いにしえの【世界】 87
 エル・クレールは意識を失った。深淵の底の深い闇に突き落とされたような、ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感が彼女を包んだ。
 しかしそれは一瞬のことだった。目を開いた。
 床があった。
 四角く切りそろえられた石が、律儀に隙間なく組み合わされた床だ。
 ならした土の上に薄い布を敷いただけの、移動式芝居小屋の床ではなかった。
 長い間、日の光を浴びたことがない、燭台の灯火にすら照らされたことのない、冷え切った床。
 彼女はその上に打ち倒れている。
 敷き詰められた石の目地の中で、埃のような砂粒がブルブルと揺れていた。
 床が、彼女のいる場所が、揺れ動いている。
 床の振動の奥から聞こえるのは、人の声、足音、物が壊れる音。
『戦……』
 直感したが、確かめられなかった。
 身を起こすことができない。指の一本を動かすだけの力すら湧いてこない。
「望みは叶ったか?」
 強い風のうねりのような低い声が、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
「ここがお前の【世界ル・モンド】だ。この場所に君臨するが良い。お前の民は誰一人として悲しむことはなく、誰一人として苦しむことはない。餓えも貧しさも、不平等も搾取もない。お前は誰からも攻められず、憎まれず、責められず、蔑まされない」
 彼女は目を閉じた。血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
 首を振った。実際にそうしたのかどうかは、彼女にも解らない。
 しかし彼女の心は拒絶と否定を示していた。
「お前の言いたいことは判っている。お前が望んでいることを、こんな詭弁でごまかせるモノではないからね。だがね……」
 仄暗い闇の奥から、赫い薄明かりを纏った逞しい拳が差し出されるのが見えた。
「隔絶され、閉ざされた、小さな【世界】、それがお前の【世界】なのだよ。そしてお前がここにいる限り、ここがお前の【世界】であり続ける」
「ここに、いる、限り……」
 不意に体が軽くなった。
 彼女は冷たい床から身を起こし、当たりを見回した。
 狭い部屋だった。石を積んだ強固な壁に、丸く取り巻かれている。手の届かない高さに、一つだけ小さな窓があった。
 歪んだ四角の枠の中の小さく青く澄んだ空を、白い雲と灰色の煙が流れている。
 地揺れがした。
 頭上から細かい土埃が舞い落ちる。
「外から崩されて、押し潰されるか。内から崩して切り開くか。お前の選ぶべき道はわかっているだろう? 勇敢なノアール……いや、賢いクレール」
 大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、彼女は耳新しさを憶え、懐かしさをも感じた。

 頭の上で、何かが壊れる音がした。

 エル・クレール=ノアールは無数の椅子の残骸の中に身を横たえていた。
 右の二の腕の関節のない場所が折れ曲がっている。
 痛みは感じなかった。脳漿の中で沸騰する何かが、苦痛や恐怖を取り払っていた。
「右は……不要!」
 跳ね起きた。
 左の手に力を感じていた。使い慣れた【正義】のアームと似た、しかし別の、そして弱い力だった。
 木切れを踏みつけ砕き割りながら、彼女は床を蹴った。
 数歩先に【月】が倒れているのが見える。
 エル・クレールがその直前に着地し、低く身構えた時、女の裸身が動いた。
 腹の横から突き出た幾本もの尖った「脚」が、強張った【月】の体を床から持ち上げ、がさがさと移動させている。
 割れた頭蓋が、いつの間にか元の形に戻っていた。その代わり、【月】の上半身の下にあった伝令官の頭がなくなっている。
「姿をお見せ、かわいいエル坊や! その美しい顔を、映し盗ってあげる」
 叫び、腕を伸ばす。文字通りに腕が伸び、エル・クレールの喉元にからみついた。
 腕はエル・クレールの首を締め付けながら縮んだ。引き寄せられるように【月】の上体が起き上がる。
 このとき【月】は気付くべきだった。
 エル・クレールが自身の腕を振り払おうとしなかったこと、引かれることに逆らってむしろ【月】の身を起こさせようとしていたことに。
 起き上がった【月】の曇った鏡面に、白い顔が映り込んだ。
 鋭い眼差しには、戦う決意が見える。
 優しげな口元には、慈愛の微笑がある。
 【月】の顔が歪んだ。
「お前は、誰?」

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