いにしえの【世界】 48
 彼は顎で舞台を指し、呟く。
「二幕が開いた」
 牧歌的な書き割りの中で、領主の娘の婚礼を祝う村人達はどこまでも陽気に、楽しげに舞い踊っている。
 規則正しく、回り、跳ねるその人の輪の中に、別の動きをする者があった。
 古びたローブの人物は、歌う村人の間を、手をつないで踊る娘達の間を、囃し立てる若者達の間を、縦横に駆けめぐっている。
 人々はそれに気付いていないかの如く振る舞っている。舞台の上の「世界の現実」においては、彼は人間の目に見えない存在なのだ。
 流れてゆく時、知ることのできない真実、未来から(あるいは観客から)見た既成事実の具象。空気。なくてはならぬが、見ることも抱くことも操ることもできぬモノ。
 彼は再び言う。
「時は古。知るすべ無き昔。世界を巡るは一陣の風」
 ローブの裾を翻し、彼は下手へと消えた。
「あの野郎は、どうやら『フレキ・ゲー』を演じているらしいな。つまり、遠い未来にこの与太話を書いて、それを芝居にかけちまった自分自身を、さ」
 ブライトはクツクツと笑っている。
「その言い様では、まるであの人がフレキ叔父その人のように聞こえてしまいます」
 エル・クレールは漸く声を絞り出した。ブライトは含み笑いをかみ殺し、
「安心しな、そう思うのはお前さんぐれぇだよ。普通の観客はそこまで莫迦な心配はしねぇさ。ただし、作者として挙がっている名前と北の海っ縁の殿様とを『同名の別人』と思って観ちゃぁくれンだろう……。流石にあの野郎を『都の玉座に座り損ねた末生り瓢箪』本人だとは思いやしないだろうが、役者がそいつを演じていると解釈する賢いのはいるだろうな」
 言い終わらぬうちに、またブライトの背中は小刻みに上下し始めた。彼は顎を支えているのとは反対の手をけだるそうに持ち上げ、舞台上を指さした。
「書き割りの、領主屋敷の窓ン中」
 指先を視線で追ったエル・クレールは、描かれた高窓に掛けられたレースのカーテンの向こうに、人影が動いているのを見た。
 官製の脚本であれば、その窓の奥は領主の娘クラリスが半ば幽閉される形で住まわっている部屋と言うことになる。中に居るのは麗しい姫君だ。
 彼女はこの幕では姿を見せることがない。見えるのは、カーテンの隙間から差し出し出される、細い腕のみだ。
 窓の下では領民達が祝いの踊りを舞っている。クラリス姫の腕は、その輪に向かって花冠を投げ落とす。
 村の娘達はそれを踊りへの褒美と認識した。そして花冠を頂くのに一番ふさわしいのは誰であるのかについて争いはじめ、奪い合いの果てに粉々に壊してしまう。
 これが二幕目の筋立てだ。
 そしてこの芝居でも、筋書き通りにカーテンの隙間から腕が突き出された。青みを帯びた貝細工カイザイクの花冠を掴んでいる。
 腕は花冠を踊りの輪に向かって投げるとすぐにカーテンの中に消えてしまった。同時に花冠の奪い合いの騒乱が起きる。
 元より藁のように乾いた貝細工の花は、あっという間に崩れて散る。
 そこで幕が下りる。あっという間の出来事だ。
 カーテンから出た白いドレスを着た腕のその先、花冠を掴んでいた手指が赤銅色に日焼けしていたことに気付く者は少ないだろう。
 逆に気付いた者には、強烈な印象として脳裏に焼き付くこととなる。そして彼らは、演目のタイトルからして「戦乙女クラリス」というくらいだから、国母クラリスを強く逞しい女性として描くための演出だと考えるに違いない。
 普通はそこまでしか考えが及ばないだろう。この演出の更に向こうに、何かが隠匿されていると気付く者は、おそらくいない。
「最高に可笑しい真っ黒な喜劇じゃねぇか。あの野郎、判らない奴らを小馬鹿にして、判ったヤツのことは嘲笑っていやがる。チビ助め、このネタを古びてきたから捨てるなんてもったいないことを抜かしやがったが、命のある限り演り続けるべきだ。……ま、このままじゃ明日の朝にゃ命が尽きてるかも知れンがな」
 ブライトの忍び笑いを聞きながら、エル・クレールは自分の腕を見つめていた。
 元々は色の白い方だが、旅の空の下で日に晒される袖口から先は、小麦の色に日焼けしている。
「男の振りをする……男でありたかった女……」
 無意識のつぶやきが、ブライトの嘲笑を止めた。

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