いにしえの【世界】 75
 舞台の幕の向こう、壁の裏には細い通路があり、その先には楽屋がある。
 そこには、こちらからの「合図」を待っている人間が三人居る。
 マイヤーは慌てて腰を伸ばした。
「ええ、居られます。確かに居られます。閣下がおいでになる前にこちらにお見えになりました。裏でお待ちいただいておりまして……つまり閣下がご到着なさるまでの間しばらく……今、裏方の者に呼びに行かせましたから……」
 卿の行く手を、彼は体で遮った。
 勅使はマイヤーとほとんど密着した状態で立ち止まった。
 地面の下から物の壊れる小さな音がした。舞台装置担当の怒声、端役の踊り子の悲鳴、座長の声に似た恫喝が聞こえる。
『ええい、このややこしいときに、禿チビめが奈落でなんのヘマをやらかしやがった?』
 マイヤーが内心舌打ちをしたのとほとんど同時に、絹を裂く悲鳴が楽屋の方角で上がった。
 グラーヴ卿が真っ黒なローブを波を打たせて、クツクツと嗤った。
「イーヴァンは……マイヤー・マイヨール、あの時あの酒場で、お前に斬りかかったあの子だけれど……あれはアタシの手の者の中ではすこしましな方なのよ。つまり、ときどきアタシが思いもしないようなことをすることがある、という意味でね」
 卿のねっとりとした声と重なって、楽屋から男の叫び声が聞こえ、重い物が地面を砕く衝撃の轟音が芝居小屋全体をびりびりとゆらした。
「……ほらね。丁重にと命じたのに、力ずくになってしまった」
 マイヤーの顔から血の気が引いた。
「シルヴィー……」
 小さく声を漏らす。つぶやきは、だが周囲の誰の耳にも聞き取れなかった。
 鼓膜を劈く破壊音が再び空気を振動させる。
 男の叫び声がほとんど間をおかずに二回。最初は雄叫び、二度目は悲鳴に近かった。
 攻め込んだ側が逆に痛手を喰ったのだろうということが「遠耳」にも知れた。
「おや、まぁ」
 グラーヴ卿の声には意表外の驚きが混じっていた。
「イーヴァンたら、あれほど『力』を別けてあげたというのに、それでもエル坊やに適わなかったなんて。……それともあの子を泣かせたのは下男の方かしらん?」
 声音の調子は変わらなかったが、口元に浮かんでいた冷たい微笑が、僅かに小さくなった。
「奈落の底の宝物の方は後回しだわ。坊やの方を見に行かないと」
 言葉を聞いているものがいるだろうなどとは、どうやら考えもしいないらしい。それどころかマイヤーが目の前に立っていることすら見えていないようだ。グラーヴ卿は意味の通じない独り言を呟きながら、更に一歩足を前に出した。
 マイヤーは確かに小柄だが、痩せた文官貴族の腕力に易々と屈するような脆弱者ではない。進もうとするグラーヴ卿を体全体で押し戻した。
 その時、彼は貴族が着込む黒いローブの肩口の盛り上がりが、すとんと落ちたのを見た。中にあった物がいきなりなくなったような、不可解な動きだった。
 卿が肩幅を広く見せかけるために大きなパットでも入れていたのだとしても、そしてそれが落ちたかズレたかでもしたのだとしても、合点が行かぬ。
 初め、マイヤーは鍔広の帽子のために錯覚を起こしているのだと疑った。
 それにしても、ローブの肩の幅が頭の幅とほとんど同じというのは、いくら何でも狭すぎはしまいか。
 肩が、腕そのものが、突如としてなくなったのでなければ、このような急激な変化は起きないはずだ。
「閣下……」
 何か言おうとしたが、マイヤーの口も頭も動いてはくれなかった。
 ぴったりと体を付けた格好のグラーヴ卿が漂わせる、白粉と香水の強烈な芳香の後ろに、ひどい悪臭を感じた。
 かつて嗅いだことがある、胸の痛くなる臭気だ。良い印象など小指の先もない。
 物心つく前のかすかな記憶の中に。父母が死んだときに。先代の座長夫婦が亡くなったときに。
 漂泊の旅一座の者が命を終えたとき、その亡骸を葬ることは容易ではない。
 旅先で無縁の遺骸を引き取ってくれる墓地を探す困難は大きい。棺を曳いて幾日も歩くこともありうる。
 かつて愛する家族であった腐り逝く亡骸も、胸を突き上げるあの臭いを発していた――。
 マイヤーは身震いした。膝の力が抜けた。まともに立っていられなくなった。後ずさりし、楽団溜まりオーケストラピットの囲いに尻をぶつけ、その縁に座り込んだ。
「死人だ」
 グラーヴ卿は帽子の下で嗤った。

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