いにしえの【世界】 84
 ブライトの耳朶がピクリと振れた。それ以外に表情の変化はない。
 しかし、彼は心中で叫びにも近い驚愕の声を上げていた。
『テメェの顔真似が、母親に見える、だと? いやそれ以前に、あの化け物の声を親の声に聞き間違えていやがったか』
 伝令官の体から生えた頭の造形は、ブライトにはエル・クレールそのものに見える。ただし、元の【月】の淫奔いんぽんさが声にも表情にもにじみ出ている。それは今の彼女の肉体からはほとんど感じられないものだ。
 それがためにエル・クレールにはあれが自分の虚像だとは認識できないのだろうと、彼は考え至った。
 彼女の耳は自分と似た、自分よりもずっと大人びた声を聞き、目は大人びた女性を見たのだ。
 すなわち、彼女の母親の姿を。
 ブライトはエル・クレールの口から直接両親のことについて詳しく聞いたことはなかった。
 彼女が自ら話すことはないし、ブライトも聞き出そうとしなかった。
 聞き出す必要はないと考えていたのだ。
 山奥の小さな集落に押し込められた老いた元皇帝と若い妃が、オーガ共にどのように殺され、いかようにかどわかされたのか、あえて聞くまでもなく見当が付く。
『親父は真っ当な死に様じゃなかったろうし、お袋が着衣乱れぬまま連れ去れれたなんてことは到底ありえねぇ』
 鬼畜の所行という言葉はこの場合比喩ではない。童女であったクレール姫がどれほどのショックを受けたのか、想像に難くない。
 しかも、しくじりに際すれば己を責めるあまりに鬼に堕ちかけたことが幾度かあるほどに、責任感の強い彼女のことだ。親と故国が受けた辱めすらも、自分に力があれば防げたと、自分が非力であるが故に皆を救えなかったと、思い極めているのだろう。
 エル・クレール=ノアール、いやクレール=ハーン姫にとっては、両親、殊更生き別れてしまった母親という存在そのものがトラウマだと断じてもよい。
『ウチの可愛いクレールちゃんは、本人が見間違うくらいに母親似だってことか』
 ブライトは男の体から生えた真っ黒な女の顔らしき物体を睨み付けた。
 見る間に【月】の面に喜色が広がる。
「ああ、見て。アタシを見て」
 蝕肢と腕が攻撃の動きを止めた。
 エル・クレールが身を起こすのに十分な隙だった。それでも体勢を立て直すための猶予を与えてくれるほど【月】は情け深くなく、悠長でもなかった。
 ブライトが見ているのが彼女自身ではないと気付くのにそれほど時間はかからなかった。僅かの間休んでいた蝕肢はすぐにまた鋭角な動きを取り戻した。エル・クレールの顔面めがけて真っ直ぐに飛びかかった。
 避けつつ、撲つ――エル・クレールは判断し、行動した。
 蝕肢は白金の髪を二筋ばかり引き千切り、彼女の顔の横を通り過ぎた。
 すかさず剣を跳ね上げるように振った、筈だった。
 エル・クレールの腕だけが、天に向かって突き上げられていた。
 手の中には何もなかった。握り頼っていた武器がない。
 通り過ぎた蝕肢の先端が、U字に舞い戻ってきた。身を縮めてやり過ごし、床を転げてその場は逃げた。
 執拗な追撃が床にいくつもの穴を開けた。
 壁……といっても厚織りの天幕地だが……の際まで転がった。逃げ場がなくなった。
 顔を上げると、【月】は遠く離れた場所で顔面に焦慮を広げ、歯ぎしりしていた。
「本当に男の体という物は美しくない。重いばかりで動くことさえままならないなんて」
 よたよたと歩いている。
 どうやら乗っ取った伝令官の肉体が思うように動かないらしい。あるいは彼はまだかすかに意識を保っていて、必死に元の主に抵抗しているのやも知れない。
 兎も角、体を「操縦」している間は、攻撃の手を弱めなければならないらしい。
 エル・クレールは己の腰に手を伸ばした。
 その場所にアーム【正義ジュスティス】が封印されている。手の内から消えた武器が戻る場所はそこしかない。
 腰に触れた途端、鞭打たれたような音がし、指先に激しい痛みが走った。
 アームが力を解放することを拒んでいる。
 目の前が暗くなった。
「エル坊や、うふふ、あなたの武器は、とってもあなた思いなのね」
 【月】の声が徐々に近付き、
「あなたの武器は、あなたを傷つけたくないのよ。だからアタシを斬ることができない。だってそうでしょう? アタシはあなたそのものなんだもの」
 止まった。
 【月】はエル・クレールから五歩あまり離れた場所に立ち停まっていた。移動することを止めたのだ。すなわち、攻撃に専念するということだ。
 蛇蠍が気炎を吐き出すような、すれた音がした。

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