いにしえの【世界】 34
 長い道のりではない。ほんの十歩で舞台下にたどり着いた。
 マイヤーがランプをかざすと、太い柱が円形に並んだ空間がぽっかりと浮かび、その周囲を埋め尽くすハンドル、レバー、すり減った木の巨大な歯車などが落とす影がゆらりと揺れた。
 エルにとっては見たことのないものばかりだ。素直に驚嘆し、声を上げた。
「これは、一体?」
 喜々としてマイヤーが答える。
「回り舞台ってやつでございますよ、若様。そこの丸く並んだ柱が丸い床を支えてましてね。それぞれにに力自慢の道具方が取り付いて押しますと、舞台の上の丸い床がセットも役者も乗せたままぐるりと回るという按配です。そうやって場面転換をすると、時間も場所もあっという間に飛び越えられるというダイナミックな仕掛けでございます。
 それからあっちのハンドルで道具幕……つまり背景を書いた布きれですが……それを上げたり下げたり。あっちのレバーでいろんなもの、太陽やら月やら、描き割りの群衆やら、そういう仕掛けを出したり引っ込めたり。
 言ってみたら、ここは劇場の心臓です。お客さんからはまるきり見えない地べたの下だが、ここが真っ当に動いてくれなきゃ、いくら役者や踊り子が舞台の上で頑張っても見栄えの良い芝居にはならない……逆もまた、ですけどね」
「常設の大劇場ならまだしも、旅回り一座の掛け小屋にゃあっちゃならない小細工だ……」
 ブライトは立廻し柱の一本を軽く叩いた。
「……運ぶのも大変だろう。荷物が増える」
 刺すような視線をマイヤーに投げる。
「ええ、大変ですよ」
 マイヤーは一瞬目を閉じた。いや、閉じる直前で瞼は止まった。
 針のように細くなった目は、柔和に笑っているとも、鋭く睨んでいるともつかぬ表情を作った。
 しかし彼の団栗眼はすぐに大きく見開かれた。円形に並ぶ柱の中央までひょいと跳び、そこに据えられた革張りの木箱に取り付く。
 木箱にはなにやら機関カラクリが仕掛けられているらしい。マイヤーは二人の客に向かって尻を突き出す格好で前屈みになり、箱のあちこちを押したり引いたりした。
 やがて小さな金属音と共に箱が開くと、マイヤーはゆっくりと中に手を突っ込み、羊皮紙の束を取り出して仰々しく掲げた。
 束には細い大麻ヘンプの紐が十字に掛けられていた。紐は束の上面中心で結び止められているが、そことは違う場所にももう一つ結び目があった。
 別の結び目には赤い蝋で封緘された後が残っている。
 封蝋は真ん中が丸くへこんでいた。何者かの印影が刻まれている。
 暗がりに目を凝らしたエル・クレールは、そこに見覚えのある紋章を見た。
 六芒の星の中で二匹のヘビが絡み合い、牙を剥いて睨み合う意匠。
 幼い頃にその印影を刻まれた蜜蝋で閉じられた書簡を目にしたことがあった。
 書簡は必ず父が開封し、目を通すと、一部は母に渡された。
 母は手渡された分を微笑みながら読んでいたが、父は時折残った便箋に暗い視線を落とし込んでいた。
 極希に、彼女にも彼女宛の一葉が分け与えられることがあった。そこには、年若い貴族の筆跡による優しく楽しい文面がある。
「良くないところは自分以外には見せないのだろう」
 ことは、幼いクレール姫にも想像がついた。
 ただ、父が見せてくれない部分にどんな「良くないこと」が書かれていたのかは知れない。
 少なくとも、後年大公の書斎に忍び込んだお転婆姫が、鍵の掛けられていない手文庫の中に見つけた手紙の束には、人を悲しませるような言葉は一語も書かれていなかった。
 姫の年若い叔父、ヨルムンガント・フレキ=ギュネイの手紙は、総じて希望と理想と力に充ち満ちていた。
「叔父上」
 思わずぽつりと漏らしたエルの一言だったが、それがマイヤーの耳に届くことはなかった。
 ほとんど同時にブライトが
「わざわざ封緘を崩さずに別のところで紐を切ったのは、証拠残しのためか、中身のすり替えをやりやすいようにするためかか、どっちだね?」
 後頭部を掻きながら、いやみたらしく言ったからだ。
「本当に非道いお人だね、あんたは」
 マイヤーが苦笑いすると、ブライトも同じように笑い、
「なにしろウチの姫若さまは人を疑うことを知らない。こういう純な方をお守りするにゃあ、どんな物でも疑ってかからねぇと追いつかねぇんだよ」

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