いにしえの【世界】 6

 驚きに持ち上がったエルの顔の前で、彼は指を二本立ててみせる。
「第一に、領民が喜ぶ。第二に、帝都に偽報を流せる」
「どういう意味でしょう?」
「言論と芸術は締め付けすぎると暴発する。ある程度は大目に見ておけば、とりあえず領民が王様に不満を言うことはない。これが一つ目。
 適度に『取り締まらない』ことによって、対外的には『領内を統治し切れていない暗愚な殿様』を装える。こいつが二つ目だ」
「しかし、暗愚が過ぎれば、それは取りつぶしの格好の材料になりはませんか?」
 当然の疑問に対し、ブライトは少々見下すような笑みを浮かべた。
「その時結局はその興行、取りやめになりゃしなかったか? 親父さんの家臣の中でも頭の切れるヤツが、座頭に掛け合うか何かしただろう」
 小馬鹿にされていることに気付いたエルだったが、それに対する抗議はできなかった。
 記憶をたぐれば、確かに一座は芝居の演目を変えていたのだから。
「祐筆のレオンが父に何か進言したようです。詳しくは覚えていませんけれど」
「そうやって『殿様が抜けてても回りに優秀なのがいてもり立てていますから、下手に手出しをしない方が良策ですよ』ってアピールをした訳だ。計算ずくでな」
 ジオ三世に対して向けられているであろうブライトの笑みに、下卑た軽蔑は微塵もなかった。
 エル・クレールの顔は得心と安堵と、少しばかりの誇らしさに満ちた。
 が。
「ところでお前さん、何を唐突に『作り話のお定まり』の疑問を蒸し返したりしたんだ?」
 今度はブライト=ソードマンの顔の上に疑問の色が広がっていた。
 エルは童女のように微笑んだ。
「この祭りにも地回りの劇団が来ていて、時代物を上演すると聞いた物ですから」
 祭りの雰囲気は、通りすがりに過ぎない彼女の心をも浮つかせているらしい。
 ブライトは酷く驚いて、
「おいおい、まさか芝居見物がしたいなんて言うんじゃなかろうな? 普段ならお前さんの方が木戸銭を惜しがるんじゃないかね」
 エルは彼の的を射た嫌みに苦笑いしながら店の片隅を指さした。
 薄汚れた手書きのポスターが一枚、申し訳なさそうに壁に貼られていた。
 それは貼らない方がましかも知れないほど、何とも哀れな様相を呈している。
 なにしろ絵柄も画力もお世辞にも上手とは言えない。色遣いやデザインのセンスにも首を傾げたくなる。
 それを長い間大事に使い回しているのであろう。四隅と言わず鋲や釘の痕があり、その穴から裂け目が縦横に走ってい、それを裏紙で補修しているのが遠目にも判る。
「偶然ではあると思いますが、なんとも戯作者の名前が気になりまして……。何分、あれとよく似た名前の叔父がおりますので」
 ブライトは眉間にしわを寄せ、ゆがんだカリグラフをめねつけた。
『戦女神クラリス 作:フレキ=ゲー』
「目の良いことだ」
 彼は野犬のうなりのような声でつぶやき、後頭部を激しく掻きむしった。
 エルはその様子を、ある種の期待を持って見つめていた。

 エル・クレール=ノアール……というか、クレール=ハーン姫……が「叔父」と呼べる血縁は、父方にはいない。
 彼女の「叔父」に当るのは彼女の母方の縁者だけであり、それはつまりギュネイ帝室に繋がる人物と言うことになる。
「フレキ=ゲー」もやはり母方の縁者だった。
 本名をヨルムンガンド・フレキ=ギュネイという。
 ギュネイ初代皇帝ヨルムンガンド=ギュネイとその皇后との間に生まれ父親からファーストネームを受け継いだ彼は、それにもかかわらず帝位を継げなかった。
 父に、もう一人息子がいたためである。
 彼よりも僅かばかり早く生まれ、長子の権利を得たそのもう一人こそが、今上皇帝・フェンリルである。
 そのことを理由にしてか、あるいはもっと別の思うところがあるのか、ヨルムンガンド・フレキは自身を示すのにファーストネームを使わない。
 そればかりか姓までも名乗ることを憚る。
 どうしても姓名を名乗り、あるいは記名せねばならない場合は、ミドルネームと苗字の頭文字だけを用いるのだ。
 すなわち「フレキ=ゲー」と。

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