角が生じ、房のある長い尾をかぎ爪のある指で弄び、淀んだ赤い視線をこちらに投げ、尖った牙を口角から覗かせて笑うものを、例えそれ以外は人と変らぬ姿をしているからとて、「男」と呼べるだろうか。
 クレールは「それ」をにらみ付けた。すると「それ」が
「そう怖い顔をするものではないよ」
 妙に澄んだ声で言う。
 優しげな若い男のといった声音は、逆にかんに触る。
 クレールは赤い剣を握りしめると、ゆっくりと「それ」に近づいた。
「退きなさい。そこは我が父の座。獣が座るなど以ての外!」
「獣か」
 蔑みとも自嘲とも取れる鼻笑いに、クレールの憤慨は益々強まる。
「本当に、嫌な夢」
 吐き捨てるように言う彼女に、「それ」は満面の笑みを向けた。
「これは夢かね?」
「夢以外の何であろうや」
 クレールは剣を振り上げた。
 しかし「それ」は眉一つ動かさなかった。そして重ねて訊ねる。
「何故そう言い切る?」
 意表をつかれた。クレールの身体は剣を振りかざした形で停止した。
「クレール、君はコレを夢と断ずることができるかね? 
跡形もなく倒壊したはずの『我が家』を、その中で動き回る死体を、目の前にいる見知らぬ者を、それと会話する自分自身を、君は夢と言い切ることができるのかね?」
 柔らかな綿で胸元を押さえつけられる感触がした。息はできるが、苦しい。
「コレは夢だ。夢でなければ、私が私として……お前達『鬼共』グールやオーガを屠る者『エル・クレール』として、最早存在しないこの場所に立っている筈がない」
 絞り出された返答に、質問者は満足そうな笑顔を返す。
「模範解答だ。まったくお前の頭蓋の中には、美しい脳味噌が詰まっているに違いない」
 口ぶりは、まるきり優秀な生徒を褒める教師の様だ。弟子達に真理を説く哲学者か僧侶のごとく、「それ」の赤く濁った目が笑う。
「だがね、賢いクレール……。夢を見ている君は現実であろうよ。すなわち、こうしてここで我と問答している君は現実する。そしてそのことを、君のココは理解している」
 黒光りのする尖ったかぎ爪がクレールの眉間を指した。
「同時に、君は恐れている。ここにある己を認めれば、目の前に見えるものの存在も認めなければならないかと」
 尖った爪の先が、彼女の眉間から離れた。切っ先は彼女の顔の上、皮膚のすれすれを浮遊し、ゆっくりと下降する。
「さらに、君は望んでいる。 夢幻ゆめまぼろしの中の『鬼』が存在することを認めれば、存在しないものに抱いていた恐怖から逃れられるやもしれぬ。 『逃れられぬものよりは斬って捨てられるものの方が良い』と。 故に君の方寸こころは、我が現実のものであることを望んでいる」
 指先がクレールの胸、丁度心臓の上で止まった。
「賢いクレール、君は我を望んでいるのだよ。君自身の理性が人でないと蔑むものを、君自身の心は存在して欲しいと願って見つめている」
 反論ができない。奥歯がギリギリと鳴った。
「我が君を欲して君の元に現れたように、君も我が君の元に現れることを欲している。我々は、相思相愛だ」
 ニタリ、と「それ」は笑んだ。
 クレールの不快感は頂点に達した。
 しかし彼女の身体は、頭の先からつま先まで何かに覆われてでもいるかのようで、思うとおりに動かすことができない。
 クレールは歯噛みした。
「腕を振り下ろすことができれば、私の【正義ラ・ジュスティス】でコレを斬ることができるのに」
 押さえつける何かを、彼女は渾身の力を持ってはね除けた。
 すると意外なほどあっさりと、体を覆う不快感が一息に晴れたのだ。

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