いにしえの【世界】 96
 この宿屋で「一番上等」だと、宿屋の亭主自身が胸を張る客室というのは、簡易な炊事場の付いた狭い食堂と、折り畳みの書き物机ライティングビューローが一台おかれた居間、枕二つが無理矢理並べられた寝台に占拠された寝室、という続き部屋だった。
 確かに部屋数だけは他の客室の三倍ある。
 しかしここは小さな村の安宿だ。祭りの時期はたいそう混み合うが、普段は行商人か伝令の小役人ぐらいしか泊まり客はいない。必要最低限の備えだけを有する建物は、そのものが小振りで、従って部屋も総じて狭い。
 もう少し大きな町の宿屋であったなら、この床面積を三つに仕切って続き部屋にしようなどとは、恐らくは考えもつかないだろう。
 水を張った手桶を抱えて主寝室の窮屈なドアを開けたシルヴィーは、思わず手桶を落としそうになった。
 窓の外に人がいる。……宿屋の最上階、四階の窓の外に、である。
 人影は窓枠にかけた両腕を支えに全身を持ち上げると、音もなく、ベッド脇の狭い床に降り立った。
『どろぼう!』
 シルヴィーは叫び声を上げそうになった。「賊」はベッドの中の怪我人に視線を向けている。咄嗟に手桶を投げつけて追い払ってくれようと考え至った。
 思いとどまったのは、その怪我人が掠れた呆れ声を上げたからだ。
「掏摸と強盗の次は空き巣の真似事ですか?」
「なんだお前さん、一服盛られて朦朧としている間に真ッパに剥かれたあられもない格好でベッドに縛りっ付けられてたンじゃなかったのかね?」
 ブライトはベッドの上に身を起こしているエル・クレール=ノアールが、ゆったりとした夜着を羽織っていることに気付き、落胆の声を漏らした。
「誰がそのようないい加減なことを?」
「ドアの向こうっかわに陣取るとうの立った楽園の門番ケルビムども」
 口惜しそうにいい、ブライトは大げさに肩を落として見せた。
「方便です」
 水桶をテーブルに置いたシルヴィーは、彼に椅子を勧めながらその顔色をうかがい、おずおずと言う。
「エリーザベト姐さん達は、良くない見舞客を追い返す方便に、そんなことを言っただけです。ですから旦那様、どうか姐さん達を叱らないでください」
 ブライトは背もたれのない小さな椅子にどかりと座って脚を組み、窮屈そうに身をかがめて膝の上に頬杖を突いた。
「初手から解ってらぁな。マジで『若様』が服をお召しにならないままに寝ていらっしゃったのなら、中に入れた連中が皆『姫様』のことを知ってなきゃおかしい。ところが、あの門番共は、うちのかわいいオヒメサマのことを知っているのは、テメェ等自身と、プリマと、それからそこのバァさんの四人と言った」
 顎を支える手の人差し指が、開け放たれていた部屋のドアを指し示す。
 寝室と居間との境目に、マダム・ルイゾンがの痩躯があった。闖入者ちんにゅうしゃを目の当たりにした彼女だったが、まるでブライトがここにいることが当たり前のような顔をしている。
 彼の横顔に怒りがないのを見たシルヴィーは、カーテンコールに応じるプリマがするような、軽く膝を曲げた礼をして見せた。
「ま、ちょいとは期待してたがね。クスリが効いてぐっすり寝込んでいるンなら、少なくとも布団をまくる前に殴り返されるよなことはないんじゃなかろうか。よしんば殴られたとしても、いつもみてぇに顎の骨が砕かれちまうよなことにはなるまいってな」
「顎の、骨!?」
 シルヴィーの黒目がちな瞳が大きく見開かれた。彼女はその目玉でブライトとエル・クレールの顔を交互に見た。
 ブライトの横顔は真面目そのものに見えた。一方、エル・クレールは呆れたような顔つきで苦笑いをしている。
 そのはにかんだ笑顔のおかげで、シルヴィーはブライトの言うことが「いくらか」大仰に過ぎるのだろうと察することができた。
 ブライトは頬杖の掌を開いて無精髭の顎をなで回し、真剣な眼差しをエル・クレールに注いでいる。
「俺は前々から、お前さんにはワルい魔法使いのヒドイ虫除けの呪いがかかってるンじゃねぇかと睨んでるんだ」
「その呪いで、自分が避けられていると?」
 ため息混じりにエル・クレールが反問する。ブライトは背筋を伸ばし脚をほどき、居住まいを正すと、真顔で大きく肯いた。
「もしそんな呪いがあるとして……あなたがそれを信じていて、そう仰っているのなら、ご自分が毒虫であると自覚していると言うことになるのでは?」
 重ねて訊ねるエル・クレールに、
胡蜂ホーネット蜜蜂ハニービーの区別がついていねぇから、ワルい魔法使いの呪いだっていうんだ」
 ブライトは下唇を突き出した。
「その大きな体で、ご自身を小さな蜜蜂に例えますか」
 呆れの口調で言いながら、エル・クレールは微笑していた。
「俺サマが蜜蜂なら、お前さんはたっぷり蜜を隠した可憐な花ってことさね。そいつはつまり、美しい綺麗だ魅力的だと褒めてやっているってことだ。乙女らしく大喜びしてホッペにチューの一つもしてくれようって気にはならんかね?」
 ブライトはおのれの頬をエル・クレールの顔の前に突き出した。ただし、顔つきはあくまで真剣であった。
 滑稽だった。いい年齢をした無精髭の大人が子供のような真似をするのを見たシルヴィーは、堪えかねて吹き出した。
 マダム・ルイゾンに視線でとがめられ、声を上げて笑うことは耐えた。それでも肩が大きく揺れるのを押さえることはできず、抱えていた手桶の水が跳ね上がった。
 慌ててルイゾンが濡れた彼女の手や衣服を拭いた。ルイゾン自身もにんまりと笑っている。
「いいえ旦那は胡蜂ですよ。だって蜜蜂は一挿ししたが最後自分も死んじまうけど、旦那は何度だってぶっ挿すおつもりでしょうから」
 自称蜜蜂には彼女の言いたいことがすぐに解ったが、可憐な花は卑猥なニュアンスをくみ取れる猥雑さがない。
 ブライトが解顔したわけも、ルイゾンがシルヴィーを抱えるようにして強引に部屋から出て行ったわけも、彼女には解らなかった。

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