いにしえの【世界】 53
 逆光の照明が、カーテンに人の影を映す。
 概視感に襲われた。
 前の幕に似た演出があった。
 しかし違う。
 筋張ってはいるが、どことなく丸く柔らかな体つき。指先のその先までも神経を行き届けさせている、しなやかな仕草。
 薄布の向こうには、悲しみにくれる非力な女性が居る。
「早変わり…………いつの間にシルヴィーとマイヨールはすり替わった?」
 疑問の形で口にしたが、エル・クレールは大凡理解していた。
 三幕が終わってから今までの間に、マイヤー=マイヨールは衣裳を若き日の初代皇帝のそれに替え、回り舞台の裏側に潜む。
 無力を嘆く若者の独演ソロが始まってすぐ、柱を模した細い布の後ろへ入ったシルヴィーは、観客の視線の陰を利用して舞台裏か舞台袖へ消え、入れ替わりにマイヤーが踊り出る。
 彼が黒布で顔を隠し、怒りと悲しみを爆発させながら激しく踊る、その僅かな時間に衣裳を替えたシルヴィーが、今、カーテンの裏で舞っている。
「まるで手際の良い手爪てずまのよう」
 エル・クレールは嘆息した。
「早変わりやら入れ替わりやら凝った仕掛け舞台が得意な連中は、大概はそこを誇張した外連味が売りの派手な興行をブつもンだが、あの阿呆は何を思ったか、手前ぇらの技量をひた隠しに隠して『普通の芝居』に見せかけてやがる。何とも厭味じゃないか。チビ助め、そうとう後ろ頭が出っ張ってるな」
 後頭部の骨に極端な突出があることを叛骨と言い、こういった相の人物は生まれながらに反体制的・レジスタンス的気質を持つと言われている。
「……無駄に知識を蓄えていらっしゃるあなたもご同様でしょう。人相学など、どこで学ばれたのですか?」
 敬服と皮肉の混じったため息を聞いたブライトは、小さく舌打ちし、
「お前さんが知っているぐれぇのこった。常識の範囲ってもンだろうよ」
 己の後頭部を乱暴に掻いた。

 舞台の上では、二人の人物が背中を向けあった状態で、それぞれに己の悲しみを表現している。
 同じ音楽に乗り、同じ振り付けで、同じタイミングで踊りながら、しかし彼らは自分以外の存在に気付いていない。己と同じく、無力への怒りと悲しみに身の裂かれる苦しみを味わっている存在が、極近くにあることを知らない。
 知らぬままに、彼らは、つま先指先までぴたりと同期同調させていた。
 背中合わせの二人が、同時に振り向いたとき、鐃はちシンバルが轟音をたてた。
 一組の男女がカーテンを隔てて、ほとんど同じポーズを取ったまま、制止した。
 音がなくなった。
 静寂の中で、彼らは不自然ともいえる身振りのまま、人形のように体をこわばらせた。
 やがて僅かに顔が動うごいた。
 視線が重なった。
 驚き、仰け反る。
 この二人にとって、カーテンは鏡面と同意だった。鏡に映った虚像が実像とまるきり同じ動きをするように、対峙する二人は全く同じ動作で、顔をそれに近づけた。
 白い布きれは、その向こう側にある「自分でない誰か」の姿を隠している。布のこちら側の男も、向こう側の女も、相手の姿をおぼろげに見るばかりだった。
 男がカーテンの表面に手をかざした。女の指がそれと同じ場所に触れた。
 爆ぜるように、彼らは手を放した。しかしすぐに二つの掌は重なった。
 ほとんど同じ背格好の二人の人物が、カーテン越しに抱擁する。
 雷鳴に似た<鐃はちシンバルの音が響く。
 男が引き裂き、女が突き破った。
 二人を分かっていた心もとない障壁は、悲鳴を上げて消えた。
 花嫁のヴェールで顔を覆った囚われの姫の手を、服喪のヴェールを被った無頼の男が引く。
 二人は歩を合わせてパ・ド・ドゥ踊り出した。
 金属が触れ合うちいさな音がする。
 耳を澄ませても聞こえないその音を、エル・クレールは確かに聞いた。ブライトの耳にもそれは届いていた。
 刀帯か佩鐶はいかんの金具が鳴ったのだ。
 ノアール=ハーンは丸腰だった。
 剣を佩いているのは「もう一人」の側だ。

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