いにしえの【世界】 39
 この世に未練を残し、死しても死にきれぬ者の魂が変じた結晶……【アーム】などと呼ばれる物体は、ある種の意思を持っていると見える。
 その意思に沿わぬ者、あるいは理解せぬ者は、【アーム】の力を解放することも、使いこなすこともできぬ。
 厄介なのは、【アーム】の意思が偏執的であることだ。死せる魂は彼らが「死ぬ」直前の心残りのみを内に抱いて凝華しているらしい。
 クレール姫の父親は、たった独り残さねばならない愛娘の身を案じていた。【正義ジュスティス】と呼ばれる用になった今でも、彼は娘の身を案じ続けている。
 今の彼には只その一点しかなく、それ以外の感情も理性もありはしない。
 すなわち、彼にとっては己がこそが唯一娘の守人であり、それ以外の存在は、誰であろうとも総て排除すべきものなのだ。
 凝り固まった「意志」に、娘の呼びかけは届かない。
 たとえエル・クレールが信頼を寄せる人物であっても、あるいは彼女が全く感心を持っていなくても、【正義】の刃はその相手に激しい攻撃を加えてしまう。
 その攻撃をよく喰らうのが、ブライト=ソードマンであった。
 ちょっとした拍子に(あるいは、ちょっとした拍子を装って意識的に)彼女の腰のあたりに手を触れたとしよう。そこに【正義】の力が封じられている場所に、である。
 途端、バチリと火花が発する。さながら絹地とウール地を擦り合わせたかのような瞬間的な痛みが、ブライトの側にのみ走る。
 爪が割れ、皮膚にやけどの跡が残ることもある。
 蜜蝋の中に埋もれている【アーム】の欠片について、ブライトが「【正義】ほどではない」と前置きしつつも「攻撃的」と言うからには、何かしらの「刺激」があるのだろう、とクレールは想像した。
 その想像は当たっていた。
 ブライトの指先は、ごく僅かな痛みを感じている。
 小さな欠片にも、他者に対して牙を剥かねばならない「意志」があるのだ。
 その「意志」が何を訴えているのか、ブライトはおぼろげに察していた。
 それはあまり認めたくない「理由」ではあった。
 試みに、心の奥で拳の中の小さな欠片に問いかけた。
『俺が末生り瓢箪の野郎ヨルムンガント・フレキを嫌っているってのが、気に入らンかね?』
 小さな切っ先は、彼の指を刺し貫かんとしているらしい。
 皮膚が裂けることも血がにじむこともない小さな痛みは、しかし明確な返答だった。
ウチの姫様クレールにちょっかいを出した上に、俺が野郎を嫌うのが気に喰わねぇと抜かしやがる。しかも野郎の書いた物の封緘にめり込んでたと来たら……』
 小さな【アーム】の欠片が、生前は皇弟と深い縁を持っていた人物であることは間違いない。
『それどころか、野郎本人の可能性がある』
 確かにヨルムンガント・フレキ=ギュネイが死んだという報はない。
 正室も嗣子もいない今上皇帝にとって、腹違いながらすぐ下の弟である彼は、皇太子に準ずる存在である。万一彼がこうじたとなれば、すぐさま大葬が執り行われてしかるべきだ。
 同時に、彼が生きていると証明する報がないのも、また事実であった。
 というのも、ここ数年彼は封地ガップから一歩たりとも出ておらず、あまつさえ、書簡の一通も発していないのだ。
 ガップは半ば鎖国の状態であるとも言う者すらいるが、実際には彼の地に人の出入りがない訳ではない。
 ただ、君主に謁見できた者がいないだけだ。
 そのため、病を得て重篤な状態だという噂もある。その病のために、二目と見られぬ容姿に変じてしまったのだという噂もある。
 乱心して岩牢に閉じこめられているなどいう説は、彼が兄に帝位を「奪われた」ころから、延々ささやかれ続けている。
 妙な噂が流れる度に帝国政府はそれを否定している。
「誤報である」
「誤謬である」
「径庭はなはだしい」
「事実と異なる」
「皇弟は病を得てなどいない。重篤な状態ではない。容姿が損なわれたということはない。乱心などしていない」
 そのくせ、続いてしかるべき「健勝である、壮健である」などの語句は一切出てこない。
 依って、人々の疑念は深まる。
 だがそれを口にすることを皆が憚り、押し黙っている。
 今、ブライトも押し黙っている。
 彼が帝室を畏れているからでは無い。
『相棒が動揺する』
 彼が嫌う件の人物は、エル・クレールにとっては唯一残されたと言っていい「家族」に他ならないのだ。
 とはいえ、いつまでも黙っているわけにも行かない。
 時として沈黙は詭弁よりも雄弁でだ。察しのよい人物に対してであれば、なおのことだ。
 深い緑の瞳に不安の影が揺れている。
「あの男はテメェの城の外側にシンパが集ってくるタイプだからな。範囲が広すぎて、簡単にゃこいつの正体を絞り込めやしねぇよ」
 彼は呟きながら、封蝋とその中の「魂の破片」を己の腰袋の中に押し込んだ。
「そう、ですね」
 エルの唇の端が、小さく持ち上がった。
 目の奥の不安は消えていない。こわばった作り笑いであっても、表情を変えるという行動によって、己を納得させようとしているのだ。
「さて――」
 ブライトは声と呼吸音の混じった音を吐き出すと、
「奴サンの誘いに乗ってみようかね。当然、あいつの思惑通りの行動をする気はねぇが」
 エル・クレールの背中を平手で軽く叩いた。
 押し出された彼女の足がちいさく一歩踏み出すのとほとんど同時に、ブライト=ソードマンも広い歩幅で歩き出した。
 入り口の縦穴にたどり着く頃には、彼は完全にエルを先行していた。
 助走をせず、膝を深く曲げることもなく、頭上に切り取られた四角い空間へ垂直に飛び上がる。
 彼の巨体は音もなく地上へと舞い戻った。
 向き直り、膝をついて、右の腕だけを穴の中に差し入れる。
 無言だった。足下のエル・クレールにわざわざ声を掛ける必要はない。彼女も問いかけの必要性を感じていなかった。
 大きな掌にひんやりとした白い指が絡まる。
 彼女の体は軽々と持ち上がり、ブライトの傍らにふわりと着地した。
 一言の礼の代わりに、小さな、しかし自然な微笑が返ってきた。


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