いにしえの【世界】 100
 何が起きたのか理解できなかった。何かの見間違いか、あるいは幻覚かとも思われた。
 ブライトがすぐさま剣を引き抜き、乱暴でいて無駄のない所作で、部屋の隅に放り捨てるような格好で始末したものだから、余計におのれの目を疑ってしまった。
 硬い木切れは床に落ち、不思議なほど澄んだ音を立てた。
 エル・クレールは呆然と見開いた眼をブライトに向けた。彼は模造刀を投げ捨てるのと同様に、乱暴でいて無駄のない所作で自身のシャツの右袖を引き裂いた。
 浅黒い皮膚に覆われた太い二の腕から、赤い血潮が流れ出ている。
 エル・クレールは彼の腕に飛びついた。自由の利く左の掌で傷口を覆い、強く抑え付けた。出血個所を圧迫するのは血止めの基本だ。
 出血はそれほど多くない。恐らくは、太い血管のないところを選んで刺したのだろう。
 それでも血液はエル・クレールの指の間から滲み出した。
「何の、おつもりです?」
 叫んだつもりだったエル・クレールであったが、実際に口から出たのは小さく震えた声だった。
「ん」
 ブライトはくぐもった小さな声を一つ出した。顔を覗い見ると、裂いた袖口の片側を口にくわえていた。反対側の端は左の手に握られている。
 彼は即席の包帯を傷口よりも上に器用に巻き付け、強く縛った。止血のためだ。エル・クレールが傷口を押さえる必要は、もうない。
 だが、彼女は手を放すことができなかった。
 手を放したが最後、彼の肉体が崩れ落ちるのではないかと、言い知れない、説明のできない不安に襲われている。
「これでお相子、ってことにしてくれねぇかね?」
 ブライトは笑んだ。エル・クレールは彼の言わんとしていることを理解できなかった。
「え?」
 彼の傷口を強く押さえたまま、不安げに首をかしげた。
「こんな程度の傷じゃあ、お前さんの怪我には及ばないがな。これ以上ヤっちまったら、さすがの俺サマも、怪我人抱えて立ち回りってのができなくなっちまう。共倒れしない程度にってぇことで、まあ、勘弁してくれ」
 彼の言いたいことは、解った。
 あの【ムーン】との戦闘で、エル・クレールは右腕を砕かれた。
 骨は複雑に粉砕されていたものの、肉を突き破って外にでるようなことはなかった。運がよかった、と表現するのが正しいとは思われないが、この怪我の仕方は有る意味幸いだった。
 皮膚の内側への出血はあったが、外に溢れ出るようなことはなかった。血を大量に失えば、体力が落ち、回復が遅くなる。あるいはそのまま命を失うこともあり得た。
 また、骨が皮膚を突き破るような怪我の場合、傷口から瘴気が入って重症化する可能性が高くなる。傷口が化膿し、肉が腐るようであれば、場合によっては腕を切り落とすような危険な「手当」をせねばならなくなる。
 外科的な「手当」は諸刃の刃でもある。体力は落ち、酷く熱を発することもある。
 危険な「手当」をするにせよ、しないにせよ、処置が間に合わなければ、死は免れない
 そうならなかっただけでも運が良かった、というのがエル・クレールの本心ではあった。ブライトも口に出しかねているが、そう感じている。
 今、彼女の腕は肩から手首まで宛て木に縛り付けられている。
 鍛えられた肉体は並の人間よりも快復力がつよい。それでも、真っ当に動かせるようになるまでは、一月はゆうにかかるだろう。その後に、元通りに剣を振うための恢復訓練リハビリテーションの期間が必要となる。
 その間、彼女の自由は制限される。
 ブライトの自傷は、彼女が負った不自由さへの、彼なりの謝罪であり慰藉であった。
 エル・クレールは、頭の中では彼のこういった独特な……独善的な……やり方を了承できたが、納得することは到底できなかった。
 エル・クレールの左手が、ブライトの腕から離れた。
 直後、血の滴る掌は、乾いた音を立てた。
 ブライトの頬に、ひりひりと熱く、チクチクと痛い、小さな疼きが生じた。
「あなたの勝手な正義を、私に押しつけないでください」
 翡翠色の双眸から涙が溢れ出た。
「私は……誰かが痛い思いをするのも、辛い思いをするのも、悲しい思いをするのも、厭です。見たくありません」
 血濡れた手で顔を覆った。血と混じり合った涙が、血を洗いながら、指の隙から流れ出る。
「酷い人。当て擦りにわざとがましく怪我をしてみせるなんて……そんなことで自分を傷つけるなんて……私の大切な人に怪我負わせて……私の目の前で……酷い……本当に非道い人」
 嗚咽する彼女を前に、ブライトは沈黙するより他手立てを思いつかなかった。
 ある種の呵責を感じている。申し訳なく、切なく、辛く、そして面はゆい。
 のぞき見る視線を感じた。居間との間のドアが僅かに開いている。隙間から、四つの声がなにやら勝手なことをささやきあっているのが、耳をそばだてる必要もなく漏れ聞こえる。
 動く方の手で頭を掻いた。
 やがて、エル・クレールの背中の揺れが小さくなった。しゃくり上げながら、
「何か、仰ってください……」
 指の隙間から、男を睨み付けている。充血した目に恨めしげな色をしていた。さすがに返答をしないわけにゆかない。ブライトは短く、
「何を?」
「莫迦とか……泣くなとか……女々しいとか……愚鈍のろまとか……。不甲斐ない愚か者を叱りつける言葉はいくらでもあるでしょう?」
 エル・クレールは一語ごとに鼻をすすりつつ、掛布の端で顔と手をゴシゴシと乱暴に拭いた。泣き腫らした目で、上目遣いにブライトを睨む。
 暫し黙考したブライトは、不意に立ち上がり、ドアに向かった。
 二人のエリーザベトとその背中に貼り付いていたシルヴィー、マダム・ルイゾンが、頬を引きつらせつつ、後ずさりする。
 口を真一文字に引き結んみ、深く考え込でいるブライトの顔つきが、彼女らには途轍もなく恐ろしいモノに見えていた。
 ブライトは音も立てずにドアを閉めた。ドアの向こう側で娘達が気を失わんばかりにしてへたり込んだことなどは、彼にとってはどうでも良いことだった。
 エル・クレールに背を向けたまま、
「コッチがチャラにしてくれって言ってる意味を、これっぽっちも察してくれないあたりは、確かに不敏だがね……。まあ、そういう鈍いところがまた溜まらなくかわいいから、許す」
 振り向きざまに、ニタリと笑った。
 あっけにとられたエル・クレールだったが、内心ほっと息を吐いていた。
 彼の下心のありそうな下卑たにやけ顔が、普段のとおりであったからだ。
「そうやって、私を子供扱いなさるのだから」
 エル・クレール頬を膨らませた。本心から拗ねているのだが、目は笑っている。
「いつまでも子供でいてもらっちゃぁ困るンだが、いつまでも子供でいて欲しい……。男心は複雑でね」
 ケラケラと笑いつつ、ブライトは窓辺に依った。
 大通りの往来が激しくなっていた。
 村祭りが始まる。規模の縮小は余儀のないことだったが、それでも人々は集う。
 フレイドマル一座の芝居の芝居小屋は取り払われたが、舞台だけは残されている。誰かが音を鳴らせば、誰かが歌い、誰かが舞うだろう。
 人の心の高まりは、止めようにも止められるものではない。
「暫くは温和しくしていることだ」
 ブライトはもう一度振り向いて、笑った。
「暇つぶしに、何か持ってきてやろう。欲しいモノがあれば、言ってみな?」
「史書を」
 エル・クレールが笑顔を返した。ブライトの太い眉が小さく上下した。眼差しには、困惑と驚きと、呆れがあった。
「幼い頃に『読まされて』以来、目にしておりませんから。もう一度しっかり『読んで』おく必要があると思うのです。本当のことを考えるために」
「模範解答だ。まったくお前さんの頭蓋の中には、美しい脳味噌が詰まっているに違いない」
 言い残し、ブライトは窓枠を飛び越えた。

この章、了

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