いにしえの【世界】 83
 顎から胸までの肉ごと、この男を浸食し始めた【月】の汚れたアームの欠片をえぐり取るつもりだ。
 深紅の剣先は、はじき返された。
 勅書の中身を言葉として発させるのが「役目」であった伝令官の喉元から、別のモノ、見覚えのある蝕肢が突き出ていた。
「そうやって……己のアームを分け与えた他人の体を媒体にして……移動するのかっ!」
 間髪を入れず、真っ直ぐに己に向かってくる蝕肢をかわしつつ叫ぶエル・クレールに、
「ちょっと当たっていて、ちょっと違うわね」
 伝令官の喉の奥から、男のそれとは思えない声が発せられた。
「アタシは鏡。鏡はいろいろなモノを写す。例え小さな欠片でも、周囲をその表面に映し出す。アタシはそれを見る。それを聞く。そしてアタシ自身の肉体に投影する」
 グラーヴ卿の声ではなかった。柔らかく、優しげでいて、粘り着くように甘いその声は、しかし【月】の声に違いなかった。ただし先ほどまでのざらついた雑音が消えている。
 ブライトの耳には、聞き馴染んだ声に似て聞こえた。
 彼ははほんの一瞬【月】の本体のある場所に片方の目玉を向けた。
『姿だけでなく声まで真似られると来たか』
 エル・クレール=ノアールをモデルに匠が黒御影で性愛女神アシュテレトを彫り上げたなら……そしてそれが数百年の時を経たなら……おそらくこのような裸像ができるであろう物体があった。
『対象物を長く見、詳細に写し込むほどに、本物と虚像の差が縮まる……らしいな』
 【月】にとって不幸であったのは、この一瞬間、彼女が「よそ見」をしていたことだった。
 戦闘の相手を、衛兵や伝令に授けた小さな破片からのぞき見るのではなく、我が目で見、鏡本体、すなわち自分の体の表面に写し込もうとするあまり、彼女は邪恋の相手がこちらを見てくれたことに気付かなかった。
 ニセモノの横顔に浮かぶような恍惚の色が本物のエル・クレールの顔に広がった所を、少なくともブライトは見たことがない。それでも彼女がその表情を浮かべたとしたなら、それはこの石像もどきと同じ顔になるに違いなかった。
 本物が行っているところを直接映さずとも、本物と同様のことができる、ということらしい。
『この分だと、おそらく「能力」まで写し盗りやがるな。やれやれ、厄介な鏡の化け物め』
 ブライトの目玉はすぐに元の位置に戻った。
 直後、彼の眉間には深い縦皺が刻まれた。
 【月】の声を聞いたエル・クレール=ノアールが、おびえている。
「アタシはとっても好奇心が強いの。あれもこれも、総てを知りたいし、総てを手に入れたい」
 ブライトにエル・クレールの物真似と聞こえた【月】の声を、エル・クレールはかつて聞き覚えのある声と感じた。
 その声の優しさ、懐かしさ故に、彼女の体は強張っている。
 伝令官の喉元から、蝕肢ではない、もう一本の物が突き出た。どす黒いそれは左の腕の形をしている。手に、澱んだ赤の細身の剣を握っていた。
 蝕肢の直線的な攻撃は、どうにかかわした。かわした先に筋張った腕が待ちかまえてい、弧を描いて斬りつけてくるのも、何とか防いだ。
 それらはぎこちない動作だった。動きから精細さと柔軟さが失せていた。
 飛び退いて、着地を失敗し、椅子の列の中に倒れ込んだ。
 革靴の音がした。倒れ込んだ椅子を蹴り飛ばしながら、エル・クレールの側に寄って来る。
 良く磨かれた革靴を履いた伝令官の肉体は、上体を反らした安定感のない体勢になっていた。頭は真後ろに落ちこんでいる。
 彼の目に前が見えるはずはない。位置的にも、そして生物学的にも。
 にもかかわらず、ふらつきながら伝令官の「体」は歩いている。喉元から生えた腕の脇、蝕肢の根元に、大きなコブができていた。
 不気味な音がした。肉が千切れ、骨が砕ける音だった。
 コブが大きくなって行く。
 皮膚の下に、凹凸のある丸いものが埋め込まれているようにも見えた。
 【月】は笑いながら言う。
「あなたにもあたしの気持ちがわかるでしょう? だって、あなたはアタシだもの」
 ぬらした革製品が裂ける音が鳴った。ほとんど同時に、錆びた鉄と腐った肉の臭いが当たりに広がった。
 伝令官の首と胸の間、破れた皮膚の下から、血肉に塗れた女の首が現れた。
 額の丸い、彫りの深い、端正で、どこか幼い顔立ちの、真っ黒な女の頭が、男の体の胸の上に唐突に乗っている。
 上体を起こしたエル・クレールは、真っ白い顔を化け物に向け、唇を振るわせた。
お母様おたあさま?」

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