いにしえの【世界】 10
 ブライトは肯定の返事の代りに、大仰な伸びをした。椅子から仰向けに倒れ落ちそうなほど大袈裟に背筋をそらしている。
 おかげで彼の目玉は彼の背後の様子をしっかりと見ることができた。
「あのチビ野郎の口車で、あの連中も言いくるめられれば良いがね」
 身体を戻しつつ言う彼の肩越しに、エルはその背後を見た。店の入り口に場違いに立派な身形の男達が数人立っている。
 先頭は細身で洒落者の四十男だ。大きな羽根飾りを付けた帽子をかぶり、金糸で縁を縫い取った赤い外套を羽織っている。
 帽子の下の顔は青白く、薄い唇は妙に赤い。眼窩は黒く沈んだ色に染まっており、頬にも顎にも髭はない。
 その半歩後ろに肩幅の広い若者がいる。
 ぴったりとしたタイツに丈の短いジャケットを合わせ、宝石で柄と鞘を飾った長剣をぶら下げている。
 赤ら顔は少年のように幼い。それを気にしているのだろう。少しでも男ぶりを上げようと、頬から顎にかけて髭を生やしている。
 もっとも、その髭は産毛のように柔らかで、長さも生え方も不揃いなものだから、逆に子供の背伸びのように見えている。
 彼らの左右と背後には、折り目正しい服を着た従者達が5人ほど、背筋を伸ばして経っている。
 貴族であることは明白だ。
 それも暇をもてあました田舎の貧乏貴族ではない。中央か、あるいは地方であっても、かなり重要な役職に就いている実力者であろう。
 そうでなければ殿軍の従者が皇帝の紋を縫い取った「錦の御旗」を掲げて歩くことなどできはしない。
 身動きできないほど混雑していた店内に、ざわつきを伴った一筋の道ができあがった。終点は言うまでも無くポスターの貼られた壁際である。
 騒ぎ、暴れていた二人の農夫は、人々が発するただならぬ空気に怯え、這うようにしてその場を離れた。
 残された小柄な男は、むしろ胸を張り、予期しなかったであろう訪問者に笑みを投げかけている。
 客たちの視線は立派な貴族と小柄な男の間を泳いでいる。
 エルの瞳もまたその二組の間を往復したが、最終的には彼女の連れの顔の上で止まった。
 彼の顔には、落とし穴を掘り終えた悪童の笑みが浮かんでいる。
「頭痛はしないのですか?」
 ギュネイの紋章を目の当たりにして……と、呆れ声で訊ねる彼女に、ブライトは
「するさ。反吐が出そうだ」
 笑んだまま答える。
「また何ぞ企んでいらっしゃるのですね」
「人聞きの悪いことを言うな、何も考えちゃいねぇよ。今ンところは、な」
 尖った犬歯の先が唇の端に顔を出した。底意地の悪い笑顔のまま、彼は例の小柄な男の側に眼をやった。
「あの小賢しそうな小僧が『お貴族様』をどうあしらうか『拝見』してからでも遅かねぇだろうよ」
「お気の毒だこと」
 エルは貴族達のほうを見てつぶやいた。
 あの小男はおそらく田舎劇団の宣伝や交渉事の担当だろう。
『ブライトの言うように、長い間フレキ叔父の名を騙って興行を続けて来たとするなら、嘘がばれぬように策を巡らせることができる要領の良い者が団員の中にいるはず』
 ふと、脳裏に父の祐筆の顔が浮かんだ。
 レオン=クミンは父の学友の子であり、幼いクレール姫にとっては兄のような存在だった。
 普段は寡黙だが、必要な時には例え相手が己より遙かに年上であっても反意の嘴を夾むことを許さぬほどに雄弁になる。
 痩せて背の高い彼は、額の広い落ち着いた顔立ちからか、実の年齢よりも十、下手をすると二十も年上に見られることがあった。
 物静かで、知恵が回り、筆が立つ彼は、忠実な仕事ぶりが主君に愛され、重用されていた。
 エルは件の小柄な男の顔をちらりと見、その隣に、レオンの生真面目な顔を思い浮かべた。
 男は人当たりの良さそうな笑みを満面に浮かべ、手揉みしながら貴族達を待ちかまえている。
 男の脂ぎった作り笑顔と、懐かしい生真面目な顔つきとに、重なり合うところは一点もない。
 視線をさらに動かすと、ブライトの顔が見えた。日に焼けた無精髭の中に「一触即発に巻き込まれたくないと願う匹夫のような不安げな表情」を作っている。
『やっぱり良くないことを考えている』

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