いにしえの【世界】 58
「若様までも、意地の悪い」
 マイヤーはがっくり肩を落とし、薄笑いした。
 ゆらりと揺れながら立ち上がった彼は、顔を伏せたまま大きく息を吸い、吐き出して後、背筋を伸ばした。
 ふざけた笑顔はきれいさっぱり消えていた。
「本心を申しますと、若様には……お二方には、この一座の客分として、一緒に旅をしていただきたいと思うております」
 照れてはにかんだ、しかしまじめな顔で言う。
「なんですって?」
 驚きの声を上げたのはエル・クレールだ。理由がわからなかった。泳いだ視線を、彼女の隣でふんぞり返っている男に投げた。
 ブライトはぬるい苦笑で口元をゆがめていた。
「阿呆チビよ、ウチの姫若を何に利用するつもりだ?」
「利用だなんて、旦那、人聞きの悪い事を言わないでくださいな。正直に申し上げましょう。あたしはどうやら若様にいかれちまったようでしてね。つまり惚れ込んじまった」
「ほう?」
 声音はむしろ穏やかだった。が、目の奥には明らかな怒りの色が揺れている。マイヤーの額に脂汗が滲み出た。
「とんだ誤解です、旦那。若様は私にとっちゃ美の神ですよ。崇拝したいとは思っても、色子にしたいとか、そんな下衆の劣情なんぞこれっぽっちもありゃしません。本当です、信じてくださいな」
 言葉に嘘の色は感じられなかったが、ブライトは口元の「歪み」を消さずに、戯作者の目玉を睨み付けた。
「それに、惚れたのは若様にだけじゃありません。ソードマンの旦那にもぞっこんなんで」
 ブライトが太い眉をあからさまに顰めたのが、エル・クレールには何故か滑稽に見えた。
 マイヤーは脂汗を袖で拭い、真率そのものの顔つきで
「不肖マイヨール、人生五十年とすればとうに半分以上は生きてきたことになりますが、旦那のようにちゃぁんと物事をご存じの方には、ついぞ逢ったことがない。これからも多分、いや絶対に無いでしょう。それにね、旦那は私の良くないところを厳しく指摘してくださった。莫迦はただ怒り散らすが、旦那はちゃんと叱ってくれる。そんな有難い人は、亡くなった前の団長夫婦以外に居なかった」
 目頭に光るものが浮かんだ。
 マイヤーは卓越した演技者だ。自分の目玉から水を絞り出す事ぐらいは、観客を泣かせるよりも容易にしてやってみせる。
 今にじみ出た涙が、はたして本物か否か、観ている者には解らない。
 エル・クレールは本物と思った。ブライトは少々疑っている。
「私はね、お二方に出会えた奇跡を感謝してる。幸せだと思ってる。旦那、幸せが長く続くことを願わない人間は居ませんよ。そうでしょう? だからね、私はお二方に側にいて頂きたいんです。お願いだ、何も仰らないでくださいな。ただの我が侭だってのは百も承知だ。でも、こんなところで、こんな風に分かれなきゃならないのは、口惜しいことこの上ないんですよ」
 言い終えてなお、マイヤーの心中の口惜しさは大きく膨らむ。
『役者にしろもの書きにしろ、あたしゃなんて因果な商売をやっちまっているんだろう。どんなに本音を語ろうとしても、全部芝居がかった台詞になっちまう』
 はなみずをすすり上げた。
 マイヤーは「クレール若様」の顔を見た。生来心根が真っ直ぐな「少年」は、どうやら自分を信じてくれたらしい。澄んだ瞳で見つめ返してくれている。
 うれしさに頬がゆるんだ。が、彼はすぐに視線を外した。別の方向から向けられている眼差しが全身に突き刺さるのを感じたからだ。
 マイヤーの目玉は、尖った気配の発信源に向けられた。
 ともすれば野蛮にさえ見える田舎侍の皮の下に、思いもよらない叡智を隠した大男が、眉間に深いしわを刻み、射抜くような眼差しで彼を睨んでいた。
 その目の色ときたら、まるきり「好いた娘に話しかける色男に嫉妬している小僧」そのものだ。
『若様に劣情を抱いているのはそっちじゃないか』
 腹の底で思った。思いはしたが、口にも顔にも出すことはできない。
 万が一にも「旦那」に悟られたなら、たとえ命が七つあったとしても、この世に残れる道理がない。

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