いにしえの【世界】 42
 怪しげな旗印や規範を外れた演目を掲げたドサ回りの旅を、ここまで無事に続けてこられたという事実に基づいた自負だった。
 策が通じず、逃げ切ることもできぬ相手がこの世にいるのだということを、彼は今日初めて知った。鉄板だと疑わなかった自信は、あっさり粉微塵になった。
 しかも敵は二人もいる。
 二人の内の一人が、もう一人から逃げる時におとりにするつもりで、自ら引き込んだ人間であることが、口惜しくてならない。
『若様の美しさがまぶしすぎて、野郎の方がかすんでいるように見ちまったのがあたしの運の尽き』
 足掻いても仕方がない。
 開き直ったマイヤーは普段の通りに行動することに決めた。今更別の作戦を立てたところで、付け焼き刃の「演技」を見抜けぬ相手ではないだろう。
「どうしても名前で呼びたきゃソードマンで良かろうよ」
 ブライトが不機嫌に答えるのを聞いた彼の口は、反射的に、いつもの通り頭の中に浮かんだ軽口じみた台詞を吐き出した。
「何とも名が体を表す、珍しいご名字で」
 言ってすぐ、彼は己の口を両手で塞いだ。そんなことをしても出してしまった声が止まるわけでも戻るわけでもない。
『全く今日の私ときたら調子が外れっぱなしだ』
 上目でそっと「ソードマン」を見た。目玉がからからに乾いてゆく気がして、何度も瞬きをする。
 ブライトは無言のまま彼を見据えている。
 マイヤーの目には、彼がかすかに笑っているように見えた。その微笑が何を意味するのかまでは解らない。彼が腕を組み直し、あるいは僅かに足の位置を変える、その小さな動きが妙に恐ろしい。
 あの腕が己の喉元を狙って伸びてくるのではなかろうか、あの脚がこちらの足下を救うのではなかろうか。
 枯れた生唾を飲み込む彼の耳に、柔らかな声が流れ込んだ。
「良い名前でしょう?」
 エル・クレールが婉然と笑んでいる。
 途端、マイヤーは自身の全身を膜のように覆っていた脂汗が、僅かに残っていた自覚や自制と一緒にすぅっと流れ落ちてゆくのを感じた。それは彼の総身から別の汗が吹き出したためであるが、彼自身はそのことを気にとめなかった。
「ええ、全くその通りで」
 マイヤーの脳漿は暴力への恐怖から解放されたという爽快な快楽を全身に感じさせることに専念していた。別の束縛によって雁字搦めに縛り上げたことを伝えるという重要な役目は、完全に放棄されている。
 美の俘虜に打たれる縄目は、他の何よりも厳しく強固で厄介であるのにもかかわらず。
 マイヤー=マイヨールの浮ついた心は、しかしすぐに現実に引き戻された。
 功労者は楽団溜まりオーケストラピットの隅にいた大号ホルン奏者だ。
 鼓膜を突き破る大音響を発生させた彼は苦笑しつつ、「巧く音が出ないので強く吹いた」とか「唄口に何かが詰まっていた」とか「吹いた勢いでゴミが取れた」とか「詰まりが取れた途端に音が出た」などと弁明していた。
 オケピの真ん中で指揮者が肩をふるわせている。どうやら彼の指示による「音あわせの一環」だったらしい。すなわち、舞い上がっていた戯作者の魂を還俗させるための手段としての、である。
 マイヤーは苦々しげに大号ホルンを睨み付けた。憤慨したまま振り向いた彼だったが、「クレールの若様」と「ソードマンの旦那」が失笑しているさまを見つけ、気恥ずかしげに笑った。
「田舎者でしてね」
「いい喇叭ラッパ吹きを抱えているじゃねぇか。惜しむらくは力量に見合った楽器を与えられていねぇ」
 ニタリと笑うブライトに、マイヤーは
「勅使サマ方を招いてのゲネプロが無事に済んだら考えますよ」
 慇懃に頭を下げた。
「そいつはお前らの力量次第だろうよ。まずはウチの姫若さまを納得させてみることだ」
「それが一番ホネかもしれませんねぇ」
 マイヤーの苦笑いが一層大きくなった。

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