いにしえの【世界】 57
「名前を覚えていただけたなんて、嬉しゅうございます」
「あれほどすばらしい舞いを見せて貰っては、演技者の名前を忘れることなど、できようもない。私はできることなら君と直接話をしたいと思っていたのだよ」
 エル・クレールはいかにも若党らしい口調で言う。紅潮を耳先にまで広げたシルヴィーは、宙に浮くよに歩きながら、裳裾を抓んで頭を下げた。
 事実、エル・クレールはシルヴィーと話をしたいと考えていた。
 彼女が演じている「男になりきっている女」について、彼女自身はどう思うているのか、直に訊ねてみたかった。
「わたしも、若様とお話ししたくて。お聞きしたいことがたくさんあるんです」
 黒目がちな目を少しばかり潤ませたシルヴィーだったが、
「お喋りは後回しだ。今は若様方を案内するのが先なんだ」
 マイヤーの強い語気に押され、黙り込んだ。
 ドーランと汗と埃の臭気が充満した楽屋は、たむろしていた劇団員達が出払っているためか、先に来た時よりも静かでうら寂しく思えた。
 片隅に、ことさら整頓されている空間があった。柔らかそうな「なにか」に大きな布をかぶせてソファの形に調えたものが据えられている。
 客人はそこに座っていろ、ということなのだろう。
 促される前にブライトがどっかりと座り、
「逃げるは兎も角、こそこそ隠れるってのは、どっちかってぇと性に合わないンだがね」
 自分の隣の「空間」を叩いて示し、エル・クレールを呼んだ。
 中に何が包まれているのか知れた物でない。座面の柔らかさを確認しつつ、
「敵前逃亡は何より『お嫌い』なのだと思っていましたが?」
 エル・クレールは小声で訊いた。
「姫若、撤退ってのは戦略のうちですぜ」
「隠忍するのも戦略の一つでは?」
「隠れる場所が問題でさぁね」
 ちらりとマイヤーを見やる。
「今はこれが精一杯、というヤツです」
 すまなそうに苦笑いしていた。
 舞台の方角からは、相変わらず機材の軋みが響いてくる。戯作者は若い貴族の前に片膝を突いて
「都の方が客席に入ったら合図をします。そっと裏からお出になってください。それまではこのシルヴィめがお話相手ということで、ご勘弁下さいませ」
 手招きされたプリマが、少しばかり嬉しげに深々と頭を下げた。
「主役を置いていっていいのかい?」
 怪訝に思わない方がおかしい。ブライトが問うと、マイヤーはにやりと笑った。
「都の方にコイツの踊りなど見せられたものではありませんよ。そのために、不肖このマイヤー=マイヨール、初代様の衣裳を脱がずにおるというわけで」
 酷い厭味だった。
「つまり、さきほどの『通し稽古』とは、また違うことを演ると? ならば、私たちが観て意見する必要は、もとより無かったということになる」
 エル・クレールは落胆とも立腹ともつかぬため息を漏らした。
 マイヤーは激しくかぶりを振る。
「とんでもないことで。若様方に途中まででも見ていただいたからこそ、もっと変えた方がよかろうという判断ができたのですよ。これでも私は目が良うございましてね。舞台の上からお二方の様子をちゃぁんとしっかり拝見しておりました……皇帝役が女ということの真意、あっさりとお見抜きいただけたようで」
 彼の笑みが粘り気を増した。
「俺たちのような田舎貴族に気付かれるような仕掛けなら、帝都の役人にもバレちまう、ってことかい?」
 ブライトはわざとらしく視線をそらした。
「本当に旦那は意地の悪いお方だ。決してそんなつもりじゃありません。ただ、念には念を入れて、用心深く、というだけのことです。あちら様は、お二方ほどすぐにはっきり悟ってくださりはなさらないのは間違いない。それでも、もしかしたらってことがある」
「けっ、調子の良いこと言いやがる。意地の悪いのはそっちの台本だろうよ。客を莫迦にした筋立てを書きやがって。てめぇは舞台の上から客を見下して楽しんでいやがる。地方回りの『大衆演芸』がやる事じゃねぇだろう」
「ぐう」
 マイヤーは胸に手を置き、大げさに仰け反った。
「耳に痛い、胸に痛い。心の臓が裂けそうだ」
 悶え苦しむ様を見せ、彼は薄く目を開けた。『若様』がこちらに視線を注いでいる。胸の奥で早鐘が鳴った。
「なるほど舞台用の演技は近くで見ると大仰に過ぎるものよな」
 ぽつりと呟いたエル・クレールの言葉は、どうやらとどめとなったらしい。

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