いにしえの【世界】 55
 楽団溜まりオーケストラピットから指揮者の白髪頭がひょこりと突き出た。とうに出ておかしくない筈の合図が、さっぱり見えない。不安げに舞台袖を覗き込む。
 舞台裏から聞こえるのは、くぐもったざわめきばかりだった。裏方と出番待ちの踊り子達が、てんでに何か言い合っているらしい。
 観客席にいる二人には詳細な内容までは聞き取れない。ただ、
「畜生が。あの禿親父め、毎度毎度余計なことばかりしてくれて、本当に有難いことだよ」
 マイヤー=マイヨールの口汚いわめき声だけははっきりと聞こえた。
「やれやれ。姫若、残念なこってすが、お芝居見物はここで取りやめってことになりそうですぜ」
 下男の口調で言いながら、ブライトは顎で舞台端を指した。緞帳を乱暴に捲り上げて出てきたマイヤーが、皮鎧の胸当てを床に投げ捨てながら客席に飛び降り、不機嫌そのものの足取りでたった二人の観客に近づく。
「若様、旦那。あと少しで終わるって所まで来て、大変申し訳ないことですが、通し稽古は取り止めにさせていただきます。こちらから観てくれとお頼みしたって言うのに、またこちらの都合で止めにするのは、本当に心苦しいんですけれども……どうか平にお許し下さいな」
 憤懣やるかたないマイヤーの激しい口調を、彼が発した言葉の字面だけで表現するのは不可能だ。言葉使いはすこぶる丁寧だし、相手に対する心遣いも真摯なものであるにも関わらず、耳に届く声はとげとげしく、荒々しく、毒々しい。
 舞台裏で何事かアクシデントがあったのだろう事は、彼の上気した顔を見ただけで判る。
 どのような事件であるのかは知れない。ただ、人の動きがにわかに慌ただしくなっていることだけが伝わってくる。
 降りたままの緞帳の裏で、大道具達が罵声と金鎚の音を同時に立てている。
 床からは、地面の下で機材装置を強引に動かしているとおぼしき不共鳴な物音が伝わってくる。
 それらはおしなべて乱暴な音だったが、破壊音ではなかった。
「理由を聞かせて貰おうじゃないか。ウチの姫若さまはあんたらの御蔭で貴重なお時間を半日分近くも潰したんだ。納得のいく説明ができねぇなんてこたぁ、よもや言うまいな?」
 ブライトは客席の背にふんぞり返る格好でもたれかかり、組んだ足のつま先を三拍子の指揮棒よろしく振った。相当に不機嫌な振る舞いに見えた。
 実際のところ、彼はそれほど大きな不快を感じているのではなかった。むしろ慌てふためき怒り散らしているマイヤーの様子をおもしろく思ってすらいる。不機嫌の仕草は戯作者から話を引き出すための手練だ。
 マイヤーは深い息を一つ吐き出した。
「本当に申し訳ないことで。こんな予定じゃなかったんですがね。つまり、あの勅使のお役人がやってくるのは、もう少し後……陽が落ちきってからの筈だったんですよ。少なくとも、午後のお茶をすすって、充分昼寝をした後ぐらいの頃合いと考えておりましてね。……まあ、お貴族様が昼寝を貪るのかどうかは、あたしの知ったこっちゃありませんけど」
 深呼吸程度では苛つきは収まりきらなかったと見える。彼は落ち尽きなく足先をゆらした。
「つまり、早くもグラーヴ卿がいらしたと?」
 エルが静かに訊ねると、彼の首がカクカクと小刻みに動いた。
「うちの座長がね……ああ、若様方はあの禿をご存じないでしょうけれども、一応そういうのがいるんですよ。座長って肩書きが仇名にしか聞こえないようなどうしようもない座長がね」
「そういやぁ、勅使がフレイドマルってぇ言ってたな。それが座長って仇名の男の名かね」
「旦那、あんた本当にただ者じゃないね。たった一言の事をよく憶えていてくださった。でもそんな名前は忘れてくださっても構わない。あの野郎なんざ禿で十分だ。いや、それでももったいない。これからは馬鹿助と呼んでくれる。ああ、先代は旦那も奥方もすばらしい人だったのに、どうしてあんなのが出来ちまったんだろう」
 床の上に座長の顔が浮かん見えたのだろう。戯作者は歯ぎしりし、地べたを激しく幾度も踏みつけた。
 国を興した英雄の衣裳を着込んだ男が、である。
 滑稽だった。
 笑いを押し殺しブライトが
「その馬鹿助殿が、あんたの腹づもりよりずいぶん早く、ヨハネス=グラーヴを連れて来ちまった、か?」
 水を向けると、マイヤーはまた小刻みに頷いた。

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