いにしえの【世界】 86
「何、だと?」
 理解できない。疑念の色がイーヴァンの青白い顔の上に広がった。
「いや、そんな面倒臭ぇモノはいらねぇって言った方が良いかもしれんな」
 ブライトはイーヴァンから奪い取った剣と錦の御旗をはぎ取った旗竿とを左右の手に握ると、それぞれを肩に担うように構えた。
 両の目で別々の的に標準を合わせている。
 二筋の風が僅かな時間差で起きた。大気が悲鳴を上げた。
 剣は曇った鏡面の肌を持つ化け物の顔面へ、旗竿は武器を失った剣士の頭に、それぞれその切っ先を向けて真っ直ぐに飛んだ。
 人力によって投げられたなどはとても思えない。攻城戦用の連弩から撃ち出されたかのような猛烈な速さと重さを持っいる。
 右腕が発射した剣の方が僅かに早く目標に達した。【月】の眉間のど真ん中に、マチに至るほどに深く、剣が突き刺さった。
「ああっ!」
 叫んだのはイーヴァンだった。細い筋張った手指で顔を覆った。恐る恐る、指の隙間から「主であったもの」の様子をうかがう。
 【月】は無言だった。攻め手が止まっていた。両方の目を中央に寄せ、己の額に何が起きたのかを確認した。口元に浮かぶ悦楽の笑みが大きくなった。
 その耳に、別の風音が聞こえた。
 赤い、細い、何かが飛んでくる。
 申し訳程度に尖った切っ先が、エル・クレールのこめかみに突き立てられようとした。
「ああっ!」
 この悲鳴もイーヴァンのものだった。思わず目をつぶっていた。
 エル・クレールはこの「攻撃」を上体を僅かに反らしただけで、避けた。
 そして、左の腕を持ち上げると、目の前を猛烈な勢いで横切ろうとする棒きれを、そこに置いてあるもののように掴んでいた。
 彼女は瞬きをすることも「攻撃者」を確認することも全くしなかった。
 エル・クレールは爆ぜるように立ち上がった。
 手の腹に棘が刺さったような、小さな痛みを感じる。
 武器とするには心もとない細さの棒きれを握りしめ、身構えた。
 【月】はエル・クレールをじっと見た。
「ねえ、勇ましくて可愛らしい『アタシ』」
 エル・クレールは唇を真一文字に引き結び、【月】をにらみ返す。
「あなたのお付きの、あの逞しい方ね……それからあなた自身もだけれど……賢いのかそうでないのか、アタシにはさっぱりわからなくなったわ」
 蝕肢が、顔の形をした石くれに突き刺さっている剣の柄に巻き付いた。
「だってそうでしょう? こんなモノやそんなモノで、アタシを倒そうなんて……」
 蝕肢が前後左右に動いた。骨にこびり付いた肉を大包丁でこそげ落とすような、薄気味の悪い音がする。
 石くれの顔の表面がひび割れた。中からドロドロとした茶色い粘液があふれ出る。
 一際大きく深いひびが頭蓋を取り巻くように走ったかと思うと、半球型の石の塊がごとりと落ちた。
「まさか本気で思っているの?」
 眉から上の頭蓋がなくなった石像から、長い剣が引き抜かれた。
 腐汁に塗れた剣が、エル・クレールに向かって投げ付けられた。
 細い旗竿がしなる。剣の横腹を叩いた。
 鋼の塊を払い落とした木の棒は、折れて、その先端部分は文字通りに木っ端微塵となり、吹き飛んだ。
 降り注ぐ木切れの中から、蝕肢と赤黒い剣の形をしたものとが飛び出してきた。
 エル・クレールは残った半分の旗竿を両の手で握り、防ぐ。
 折れた棒きれごときで防ぎきれる攻撃ではなかった。竿は更に短く折れ砕けた。
 ナイフ程の長さになった旗竿を、エル・クレールは右手に握った
 【月】の左手が突き出される。
 旗竿で打ち払った。剣を握った形の手首が、普通の肉体ならば決して曲がるはずのない方向に折れた。
 淫猥な歓喜の悲鳴と同時に、蝕肢が伸びていた。先端の爪が開く。エル・クレールの頭に噛み付こうとした。
 エル・クレールは咄嗟に左の腕を振った。硬い外骨格を平手で打つ。
 金属と金属が当たる音がした。
 【月】の蝕肢は、それが旗竿を砕いた時と同じように、ひび割れ、粉砕され、吹き飛ばされた。
 そればかりか、【月】の本体も弾き飛ばされていた。
「なにごと!?」
 仰向けに倒れながら、【月】はエル・クレールの姿を探した。
 彼女の体は【月】が倒れる反対に向かって、やはり飛ばされていた。

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