いにしえの【世界】 32
 薄暗く埃っぽい舞台裏で、幾人かがあわただしく動き回っていた。
 大部屋の楽屋にたむろしていた娘達よりは幾分年嵩らしい女性達と、劇団員とはとても思えない厳つい男達が数人、罵り合うような言葉を投げつけあい、それでいて和気藹々とした雰囲気で作業を行っている。
 彼らにとってはそれがあたりまえの会話なのだろうが、エルは違和感を憶えた。
 仕方のないことではある。
 クレール=ハーン姫は世が世なら都の玉座に在している筈の、一級品の箱入りだ。
 確かに、貴族と平民の垣根が低い山奥の小国に生まれ、農婦樵夫とも親しく接する環境に育った身ではある。訛り、あるいは砕けた言葉を知らぬではない。
 それゆえ、普段のブライトが口にする言葉程度の乱暴さであるなら、聞くことに問題はなかった。
 そこには「慣れ」の部分がある。
 生まれ育った国風の穏やかなミッド公国においての訛りや砕けかたや、好むと好まざるとに関わらず四六時中共に過ごし会話している男の口ぶりには慣れきっている。
 ところが、ここにいる裏方達の言葉遣い、語気の強さ、イントネーションといったものは、箱入りのクレール姫にとっては未知のものであったし、国を出たエル・クレール=ノアールの旅行きの中でも耳にしたことのないものだった。
「西の方の……北側の海っ縁だな」
 ぼそりとブライトが言った。
 帝国に住まう人々は、己の国土を大雑把に五つほどの地域に分けて呼んでいた。
 その呼び名はすこぶる単純だった。
 帝都のある「西の方」、そこから大陸の反対側の「東の方」、古い都ガップがあるあたりは「北の方」、南方の海沿いは「南の方」、そして国土の中央あたり、すなわち亡国ミッドがあった地域は「山の方」とか「高い所」といった具合だ。
 この単純な区分けは、帝国の主がギュネイ家になる以前からなされていたものだ。
 新しい主になってから、それに仕える役人達は彼らなりの行政区分を設定した。
 ブライトの言った「西の方の北側の海っ縁」にしても、「西部北西郡内務省港湾警備局特別行政区北地区」という名前がある。政府直轄の港町の北側ということを言いたいために、こういう長ったらしい名前になっているようだが、その煩雑さが四百年の習慣に勝てるはずもない。
 当の役人達が、書類の上には長々と文字を連ねながら、頭の中ではそこに昔ながらの呼び方のルビを振り、音読する。
 その方が通じるのだから仕方がない。現に、エルも古い地名が持つイメージから、ブライトの言わんとしていることを汲み取ることができた。
 都に近い港町は、各地から荷駄と人が集積する。港も町も人があふれかえり、騒がしい。
 騒音の中では、指示を出す声もそれに答える声も、大きく簡潔でなければ相手の耳に届かない。職場と町中の風習はそのまま家の中に入り込む。大人も子供も男も女も、普段から怒鳴るような大声で会話するようになり、やがてはそれがその土地での「当たり前」となる。
 人の出入りの激しい土地柄であるから、特殊な「当たり前」はそれを見聞きした人々が各地に伝える。よって、「西の方の北の港町」と言えば「喧嘩腰の言葉」と、「山の方」の人間であるエルにもすぐに得心できるのだ。
 彼らが争いごとそしているわけでも、怒りを持って言葉を発しているのではないということが、である。
 これを「西部北西郡内務省港湾警備局特別行政区北地区」と言ってしまっては、連想ができない。
 とはいうものの。
 納得がいったからといっても、すぐに慣れてしまえるものではない。
 エルは肩をすぼめるようにして、裏方達の横を通り抜けた。
 見知らぬ若者を見かけた裏方達は、一様に一瞬不審顔になった。直後、暗がりに目をこらしてその「不可解な美しさ」を見いだすと、ある者は息を飲み込み、あるいは嘆息し、ある者は口笛を吹いた。
 下品な声を掛ける者もいた。肩幅の広い、下腹の出た、一寸年齢のつかめない顔立ちの男が、ブライトに向かって
金剛コンゴウの旦那、その子はどこの流行子ハヤリコだい?」
 舌なめずりしながら言うその言葉の意味が、エルにはわからなかった。ただ、ブライトが物も言わずに声の主の禿頭を殴りつけたのを見て、どうやら相当に「佳くない言葉」なのだろうということは理解した。

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