いにしえの【世界】 31
「もし、芥子粒ほども期待していなければ、どんなに良かったことか」
 肩を落とし、暗い顔でうつむく。
 礼拝堂に据えられた大理石の告知天使を思わせる端正な横顔の、冷え切った美しさに、マイヤーの目は奪われた。
 背筋に震えが走る、などという表現があるが、実際に彼は大きく身震した。
『あの若様の艶っぽさは、ホンモノだ』
 震えを隠すため、身振り口ぶりを大げさにし、
「ああ、非道い。非道いなあ、若様も私を信用してくださらないなんて」
 薄めを開けてちらりと見る。エル・クレールという若い貴族が、己に向ける眼差しには不審の色が濃い。
『それがまた、艶っぽい』
 生唾を飲み込むと、マイヤーは頭をぶるっと振った。
『これ以上魅入られちゃならない』
「ええい、若様に信用してもらえるなら、構うことはない、私の秘密を見せて差し上げましょう」
 くるりときびすを返す。
「付いてきてくださいな。こっちに証拠がございますよ」
 彼は先ほど彼自身が現れた楽屋口の向こう側に向かった。大股で、乱暴に足音を立てているが、それも芝居臭い。
 実際それは、大きな足音で自分の耳に届く己の心臓の音を消すための芝居に他ならない。
 彼の行く先にあるのは舞台だ。
舞台イタの上に真実があるか? 芝居莫迦の言いそうな台詞だ」
 ブライトが意地悪く言う。
 マイヤーの足が止まった。首だけを振り向かせた彼の顔に、険しいものが浮かんでいる。
「さっきから思ってたんですがね。……お宅、タダの下男じゃないね」
 わざとらしく背中を丸めた男の、わざとらしく伸ばした無精髭の奥から、わざとらしく砕けた言葉が飛び出る。
「ウチの姫若さまも、多分そうとは思っちゃいないだろうよ」
 マイヤーはこれを「並の下僕ではなく、主君も認める優秀な家臣だという自負」と受け取った。
 家名自慢の没落貴族に付き従っているような家来は、妙にプライドが高い。プライドだけの輩も多いが、極々まれに中身の伴った者もいる。
 そういった逸材は、しかし他家からのスカウトをにべもなく、ことごとく、はっきりと断り、片田舎で埋もれる道を自ら選ぶ。
 あるいは、己の能力を持って落ちぶれた主家を持ち直させる野心を抱く者もいる。
『この大男はその口だろう』
 それがマイヤーの持つ「常識」が導き出した結論だった。
 彼はちらりと「没落貴族の子弟」を見た。
 剣を持たぬ時はすこぶる気が弱いという「彼」は、「タダの下男ではない男」に縋り付かんばかりにして、漸く立っている。……ように見える。
「似合いの主従だよ、全く」
 マイヤーは再び足を踏みならした。
 エル・クレールが不安げに立ちつくす理由は、マイヤーの思うような生来の気弱のためでは、当然ない。
 彼の向かって行く先に、なにやら妙な気配を感じ取っていたからだ。
 それは芝居小屋の外にいたときから感じていた気配だった。
『いいえ、この土地に足を踏み入れたときから、アレは私に影響を与えていたに違いない。でなければ、今朝方あのような悪夢を見るはずもない』
 それが一体何なのか、正体が知れないのが恐ろしく、そして口惜しい。
 彼女はちらりとブライトを見上げた。
 わずかな時間逡巡しゅんじゅんしたが、
「連れて行ってください」
 小さく言った。
「野郎の後をついて行けば良いだけのこったろうに」
 ブライトは顎でマイヤーの背を指した。
「彼では……なんと説明したらよいのか解らないのですが……足りないのです」
「信用か、それとも、力か?」
「両方です。あの方は、普通の人間のようですから」
「俺は人間外ですかね?」
 ニタリと笑った。相当に自嘲が混じっている。
「お互いに」
 エルは少しばかり気恥ずかしげに答えた。
「フン」
 鼻で笑うと、彼はズイと前へ踏み出した。
 少しの足音も立たないが、先を行く戯作者の騒がしい歩き方の数十倍は頼もしい。
 エルは彼の足跡の上をなぞって進んだ。

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