いにしえの【世界】
クレール 光の伝説 7
神光寺かをり
目次
- 序
- 夢
- お芝居
- 剣とペン
- 黒鏡
- 古傷
- 踊り子たち
- 奈落の底
- 舞台裏
- 開演
- 中断
- 忠臣
- 戯作者の憂鬱
- 黒い月
- いにしえの【世界】
- 現世
- 朝ぼらけ
- 朝影
序
この大陸にかつて存在し、あるいは今も存在している国家は、太陰太陽暦を用いて祭祀を行ない、月日を数えてきた。
一年は立春をもって始まり、月にはその季節の花の名が冠せられ、日はその一日を守護する天使聖人神々の名で呼ばれる。
すみれ咲く第三の月、狩りの守護者スカディの第三十の日は、春の終わりを惜しむ祝日であり、ギュネイ帝国……というよりはその「親」であるハーン帝国にとって重要視される祭日の一つである。
正史の記述によると、ハーンの初代皇帝ノアールが、その妻クラリスを非公式に娶ったとされているからだ。
非公式、というのはつまり、神殿で結婚式を挙げた訳でもなく、婚姻の届けをどこかに出した訳でもない、という意味合いである。
もっとも、そのころのノアール=ハーンと言えば、大陸の片隅で数十名の徒党を組んで「義勇軍」を名乗る侠盗団の首領であったから、「政治的に正式」な結婚ができるはずもないし、彼自身するつもりもなかっただろう。
彼はただ四百年昔のその日、山深い小城を襲撃し、城内を土足で踏み荒らして回り、一層深い奥の部屋で数人の下女と身を寄せ合って震えていた姫君を奪って逃げたに過ぎない。
ハーン帝国の正史は、これを至極正直に「略奪」と表現している。
曰く【皇帝、夜半にガップ城を攻める。先陣を切り、敵兵伐つこと甚だし。城中より美姫を奪う。官軍死ぬるものなし】
淡々と「出来事」を記すその文章には、個人の感情を表す単語はほとんど見受けられず、一見冷徹ですらある。
事実を記さんとする史書の記述者にとって、略奪された姫がこの時どの様な感情を抱いていたのかは、書き記しす必要などなかったのだ。
彼は正しい。
おかげで後世の者たちは、その墨跡の単語と単語、行と行の間に、各々の「事実」を見いだすことができるのだから。
史学者は持論を展開し、物書きは物語を夢想する。
数々の注釈本、検証、論文。
戯作、黄表紙、通俗本、舞踊、謡曲、詩歌、田舎芝居、おとぎ話、寝物語。
多くの玄人・素人作家が「偉大なる英雄皇帝とその皇后」の物語を創造し、発表した。
ある作品は権力者に取り入って生き延び、別の作品は炎をもってこの世から葬られ、または人の心に何も残さず消え、あるいは姿形を変えて民衆の中に広まった。
そして四百年。
すみれの月、スカディの日には、大陸各地で盛大な祭が開かれる。
ギュネイの帝都サンクト・ヨルムンブルグでは、専用劇場で無言舞踏劇が演じられるのが倣わしとなっている。
邪悪な侵略王が小国の美しい姫に己の後宮に入るよう迫る。従わねば、姫の故国は王の軍によって蹂躙されるだろう。
民を思う姫は自ら犠牲となることを決める。
決意を固めたその日から、姫は城の高い塔の上の個室に閉じこもった。我が身の不幸を嘆き悲しむその姿を、誰にも見せぬ為に。
そのころ侵略王が課す過酷な税と兵役に苦しめられていた民衆の中から、一人の男が立ち上がった。
彼はただ独り侵略王と闘うことを決心する。
その決心は、やがて多くの人々に知れることとなり、彼の元には多くの若者達が集まった。
彼らは、侵略王に与する者たちの官兵私兵と戦い、家屋敷を打ち壊し、宝物庫を開放していく。
やがて男とその一軍は、小さな国の小さな城の門前にたどり着いた。
固く閉ざされた門、高くそびえ立つ塔。
民衆が門を打ち破り、男は塔を登る。
小さく暗い部屋の中には、美しい姫がいる。
男は姫の身体を抱き上げると、小さな城の兵達は男に刃を突きつける。
男は彼らをことごとく倒し、姫を抱いたまま逃走する……。
この舞踊の筋立てこそが、すなわちハーンとギュネイの「公式見解」ということだ。
初代皇帝はたしかに略奪者であったが、その略奪によって姫は巨悪から救われたのだから、むしろ讃えるべきである。
為政者たちは民衆に対して無言のメッセージを送り、それを広めようとしている。
その証拠に、この演目は誰もが上演することが許されている。それも時を問わず、場所を問わず、である。
めでたい婚礼の席でも、真夜中の神殿の拝殿でも、葬儀の最中でも、皇帝の演説中であっても、唐突に突拍子もなく舞うことが許可されている。
見事に演じきれば、演技者は喝采を受け、皇帝直々に褒美を与えられる。
しかし。
この演目は公文書管理庁が発行する楽譜と台本が唯一無二の演出法とされており、筋立てを改変することは許されない。
筋立てどころか、伴奏がほんの少し音程を外しただけでも、舞い手がほんのわずかステップを踏み間違えただけでも、演技者総てとその三族が捕縛され、投獄される。
運が悪ければそのまま一生日の光を浴びられぬまま、死を迎えることになりかねない。
故に、このリスクの高い演目を非公式に演じようという者はまれだった。
結果としてこの舞踊は、すみれの月スカディの日に帝都専用劇場でのみ演じられる特別なものとなっている。
一.夢
「これは、夢だ」
公女クレール・ハーンは「自分の寝室」の小さなベッドの上で確信していた。
春の終わりの、穏やかな朝だった。
大きな窓から陽の光が天蓋のレースを透かして、編み模様の形で彼女の頬の上に影を落とす。
薄い絹の寝間着も、柔らかな羽根枕も、軽い肌掛けも、確かに「日頃使い慣れたもの」だった。吸い込む空気に古い書物のような甘い香りがするのもまたしかり。
「でも、違う」
姫君はベッドから飛び降りた。素足のまま硬い絨毯の上を駆け、ドアを開け放ち、廊下に出る。
隣室は侍女侍従たちの控えの間だ。ドアノブに手をかけ、引く。
開かれた空間は薄暗く、静かだった。
公女は身震いした。
瞼を固く閉ざすと、頭を振る。たった今見た冷え切った闇を脳漿から追い出したい。
細い自身の身体を抱きしめ、後ずさる。
大きく一息つくと眼を開き、しかし己が身体は固く抱いたまま、彼女は再び駆け出した。
大理石の床に素足の触れるひたひたという音が彼女の耳に聞こえた。
それ以外には、人の声も、衣擦れもの音も、日々の営みの気配も、空気の揺れさえも聞こえない。
しかし頭の奥では、侍女達の田舎娘らしい笑い声や、生真面目な侍従たちの挨拶、そして家臣達の声が、懐かしさを帯びて響いている。
公女は今一度頭を振った。
「違う。コレは夢。コレは幻。見えない、聞こえない。違う……違う」
頭の奥の声をかき消す為、彼女はつぶやき続け、ひたすらに駆けた。
いつしか彼女の無意識の足は、彼女を大広間へと運んでいた。
山奥の小城の「大広間」は、国会議事堂と謁見室とダンスホールを兼ねた、小さく地味な空間だった。
部屋の南側は一面が窓だ。
大きな窓は小振りな木枠で細かく仕切られ、その几帳面な四角の総てに板ガラスがはめ込まれている。
職人が丁寧に作ったガラスの板の表面には、味わい深い歪みがある。そこを通り抜ける日差しは柔らかく揺れ、室内はまぶしいほどに明るい。
クレール姫は広間をぐるりと見渡した。
窓の向かい、北側の壁には、大きな肖像画が掲げられている。
都と帝位を追われた「大公」と、その年若い妻。
幸せを顔料に描かれたに違いない、暖かく荘厳で美しい絵画だった。
だが、公女の瞳に映る在りし日の両親の姿は、霧の彼方にあるがごとく霞んでいた。
肖像画が発するまばゆい輝きに、彼女は暖かさを感じられない。むしろ底冷えのする冷たさが、彼女の身を覆う。
「恐ろしい」
歯の根が合わない。震えをこらえようと、紫色の唇を噛む。
頬に熱いものが流れるのを感じ、彼女は顔を伏せた。
赤い絨毯の上の白く頼りない足先が、その部分だけやけに現実味を帯びて存在している。
クレールは桜色の爪をじっと見つめた。それ以外の空間がゆっくりと闇の中に消えてゆく。
その闇から、猛烈な腐敗臭が立ち上った。
悪臭は、破れた皮膚と溶けた肉をまとった無数の骸から発せられていた。
闇から生じ、蛆とぼろ布に覆われたその死骸達は、下手な人形遣いに操られているがごとく不自然に蠢いている。
腐敗ガスを呼吸し、腐汁を滴らせながら、それらはクレール姫の足下に群がり来る。
身の毛のよだつ様、とはこのことであろう。事実、クレールは震えていた。
「コレは、夢だ。質の悪い、嫌な夢」
つぶやく彼女は、恐怖していなかった。
震えていた青紫の唇に、ほんのりと赤みが差す。
「嫌な夢。夢の中でまで、こいつ等の相手をしなければならないなどとは」
頬には幽かな笑みが浮かび、翡翠色の瞳が輝く。
己を抱いていた腕を解き放つと、彼女は天を仰ぎ、唱えた。
「我が愛する正義の士よ。赫き力となりて我を護りたまえ」
赤い光りが彼女を包んだ。光りは彼女の両手の中で一条の帯となり、やがて一筋の刃に変じた。
「【正義】!」
言い放つと同時に、クレールはその赤い剣を振るった。刃は空気を斬るような軽さで、動く死体を切り裂く。
赤い光りの筋が通り抜けた跡には、動かない死骸が横たわっていた。
クレールは肩を揺らして息を吐き、視線を周囲に巡らせる。
眼差しは、何もない、誰もいない大広間の、ある一点で止まった。
東の壁際。一段高い床の上。シンプルで威厳のある一脚の椅子。
そこに一人の男が掛けていた。
いや、それを「男」と呼んでよいものだろうか。
こめかみの当たりから二本の角が生じ、房のある長い尾をかぎ爪のある指で弄び、淀んだ赤い視線をこちらに投げ、尖った牙を口角から覗かせて笑うものを、例えそれ以外は人と変らぬ姿をしているからとて、「男」と呼べるだろうか。
クレールは「それ」をにらみ付けた。すると「それ」が
「そう怖い顔をするものではないよ」
妙に澄んだ声で言う。
優しげな若い男のといった声音は、逆に疳に触る。
クレールは赤い剣を握りしめると、ゆっくりと「それ」に近づいた。
「退きなさい。そこは我が父の座。獣が座るなど以ての外!」
「獣か」
蔑みとも自嘲とも取れる鼻笑いに、クレールの憤慨は益々強まる。
「本当に、嫌な夢」
吐き捨てるように言う彼女に、「それ」は満面の笑みを向けた。
「これは夢かね?」
「夢以外の何であろうや」
クレールは剣を振り上げた。
しかし「それ」は眉一つ動かさなかった。そして重ねて訊ねる。
「何故そう言い切る?」
意表をつかれた。クレールの身体は剣を振りかざした形で停止した。
「クレール、君はコレを夢と断ずることができるかね?
跡形もなく倒壊したはずの『我が家』を、その中で動き回る死体を、目の前にいる見知らぬ者を、それと会話する自分自身を、君は夢と言い切ることができるのかね?」
柔らかな綿で胸元を押さえつけられる感触がした。息はできるが、苦しい。
「コレは夢だ。夢でなければ、私が私として……お前達『鬼共』を屠る者『エル・クレール』として、最早存在しないこの場所に立っている筈がない」
絞り出された返答に、質問者は満足そうな笑顔を返す。
「模範解答だ。まったくお前の頭蓋の中には、美しい脳味噌が詰まっているに違いない」
口ぶりは、まるきり優秀な生徒を褒める教師の様だ。弟子達に真理を説く哲学者か僧侶のごとく、「それ」の赤く濁った目が笑う。
「だがね、賢いクレール……。夢を見ている君は現実であろうよ。すなわち、こうしてここで我と問答している君は現実する。そしてそのことを、君のココは理解している」
黒光りのする尖ったかぎ爪がクレールの眉間を指した。
「同時に、君は恐れている。ここにある己を認めれば、目の前に見えるものの存在も認めなければならないかと」
尖った爪の先が、彼女の眉間から離れた。切っ先は彼女の顔の上、皮膚のすれすれを浮遊し、ゆっくりと下降する。
「さらに、君は望んでいる。夢幻》の中の『鬼』が存在することを認めれば、存在しないものに抱いていた恐怖から逃れられるやもしれぬ。
『逃れられぬものよりは斬って捨てられるものの方が良い』と。
故に君の方寸は、我が現実のものであることを望んでいる」
指先がクレールの胸、丁度心臓の上で止まった。
「賢いクレール、君は我を望んでいるのだよ。君自身の理性が人でないと蔑むものを、君自身の心は存在して欲しいと願って見つめている」
反論ができない。奥歯がギリギリと鳴った。
「我が君を欲して君の元に現れたように、君も我が君の元に現れることを欲している。我々は、相思相愛だ」
ニタリ、と「それ」は笑んだ。
クレールの不快感は頂点に達した。
しかし彼女の身体は、頭の先からつま先まで何かに覆われてでもいるかのようで、思うとおりに動かすことができない。
クレールは歯噛みした。
「腕を振り下ろすことができれば、私の【正義】でコレを斬ることができるのに」
押さえつける何かを、彼女は渾身の力を持ってはね除けた。
すると意外なほどあっさりと、体を覆う不快感が一息に晴れたのだ。
白鳥の羽ばたきのごとく、クレールは腕を振り上げる。
鬼神の形相を向けられた「それ」の唇は、相変わらず笑っていた。が、目元には酷く寂しげな色が浮かんでいる。
「それほど怖い顔をしてまで拒絶せずとも良かろうに」
さながら求愛を断られた優男だ。だが「それ」は気弱な男と違って落胆することを知らなかった。
黒い影がクレールの視界の隅で動いた。
素早い動作は、蛇が獲物を捕らえるさまに似ていた。
しかしそれは毒牙ではなく五本のかぎ爪を持っていた。
太く節くれ立った指が、剣を振り下ろさんとしていた細い手首に絡み付く。大きな掌が攻撃の力を総て押さえ込む。
慌てて腕を引いて逃れようとした。しかし「それ」は、それすらも許さない。むしろ彼女の腕を己の方へ引いた。
腕が引かれれば、当然身体も頭も「それ」の腕の中に引き寄せられる。勝ち誇る眼差しが、クレールの眼前に突き出された。
「放しなさい!」
逃れようと暴れるものの、力が及ばない。彼女は苦もなく組み伏せられた。
クレールの身体は「それ」の体で覆い尽くされた。筋張って硬い肉の重みが、彼女の自由を完全に奪う。
鼻先に「それ」の顔がある。
泥水色の髪、毛虫の眉、枯れ草色の瞳、楔のように尖った鼻筋、錆鎌の刃に似た唇。
それらが整然と、そして美しく並んだ顔が。
クレールは顔を背けた。
すると「それ」は彼女の耳につぶやいた。
「夜が明ける。残念なことだ」
深い落胆を吐き出す「それ」の体から僅かながら力が抜けた。それはその身そのもので作りだしていた戒めが弛むことを意味した。
クレールは両の足を突き上げた。不意を突かれた「それ」の肉体が、大きく跳ばされる。
大柄な男の身体が床に叩き付けられ、ドサリ、と鈍い音を立てた。
カビ臭くほこりっぽい空気が、ゆらゆらと揺れている。
朝日がまぶしい。
エル・クレール=ノアールは子犬のように頭を振った。白髪と見まごうプラチナの髪がさらさらと揺れる。
翡翠色の瞳を覆う瞼は少しばかり腫れ、取り囲む白目は充血していた。彼女は利き手の甲で眼の当たりをこすり、無理矢理の瞼を持ち上げる。背伸びをすると、安っぽいベッドがギシギシと悲鳴を上げた。
その足下の、艶のない板床の上に、黒みを帯びた黄茶色の頭髪が、丸まった針鼠の格好で転がっている。
頭は太い首で幅の広い肩に繋がり、その下に広い背中があり、がっしりとした足腰がある。
彼女の旅の道連れは、脂汗をかきながら臍の下を押さえ、うつ伏してうずくまっていた。
「全く、寝相の悪いオヒメサマだ」
ブライト=ソードマンは床とキスをした格好のまま、口惜しそうに喘いだ。
エル・クレールはあくびとため息で呼吸すると、不自然に空いた夜着の胸元を綴じ合わせる。
「どうりで夢見が悪かった訳です」
「俺サマはただ、お前さんがあんまり寝苦しそうだったから、襟元を開けば息がしやすいだろうと、親切をしてやったンだぞ」
言い訳したブライトだったが、床から顔を引きはがして見た、彼が相棒と呼ぶ「男の身形をした娘」の目元の痙攣が、どう身贔屓して見ても寝起き故の不機嫌から来るものではなさそうなことを悟り、慌てて話題を変えた。
「時に、この宿は飯が出ないそうだ。朝飯は外で喰うことになるんだが、どうやら近くに飯屋は一つしかねぇときてる」
精一杯に清々しく、しかし引きつった笑顔を向けると、エル・クレールのこめかみから痙攣が消えた。
「ではとりあえず一度この部屋から出て頂けますでしょうか? 着替えをしますので」
彼女の表情からは、怒りであるとか、怪しみであるとかいう負の感情は読みとれない。
ブライトは安堵し、つい、軽口混じりの本心を口にした。
「下着の着付けを手伝わせて欲しいんだがね」
「ご親切、痛み入ります」
意外なことにエル・クレールは破顔した。ただし、その笑みは水晶の仮面のごとく、硬く冷たい。
「ただ思いますに、今度はおそらく床に倒れ込むだけでは済まないでしょうけれども。そう、確かこの部屋は三階で、窓の外は石畳だったと記憶していますが、これは私の憶え違いでしょうか」
ブライトは黄檗色の瞳を見開いた。
彼の相棒は冗談を言うことを苦手としている。口にしたことの大半は実行しないと気が済まない質だ。
彼は慌てて部屋から飛び出していった。
二.お芝居
『時は大帝ジンの頃』
というのは、戯作者や講談師が彼らが作った物語の頭につける常套句である。
本来ならこの文言の後に
『だから、現在実在する人物・機関とは一切関係のないお話です。あくまでも作り話、フィクションですよ』
というお断りが続く筈であるが、大概の場合はその部分は大抵『以下省略』の体裁だ。
そもそもこの『お断り』は一体誰に向かって発せられているのかと言えば、読者観客にではなく、政府・国家に対してである。
ギュネイ帝国は国家に対する批判を、かなりきつく統制している。まあ、ギュネイに限らず、大概の国は多かれ少なかれ国家批判を嫌う傾向にあるのだが。
兎にも角にも。
ギュネイ帝国では、手放しの賛美なら許されるが、初代皇帝の人となりや、今上皇帝のお噂に、ちょっとでも『想定外の脚色』を加えよう物なら(たとえそれが「事実」であっても)、絶対君主に逆らう大罪に当たるとして、作者も版元も座長も興行主も俳優達も、みな数珠繋ぎでご用となる。
では、なぜギュネイ以前の国体であるハーンの時代のこととしないのかと言えば、ギュネイの帝位というヤツが、ハーンから正式に禅譲されたものであるからだ。つまり、国家としてのハーンは国家としてのギュネイの親であり、その先祖は帝国の先祖という扱いだ。
親も先祖も敬わねばならぬと、常々臣民に対して教え諭しているギュネイ帝室の方針からすれば、親であり先祖であるハーン帝室をないがしろにするわけには行かぬ。
だから、ハーン時代に実際に起こった事件を、ハーンの帝室や政府の関係者になんらしかの落ち度があったように演出すれば、やはり逮捕される。
こういったわけで、戯作者達は物語の冒頭で断りを入れるのだ。
これは今の話でも、ハーンの頃の話でもないのだ、と。ハーンが打ち倒した憎き敵国の、横暴な王が支配する哀れな土地の物語だ、と。
「ああ、成程」
エル・クレールは、翡翠色の瞳を大きく見開き、文字通り膝を打って感嘆を漏らした。
その大げさな様子は、一般常識を言ったに過ぎないという認識のブライトを大いに呆れさせた。
立夏前の例祭が近づき、片田舎の寒村では人々が皆浮き足立っている。
どうやらこのあたりではこの村が一番豪勢に祭を執り行うらしい。準備もままならない内から近隣から見物客が集まり始めている。
おかげで村に一軒しかない食い物屋は大賑わいだ。
ブライトは相棒の世間知らずぶりが周囲の酔客に嘲笑されてはいないかを確認し、ため息混じりに言う。
「成程も何もあったモンじゃなかろうに」
彼は木の匙を握った手を小さく上から下へ振り、声音を落とせという仕草をしてみせた。
エル・クレールは頷いたが、声の大きさは変えられても目の輝きは消せない。
「まだ幼かった頃のことですが、母が旅回りの劇団の演目にずいぶんと不満を漏らしていたことが、ずっと腑に落ちなかったのです。大昔の良くない官僚に自決を強いられた地方領主の仇を家臣が討つという忠義な物語の、どこが気に入らないのだろうと」
そう言って、晴れ晴れとした笑顔をブライトに向けた。その晴れ晴れしさ加減が、益々彼を困惑させる。大げさに頭を抱え込む仕草をして見せた。
「元ネタが悪すぎる。お前さんのお袋さんなら、確かに怒るだろうさ」
「そうなのですか? あなたに説明して頂いたので、本当は大帝の時代の話ではなく、ハーンの頃の実話を元にしているのではあろうと想像できますけれど、母が腹を立てる理由が今ひとつわかりません」
笑顔の上に、うっすらとあどけない疑問の色が広がっている。
ブライトは頭を掻いて、口の中で『今でもまだ十分幼い』とつぶやいた。
やがて指を折って何かを数えた後、彼は小さく、声を出した。
「海の向こうからお姫様が輿入れするってぇその日に、宮殿の隅っこで二人の貴族が喧嘩騒ぎを起こした。今から大凡五十年前、ジオ一世の頃だ」
「曾祖父の……」
エル・クレールは言いかけて口を塞ぎ、辺りを見回した。
クレール姫はジオ一世の直系ではない。
嗣子に恵まれなかった一世は自分の従姉妹の子を養嗣子とし、ジオ二世を名乗らせた。二世は子宝に恵まれ、三世が生まれ、御位を継いだ。
そのジオ三世がハーン帝国のラストエンペラーであり、今はエル・クレールを名乗っている娘の父親である。
ハーン帝室はすでにこの世にない。
国家としても、そしてその血筋そのものも、末裔の封じられたミッド公国の滅亡と同時にこの大地から消え果てた……ことになっている。
エル・クレールは自身で我が身を「死んだはずの最後の公女」、あるいは「世が世なら皇太子たる皇女」であると公言しそうになったことに、少々狼狽した。
彼女にとって運の良いことに、周囲の客達は皆、祭り前夜の浮ついた盛り上がりの空気に酔ってた。興奮している彼らの耳には、見知らぬ客の小さな声など入りようもない様子だった。
「ジオ一世陛下は随分と……つまり『気の早いお方』だったと聞いておりますけれど」
安堵した彼女は、それでも一応は己の言葉尻を訂正し、尚かつ慎重に言葉を選んだ。
確かに彼女の言うとおり、ジオ一世は何事にも「素早い決断」を第一に重んじる性質だった。
素早い決断は正しい決断力から下されたものであれば何も問題は起こらない。むしろ即断即決は歓迎されることの方が多い。
しかし彼の皇帝の決断は実のところあまり歓迎されてはなかった。
十の決断の内、七つか八つは「重大な問題」を引き起こし、誰かが命がけでその問題を解決しなければならない結果となったのだから。
詰まるところジオ一世という皇帝陛下は、短気で短絡的という、支配者には不向きな性格だったのだ。
しかしその事実を口に出して言う訳には行かない。
エルの歯切れの悪い口ぶりは、むしろブライトに彼女の本心を良く伝えるものとなった。
「両方の言い分を聞く前に領地の没収やら爵位の剥奪やらを決めたのは、確かに『その人』の落ち度だがね」
彼も言葉を選び、声を潜めて言う。
「それで母は、ハーン家にとっては良くない物語だと怒って……」
「それもそうだが、敵討ちの標的にされた方の登場人物の描かれ方のほうが、むしろ癪に障ったんだろうよ。……ジオ一世のお気に入りの役人学者の、さ」
ブライトはわざわざ遠回しに言った。しかしエルの顔に浮かんだ疑問符が消えない。
『こりゃ今朝の夢見が余程悪いモンだったらしいな。いつも以上に勘働きが悪い』
彼は後頭部をゴリゴリと掻きながら足りなかった言葉を補った。
「ギルベルトって言ってな。今のお偉いサンの三代前のご先祖で、お前さんのお袋さんにとっちゃ義理の爺さんの兄弟にあたる」
途端、エル・クレールの瞳からキラキラとした光が消え失せた。
「母は、自分がギュネイの血族であることを重んじていましたから」
ブライトの呆れの対象は、目の前にいる男のなりをした元公女から、その母親に移った。
「後妻の連れ子だろうに」
深く考えもせずに言ったその直後、彼は黙り込んだエルの瞳に、別の輝く物を見付けた。
涙だった。
こぼれ落ちる寸前の量で、蓮の葉の上で転がる露のようにふるふると震えている。
ブライトは少々あわてて、しかし吐き捨てるように言った。
「この場合は褒め言葉だぜ。何しろ、あの小汚ぇ血が流れてねぇってことだからな」
「フォローになっていませんよ」
目頭を軽く押さえ、エル・クレールは無理矢理に苦笑して見せた。
「名家の苗字を背負わされるのは、それだけで大変な重責なのです。だから母は……むしろ血が繋がっていないからこそ、ギュネイの名を重んじなければならなかった」
エル・クレールの脳裏に、なぜか一枚の肖像画が浮かんだ。
愛らしい、しかし大人びた少女の像だ。
それはジオ三世に嫁ぐ四年前に描かれたという、母・ヒルダの姿だった。
かつて娘は、『いずれ自身もこのように成るのだ』と信じていた。
だが夢見るお姫様は、一二歳の時に絶望した。
額縁の中に封印された過去の母は、華奢な肩の下に丸いふくよかな胸を持っている。
しかし「過去の母」と同じ年齢になったクレール姫は、少年のように痩せていた。
この瞬間、母はエル・クレール……いや、クレール姫にとって信仰対象となった。
理性的で、知性的で、夫を立てる良妻で、子を慈しむ賢母で、何より美しい……一番近くにいて、一番自分から遠い存在。
エル・クレールは小さく頭を振って、自身を現実に戻した。
「あのとき母は、すぐに一座を国外に追放するべきだと主張しました。ですが父は『作り話に過ぎぬ』と言って、笑っていた」
エルの瞳の中で、思い出の懐かしさと、未だ消えない疑問とが、混然とした充血を生んでいる。
すると、ブライトが鋭いまなざしで言う。
「外様の殿様のとる態度としては、親父さんのやり方は、小賢しいくらいキレた方法だろうよ」
驚きに持ち上がったエル・クレールの顔の前で、彼は指を二本立ててみせる。
「第一に、領民が喜ぶ。第二に、帝都に偽報を流せる」
「どういう意味でしょう?」
「言論と芸術は締め付けすぎると暴発する。ある程度は大目に見ておけば、とりあえず領民が王様に不満を言うことはない。これが一つ目。適度に『取り締まらない』ことによって、対外的には『領内を統治し切れていない暗愚な殿様』を装える。こいつが二つ目だ」
「しかし、暗愚が過ぎれば、それは取りつぶしの格好の材料になりはませんか?」
当然の疑問に対し、ブライトは少々見下すような笑みを浮かべた。
「その時結局はその興行、取りやめになりゃしなかったか? 親父さんの家臣の中でも頭の切れるヤツが、座頭に掛け合うか何かしただろう」
小馬鹿にされていることに気付いたエルだったが、それに対する抗議はできなかった。
記憶をたぐれば、確かに一座は芝居の演目を変えていたのだから。
「祐筆のレオンが父に何か進言したようです。詳しくは覚えていませんけれど」
「そうやって『殿様が抜けてても回りに優秀なのがいてもり立てていますから、下手に手出しをしない方が良策ですよ』ってアピールをした訳だ。計算ずくでな」
ジオ三世に対して向けられているであろうブライトの笑みに、下卑た軽蔑は微塵もなかった。
エル・クレールの顔は得心と安堵と、少しばかりの誇らしさに満ちた。
が。
「ところでお前さん、何を唐突に『作り話のお定まり』の疑問を蒸し返したりしたんだ?」
今度はブライト=ソードマンの顔の上に疑問の色が広がっていた。
エル・クレールは童女のように微笑んだ。
「この祭りにも地回りの劇団が来ていて、時代物を上演すると聞いた物ですから」
祭りの雰囲気は、通りすがりに過ぎない彼女の心をも浮つかせているらしい。
ブライトは酷く驚いて、
「おいおい、まさか芝居見物がしたいなんて言うんじゃなかろうな? 普段ならお前さんの方が木戸銭を惜しがるんじゃないかね」
エル・クレールは彼の的を射た嫌みに苦笑いしながら店の片隅を指さした。
薄汚れた手書きのポスターが一枚、申し訳なさそうに壁に貼られていた。
それは貼らない方がましかも知れないほど、何とも哀れな様相を呈している。
なにしろ絵柄も画力もお世辞にも上手とは言えない。色遣いやデザインのセンスにも首を傾げたくなる。
それを長い間大事に使い回しているのであろう。四隅と言わず鋲や釘の痕があり、その穴から裂け目が縦横に走ってい、それを裏紙で補修しているのが遠目にも判る。
「偶然ではあると思いますが、なんとも戯作者の名前が気になりまして……。何分、あれとよく似た名前の叔父がおりますので」
ブライトは眉間にしわを寄せ、ゆがんだカリグラフをめねつけた。
『戦女神クラリス 作:フレキ=ゲー』
「目の良いことだ」
彼は野犬のうなりのような声でつぶやき、後頭部を激しく掻きむしった。
エル・クレールはその様子を、ある種の期待を持って見つめていた。
エル・クレール=ノアール……というか、クレール=ハーン姫……が「叔父」と呼べる血縁は、父方にはいない。
彼女の「叔父」に当るのは彼女の母方の縁者だけであり、それはつまりギュネイ帝室に繋がる人物と言うことになる。
「フレキ=ゲー」もやはり母方の縁者だった。
本名をヨルムンガンド・フレキ=ギュネイという。
ギュネイ初代皇帝ヨルムンガンド=ギュネイとその皇后との間に生まれ父親からファーストネームを受け継いだ彼は、それにもかかわらず帝位を継げなかった。
父に、もう一人息子がいたためである。
彼よりも僅かばかり早く生まれ、長子の権利を得たそのもう一人こそが、今上皇帝・フェンリルである。
そのことを理由にしてか、あるいはもっと別の思うところがあるのか、ヨルムンガンド・フレキは自身を示すのにファーストネームを使わない。
そればかりか姓までも名乗ることを憚る。
どうしても姓名を名乗り、あるいは記名せねばならない場合は、ミドルネームと苗字の頭文字だけを用いるのだ。
すなわち「フレキ=ゲー」と。
ブライト=ソードマンはギュネイの帝室を嫌悪している。それは頭痛と吐き気を催し、時として正気を失うほどの激しい感情であるということを、エル・クレールはよく判っている。
もっとも彼に限らず、今の支配者達を良く思っていない人物は少なからずいる。
理由は各々様々だろう。
前の王朝にへの忠誠心、宗教的な対立、政治思想の違い、成功者への嫉妬、権力者への反抗心、個人的(乃至は一族的)な憎悪、過去に対する憧憬……。
ブライトがどの様な「理由」からその感情を抱いているのかは知れない。
共に旅をする上では理解する必要性があるのやもしれぬが、エルにはそのつもりがない。
直接的な血縁はないが、それでも縁の繋がる人々に対する彼の感情の悪さの由縁を、彼の口から聞かされたくないというのが、彼女の心情だった。
彼はことさら「嫌いな人物」に対する嫌悪感を押さえることを知らない。
よしんば、その顔が笑顔であり、声音が平静であったとしても、頭痛と狂気が変じた『尖った悪意』が皮膚を突き破ってにじみ出るのだ。
周囲の者、あるいは彼自身が、その細く鋭い感情に気付いていないとしても、エル・クレールは感じ取ってしまう。その切っ先はギュネイと縁の深い彼女の胸を痛ませる。
胸の痛みの上に耳からも言葉の毒を盛られてはたまらない。であるから、彼女は敢て訊ねることはない。
ところが人間という生き物は複雑にできているらしく、触れれば痛いと判っている針の先に敢て指を添えることをしたがる。
今もそうだ。
目の前の風采の上がらない男が、悪態を吐くか、あるいは、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちするかするのを、彼女は待ちかまえている。
己から敢て訊ねているのではない。相手が勝手にしゃべることだ。
己の胸に言い訳を聞かせると、エル・クレールはまぶたを痙攣させながらポスターをにらみ付けている十五も年嵩の男の様子を、じっと見つめた。
『きっとこの人は、唾棄する筈。叔父……いいえ、多分叔父と同姓同名の戯作者か、あるいはその名前にこだわる私に対して』
まるで剣山の上に手をかざしているかのようだ。それも針先が触れない程度の、しかし僅かな揺らぎを得れば指先が傷つく距離をもって。
そして白い皮膚の中から己の赤い血潮がにじみ出ることを待ちかまえている。
ところが、普段なら燐が突然炎を上げるように、瞬間的に悪態を吐き始めるはずのブライトが、口を真一文字に結んで黙り込み、痙攣する瞼を静かに閉ざしたのだ。
ほんのひとときか、あるいは小半時か、エルが不安に駆られだした頃、彼は小さく言った。
「お前さんは、俺が怒り出してあの『意気地のない末成り瓢箪』の話をするのを期待してるんだろう?」
ヨルムンガンド・フレキは背の高い痩せ男だという。その身体的特徴を揶揄してブライトは「末成り」と呼びつける。
実際のフレキが「末成り」と呼べるような病的に痩せた体躯であるかどうか定かでない。
ただ、しなやかな筋肉を鎧うた大柄なブライトからしてみれば、大概の男は痩せっぽちなのは確かではある。
彼は瞼を閉じたまま、目玉をぐるりと動かした。……瞳が開かれれば、尖った眼光がエルの顔を射抜くに違いない。
息を呑んで、しかし彼女は胸を張って答えた。
「フレキ叔父は私と親交のある親類です。親交といっても、父との間に幾通か書簡のやりとりがあった程度ですが……。それでも知った人のことです。多少ネガティヴな情報でももっと知りたいと思っては、いけませんか?」
「情報、ね。例えば、剣術はからっきしの先端恐怖症だとか、人前に出るのが嫌いな根暗だとか、役に立たねぇ本の蒐集癖が祟って床が抜けたとか、飯の種にもならねぇような駄文の書き飛ばしを連発しやがたったセイで帝都の紙価が倍に跳ね上ったとか、玉座をかっ攫われたってのにその相手に遠慮して山ンなかに引っ込んで隠者を気取り、その狭めぇ領地の切り盛りに失敗した政治的無能だとか、女嫌いで男として不能だとか。他にゃどんなことが聞きてぇンだ」
ブライトは険と嫌味がたっぷり染みこんだ小声の早口を一息にまくし立てると、生意気な悪童が近所の娘……どうやら別の男に気があるらしい……に向けるような、卑屈で嫌らしく意地悪で不安げな笑みを口元に浮かべた。
実のところ、彼のフレキ評はどれもこれも「ある程度は事実」だった。
幼い頃から活発で武術好きな今上皇帝フェンリルから比べれば、学問と読書を好むフレキはおとなしい性格といえる。
個人的な書庫として使っていた古い別荘の床板が腐って落ちたのも事実。
集めた古い書物に注釈を付けた書籍を数冊編纂したのも事実。
兄が帝位を次いだ後は宮殿を出、帝都から離れた領地ガップに住み暮らしているのも事実。
そのガップはもとより痩せた土地故、税収が乏しいのも事実。
そして女性との浮いた話がついぞ出ないと言うのも又事実。
嘘ではないが確証もない悪態を瞑目したまま言い立てる彼に、エル・クレールはきっぱりと答えた。
「どんなことでも、あなたが知る限りを、ことごとく総て」
「どうしようもねぇな」
妙に穏やかな声音で言い、ブライトは重たそうに瞼を持ち上げた。眼球が半分だけ露出する。瞼や頬にあった痙攣が、すっかり収まっていた。
「お怒りにならないんですか?」
エル・クレールは残念でならないといった口ぶりで聞いた。
「ガキじゃあるめぇし、そうそう癇癪起こしてもいられねぇよ」
ブライトはホンの一瞬ニタリと……自嘲ともとれる卑屈さで……笑った後、
「それにな、むしろあっちが気がかりだ。アレがハッタリじゃねぇとしたら、よっぽど度胸のある座長か、間抜けな興行主に違ぇねぇと思ったら、怒る気が失せらぁな」
件のポスターを指さした。
「おっしゃっていることの、意味がわかりかねます」
エル・クレールが唇を尖らせる。
ブライトは、今度ははっきりと彼女を小馬鹿にしていると判る笑みを唇の端に浮かべて、指を三本立てた。
「あそこの紙切れに書いてある『フレキ=ゲー』なる人物が誰であるのか。考えられるパターンは三つだ」
ブライトは立てた指を薬指から順に折り数え上る。
「一つ。本名か筆名が偶然あの末成りと一緒だったに過ぎない悪意のない『別人』。二つ。あの末成りが普段使ってる名前を意識して名乗っている、乃至は、誰ぞが書き飛ばした台本に野郎の名前を接げて箔を付けさせようってぇ、浅はかな『大法螺吹き』。三つ。あの末成り『本人』」
指が全部折りたたまれると、ブライトは一つ息を吐き、更に続けた。
「一つ目だとしたら、その戯作者はかなりうかつな奴だ。……仮にも今上の弟で、世が世なら皇帝陛下だって野郎の名前を、偶然だとはいえそのまンま名乗ってたら、憲兵に『皇帝に敬意を払わない不遜者』だと目を付けられるだろうし、下手すりゃ皇帝侮辱罪なんてくだらねぇ罪状をでっち上げられて、出世のネタにされかねねぇ」
言いつつ、彼は左手で後頭部をなでさすっている。皇族がらみの話になって、ジクジクと頭痛がするらしい。
「二つ目なら、良くも悪くも知識人としては世界一有名な野郎の皮をかぶって、大博打を打ってるってぇことになる。
洛陽の紙価を高めた『名前』につられて客が入るかも知らんが、バレたらそれこそ手鎖じゃすまねぇ。皇族を騙った大悪人てことで、間違いなく一座どころか三族そろって『こう』だ」
左手が後頭部から首元に移動した。彼はそれで手刀を作り、水平に動かして見せる。
エル・クレールは息を呑み込んだ。頭の片隅に、磔台の上で泣き叫ぶ子役の姿が浮かんだ。
ブライトは無意識に萎縮した彼女の肩を見ると、小さくため息を吐いて再び瞑目した。
「末成りが書き留めた駄文を原作になんぞやろうってぇなら、お上の許可を得ない訳には行くめぇよ。もっとも、滅多な申請にゃ許可なんか下りんだろうがね。つまり、一枚っきりのポスターを後生大事に使い回すようなドサ回りが、錦の御旗を担いでいる筈もねぇってこった。だから三つ目だとすると、厚顔無恥にも野郎の著作を勝手に引っ張り出して、根性で無許可営業しているってぇことになる」
「それで、あなたはどれだとお思いなんですか?」
エルが訊ねると、ブライトはふてくされた顔で、指を二本……いや遅れて薬指をゆっくり伸ばして、都合三本立てた。
「良くできた戯作者に書かせて肩書きだけ変えてるってのも考えられなかねぇが……。そうだとしても、ポスターがボロボロになるまで同じ演目を続ける前に、目の肥えた客に偽物だと気付かれる」
ちらりと目を開けて、彼はエルの顔を見た。
彼女はいたずらなまなざしで笑っている。
「……そんなに駄目叔父貴の話が聞けて嬉しいか?」
僅かに苛立ち、相当呆れた口調で訊くブライトに、エル・クレールは大きくうなずきを返した。
「少なくとも、叔父の文学者としての才能は、あなたでも認めざるを得ない高みにある、と言うことがわかりましたから」
「けっ」
汚れた床に唾を吐き捨てたブライトだったが、いきり立つとか、怒るとかいった激しい行動が続くことはなかった。
むしろ彼は脱力したように椅子の背にもたれ、
「あの末成りの書いたモンに、あそこの演目と同じタイトルの馬鹿話がある。ヤツの封地のごく一部の集落で密やかに口伝されていた昔話が元ネタだがね。だがその内容が政治的にヤバイってンで、書いた本人ですら『そのままの形』で外に出すのを躊躇して、そうとう朱筆を入れてから発表した」
「よく事情をご存じですね」
純粋に驚いたエルに、ブライトは苦笑いして、酷く陰鬱な声音で答えた。
「嫌な断片ほど脳味噌にこびり付くもンさ」
彼は的を狙う射手のように眼を細めて、件のポスターを見た。
ポスターの貼られた壁の前で、痩せた農夫らしい二人組が何か話し合っていた。
「娘ッコの出てくる芝居だ」
「娘ッコが刀なんぞを振り回すものか。これは恐ろしい戦女神の出てくる芝居だ」
「女神様だって女だろう。だからやっぱり娘ッコの出てくる芝居だ」
充分な教育を受けていないに違いない。張り出された紙切れに何が書いてあるのかを、文字ではなく絵から推察しようとしている。
彼らの背後から別の男が近づき、声を掛けた。
男は小柄で、こざっぱりとした身形をしている。農民という風ではないが、商人という匂いもしない。
どうやら農夫達とは面識がない様子だ。話しかけられた方が当惑して、無意識に半歩後ずさりし、男との距離を開けた。
「娘ッコでも女神様でもなくて、お姫様が出てくる芝居ですよ」
小男は文字が読めるようだった。ポスターの上のタイトル文字を指で指し示して、読み上げる。
「いくさおとめくらりす、ってあるでしょう? 戦乙女っていうのは、女の侍のことですよ。クラリスって言うのは人の名前だ。スカディ女神の化身だという人もあるけれども、そうじゃあない。誰あろう慈母皇后様のことです。将軍皇帝ノアールの奥方様ですよ」
丁寧な口調のその声は、別段大きすぎるというものではないのだが、妙に響きと通りが良く、ざわめく人々の間を抜けてエルとブライトの鼓膜を十二分に揺らした。
二人は神経の八割方を耳に集中させた。
「慈母皇后様ぁ、とても綺麗で可憐な方だ。刀ぶん回すような跳ねっ返りじゃねぇ」
農夫の一人が小柄な男の胸ぐらを掴んだ。
もう一人が抑えなければ、恐らく男は二,三発殴られて、昏倒していたに違いない。
国家の母として神格化されていると言っていい初代の皇后を、彼は純粋に崇拝しているのだ。
小柄な男は頬を引きつらせて、硬い笑顔を作った。
「その通り、その通り。可憐で綺麗で、そして夫を良く助けた方ですよ。夫唱婦随というやつです。だから、皇帝と一心同体で闘い抜いた人という意味で、剣を持たせた絵で描いてあるんです」
立て板に水のなめらかさで言う男を、農夫はしかし疑念の目で見ている。
「私は嘘を吐いちゃいません。この話のスジは一から十まで全部知っているんですからね」
「じゃあ、ここで言ってみろや」
農夫が強い口調で言う。声は響き、驚いた店中の視線が、彼と彼に関わっている人々に注がれた。
彼を羽交い締めにしているもう一人が、顔を真っ赤にしてぺこぺこと頭を下げている。
「すいやせん、許してつかぁさい。コイツは酒を飲むと声が大きくなるんでさぁ」
友人の恥ずかしがりように気付いていないのか、あるいは崇拝対象を侮辱されたという思いこみが強いのか、農夫は手足をばたつかせながら、「スジを言え、今すぐ言え」とわめき立てる。
「そりゃあできませんよ。そんなことをしたら、これから芝居を見ようって方の楽しみを殺いでしまう」
小柄な男は店の中を見渡し、客の一人一人に、ニコリ、ニタリと笑いながら頭を下げる。
その愛想の良さを見、エル・クレールは気付いた。
「芝居小屋の関係者」
ブライトは肯定の返事の代りに、大仰な伸びをした。椅子から仰向けに倒れ落ちそうなほど大袈裟に背筋をそらしている。
おかげで彼の目玉は彼の背後の様子をしっかりと見ることができた。
「あのチビ野郎の口車で、あの連中も言いくるめられれば良いがね」
身体を戻しつつ言う彼の肩越しに、エル・クレールはその背後を見た。店の入り口に場違いに立派な身形の男達が数人立っている。
三.剣とペン
先頭は細身で洒落者の四十男だ。大きな羽根飾りを付けた帽子をかぶり、金糸で縁を縫い取った赤い外套を羽織っている。
帽子の下の顔は青白く、薄い唇は妙に赤い。眼窩は黒く沈んだ色に染まっており、頬にも顎にも髭はない。
その半歩後ろに肩幅の広い若者がいる。
ぴったりとしたタイツに丈の短いジャケットを合わせ、宝石で柄と鞘を飾った長剣をぶら下げている。
赤ら顔は少年のように幼い。それを気にしているのだろう。少しでも男ぶりを上げようと、頬から顎にかけて髭を生やしている。
もっとも、その髭は産毛のように柔らかで、長さも生え方も不揃いなものだから、逆に子供の背伸びのように見えている。
彼らの左右と背後には、折り目正しい服を着た従者達が五人ほど、背筋を伸ばして経っている。
貴族であることは明白だ。
それも暇をもてあました田舎の貧乏貴族ではない。中央か、あるいは地方であっても、かなり重要な役職に就いている実力者であろう。
そうでなければ殿軍の従者が皇帝の紋を縫い取った「錦の御旗」を掲げて歩くことなどできはしない。
身動きできないほど混雑していた店内に、ざわつきを伴った一筋の道ができあがった。終点は言うまでも無くポスターの貼られた壁際である。
騒ぎ、暴れていた二人の農夫は、人々が発するただならぬ空気に怯え、這うようにしてその場を離れた。
残された小柄な男は、むしろ胸を張り、予期しなかったであろう訪問者に笑みを投げかけている。
客たちの視線は立派な貴族と小柄な男の間を泳いでいる。
エルの瞳もまたその二組の間を往復したが、最終的には彼女の連れの顔の上で止まった。
彼の顔には、落とし穴を掘り終えた悪童の笑みが浮かんでいる。
「頭痛はしないのですか?」
ギュネイの紋章を目の当たりにして……と、呆れ声で訊ねる彼女に、ブライトは
「するさ。反吐が出そうだ」
笑んだまま答える。
「また何ぞ企んでいらっしゃるのですね」
「人聞きの悪いことを言うな、何も考えちゃいねぇよ。今ンところは、な」
尖った犬歯の先が唇の端に顔を出した。底意地の悪い笑顔のまま、彼は例の小柄な男の側に眼をやった。
「あの小賢しそうな小僧が『お貴族様』をどうあしらうか『拝見』してからでも遅かねぇだろうよ」
「お気の毒だこと」
エル・クレールは貴族達のほうを見てつぶやいた。
あの小男はおそらく田舎劇団の宣伝や交渉事の担当だろう。
『ブライトの言うように、長い間フレキ叔父の名を騙って興行を続けて来たとするなら、嘘がばれぬように策を巡らせることができる要領の良い者が団員の中にいるはず』
ふと、脳裏に父の祐筆の顔が浮かんだ。
レオン=クミンは父の学友の子であり、幼いクレール姫にとっては兄のような存在だった。
普段は寡黙だが、必要な時には例え相手が己より遙かに年上であっても反意の嘴を夾むことを許さぬほどに雄弁になる。
痩せて背の高い彼は、額の広い落ち着いた顔立ちからか、実の年齢よりも十、下手をすると二十も年上に見られることがあった。
物静かで、知恵が回り、筆が立つ彼は、忠実な仕事ぶりが主君に愛され、重用されていた。
エル・クレールは件の小柄な男の顔をちらりと見、その隣に、レオンの生真面目な顔を思い浮かべた。
男は人当たりの良さそうな笑みを満面に浮かべ、手揉みしながら貴族達を待ちかまえている。
男の脂ぎった作り笑顔と、懐かしい生真面目な顔つきとに、重なり合うところは一点もない。
視線をさらに動かすと、ブライトの顔が見えた。日に焼けた無精髭の中に「一触即発に巻き込まれたくないと願う匹夫のような不安げな表情」を作っている。
『やっぱり良くないことを考えている』
連れの男装娘があきれ顔で自分を見ていることに気付いた彼は、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「くわばらくわばら」
大柄な、どこからどう見ても「腕っ節は良いが素行の悪そうなフリーランスか浪人」という風体で、実際腕の立つ剣士でもあるブライトが、小心な振る舞いをするのは……回りの者にはどう見えるか知れぬが……エルには随分と不自然なポーズに見えた。
とはいうものの、こうした不自然をこの男は平気でするということを、彼女はまた十分理解している。
良くないこと、つまり、人をからかったりおちょくったり、あるいは人でないモノを騙し討ちにしようと言うときに、この男はこういった「振り」をするのだ。
つまりブライト=ソードマンという剣客は、時として自分の力量を隠したがる「悪癖」を持っているのである。
おかげで相手は油断して掛かり、結果としてからかい倒されて散々な目に遭うか、あっけなく肉体を四散させられることとなる。
彼は背中を丸め、大きな体をテーブルの上に身を縮めると、指先でエルに耳を貸せと合図を送る。
彼女は身を乗り出させて、彼の口元に耳を近づけた。
「アレは食わせ者だぜ。後学の為に近くに寄って見物した方がいい」
周囲をせわしなく見回しながら、彼は小声で言った。端から見れば、小心者がうわさ話をしているように見えただろう。
「酷い人。あの男も、あの貴族も、両方をからかうおつもりなのですね」
エル・クレールは断定的に言う。ブライトは一瞬だけ唇の端に図星の笑みを浮かべると、すぐさま作り物の怯え顔に戻った。
「おまえさん、俺をどれだけ性悪だと思ってるンだ?」
「あなた自身が気に入らない者に対しては、この世で一番の悪党になりうる方だと信じて疑いません」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
彼は目の奥に悪戯な光を光らせた。そっと立ち上がると、背中を丸めて争乱の中心に向かって忍び足を進める。
「何が楽しくてああやって人をからかうまねをしたがるのだろう」
エルも立ち上がった。ただし、ブライトのようにこそこそした「振り」はしない。
むしろ、いざとなればもめ事の仲裁に入ろうかという、いかにも騎士道的で士大夫然とした様の血気盛んな若者の風に、胸を張って歩いた。
さて。
人垣の向こう側の人々はどうしているであろうか。
何か騒ぎが起きるだろう、良くないことが起きるに違いない……周囲の人々は興味と無関心の綯い交ぜになった視線を、件の男と貴族達に投げかけている。
髭のない帽子の貴族は赤い唇を笑みの形にしてはいるが、落ちくぼんだ暗い瞳の中にはそれがない。
一方若い貴族の目は、試合開始の銅鑼を待つ決闘士さながらの火を噴くような鋭さで男を睨め付け、刀の柄を握りしめている。
小柄ではしっこそうな男は、客受けの良さそうな笑顔を崩すことなく、むしろ大きくふくらませている。
彼は喝采を浴びるソリストのように大きく両手を広げ上げた。
「閣下、ようこそおいで下さりました。ああ、大変申し訳ないことです。まさか本日お着きとはつゆほども知らずにおりました。あらかじめこちらから伺おうといたしておりましたのですが」
「何の話だ!」
大声を出したのは若い貴族の方だった。
今にも飛びかかりそうな彼を、帽子の貴族は指一つ動かしただけで制止する。
「卿は、我らを知っていると申すかえ?」
赤い唇が甲高くざらついた声を出した。小柄な男はあくまでもにこやかに大きくうなずく。
「存じ上げておりますとも。恐れ多くも畏くも、皇帝陛下勅令巡視大使閣下で在らせられる、ヨハネス=グラーヴ様でございましょう?」
広げていた両腕を振り下ろしながら、男は身体を二つに折り曲げて礼をする。
所作の一つ一つは総じて大きく、芝居がかっていた。……芝居小屋の関係者であるなら、それも当然かも知れない。が、その大袈裟な身振り口ぶりを、若い貴族はどうにも気に食わない様子で、声を張り上げる。
「それを知っているならば、我々が何を言いたいか、判るな!」
男は腰を曲げたまま、顔だけをひょこりと持ち上げた。
「さぁて、手前にはさっぱり判りかねます。もしや、ご挨拶が遅れたことをご叱責でありましょうか?」
飄々と言い、首を傾げてみせる。
若い貴族は益々苛立ち、鯉口を切って半歩踏み出した。
「とぼけたことを言いおって!」
喚きながら、しかし彼は、実際に剣を抜くことと、それを振り回してかの男を叩き斬ることはしなかった。帽子の貴族、すなわちヨハネス=グラーヴが、今度は大きく右腕を上げて彼を制するからである。
「よい子だからお下がり、可愛いイーヴァン」
仔猫をあやすようにグラーヴが言うと、イーヴァンと呼ばれた若い貴族は奥歯をギリギリと軋ませ、元の立ち位置へと半歩退いた。
イーヴァンの不満げな顔に小さな笑みを投げると、グラーヴ卿は小男にも同じように笑顔を向けた。
冷たく尖った、しかし美しい微笑だった。
「フレイドマルの一座の者かえ?」
「ハイ、閣下。マイヤー=マイヨールと申します。お見知りおきを」
小男マイヨールは再度深々と頭を下げた。
「そう、お前がマイヨールなのね。聞いたわよ、ずいぶん面白い台本を書くそうじゃないの」
甲高く、鼻に掛かった、ざらついた音のするグラーヴ卿の言葉を聞き、マイヨールは頭を下げたまま口角だけをひくりと持ち上げた。
「光栄です、閣下」
社交辞令に対する返答は、少しばかりこもった声だった。
「でもこれは良くないわね」
グラーヴ卿は筋張った細長い指で壁を指した。
「良くありませんか?」
マイヨールは下げた頭を少しばかり後方にひねり、グラーヴ卿の指の先にあるポスターをちらりと見る。
グラーヴ卿はクスリと笑った。
「勘違いおしでないよ、マイヨール。お前の書いたもののできが良くないという意味ではないからね。だいたいアタシはまだ舞台を観た訳ではない。大筋は聞かされたがね。……お前の所の座長には困ったものだよ。観る前の客にネタをばらしてしまうのだから……。ともかく、あらすじだけでは脚本の良し悪しは言えたものではないものね。ただ……」
「お題がマズイ、とおっしゃる?」
マイヨールの頭がまたひょこりと持ち上がる。満面の笑みが、自嘲かあるいは自信か、それとも胡乱の故なのか、彼自身以外には図りかねた。
「お前、判っていて演っているのかえ?」
「手前は理解しているつもりでございますよ。今の天子様のことも、前の天子様のことも、お芝居にするには、充分、十二分の注意が必要でございます。座長がどう思っているのかは存じませんが」
「確かにあの男は理解力が足りなそうね」
頭を掻きながらニヤリと笑うマイヨールに、グラーヴ卿は冷たい微笑を返し、続ける。
「でもお前の理解力も知れたものではないわ。『判っていて演っている』と言うのなら、尚更よ。アタシたちの言いたいことがお解り?」
マイヨールの顔からにやけた笑いが消えた。彼は折り曲げていた腰をすっと伸ばした。
「天子様からの許可証が降りていない、とおっしゃるのでしょう?」
彼は悪びれもせず、むしろ胸を張っている。
グラーヴ卿はその堂々たる態度にどうやら嘆息した様子だが、腹を立てた者もいる。
「判っているだと!? 判っていて罪を犯そうとは、この愚かな確信犯めが!」
イーヴァンは上半身のみを前に突き出して喚いた。剣も抜かず、飛びかかりもせぬのは、相変わらずグラーヴ卿が腕一本で制止命令を出しているからである。
「確信犯、ね」
マイヨールは吹き出した。無知なるものへの蔑みに満ちた目で、彼はイーヴァンの真っ赤な顔を見据える。
イーヴァンの脳天から湯気が噴き出した。もっとも、どうやら彼は自分が戯作者風情に小馬鹿にされているらしいということは判ったようだが、なぜあざ笑われているのかまでは理解できていないようだ。
反論する術もない様子で、ただ頬の肉を痙攣させている彼に、マイヨールは恭しく頭を下げ、慇懃無礼に言う。
「イーヴァン様とおっしゃいましたか。殿下がどういうおつもりで私をそうお呼びになるのかは存じませぬが……。ええ、確かに手前は確信犯でございましょう。こうすることが良いことであると、むしろこうせねばならぬと確信して行動しているのです。このことが世間で罪と呼ばれるかどうかまでは考え及びませぬが、もしそうであれば、正しい意味で確信犯でございますよ」
周囲がざわめいた。
人々は若い貴族の言葉の何処に揚げ足を取られる隙があったのか判らないのだ。
教育機関らしいものがほとんどない田舎町で、マイヨールが言うことを理解できるほど学のある者はほとんどいない。
いや、それ以前に、他愛のない田舎芝居に貴族達が文句を付けに来たわけそのものすらも、彼らは理解できていないのかもしれない。
マイヨールは人垣をぐるりと見回すと、腹の底まで息を吸い込んだ。
「皆の衆、皆の衆。閣下は手前共の舞台がお上のお定めから外れているのではないかと案じておいでになったのですぞ。天上の方のお許しを得ていない芝居なのではないかと、人の心を惑わす間違った芝居なのではないかと、心を痛めておいでになったのですぞ。何と有難いことであろう。閣下は民草が悪いものを見聞きしないように心を配っておられるのだ」
狭い舞台の真ん中で、マイヤー=マイヨールはここが一番肝心とばかりに大声で「台詞」を吐き出した。
彼が息継ぎをしたとき、ざわめきは一層大きくなったが、彼は気にも止めずにしゃべり続ける。
「確かに手前も悪かった。手前の書いたこの芝居、都の天子様からの許可証は出ていない。そのことで閣下にいらぬ心配をかけさせたのだ。我ながら申し訳ないことをしたものだ。だが皆の衆、聞いておくれ。心配はいらない。閣下のご心配は杞憂なのです。天子様から直接のご許可を得ることはできなかったこの芝居、しかし有難いことにお許しを下さった方がいらっしゃるのですから」
マイヨールが言い切ると、聴衆は水を打ったように静まりかえった。彼は確かな手応えを得た。
……人々の心は己の弁に引き寄せられている。そして彼らは最後の台詞を待っている……。
彼の頬が弛む。しかし身体はこわばった。瞳は昂揚し、輝く。
『とどめの一押し』
クライマックスを迎えた「役者」は、喉に軽い引きつりを感じ、唾を飲み込んだ。
彼の口元に集中した人々の視線が熱を帯びる。
マイヨールはその唇を小さく振るわせた。
「皇弟殿下です」
凪の海に突如として大波が立った。
歓声、感嘆、驚愕、疑問、疑惑。
聴衆の吐き出す叫びとつぶやきが、マイヨールの周囲で渦を巻く。
「馬鹿な話だ!」
一際大きな波を生み出したのは、やはりイーヴァンだった。
「ふざけたことを抜かしおって!!」
若者はついに剣を抜いた。
幅広の、いかにも重たそうなブロードを、相変わらず解除されない腕一本の規制線の外側で、身を乗り出しつつ振りかざす。
マイヨールは顔色を変えない。
「ふざけも間抜けもありません。確かに手前の台本はヨルムンガンド・フレキ殿下のお墨付きにございますれば」
「殿下が、お前に許可を出したというのかえ?」
グラーヴ卿はいかにも合点がいかぬといった声音で、しかし表情は一切変えることなく、問うた。
「左様で」
マイヨールは胸を張って答えた。
グラーヴ卿は大きく息を吐き出した。
「殿下が兄君のご意向に反して、そのようなことをなさるものかしらん? アタシには、皇帝陛下のお許しの出そうにないものを、あの方が自分勝手に許すとは思えない」
落ちくぼんだ眼窩の奥で、灰色の瞳がぎらりと光った。
「よくお聞き、マイヨール。お前が嘘を吐いているのなら、お前はあの方の徳を汚しているということになる。そしてお前の言うことが本当であるのなら、それは前例のないこと……これから先もあってはならぬこと。すなわち、あの方の忠孝は不義で穢れているということになりかねない。良くないわね」
頸を左右に振り、肩を落とす。
若い貴族を引き留めていた右腕が、ゆっくりと下がった。
「この無礼者!」
イーヴァンは嬉々として雄叫びを上げながら踏み出した。
見るからに重い長剣が、袈裟懸けに振り下ろされる。
マイヤー・マイヨールの足は、その場から一歩も動かなかった。
ただ上半身だけが後ろにそらされる。
イーヴァンの腕と剣の長さからして、そうすればどうにか避けられると判じたからだ。一張羅のシャツか、あるいは胸の薄皮が一枚切り裂かれるかもしれないが、それは仕方のないことだと、彼はその瞬間まで高をくくっていた。
が。
イーヴァンの技量は、マイヨールの考えていたよりも少しばかり高かったのだ。
彼のつま先はマイヨールが思っていたよりも半歩先の床板を踏み抜かんばかりに捕らえていた。
当然その剣の切っ先も半歩手前を通過するだろう。
その単純な計算を瞬時にはじき出したマイヨールの脳味噌は、それによって採るべき動作の修正を五体に命ずる所までは考えついたが、同時にそれが不可能であることも悟っていた。
後ろに飛び退くことも、左右に身をかわすことも、上半身を後ろにそらした今の不安定な体勢からは難しい。
『逃げられない』
と悟った瞬間、マイヨールは妙に冷静になった。
胸板を斜に斬られるのは間違いない。
肋骨が砕けて、肺が裂かれて、心の臓が破られるだろう。
もしかしたら胴を輪切りにされるかも知れない。そうなれば、
『下半身と今生の別れか』
迫ってくる長剣の鈍い輝きも、他人事に見えた。
『だから、止まって見える』
マイヨールは自嘲気味に笑った。
避けられることを前提とした体勢である。剣が通り過ぎた後、役者らしく蜻蛉でも切って「華麗に」立ち上がろうと考えていた。
予定の「次の動作」が急に取り消しになり、しかも逃げることをすっかり諦めきってしまった今となっては、バランスを取ることも、立て直すこともできない。
マイヨールはしりもちをつく格好で、力無く倒れ込んだ。
尾骨から脳天にかけてしびれるような痛みが走る。ところが、それ以外に痛みを感じる場所はない。
上半身と下半身は繋がっている。
肋骨が砕けた様子もない。
筋肉も皮膚も、服すらも裂け目一つなく彼の体を覆っている。
マイヨールは顔を上げた。
空中に長剣の切っ先があった。
それは小刻みに痙攣してはいたが、その場所から小指の先ほども移動できずにいる。
刃に沿って視線を移すと、鞘に収まった一振りの細身の剣が見えた。イーヴァンの太い剣と垂直に交わった形にあてがわれている。
その細身の剣を細い腕が支えているのも見えた。それも、左腕一つで。
細い腕は小さな肩に繋がってい、肩からは細い首が伸び、その上に小さな頭が乗っている。
ほっそりとしたそのシルエットの向こう側に、イーヴァンの姿があった。
渾身の一撃を邪魔されたことへの怒りと、渾身の一撃を止められたことへの驚愕とが入り交じった顔は赤く染まり、湯気と脂汗が噴き出している。
「小僧、退け!」
渇いた喉の奥から絞り出したイーヴァンの言葉に、「小僧」と呼ばれた細身の人物……エル・クレール=ノアールは従わなかった。
「そちらが退きなさい。さもなければ私も抜かざるを得ない」
小さく、鋭くいうと、右手を己が細い剣の柄に添えて彼をにらみ返した。
イーヴァンは確かに短気な男ではあるが、一端の剣士である。対峙する者を観る眼力がまるきりない訳ではない。
小柄な剣士は総じて身が軽い。
この「小僧」もあっという間に己の懐の内に飛び込んで来るに違いない。
しかもこの「小僧」は腕一つで己の一撃を押さえ込んだ力量を持っている。
イーヴァンの脳裏に、抜き払われた細身の剣が、しなりながら弧を描く様が浮かんだ。
彼は彼の主君の顔色を窺った。
グラーヴ卿の暗い眼差しは、突然現れた見知らぬ人物に注がれている。
「柔よく剛を制すなんてコトバ、今まで信じていなかったけれども、実際にあることなのね。感心だわ、坊や」
赤い唇の端が、少しばかり持ち上がった。
「でも、あまり面白くはないわね。だってそうでしょう? 坊やは不敬な輩をかばっているのだもの」
「害成す虫とて、ただ踏みつぶしてよいとは限りません。断末魔に穢れた飛沫をまき散らし、お召し物を汚されては、閣下もますます面白くないでしょう」
エル・クレールは視線を一瞬だけ尻餅を突いている男の顔に落とした。
見られたマイヨールには、その眼差しがまるで二つの濡れ光る翡翠の珠のように見え、思わず生唾を飲んだ。
グラーヴ卿もやはり一瞬彼を見た。
こちらの眼は小さなヘム石の鏡に思え、マイヨールは何故か寒気を憶えた。
「一理あるわね」
視線をエルに戻したグラーヴ卿は薄く笑い、
「けれども、アタシには身に穢れが降りかかろうとも、毒虫を踏み潰さねばならない義務があるのよね」
小さく頸を傾けた。頭の横に双頭の蛇を縫い取った、重そうな旗指物が揺れている。
「坊やにはそれを止めるだけの権限があって?」
「それは……」
言葉に詰まったエル・クレールは、直後、金属がふれあう小さな音を聞き、同時に己の尻に何か硬さのあるモノが触れてもぞりと動くのを感じた。
そして、そのもぞりと動いたモノが大声を出した。
「ハイ、旦那様。どうもオレっちの姫若様は血気の盛んなもので、ええ。こんなに綺麗な顔をしているってぇのに……それですから姫若様なんて呼ばれるンですけれど」
大柄な男が一人、卑屈に頭を下げながら、腕を振り上げていた。
ブライト=ソードマンである。
満面に人当たりの良さそうな笑みを浮かべた彼は、広い肩幅を窮屈に縮ませ、高い上背を無理矢理に丸めて、不自然に身を小さくしている。
「兎も角、オレっちの姫若様は、事の後先を考えずに飛び出すのが悪い癖で、後を始末して歩くのが、そりゃもう苦労で苦労で」
節くれ立った手の中に、金属の塊が一つあった。平べったい台座は銀色で、表面に緻密で豪華な意匠が彫り込まれている。
その意匠はグラーヴ卿の頭の後ろで揺れる「錦の御旗」に描かれた紋章とよく似たデザインだった。
いや、よく似てはいるが、しかしよく見ると大きく違う。
卿の持つそれは双頭の蛇を描いているが、ブライトの持つそれは双頭の龍……蜥蜴じみたそれではなく、鬣と手足を持つ蛇のような……を描いている。
グラーヴ卿は頬骨を覆う皮膚をひくりと痙攣させた。しかし、
「ご同業?」
訪ねる声音に動揺らしきものは感じられない。
エル・クレールは小さく
「そんなところです」
と答え、その傍らでブライトは、道化人形のような笑顔のまま二度三度うなずいた。
「ふぅん……」
グラーヴ卿は、下ろしていた右腕を宣誓式の儀礼作法のように持ち上げた。
それを合図に、イーヴァンはゆっくりと剣を退いた。苦々しげに舌打ちすることを忘れててはいない。
エル・クレールも剣を退いた。ただし、すぐさま抜刀できると示すため、剣をイーヴァンの視線の中に置いている。
「お名前を伺おうかしら? アタシはアタシ達と別行動をとらされているお仲間の情勢には、疎いのよね」
『エル・クレール=ノアール』
と、エルが名乗ろうとするのを、ブライト・ソードマンの大声が遮った。
「ガップのエル=クレールさまでさぁ」
彼はことさら『ガップの』を強調して言う。
周囲がざわめいた。
さすがにその地名を聞けば、グラーヴ卿も驚きの表情を浮かべざるを得ない。
マイヨールはぽかりと口を開けて、瞬きを繰り返しながらエル・クレールを見上げた。
しかし、一番驚愕しているのはその彼女であった。
「ブライト、それは……」
違うと言いかけるのを、また彼は大声で遮る。
「ウチの姫若さまは、あちらでは随分と古い古い家柄の姫若さまで。どのくらい古いかってぇと、ガップのお殿様よりも古くからで。そんな訳ですから、ガップのお殿様にもよくして頂いておりやした。だからね、ガップのお殿様がどんなモノをお書きになったかもよく知っておりやすよ。……大丈夫、大丈夫。あのお殿様はそれほど馬鹿者ではありませんて。グラーヴの旦那を怒らせるような書きものを外に出す訳がない」
鈍な愚者さながらの要領を得ない物言いをする彼に、エル・クレールは呆れのため息を吐いた。
『ああ、やっぱりとんでもない悪戯をしようとしている。あんな大法螺を吹いた上に、役者の前で大袈裟に演技までして……』
もっとも、回りの者にはそのため息の真意は知れないだろう。ただ「魯鈍な従者に呆れている」ぐらいに見ているだけだ。
エル・クレールはしかし、呆れながらもある種の期待を持ってブライトの「芝居」を眺めていた。
それは、彼女の目にグラーヴ卿が、勅使を拝命するだけのことはありそうな逸材であることに間違いはないと映っているからだ。
『確かに居高で、物言いには棘はあるけれども……。言っていることは理に叶っている』
その口ぶりが妙なほど優しげな事に薄気味の悪さを感じることもまた事実であるが、それでも『ただ者でない』のは間違いなかろう。
ブライトがそれをどの様に言いくるめるつもりなのか知りたい。
『きっと、嘘でないけれども真実でもないことを並べ立てるのだろうけれども』
エル・クレールは再度ため息を吐いた。
同時にグラーヴ卿も息を吐き出した。
「つまりあなたは何を言いたいのかしら?」
もっと要領よく説明なさい、と言い、薄い唇に薄い弧を描かせる。
「つまりですね」
ブライトは少しばかり首を傾げた。よくよく考えているという「振り」だろう。
「もしガップの殿様の書いたものなら、そんなに酷い話のハズがない。ガップの殿様の書いたものでなくても、殿様のお墨付きが本当なら、やっぱり酷いものであるはずがない。で、ガップの殿様が書いたものでもお墨付きを下さったものでもないってぇのなら、困ったことになるってことでやしょう? でも今ここには何もないんですよ、旦那。ガップの殿様のお墨付きも、お墨付きでないっていう証拠も、どっちもない。だからここで結論を出すことはできない」
ブライトは自信に満ちてはいるが小さい笑顔を頬の上に浮かべ、ちらりとエル・クレールを見た。
エル・クレールは渋々うなずく。
それは、「主人の心中を代弁している『つもり』の従者が、自分の話しぶりに不安を感じたので確認したところ、主人は従者の愚鈍さに呆れながらも間違いがないことを認めた」といったやりとりに見えた。
そのように思わせようという演技であり、現に回りの者たちはそのように受け取ったが、実際はむしろ逆といえよう。
『任せておけ、口を出すな、同意しろ』
これがブライトの笑顔が示すものであり
『勝手にどうぞ、言葉もありません、本当に困ったヒト』
というのがエルのうなずきの意味だ。
その奥には、
『止めたところで無駄なこと。あの人は私ことなど子供扱いで、意見しても聞き入れてくれないのだから』
という諦めじみたものが隠れている。
不承不承ではあるが同意を得たブライトは、笑みを大きくしてグラーヴ卿へ向き直った。
「結論をお言いなさい」
卿は相変わらず冷たく微笑している。
「中身を確認してからにしたらどうでやしょう?」
「あらすじは聞いているわよ?」
「それそれ、そこが難しいところでさぁ。芝居というのは、実際演じてみないことにはわからないモンだっていいますよ」
ブライトは真面目ぶった顔つきになって、
「例えば台本に『愛おしげに微笑む』ってぇト書きがあったとしやしょう。それを十人の役者に演じさせても、みんな同じように笑ったりやしないもンです。嬉しそうに微笑むヤツもいるだろうし、ちょぴっと涙を浮かべるとか、とろけるような色っぽさで笑うヤツもいる」
ちらり、と、戯作者の顔色を窺う。マイヤー=マイヨールは小刻みに震えるような肯きを返した。同意が得られたブライトはニンマリ笑い、続ける。
「つまりね、旦那。芝居ってぇのは台本だけで判断しちゃぁいけないモノなんで。実際に幕が上がってから締まるまで、通しで見ないとホントウの事が見えてこない代物なんですよ。
ましてや、葉っぱも根っこも取っ払ったあらすじだけじゃ、何も判りゃしない」
「つまり、アタシは何も理解していないってこと? 言ってくれるわねぇ」
グラーヴ卿は鼻先で笑った。
ブライトは大仰にうなずく。
「旦那だけじゃありあせん。オレっちも、ウチの姫若様も、ここの三文役者が悪いかどうかさっぱり判っていない。だから悪いってのを確かめてから、踏みつぶすなら踏みつぶしてしまえばいかがですか、ということで」
「正論だわね」
グラーヴ卿は冷ややかな視線をマイヨールに突き立てた。
尻餅を突いたままの彼は、生唾を飲んで言葉を待った。
「それではマイヨール、あなた達のお芝居を一幕から終幕まで観ることにしましょう。……もちろん、客は入れない状態で、よ」
マイヨールの白い顔に、さっと赤みが差した。
「それはもう、最初から特別席で見て頂こうと思っていた訳ですから」
「アタシは忙しいのよ、マイヨール。今すぐ幕を開けろと言いはしないけれど……できるだけ早く結論を出したいの。お解り?」
「それはもう! すぐに一座の者に言いつけて、舞台をしっかりくみ上げさせます。そうすれば明日の朝一番には……」
腰を浮かせたマイヨールに、グラーヴ卿は、
「遅い」
と一言投げつけた。
「忙しいと言っているのが聞こえなかったかしら? お前の言う明日の朝一番には出立しないといけないの……帝都に向けてね」
「では……」
マイヨールは一瞬うつむいたが、しかしすぐさま飛び上がって、グラーヴ卿の足下にちょんと跪いた。
「今夕。夕餉の終わるころにお迎えに上がります」
それだけ言うと、彼は鞠が弾むかのような勢いで立ち上がり、駆け出し、出て行った。
マイヨールの姿が見えなくなると、グラーヴ卿は改めて目の前の二人連れを注視した。
「エル=クレール、と言ったわね。随分お若いこと……まあ、若くても有能な者はいるし、年経ても使えない者もいるけれどもねぇ」
グラーヴ卿の言葉は、感心しているようにも侮蔑しているようにも取れた。エル・クレールはどう返答すれば良いものか判らず、言葉に窮した。
それを気まずい沈黙と感じたのは、彼女だけだった。グラーヴ卿が言い終わるとすぐにブライトが、
「先年、大殿様が亡くなられまして、名跡をお継ぎになられたばかりで」
大袈裟な身振りを交えて言ったからだ。
「ではその『特別な銀のお守り』は、親の代からのものかしらん? それを世襲させて良いというハナシを、アタシは聞いていないのだけれども」
グラーヴ卿の細長い指が、ブライトの手の中の大ぶりなメダルをさしている。
この質問にもエル・クレールは答えられなかった。彼女が言葉を選んでいる間にブライトが勝手にしゃべり出すからだ。
「いえいえ、旦那。これは姫若様が頂いたものですよ。ゲニックとかいう、軍隊のエライ方が……」
「その准将閣下は、もうご勇退なされたはずでしょう?」
グラーヴ卿の言葉には、明らかな疑念があった。しかしブライトの口調には変化が見られない。
「三年、いやもう四年くらい経ちますかね。末の息子さんの婚礼の席で、中風だか何だかはっきりしないンですが、とにかく身動きが取れなくなるような病気で、お倒れになられたんですよ。ええ、それはもう、大変な騒ぎになりました」
「その場に居たの?」
「はい、居りやした。ウチの姫若様と、そのお偉いさんの末の息子……えっと、姫若、あの方はなんて言いましたかね?」
ブライトは悪戯心に満ちた顔でニタリと笑いかける。
『調子を合わせろ』
と言うことなのだろうと理解したエル・クレールは、必要最低限の言葉のみを返した。
「カリスト殿」
官位とプライドばかり高い閑職の父親の四角く脂ぎった顔に似ず、温厚そうでふくよかな若い貴族のはにかんだ笑顔が脳裏に浮かんだ。
「そう、確かそんなお名前でした。そのカリスト坊ちゃんと、ウチの姫若様はご縁がありまして」
ゲニック准将の末息子カリストは、七,八年前に当時十歳になるかならぬかであったハーンのクレール姫に、縁談を持ちかけた人物だった。
もっともその縁談というのは、彼の家に「クレール姫の肖像画」なるものを持ち込んだ絵描きが、芸術家としては兎も角、肖像画描きとしては問題のある腕前で、姫を実年齢よりもずっと年嵩に描いていた、という笑えないハナシから来る「間違い」であった。そのため「最初からなかったこと」にされたといういきさつがある。
その後カリストには別の田舎貴族の入り婿の口が決まった。
「それでその何とか准将様の御前で姫若様は『剣術の稽古』の様子を見て頂くことになりまして……それでこの御符を頂戴することに」
ブライトは「剣術の稽古」という言葉を、かなり不明瞭に言った。エル・クレールはそれが「わざと」であることは悟ったが、なぜわざとそのように口淀んでみせるのか、までは判らなかった。
グラーヴ卿も彼の口籠り方を不審に思った様子だった。ただし不審を感じたのは『剣術の稽古』という言葉の意味に、であった。
「相当派手な『稽古』をやった様子ね」
鼻先で軽く笑う。
「ご明察」
ブライトは気恥ずかしそうに
「お付きの猛者をこれほど」
と、指を四本立てた左手をがっくりと前に倒す仕草をした。
直後、再び悪戯な笑顔がエルに向けられる。
この時彼女は先ほどの奇妙な言いよどみが、
『言わないことで悟らせる話術。……この場合は間違った方向に誘導させることを含めて』
であることに気付いた。
エル・クレール(とブライト=ソードマン)が、カリストの婚礼の席でゲニック准将の「お付きの猛者」を四人倒したのは事実だったし、そのすさまじい戦い振りを見た准将が卒倒したのも真実に違いはない。
ただそのことは准将と軍部にとっては大変な不祥事であり、従って公にはされていない。
「なにしろ姫若様はまっすぐなお方ですから、子供と侮られるのが大嫌いで」
「そのようね」
うふふ、と、グラーヴ卿は玩具でも眺めているかのように笑った。
「おかげでアタシ達も特等席でお芝居を観られることになった訳だけれども」
グラーヴ卿はエルをじっと見て言う。その視線を見れば、その「アタシ達」の中にエルが含まれているのだということは、容易に知れる。
「私どもに同席せよとお命じですか?」
「まさか。確かに爵位だとか官位だとかを引っ張り出せば、アタシは坊やに命令出来る立場だと言えなくもない。でも『双龍のタリスマン』を出されたら絶対に敵わないわ。どの関所でも止められることなく、いかなる場合にも法的拘束を受けない。通行御免、斬捨御免のフリーパス……恐ろしいこと」
グラーヴ卿の口ぶりは、むしろ楽しげであった。
「だからね、エル坊や。これは命令じゃないわ。招待よ。一緒にお芝居を観に行きましょう。そして意見をして欲しいの。十人の役者がいれば十通りのお芝居ができるように、十人の観客がいれば十通りの解釈が生まれるハズだもの。あなたがマイヨールのお芝居を観て感じたことを、アタシに教えて頂戴な」
否も応もない。
言い終わるか終わらぬかの内に、グラーヴ卿はきびすを返す。
イーヴァンは鼻の頭に深い皺を寄せ、歯ぎしりしながらエル・クレールをにらみ付けたが、すぐに主人の後を追った。
こうして皇帝陛下勅令巡視大使の一団は去っていった。
嵐が去った後、というのは、恐らくこのような状態を指す言葉であろう。
狭い飲み食い屋の真ん中にぽかりと空いた丸い空間と、役者兼任の戯作者と貴族連が去っていった出口とを見比べながら、人々は自分が何をすれば良いのかを考えることもできず、ただただざわめき立っていた。
一番困った顔をしているのは、最初にポスターの前でマイヨールと口論になった農夫達だった。
彼らはどうやら自分たちが騒ぎの発端であろうということは理解できているらしい。
そして恐らく自分たちが騒ぎを起こしたことによって、見たこともない高貴な方々が、見たこともない立派な刀で斬り合いをすることになったのであろうということも、見当が付いているらしい。
さらには多分自分たちが騒ぎを起こしたことによって、役者兼戯作者の男が死刑にされかねない状況に追い込まれたのではなかろうかということも、想像できた様子だった。
二人は鼠の子供のごとく肩を寄せ合い、店の隅にで固まっていた。
『まずは彼らを安堵させないと』
思ったエル・クレールだが、実際にどうしてやれば良いのかはとんと思いつかない。
困り顔で彼らを見ていると、見られている方は余計に恐縮して、終いにはがたがたと震えだした。
「あんたら、心配しなさんな」
声をかけたのはブライトだった。彼は農夫達の方に顔を向けつつ、不自然な……と見たのはエルだけだが……がに股で、店奥へ進む。
背の低い、しかし横幅の広い中年の女と、その倅らしい若いのが、厨房らしいところのドアから顔を出して様子を窺っている。
どうやら彼らがこの店の主らしい。
その二人に向かって、ブライトは笑いかけた。
「騒ぎを起こしちまって申し訳ねぇが、どうやら向こう様もこの場は退いてくださったようだから、多分店やあすこの兄さん達には悪いことは起こらないでしょうよ。心配にゃ及ばない」
愛想良く笑いながら、ブライトは女将の手に何かを握らせた。
手の中を見た女将の丸いほっぺたの上に、ちらりと金色の光が跳ね返った。
田舎の飯屋では滅多に見られない「重たい金貨」が、手荒れの酷い掌の中でぶつかり合って澄んだ金属音を立てる。
「旦那、こりゃ一体?」
女将は驚くと同時に、商売人らしい欲気の混じった感謝の笑顔を浮かべた。
「ウチの姫若様からだよ。それとも、ここにいる衆みんなに一杯ずつ飲ませるには、これじゃ足りないかね?」
「いいえ旦那方。これだけあればうちの酒樽が二回は空っぽになる」
ニコニコと笑った女将は、もらった金貨を胸に押し抱いて、そのまま奥の厨房へ駆け込んだ。
程なく彼女と倅はもてるだけのマグに安酒を満たして戻ってきた。
歓声を上げたのは件の農夫達だけではない。店にいた客の総てと、店の外で見物と決め込んでいた通りがかりとが、どっと駆け寄る。
「旦那方、ご馳になります」「若様ありがとう」などと言いながら、あるいは何も言わずに只酒に殺到する人々の流れに逆らって、エル・クレール=ノアールはブライト=ソードマンに引きずられる格好で、漸く店から出た。
通りに出てからしばらくの間、ブライトは「愛想の良い従者」の顔のままがに股で歩いた。背丈が普段より頭一つ分ほど小さく見える。
仕方なくエル・クレールは「気の強い田舎貴族」の体で、背伸びをしつつ後を付いてゆく。
人並みがとぎれたと見るや、ブライトはひょいと細小路に曲り込む。同じように角を折れて入ったエルの目の前で、彼は背筋と膝をグンと伸ばし、背丈を元来の大男のそれに戻した。
「やれやれトンだ無駄遣いをしたもンだ」
大きく伸びをしてみせる彼の鼻先に、エルの掌が突き出された。
「出費をさせられたのは私の方です」
女の手としては骨太だが、剣士としてはほっそりとした指が、きっちりとそろえられている。
「あなたが掏摸の真似事をなさるとは存じ上げませんでした」
彼女が真顔で言うので、怒っているやら、あるいは感心しているのやら判別ができない。
「貧乏人丸出しの俺の尻からアレが出てくるよりも、同じ貧乏そうな形でもお貴族様に見えるお前さんが持っているものって具合に見せた方が、それらしく見えるってもンだろう?」
ある種の正論をブライトは半笑いしながら言う。エル・クレールの表情は変わらない。
ただ、彼が「掏摸取った」彼女の物入れを返して欲しいと主張している事は確かだ。そろえられた指が掌が反り返るほどピンと伸びる。
ブライトがその上に小振りな革袋を乗せると、エル・クレールは中を見ることもなく腰帯に結びつけた。
「……言うことがあるンじゃないのか?」
無言を通す彼女に、ブライトは少々意地悪そうな声を掛ける。
「状況を打開してくださったことには感謝しています」
あの時、田舎者の従者のフリをしたブライトが、「姫若様は事の後先を考えずに飛び出すのが悪い癖」と言ったが、それは
『間違ってはいない』
と彼女自身が感じていることでもあった。そしてそれは
『おそらく、この人の本音だろう』
とも思っている。
エルには件の「身分証」を出して相手を引かせる等という手段は、思いも寄らないことだった。よしんばそれを思いついたとしても、あの体勢ではイーヴァンの剣を押さえ込むのが精一杯で、腰袋から物を取り出す余裕はなかったのだ。
だから彼の機転には感謝している。
知恵の回り方が羨ましいとも思う。
その方面の思慮が足りない自分が情けなくもある。
それを彼に見透かされ、いつまでも子供扱いされるのが口惜しい。
だからこそ、そんな風に考えていることを悟られるのは恥ずかしい。
エル・クレールはクチを真一文字に引き結び、ブライトの顔を睨むように見た。
彼女の「自己嫌悪」の深さに、ブライトは気付いていなかった。ある程度「反省」はしているだろうと思ってはいるが、彼からしてみれば悩むようなことではないからだ。
彼女が先走れば自分が始末する。それは彼にとって当たり前のことだった。
特にああいった「事件の場」では、彼女の直情的な行動が良い「作戦」にもなるから、むしろ焚付けるような真似もする。
だからブライトは軽い調子で、
「じゃあ、それで無駄遣いは、チャラ、ってことで」
「私は無駄とは思っておりません。あの騒ぎを収拾するには、幾ばくか金子を出すのが一番良いことでしょうから」
「俺の飲代は渋るくせに」
茶化すように言いながら、ブライトは感心していた。
『大分世間慣れしてきた』
少し惜しい気もする。世間知らずのオヒメサマは世間知らずのまま自分の掌中にしまっておきたい。
「それこそ無駄遣いです――それより」
顔を上げたエル・クレールは、にこやかに笑んでいた。ブライトの背筋に、何やら冷たい物が走る。
「私のお尻に何やら硬い物が当りましたが、あれは一体何だったのでしょうね?」
四.黒鏡
グラーヴ卿とその一行は土地の豪族の別荘を借上げ、宿としている。
こじんまりとした古民家は部屋数も少なく、従者達は押し込まれるように一つ部屋を使っている。
そこから一つ空き部屋を置いてグラーヴ卿とイーヴァン青年の寝室がある。
この二人が一つ部屋にいる理由が屋敷の狭さばかりではないことは、部屋を一つ空けてあるところからしても明らかだ。
グラーヴ卿は宿に戻るなり、衣服を脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだ。
枕元の香炉から吹き出す紫色の煙が、足許に置かれた大きな赤鉄鉱の鏡の中で揺れている。
窓という窓は黒いカーテンで覆われていた。小さな蝋燭の幽かな灯火以外に明かりはなく、戸口に立つイーヴァンには、闇以外の物は見えなかった。
「不機嫌だこと」
夜具の下からくぐもった声がした。イーヴァンは額に縦皺を寄せて黙り込んでいる。
「あの白髪の坊やがそんなに気になって?」
返事はない。暗闇の中に歯ぎしりだけが聞こえた。
「ゲニック准将の件だけれども……あの従僕が言ったのが本当なら、あの坊や、ただ者ではないわよ」
くつくつと笑っているらしい。夜具が小刻みに揺れている。
「お前は知らないでしょうけれど、皇帝陛下はあの老人に『新品の玩具』を四つ貸したそうよ。そうしたらあのおじいちゃん、すぐに四つとも壊してしまったの。もっとも、そのおかげで『玩具』を改良するためのデータを得ることができたとかで、それほど叱られはしなかった様子だけれども」
歯ぎしりの音が止んだ。
帝都で何か「妙な物」が作られているというウワサは、イーヴァンも聞いていた。
それは「戦で兵士が死なないで済む」代物であるらしいのだが、彼の耳にはそれ以上の情報は流れてこない。
しかし彼の主人は少しばかり詳しく知っている様子だった。思わせぶりな口調で続ける。
「壊された『玩具』は試作品だったのだけれど、それでも並の人間よりは余程強い筈。今のお前も歯が立つかどうか……」
夜具の隙間から白い腕が伸び、イーヴァンを指した。枯れ枝のような腕の根本で、赤い影が揺れている。
「おいで、可愛い坊や」
突き出された手先が熱のない炎のように揺らめき、彼を招く。
イーヴァンは寝台の傍らへ吸い寄せられた。
白い手は夜具の中にするりと隠れた。
「強くなりたいでしょう? 誰よりも強くなりたい。それがお前の望み。そう言って、アタシの所へやってきたのだものね」
声と共に再び伸び出た手は、何か小さな物を指先につまんでいた。
小さな破片。薄く平たく、血の如く赤い。
イーヴァンの喉が乾いた唾で鳴った。
彼はベッド脇の床に、正餐式のパンを待つ咎人のごとく膝を付いて座った。
赤いかけらは闇の中をゆっくりと上昇した。寝台の上でグラーヴ卿が身を起こしたのだ。
白いリネンを頭からすっぽりとかぶった格好ですっくと立ち上がったその姿は、聖女か女神の立像か、そうでなければ洗濯物が引っかかった枯れ木を思わせた。
「あの頃のお前ときたら、小さくてやせっぽちで、ナイフ一本真っ当に扱えやしなかった。それを思えば、白髪のエル坊やをおチビだなんて呼べないでしょうに」
その名が出た途端、イーヴァンの額に再び深い皺が刻まれ、目の奥に怒りの炎が点いた。
「閣下は、あのチビがお気に召しましたか?」
怒りと嫉妬を、彼はようやくうなり声に押さえ込んで吐き出した。
「そうね。彼らは勇ましくて奇麗で強いものね……」
イーヴァンは歯噛みしながら主人の顔を見上げた。
グラーヴ卿は薄ら笑いを浮かべていた。単なるからかいか、それとも本心か、イーヴァンには量りかねる。それがまた口惜しい。
「私はあの小僧よりも強い。あの場は突然で真の力が出なかった。本気であれば……」
「……お前は今頃血の海の底だわよ」
グラーヴ卿はうっすら微笑んだ顔をイーヴァンの鼻先にまで近づけた。
「わ……私をお見限りですか? 私よりあのチビ助を……」
屈辱と嫉妬に震えるイーヴァンの唇を、卿の薄い唇が塞いだ。
柔らかな皮膚と甘い香りに包み込まれる快楽を感じた直後、イーヴァンの喉の奥に小さな何かが落ちた。
それは始めは小さくひんやりとした塊だったが、彼の喉の粘膜に触れたところから硬さを失ったかと思うと、蝋のごとくに溶けた。
形を失い、どろりと広がったそれは、食道を焼き、胃の腑を焼いて流れる。
イーヴァンの身体はばたりと床に倒れ伏した。全身から噴き出した汗は、すぐさま蒸発してゆく。痛みのあまり声は出せず、胸を掻きむしり、悶え苦み、しかし彼は飲まされたものを吐き出そうとはしなかった。
その様を、グラーヴ卿は微笑みつつ眺めていた。
「そう。アタシはあのおチビさんとその連れの男が、とっても気になるのよ」
五.古傷
ブライト・ソードマンには自分自身についてかねて大いなる疑問を抱えていた。
それは彼の脳漿に「四年より以前の彼自身にまつわる記憶」がないことではない。
当たり前の感覚を持っている人間であればこれ以上の悩み事はないであろう。ところが、彼はそのことを深く思い悩むんでいないのだ。
頭の痛いことではある。昔の己を思い起こそうとすれば文字通りに頭痛に苛まれるのだ。
しかし彼はその原因を頭に傷を負ったからではないと考えていた。
おそらく心の奥底、自我の深層で、
『元の自分は自分自身を嫌っているのだろう』
というのが、彼の出した結論だった。
その上で、
『思い出すことに拒絶反応が出るほどに嫌っている「人物」のことをすっかり忘れてしまえているのなら、今の己の状況はむしろ喜ぶべきだ』
と、これを悩みと認識しないことにしている。
彼が悩んでいるのは別の事柄だ。
ブライトはまばらな無精ひげに覆われた頬桁をなでた。鏡もない路上では確認しようもないが、少しばかり赤みを帯びて腫れているだろう。
怪我などというご大層なものではないし、痛いとも思わない。
彼は頬桁に「美しい右ストレート」を見舞った張本人の顔をちらりと伺った。
エル・クレールは右手の甲をさすりながら、怒り、拗ね、呆れて、なにやら口の中で文句を言っている。
『これに限って、何で避けられンかね?』
確かに彼女は並の男どもから比べれば剣術の巧みではある。もちろん「人間でないモノ」を相手にしても後れをとることがない。
その腕前の半分、すなわち基本の部分は、天賦の才と幼い頃からのたしなみによる。そして残りの半分は、ブライトが実戦を交えながら教え込んだ結果である。
それゆえこの一点において、エル・クレールは彼のことを師も思い、尊敬している。
筋も憶え良いこの「弟子」は、しかしどれほど鍛えても「師匠」には敵わない。
彼女は永遠に彼にだけは勝てないだろうと悟っているが、それでも近づけるところまでは追いかけてやろうと励んでいる。
その一途さまじめさが、ブライトをも修行に駆り立てていることを、彼女は気づいていなかった。
彼は剣士としてのエル・クレールを女子供とあつかってなどいない。
弟子であるとも思っていない。
自分を脅かす存在ではないが、絶対に負けられない相手だと見ている。
彼女が一つ上達したなら、己も一つ腕を上げねばならないと考え、実際にそうしている。
師弟と言うよりはライバルの関係に近い。
兎も角。
剣術において、エル・クレールとブライトの技量には確乎歴然とした「差」があって、それ故ブライトがエルの打ち込みをかわせぬ筈はない。
もちろん、剣を使わぬ格闘術でも同様だ。
ブライトがエル・クレールに投げ飛ばされたり、締め落とされたり、殴りつけられたりすることなどありよう筈もない。……普段であれば。
ところが、彼が彼女の肉体に「愛情を持って(これは彼の言い分に過ぎないが)」触れたときに彼女が繰り出す攻撃に限っては、避けることも防ぐこともできず、朝方のように投げ飛ばされ、今のように頬を腫らせる結果となる。
このことに彼は悩んでいる。
避けられない不思議にではなく、避けない自分を訝しんでいると表現した方が正しい。
時折、自分が無意識に『殴られたいと望んでいる』か、あるいは『殴られること喜んでいる』のかもしれぬと考えが及ぶこともある。
好いた相手に殴られることを快楽と感じる人間がこの世にいるという話を、どこかで聞いた覚えがあった。
あるいは自分もそういった性癖を持っているのやもしれぬ。
であるとすれば
「変態か、俺は」
思い悩みが口をついて出た。あわてて口をつぐんだが、それを耳聡く聞きつけたエル・クレールは、一言、
「やっとご自覚なさったのですね」
うれしげに言った。
このときのブライトを表現するのに、
「体中の関節という関節がすべてはずれたような」
という比喩は決して大仰ないだろう。
彼は脱力しきった状態でようやく立っていた。
うつむいて、口の中で
「男の格好をしている娘の方が、世間様じゃよほど『変態』扱いされるってぇのに」
などという繰り言をモゾモゾとつぶやいている。
「自覚してますから、私は」
エル・クレールはくすりと笑った。
実際、彼女は自分が「妙な生き物」であると言うことを自覚している。
もし己が男であったとして、エル・クレール=ノアールという娘を妻にせよと言われたとしたら、
「後生だから勘弁してくれ」
と叫んで逃げ出すに違いない、と確信していた。
彼女にの持つ「婦人」の定義は、
『穏やかで従順で、ふんわりと柔らかな美しさを持った、我が母のような人』
だった。
従って、血の気が多くて強情な化粧気のない自分自身は
『女とも呼べぬ奇妙な生き物』
以外の何者でもない。
なにぶん彼女は封建社会の姫君である。その常識を覆すことはできない。
その常識を持っていながら、しかし、彼女は男装や剣術を止めてしまうことができない。
それは彼女の真面目な性格の故だろう。
女として生きるなら、己の思うところの「理想の女性(つまり母親のような良妻賢母)」であらねばならないと考えている。
しかし自身がその理想に近づくことは
『感情の起伏が激しくて、自己主張が強くて、背ばかり高くなるのに少しも大人と認めてもらえない己には、到底無理なこと』
に他ならなかった。
ブライトは恨めしそうな上目遣いをエル・クレールの含み笑いに向けた。
「耳がイイ上に性格もイイと来てやがる」
彼は幽鬼のごとく両肩をだらりと落とし、身をかがめて大通りへ歩き出た。
あからさまに様子が怪しいのだが、道行く人が彼に気を止める風はなかった。
人々には呑み食い屋が酒を只酒を振る舞っているという「事件」だけが見えている。仮に彼に目を止めた者がいたとしても「振舞酒を飲み過ぎた酔っぱらい」程度にしか見えないだろう。
確かにそう見て取っておかしくないふらふらとした足取りで進むブライトの後を、エル・クレールもまたゆっくりと付いて歩いた。
『この騒ぎに乗じて、村から出てゆくつもりでしょうね』
エル・クレールは少しばかり残念に思っていた。おそらくは本人のそれではないだろうが、好意を持っている叔父の名前が掲げられている演劇を、観てみたかった。
たとえブライトが拒んでも、無理矢理に芝居小屋に入ってしまえばいいと(そうすれば、彼は文句を言いながらも一緒に観劇してくれるだろうとも)考えていた。
それもこういう状況になっては無理だろう。
エル・クレールが思うに、ブライトはヨルムンガント・フレキ=ギュネイの名以上に、皇帝の勅使達のことを良く感じていない。
この男と来たら、元々ひどい役人嫌いだ。よく働く小吏は別として、虎の威を借る狐のごとく威張り散らすばかりの連中に対しては軽蔑以外の感情を抱くことはない。(だからこそ、そういった連中をからかっては面白がるのだが)
皇帝の勅使などという「特級品の虎の威」を借りているグラーヴ卿の一行と、一緒に芝居小屋の中に入ることなど、彼にとって「もってのほか」の筈だ。
エル・クレールはふらふらと進む男の背中に、小さなため息を投げかけた。
道は村の中心の広場に向かっている。そこは祭りのメイン会場であり、件の旅一座が芝居小屋を架けている場所でもある。
道がそこに向かうことは仕方のないことだ。この街道は村の真ん中、広場を横切って突き抜けて通る一本道なのだから。
脇道はいくらかあるが、くねくねとしたそれをたどってゆけば、結局はこの本通りに戻ってくる。畑の真ん中を突っ切るのでなければ、これを通らないことには村を抜けることができない。
逆を言えば、畑や他人の家屋敷の庭先を突っ切ってしまえば、この道を通る必要はないのだ。いつものブライトであれば、迷うことなくそういうイリーガルなルートを選ぶ。
当然、エル・クレールはこれを止めるが、これも普段通りの彼であれば無視して進むだろう。あるいは、抗議する彼女を無理矢理に抱え上げるなり担ぎ上げるなりして、あぜ道や畝の間を駆け抜けたに違いない。
ところが、今日に限って彼はそういう破天荒だが理にかなった道を進まなかった。
『本通りを最短ルートとみておられるのか』
少しばかり疑問におもいながら、エル・クレールは彼の後に従って歩いた。
道なりに進むと、やがて村の中央広場へたどり着いた。
村の人口規模には似合わぬが、田畑の面積などを合わせた広さを考えれば妥当な大きさをもつ円形の空間の真ん中に、岩に彫りつけた素朴な女神像が高々と立っている。
この村は前朝以来スカディ女神を村の守護者として祀っている。
彼女の縁日の祭りが近郷に比べてことさら盛大に行われるのも、村人達が時として女神と同一視される皇后クラリスに深い親愛の情を抱いているのも、それ故のことと考えれば頷ける。
そのまま像の前を通り抜け、広場を貫く街道を進んで村から出る……ものだとばかり思っていたブライトが、彼女の足下でぴたりと歩を止めたのに、エル・クレールは驚いた。
背中を丸めたまま、彼は広場をぐるりと見回した。
女神像が見下ろす場所に、芝居小屋が掛けられていた。円形広場の半分を占める大きさは立派だろうが、テントも旗指物もみなあちこちに継ぎを当てなければ使えない代物で、はっきり言えばみすぼらしい。
「こりゃ『末生り瓢箪』から一筆もらっているようにゃ見えんな」
ブライトがつぶやいた。声音に安堵が混じっている、とエル・クレールは聞いた。
嫌悪し、唾棄する相手にかけられていた疑念が晴れたのを、彼はむしろ喜んでいるに違いない。
しかしそう指摘すれば、きっと
『それほどの才能があるくせに、兄貴に逆らうような度胸のある男ではないから、嫌いなのだ』
などと、もっともらしい言い訳をするだろう。
『つまり、この人はアンチという名の信奉者なのだ』
エル・クレールは彼が「フレキ叔父をある意味で信頼している」ことを嬉しく思ったが、それを隠して、
「そのことを確かめるために、わざわざ?」
その問いに対する返事はなかった。
彼はエル・クレールに背を向け、絡まった針金のように強情そうな髪の毛に覆われた後頭部を、ガリガリと掻いた。
「普段なら、おまえさんのそういう鈍さがたまらなくカワイイんだが、今日はそうも言ってられンね」
軽口のようにブライトは言うが、言葉の端になにやら重苦しいモノがあった。
「私が、何か『見落として』いる、と?」
エル・クレールは彼の左に並ぶよう一歩前へ出ると、彼の視線をなぞった。
背を丸め、うつむき加減で立つ彼の目は、地面に落ち込んでいる。
見える地面ではない。芝居小屋の薄汚れた「壁」を突き抜けた先の地面だ。
人間の視力では、そこに何かを「見る」ことなど無理なことだろう。ブライトの「目」とて、何かを「見ている」訳ではない。
だが、彼はそこに「何かある」と感じている。
心眼だとか勘だとか第六感だとか、そういう「能力」じみたモノが、そこにある何かの存在を感じ取らせている。
その手の「能力」の鋭さだけを言えば、実のところエル・クレールの方がブライトよりも優れている。
彼女のそれは、鋭く細く、そして力強い刃さながらに鋭敏だ。
無人の屋敷や戦禍の跡に息を潜め、姿を隠し、あるいは人間になりすましている魔物がいたとして、彼女はその存在を感じ取ることができる。場合によっては、それが「なんと名乗る物なのか」さえも見通すことができた。
ブライトは彼女の勘の鋭さに何度か助けられたし、その幻視の的確さは信用している。
だが彼は彼女の「能力」そのものは全く信頼していない。
なぜならそれは時として、見えている物にさえ気づかないほどの酷い「なまくら」になるからだ。
エル・クレールは自分の感覚が不安定なことを心苦しく思っている。
彼女はブライトが「何かを感じ取った」その場所をじっとにらんだ。
そこに何も発見できないことが情けなく、口惜しい。
「今日は特に間の抜け方が尋常じゃねぇな。……『末生り瓢箪』の名前にゃ、そんな役に立たない『御利益』があるのかね?」
ブライトがからかい半分に言う。
「あの方の所為ではありません……多分」
反論するエル・クレールの語尾は弱々しかった。
「多分? 他に何か……」
言いかけて、ブライトは口をつぐんだ。
エルの全身が粟立っていた。
見えてしまった……黒光りのする尖ったかぎ爪の影が。
件の芝居小屋の地面の下から、ぬっと突き出ている。
生白く細い、しかし妙に力強い腕の形が、彼女の夢の奥底に潜み、脳漿に焼き付いていた「男の腕」とぴたりと重なる。
黒い爪を持つ指先を極限まで開いた掌が、グンと一息に迫ってくる。
現実ではない。それは理解している。
だが、掌が顔面を覆う息苦しさ、爪がこめかみに食い込む苦痛、頭蓋を砕くかれる恐怖を、彼女は予感してしまった。
エル・クレールは己の体を己で抱きしめた。
小振りで丸い頭骨に、大きな掌が乗った「現実の感覚」に、彼女は息を詰まらせた。
大きく見開かれた双眸の前に、男の顔がぬっと現れた。
エル・クレールの肩は大きく揺れた。
半分ほどまぶたを閉ざした黄檗色の目。その向こう側に、澱んだ赤い目が、ぴたりと重なって見える。
思わず目を閉ざし、頭を振った。
再び目を開いたときには、黒い爪も赤い目も見えなくなっていた。
見えなくなったことに安堵した彼女は、ほっと息をついたが、直後、
「何故あのように見えた……?」
つぶやくのを聞いたブライトは、その言葉の意味を、
「普段と違った勘の働き方をした」
と受け取った。
「いくらか調子が戻ってきたか。めでてぇことだ」
言いつけを守った飼い犬にするような、乱暴さで彼女の頭をごしごしとなで回したのは、安堵の表れだ。
エル・クレールは「そうではない」と言いかけて言葉を飲んだ。
悪夢に見た鬼の幻と、鬼を退治する立場の、ハンターなど呼ばれもする人間とが「似て見えた」なとということを、当の本人に向かって言えるはずもない。
もっとも、それを言ったとして、ブライトは腹を立てたりはしないだろう。
いつだったか彼は「オーガとハンターは、突き詰めれば同類」であると言い切ったことがある。
共々、常人と掛け離れた力を手に入れた存在であるから、というのが彼の「考え」であるらしい。
二つのモノの違いは、望んで……場合によっては望んでいなかったのに……手に入れてた力に、飲み込まれてしまうか、制御できるか、その違いでしかない。
『酒呑みみてぇなもンだな。酔って暴れたがるやつと、そうでないやつとがいる。……白面のやつから見れば、両方ともひとくくりに「酔っぱらい」さ』
ブライトは「白面のやつ」の立場にいるかのごとき口ぶりで嘲笑する。嘲りの対象は、後者の酔っぱらいの一人である自分自身に他ならない。
そういう考えの持ち主であるから、エルが
「幻に見たオーガが貴方に似ていました」
など言ったとしても、
「ふぅん」
さも当たり前のことと言わんばかりに、鼻で笑うのみに決まっている。
それが嫌だった。
そちらの方面に関する彼の知識は、彼女の尊敬するところではあるが、このことのみは承伏しかねる。
エル・クレール=ノアールもハンターなのである。
ブライトの理論で言えば、彼女もまた「オーガと同類」ということになる。
すなわち、彼女の父の命を奪い、故国を壊滅させ、母をいずこかへ連れ去った、憎い仇敵の同類ということになるのだ。
それはだけは、認めたくない。
エル・クレールは口を真一文字に結んだ。
彼女が返事も反論もしないことを、ブライトは不審がらない。
筋のいい弟子で、負けられない好敵手で、可愛い妹分で、からかうとおもしろい玩具で、見込みの薄い片恋の相手で、信用する相棒である彼女の考えていることは、すべてお見通しのつもりでいる。
この「つもり」の半分ほどはどうやら的を射ているが、残りは過信であり見当違いだった。
ブライトはエル・クレールが
『見えなくなっていたものが、急に見えるようになった』
状態だと見ている。
『真っ暗闇に目隠しの状態を不安がっていたら、唐突に炎天下に突き出されて目がくらみ、困惑している』
ようなものだ、と思っている。
それならば放っておいても問題はない。直に目も慣れる。むしろ、喜ばしい。
「快気祝いに芝居にでも連れて行ってやろう」
ブライトはニタリと笑った。
「早々にこの村から立ち去るおつもりだと」
エル・クレールは小さな声を出した。
「最初はそのつもりだったがね……あんな処に妙なモノを見ちまったからには、そうもいくまいよ」
ブライトのあごが、芝居小屋の方を指した。
彼の立ち姿は、相変わらず疲れ果てた下男そのものだったが、しかし口ぶりには普段通りの力強さがあった。
この声音を聞いて漸くエル・クレールは、彼の「力ない足取り」が、落胆のためではなかったのだと気付いた。……かれは魯鈍な従者になりきっていたのだ。
そのことはしかし、エルには胴でも良いことと思えた。
「観劇なさるということは、あの勅使の方と同席すると言うことですよ?」
貴族嫌いのブライトに、エル・クレールは念を押す。
「連中が来るのは、宵の口になって『連中に見せるための芝居』の準備ができてからだろうよ。こっちは、その前に床下を覗いて、すぐにオサラバって段取りさ」
「つまり、お芝居は観ないと?」
エル・クレールは少々落胆した。同時に少しばかりの不安を感じた。
ブライトは「覗く」などと気軽に言ったが、おそらくその程度では済むまい。
グラーヴ卿の一行が「視察」に来るまでの間に
『事が済めばよいのだけれども』
それを口には出さず、彼女はブライトの顔をじっと見た。
すると、
「芝居に行くとは言いやしたが、観るとは言っちゃいませんぜ、姫若さま」
ブライトは急に口調を変え、恭しげにぺこりと頭を下げる。
その頭がわずかに動いた。彼女に背後を見るように促しているのだ。
エル・クレールは体ごとくるりと振り向いた。
背が低く、痩せた「大人の格好をした少年」が一人、立っていた。
六.踊り子たち
よく見ればそれは、小柄な「男の格好をした若い娘」だった。
小さく丸い顔にうっすら白粉がのっている。唇にも少々くすんだ色ではあるが、紅を引いていた。
長い黒髪は後ろで丸く結いまとめ、それを黒い絹で包んであった。
娘は、天空から目に見えぬ糸でぴぃんと吊されているような、あるいは、背筋に硬質な芯が一本通っているような、まっすぐな姿勢で立っている。
背筋を伸ばして立ったまま、彼女は驚きに大きく目を見開いて、エルを見ている。
黒い瞳は、エルの足下から頭のてっぺんまでを、何度も往復した。
「なにぞ、ご用か?」
エルが穏やかな口調で声をかけると、娘は耳の先まで紅潮させ、その場に膝を折ってひれ伏した。
「お許しを。どうぞお許しを。若様のお姿がこの世のものとは思われずに、思わず見とれてしまいました」
阿諛追従の言葉はエルのもっとも苦手とするものだったが、目の前の娘にはへつらいのいやらしさは見えない。
エル・クレールはため息を一つはき出し、
「確かに私はよく『この世の人ではなく、化け物の同類だ』と言われる。『世の中のことを少しも理解していない、並の人間以下だ』とも」
ちらりとブライトを見た。
エル・クレールらしからぬ、冗談めいた嫌みに、彼は苦笑いした。
顔を上げた娘は、エルの白い顔をじっと見、
「わたしは……本通りの酒屋さんに姫様のように美しくて、将軍様のように強い若君様が居て、こちらに向かってきていらっしゃるはずだから、その方をこの小屋へご案内するようにと。……その方は大変な大男を子供のようにあしらったと言うので、美しいとは言っても多分とてもお強そうな方だと思っておりました。……私が顔を知らないと言ったら、マイヤーさんが、白銀色で亜麻のようにつややかな御髪だから、どこにいらしてもすぐ見つかると教えてくれたので、きっとあなた様がそうだと思いまして、お声をかけようかどうしようかと悩んでおりましたら、あなた様から急にこちらを向かれたので、とても驚きました。それにお顔が、考えていたのとは違っていましたし、足運びが上等の踊り子よりも美しくて……」
しどろもどろに言う。赤い頬はますます赤くなり、最後にはとうとうのぼせて頭がふらつき始めた。
あわててエルが彼女の肩に手を伸ばした途端、娘は体全体を大きく一度だけ痙攣させた。両の手を胸の前で合掌させた格好で、彼女の体は硬直している。
男装した娘の細く軽い体は、棒のように固まった状態で、ふわりとエルの腕の中に倒れ込んだ。
失神したのだ。
若い娘には良くあることだ。
ギュネイ皇帝が二代目となったころから、ウエストが細くてバストの大きいスタイルが流行しており、娘達の多くはコルセットで胴から胸をきつく締めている。
特に、美しさを追求する者達は、端から見れば拷問とも言えるほどの強さで我が身を締め付けるものだから、人によっては肋骨や背骨の形が不自然に歪んでしまうという。
締め上げたコルセットの中では、胃腸も肺腑も心臓も、きつい型枠に無理矢理押し込められているような格好になる。
この状態で、緊張の度合いが極限まで高まれば、息が詰まって気を失ってしまうのも必定といえよう。
……もっとも、社交界に身を置くご婦人方の中には、倒れる方向に麗しい男の子が居るとことを確認してから失神なさる方もおられるらしいが……。
それは兎も角。
この娘はそれほどきついコルセットを締めているわけでもなく、打算で男性(に見えるエル・クレール)の腕の中へ倒れたのでもない。
極度の緊張のあまり、本当に気が遠くなってしまったのだ。
エル・クレールは白い顔をしている娘を抱え込んだまま、ブライトに視線を送って助けを求めた。
「姫若さまの毒気に当たったンでやしょう」
ブライトは相変わらず苦笑していた。ただし、先ほどよりは笑みが大きくなっており、だいぶん楽しげではある。
「まるきり私が毒婦ででもあるかのように」
エル・クレールは困惑し、口を尖らせたが、
「それ以上でさぁ。何しろおまえさまときたら『娘のように美しい男』に見える。こいつは見る人によっちゃぁ毒婦よりも質が悪い」
彼はくつくつと笑うばかりで、エルに手を貸そうとはしなかった。
エル・クレールは仕方なしに、倒れ込んだ娘を両の手で抱え上げた。
娘の体は細く、軽かった。
しかし、骨と筋肉はがっしりとしている。
舞台の上で舞い踊るダンサーは、劇場の端に居る観客にも細かい所作まで見せねばならない。
笑うにも泣くにも怒るにも、日常生活で作るそれと同じ表情を浮かべただけでは、桟敷席からはそれと見えない。
身振り手振りも同様だ。
だからといってただ大きく演じれば良いというのでもない。
微笑すべきを大笑しては、笑みに隠された意味合いが違ってしまうからだ。
よって、舞台人達は日常とは違う動作で、日常と同じに見える演技をすることになる。
いわゆる「芝居がかった所作」というやつは、確かに不自然な動きではあるが、それを舞台の上で行えば美しく見えるし、理解もしてもらえる。
そのために、役者も踊り子も普通の振る舞いでは使わない筋肉まで総動員して体を動かすし、そういう動作ができるように訓練し、修行する。
おかげで、良い役者になればなるほど、その肉体は戦士並みの頑丈さに鍛え上げられることとなる。
その上、彼らはその頑丈さを外見に出してはならない。
役者が演じるのは丈夫だけではない。肥満体も病人もその身一つで演じなければならないからだ。
無言の舞踏劇で主役を張るほどに優秀な踊り子はことさらだ。とぎすまされた強靱なバネが、皮膚の下にあることを観客に悟られては、妖精や姫君の装束が台無しになる。
エル・クレールの抱いているこの娘が踊り子であることは、その体つきから間違いない。メイクや衣裳からして、女ながら男役を演じているものと見える。
着ている男物は、舞台用の衣裳ということになる。
つまりは、衣裳のまま使いに出されたということだが、
『そんなことがあるものなのだろうか』
エル・クレールは首をかしげた。
それを今考えても仕方がない。
彼女は娘を抱えてあたりを見回した。
「楽屋口へ運んであげた方が良いでしょうね」
エルが言うと、ブライトは
「そりゃそうだ」
芝居小屋の裏手に向かってさっさと歩き出した。
娘を抱えたエルがその後に続く。
小屋の裏手では、端役と裏方をかねているらしい劇団員が二人ばかり、忙しげに小道具の修繕をしていた。
これも男装束を着ているが遠目にも娘と解った。
端役の踊り子たちは、小道具の上に射していた日の光が、大きな人影に遮られたことに腹を立て、声を荒げる。
「誰さ! そんなところに突っ立たれたら、手元が暗くなる! こっちはやらなくても良い手直しまで押しつけられてるんだ。邪魔するんじゃないよ! この木偶の坊め!」
他の団員がやってきたのだと思ったのだろう。少々口汚く言い、眉をつり上げて振り仰いだ。
そこに立っていたのは、くたびれた旅姿の、見たこともない大男だった。
後ろには小娘を抱きかかえた誰かが立っているが、逆光の中にあって、二人とも顔かたちがはっきりしない。
彼女たちは、さながら盗賊に出会ったかのごとく、弾けるように修繕中の小道具を投げ出し、二人肩を寄せ合って抱き合って震え出した。
そのうち一人が、後ろの人物が抱えているのが自分たちの仲間であることに気付いた。
「このサンピン、シルヴィに何したのよぅ!」
おそるおそるではあるが、良く響く大声だった。
芝居小屋の中にもこの声が通ったと見える。
常設の劇場などない場所で公演する旅回りがかける巨大なテントは、だいぶんくたびれた綿布で覆われているのみであるから、外の声もそのまま内側に聞こえているのだろう。
何人かが、天幕の裾をそっとめくって様子をうかがう。
頭を突き出し、あるいは顔の半分だけを覗かせるその団員達は、ことごとく女性だった。
その内の一人が目玉を覗かせた天幕の裂け目は、ちょうど外の娘たちが言うところの「サンピン」の真横にあたった。
まぶしい陽光の影響を受けなかったその娘が、
「きゃぁ」
嬌声を上げた。
中の者の大半がその「裂け目」に群がったのが、外に立つ「サンピン」……エル・クレールとブライトにもすぐに知れた。
天幕のその一点だけがふくれ上がり、ぼろ布の表面に手や顔の型が浮かんだり引いたりしている。
エル・クレールには何事が起きたのかさっぱり解らない。
きょとんとした彼女の耳元でブライトが、笑いをこらえて
「姫若さまの毒気の中毒患者が、ざっと十人は増えましたぜ」
下男の振りの口調のまま言う。
「私は……」
不機嫌と困惑をはき出そうとする彼女に、ブライトは口調を普段に戻し、小声でささやいた。
「おまえさんという人間が悪ってンじゃぁねえよ。あいつらは、奇麗な者が綺麗な者を抱いているってぇ『絵』に中てられてるのさ。そういう、普通の暮らしン中では滅多にない、どっちかってぇと廃退的な匂いのする光景って奴が、あの中にいるような若い娘達の好みなだけさね」
エル・クレールは小さく頭を振った。
「理解しかねます」
彼女にとって今の状況は、単に「若党が気を失った娘を運んでいるだけのこと」だった。
男さながらに育てられたエル・クレールが年相応の若い娘の感覚を持ち合わせていないのか、そうでなければ、
『こいつは自分のことを「女好きのする美形だ」と自覚していない』
ブライトは苦笑いした。
二人の即席小道具係は、二人抱き合ったまま、そっと立ち上がり、目を細めてじっと来訪者の影をにらみつけた。
彼女たちはある種の安堵を得ていた。
小屋の中の仲間達は、争ってその影の顔を見ようとしている。それはつまり、目の前の影が……少なくとも顔立ちに関して言えば……恐ろしい者ではなさそうだいうことを意味している。
「シルヴィは、どうしたのですか?」
最初の一喝に比べればずいぶんとしおらしい物言いで、一人が訊ねる。
「気を失っているだけです。気付けの薬か、蒸留酒をのませてやれば良い」
エル・クレールは声音を落とし気味にし、答えた。
大声を張り上げては、腕の中の娘に良くないと考えてのことだ。
その気配りが、小屋の中の娘たちには違って聞こえたらしい。
先の言葉に続けて、
「息がしやすいように、コルセットを緩めて……」
と付け足した途端、悲鳴に似た嬌声が、小屋の中からわっとあがった。
「コルセットを緩めてですって!」
誰ぞの叫びと同時に、衣擦れの音がした。
「莫迦ね、シルヴィの手当のためにっておっしゃっているんじゃないの。あんたが脱いだって、誰も喜びゃしないわよ」
ケラケラと笑う声がいくつも湧いた。
笑い声に混じって、複数の娘達が騒ぎ立てているのも聞こえてくる。
「あの方、なんてすてきなお声なのかしら」
「でもあんなに可愛らしい童顔よ」
「体もあんなに細くて」
「それなのにシルヴィーを苦もなく抱いて」
「ずいぶんお強い」
「ああ、きっと人の姿をした刀剣の妖精よ」
「だとしたら御髪はきっと本物の白金に違いないわ」
等と言うことを口々にまくし立てている。
現実的でない意見までもが漏れてくることに、エル・クレールは驚きもしたし、呆れもした。
息を吐いて、改めて目の前の娘たちを見、訊ねる。
「どこかこの人を横にさせてあげる場所は?」
娘らはそろって小屋の通用口を指し示した。
同時に、見計らったかのごときタイミングの良さで、布を垂らしただけの出入り口が大きく開いた。
件の「のぞき穴」から様子をうかがっていた娘達が開けたものだ。当然、彼女たちはその入り口に集合している。
その様は、群雀が羽ばたきながら騒いでいるのに似ていた。声も仕草もせわしなく、騒がしく、しかし可愛らしい。
ブライトが大きく腕を振り、
「ウチの姫若さまが病人抱えて通るンだ。あんたら、ちっとは静かにして、そこを空けねぇか」
少々乱暴に娘達をかき分けて進む。すぐ後ろを、エル・クレールがついて行く。
たどり着いた先は大部屋の楽屋らしき空間だった。明かりのない、ほの暗い空間には、白粉と樟脳と埃と汗の混じったむせかえる匂いが充満している。
空間の端の小さな鏡台の前に、薄縁が一枚引かれていた。
エル・クレールは皆から「シルヴィー」と呼ばれた踊り子をそこに寝かせると、すぐに彼女の側から離れた。
手桶と蒸留酒の瓶を携えた年長の、これも女性の団員がとんできて、彼女の衣裳の襟元を開き始めたからだった。
手当の様子をのぞき込むブライトの右の耳たぶをぐいと引き、彼女は元来た通用口に戻ろうとした。
「全くウチの姫若さまと来たら、オレが元よりよその娘っ子に気を取られるような不義者じゃねぇってのを、いつまで経っても信じくれないと来てやがるから」
おどけた調子で言いながらも鼻の下を伸ばしているブライトの耳たぶを、いっそう強くつねりあげ、エル・クレールは
「下心のあるなしではありません。エチケットの問題です」
唇を小さく尖らせる。
「ほんに可愛い焼き餅焼きだねぇ」
ブライトはフフンと、少しばかり下品に鼻で笑ったが、耳たぶをつまむ白い指を払いもせず、通用口とは逆の方向顔を向けた。
すなわち、芝居小屋のさらに奥、舞台のある方向だ。
舞台袖と楽屋をつなぐ、貧相なドアが大きく開いてい、暗く四角い空間に、人影が一つ立っていた。
「ほうれ、姫若さま。あそこに大口たたきの戯作者様がご推参ですぜ」
ブライトの顎が指す先に、確かにマイヤー=マイヨールがいた。腕を組み、足を踏み、踊り子達が騒ぎ立てている様子を、不機嫌に睥睨している。
しばらく無言で娘達をにらんでいたが、誰一人として彼の存在に気付かないのにしびれを切らし、やがて大声で怒鳴りつけた。
「ぎゃぁぎゃあ喚いている暇があったら、少しでも稽古をしやがれ、この尻軽どもが! この掘っ立て小屋を建ててある所場代だってロハじゃねぇし、テメェらの糞を捨てるにも手数を取られるときてやがるんだ。瞬きする間だって無駄にしてみろ、タダじゃおかねぇぞ、この阿婆擦れめらが!」
先ほどの飲み屋での人当たりのよい口ぶりとは一転して、口汚くののしる。
娘達の嬌声が一瞬にして止んだ。
彼女たちはいそいそと自分に与えられた小さなスペースに舞い戻り、体を縮めて化粧直しをしたり、衣裳の埃を払ったりし始めた。
ブライトはくつくつと笑った。
「下種野郎のお里が知れるってもんだ」
声を出して笑うのはどうやらこらえているが、肩は大きく揺れている。
エル・クレールは柳眉をひそめた。
よほど
『あなたの普段の言葉遣いと、どこが違うというのですか』
と言ってやりたかったが、止めた。
代わりに呆れと嫌みをため息で表してやろうかと思いはしたが、有閑貴族のたむろうサロンよりも数倍白粉臭いこの場の空気を、そのために余計に吸うことが躊躇われて、それも止めた。
ただ眉根を寄せて、肩を落とし、首を振る。
マイヤーの身なりも、舞台衣裳らしい。
修道僧が着るフード付きのローブに似たシルエットのそれは、目が覚めるほどの鮮やかな緋色に染め上げられており、大振りなフードと広がった袖口と裳裾は、金糸で縫い取られた百合の刺繍で縁取りされている。
ゆったりとだぶついた布地が、彼の小柄を一回り大きく見せていた。
踊り子の誰かが彼のところに走り、シルヴィーが倒れたと告げた。それに対する彼の返答も、また罵声だった。
「倒れただと!? なんてドジだ、まったく。何奴も此奴も私の邪魔ばかりしくさって!」
役者兼任の戯作者らしい大仰な身振りで、大きく首を振った。
それによって動いた視線により、彼がエル・クレールとブライトの姿を見つけたことは、彼にとって良い偶然ではなかったと見える。
隠しておいた下品さを見つかった見栄っ張りは、卑屈に、それもやはり芝居がかった作った笑顔を、二人の部外者に見せた。
「どうも、お見苦しいところを」
軽く頭を下げ、彼は軽い足取りでエルへと駆け寄った。
いや正確に言うと、駆け寄ろうとした、だった。
命の恩人の若様に抱きつこうとした寸前、彼は大きな壁にぶつかって跳ね飛ばされたのだ。
そのまま尻餅をついたマイヨールは、ローブの裾を翻しながら、大きく弾む鞠の軽快さをもって後転し、跳ね起き、つま先で着地し、二回転と半分の独楽のようなターンを決めて、客人達のいる方向にむき直し、深々とお辞儀をしてみせる。
最初から台本と振り付けによって決められていたかのではないかと思えるほど、流れるような自然な動作だった。
エル・クレールは彼の身の軽さに素直に感心、ほう、と嘆息した。
ほとんど同時に、彼をはじき返した壁……すなわちブライトが、ふん、と鼻息を吐き出した。
「軽業師なのか俳優なのか踊り手なのか物書きなのか、どれか一つに絞ったほうがいくらかモノになるかも知れねぇってのに」
良く聞こえる独り言を案の定聞きつけたマイヤーは、にんまりと笑う。
「こいつは有難いお言葉だ。あんたはこの私を、多芸多才な逸材と見てくれたってぇことだね。いやあ、さすがにクレールの若様は目の肥えたご家来をお抱えだ」
言葉だけ聞けばブライトに話しかけているようだが、実際マイヤーの視線は最初から最後までエルにのみ注がれていた。
あっけらかんとした、それでいて脂っこい笑顔を見たエル・クレールは、少しばかりの薄気味悪さを感じ、ほとんど本能的にブライトの背に身を隠した。
マイヤーの団栗眼は彼女の行動をなぞって動く。
「鈍い野郎だねぇ」
呆れ声を上げたのはブライトだった。
マイヤーの視線を広い胸板で塞いだ。
「ウチの姫若さまは、お刀ぁ握ってるときは大丈夫でも、そうでないときは酷い人見知りでね。特にあんたみたいに口先達者のお下劣野郎とは、顔を合わせンのも金輪際御免だってのさ」
「そんなお気の弱いお人が、あんな大男をコテンパンに叩きのめしたってのかい?」
マイヤーの言動は、どれもこれも芝居がかっている上に誇張が大きい。
彼の事実と違う発言に踊り子達が歓声を上げ、熱い視線を送るのにエル・クレールは辟易した。
しかしブライトは、
「そんなお気の弱いお人が、あんな大男をコテンパンに熨したのさ」
マイヤーの言葉をほとんどそのまま鸚鵡返しにした。
「これはおもしろい。まるで、同じ顔をしたまるきり別の人間が二人いるような」
マイヤーの手が、ローブの袖に引っ込んだ。すぐさま出てきたそれは、ぼろぼろの紙束とリボンを巻いた細い木炭を一本つかんでいた。
「一つの顔を二人が取り合うか、一人の心が二つに分かれてゆくか……。一人二役の……いや、一つ話を裏表から見たヤツを、昼と夜とに分けて、役者はダブルキャストに……」
つぶやきつつ、木炭を紙の上に走らせて、何かを書き付けている。
「見たモノ総てを芝居のネタに結びつけないと気が済まない芝居莫迦の戯作者が本業かね。自分のトコの団員だけじゃなく、見に来た客にまでつまらないメイワクをかける、どうしようもない阿呆だ」
ブライトは少々呆れ気味に言った。
「聞こえてる。しっかり聞こえてるよ、旦那」
紙束に目を落としたまま、マイヤーはにやりと笑う。
「いやね、今のネタもだいぶん古びて来たので、すっぱり切り捨ててお終いにしようと思ってたところでして。それには次のハナシが必要だった訳ですが。……まったく若様との出会いは、芝居の女神のお導きに違いない」
必要な文字を書き付け終わったらしい彼は、紙の束を丸めて無造作に袂へ押し込むと、揉み手をしながら再度エル・クレールへの接近を試みた。
マイヤー=マイヨールとてそれほどの莫迦者ではない。己の行く手が再び「巨躯の下男」に阻まれるであろうし、「姫のような若様」が自分と視線を合わそうともしてくれないだろうことは分かり切っている。
今度は勢いよく駆け寄ったりはしない。慎重に歩幅の狭い足取りで、ゆっくりと近づく。
彼の予想通り、ブライトは彼の行く手を阻んだ。
しかし、エルの行動は彼の予想とは反していた。
彼女はブライトの背後から出てきた。
視線はマイヤーの目に注がれている。
マイヤーの面に愉悦の笑みが一瞬浮かび、すぐに消えた。
エル・クレールは唇を挽き結び、鋭い眼差しでマイヤーを睨んでいる。
「私めは、なんぞ若様のご不興をかうようなことを申したかい?」
彼はエルにではなくブライトに問うた。
「さぁて。姫若さまはガップの殿様のことが大好きだそうだから。多分、あんたが殿様名義のお芝居を『切り捨てる』と言ったのがお気に召さないんだろうよ。当然、あんたが殿様の名を騙ったこともだがね」
ブライトは後頭部をガリガリと掻いた。
これは「反吐が出るほど嫌いな連中」のことを脳の片隅に思い浮かべただけでも起きる頭痛発作を誤魔化し、和らげ、忘れるための癖だったが、マイヤーはそれを知らない。
彼はただ、『この男も不機嫌だ』と感じたに過ぎない。
それは間違っていない。
ブライトはエル・クレールがあくまでもヨルムンガント・フレキのイニシャルに拘泥していることが不満であり、且つ、それに立腹している自分の偏狭さが腹立たしくてならないのだ。
そういった細かい心情など、マイヤーの知ったことではない。大体、この大柄な男に細やかな神経があるということ自体が、彼の思慮の外側にある。
マイヤーから見れば、普段から主人に振り回されているらしい忠義な下僕は、箱入りで気難しげな田舎貴族よりも、ずっと御しやすかろう存在だった。
『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。此奴の不機嫌を何とかすれば、巡り巡って若様のお目をこっちに向けることも、あるいはできる』
愛想良い笑顔がブライトに向けられる。
「そりゃ、言い様は悪かったけれどもね。……それにお宅の若様は誤解してなさる。私はフレキ様の騙りなんぞしてやしないよ」
「ほう、この期に及んでまだ本物と言い通す気かね? それとも勅使に向かって切ってみせた大見得の方が嘘だったとも?」
小柄なマイヤーの上に覆い被さるようにしてブライトが言う。エルにはそれが酷く滑稽なしぐさに見えた。
「全部が全部本物って訳じゃない。それはしかたないことで。芝居にするには脚色ってやつが必要なんだ。だから私は大分手を加えてる。なにしろ私が殿下のところから貰ってきたのは、プロットみたいな走り書きだけだったからね」
マイヤーは「貰って」という単語をことさら強調して言った。
皇弟から直接手渡されたかのごとき言いぶりに、エル・クレールは驚いて目を丸く見開き、ブライトはいぶかしんで瞼を半分閉じた。
睨まれたマイヤーは、
「ああ、これは内緒の話。どうかご内密に、ご内密に」
いかにも白々しく慌てて、己の唇に人差し指を一本立ててあてがって見せた。
その芝居ぶりを見て、ブライトは「偽物」との確信を抱いた。
「イイ度胸だよ。どうしようもない阿呆め」
呆れもしたし、感心もした。
かぶりを振る彼を見て、味方に付けた、と思ったのだろう。マイヤーは心中で
『此奴は私を嫌っちゃいない』
にやりと笑った。
ところがブライトは、不満げに彼を見上げるエルに、
「姫若さま、この野郎の言うことを真に受けちゃぁなりませんぜ。何しろ人生全部がお芝居の野郎だ。どこからどこまでが本当で、どこから先が嘘っぱちなのか、本人にすら解らなくなってやがる」
強い口調で言った。
「大方はそうであろうと思ってはおりましたけれども……」
エル・クレールはため息を吐いた。
「もし、芥子粒ほども期待していなければ、どんなに良かったことか」
肩を落とし、暗い顔でうつむく。
礼拝堂に据えられた大理石の告知天使を思わせる端正な横顔の、冷え切った美しさに、マイヤーの目は奪われた。
背筋に震えが走る、などという表現があるが、実際に彼は大きく身震した。
『あの若様の艶っぽさは、ホンモノだ』
震えを隠すため、身振り口ぶりを大げさにし、
「ああ、非道い。非道いなあ、若様も私を信用してくださらないなんて」
薄めを開けてちらりと見る。エル・クレールという若い貴族が、己に向ける眼差しには不審の色が濃い。
『それがまた、艶っぽい』
生唾を飲み込むと、マイヤーは頭をぶるっと振った。
『これ以上魅入られちゃならない』
「ええい、若様に信用してもらえるなら、構うことはない、私の秘密を見せて差し上げましょう」
くるりときびすを返す。
「付いてきてくださいな。こっちに証拠がございますよ」
彼は先ほど彼自身が現れた楽屋口の向こう側に向かった。大股で、乱暴に足音を立てているが、それも芝居臭い。
実際それは、大きな足音で自分の耳に届く己の心臓の音を消すための芝居に他ならない。
彼の行く先にあるのは舞台だ。
「舞台の上に真実があるか? 芝居莫迦の言いそうな台詞だ」
ブライトが意地悪く言う。
マイヤーの足が止まった。首だけを振り向かせた彼の顔に、険しいものが浮かんでいる。
「さっきから思ってたんですがね。……お宅、タダの下男じゃないね」
わざとらしく背中を丸めた男の、わざとらしく伸ばした無精髭の奥から、わざとらしく砕けた言葉が飛び出る。
「ウチの姫若さまも、多分そうとは思っちゃいないだろうよ」
マイヤーはこれを「並の下僕ではなく主君も認める優秀な家臣だという自負」と受け取った。
家名自慢の没落貴族に付き従っているような家来は、妙にプライドが高い。プライドだけの輩も多いが、極々まれに中身の伴った者もいる。
そういった逸材は、しかし他家からのスカウトをにべもなく、ことごとく、はっきりと断り、片田舎で埋もれる道を自ら選ぶ。
あるいは、己の能力を持って落ちぶれた主家を持ち直させる野心を抱く者もいる。
『この大男はその口だろう』
それがマイヤーの持つ「常識」が導き出した結論だった。
彼はちらりと「没落貴族の子弟」を見た。
剣を持たぬ時はすこぶる気が弱いという「彼」は、「タダの下男ではない男」に縋り付かんばかりにして、漸く立っている。……ように見える。
「似合いの主従だよ、全く」
マイヤーは再び足を踏みならした。
エル・クレールが不安げに立ちつくす理由は、マイヤーの思うような生来の気弱のためでは、当然ない。
彼の向かって行く先に、なにやら妙な気配を感じ取っていたからだ。
それは芝居小屋の外にいたときから感じていた気配だった。
『いいえ、この土地に足を踏み入れたときから、アレは私に影響を与えていたに違いない。でなければ、今朝方あのような悪夢を見るはずもない』
それが一体何なのか、正体が知れないのが恐ろしく、そして口惜しい。
彼女はちらりとブライトを見上げた。
わずかな時間逡巡したが、
「連れて行ってください」
小さく言った。
「野郎の後をついて行けば良いだけのこったろうに」
ブライトは顎でマイヤーの背を指した。
「彼では……なんと説明したらよいのか解らないのですが……足りないのです」
「信用か、それとも、力か?」
「両方です。あの方は、普通の人間のようですから」
「俺は人間外ですかね?」
ニタリと笑った。相当に自嘲が混じっている。
「お互いに」
エル・クレールは少しばかり気恥ずかしげに答えた。
「フン」
鼻で笑うと、彼はズイと前へ踏み出した。
少しの足音も立たないが、先を行く戯作者の騒がしい歩き方の数十倍は頼もしい。
エル・クレールは彼の足跡の上をなぞって進んだ。
七.奈落の底
薄暗く埃っぽい舞台裏で、幾人かがあわただしく動き回っていた。
大部屋の楽屋にたむろしていた娘達よりは幾分年嵩らしい女性達と、劇団員とはとても思えない厳つい男達が数人、罵り合うような言葉を投げつけあい、それでいて和気藹々とした雰囲気で作業を行っている。
彼らにとってはそれがあたりまえの会話なのだろうが、エル・クレールは違和感を憶えた。
仕方のないことではある。
クレール=ハーン姫は世が世なら都の玉座に在している筈の、一級品の箱入りだ。
確かに、貴族と平民の垣根が低い山奥の小国に生まれ、農婦樵夫とも親しく接する環境に育った身ではある。訛り、あるいは砕けた言葉を知らぬではない。
それゆえ、普段のブライトが口にする言葉程度の乱暴さであるなら、聞くことに問題はなかった。
そこには「慣れ」の部分がある。
生まれ育った国風の穏やかなミッド公国においての訛りや砕けかたや、好むと好まざるとに関わらず四六時中共に過ごし会話している男の口ぶりには慣れきっている。
ところが、ここにいる裏方達の言葉遣い、語気の強さ、イントネーションといったものは、箱入りのクレール姫にとっては未知のものであったし、国を出たエル・クレール=ノアールの旅行きの中でも耳にしたことのないものだった。
「西の方の……北側の海っ縁だな」
ぼそりとブライトが言った。
帝国に住まう人々は、己の国土を大雑把に五つほどの地域に分けて呼んでいた。
その呼び名はすこぶる単純だった。
帝都のある「西の方」、そこから大陸の反対側の「東の方」、古い都ガップがあるあたりは「北の方」、南方の海沿いは「南の方」、そして国土の中央あたり、すなわち亡国ミッドがあった地域は「山の方」とか「高い所」といった具合だ。
この単純な区分けは、帝国の主がギュネイ家になる以前からなされていたものだ。
新しい主になってから、それに仕える役人達は彼らなりの行政区分を設定した。
ブライトの言った「西の方の北側の海っ縁」にしても、「西部北西郡内務省港湾警備局特別行政区北地区」という名前がある。政府直轄の港町の北側ということを言いたいために、こういう長ったらしい名前になっているようだが、その煩雑さが四百年の習慣に勝てるはずもない。
当の役人達が、書類の上には長々と文字を連ねながら、頭の中ではそこに昔ながらの呼び方のルビを振り、音読する。
その方が通じるのだから仕方がない。現に、エル・クレールも古い地名が持つイメージから、ブライトの言わんとしていることを汲み取ることができた。
都に近い港町は、各地から荷駄と人が集積する。港も町も人があふれかえり、騒がしい。
騒音の中では、指示を出す声もそれに答える声も、大きく簡潔でなければ相手の耳に届かない。職場と町中の風習はそのまま家の中に入り込む。大人も子供も男も女も、普段から怒鳴るような大声で会話するようになり、やがてはそれがその土地での「当たり前」となる。
人の出入りの激しい土地柄であるから、特殊な「当たり前」はそれを見聞きした人々が各地に伝える。よって、「西の方の北の港町」と言えば「喧嘩腰の言葉」と、「山の方」の人間であるエルにもすぐに得心できるのだ。
彼らが争いごとそしているわけでも、怒りを持って言葉を発しているのではないということが、である。
これを「西部北西郡内務省港湾警備局特別行政区北地区」と言ってしまっては、連想ができない。
とはいうものの。
納得がいったからといっても、すぐに慣れてしまえるものではない。
エル・クレールは肩をすぼめるようにして、裏方達の横を通り抜けた。
見知らぬ若者を見かけた裏方達は、一様に一瞬不審顔になった。直後、暗がりに目をこらしてその「不可解な美しさ」を見いだすと、ある者は息を飲み込み、あるいは嘆息し、ある者は口笛を吹いた。
下品な声を掛ける者もいた。肩幅の広い、下腹の出た、一寸年齢のつかめない顔立ちの男が、ブライトに向かって
「金剛の旦那、その子はどこの流行子だい?」
舌なめずりしながら言うその言葉の意味が、エル・クレールにはわからなかった。ただ、ブライトが物も言わずに声の主の禿頭を殴りつけたのを見て、どうやら相当に「佳くない言葉」なのだろうということは理解した。
「痛ぇ!」
喚いた禿頭は殴った相手を凄まじい形相でにらみ返した。文句の三つ四つを言うつもりだったらしいが、そいつの口元に浮かんだ笑みと目の奥に揺れる激怒を見た途端、愛想よく後ずさりすることに方針を転換した。
彼は助勢を求めてマイヤー=マイヨールを見た。戯作者は彼を一別すると、忌々しげに舌打ちした。禿頭は青ざめ、器用なことに後ろ向きのまま大道具の影へ走り込んだ。
マイヤーはちらりと振り返り、小さく頭を下げた。
「こういうシゴトをしてますとね……つまり、女の踊り子ばかり集めた劇団の裏方みたいなシゴトですが……女共の喧しさやら化粧臭さやら面倒くささやらに嫌気がさす野郎も出てくるんですよ」
「女性嫌いになる者も多いと?」
エル・クレールはマイヤーではなくブライトに訊ねた。
「……まあ、そういうことで……」
彼は何とも表現しがたい顔つきで、歯切れ悪く答えた。
その表現しがたい顔を彼はマイヤーに向け、
「そういうこともあるだろうってのは理解してやるが、だからってうちの姫若さまを色子呼ばわりしてもらっちゃ困るンだ。俺がこいつを抜かなかったって事を、有り難がってもらいてぇな」
下げた大刀の柄を軽く叩き、低い声で言う。
声を潜めたのは多分に脅しをきかせるためであるが、同時に、話の内容を当のエル・クレールに聞かれたくはなかったからであった。
『このオヒメサマときたら、下々の者の下の方のスラングはまるきり知らない温室育ちだ。そのくせ妙に向学心が高いから、解らないことがあると説明しろと迫りやがる。不承不承教えてやればやったで、穢らわしいだの不潔だのと騒ぎ立てときてる。そんなヤツにテメェが男色家に男娼扱いされたなんてことが聞こえたら、俺まで癇癪に巻き込まれて半殺しにされかねん』
であるし、また、
『そういうウブで潔癖なところが可愛いンだ。世の中の小汚ねぇところに触らせてたまるか』
だった。
マイヤーは古びた刀がカチリと鳴るのを聞くと、生唾を飲み込んだ。
「何分、裏の連中はホンモノの貴族様なんてものを拝んだことがありませんもので。つまり区別が付かないんですよ。貴族の格好をしてる人間全部が、貴族の格好をした下賤に見えてしまうという按配で」
「痛ぇ皮肉を言いやがるな」
薄く笑うブライトに、
「イヤですよ旦那。そんなつもりで言ったんじゃありません。政府のえらい人がおしなべて似而非貴族だなんてこと、私
ゃ一言も申し上げちゃいませんから」
マイヤーはからりと笑って返した。
舞台の真裏まで来ると、マイヤーは床板の一部を捲りあげた。薄暗い縦穴に縄が一筋垂らされている。
深さはそれほどでもなさそうだった。人が立てば頭の先が見えるか見えないかぐらいの、むしろ浅い穴だった。
穴はその深さのまま横に掘り進められ、その先が舞台の下に通じている。
裏方が下げていた鯨油ランプを一つ奪うようにして取り上げたマイヤーは、点けた火が消えぬよう慎重に、しかし素早く穴の中に飛び込んだ。
覗き込んだブライトは
「掛け小屋のクセに、ずいぶん大がかりな奈落を掘ったものだ。土地の者に文句を言われたンじゃないのかい?」
言いながらふわりと飛び降り、穴から腕を一本突き出す。その手を握り、エル・クレールも飛び降りた。
「顔役に木戸銭の半分をせびられましたよ。全く商売あがったりで」
背筋を伸ばして歩くマイヤーの後ろを、ブライトとエル・クレールは背を丸めてついて行く。
「あれだけの踊り子を抱えて、喰ってゆくのが大変そうだな」
パトロンが付いているのだろうことは、ブライトもエルにも想像が付いた。
ただ、ブライトはそれ以外にもなにか収入源があるだろうと見ていた。それもあまり公にできない方法での稼ぎが、だ。
「さぁて。そっちのハナシは座長サンに訊いてくださいな。私
の知った事じゃない」
マイヤーは面倒そうに答えた。この男は本当に芝居以外のことには興味がないらしい。
長い道のりではない。ほんの十歩で舞台下にたどり着いた。
マイヤーがランプをかざすと、太い柱が円形に並んだ空間がぽっかりと浮かび、その周囲を埋め尽くすハンドル、レバー、すり減った木の巨大な歯車などが落とす影がゆらりと揺れた。
エル・クレールにとっては見たことのないものばかりだ。素直に驚嘆し、声を上げた。
「これは、一体?」
「回り舞台ってやつでございますよ、若様。そこの丸く並んだ柱が丸い床を支えてましてね。それぞれにに力自慢の道具方が取り付いて押しますと、舞台の上の丸い床がセットも役者も乗せたままぐるりと回るという按配です。そうやって場面転換をすると、時間も場所もあっという間に飛び越えられるというダイナミックな仕掛けでございます」
喜々としてマイヤーが答え
る。
「それからあっちのハンドルで道具幕……つまり背景を書いた布きれですが……それを上げたり下げたり。あっちのレバーでいろんなもの、太陽やら月やら、描き割りの群衆やら、そういう仕掛けを出したり引っ込めたり。言ってみたら、ここは劇場の心臓です。お客さんからはまるきり見えない地べたの下だが、ここが真っ当に動いてくれなきゃ、いくら役者や踊り子が舞台の上で頑張っても見栄えの良い芝居にはならない……逆もまた、ですけどね」
「常設の大劇場ならまだしも、旅回り一座の掛け小屋にゃあっちゃならない小細工だ……」
ブライトは立廻し柱の一本を軽く叩いた。
「……運ぶのも大変だろう。荷物が増える」
刺すような視線をマイヤーに投げる。
「ええ、大変ですよ」
マイヤーは一瞬目を閉じた。いや、閉じる直前で瞼は止まった。
針のように細くなった目は、柔和に笑っているとも、鋭く睨んでいるともつかぬ表情を作った。
しかし彼の団栗眼はすぐに大きく見開かれた。円形に並ぶ柱の中央までひょいと跳び、そこに据えられた革張りの木箱に取り付く。
木箱にはなにやら機関が仕掛けられているらしい。マイヤーは二人の客に向かって尻を突き出す格好で前屈みにななり、箱のあちこちを押したり引いたりした。
やがて小さな金属音と共に箱が開くと、マイヤーはゆっくりと中に手を突っ込み、羊皮紙の束を取り出して仰々しく掲げた。
束には細い大麻の紐が十字に掛けられていた。紐は束の上面中心で結び止められているが、そことは違う場所にももう一つ結び目があった。
別の結び目には赤い蝋で封緘された後が残っている。
封蝋は真ん中が丸くへこんでいた。何者かの印影が刻まれている。
暗がりに目を凝らしたエル・クレールは、そこに見覚えのある紋章を見た。
六芒の星の中で二匹のヘビが絡み合い、牙を剥いて睨み合う意匠。
幼い頃にその印影を刻まれた蜜蝋で閉じられた書簡を目にしたことがあった。
書簡は必ず父が開封し、目を通すと、一部は母に渡された。
母は手渡された分を微笑みながら読んでいたが、父は時折残った便箋に暗い視線を落とし込んでいた。
極希に、彼女にも彼女宛の一葉が分け与えられることがあった。そこには、年若い貴族の筆跡による優しく楽しい文面がある。
「良くないところは自分以外には見せないのだろう」
ことは、幼いクレール姫にも想像がついた。
ただ、父が見せてくれない部分にどんな「良くないこと」が書かれていたのかは知れない。
少なくとも、後年大公の書斎に忍び込んだお転婆姫が、鍵の掛けられていない手文庫の中に見つけた手紙の束には、人を悲しませるような言葉は一語も書かれていなかった。
姫の年若い叔父、ヨルムンガント・フレキ=ギュネイの手紙は、総じて希望と理想と力に充ち満ちていた。
「叔父上」
思わずぽつりと漏らしたエルの一言だったが、それがマイヤーの耳に届くことはなかった。
ほとんど同時にブライトが
「わざわざ封緘を崩さずに別のところで紐を切ったのは、証拠残しのためか、中身のすり替えをやりやすいようにするためかか、どっちだね?」
後頭部を掻きながら、いやみたらしく言ったからだ。
「本当に非道いお人だね、あんたは」
マイヤーが苦笑いすると、ブライトも同じように笑い、
「なにしろウチの姫若さまは人を疑うことを知らない。こういう純な方をお守りするにゃあ、どんな物でも疑ってかからねぇと追いつかねぇんだよ」
「どうせ私は鈍うございますから」
拗ねた口ぶりのエル・クレールに
「いや、姫若さまは綺麗なお心でいてくれなくては困るンでね。それがお前サマの良いところなンだ。汚れごとはぜんぶ俺サマに任せておきゃぁいい」
これはブライトの本心でもあった。
「そうやって、いつまでも私を子供扱いするのですか?」
「そうやっていつまでも子供扱いするンですよ。でなきゃこっちの立場が危うい……。このところ剣術の稽古も真剣でやるのが恐ろしいくらい、お前サマは成長していらっしゃるから」
これも本心だった。
エル・クレールが反論の言葉を探している間に、ブライトは話題を元に戻すことに努める。
「封印の紋章は多分本物。これは姫若さまも同意見」
彼がちらりと視線を送ると、不機嫌に唇を尖らせたエル・クレールは小さく頷きを返す。
「……まさかあんた、俺が外見を見ただけで納得する素直な人間だとは思っちゃいないだろう?」
指先を切った革手袋を嵌めた大きな右手が、マイヤーの鼻先へ突き出した。
「ついさっきまではちょびっとだけ『そうだと良いな』と期待してたんですがねぇ」
戯作者は渋々掛け紐をほどき、ブライトの掌の上に羊皮紙を乗せた。
右手は水平に半円を描いて動いた。エル・クレールの目の前になめし革の束を突きつけるための動作だ。
「この俺が、ガップの殿様の筆跡を知っているとは……思いたくもありませんでね」
ブライトは自分の手と、そこに乗っている「穢らわしいもの」から顔を背け、言う。
羊皮紙の束を受け取ったエル・クレールはその表面に目を落とした。
古い写本の表面を削り、なめし直したものだった。
大きさが不揃いで、肌触りが少しずつ違っている。色目も違う。なめし具合も一定でない。材料となった動物の種類も統一されていない。
一冊の書物をばらしたものではないことは明らかだった。おそらくは、新しい書き手が入手した時には、すでに本の体裁を保っていない、数冊の書物の残骸だったのだろう。
それを「保存の必要がある書き付け」として再利用したものであるらしい。
『長期に保存するつもりがなければ、羊皮紙ではなく紙を使うはず』
エル・クレールは刻まれた鵞ペンの跡を目で追った。
マイヤーが言ったとおり、文章の断片や単語、数字などが、走り書きにされている。
その筆跡は「クレール姫宛の手紙」に書かれた文字とは違っていた。
それは幼い姪が読むことを考え、ことさら丁寧に、一文字ずつ書き付けたものであったから、当然ではある。
しかし、父の手文庫の中にそっと仕舞われていた私信の中には、急ぎ書き送ったものも含まれていた。
強い筆圧で、且つ素早く書かれた筆記体の手紙は、幼子宛の大きな文字とは印象が違い、いたずらな姫君は大いに驚いたものだった。
「おそらく皇弟殿下のお筆跡でしょう。殿下は急いで文字を書かれたときには書き進むにつれて右上がりになる癖と、縦の線を極端に短く書かれる癖がおありでしたから……ああ、ちょうどここや、それからこのあたりの文字が良く特徴が出ていてわかりやすい……」
彼女は羊皮紙の何カ所かを指で指し示した。マイヤーは細い指先をじっと覗き込んで
「いやあ、若様がフレキ殿下と文通なさっていたとは」
少々的外れなことを言いつつ、盛んに頷いて見せる。
一方ブライトはそっぽを向いたまま、
「ふん……」
少々不機嫌に鼻を鳴らし、エル・クレールの手から皮紙の束を乱暴に取り上げた。
マイヤーは当然それが自分の所に戻ってくるものと思い、両の手をブライトの前に差し出した。が、予想は外れた。
ブライトはそれを己の両手でしっかりと掴んだのだ。それでいて、汚らしいものを眺めるように眉間にしわを寄ている。
黄檗色の目玉は、「特徴が出ている」という箇所を睨み付けていた。
ややあって、彼は小さく舌打ちすると、皮の束をエル・クレールの手の中に押し戻した。
あっけにとられるマイヤーに対して、彼は
「字は殿様のものだってのは間違いなさそうだ。ただし、中身をよぉく読んで見ねぇことには、あんたの芝居が殿様の原作にどの程度忠実かが解らんよ」
「旦那は本当に本当に非道い人だ」
マイヤーはあきらめの口調で吐き出した。正論に対する仕方なしの承知を意味するうなずきは、落胆の項垂れにも似た力ないものだった。
羊皮紙を受け取ったエル・クレールは
「……解っています。内容の確認は私がいたしましょう。皇弟殿下にゆかりのあるものを、あなたに任せるなんて、とんでもない」
その言葉に、マイヤーは尖ったものを感じた。彼はそれを「高慢な家臣に対する少しばかりの厭味」と受け取った。ブライトが薄く笑ったものだから、余計にそう信じ込んだ。
「主に厄介ごと押しつけるなんて、旦那は本当に本当に本当に非道い人だ」
マイヤーは少しばかり腹が立った。
大体、こういう面倒な仕事というヤツは、家臣がやってのけたものを主君の「功績」にするというのが、当たり前のことだろう。
主が年若い場合は、ことさらだ。
エル・クレールがため息をついている。
『こんなに美しい方を悩ませるなんて、とんでもない』
意見をしてやらないと……マイヤーはブライトの広い胸板の真ん中あたりへ拳を一発打ち付けた。
無論、本気の一撃ではない。本気で殴り付けるほどの立腹ではないのだ。
本気で殴ったところで、痛むのは自分の拳の方だということは解っている。
初手から力を込める気などなかった。
仲の良い友人のちょっとした悪意に対して、軽い突っ込みを入れてやろうと言うだけのことだ。
この世慣れした剣士には、そういう冗談が通じる。他愛のないじゃれ合いで、双方苦笑いして終わる……。
ところが。
気がつくとマイヤーは地べたに這い蹲っていた。
背中側にねじ上げらた右腕からは、骨が軋む音が聞こえる。
「冗談は面だけにしやがれ」
低い声が彼の頭上から振り、背中に重い衝撃が落ちてきた。
マイヤーは沼の魚が喘ぐように、口をぱくぱくさせた。
呼吸ができない。
目玉を動かして周囲を見回す。
エル・クレールの足先が見えた。
視線を持ち上げる。
白い顔に困惑が満ちていた。
眼差しの先を追う。
ブライト=ソードマンがこめかみに青い血管を浮き立たせ、憤怒と苦悶の表情を浮かべている。
「旦那……」
漸く声を絞り出したが、後が続かない。唇を動かして、
『ご勘弁を』
音の出ない一言を形作るが精一杯だった。
途端、マイヤーの右腕の戒めが解かれ、背中を押さえつけていた「重さ」が無くなった。
一気に新鮮な空気が配布に流れ込み、その急激さ故に、むしろ彼の呼吸は激しく乱れた。
唾を吐き出しながら咳き込んだ彼は、それを押さえ込みつつ徐々に呼吸を整え、体を起こして顔を上げた。
ブライトが不機嫌顔でまた右手を突き出している。
「貴様が書いた方」
原本との突き合わせをするために台本を寄越せ、と言っているのだ。
「紙に書いた分は、ここにゃありません」
マイヤーは地面に胡座を掻いた。肩口をなでさすり、情けなくも力ない声で言う。
「座長がお役人の所に出しに行ったきりで」
「台本というのは、役者の人数分作る物ではないのですか?」
訊ねたのはエル・クレールだった。
マイヤーの頬に朱が差した。少しばかり元気な声で
「字の読める者の分だけこさえるのが、ウチのやり方なんです。読めない連中に配ったところで、読めないんだから意味がないでしょう? 連中には、私が直接演技指導するんで、問題はありませんしね。つまり、台本なんてものは私
と座長の分、併せて二冊作れば、ウチでは十分なんですよ。それを、あの禿頭と来たら、両方とも持って行きやがった……。もっとも、私の頭の中には全部筋が入ってますし、役者も踊り子も全幕暗記してます。何の不都合もない」
「それにしちゃあ、ずいぶん慌てているようじゃないか」
突き出していた手に何も渡されないと知ると、ブライトはその腕をさらに伸ばし、マイヤーの襟首を掴んで引き上げ、彼を強引に立ち上がらせた。
「そりゃ、誰だって慌てもします。今まで憶えたことと違うことを、急にやらなきゃならなくなったんですからね」
「『台本』と違う演技、か?」
「少しばかり。ま、大人の事情ってやつで」
マイヤーは脂汗をぬぐい、答える。
「どういう事ですか?」
エル・クレールはブライトへ向けて質問を投げた。
「この阿呆が書いた筋書きの通りの芝居は勅使の前で演るわけにはいかないってことに、どうやらこの阿呆も気付いてはいるらしいと言うことですよ、姫若。そんなことをしたら、手鎖じゃ済まない。獄門晒し首になってもおかしくない。だからこの阿呆は慌てて筋を書き直した」
ブライトの目玉が、マイヤーのそれを睨み付ける。
彼は頬を引きつらせつつ、
「そんなに阿呆阿呆と繰り返さなくても……。大体、直したと言っても、それほど大きく変更した訳じゃありません。役者の衣裳やら振り付けやら、そのあたりを少しだけ、ね」
右の人差し指と親指を重ね、一寸ばかりの隙間を作ると、愛想良い笑顔を頬の上に浮かべた。
彼は胸を張って、声音を高くし、
「その少しの違いが踊り手には厄介なもですから、騒ぎ立てているってだけですよ。筋そのものは変わってません。ガップの皇弟殿下の書いたものと、実際の芝居とを見比べていただけば、それで原本と台本の突き合わせをしたのと同じ事です」
そう言い終えると、急に背を丸めて、声を落とした。
「勅使様方が見える前に、一遍通し稽古をします。そいつを若様にご覧いただいて……それでもし妙なところがあれば、仰ってください。すぐに直しますから」
マイヤー=マイヨールは頭を深々と下げて見せた。そして、ブライトとエル・クレールが何か言いかける前に、
「ああ忙しい、大変だ、慌ただしい」
わざとらしく大声で叫びながら踵を返し、ばたばたと元来た方へ駆けだした。
「あの野郎、すっかり俺たちを『味方』に付けたと思いこんでいやがるな」
ぼそりと言うブライトに、エルが訊ねる。
「と、仰いますと?」
「規制が緩くて、袖の下の効果が絶大な田舎ばかり回ってきたもンだから、連中、感覚が麻痺していやがる。どこまでやったら不味いのか、テメェじゃわからない。で、ものを見る目のが真っ当で、なおかつテメェらの肩を持ってくれる『外の人間』に意見して貰おうってのさ」
「あなたの審美眼が見込まれたのですね。あの方、どうやらあなたのことを気に入っているようですから。でなければ、あれほど痛い目に会わされたというのに、あなたへの態度を変えないでいられるわけがない」
エル・クレールはクスリと笑った。ブライトは苦虫を噛み潰したような顔つきで、
「お前さんのご身分に目を付けたんだ。呑み屋での騒ぎで、お前さんが勅使連中よりも立場が上だと見たんだ。で、こっちがあの勅使殿に口利きしてくれると踏んだんだろうよ。その上で、いざとなったら『こちらの若様がお墨付きをくれました』てな具合に、こっちに責任を押しつけて逃げる腹積もりさ」
「あなたがお嫌いな帝都の役人に味方しないだろうと言うことも、どうやら織り込み済みのようですし」
「そこまで頭が回るかね?」
訝しむブライトの顔を、エル・クレールは
「似たもの同士のご様子ですから」
莞爾として見つめた。
「どこが!」
一瞬、声を荒げたブライトだったが、エル・クレールの掌が鼻先に突き出されると、
「よく見てやがる」
妙におとなしくなった。
彼は 彼はたおやかな掌の上に、己の拳を突き出した。
「あの阿呆、俺にアレを渡すって時に、素早く丸めて袂ンなかに仕舞い込みやがった。ヒトサマが隠したがるものは、見てみたくなるのが人情ってもンだ」
「だからといって、あれほど乱暴なやり方をすることはなかったと思うのですけれども。あれでは掏摸ではなく強盗ですよ」
エル・クレールは持っている物を早く出すよう、差し出した手を軽く上下させて促す。
ブライトは握り拳を上向きに開いた。
逞しい掌の上に、赤い蝋の欠片が付いた、紐の塊が乗っている。
エル・クレールがそれを取りあげようとした途端、再び拳が握られた。
疑問と驚きで顔を上げたエル・クレールは、ブライトの表情が硬く、真剣であるのを見た。
「隠すからにはそれなりの訳があると見てのことだったンだが……」
封蝋に不可解な部分を見つけたのだろうことは察しが付く。エル・クレールには彼がそれを隠す意図が解らない。
「殿方の手は熱が高いそうですから、長く握りしめていると、蝋が溶けてしまいます。ギュネイの家に由来するもので、お手を汚されても宜しいのですか?」
彼女にしては珍しく婉曲な物言いをすると、ブライトは少しばかり口角を持ち上げ、
「手の冷たい自分の方へ寄越せ、か?」
拳を開いた。
開きはしたが、その中のものをエル・クレールへ渡そうとはしない。
彼は麻紐から封蝋を剥がし取ると、人差し指と親指の間につまんだ。
赤い顔料が練り混ぜられた蜜蝋の塊を、彼女の目の高さに持ち上げ、紋章が刻印された側を示す。
しっかりと押された印影は、間違いなく皇弟自らが使う紋章だった。
「何か問題が?」
エル・クレールは小首をかしげる。ブライトは無言だった。
中指で封蝋を軽くはじく。
上下を指に挟まれたまま、それは反転した。
麻紐の縄目が濁った赤い蝋の表面に刻まれている。
蝋の内側で鈍い光が跳ねた気がした。
「灯りが反射した……? 何に?」
滑らかな蝋の表面がはじいたにしては、鋭い光り方だった。
鋭角な、そして硬い何かが、蝋の中に埋没している。
地下の暗がりに目を凝らした。
直後。
黒く伸びた爪。赤く濁った目。
エル・クレールは確かにそれを見た。
彼女は猛烈な勢いで上体を後ろに反らした。
真後ろにあった柱に、背中が激しく打ち付けられた。
エル・クレールは己の体を抱き、うずくまった。体が小さく震えている。
背を打った痛みは感じていない。
そんなものよりもはるかに痛烈な「恐怖」が痛覚を麻痺させている。
封蝋の奥から突き出された腕が彼女の顔面を掴み、眼差しが彼女の全身を睨め付ける。冷たい指先が頬に触れる、生暖かい吐息が耳元に吹きかけられる。
あるはずのない感触に彼女の総身は粟立っている。
肩口が掴まれた。それを実感した。
「ひっ」
しゃくり上げるような悲鳴を上げ、彼女は顔を上げた。
闇の向こうで、ブライト=ソードマンが静かに笑っていた。
「誰かの魂の『断片』だ。これ自体にゃお前さんに悪さをするほどの力はねぇさ。悪夢を見せるが精々ってところだろうよ。実害は……ちぃとばかりあったが……ま、その程度だ」
彼は、彼が言うところの「魂の断片」を硬く握った拳を、エル・クレールの前に示した。
黒い爪の幻視も、まとわりつくような体感幻覚も消え失せていた。
彼女にそれを感じさせていたある種の波動じみたものが、ブライトの肉体に阻まれ、封じ込められているのやも知れない。
「あなたに対しては?」
薄気味の悪い「感触」が、彼に悪影響を与えてはいないのか、エル・クレールは疑問にも思ったし、案じもした。
「どうやら俺は、死んだ野郎どもには嫌われる体質らしい。連中は俺に対してすこぶる攻撃的だ。お前さんの『父親』もそうだが、こいつも爾り」
ブライトは拳を一層強く握る。
エル・クレールの顔に不安が広がった。彼の拳に指先を添えた。
かすかに震える手を、ブライトのもう片方の掌が覆った。
「まあ、微々たるものさ。お前さんの『父親』の比じゃねぇよ」
反射的に、エル・クレールは己の左の腰骨の上へ左の手を乗せた。
飲み込まれればその「力」に操られ、受け入れれば「力」を操ることが適う、赤い刃がそこに眠っている。
彼女が【正義】と呼ぶ「武器」は現世に思いを残して逝かねばならなかった人間の魂が凝華し、変じたものだ。
ブライト=ソードマンもまた、同様の「武器」を持っている。
両の掌の中、黒い革手袋の下に刻み込まれたそれを、彼は【恋人達】と呼んでいる。
エル・クレールの【正義】は、彼女の実父、すなわちミッド大公ジオ・エル=ハーンの無念の結晶である。ブライトが持つ【恋人達】は、彼の友人であったミハエルという男性とガブリエラという女性が変じたものであるという。
この世に未練を残し、死しても死にきれぬ者の魂が変じた結晶……【アーム】などと呼ばれる物体は、ある種の意思を持っていると見える。
その意思に沿わぬ者、あるいは理解せぬ者は、【アーム】の力を解放することも、使いこなすこともできぬ。
厄介なのは、【アーム】の意思が偏執的であることだ。死せる魂は彼らが「死ぬ」直前の心残りのみを内に抱いて凝華しているらしい。
クレール姫の父親は、たった独り残さねばならない愛娘の身を案じていた。【正義】と呼ばれるようになった今でも、彼は娘の身を案じ続けている。
今の彼には只その一点しかなく、それ以外の感情も理性もありはしない。
すなわち、彼にとっては己がこそが唯一娘の守人であり、それ以外の存在は、誰であろうとも総て排除すべきものなのだ。
凝り固まった「意志」に、娘の呼びかけは届かない。
たとえエル・クレールが信頼を寄せる人物であっても、あるいは彼女が全く感心を持っていなくても、【正義】の刃はその相手に激しい攻撃を加えてしまう。
その攻撃をよく喰らうのが、ブライト=ソードマンであった。
ちょっとした拍子に(あるいは、ちょっとした拍子を装って意識的に)彼女の腰のあたりに手を触れたとしよう。そこに【正義】の力が封じられている場所に、である。
途端、バチリと火花が発する。さながら絹地とウール地を擦り合わせたかのような瞬間的な痛みが、ブライトの側にのみ走る。
爪が割れ、皮膚にやけどの跡が残ることもある。
蜜蝋の中に埋もれている【アーム】の欠片について、ブライトが「【正義】ほどではない」と前置きしつつも「攻撃的」と言うからには、何かしらの刺激があるのだろう、とクレールは想像した。
その想像は当たっていた。
ブライトの指先は、ごく僅かな痛みを感じている。
小さな欠片にも、他者に対して牙を剥かねばならない「意志」があるのだ。
その「意志」が何を訴えているのか、ブライトはおぼろげに察していた。
それはあまり認めたくない「理由」ではあった。
試みに、心の奥で拳の中の小さな欠片に問いかけた。
『俺が末生り瓢箪の野郎を嫌っているってのが、気に入らンかね?』
小さな切っ先は、彼の指を刺し貫かんとしているらしい。
皮膚が裂けることも血がにじむこともない小さな痛みは、しかし明確な返答だった。
『ウチの姫様にちょっかいを出した上に、俺が野郎を嫌うのが気に喰わねぇと抜かしやがる。しかも野郎の書いた物の封緘にめり込んでたと来たら……』
小さな【アーム】の欠片が、生前は皇弟と深い縁を持っていた人物であることは間違いない。
『それどころか、野郎本人の可能性がある』
確かにヨルムンガント・フレキ=ギュネイが死んだという報はない。
正室も嗣子もいない今上皇帝にとって、腹違いながらすぐ下の弟である彼は、皇太子に準ずる存在である。万一彼が薨じたとなれば、すぐさま大葬が執り行われてしかるべきだ。
同時に、彼が生きていると証明する報がないのも、また事実であった。
というのも、ここ数年彼は封地ガップから一歩たりとも出ておらず、あまつさえ、書簡の一通も発していないのだ。
ガップは半ば鎖国の状態であるとも言う者すらいるが、実際には彼の地に人の出入りがない訳ではない。
ただ、君主に謁見できた者がいないだけだ。
そのため、病を得て重篤な状態だという噂もある。その病のために、二目と見られぬ容姿に変じてしまったのだという噂もある。
乱心して岩牢に閉じこめられているなどいう説は、彼が兄に帝位を「奪われた」ころから、延々ささやかれ続けている。
妙な噂が流れる度に帝国政府はそれを否定している。
「誤報である」「誤謬である」「径庭はなはだしい」「事実と異なる」
「皇弟は病を得てなどいない。重篤な状態ではない。容姿が損なわれたということはない。乱心などしていない」
そのくせ、続いてしかるべき「健勝である、壮健である」などの語句は一切出てこない。
依って、人々の疑念は深まる。
だがそれを口にすることを皆が憚り、押し黙っている。
今、ブライトも押し黙っている。
彼が帝室を畏れているからでは無い。
『相棒が動揺する』
彼が嫌う件の人物は、エル・クレールにとっては唯一残されたと言っていい「家族」に他ならないのだ。
とはいえ、いつまでも黙っているわけにも行かない。
時として沈黙は詭弁よりも雄弁でだ。察しのよい人物に対してであれば、なおのことだ。
深い緑の瞳に不安の影が揺れている。
「あの男はテメェの城の外側にシンパが集ってくるタイプだからな。範囲が広すぎて、簡単にゃこいつの正体を絞り込めやしねぇよ」
彼は呟きながら、封蝋とその中の「魂の破片」を己の腰袋の中に押し込んだ。
「そう、ですね」
エルの唇の端が、小さく持ち上がった。
目の奥の不安は消えていない。こわばった作り笑いであっても、表情を変えるという行動によって、己を納得させようとしているのだ。
「さて――」
ブライトは声と呼吸音の混じった音を吐き出すと、
「奴サンの誘いに乗ってみようかね。当然、あいつの思惑通りの行動をする気はねぇが」
エル・クレールの背中を平手で軽く叩いた。
押し出された彼女の足がちいさく一歩踏み出すのとほとんど同時に、ブライト=ソードマンも広い歩幅で歩き出した。
入り口の縦穴にたどり着く頃には、彼は完全にエル・クレールを先行していた。
助走をせず、膝を深く曲げることもなく、頭上に切り取られた四角い空間へ垂直に飛び上がる。
彼の巨体は音もなく地上へと舞い戻った。
向き直り、膝をついて、右の腕だけを穴の中に差し入れる。
無言だった。足下のエル・クレールにわざわざ声を掛ける必要はない。彼女も問いかけの必要性を感じていなかった。
大きな掌にひんやりとした白い指が絡まる。
彼女の体は軽々と持ち上がり、ブライトの傍らにふわりと着地した。
一言の礼の代わりに、小さな、しかし自然な微笑が返ってきた。
八.舞台裏
舞台裏の慌ただしさは、奈落に入る以前の数倍に増している。
舞台映えのする化粧をした演技者達が足早に行き交う。
「いきなり上手からに変更だなんて」
兵士風の立派な衣裳を着た娘が呟きながら走る。
「こっちは下手に回れってさ。マイヤーのヤツ、ワケワカンナイこと言いやがって」
逆方向へ小走りに向かっていた古びた皮鎧を着けた女が、娘とすれ違いに、
「位置を変えるだけでいい、なんて、言うのは簡単さ。慣れない方向から飛び出したら、回転の目安も跳躍のタイミングもずれまくりだよ」
吐き捨てた。
踊り手達は文句を言いながら、しかし戯作者と演出家を兼務している男の指示通りに動いている。
「全員、ご婦人ですね」
エル・クレールがぽつりと言った。その場に男性がいないというのではない。明らかに舞台衣裳と判るものを着ているのが女性ばかりなのだ。
「ここに入ってきたときから女気が多いたぁ思ってたが……ここまで徹底して女の園なのは確かに珍しい。真っ当な劇団は大概、野郎に女形をやらせないとならねぇぐらい女手不足なもンだ」
無精髭の顎をなでながら、ブライトも首をかしげた。
二人の部外者は、女兵士の群れが集合している舞台袖から舞台端へ出ると、形ばかりの楽団溜まりに飛び降りた。
壮年の指揮者が白髪頭を掻いている。
「楽譜通りに、寸分違わずに、ね。アドリブ入れないで演るなんて、何年ぶりだい?」
文句の矛先にはマイヤー=マイヨールがいた。
「基本がしっかりできているからこその天下一品のアドリブだろう? 頼りにしてるよ、マエストロ。今の私
にゃ泣き言を聞く耳の持ち合わせがないんだ」
褒め殺しと脅しを同時に言われた指揮者は、苦笑いするよりほかなかった。ため息を吐き吐き、ヴァイオリン弾きと打ち合わせを始める。
額の汗を拭うと、マイヤーはエル・クレールとブライトの顔を交互に見、照れくさそうに笑った。
「若様、もうホンの少しだけお待ち下さいな。それと……旦那のことはなんとお呼びすればよろしいですかね? 若様が旦那をお呼びになったお名前は耳に入ってますけども、まだお名前をちゃんと伺ってないもんですから」
ブライトは煩わしげに唇を引き結んだ。
「聞こえたとおりに呼べばよいことではありませんか?」
エル・クレールが怪訝顔で言う。
マイヤーはでれりと目尻を下げた。
「それがあまりに『出来過ぎた』お名前でしたから。……で、万一にでも間違いがあっちゃイケナイでしょう? もう二度とこちらの旦那の逆鱗に触れたくはありません。自分の腕や背骨が軋む音は聞いていて気分の良い音じゃありませんからね」
「出来過ぎ、ですか?」
エル・クレールはちらりとブライトの顔を見た。
彼は不興な顔で口をつぐんでいる。マイヤーが慌てて取り繕う。
「ああ、怒らないでくださいな。出来過ぎって言うのは言葉が悪かった。クレールの若様にお仕えになるには、ぴったりなお名前って言うことです」
この言い訳によってブライトの表情が変化することはなかったが、同様にエル・クレールの顔から疑問の色が消えることもなかった。
マイヤーは言葉を続ける。
「聞いた話ですがね。ブライトってのは、帝都より向こうの西の果ての、海を渡った先にあるっていう土地の方の言葉だそうじゃないですか。都の方じゃいくらか名字に使っている家もあるそうですけど、東の方じゃあんまり聞かない言葉なんで、最初は聞き間違いかと思ったくらいですよ。……だってそうでしょう? 確か『明るい』とか『輝いてる』とか『冴えている』とか、つまり『ピカッとした光』みたいな、まあそんな意味合いの言葉なんだから。つまり、主家のご家名のクレールと言うのと、ほとんど同じ意味だ……若様の方のは、もっと透明な『キラキラっとした光』って感じですから、ちょいと語感が違いますが、でもほとんど一緒ですよ――」
長々しゃべりながら、マイヤーはブライトの顔色をうかがっていた。
ブライトは、唇を引き結んでいた。沈黙がマイヤーにプレッシャーを与えている。
脇にねっとりとした汗がにじみ出た。
またあの腕が目に止まらぬ早さで自分の胸ぐらを掴むかもしれないことに恐々としつつも、しかしその不安を表に出さぬよう喋り続けた。
「――兎も角も、旦那は、自分の主の名前と同じ物を名前として使ってる。出来過ぎ……いやいや、ぴったりすぎて吃驚して、耳を疑っている、という按配です」
長台詞は最後まで中断されなかった。
マイヤーの恐怖は、しかし晴れない。
ブライトが無言のまま彼を見据えている。
ブライトの名が、クレールの名と同意であることは、偶然ではない。
ブライト=ソードマンの名は、物忘れの病で己の実の名を思い出せぬ彼が、必要に(つまりエル・クレールに)迫られたために己で付けた「符牒」だ。クレールという言葉からの連想が含まれたことは、意図的ではないが、多分に意識的ではある。
エル・クレールは自身が名乗る名が「仮のもの」であるのと同様に、彼の名前が「本物」でないことを理解している。彼は彼女に偽名を名乗るように忠言したその場所で、自分への命名を行ったのだ。
ただ、それに自分の名が重ねられていようとは思いもしないことだった。
故に聞いた。
「そういう意味なのですか?」
「そう言う意味なのですよ」
ブライトは鸚鵡返しに答え、薄く微笑した。
小さな笑みは、相合い傘の落とし文を見つけられた少年の照れ隠しに似ていた。
会話とも言えぬ短いやりとりは、当事者以外には内容の理解ができぬ物だ。
「つまり、どういう意味で?」
マイヤーが恐る恐る声を出すと、ブライトの微笑に違う色が混じった。
「偶然も必然の内ってことさ」
言葉と表情に反論を許さぬ圧力がある。
マイヤーは頬を笑顔の形に引きつらせ、
「と、言うことは、つまり旦那のことは、ブライトの旦那とお呼びすれば宜しいので?」
語尾が消える前に、ブライトが
「呼ぶな」
鋭く釘を差し込んだ。
「その名で呼んで良いのはウチの姫若さまだけだ。三文物書きなんぞに呼ばれたら、折角の名前の価値がすり減る」
マイヤーは身を縮め半歩後ずさりしたが、首だけはむしろ前に突き出すようにして
「ではどの様に?」
食い下がる。
マイヤーは言いたいことは言わずにおけない質だった。ただし、大上段に切り出すよりは、斜めからそっと訊ねるという言いようで物を訊ねるの常だ。
遠回しな物言いは物書きらしい一種の「卑屈さ」ゆえの事でもあるが、彼にとっては他人と衝突しないための策でもあった。
低い物腰と言葉で相手を懐柔し、相手が築かぬうちに自分の有利に話を進めてしまうことで、彼は世を渡ってきた。
万一、その遣り口が通用しない相手に出会えば、一目散に逃げるだけのことだ。大道具小道具機材の総てを捨てることも厭わない。尻をまくって遁走する。
役人共の手の届かない遠く遠くへ逃げ延びてみせる。何ヶ月か地下に潜って暮らすのもいい。ほとぼりが冷めるのを待って、また旗揚げする。それでも不都合があるなら、氏素性を偽って別の人間を演じてしまえばいいだけのことだ。
話術も逃げ足も、そして何より演技力も自信があった。現に、こうして首がつながっているじゃないか。
怪しげな旗印や規範を外れた演目を掲げたドサ回りの旅を、ここまで無事に続けてこられたという事実に基づいた自負だった。
策が通じず、逃げ切ることもできぬ相手がこの世にいるのだということを、彼は今日初めて知った。鉄板だと疑わなかった自信は、あっさり粉微塵になった。
しかも敵は二人もいる。
二人の内の一人が、もう一人から逃げる時におとりにするつもりで、自ら引き込んだ人間であることが、口惜しくてならない。
『若様の美しさがまぶしすぎて、野郎の方が翳んでいるように見ちまったのが私
の運の尽き』
足掻いても仕方がない。
開き直ったマイヤーは普段の通りに行動することに決めた。今更別の作戦を立てたところで、付け焼き刃の「演技」を見抜けぬ相手ではないだろう。
「どうしても名前で呼びたきゃソードマンで良かろうよ」
ブライトが不機嫌に答えるのを聞いた彼の口は、反射的に、いつもの通り頭の中に浮かんだ軽口じみた台詞を吐き出した。
「何とも名が体を表す、珍しいご名字で」
言ってすぐ、彼は己の口を両手で塞いだ。そんなことをしても出してしまった声が止まるわけでも戻るわけでもない。
『全く今日の私
ときたら調子が外れっぱなしだ』
上目でそっと「ソードマン」を見た。目玉がからからに乾いてゆく気がして、何度も瞬きをする。
ブライトは無言のまま彼を見据えている。
マイヤーの目には、彼がかすかに笑っているように見えた。その微笑が何を意味するのかまでは解らない。彼が腕を組み直し、あるいは僅かに足の位置を変える、その小さな動きが妙に恐ろしい。
あの腕が己の喉元を狙って伸びてくるのではなかろうか、あの脚がこちらの足下を救うのではなかろうか。
枯れた生唾を飲み込む彼の耳に、柔らかな声が流れ込んだ。
「良い名前でしょう?」
エル・クレールが婉然と笑んでいる。
途端、マイヤーは自身の全身を膜のように覆っていた脂汗が、僅かに残っていた自覚や自制と一緒にすぅっと流れ落ちてゆくのを感じた。それは彼の総身から別の汗が吹き出したためであるが、彼自身はそのことを気にとめなかった。
「ええ、全くその通りで」
マイヤーの脳漿は暴力への恐怖から解放されたという爽快な快楽を全身に感じさせることに専念していた。別の束縛によって雁字搦めに縛り上げたことを伝えるという重要な役目は、完全に放棄されている。
美の俘虜に打たれる縄目は、他の何よりも厳しく強固で厄介であるのにもかかわらず。
マイヤー=マイヨールの浮ついた心は、しかしすぐに現実に引き戻された。
功労者は楽団溜まりの隅にいた大号奏者だ。
鼓膜を突き破る大音響を発生させた彼は苦笑しつつ、「巧く音が出ないので強く吹いた」とか「唄口に何かが詰まっていた」とか「吹いた勢いでゴミが取れた」とか「詰まりが取れた途端に音が出た」などと弁明していた。
楽団溜まりの真ん中で指揮者が肩をふるわせている。どうやら彼の指示による「音あわせの一環」だったらしい。すなわち、舞い上がっていた戯作者の魂を還俗させるための手段としての、である。
マイヤーは苦々しげに大号を睨み付けた。憤慨したまま振り向いた彼だったが、「クレールの若様」と「ソードマンの旦那」が失笑しているさまを見つけ、気恥ずかしげに笑った。
「田舎者でしてね」
「いい喇叭吹きを抱えているじゃねぇか。惜しむらくは力量に見合った楽器を与えられていねぇ」
ニタリと笑うブライトに、マイヤーは
「勅使サマ方を招いてのゲネプロが無事に済んだら考えますよ」
慇懃に頭を下げた。
「そいつはお前らの力量次第だろうよ。まずはウチの姫若さまを納得させてみることだ」
「それが一番ホネかもしれませんねぇ」
マイヤーの苦笑いが一層大きくなった。
楽団溜まりからバラバラな音が上がり、舞台の裏側から言葉としては聞き取れないざわめきが漏れてくる。大道具小道具の係達が立てる玄翁の音はいくらか小さくなったが、それでも時折不規則なリズムを刻んだ。
五人しかいない楽団の音合わせ、緊張を紛らわすための踊り子達のつぶやき、背景の書き割りを運ぶ男達の足音、マイヤーは歩きながらそれらの音を全部聞き分けている。
彼はスタッフ達に的確な指示を出さねばならなかった。同時に、客人を席に案内する作業も行わないといけない。
マイヤーはゆっくり歩き出すと、エル・クレールとブライトを手招きした。
「若様に観ていただけるというのは、実に幸運なことだと確信しております。いつかは若様や旦那のような、ちゃんとした方――そいつはもう少し上! きっちりはめ込んで、ぐらつかないように。――つまりは本当の貴族の方が、私の劇を観てどうお感じになるか、確認したいと思っていたんですから。いえ、さっきも申し上げましたけれど――マエストロ! そこはちょいとおとなしめの音にしておくれ。――ウチみたいな小さな一座なんぞには、本物の高貴な方がお見えになることがないですからね。――さっさと位置に付け! お前達が何を言おうと、あと百を三つ数えたら幕を上げる――常々、『解る』方に一遍観ていただきたいって、適わぬ願いと知りつつも……」
四方八方、上下左右、様々な方向に視線と言葉を投げながら、彼は客席のど真ん中に歩を進め、貧相な椅子を二つ客人に勧めた。そのうち一つの座面に恭しくハンカチを掛ける。
ハンカチの上に腰を下ろしたエル・クレールは、
「私があなたのお役に立てるとは限りません。私はこれとお芝居とを見比べるだけですから」
腕に抱えていた皮紙の束を膝の上に広げた。
「承知しております」
マイヤーは頭を掻いた。ちらりとブライトに目を遣ると、大柄な男は足を組み膝に肘をついた窮屈そうな前屈みの姿勢で、舞台に目を注いでいる。
彼らの目つきは真剣だった。舞台の隅から隅までしつこく突いて細かな粗までほじり出すつもりでいることが、マイヤーにはよくわかった。
彼が背筋を伸ばし、襟を正すのを横目で見たブライトが、小さく言う。
「俺たちのことはいないもンだと思って、あんたらが演りたいように演るこった。俺たちは芝居に口出ししたり止めたりするような野暮はしない。芝居が動いている間は、あんたに意見することもない」
「ご意見をいただけない?」
「言うだけ無駄だからな。どの道あんたらはあんたらの思う芝居しか演らないし、演れない。ここの踊り子たちはあんたの芝居以外は、逆立ちしても演れないようになっちまってる」
「お見通しですか」
マイヤーは中身を抜かれた皮袋のようにイスの上にへたり込んだ。落胆のあまり力が抜けたのは事実であるが、大仰な動作は九割方演技だった。つまり、それだけ自信という名の余力があるということに他ならない。
その証拠に、彼はすぐさますぅっと立ち上がった。
「私はこれからあちら側の世界に参ります」
声は小さいが、張りがあった。目にも光が差している。マイヤーはニタリと笑うと、
「あちらの世界はこちらの声の届かない場所。ソードマンの旦那のご意見も、若様のお声も私の耳には入らない。ええ、聞こえませんとも、聞きませんとも」
両の耳に両の人差し指を差し入れた。
そのまま深々とお辞儀をし、頭を下げた格好で後方に小走りに走りだす。イスを器用に避け、舞台の二歩手前までたどり着くと、ポンと床を蹴った。ふわりと浮いた彼の体は、舞台の上に音もなく降り立った。
つま先立ちの着地だった。ぴいんと背筋を伸ばしている。足下が暗いものだから、床から拳二つ分ほど浮かんでいるようにも思えた。
所作の総てが見えぬ糸で吊られた操り人形を思わせた。スムーズだが違和感のある、可笑しくも哀れな動作だった。操り手が彼自身であることすらも哀れを誘う。
舞台の端々に見え隠れしていた裏方の影が綺麗さっぱりなくなっていた。
袖から漏れていた神経質なざわめきもぴたりと止む。
管楽器も弦楽器も黙り込んだ。
重苦しい沈黙の奥で、僅かに衣擦れの音がする。
緞帳幕だった。
現実と虚構の境目を、それがゆっくりと塞いでゆく。
戯作者マイヤー=マイヨールは消えた。
舞台の上に身を置いた今、彼は小劇団の看板役者に変じたのだ。
九.開演
水を打った静けさの中、楽団溜まりの縁を指棒が叩く硬い音が響く。
やがて序曲が始まった。
緞帳がゆらりと動いた。
上手の舞台端でローブを纏った人物が一人、幕の間から首を突き出していた。目深にかぶったフードの下から、低い声がする。
「時は古。知るすべ無き昔。世界を巡るは一陣の風」
閉ざされた幕の前、細く狭い空間を、その人物はふわりと駆け抜けた。
右から左へ、幕が波を打って揺れる。
語り部の姿が下手に消えるのを合図に、緞帳幕はゆっくりと上がり始めた。
薄寒い空間があった。婦人の部屋だった。暗く、人気がない。壁も丁度もみなゆらゆらと揺らめいていた。黒子が道具幕を不規則に揺っている。
舞台下から木材の軋む音が響いた。
奈落の底から、丸い床が回りながらせり上がってくる。上に、白い影が乗っていた。
白い薄衣が細長い何かを覆っている。
透けて見えるシルエットは、うつ伏して倒れ込んでいる人間。繭にこもった蛹のようだった。ぴくりとも動かない。
白い人物を乗せた丸い床は舞台の高さを超えてなお、せり上がり続けた。
上手から立派な軍装を纏った踊り子のたちが、下手からは貧相な装備の踊り子たちが、それぞれ飛び跳ねつつ現れた。上昇を続ける回り舞台の前で出会った二つの集団は、入り乱れ、争うように舞った。
戦が起きている。結果は見るまでもない。
下手の集団はあっという間に押し戻されてゆく。彼女らは隊を乱し、てんでに逃走する格好で舞台袖に消えた。
上手からの集団は傲慢にすら見えるほど力強い舞で鬨を表現すると、なおも勝利を求めて敗者を追走し、やはり下手に向かって走り去った。
集団が去ったとき、舞台のせり上がりは止まっていた。
壇上の人物が、ゆっくりと身を起こす。薄衣を頭からかぶったまま、赤子のように這い歩くと、回り舞台の縁から身を乗り出して舞台の上を覗き込んだ。
悲しげな音楽が鳴り、下手から別の踊り手達が音もなく現れた。
彼女らは皆真っ白な裾長の衣裳を着、顔を青白いドーランで塗りつぶしている。
衣裳とメイク、そしてアンバランスなポーズを強いる静かな振り付けが、彼女たちが人でないものを演じていることを表していた。
幽鬼達の列は回り舞台の足下を囲み、舞う。
白い顔で舞台を仰ぎ、白い腕を壇上の人に向けて力なく伸ばす。
回り舞台の影から古いローブを着た人物が現れた。踊り手達の間を縫って舞台の上を駆ける。
風が吹いている。生暖かい、不穏な風だ。
音楽が音量を上げた。低く不快な響きが舞台を包む。
白い集団演舞の動きが激しさをが増した。それに誘われ、回り舞台の上の人影が立ち上がる。
薄布を被った人物の真後ろで、照明が輝いた。細いシルエットが浮かび上がる。
影の腕が突き出され、己の頭上を覆う薄衣を掴んだ。打楽器出す破壊音と同時に、その人物は自らを覆い隠していた布きれをはぎ取り、足下遙かな舞台上に投げ捨てた。
男の身なりをした踊り子が、高みから下界を睥睨する。
再び打楽器が大音響を発する。
細身の男が、せり上がりの上から飛んだ。
そう、飛んだのだ。飛び降りたというのではなく、鳥がするように、大きく腕を広げて飛び立ったのだ。
瞬間、照明が消え、黒幕が風を巻いて閉じられた。
突如、肩に衝撃を受け、エル・クレールの神経は現実に引き戻された。いつの間にか背中がイスの背から離れている。彼女は前のめりになって舞台に見入っていた。
肩の上に、ブライトの大きな掌が乗っている。
「頼みますよ姫若さま。やらなきゃならねぇことを忘れて貰っちゃ困ります」
苦笑いしながらわざとらしく下男の口調で言う彼に、赤面と引きつった笑みを返すと、彼女は慌てて膝の上に広げた羊皮紙に目を落とし込んだ。
暗闇の中に目を凝らす。闇に目が慣れるまでしばらく時間がかかった。
読みづらい。灯りがない所為ばかりではない。
ほとんど文章をなしていない単語の羅列が、滲んだ薄いインクで書き殴られている。断片的で、文章の体をなしていない。
最初の一枚の中でどうやら読める部分はヨルムンガント・フレキの「文章」ではない。文字は確かに彼の物だったが、内容は別人の書いた物……正史と呼ばれる古い歴史書の引用だった。
「皇帝サフサファ山にて野営を張る。足下戦多し。平定の誓いを立て、封禅となす」
引用された文章の「皇帝」という単語が、引用文を書いたのとは違う濃さのインクによって丸く囲まれていた。
このインクは単語を囲むばかりでなく、その上に二重の打ち消し線を引いている。
さらにそれは矢印を描く。太く引かれた矢柄をたどり、行き着いた矢羽の先には、単語が一つ書き留められている。
――クラリス――
エル・クレールは息をのんだ。
顔を上げた彼女は声を上げることができず、無言でブライトの顔色をうかがった。
彼はうっすらと笑っている。
「『帝、人心乱れるを憂いて聖山に上る』だな。つまりお前さんの四〇〇年昔のご先祖が挙兵の表明をしたってあたりのハナシだ。音楽は官製の楽譜と寸分違わない。あの阿呆が指揮者に刺した釘が、しっかり効いていやがる。演出は少しばかり違うが、筋立てそのものは公式な物と大差ない」
「本当にあなたという方は、妙なことにばかり精通していらっしゃるのだから」
エル・クレールはため息を吐いた。
ブライト=ソードマンが世の中の表裏について様々な知識を持っていることは、彼女もよく知っている。
ことさら市民の風俗についての見識は、その分野について全く疎い折り紙付きの「深窓の令嬢」にとっては計り知れぬ深さのものだった。生活能力が皆無に近い彼女が、今まで無事に生き延びてこられたのは、彼が傍らにいてくれたからこそである。
ただし、思いもよらない部分に関して、彼は酷く無知であった。
亜麻布の手触りで産地を易に言い当てる割には、その糸が青く可憐な花を咲かせる亜麻の茎から紡がれるのだということを知らない。(それでいて、亜麻畑の労働者達がどの様な労働歌を歌っているのかは熟知している)
微妙に色合いの違う顔料がそれぞれどこから産する鉱石を砕いた物なのかを見分ける眼力があるにもかかわらず、全く画風が違う絵の描き手の区別が付かない。
知識の厚みが片寄っているのだ。焼き損ないの薄焼きパンさながらに、不必要に分厚く、それでいて所々薄く、酷いところは穴が空いている。
実をいうと、エル・クレールは彼の知識の「穴」を見つけることが好きであった。
ブライト=ソードマンは、恐ろしく腕が立って、恐ろしく頭の回る男だ。
彼が外道共を文字通りに粉砕するさまを見せつけられれば、人間離れしているという言葉が比喩とは思えなくなる。
彼を心から信頼しているエル・クレールも、時折恐ろしく思うことがある。……それは、自分自身の内側から湧いてくる力にも感じる、得体の知れない恐怖でもあった。
その恐ろしい男が時折間の抜けたことをするのを見ると、彼が普通の人間であると、ひいては自分自身も紛れもない人間であると確信でき、安堵できるのだ。
粗探しの趣味の悪さを恥じつつも、エル・クレールは期待し、同時に不安に苛まれている。
「精通なんて大仰なモンじゃねぇだろうに。この国の人間をやっているヤツなら大概あのつまらない音楽が脳味噌にこびり付いてる」
ブライトは呆れ声で呟いた。知らない方が可笑しいと、暗に言っている。
「仰る通りです……楽譜の通りだと断じられるほど理解しているかどうかは別として」
「突っかかりやがるな」
エル・クレールの眉間に浅い縦皺を見つけたブライトは、腰袋を指し示し、訊ねる。
「こいつが何か悪さをしてるかね?」
彼は相棒の不機嫌の原因に自分が含まれていようとは、つゆほどにも考えていない。もっとも、彼の言動自体が彼女に不審を与えているわけではないのだから、考えが及ばないのは当然のことだった。
故に彼は、腰袋の中にしまい込んだ「物」が彼女に何かしらの影響を与え続けているのではないかと考えるに至った。
エル・クレールは首を横に振った。ブライトにはそれが緩慢に見えた。
考えが確信に変わる。彼は袋に手を突っ込んだ。
「お前さんがなんと言おうと、今朝からこいつの存在がお前さんの気を散らしているのに間違いはねぇ。押さえ込んでおいてやる」
がらくたの中から小さな蝋の塊を探り出し、握る。
「それで、どう見たね?」
彼は腿の上に肘をつき、背を丸めた。握り拳を顎の下に置き、頭を支える。
「初代皇帝の役、つまり男性を、あの娘が演じている」
低く言うエル・クレールの唇は、乾ききっていた。
「お前さんを迎えに来て卒倒した娘だな。確かシルヴィーと言った。舞台に上がると人間が変わるタイプか。中々に巧いじゃねぇか。もっとちゃんとした所でも……現状じゃ主役はキツかろうが……第一舞踏手は演れる」
ブライトはエル・クレールが望んでいる回答を返さなかった。
「娘ばかりの劇団だから、しかたなく娘に男の役を割り当てている……?」
エル・クレールはあえて間違いなく否定されるであろう「好意的な意見」を口にした。
「あの阿呆のことだ。件のお偉いさんにゃぁそう言い張る腹づもりでいるンだろうがね」
ブライトは唇の端に意地の悪い微笑を浮かべた。『続きは言わなくても解る筈だ』の意である。
エル・クレールはうなずいた。
『その人物が女であったから、当然女の踊り手に役が振り当てられている』
彼女は膝の上の羊皮紙をじっと見た。闇の中で一つの単語が踊っている。インクの色は心もとないほどに薄いが、筆圧は高い。その女性名が強い確信を持って書かれたことの証だった。
「フレキ叔父は……なぜそう思われたのでしょう?」
文字の上を指でなぞりつつ、エル・クレールは呟いた。
「四〇〇年の間にゃいろんな史料が作られちゃぁ捨てられるを繰り返してる。捨てたつもりが捨てきれなかった物も、中にはあらぁな」
くぐもった声でブライトが言う。彼の視線は舞台に注がれていた。閉ざされた幕が重く揺れている。
「捨てられるはずだった物の方が、伝わっている物よりも正しいと?」
当然ともいえる疑問を投げかけられたブライトは、深く二つ息を吐いた。
「残った物にだって正しい物はある。例えば、正史にゃクラリスって名前は書いてねぇんだぜ。かっ攫われたときにゃ『美姫』、その後は『皇后』。それっきりさ」
「え?」
人気のない劇場の中に、エル・クレールの声が反響した。驚愕の大きさが、そのまま声の大きさとなっていた。
「『ガップの古書による。后の諱、クラリスと伝わる』ってのは、正史を書き始めたヤツがおっ死んでから百年ぐれぇ後に、別の研究家が付けた注釈だ。まあ、それくらい古い注になっちまうと、ほとんど本文と同じ扱いにされちまってるから、普通に学問するときにゃ区別もしねぇがね」
「あ……」
エル・クレールは急速に己の記憶を十年ほど巻き戻させた。父の友であり、ミッド公国随一の学者であったセイン=クミンに師事して学んでいた幼い日のことを思い出すためだ。
史学を学ぶに際し、師は古い書物を書写させた。物事を記憶するには、それが一番良い方法だというのが、彼の持論であった。
ブライトが言った皇后の名前に関する記述の部分は、注釈であると明記されてはいなかったが、他の部分の文字よりは小さめに書かれていた気が、おぼろげにする。
瞬きを二,三度する間に意識を今に引き戻したエル・クレールは、ブライトの横顔に眼差しを注いだ。
「それからさらに三百年も経っちまった。件の注釈の引用元の『ガップの古書』ってヤツは、きれいさっぱり散逸したってことになっている。初代皇帝の后だの国母だのとあがめられている女の名前がそこに間違いなく書いてあったのか、あったとしても、その女の名がクラリスだったのか、今となっては解りゃしない、と」
ブライトのこめかみあたりが、ひくりと痙攣した。
頭痛がする。それでも口元には薄い笑みが浮かんだ。妙におもしろい気分だった。
「フレキ叔父は散逸した古書と思わしきものを、ご領地で見いだされた。あるいはそれは書物の体をなしていない口伝であったかも知れませんが……。兎も角、そこにはクラリスという女性の名があった、ということですね」
エル・クレールが口に出したのは、考え至った事柄の半分程度だった。残りの、核心に当たる部分を言葉として発することは憚られる。
自分の先祖達から聞き伝えられた自分の先祖の伝を、根底から覆すようなことを、その末の身が口に出して言えるものか。
国を興した英雄の性別が、伝わる物とは違っていた……いや、それならばまだ良い。遙か昔、女性が帝位を認められていなかった頃の詭弁の名残だと思えば、どうにか理が通る。
エル・クレールは別の可能性を見いだしてしまった。そして、義理の叔父も自分と同じことを考えていたのではないかと思い至った。
初代皇帝「ノアール=ハーン」は、存在しなかった、と。
彼女の唇は堪えきれずに小さく震えた。
「だからその尊称を消して、あの名を書いた」
かすかな声を己の耳に聞き取ったエル・クレール……いやハーンのクレール姫は、わななく掌で口元を覆った。上目遣いに男の顔色をうかがう。
「そこまで飛躍するかね?」
ブライトの肩が小さく上下した。忍び笑いの口角に浮かんだ歪みはには、邪悪な色すら浮かんでいる。エル・クレールは彼が自分に向けた笑顔の中にこれほどの邪意を見いだしたことはかつて無かった。
確信した。彼も同じことを考えているのだ。
独裁者と戦うために立ち上がった英雄はいない。
捕らわれの姫を助けた白馬の騎士はいない。
国の礎を気付いた為政家はいない。
ハーン家の始祖はいない。
動悸が激しくなった。眩暈がする。大きく息を吸い込もうとした。肺腑は意に反して小刻みな荒い呼吸を繰り返す。
「それほどに畏れることか?」
低く抑えられたブライトの声は、疑念と不審と不安に満ち、少しばかりの嘲笑を帯びている。
「私の先祖が……私に繋がる流れの最初の一点が……無いと言われては……私は塞き止められた淀みと同じです。本流もこれから行く先も判らない」
エル・クレールの声は顫動していた。
自負であった血脈が否まれた……それも自分自身と、敬愛する二人の男によって。
確乎たるものであると信じていた足下の地面が、突如として消えた。ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感が彼女を包む。
翠色の目は茫漠と開いている。開ききった瞳孔は、しかし何も見いだすことができないでいた。瞼を強く閉じた時に広がる、血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
呼吸の荒さは喘ぎに、動悸の激しさは破裂の寸前に、眩暈は暗黒に。皮膚が蒸発し、肉が霧散し、骨が融けて流れ、己が無に帰し、存在が感じられなくなった。
深く、冷たく、強く、彼女は心身が堕ちてゆくのを感じていた。
すがる物を求めて手を伸ばした。実際にそうしたのかどうかは、彼女にも解らない。肉の手か、心の内の手か知れぬ、その指先が掴んだのは空だけだった。落胆のあまりに瞼を閉ざそうとした。
薄い隙間、仄暗い闇の奥から、赫い薄明かりを纏った逞しい拳が差し出されるのが見えた。節の太い食指がエル・クレールの胸元を指し示す。
「お前はここにいる」
強い風のうねりのような低い声が、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、クレールは耳新しさを憶え、懐かしさをも感じた。
耳をそばだてる。声は続けた。
「源流がどこかなんてことは知ったことか。よしその一滴が無くとも、大河は時の果てから蕩々と流れ続け、お前という存在に受け継がれた。間違いなくお前はここいる。血肉と魂を持って生きている」
瞬間、呼吸が止まった。心の臓の拍動も、闇を巻くめまいも、ぴたりと止んだ。
静寂があった。
「戻って来たか?」
聞き慣れた声を聞いた耳の奥に、清流の漣を感じた。それはクレールの体が発する生命の音だった。心の臓から流れ出る血潮も、肺に流れ込む呼気も、一定の拍子で強く整っている。
エル・クレール=ノアールは大音響の中にいた。目の前にあるのは、古い田舎町の明るい風景だった。
「はっ」
エル・クレールの肺の中に滞留していた重たい息が、塊となって口からあふれ出た。
憶えず、左右を見回す。小さな舞台の小さな客席に彼女は座っていた。
傍らで赤い光背を負った男が完爾として笑っている。
エル・クレールは、彼女としては珍しい行儀の悪さだが、袖口で目を擦った。
尖った光が二筋、彼の額からあふれ出ているかのように思えたのだ……赤く禍々しい鬼の角のように。
再度目を開けたときに見たのは、無精髭を生やしたブライト=ソードマンの顔だった。櫛目の通らぬ前髪が隠す額に、鋭角な突起などは痕すらもあろう筈がない。
彼は顎で舞台を指し、呟く。
「二幕が開いた」
牧歌的な書き割りの中で、領主の娘の婚礼を祝う村人達はどこまでも陽気に、楽しげに舞い踊っている。
規則正しく、回り、跳ねるその人の輪の中に、別の動きをする者があった。
古びたローブの人物は、歌う村人の間を、手をつないで踊る娘達の間を、囃し立てる若者達の間を、縦横に駆けめぐっている。
人々はそれに気付いていないかの如く振る舞っている。舞台の上の「世界の現実」においては、彼は人間の目に見えない存在なのだ。
流れてゆく時、知ることのできない真実、未来から(あるいは観客から)見た既成事実の具象。空気。なくてはならぬが、見ることも抱くことも操ることもできぬモノ。
彼は再び言う。
「時は古。知るすべ無き昔。世界を巡るは一陣の風」
ローブの裾を翻し、彼は下手へと消えた。
「あの野郎は、どうやら『フレキ・ゲー』を演じているらしいな。つまり、遠い未来にこの与太話を書いて、それを芝居にかけちまった自分自身を、さ」
ブライトはクツクツと笑っている。
「その言い様では、まるであの人がフレキ叔父その人のように聞こえてしまいます」
エル・クレールは漸く声を絞り出した。ブライトは含み笑いをかみ殺し、
「安心しな、そう思うのはお前さんぐれぇだよ。普通の観客はそこまで莫迦な心配はしねぇさ。ただし、作者として挙がっている名前と北の海っ縁の殿様とを『同名の別人』と思って観ちゃぁくれンだろう……。流石にあの野郎を『都の玉座に座り損ねた末生り瓢箪』本人だとは思いやしないだろうが、役者がそいつを演じていると解釈する賢いのはいるだろうな」
言い終わらぬうちに、またブライトの背中は小刻みに上下し始めた。彼は顎を支えているのとは反対の手をけだるそうに持ち上げ、舞台上を指さした。
「書き割りの、領主屋敷の窓ン中」
指先を視線で追ったエル・クレールは、描かれた高窓に掛けられたレースのカーテンの向こうに、人影が動いているのを見た。
官製の脚本であれば、その窓の奥は領主の娘クラリスが半ば幽閉される形で住まわっている部屋と言うことになる。中に居るのは麗しい姫君だ。
彼女はこの幕では姿を見せることがない。見えるのは、カーテンの隙間から差し出し出される、細い腕のみだ。
窓の下では領民達が祝いの踊りを舞っている。クラリス姫の腕は、その輪に向かって花冠を投げ落とす。
村の娘達はそれを踊りへの褒美と認識した。そして花冠を頂くのに一番ふさわしいのは誰であるのかについて争いはじめ、奪い合いの果てに粉々に壊してしまう。
これが二幕目の筋立てだ。
そしてこの芝居でも、筋書き通りにカーテンの隙間から腕が突き出された。青みを帯びた貝細工の花冠を掴んでいる。
腕は花冠を踊りの輪に向かって投げるとすぐにカーテンの中に消えてしまった。同時に花冠の奪い合いの騒乱が起きる。
元より藁のように乾いた貝細工の花は、あっという間に崩れて散る。
そこで幕が下りる。あっという間の出来事だ。
カーテンから出た白いドレスを着た腕のその先、花冠を掴んでいた手指が赤銅色に日焼けしていたことに気付く者は少ないだろう。
逆に気付いた者には、強烈な印象として脳裏に焼き付くこととなる。そして彼らは、演目のタイトルからして「戦乙女クラリス」というくらいだから、国母クラリスを強く逞しい女性として描くための演出だと考えるに違いない。
普通はそこまでしか考えが及ばないだろう。この演出の更に向こうに、何かが隠匿されていると気付く者は、おそらくいない。
「最高に可笑しい真っ黒な喜劇じゃねぇか。あの野郎、判らない奴らを小馬鹿にして、判ったヤツのことは嘲笑っていやがる。チビ助め、このネタを古びてきたから捨てるなんてもったいないことを抜かしやがったが、命のある限り演り続けるべきだ。……ま、このままじゃ明日の朝にゃ命が尽きてるかも知れンがな」
ブライトの忍び笑いを聞きながら、エル・クレールは自分の腕を見つめていた。
元々は色の白い方だが、旅の空の下で日に晒される袖口から先は、小麦の色に日焼けしている。
「男の振りをする……男でありたかった女……」
無意識のつぶやきが、ブライトの嘲笑を止めた。
膝の上の皮紙束をくり捲るエル・クレールは、目を針の如く細めてメモを睨み付けていた。
ブライトは背筋を起こし、まじまじとその横顔を見つめた。
彼は「何を探しているのか?」と訊ねるつもりで口を開きかけたが、その必要はないと気づき、止めた。彼女が漏らしたつぶやきが、すでに答えとなっていたからだ。
「理由を……なぜあの方が男として振るまうことを決心なさったのか、その理由を」
メモに残る走り書きの文字は、書いた人物が「己が判ればよい」という心づもりでしたためたものだ。他人への伝達を一切考慮していない「インクの染み」は、それそのものが第三者である読み手に対する拒絶の宣言だった。
しかも、この場所の暗さやインクの色の薄さを味方に付けている。彼女が求めているような記述は、どれほど注意を払っても見つからない。
あきらめきれず、幾度もページを捲り直す彼女の手を、ブライトは押さえた。
「大凡は、お前さんと同じだろうよ」
小さなため息が漏れた。
「男の衣服は、軽く息苦しくなく……戦いやすい」
女物の、特に貴族が着るような豪奢なドレスは、幾枚も布を重ね合わせてふくらみを持たせ、金属や宝石を縫いつけて飾り立てたりするものだから、酷く重い。
重量を支えるため、そして「ドレスを美しく見せる」ため、着る者の体は紐や金具で締め付けられることとなり、それにより呼吸の自由は制限される。
襞のたっぷりとられたペチコートは歩行を困難にさせるし、首回りを飾るレースは視線を妨げて視野を狭くする。広がった裾や袖は身じろぎするだけで手足にまとわりつき、敵の手をはねのけることすら困難だ。
ドレスは、着る者に自分で自分を守ることを許さない、一種の拘束具だ。それを身につけた人間は、否が応でも自分の命を他人に預けねばならない。
「でも私は誰かに身を委ねることができない。自分で戦わねばならないから、男の服を着る」
ブライトの言うとおりであるなら、国母クラリスも自分と同じ理由で男として生きることを決意したのだろう。
確かに今の世であれば女の為政者も珍しくはない。時代が下がるにつれ、「彼女」が「彼」として起こした帝国・ハーンでも女帝が君臨することは珍しくなくなっなってゆく。従属国であるユミルに至っては、その建国から現在に至るまで王位は第一王女が継ぐものと定められている程だ。そして漸く二代にしかならないギュネイ帝国にも、女子の即位を禁じる法はない。
それでもまだ、女が「新しく事を起こす」ことに難色を示す人々はいる。女が「何かを率いる」ことに拒絶反応を示す人々がはいる。
四〇〇年の昔であればなおさらだ。
「その上、女でありながら男の服を着るような『常識外れ』ですから……。普通の感覚の人間であれば、従おうとは思わないでしょう。だから身も心も雄々しく振る舞う必要があった。それも後の世の歴史書に、勇敢な男と記録されるほどの完璧さで」
さながら真綿で体を締め付けられているかのごとく、胸が苦しくなった。エル・クレールは己の体を抱きしめていた。
「模範解答だな。まったくお前さんの頭ン中にゃ、掃除の行き届いた脳みそがきっちり詰まっていやがる」
口ぶりは、まるきり優秀な生徒を褒める柄の悪い教師の様だ。弟子達に真理を説く哲学者か僧侶のごとく、彼の黄檗色の目が笑う。
「だがな、こういう考え方もあるンだぜ。ドレスは信頼できる誰かを見つけるための道具。力ある者に、それを纏う者を助けたいと思わせるための、弱者の武器」
エル・クレールは自嘲気味に小さく笑った。
「……私には扱いかねる武器です」
彼女とて「姫」と呼ばれていた身だ。ドレスを全く着たことがないというわけではない。むしろそれ故に、自分には似合わない装束だと固く信じている。
「そりゃ確かに、どんな道具でもテメェの体にしっくり来る大きさじゃなきゃ使いこなせねぇもンだ。ありきたりの、出来合いの、吊しのヤツじゃあ駄目だろうよ。だから、お前さんの体にぴったり合うヤツを誂えれば、使いこなせる筈さ。当然、コルセットもドロワースも全部お前さん専用のヤツを、さ」
ブライトは薄衣のドレスを着た「クレール姫」の姿を想像していた。
彼女にしか似合わない、特別の意匠の、誂えの逸品で、襟ぐりが胸元側だけでなく背中側にも大きく開いている。
「少なくとも、対俺サマ用の秘密兵器には間違いなくなる」
頬を緩め、鼻の下をだらしなく伸ばした。
ただし、スカートを捲り上げ、薄暗がりの中の白い足を眺める妄想は、耳朶が引き千切られるほどの強い力で捻り上げられた御蔭で、きれいさっぱり霧散した。
「あなたに武器を向けようという気は、芥子粒ほどもございませんので」
エル・クレールは唇を突き出して怒って見せたが、目の奥には妙に穏やかな微笑が浮かんでいた。
荘厳な音楽と共に三幕目が開いた。弱小国王宮の謁見室は、簡略化された舞台装置の所為もあり、薄暗く物寂しい空間として表現されていた。
舞台中央に二つ並んだ玉座に、付け髭を蓄えた「王」と、真っ赤な口紅を引いた「王妃」が並んで据わっている。
彼らは衝撃を受けていた。愛娘は新興勢力の長と「結婚」するものだと信じていたのに、事実はそうではなかった。
質素な衣裳を纏った文官武官が数名ずつ並び立つその中心で、豪奢な衣裳を纏った第一舞踏手が舞う。
大国からの使者だ。その役目は、「王」の一人娘を「彼」の主君の後宮に入れることを促すこと。
踊り手は、「王」と「彼」の主君が対等であるかむしろ自分側の立場を一段下に置いたようなそぶりで、「王」の領土を安置するための「良策を献案」する黙劇を力強く舞った。
見事な演技だった。
踊りの型(すなわち「言葉」)は遜ったものでありながら、一挙手一投足は驕慢そのもので、大国の奢りが匂い立っている。
大国の支配者は小国の王に、暗に命令している。己の軍門に下れ。そして、命令に背くことは許されない。
使者は、「王」が「即答しかねる」と舞い演じるのに一瞥を送ると、冷笑し、床を踏みならしながら舞台袖に去った。
大号がかすかな音を立てた。同じフレーズを幾度も繰り返し、彼方で反響する山彦を表現している。
小さな国の城壁の外で陣を張っていた軍勢が、進軍喇叭を吹いているのだ。
武官役の一人が憤りの型で剣舞を踊るが、落胆しきりの「王」は彼の徹底抗戦案をすぐに受け入れることができない。
文官役の一人が「王」の許可を得ずに、使者が去って言った方向へ走る。「王」は彼の先走った行動を止めることもしない。
力なく椅子に座り込む「王」の横で、やはり力なく立ち上がった「王妃」は、肩を落としつつも、カーテンで仕切られた一隅へ向かう。
薄いカーテンの向こうには人影が揺れている。薄絹越しに「王妃」が語りかけるような弱々しい踊りを舞った。
するとカーテンが開き、そこから王女クラリスが登場する……のが官製のシナリオだ。国を救うために自らを犠牲とする覚悟を決めた彼女は、カーテンを押しのけて舞台中央に飛び出で、己の決心を表現する華麗な舞いで、両親を説き伏せる。
しかし、このカーテンは開かなかった。
クラリス役の踊り手は、カーテンを押し開かず、自室にこもったまま、舞い始めた。
悲劇の王女が姿を見せぬまま、芝居は進む。彼女は「向こう側」で、しかし定められた通りの形の演技をしている。
揺らめく白い布地に映る影は、儚く、悲しげに舞った。
「……違う……」
客席から影を見つめていたエル・クレールは、小首をかしげた。
「ひねくれ戯作者の演出のことか?」
ブライトも影の動きを眺めつつ、問う。
「いえ。そのことではありません。踊り手です。あそこで国母を演じているのは、シルヴィではないのではないかと……。つまり、最初に初代皇帝を演じ、二幕目で花冠を投げたのとは違う人物が彼女を演じている」
「何故、そう思う?」
「背格好は確かに似通っていますが、肩幅や手足の肉付きが、シルヴィならばもっとほっそりしていると思うのです」
エル・クレールは、自身の腕の中に抱いた踊り子の体の線を思い起こしていた。
「影だけで判るかね?」
念を押され、彼女は自信なさげに頷く。
「それともう一つ。踊りの雰囲気が違うような気がします。一幕のシルヴィは『男役』であったのに、どこかに女性らしさが残っていた。彼女が『実は女』であることを暗に表現するためにそうしていたのかも知れませんけれども」
僅かに語尾が弱まった。しかし続く言葉は、声は小さいが、何か確信じみたモノを含んでいる。
「ですがあの影は、女性にしてはすこし……そう、硬い感がするのです。つまり、巧く説明できませんが、『女が男らしい女性を演じている』と言うよりは……『男がたおやかな女性を演じている』ような、そんな気がするのです」
途惑いながら言うエル・クレールを見、ブライトはニタリと、少々意地悪げな笑みを浮かべた。
「全く、その観察眼をもっと別の時に発揮してほしいモンだぜ。演劇評論家なんて職じゃ、当世喰っちゃいけねぇンだからな」
小馬鹿にされた気のしたエル・クレールだったが、抗議や反論はできなかった。彼が言葉を続けたからだ。
「カーテンの向こうに居るのは、チビ助の阿呆やろうさ。つまり『舞台の上にはいないことになっている存在』役の、な」
「え……?」
「あの場所には、誰もいない。男権の象徴である『王』も、女らしさのステレオタイプの『王妃』も、攻撃性そのものの『武官』も、事なかれの体現の『文官』も、囚われのお姫様ってぇ『幻』を見て踊っている、てぇこった」
「ですが……、囚われの美姫ではなくとも、クラリスという名の女性は、間違いなく存在した……のでしょう?」
エル・クレールがすがるような目をした。
「なんで俺に訊く?」
ブライトの微笑には、少々の意地悪さが混ぜ込まれていた。質問には答えないと、暗に言っているのだ。
しかし、
「あなたより他に訊く相手がおりません。……あなたはどうやら叔父が書いた物の内容を詳しくご存じのようですし」
まっすぐに己を突き刺す緑色の瞳に、ブライトはいささかたじろいだ。
「詳しくなんぞ知りやしないさ。ただお前さんよりちょっくら長く生きているから、お前さんが生まれる前に流れた噂話の類を聞きかじっているってだけのこった。それにしたって、流石に四〇〇年昔のハナシは知るわけがなかろうよ」
「それはそうでしょうけれども……」
エル・クレールは羊皮紙の束を抱きかかえ、力なくうなだれた。
「お前さんが岡惚れしている末生り瓢箪も、結局は同じ事だがね。そのボロ紙に書いてあるのも、恐らくはあいつが聞きかじった噂や、心もとない史料の書き写しに過ぎん……正史とやらの引用も含めて、な。どだい、ハッキリしたことなんぞ、誰にも判りゃしないンだ。だから後の世のモンは残された『記録』から推量して、自分なりに解釈する必要がある。解釈だから、人に拠っちゃ変わりうる。だからお前さんもお前さんなりに解釈すればいい。他人の解釈を参考にしながら、な」
「他人の解釈? それは、例えばあなたの解釈ですか?」
エル・クレールは目を輝かせて身を乗り出した。
「ひでぇなぁ、姫若と俺はもう他人なんかじゃないでしょう」
軽口で矛先を反らそうというブライトの算段は、当然ながら通らなかった。エル・クレールは怒りゆえとも恥じらいからとも知れぬ紅色で頬を染めつつ、
「他人です。誰がなんと言おうとも」
強く否定した後、語気を緩めて言葉を足した。
「ですから、あなたの意見を聞かせてください」
それは懇願に近い声音だった。
重いため息がブライトの口から漏れた。
「俺は学者でも物書きでもねぇし、学んでやろうとか探求しようとかってぇ欲もねぇ。ただ面白がってるダケの聴衆の言うことなんざ、聞いても得にゃならんよ」
「では、誰の解釈を聞けと?」
その問いに、彼は顎で答えた。無精髭の生えた顎が指したのは、四度幕の開いた舞台の上だった。
舞台の中心に、初代皇帝が天を仰ぎ立っている。
男を演じる女の踊り手が、力強く大地を踏みしめ、天を掴み盗る勢いで諸手を突き上げている。
背後では不揃いな軍装の一団が横一列に並び、踊っていた。全員が同じ振り付けに基づいているが、しかし足並みはまるで揃っていない。
踊り手の技量が不足しているのではない。
むしろ、型どおりでありながら不揃いという不安定なダンスを、観る側に違和感を感じさせることなく踊ってみせる彼女らの技量は、並以上と言って差し支えない。
これは演出だ。
軍人としての訓練などまるきりされていない、食いっぱぐれの匹夫達が、それぞれの思惑を持ちつつも一塊になって進んでいる。いずれ誰かが暴走する可能性がある。そして組織は崩壊する可能性がある。しかし今は一つの目標に向かって歩く。……それを表すために、演出家がダンスを不揃いにさせているのだ。
無論、御上から許された演出では、義勇軍の列は一糸乱れず行軍する事になっている。
戯作者兼出演者兼振り付け師のマイヤー=マイヨールが、危険を承知で腹をくくり、役人の目をかいくぐりながら自説を主張しているのか、あるいは役人がそれに気付かないと高をくくっているのか、さもなくば、己の演出が相当に危険な物であるということをまるで自覚していないのか、傍目にははかりかねる。
兎も角も、舞台上では不調和の調和が演じられていた。
皇帝役が力強くなめらかな連続ターンを決める。背後の群舞は「彼」を讃える手振りで舞う。
背景に掛けられた風景幕が横滑りに動く。
後の世では義勇兵と呼ばれていることとなる小さな賊の群れは、いずれかへ「進軍」しているのだ。
行く先は、北の果ての小城。目指すは、城郭の奥に隠れる美しき姫。
彼らの行く手に、突如としてきらびやかな甲冑を着込んだ兵士達が現れた。「大国の先兵」たちから見れば、物陰から山賊が飛び出して来たという状況に他ならない。
有無を言わさず、戦闘が始まる。
義勇兵たちに作戦などというものはない。大体、策を用いようにも、知略知謀を巡らせる軍師が存在しない。初期の義勇兵団で知恵があると評して良い人物は、唯一、総大将であるノアール=ハーンのみという有様だ。
その彼にしても、小規模な戦闘を乗り切るだけの能力があるに過ぎず、戦争の玄人とは言えない。
運の良いことに、このときの彼らは敵の数倍の人数、すなわち「数の力」を持っていた。数の有利を無理矢理に押し込み、闇雲に戦う。
しかも彼らは捨て鉢だった。この場から逃げ出してたところで、故郷は荒廃しきっているのだ。故郷以外の土地に入り込んだとしても、いまこの大陸のどこにに流れ者に飯をくれるような余裕のある町村があるというのか。
命を惜しんで逃走しても、結局は飢えて死ぬことになる。後退する道はない。彼らはひたすら突き進む。
一人の兵士に数人の義勇兵が飛びかかり、なまくら刀を叩きつける。戦争と言うよりは、愚連隊の喧嘩さながらの乱闘だった。
舞台の上で行われているのは、演劇であり舞踏であるから、斬るも殴るも形だけの事だ。
斬りつけるように踊り、斬られたように踊り、殴るように舞い、殴られたように舞う。
だが実際その時に行われていた戦いは、酷いものだったろう。
敵兵が死んでも攻撃は止まない。恐怖と怒り、そして勝利の恍惚から、義勇兵達は死体を切り刻み、骨を砕いたという。
手傷を負わされた者も戦うことを止めなかった。目を潰されても、腕をもぎ取られても、足を切断されても、彼らは前へ進んだ。首を落とされてなお剣を振るっていた「勇者」がいたという伝説さえ残っている。
累々たる屍は、敵兵だけでなく義勇兵のそれも、人の形の名残すらない膾さながらの肉片となっていたという。
戦争とはいえない。暴力の爆発だ。自分の身をも巻き込む、恐怖の破裂だ。
赤一色の背景幕がすとんと降りた。
大地が血肉の色に染まったのだ。
敵兵役の踊り子たちは転がるように舞台袖へ消えた。義勇兵たちは肩を組んで喜びの舞いを踊る。
その中で、初代皇帝はただ一人浮かぬ顔をしていた。
義勇兵の数が半分程度に減っているのだ。
舞台の上から減った人数は、失われた命の数だ。義勇兵は多く殺し、多く殺された。
彼は服喪を意味する黒い薄布を頭から被り顔を覆った。嘆きを黙劇で表現しながら、ゆっくりと歩く。
人気のない観客席には、悲しげな音楽とその中に埋没している木が軋むかすかな音が聞こえた。
回り舞台が、勝利に沸く義勇兵の一団を観客の視界の外側に押し出す。
たった独りで北の果ての小城へ向かっているノアール=ハーンだけが舞台上に残された。
血なまぐさい戦場を表現していた背景幕は、静まりかえった暗い城内を描いたそれに変わり、大きく波打って揺れている。
柱を表現しているのであろう細い布が、幾枚も下がっている。黒い布をなびかせながら、初代皇帝は柱の間を縫い進んだ。
「ふふん」
突如、鼻笑いを聞いたエル・クレールは、笑い声の主の方に目を移した。
視線に気付いたブライトは、小声で一言、
「早変わり」
顎で舞台の上を指す。
エル・クレールは眼を見開き、慌てて再度舞台に目を移した。
未熟を嘆き焦燥する若い男が、ぶつけどころのない怒りと悲しみを、力強い舞踏で表現している。
「あ……」
エル・クレールは気付いた。
「違う。あれはシルヴィーではない」
背格好は似ている。だが躍動する手足の筋肉は、どう見ても、
「男性です。あれは本物の男の方です」
「……さて、ここ問題です。アレは一体誰でしょう?」
ブライトの口ぶりは大分悪童じみていた。
「マイヤー=マイヨール、ですね」
「ご名答」
「では、シルヴィーはどこへ?」
「さて、本来の姿にでも戻っているンじゃないかね」
「本来……?」
音楽が変わった。若い男の憤りと同じメロディは、オクターブが上がり、調が変わることによって、別の人間の嘆きを表現し始める。
舞台上に薄いカーテンが引かれた。
逆光の照明が、カーテンに人の影を映す。
概視感に襲われた。
前の幕に似た演出があった。
しかし違う。
筋張ってはいるが、どことなく丸く柔らかな体つき。指先のその先までも神経を行き届けさせている、しなやかな仕草。
薄布の向こうには、悲しみにくれる非力な女性が居る。
「早変わり…………いつの間にシルヴィーとマイヨールはすり替わった?」
疑問の形で口にしたが、エル・クレールは大凡理解していた。
三幕が終わってから今までの間に、マイヤー=マイヨールは衣裳を若き日の初代皇帝のそれに替え、回り舞台の裏側に潜む。
無力を嘆く若者の独演が始まってすぐ、柱を模した細い布の後ろへ入ったシルヴィーは、観客の視線の陰を利用して舞台裏か舞台袖へ消え、入れ替わりにマイヤーが踊り出る。
彼が黒布で顔を隠し、怒りと悲しみを爆発させながら激しく踊る、その僅かな時間に衣裳を替えたシルヴィーが、今、カーテンの裏で舞っている。
「まるで手際の良い手爪のよう」
エル・クレールは嘆息した。
「早変わりやら入れ替わりやら凝った仕掛け舞台が得意な連中は、大概はそこを誇張した外連味が売りの派手な興行をブつもンだが、あの阿呆は何を思ったか、手前ぇらの技量をひた隠しに隠して『普通の芝居』に見せかけてやがる。何とも厭味じゃないか。チビ助め、そうとう後ろ頭が出っ張ってるな」
後頭部の骨に極端な突出があることを叛骨と言い、こういった相の人物は生まれながらに反体制的・レジスタンス的気質を持つと言われている。
「……無駄に知識を蓄えていらっしゃるあなたもご同様でしょう。人相学など、どこで学ばれたのですか?」
敬服と皮肉の混じったため息を聞いたブライトは、小さく舌打ちし、
「お前さんが知っているぐれぇのこった。常識の範囲ってもンだろうよ」
己の後頭部を乱暴に掻いた。
舞台の上では、二人の人物が背中を向けあった状態で、それぞれに己の悲しみを表現している。
同じ音楽に乗り、同じ振り付けで、同じタイミングで踊りながら、しかし彼らは自分以外の存在に気付いていない。己と同じく、無力への怒りと悲しみに身の裂かれる苦しみを味わっている存在が、極近くにあることを知らない。
知らぬままに、彼らは、つま先指先までぴたりと同期同調させていた。
背中合わせの二人が、同時に振り向いたとき、鐃はちが轟音をたてた。
一組の男女がカーテンを隔てて、ほとんど同じポーズを取ったまま、制止した。
音がなくなった。
静寂の中で、彼らは不自然ともいえる身振りのまま、人形のように体をこわばらせた。
やがて僅かに顔が動うごいた。
視線が重なった。
驚き、仰け反る。
この二人にとって、カーテンは鏡面と同意だった。鏡に映った虚像が実像とまるきり同じ動きをするように、対峙する二人は全く同じ動作で、顔をそれに近づけた。
白い布きれは、その向こう側にある「自分でない誰か」の姿を隠している。布のこちら側の男も、向こう側の女も、相手の姿をおぼろげに見るばかりだった。
男がカーテンの表面に手をかざした。女の指がそれと同じ場所に触れた。
爆ぜるように、彼らは手を放した。しかしすぐに二つの掌は重なった。
ほとんど同じ背格好の二人の人物が、カーテン越しに抱擁する。
雷鳴に似た鐃はちの音が響く。
男が引き裂き、女が突き破った。
二人を分かっていた心もとない障壁は、悲鳴を上げて消えた。
花嫁のヴェールで顔を覆った囚われの姫の手を、服喪のヴェールを被った無頼の男が引く。
二人は歩を合わせて踊り出した。
金属が触れ合うちいさな音がする。
耳を澄ませても聞こえないその音を、エル・クレールは確かに聞いた。ブライトの耳にもそれは届いていた。
刀帯か佩鐶の金具が鳴ったのだ。
ノアール=ハーンは丸腰だった。
剣を佩いているのは「もう一人」の側だ。
男は強引に、しかし愛おしげに姫をリードする。姫のおびえは徐々に陶酔に変わってゆく。
薄幸な姫を略奪する荒々しい男と、運命に翻弄され続ける非力な娘のパ・ド・ドゥは、ノアール=ハーンが主であり、愛姫クラリスがそれに従う……本来はそのような場面の筈だ。
マイヤー=マイヨールはスタンダードな振り付けを正確に再現しているにもかかわらず、舞台上の男からは支配力が感じられない。
シルヴィーのそれも、約束どおりの形に完全に沿っているというのに、姫には従順さが微塵もない。
「照明が絶妙だな。チビ助には必要以上に光を当てないようにぎりぎりまで絞っていやがる。御蔭で男の影の薄いこと……まるでそこに居ないみてぇじゃないか。こいつは戦乙女ってぇよりゃぁ、嬶天下だぜ」
言いながら、ブライトは隣の席に視線を送った。
エル・クレール=ノアールは舞台を見ていなかった。
青白い顔はおのれの膝の上に向いている。
背を丸め、顔を近づけ、古びた書物の残骸を凝視する。
唇が小さく動いた。指先でかすかなインクの痕跡をなぞり、文字を読んでいる。
「大剣……相反する……逆賊……兵を率いるにおいて……烈火の如く逆上……細やかな配慮……冷徹な処置……甚だしく……波のある……二面は一つ……」
彼女の口から漏れる音は、到底文章とはいえなかった。書かれている文字がその体裁をなしていないのだから、当然だ。
幾ページにも渡り点在する断片的な書き込みは、エル・クレールがどう読んでみても繋がることがなく、意味なす言葉にはならなかった。
心を残したまま、彼女が諦め、顔を上げた時、舞台の上では甘く美しい恋人達のダンスが接吻のポーズで制止していた。
四幕目は、高らかに響く婚礼祝いの鐘の音の中閉じた。
緞帳の裏側で舞台替えの物音がせわしなく響く。
二人きりの観客の内の一人が、残りの一人の耳元に顔を寄せ、
「裏っ側さえ気にしなければ、なかなか『笑える』出し物だと思うが、姫若さまのご意見は如何に?」
捻くれた讃辞の言葉を枕に問う。
抑えた声のが導き出したのは、一層小さな声での返答だった。
「私がこの劇を裏側を気にせずに観ることができるとお思いですか?」
エル・クレールが白い頬を剥くれさせるのを見、
「そりゃぁごもっともで」
ブライトはおくびをかみ殺すのと同じ顔をして、失笑を押さえ込んだ。
彼ら以外の人物が一人として居ないこの場所で、内証話めいた口ぶりで会話する必要などまるでない。しかし彼らはそうせざるを得ない心持ちでいた。
「天井知らずの剛胆か、底抜けの阿呆か。どちらにしろ、褒められたもンじゃあねぇな」
ブライトは小さく伸びをすると、座り直し組み直した脚の上に頬杖を突いた。
「それは誰の事ですか?」
クレールは背筋を伸ばし、閉じられた羊皮紙の束の上に両の拳を並べて置いていた。
「どこにチビ助以外の『そういうの』がいるかね?」
間髪を入れず、彼女は答えた。
「ヨルムンガント・フレキ」
間髪を入れず、彼は吐き捨てた。
「論外だ」
顔を背け、ブライトは緞帳幕を睨み付けた。
この舞台は総じて幕間が短かった。
地面を掘り下げまでして設置した大がかりな装置の威力だ。表で踊り子達が演技している最中に裏側で次の背景を準備し、すぐさま送り出すことができる。場面転換はすこぶる付きに素早い。
裏方達は下品で口が悪いが仕事は早くて正確だった。騒がしい踊り子達も演技が巧みな上に持久力が高い。
彼らは休憩をする必要がないらしい。すぐに次の仕事を始め、こなす。
それがこの演目に限ったことなのか、あるいはこれが通し稽古だからなのか、そもそもこの劇団の特徴なのか、理由は定かで定かでない。
間違いなく言えることは、今日の舞台においては、めまぐるしいほどにテンポ良く事が進み、幕が閉じてはすぐに再開することを繰り返しているということだ。
「小便に行く暇もありゃしねぇよ」
ブライトは戯けて言うと、厳つい掌でエル・クレールの頭を覆うように掴み、彼女の顔を舞台の方向へ向けさせた。
が。
幕は上がらなかった。
一〇.中断
楽団溜まりから指揮者の白髪頭がひょこりと突き出た。とうに出ておかしくない筈の合図が、さっぱり見えない。不安げに舞台袖を覗き込む。
舞台裏から聞こえるのは、くぐもったざわめきばかりだった。裏方と出番待ちの踊り子達が、てんでに何か言い合っているらしい。
観客席にいる二人には詳細な内容までは聞き取れない。ただ、
「畜生が。あの禿親父め、毎度毎度余計なことばかりしてくれて、本当に有難いことだよ」
マイヤー=マイヨールの口汚いわめき声だけははっきりと聞こえた。
「やれやれ。姫若、残念なこってすが、お芝居見物はここで取りやめってことになりそうですぜ」
下男の口調で言いながら、ブライトは顎で舞台端を指した。緞帳を乱暴に捲り上げて出てきたマイヤーが、皮鎧の胸当てを床に投げ捨てながら客席に飛び降り、不機嫌そのものの足取りでたった二人の観客に近づく。
「若様、旦那。あと少しで終わるって所まで来て、大変申し訳ないことですが、通し稽古は取り止めにさせていただきます。こちらから観てくれとお頼みしたって言うのに、またこちらの都合で止めにするのは、本当に心苦しいんですけれども……どうか平にお許し下さいな」
憤懣やるかたないマイヤーの激しい口調を、彼が発した言葉の字面だけで表現するのは不可能だ。言葉使いはすこぶる丁寧だし、相手に対する心遣いも真摯なものであるにも関わらず、耳に届く声はとげとげしく、荒々しく、毒々しい。
舞台裏で何事かアクシデントがあったのだろう事は、彼の上気した顔を見ただけで判る。
どのような事件であるのかは知れない。ただ、人の動きがにわかに慌ただしくなっていることだけが伝わってくる。
降りたままの緞帳の裏で、大道具達が罵声と金鎚の音を同時に立てている。
床からは、地面の下で機材装置を強引に動かしているとおぼしき不共鳴な物音が伝わってくる。
それらはおしなべて乱暴な音だったが、破壊音ではなかった。
「理由を聞かせて貰おうじゃないか。ウチの姫若さまはあんたらの御蔭で貴重なお時間を半日分近くも潰したんだ。納得のいく説明ができねぇなんてこたぁ、よもや言うまいな?」
ブライトは客席の背にふんぞり返る格好でもたれかかり、組んだ足のつま先を三拍子の指揮棒よろしく振った。相当に不機嫌な振る舞いに見えた。
実際のところ、彼はそれほど大きな不快を感じているのではなかった。むしろ慌てふためき怒り散らしているマイヤーの様子をおもしろく思ってすらいる。不機嫌の仕草は戯作者から話を引き出すための手練だ。
マイヤーは深い息を一つ吐き出した。
「本当に申し訳ないことで。こんな予定じゃなかったんですがね。つまり、あの勅使のお役人がやってくるのは、もう少し後……陽が落ちきってからの筈だったんですよ。少なくとも、午後のお茶をすすって、充分昼寝をした後ぐらいの頃合いと考えておりましてね。……まあ、お貴族様が昼寝を貪るのかどうかは、私の知ったこっちゃありませんけど」
深呼吸程度では苛つきは収まりきらなかったと見える。彼は落ち尽きなく足先をゆらした。
「つまり、早くもグラーヴ卿がいらしたと?」
エルが静かに訊ねると、彼の首がカクカクと小刻みに動いた。
「うちの座長がね……ああ、若様方はあの禿をご存じないでしょうけれども、一応そういうのがいるんですよ。座長って肩書きが仇名にしか聞こえないようなどうしようもない座長がね」
「そういやぁ、勅使がフレイドマルってぇ言ってたな。それが座長って仇名の男の名かね」
「旦那、あんた本当にただ者じゃないね。たった一言の事をよく憶えていてくださった。でもそんな名前は忘れてくださっても構わない。あの野郎なんざ禿で十分だ。いや、それでももったいない。これからは馬鹿助と呼んでくれる。ああ、先代は旦那も奥方もすばらしい人だったのに、どうしてあんなのが出来ちまったんだろう」
床の上に座長の顔が浮かん見えたのだろう。戯作者は歯ぎしりし、地べたを激しく幾度も踏みつけた。
国を興した英雄の衣裳を着込んだ男が、である。
滑稽だった。
笑いを押し殺しブライトが
「その馬鹿助殿が、あんたの腹づもりよりずいぶん早く、ヨハネス=グラーヴを連れて来ちまった、か?」
水を向けると、マイヤーはまた小刻みに頷いた。
「日暮れまで引き留めとくって算段だったんですよ、本当はね。馬鹿助ときたら、それじゃぁっていうんで酒瓶抱えて行きましてね。それもしみったれたヤツをですよ。こんな辺鄙な田舎の安酒で、仮にも都のお貴族様を接待しようってのがそもそも間違ってますでしょう? ああいった人たちは、美味い物の味はよく知っていらっしゃるから。……中には『銘柄』が良ければ中身がお酢でも気分良く酔っぱらえるお方もいらっしゃいますけども……。そいつは兎も角。不味い酒でも話がおもしろけりゃ聞いてやろうと思っていただけたでしょうけれど、なにしろ出かけたのがあの学のない迂闊な馬鹿助ですからね。結果は解っちゃいたんですがね……。さりとて私が稽古をおっ放り出して、お屋敷に行くわけにもゆかず」
胸に溜まっていた事を一息に吐き出して、漸く、マイヤーは少しばかり気楽になったらしい。
「全くこちらの手落ちです。若様には本当に申し訳もありません」
ぺこりと下げた頭が持ち上がったときには、力なくではあるが、面に笑みが浮かんでいた。
「で、どう落とし前をつけてくれるってンだ? うちの姫若さまは、自分だって貴族だっていうのに『オ貴族サマ』が大のお嫌いでね。できれば勅使殿の隣にゃ座りたくないって仰せなンだがね」
からかい気味に言うブライトの言葉は、おそらく彼自身の本音でもあろうが、エル・クレールの本心も代弁してくれていた。
『どうにもあの方は苦手だ。どことなく緩く生温い物言いは、皮膚にまとわりつくようで心持ちが悪い。あれが都の気風であるならば……私は帝都に生まれなくて良かった』
小さく息を吐いた。彼女にとっては安堵の息だったが、マイヤーには彼に対する不満の現れに見えた。
『なんてことだ、禿馬鹿の所為で若様のご機嫌を損ねちまうとは! すぐさま外へ案内すれば、これ以上ご不興を買うようなことはないだろうが』
マイヤーはずぶ濡れの犬がするように総身をふるわせた。
歴戦の剣士の強さがあって、直情的であるにもかかわらず、人見知りの激しいか弱い心根を持つ、姫君のように麗しい【美少年】が、自分から離れてゆくのは途方もなく惜しく、途轍もなく恐ろしい。
求め求めてようやっと見つけた格好のモチーフだ。いや、もの書きに名声を運ぶという芸術神ポリヒムニアの化身だ。ここでみすみす逃がしてなるものか。
留めておきたい、留めねばならぬ。
「裏からお出になってくださいな。ただし、街道は運悪く一本道ですから、今外に出てはかえってグラーヴ卿閣下の目につきます。ご不便でしょうが、暫し楽屋にお隠れを」
エル・クレールの手を手ずから引いて案内したいのは山々だが、そんなことをしたら忠実な剣士に斬りつけられる。
出しかけた手を引っ込めるた彼は、くるりと踵を返し、足早に舞台袖へ向かった。
「学習能力のあることだ」
にたりと笑い、ブライトは彼の後に続いた。そのさらに後ろを、エル・クレールも追う。
舞台裏は蜂の巣を突いた騒ぎとなっていた。
折角引っ張り出した最終幕のセットを片付け、しまい込んだ一幕の書き割りを引きずり出さねばならなくなった裏方達は、口々に不平を垂れ、罵声を上げながら、それでも的確にやるべき事をこなしている。
踊り子達も同様に文句を言い悪態を吐きながら、汗で崩れた化粧を直し、熱を帯びた肉体を鎮めるストレッチを行っていた。
「彼女らはグラーヴ卿のためにもう一度演技をしなければならないのですね。体は大丈夫なのでしょうか?」
先を行く道連れの背に問いかけるような口調で、エル・クレールは一人呟いた。
答えは背後から追ってきた。
「朝から続けてに三,四度もすることもしょっちゅうですから。これからすぐにと言われたとしても、それはすこし間が詰まっていますけれど、それでも、これくらいのことは何でもありません」
鈴が鳴るような愛らしい声の主は無論ブライトではなかった。
歩みながら振り返ると、ゆったりとした白い衣裳をまとった踊り子が、上気した顔をこちらに向けていた。
「……君は、たしかシルヴィーといったね」
足を止めずに、エル・クレールは踊り子に声を掛けた。もとより熱を帯びていた頬を更に赤く染め、彼女は
「はい、若様」
さも嬉しげに返答し、つま先立ちで駆け寄った。
「名前を覚えていただけたなんて、嬉しゅうございます」
「あれほどすばらしい舞いを見せて貰っては、演技者の名前を忘れることなど、できようもない。私はできることなら君と直接話をしたいと思っていたのだよ」
エル・クレールはいかにも若党らしい口調で言う。紅潮を耳先にまで広げたシルヴィーは、宙に浮くよに歩きながら、裳裾を抓んで頭を下げた。
事実、エル・クレールはシルヴィーと話をしたいと考えていた。
彼女が演じている「男になりきっている女」について、彼女自身はどう思うているのか、直に訊ねてみたかった。
「わたしも、若様とお話ししたくて。お聞きしたいことがたくさんあるんです」
黒目がちな目を少しばかり潤ませたシルヴィーだったが、
「お喋りは後回しだ。今は若様方を案内するのが先なんだ」
マイヤーの強い語気に押され、黙り込んだ。
ドーランと汗と埃の臭気が充満した楽屋は、たむろしていた劇団員達が出払っているためか、先に来た時よりも静かでうら寂しく思えた。
片隅に、ことさら整頓されている空間があった。柔らかそうな「なにか」に大きな布をかぶせてソファの形に調えたものが据えられている。
客人はそこに座っていろ、ということなのだろう。
促される前にブライトがどっかりと座り、
「逃げるは兎も角、こそこそ隠れるってのは、どっちかってぇと性に合わないンだがね」
自分の隣の「空間」を叩いて示し、エル・クレールを呼んだ。
中に何が包まれているのか知れた物でない。座面の柔らかさを確認しつつ、
「敵前逃亡は何より『お嫌い』なのだと思っていましたが?」
エル・クレールは小声で訊いた。
「姫若、撤退ってのは戦略のうちですぜ」
「隠忍するのも戦略の一つでは?」
「隠れる場所が問題でさぁね」
ちらりとマイヤーを見やる。
「今はこれが精一杯、というヤツです」
すまなそうに苦笑いしていた。
舞台の方角からは、相変わらず機材の軋みが響いてくる。戯作者は若い貴族の前に片膝を突いて
「都の方が客席に入ったら合図をします。そっと裏からお出になってください。それまではこのシルヴィめがお話相手ということで、ご勘弁下さいませ」
手招きされたプリマが、少しばかり嬉しげに深々と頭を下げた。
「主役を置いていっていいのかい?」
怪訝に思わない方がおかしい。ブライトが問うと、マイヤーはにやりと笑った。
「都の方にコイツの踊りなど見せられたものではありませんよ。そのために、不肖このマイヤー=マイヨール、初代様の衣裳を脱がずにおるというわけで」
酷い厭味だった。
「つまり、さきほどの『通し稽古』とは、また違うことを演ると? ならば、私たちが観て意見する必要は、もとより無かったということになる」
エル・クレールは落胆とも立腹ともつかぬため息を漏らした。
マイヤーは激しくかぶりを振る。
「とんでもないことで。若様方に途中まででも見ていただいたからこそ、もっと変えた方がよかろうという判断ができたのですよ。これでも私は目が良うございましてね。舞台の上からお二方の様子をちゃぁんとしっかり拝見しておりました……皇帝役が女ということの真意、あっさりとお見抜きいただけたようで」
彼の笑みが粘り気を増した。
「俺たちのような田舎貴族に気付かれるような仕掛けなら、帝都の役人にもバレちまう、ってことかい?」
ブライトはわざとらしく視線をそらした。
「本当に旦那は意地の悪いお方だ。決してそんなつもりじゃありません。ただ、念には念を入れて、用心深く、というだけのことです。あちら様は、お二方ほどすぐにはっきり悟ってくださりはなさらないのは間違いない。それでも、もしかしたらってことがある」
「けっ、調子の良いこと言いやがる。意地の悪いのはそっちの台本だろうよ。客を莫迦にした筋立てを書きやがって。てめぇは舞台の上から客を見下して楽しんでいやがる。地方回りの『大衆演芸』がやる事じゃねぇだろう」
「ぐう」
マイヤーは胸に手を置き、大げさに仰け反った。
「耳に痛い、胸に痛い。心の臓が裂けそうだ」
悶え苦しむ様を見せ、彼は薄く目を開けた。『若様』がこちらに視線を注いでいる。胸の奥で早鐘が鳴った。
「なるほど舞台用の演技は近くで見ると大仰に過ぎるものよな」
ぽつりと呟いたエル・クレールの言葉は、どうやらとどめとなったらしい。
「若様までも、意地の悪い」
マイヤーはがっくり肩を落とし、薄笑いした。
ゆらりと揺れながら立ち上がった彼は、顔を伏せたまま大きく息を吸い、吐き出して後、背筋を伸ばした。
ふざけた笑顔はきれいさっぱり消えていた。
「本心を申しますと、若様には……お二方には、この一座の客分として、一緒に旅をしていただきたいと思うております」
照れてはにかんだ、しかしまじめな顔で言う。
「なんですって?」
驚きの声を上げたのはエル・クレールだ。理由がわからなかった。泳いだ視線を、彼女の隣でふんぞり返っている男に投げた。
ブライトは微い苦笑で口元をゆがめていた。
「阿呆チビよ、ウチの姫若を何に利用するつもりだ?」
「利用だなんて、旦那、人聞きの悪い事を言わないでくださいな。正直に申し上げましょう。私はどうやら若様にいかれちまったようでしてね。つまり惚れ込んじまった」
「ほう?」
声音はむしろ穏やかだった。が、目の奥には明らかな怒りの色が揺れている。マイヤーの額に脂汗が滲み出た。
「とんだ誤解です、旦那。若様は私にとっちゃ美の神ですよ。崇拝したいとは思っても、色子にしたいとか、そんな下衆の劣情なんぞこれっぽっちもありゃしません。本当です、信じてくださいな」
言葉に嘘の色は感じられなかったが、ブライトは口元の「歪み」を消さずに、戯作者の目玉を睨み付けた。
「それに、惚れたのは若様にだけじゃありません。ソードマンの旦那にもぞっこんなんで」
ブライトが太い眉をあからさまに顰めたのが、エル・クレールには何故か滑稽に見えた。
マイヤーは脂汗を袖で拭い、真率そのものの顔つきで
「不肖マイヨール、人生五十年とすればとうに半分以上は生きてきたことになりますが、旦那のようにちゃぁんと物事をご存じの方には、ついぞ逢ったことがない。これからも多分、いや絶対に無いでしょう。それにね、旦那は私の良くないところを厳しく指摘してくださった。莫迦はただ怒り散らすが、旦那はちゃんと叱ってくれる。そんな有難い人は、亡くなった前の座長夫婦以外に居なかった」
目頭に光るものが浮かんだ。
マイヤーは卓越した演技者だ。自分の目玉から水を絞り出す事ぐらいは、観客を泣かせるよりも容易にしてやってみせる。
今にじみ出た涙が、はたして本物か否か、観ている者には解らない。
エル・クレールは本物と思った。ブライトは少々疑っている。
「私はね、お二方に出会えた奇跡を感謝してる。幸せだと思ってる。旦那、幸せが長く続くことを願わない人間は居ませんよ。そうでしょう? だからね、私はお二方に側にいて頂きたいんです。お願いだ、何も仰らないでくださいな。ただの我が侭だってのは百も承知だ。でも、こんなところで、こんな風に分かれなきゃならないのは、口惜しいことこの上ないんですよ」
言い終えてなお、マイヤーの心中の口惜しさは大きく膨らむ。
『役者にしろもの書きにしろ、私ゃなんて因果な商売をやっちまっているんだろう。どんなに本音を語ろうとしても、全部芝居がかった台詞になっちまう』
洟をすすり上げた。
マイヤーは「クレール若様」の顔を見た。生来心根が真っ直ぐな「少年」は、どうやら自分を信じてくれたらしい。澄んだ瞳で見つめ返してくれている。
うれしさに頬がゆるんだ。が、彼はすぐに視線を外した。別の方向から向けられている眼差しが全身に突き刺さるのを感じたからだ。
マイヤーの目玉は、尖った気配の発信源に向けられた。
ともすれば野蛮にさえ見える田舎侍の皮の下に、思いもよらない叡智を隠した大男が、眉間に深いしわを刻み、射抜くような眼差しで彼を睨んでいた。
その目の色ときたら、まるきり「好いた娘に話しかける色男に嫉妬している小僧」そのものだ。
『若様に劣情を抱いているのはそっちじゃないか』
腹の底で思った。思いはしたが、口にも顔にも出すことはできない。
万が一にも「旦那」に悟られたなら、たとえ命が七つあったとしても、この世に残れる道理がない。
小屋の外でざわめきが起きのは、彼にとって好機だった。
「ああ、勅使の皆様がお着きになったらしい」
マイヤーは聞き手の人差し指を立て、唇にあてがう。
「どうか今しばらくお静かに。すぐに都の方々を芝居の中に引き込みますから、その間に裏よりお出になって下さいまし」
浅く頭を下げたまま、
「後のことは、シルヴィー、お前に任せるよ」
言い残し、後ずさりで楽屋から出て行った。
「すぐに芝居に引き込んでみせるたぁ、全く大した天狗だぜ」
遠ざかる左巻きのつむじを眺めやるブライトのつぶやきは、嘲りのようにも、感嘆のようにも聞こえた。
「確かにプライドの高い男ですが、だからといって、うぬぼれが過ぎているとは言い切れないのではありませんか?」
自身が「すぐに芝居に引き込まれた」エル・クレールは、舞台人としてのマイヤーに好意的だった。
ブライトは小さく舌打ちした。彼女が「チビ助」の肩を持つのが気にくわない。意見してやろうとしたとき、視野の中に舞台化粧の踊り子が入ってきた。
「姫若、プライドってのは罪源ですぜ。度を超した自慢家は、俺から言わせりゃぁ咎人そのものでさぁ」
一座に関わっている間は、あくまで下男の振りを通す心づもりらしい。苦みばしった顔つきが、エル・クレールの目に妙に可笑しく、少しばかり可愛らしく映った。
「その言葉、有難く承り、我が肝に銘じた上で、そのままあなたにお贈りいたします」
「受け取り拒絶させてもらいますよ。俺サマと来たら、姫若にゃ忠実そのものなンだ。あの小天狗と一緒にされちゃぁ困る」
自称忠義者は、顎で楽屋口を指し、わざとらしく下唇を突き出す。
『あなたが忠実なのは己の欲に対してでしょう』
言ってやりたかったが、止めた。エル・クレールの目にも、シルヴィーの姿が映ったからだ。
薄衣を重ねた姫役の衣裳を着た彼女は、舞台の上に居たときよりずっと小柄に見えた。
エル・クレールは微笑んだ。緊張しきりの相手の心をほぐすには、笑みを見せるのが一番良いことを彼女は経験から知っている。
ブライト=ソードマンがそうやって初対面の人物を懐柔しては、己の知りたかった情報からそれ以上の話……時には全く余分な愚痴の類まで……を引き出しているのを、傍らで見てきた。
もっとも、ブライトはその行為行動を全くの「作業」として行っているに過ぎない。
気の良い田舎者の顔、誠実な騎士の顔、零落した貴族の顔――時に応じ、相手に応じて、いかにもそれらしい、人当たりの良い笑顔を面に浮かべる。良くできた作り物の笑顔は、腹の奥にある思惑を覆い隠す仮面だった。
エル・クレールはその点ですこぶる不器用だった。無理に心にもない笑顔を作ろうとすると、大体の場合にこわばった表情となり、誰が見ても作り笑いとわかるものになってしまう。
……と、彼女は思いこんでいる。
実際、彼女の作り笑いは硬く、時に冷たい印象を与えるものだった。しかしその彫刻のごとき微笑が、彼女が思う以上に相手の心を揺り動かす力を発揮することがある。
エル・クレールが口角をごく僅かに持ち上げると、シルヴィーは分厚いドーランの白がバラ色に変ずるほど頬を赤らめた。
熱い血潮が上り詰め、頭がぐらりと揺れた。卒倒しかけた彼女だったが、再び失神する失態を見せるのを恥じる一念が、危ういところで遠のく意識を引き留めさせた。
「君、大丈夫ですか? やはりあれほどの演技の後は、疲れも酷いようだ」
手をさしのべつつ、エル・クレールはまったく見当違いのことを言う。
この世のものとは信じがたい「不可解な美しいモノ」に見つめられ、微笑を向けられた娘の心持ちを、彼女は気付いていないのだ。
隣でブライトが彼女の「鈍さ」に失笑しているが、当の本人には彼の苦笑いの理由がさっぱり解らない。
「ああ若様……お心遣い、ありがとうございます」
差し出された手をおずおずと握ったシルヴィーは、その指先がひんやりと冷たいことに驚き、弾けるように手を放した。
眼がうっとりと霞んでいる。
「思った通り。まるで泉の乙女のよう」
呟いた彼女は、慌てて口を手で覆った。黒目がちな瞳がを泳がせて、あたりを見回した。楽屋は閑散としている。
不安の色濃い眼差しは、最後にブライトへたどり着いた。
鋭い眼光が跳ね返ってきた。
シルヴィーの頬から血の気が引いた。白い顔に幾ばくかの恐怖心を見たエル・クレールが、
「彼は、見た目にすこしばかり厳ついが、意味もなく暴力を振るったりするような男ではないから、畏れることはない」
シルヴィーの顔に一瞬浮かんだ安堵は、すぐさまかき消えた。
「意味があれば子供でも容赦なくぶん殴るし、理由が有れば女だって遠慮なく叩っ斬るがね」
ブライトは一層強い眼力で彼女の顔を睨め付け、声にすごみを利かせた。
「何故そのように無駄に人を怖がらせるような真似をなさるのですか」
エル・クレールが語気を荒げ、首をかしげたのは、呆れゆえではなく驚愕のためだ。
言葉遣いの善し悪しは別として、彼は場を弁えた物言いをすることの得意な男だ。別して女性にはギャラントで、理由もなく相手を怖がらせたりなど決してしない。
彼が人を脅すような口ぶりで話すとすれば、それは彼が相手を脅す「必要」があると判断しているということに他ならない。
エルの疑問はそこにある。シルヴィーを脅さねばならない理由など、彼女には見あたらなかった。
「今日のお前さんがことさら鈍いもンだから、俺がその娘の返答次第で暴れなきゃならなくなるってこってすよ。つまり……」
ブライトは視線を踊り子の青白い顔に投げたままエル・クレールに言い、一つ息を飲み込んだ。
「……ウチの姫若は生まれつき『姫若』でね。これからもずっと『姫若』であり続ける必要がある。それだってぇのに、あんたは『乙女』呼ばわりしてくれたわけだ」
彼はことさら『姫若』の一語を強調して言った。
遠回しの物言いだったが、エル・クレールは理解した。
『この娘が、私を女と見通した』
彼女は少しばかり喜んだ。
この男装の姫君と来たら、並の男よりも雄々しい振る舞いをしておきながら、女として扱われないと不機嫌になるという、酷くややこしい心情の持ち主だ。
父親である大公ジオ三世が男子を欲していた事もあって、彼女は幼い頃から男装ばかり着込まされてきた。男の子にするように剣術や馬術(ただし乗馬ではなく、戦車を御する術)を習わせ、学問を修めさせた。
大公の男子を欲する思いは強いものだった。前の后との間に生まれた皇子を、二人とも幼くして失ったためかもしれない。
年経て生まれた姫皇子に、あろう事か男名前を付けようとさえしていた。
年若く従順な公妃ヒルダは、大凡のことでは夫に逆らわなかったが、娘が男の名で呼ばれることには大いに反対した。
学者を交えての侃々諤々の末、誕生から十日も後に、漸く姫にはクレールという名がつけられた。
ヒルダは愛しい娘に国母クラリスの名と近い響きと意味を持つ名がつけられたことを大いに喜んだ。
夫がこの名に異議を唱えなかった理由が、遙か昔に光り輝ける者と名乗る優れた功績を残した幾人かの「勇敢な男達」が存在したためであるとは、夢にも思いはしなかったろう。
兎も角。
父親からは男子の教育を施され、母親からは人形の如く溺愛されたクレール姫は、男の身なりをしながら女と扱われることを望むという、ややこしい性分となってしまった。
狭く小さな故国の中でならば、そのややこしさも当たり前のこととして押し通すことができた。国中の者達がクレールを「姫」と知っていたのだ。男の身なりをしていたとしても、彼女は童女として愛され、小さな淑女として丁重に扱われた。
国が滅び、仇を追うために己の身分正体を隠さねばならず、「本物の少年」の振りをしているはずの今となっては、それは当たり前とはなり得ない。ある種「我が侭」とさえ言えよう。
我が侭が通らないことを頭では理解している。しかし、思いもしないことを表に出すことは苦手であるし、思っていることを内に秘め通すことも不得手だった。
今日初めて逢った娘が、自分を女と認めてくれた喜びが押さえきれず、エル・クレールの瞳は輝いた。立ち上がってシルヴィーの細い体を抱きしめたい衝動に駆られた。
ブライトは大げさに首をがくりと落とし、
「ほれ、この通りの正直者だ。ウチの可愛い姫若さまはな、命がけで隠さなきゃならねぇ秘密でも、胸の内に納めておくのが苦手な方なんだよ。そこが良いところなンだが、そうも言っちゃぁいられない」
顔を伏せ、落胆の声を上げた。
彼の目元と口元に浮かんでいる歪みを、嬉しげで優しい笑みと見たのはエル・クレールだけだ。
下から覗き込む角度で自分を睨む眼光は、シルヴィーには威圧以外の何物とも思えない。
「俺にはね、あんたの口を無理矢理塞ごうなんて気は更々ないのさ。そんなことをしたら、俺が姫若に叱られちまうからね。でも確認はしないといけないンだ。解るだろう?」
低く小さな声が床を這い、足下から聞こえた気がした。シルヴィーの奥歯が鳴った。
「わたしの……勘違いでした。若様が姫様に見えたのは、わたしの思い違いです。わたし独りの……独り合点でした」
ブライトが顔を上げた。破顔していた。ただし、奇妙にこわばった笑顔だった。
どこから見ても作り笑いだと解る顔だ。
誰が見てもそうと解らない自然な笑顔を平然と作ることができる男が、わざとらしく笑ってみせるのは、硬い笑顔を脅迫の道具として使うために他ならない。
彼の思惑通り、シルヴィーは彼の怒りが収まっていないと感じていた。何もかも正直に言わなければ、どんな恐ろしい目に遭うか知れないと思いこんだ。
「まさかその勘違いをだれぞに話したりしたなんてコトは、しないだろうね?」
問われて、彼女は小刻みに首を縦に振った。
ブライトの笑顔が、一層硬質になった。
「もう一つ訊かせて貰うよ。大体、どうしてそんな勘違いをしたンだね?」
それこそが一番の問題点だった。
確かにエル・クレール=ノアールは剣士としては細身で小柄だが、女性としてはむしろ大柄の部類に入ろう。
背丈は同じ年頃の娘達よりもゆうに頭一つ分は高いし、肩幅も拳二つ分は広い。
どちらかというと着やせする体型であり、また、男物の衣服では腰を締め付けたり胸を持ち上げたりすることがないが故に、胸元や腰回りの丸みは目立たない。
実用性を重視するのが好みであるから、身につける物全般について、デザインはすこぶるシンプルな物ばかりとなる。いわゆる「女性らしい華やかな装飾」は、むしろ毛嫌いさえする。
それでも、女性である。顔立ちは当然女性的だ。が、化粧気もなく髪型にも頓着しないものだから、柔らかい面立ちであっても年若い「少年」であると主張すれば、皆納得する。
だが、シルヴィーは女と見破った。
ブライトは気に入らなかった。
彼女が女であり、そして四年も昔に死んだはずのミッドの公女であると他人に知れることは、彼女の身の安全のためにあってはならない。
それになによりも、
『つまらない男物の布っ切れの下に、信じられねぇくらい可愛らしいおっぱいとおしりが隠れてるってぇことを、他の野郎に知られてたまるか』
不機嫌が募る。
シルヴィーにこの男の歪んだ独占欲などに気付くことができるはずもない。押さえ込んだ声の問いに一層震え上がった。
「目が……」
歯の根の合わない口が、一言だけ吐き出した。
「目?」
ブライトと、エル・クレールが、異口同音に言った。シルヴィーはまだ震えていたが、
「私は……マカム族の出です」
先ほどよりははっきりと聞き取れる一言を返すことができた。
ブライトが眉頭を寄せた。
「マカム族たぁ南方系の放牧民族だろう? 近頃は定住政策とやらいう帝国式のお節介の所為で、元いただだっ広い草原から追ん出されて、居住区なんていう勝手な線引きの内側に、一族か精々部族の単位で押し込めらちまっている筈だが」
彼は頭の隅で大陸の地図を広げた。
ギュネイ帝国では帰順させた「少数民族」たちに対して家族単位で幾ばくかの土地を「与え」ている。
彼らが団結という力が得ぬように、細かく切り離し、さらには身動のとれぬように封じ込めるのが目的だ。
シルヴィーは口を引き結んで頷いた。一つ深呼吸をし、彼女はゆっくりと話す。
「マカムの女達は人前に肌を晒すことを禁じられております。脚も手も、顔も、どうにか目だけが外から見えるベールで覆うのが決まりごとです」
言い終わらぬうちに、エル・クレールが懐かしげに声を上げた。
「あれはとても優美な姿でした」
ブライトはちらりとエル・クレールを見た。
眉尻が下がっている。
切り刻まれた血族たちは、大陸全土の「居住区」に散らされ、生きている。その小さなコミュニティが、
『ミッドの中にもあった、か』
ミッド公国は「御位を失った前皇帝への捨て扶持」として、二十余年前に建てられた国だ。その地に元々住んでいた……というよりは、大公一家よりも先に押し込められていた……のが、件のマカム族だ。
彼ら閉じこめられた同士が争うことなく暮らせたのは、新たにやってきた領主が前朝の皇帝であるジオ三世だったからに他ならない。
マカム族を初めとするいわゆる少数民族の多くは、ハーン帝国に好意的だった。
皇帝であった頃のジオ三世がマイノリティを厚遇していたというのではない。むしろ彼らに朝貢を強いたし、文明化と称して強引にハーンの言葉や風習を強制的に学ばせることもあった。
ただ、生来温厚で争いごとを好まないラストエンペラーは、彼らをどこかに押し込めたり、彼らの習慣や信仰を野蛮と切り捨て、それを禁ずるような、性急な政策を採用することがなかった。
今の世と比べればあの頃は良かった……比較論であり、郷愁の類でもある。それでも人々はハーン皇帝に親近感を抱いた。
ミッドに移ってからも彼がやり方を変えなかったのも、マカムの民を喜ばせた。この土地にいる限り、彼らは迫害されないと知ったからだ。
彼の政は画期的な善政とはいえぬが、悪政ではない。
マカムの民は、マカムの神々を信仰しつつハーンの皇帝に仕えていることに矛盾を感じなかった。
山の中の小さな盆地では、マカムの風習とミッドの習わしと、少しばかりのギュネイのやり方とが、大理石の模様のように絡み合っていた。
小さな衝突は確かにあったろうが、それが決定的な亀裂に発展することはなかった。
彼らは皆、ミッド以外で暮らすことの許されぬ者達であった。
ジオ三世は、新皇帝に命じられて彼らと共に赴任した、いわば親ギュネイ派から文官の長を、マカムの中から武官の長を選出した。
ミッド時代から仕えている家臣達を高位に付けることを避けたことに、人々は公正さを感じた。
それでも、一人娘の学友にマカムの娘ガイア=ファデットを選んだことは、流石に国民を驚かせた。
シルヴィーの顔にも、驚きが広がっていた。
「今の御上はマカムの装束を禁じておりますから、ギュネイの貴族の方はあれを見たことなんてないと思ってました」
「ドレスなどよりは、余程着心地が良い……などとは、私自身が言っては、いろいろな意味で良くないけれども」
エル・クレールはちらりとブライトの顔を伺いつつ、声を潜めていった。聞こえていることは承知している。
「ヒトがこれだけ『フォロー』しているのに、テメェから身元を明かすようなことをぽろっと言っちまうってのは、どういう了見だ」
ブライトは文字通りに天を仰いだ。
女であることを黙っていろと言うのではない。大体、シルヴィーにはとうに露顕しているのだ。
確かに言うよりは言わぬ方が幾分か良いではあろうが、言ってしまっても今更それほど問題にはならない。
異民族の衣服を着ることが許される環境に育った貴族の子女であることを、暗に明かしてしまったことのほうが重大だ。
情勢に明るく察しのよい者であれば、その条件だけで充分彼女の正体を推察しうる。
そのような土地はミッド以外にあるはずがない。そのような娘は死んだはずのクレール姫以外にいよう筈がない。
ブライトは顎を天上に向けたまま、目玉をシルヴィーに向けた。
それがシルヴィーには恐ろしく不気味な顔に見えた。身震いし、慌てて頭を振った。
彼女は姫若の『本当の正体』には、つゆほども気付いていないようだ。縦んば察していたとしても、脅しが利いている。彼女が誰かにそれを話す畏れはないと断じていい。
ブライトの目玉は、迂闊で思慮の足りないくせに妙なところだけ勘の働く、それでいて鈍い姫君の方へぐるりと動いた。
彼女に悪びれた様子はまるきり無かった。
「本当に、お前さんは俺サマが付いていないと危なくてしょうがねぇや」
うなだれるように頭を戻した彼に、エル・クレールは
「頼りにしています」
微笑を返した。
真っ直ぐな視線が面はゆい。ブライトは自分の頬が熱を帯びたのを感じた。
「ったく、子供のクセにここンところ妙に色気付きやがって」
舌打ちした。その子供に
『どうやらマジで惚れている』
らしい自分のガキっぽさが、気恥ずかしかった。
ブライトは大きなため息を吐き、
「それで? マカムの装束とウチの姫若のことと、なんの関係があるって言うんだ?」
シルヴィーに話の続きを促した。照れ隠しの強い口調が、茨の棘のように突き出ている。
「部族によってはそれほど厳しくはないのですけれど、マカムの女は肌を人目にさらしてはいけないことになっています。手足は元より、顔であっても、男性がいるところでは見せてはいけないと……。だから、頭からすっぽり布を被るような服装になります。それでも外歩きをするにはものを見なければなりませんから、目の所だけホンの少し開けるような形になります。つまり、外から見えるのも目の回りだけになります」
しどろもどろに言いつつ、シルヴィーは、恐ろしい顔つきでこちらを伺い見ている大男から、ホンの少しでも離れようと努めた。
ダンサーに特有な強靱な足の裏の筋肉をそっと動かし、僅かな力だけで、少しずつ立っている位置をずらす。
「装束は誰が着る物もほとんど同じデザインですので……家ごとに幾分か飾り刺繍のパターンが違うことはありますけど、色や形はほとんど同じで……ですから、見えている目の色や形だけで、それが誰であるのか区別しないといけません。知っている人のことはもちろん、初めてあった人のことも、目で判断しないと駄目なんです。年をとった人なのか、子供なのか、亭主持ちなのか、嫁入り前なのか、そういうことも目を見れば大体判ります。ですから若様のことも、初めてお顔を見たときに眼差しがとても『女性的』に見えましたので、最初から、もしかしたら、と思っておりました」
言い終わった頃には、彼女は二歩分も横に移動していた。
「目だけで?」
エル・クレールは思わず己の目元に触れた。首を伸ばし、壁際の、踊り子達が使う錫鍍金が剥げかけた青銅の鏡を覗き込む。
痩せた、目つきの鋭い「少年」の影が、不思議そうにこちらを見つめ返していた。
「マカムの人には区別がつくのですね……」
落胆と感心が混ざったため息が漏れた。
と、彼女の視界が突然閉ざされた。汗のにおいがする布が、頭から上半身にかけてをすっぽりと覆っている。
「それじゃぁ今後は、可愛い乳とケツだけじゃなくて、綺麗な目ン玉を隠す方法も考えねぇといけねぇな。まったく、面倒臭ぇったらありゃしねぇ」
いつの間にか上着を脱ぎ、それを「主」の頭にかぶせたブライトは、もがくエル・クレールの身体を、さながら丸太を担ぐがごとく方に持ち上げ、立ち上がった。
「何事ですか?」
くぐもった声に、彼は
「どうやら戯作者殿の作戦は見事なまでに失敗だったようでね」
忌々しげに答えた。
十一.忠臣
芝居小屋の客席の方向から、楽屋の通用口を通り抜けて、不安げなざわめきが漏れ聞こえてくる。
ちらりと通用口を見た彼は、空いた手でそちらを指し示し
「ちょいとお願いだ、プリマドンナ。あっちから『お客さん』が入ってきそうなんだが、百数える間だけ引き留めてくれないか?」
シルヴィーの返事を聞く前に、ブライトはエル・クレールを担いだまま駆け出した。天幕の、出入り口用のスリットが入っている方向ではなく、太い杭でピンと張られた「壁」の側に向かっている。
肩の上で足掻いていたエル・クレールが、暴れるのを止めた。
腐臭がする。鼻ではなく、脳そのものがそれを嗅ぎ取っている。赤黒く、息苦しい威圧感が足下にまとわりつき、背中を這い上ってくる。
元凶は蝸牛のようにゆっくりと移動している、とエル・クレールには感じられた。
「死者の、気配……」
呟いた。ブライトの足が止まった。
「コイツではなく?」
上着の中に拳を突っ込む。薄暗闇の中、指と指との僅かな隙間から、ほの赤い光がにじみ出るのを見たエル・クレールは、首を否定の形に振った。
「このあたりに、他のが湧いて出たか?」
古びた上着が小さくうなずいた。
「二つ……二つの気配が一つに繋がっている」
「今日はなんて厄日だ」
ブライトは担いでいた「荷物」を放り投げた。
「若様!?」
小さく悲鳴を上げるシルヴィーの眼前に、上着を引き被ったままのエル・クレールが蜻蛉を切って着地した。
「どっちだ?」
舞台の方向を睨みながら、ブライトが問う。エル・クレールは彼の上着を出口に向かって投げつけた。
上着は帆布に当たると同時に、切り裂かれて落ちた。
シルヴィーが悲鳴を上げた。転げるようにエル・クレールの背後に隠れる。
「ヒトの一張羅を駄目にてくれるとは、ホントにこの姫若様はどうしようもないお方だよ。罰として、助けてやらねぇから気ぃ入れて片付けろ」
言いつつ、ブライトは裂けた上着とは、まるで逆の方向を見やっていた。
舞台の方角から、物の壊れる大きな音が聞こえる。怒声、悲鳴、恫喝が混じったそれは、ただならぬ事態を知らせていた。
ちらりと「出口」の側を見た。
銀色に光る刃物が、テントの布地を縦横にに切り裂いた。人間一人が通れるほどの穴からぬっと現れたのは、
「勅使の腰巾着」
ヨハネス=グラーヴがイーヴァンと呼んだ若者だった。
充血により赤く澱んだ眼球が落ち尽きなく動く様子や、眉間から鼻の頭にかけて不快と興奮の縦皺を刻んだ顔立ちは、常軌を逸していると言えなくはない。だが彼は、肉食獣がアルコールを飲んだような口臭をまき散らし、肩を大きく上下させ、呼吸をしている。
『クレールはコイツのどこに屍体の臭いを嗅ぎ取ったってンだ?』
疑念はあった。だが、今朝から彼女は生ける屍を見極める感覚がひどく乱れている。
真鬼か人鬼か、あるいは別な「生きていない物」の気配を感じ取ったのは間違いないだろう。ただし、暗闇で目隠しされているに等しい不確実な「視覚」が捕らえたものだ。
『近くにいるとすれば、むしろ向こうの方が、怪しい』
ブライトの目玉は舞台の方角に戻った。
ほとんど同時に、イーヴァンが吠えた。
「斬るっ! ヨハンナ様の心を動かす者は、皆斬るっ!」
長大な剣が風を切った。エル・クレールが身構えている場所から三歩離れた床面に重い鋼の切っ先がめり込んだ。
貧相な床材の破片と細かな土埃が、猛烈な勢いで飛び散った。乾いた大地の微細な破片が朦気なって立ちこめる。エル・クレールの視界はふさがれた。同時に、仕掛けたイーヴァンからも気に喰わぬ小僧の姿が見えなくなった。
決して、でたらめな攻撃ではない。
飛び散った埃から逃れようとするならば、左右どちらかか後ろに飛び退くか、目を閉じ、腕をかざして避けるかしなければならない。
前の策を採れば反撃のタイミングがずれる。後の策を採れば次の攻撃を見極めることができなくなる。
エル・クレールの背後には、突然の乱入者におびえるシルヴィーが居る。飛び退くとすれば左右のどちらかの、空間がより広く空いている側となろう。
イーヴァンの血走った眼球は右側に動いた。
少年顔をした細身の剣士がそちらに移動した気配はない。
となれば、標的は同じ場所に止まり、土埃の中で目を閉じ顔を覆っているに違いない。
はたして、埃の向こうにうずくまる人影がうっすらと見える。
「おおぅ!」
若い貴族は策の成功と勝利を確信し、雄叫びを上げながら勢いよく踏み込んだ。長剣は再び弧を描いて振り下ろされる。
剣が硬いものに当たった。
鞘に収まった一振りの細身の剣が見えた。イーヴァンの太い剣と垂直に交わった形にあてがわれている。
障害にはならなかった。こともなく両断してなお、剣の勢いは増した。そのまま叩き付ける。
床に二つめの穴が開いた。
再び湧き上がった砂埃の中から、細い物が飛び出した。
イーヴァンの目は、反射的にその物体を追っていた。
細身の刀の鞘だ。半分に両断された石突の側だけが、軽い音を立てて床に落ちた。
鞘の断片は床の上を回りながら滑り、中身を吐き出した。
剣の切っ先の形をした、茶褐色の木ぎれだった。
イーヴァンは驚愕をそのまま声にした。
「木刀だと!?」
昼間、チビ助(エル・クレール=ノアール)はあの剣で己の攻撃を受け止めた。あの剣で己の剣を押し戻した。
「木刀で、だと!?」
もう一度叫んだ。
目玉を土埃に戻した。小柄な影がうずくまり、震えている。
土煙が徐々に収まったその場所にあったのは、細く、華奢な踊り子の蒼白な顔だった。
「なッ……おおぅっ!」
イーヴァンの喉から苦痛の声が絞り出された。上腿に激痛を感じる。
下を向いた。筋肉の膨張した太腿から、質素な作りの刀の柄が突き出ていた。
見覚えがあった。
「チビ助の、刀!?」
イーヴァンは叫んでいた。
「刺さっているのか? 木刀だぞ!? 木切れが、私の身体に……俺の筋肉にっ!?」
白金色の光の束が、身体の横を通過するのが見えた。
イーヴァンは首を回し、その影を追った。
青い上着の裾がちらりと見える。エル・クレールの服だ。
信じがたかった。
おそらく自分よりも年下で、間違いなく自分よりも腕力のない小僧が、彼の予測を遙かに超えた力量と動きを見せたことが、イーヴァンには理解できない。
言いようのない屈辱を己に感じさせているのは、本当にあのチビ助なのか? 信じられるものか、この目で見るまでは――。
身体ごと振り向こうとする動きは、しかしすでに封じられていた。
背中に何かが押し当てられている。硬く尖った切っ先が、衣服の上から背の皮膚にちくりと刺さる。
肋骨の少しばかり下だ。切っ先の向けられた先には、肝臓がある。
刺し貫かれれば、ただでは済まない。
動けない。
イーヴァンは息を呑んだ。
肩越しに背後を窺い見ると、丸く小さな肩と、そこから繋がるほそやかな腕が漸く見える。
そして長い髪が、水にさらしたヘンプの色の髪が、光をはじいて揺れていた。
「君、痛みを感じるのですね?」
エル・クレールが問うた。
「自分でやっておいて、何を言うか」
イーヴァンは忌々しげに言い捨てた。
だがそれ以上のことはできない。少しでも身動きしようとすると、背にあてがわれた「何か」が皮膚に与える鋭角な刺激が強くなる。
背後の敵は、あがらう権利も、腿に突き刺さった木刀の柄を抜く自由も、彼から奪っている。
「急所は外している。腱や太い血管には傷が付いていないはず。安心なさい。私は人間には死ぬような傷を負わせることが元よりできないのですから」
不可解な言葉だった。
だがイーヴァンにはその不可解さが何であるのかを考える余裕はなかった。
言葉そのものよりも、言い振りの方が癪に障ったからだ。
目上の者が物を知らない子供に語るような、上から抑え込む凛然さがある。
なんたる辱めか。
イーヴァンの腑は煮えくりかえっていた。
その言葉をささやくチビ助の声が、妙に甘い色音だと言うことが、そしてその言葉で僅かに安堵を得た自分が、腹立たしい。
「……もう一度聞きます。私に刺された脚が痛むのですね?」
エル・クレールは念を押した。
返答はない。
だが、大柄な体つきにしては妙に細い顎がぎりぎりと軋み、脂汗が珠と吹き出しているその状態こそが、肯定の回答であることを、背にぴたりと密着して立っている彼女は理解できた。
「赤い石を、持っていますか? 拳ほどの丸い珠……あるいは小さく砕かれた欠片かも知れぬけれど」
イーヴァンの肩が大きく痙攣した。
大柄な若者の背は、吹き出した汗でぐっしょりと濡れるている。
彼は口を利けなかった。
目が霞んでいる。意識が揺れている。
原因は腿の傷ではない。背に突きつけられた「鞘の残骸」への恐怖でもない。
胃の腑が熱い。
エル・クレールが発した「赤い石」という言葉を聞いた途端、イーヴァンの胃の中で何かが燃え上がった。
形のないどろりとした存在が、胃の腑の壁を焼いて渦巻いているように思えた。
やがてその何かは胃袋の中で一点に固まり、形を成し、重さを帯びた。
異物が腹の中で暴れている。
猛烈な吐き気に襲われたイーヴァンは、前のめりに倒れ込んだ。
床に両手を突いて這いつくばり、喉の奥で気味の悪い音を立てる。
饐えた液体が床を汚して広がった。
嘔吐物の中に、形のある物はない。
イーヴァンはなおも腹の中の物を戻し出そうと喉を絞った。
彼の口からは、血の混じった粘液が僅かに溢れるばかりだった。
力の失せた両腕は彼の上体を支えきれず、彼は己の吐瀉物の水たまりに顔面から崩れ落ちた。
痛みの方角が背中向いた。
刃物で斬られる鋭い痛みとは違う。
重く固まりで押し潰され、無理矢理に引き裂かれる、そんな鈍く苦しい痛みだ。
何かが、骨を突き通って、肉を突き破って、背中に突き抜けてゆく気がする。
「たす、けて」
イーヴァンは喘ぎの中に消え入りそうな悲鳴を上げた。
彼の身体は小刻みに、不自然に震えていた。
恐怖ゆえの顫動と、痛みと苦しみが起こす痙攣、そしてそれらとは別の不可解な振動が、彼の身体を揺さぶっている。
エル・クレールは身構えた。
この若者の腹の中に「何か」がいる。
魂のない、心のない、遺志のみで蠢く「物」がいる。
イーヴァンとその中にいる「物」に神経を注ぎつつ、彼女は視線をブライト=ソードマンに向けた。
彼も身構えていた。ただし、その備えはイーヴァンに対してのものではない。
舞台に向かう出入り口の近くに立ち、瞑目し、耳を壁に付け、伝わってくるかすかな音を聞いている。
機材が置かれた細い通路の先、踊り子達と生意気な戯作者がいるはずの空間からは、今のところ「異常な音」は伝わってこない。
だが、何かが起こる気配がする。その予感が、ブライトをその場に縛り付けていた。
こちらへの助太刀は、期待できない――エル・クレールの視線は床に落ちた。
小柄なダンサーが床にぺたりと座り込んでいる。紅を引いた唇が小刻みに震え、奥歯が小さく鳴っていた。
恐怖に濡れるシルヴィーの瞳がエル・クレールのそれに縋りついた。
「ここから離れなさい。できるだけ遠くへ」
エル・クレールは静かに言う。しかしシルヴィーは動こうとしなかった。
舞台側の出入り口には巨躯の剣士がただならぬ形相で立っている。
外へ出るために、切り裂かれてぽっかりと穴の開いた「出口」へ向かうには、尋常ならざる状態で打ち倒れている見知らぬ男の傍らを抜ける必要がある。
どちらの男の肉体からも、近付きがたい不穏な空気が立ち上っている。
何が起きているのか、何が起きようとしているのか、シルヴィーにはまるきり理解できないし予想もしようがない。
しかし彼女は、自分の力の及ばない「恐ろしいこと」が起きているらしいと、感じ取ることができた。
感覚が鋭敏に過ぎるのだ。一流の表現家には必要な感性ではあろうが、今この場ではむしろ邪魔となっている。
『出口がふさがれている』
シルヴィーは思い詰めてしまった。胸の前で祈るような形で手を組み、首を振る。
正体のわからない恐怖に押し潰された彼女の心は、手足を動かすことを拒否している。
瞼を閉じた。押し出されるように、涙がこぼれ落ちた。
その儚げな美しさに、同性であるエル・クレールが、一瞬心奪われた。
その一瞬がなければ、彼女は捕らわれる前に、あるいは迎撃ができたやも知れない。ほんの一息、瞬き一つの間が、彼女の直感を鈍らせた。
イーヴァンが悲鳴を上げた。煉獄の業火に炙られる亡者が、怨嗟と痛悔とをない交ぜ泣きして叫んでいるかのような彼の声を、文字に起こすことは不可能だ。
驚いて視線を戻したエル・クレールの目に腕の形をした物体が映った。カップの底に残ったショコラに血を混ぜたような赤黒い色の表面には、ぬるりとした光沢がある。
腕はイーヴァンの身体から出ていた。
肩からではない。背中だ。衣服を突き破って生えている。
腕は、真っ直ぐにエル・クレールに向かって伸びた。
文字通りに伸びたのだ。
関節であるとか、筋肉であるとか、腱であるとか、そういう形のあるものでできている当たり前の「人間の腕」にはあり得ない動きをした。
かわしきれなかった。腕はエル・クレールの胴から肩、そして首にかけて巻き付き、彼女の身体を締め上げた。
掌の形をした突端が、彼女の後頭部をつかみ、覆う。
彼女の頭は押さえつけられ、イーヴァンの背に覆い被さる形に引き寄せられた。
彼の背中は磨かれた石の表面そのものだった。質の悪い赤鉄鉱の鏡面には、無数の脈を打つ赤い筋が条痕さながらに浮かび上がっている。
エル・クレールの顔面は、イーヴァンの背中から拳一つほどの高さで止まっている。暗い鏡面の赤く粗い網目の中に、彼女の顔が写り込む。
不覚と苦痛に歪んでいた顔が、ふっと笑った。
エル・クレール自身の顔の上には浮かぶはずもない、優しげな、しかし冷たい微笑だった。
青黒い唇が、ゆっくりと動く。
「そう、やっぱり、そういうことだったようね。うふふ、思った通りだわ……」
鏡の向こうの虚像が、独り得心している。
「つまりは、あなたはアタシだということ」
ねっとりとからみつく声で、嬉しげに言う。
エル・クレールの背筋に悪寒が走った。虚像の眼が、赤く揺れる。
「アタシは、二人もいらないわよねぇ」
黒い鏡の中から、何か向かってくる。腕の形をしているようだが、あまりに勢いが早く、正確な形を掴むことはできない。
しかし形状のことなど、エル・クレールには考える余裕もつもりもなかった。爪の伸びた先端が、心の臓に向かって突き出ようとしている。
一閃。赫い光が彼女の体の周囲で弧を描いた。
悲鳴が二つ上がった。
一つは、エル・クレールの体の下で。
イーヴァンが、屠られようとしている獣のそれに似た声を出して、苦しんでいる。
もう一つは、離れた場所で。
誰かが、地の底から響く死霊のそれを思わせる声を出して、狂喜している。
エル・クレール=ノアールは右手に赤く輝く細身の剣を持っていた。
彼らのような「鬼狩人」と呼ばれる者達、そして「鬼」と呼ばれる物達が【アーム】と呼ぶ、物質でない武器だ。
それを人の命そのものだと言う者もいる。大抵のそれが、「この世に未練を残して逝かねばならなかった者」が、亡骸の替わりに残していったモノだからだ。
事実か否か、だれにも判らない。
確かめようがないのだ。
所持者と成った人間が、手中の【アーム】に問いかけても、彼らは応じてくれない。
片膝を床に落とし、呼吸を整えつつ、エル・クレールは体にまとわりついていた二本の「腕」を引っ掴み、投げ捨てた。
床に落ちた「腕」は、初め切断面から腐汁を流し出していたが、やがてそれ自身が、黄色みを帯びた濁った茶色の、粘りけのある、強烈な臭気を発する液体に変じた。
傍らでのたうち苦しむ若者の背を見やると、黒い鏡の中に、エル・クレールの顔をしたモノの、恍惚陶然と蕩けた表情が映し出されていた。
その顔が、次第に小さくなってゆく。
黒い鏡面が縮んでいるのだ。泥水が地面に吸い込まれるように、水たまりが陽光に乾されるように、鏡が狭まっていゆく。
イーヴァンが血反吐をまき散らすのとほとんど同時に、鏡は消えた。
若者の背中は、骨の浮いた生白い「人の肌」に戻った。
頸動脈に指を添えた。エル・クレールの指先に、かすかな血潮の脈動が感じられた。
「生きている」
彼女はイーヴァンの耳元に唇を近づけ、一言、
「気を確かに」
彼はうつろな目を泳がせた。
光背を頂いた人の影が霞の向こうに見えた気がする。その人は、柔らかく、力強く、微笑んでいる。
イーヴァンは体の芯に熱い力がわき起こってくるのを感じた。
「案ずるな、君は助かる」
エル・クレールは断定的に言った。
身を起こそうとするイーヴァンを押し戻し、汚物の海をよけて仰向けに横たえさせると、彼女はシルヴィーを捜した。
先程来と同じ場所で、同じ姿勢のまま、彼女は座り込んでいた。
「君一人では逃げられぬか?」
静かな声で聞かれ、シルヴィーは小さく頷く。エル・クレールは続けて
「ではここで、この人を看ていてください」
今度は首を横に振った。
腐臭を漂わせる「化け物」の側にいることなど、恐ろしくてできるはずがない。
「大丈夫。魔物は私が退治した。彼は人間に戻った……いや、元より人間だった。お願い、助けてあげてください」
エル・クレールはシルヴィーの返事を聞く前に立ち上がった。瞼を閉ざして静かに呼吸するイーヴァンの体を飛び越えると、彼女は楽屋出口へ走った。
先ほどまでそこに立っていた男の姿は消えていた。
開け放たれていた形ばかりのドアを抜け、通路へ飛び出す。
無造作に置かれた書き割りの風景の前を駆けて遠ざかる、ブライト=ソードマンの背が見えた。
舞台に向かって折れ曲がる時、彼は横顔に小さな笑みを浮かべ、急に足を速めた。
相棒が追ってくること、すなわち任された仕事を成し得たことに安堵していた。
十二.戯作者の憂鬱
僅かばかり時を戻そう。
いつまでも見つめていたく、どうにも手放したくない二つの「宝」の見張り番を、不承不承シルヴィーに任せたマイヤー=マイヨールは、楽屋を出ると一つ深い息を吐いた。
両の手で己の顔を覆い、そこにいつもどおりの外向きな笑顔があることを確かめ、彼は狭苦しい通路を進んだ。
埃っぽい空気をゆらして伝わってくるざわめきの元は、どうやら舞台の上にあるようだ。
『阿婆擦れ共め、踊っていない間は喰っ喋っていないと気が済まないと来ていやがる』
心中で口汚くののしる。罵詈も雑言も確かにマイヤーの本音だが、だからといって彼が踊り子達や裏方達を蔑視しているわけではない。
戯作者・演出家としてのマイヤーは劇団員達を信頼している。
彼がややこしい台本を書いても、あるいは相当に厄介な振り付けをしても、彼女らは……小さく貧しい劇団故の技術不足は否めないながらも……彼が満足できる演技をしてみせる。
踊り手・出演者としての彼も同僚達を大いに尊敬している。
我が侭な演出家の、突拍子もない振り付けを、文句を言いつつやりこなす彼女らの職人気質は、彼には真似のできないことだった。
なにしろ、演技者としてのマイヤー=マイヨールときたら、自分ができぬと思いこむと、演出家(つまりマイヤー自身のことだが)の指示を無視して、ジャンプの高さやターンの回数を勝手に減らしたり、何食わぬ顔をして大切な振り付けを端折ってしまうような、困った怠け者だ。
文句を言いつつも三十六回の連続回転を、何とか見られる形に成し遂げる踊り子達の真摯さには、畏敬の念さえ抱く。
確かに彼らの多くは文字さえ読めず、従って学もなない。
博奕癖、酒癖、女癖、男癖が、どうしようもなく悪い者もいる。
世間様に向かっておおっぴらにはできないような「仕事」をしている者だって、いくらか混じっている。そういう連中が持つ人脈が、劇団を助けてくれることもないとは言えないが、むしろ大きな厄災を招き込むことの方が多い。
そんなことはしかし、マイヤーにはどうでも良いことだった。少なくとも、いまここにいる連中は、マイヤーにとって誰一人欠けてもらっては困る、大切な仲間だ。家族といっても良い。
「いや、一人だけ、どうに要らない余計者がいるか」
舞台袖からこっそりと観客席を覗き見た彼は、その「要らないの」の禿頭を見つけて首を振った。
小男だがでっぷりと太ったフレイドマル座長は、落ち着き無く体を揺すっている。
三歩離れた隣に、黒ずくめの細い影が立っていた。黒い鍔広の帽子と、未亡人がするようなヴェールで顔を覆い隠してはいるが、そこからちらりと覗く妙に赤い唇を、マイヤー=マイヨールが見まごうはずがない。
『男女のグラーヴ』
知識勝負の戯作者であるマイヤーは、お城の中で退屈に過ごす人々の中で、男女とも厚化粧をすることが当たり前に行われているということを知っている。
だから、勅使グラーヴ卿が顔を白く塗り、唇を真っ赤に描くことを不思議とは思わない。
大体、彼自身役者の端くれであり、舞台に上がるときには、当たり前に白粉を叩き紅を引くわけである。普段であっても、化ける必要があると思えば、頬紅を入れ、眉を描くことを厭わない。
だからこそ、というべきであろう。
だからこそ、マイヤーはグラーヴ卿の化粧に違和感を覚えた。
『近頃の都の流行は、私のような田舎者には到底理解できないねぇ』
顔の造作も元の肌色もまるきり無視して、顔中に軽粉(水銀粉)をべったりと塗り、口の周りを辰砂(硫化水銀)で縁取る極端な化粧は、マイヤーの感覚では日常生活には見合わないものに思えた。
神殿で儀式をする巫女、あるいは薄暗い舞台に立つ役者や踊り子といった、神懸かりの憑代であれば、合点がゆく。美しいが薄ら寒い顔つきは、この世で生きる人間を表すにはふさわしくない。
あるいは、グラーヴ卿が実は覡の側面を持っているとでも言うのであれば、腑に落ちなくはない。ただしそんな話は、少なくともマイヤーの耳には聞こえていない。
『同じ「男とも女とも判らぬ」お人でも、クレールの若様とは大違いだ』
楽屋に残してきた若様の少し日焼けした顔を思い起こしたマイヤーは、思わずちいさな笑みをこぼした。
作り物じみてで人形のそれにさえ見える硬い笑顔を浮かべ続けるグラーヴ卿の側で、厄介者のフレイドマルは忙しなく足踏みをしていた。
広い額が脂汗でテラテラと光っている。それでいて、薄っぺらな唇はかさかさに乾いているらしい。愛想笑いの合間に何度も舐めていた。
辺りを見回す目玉は、不安げに宙を泳いでいる。誰かを探している。自分を助けてくれる者を求めている。
彼の空虚な視線が探し求め、探しあぐねている人物は
『この私、だろうねぇ』
マイヤーは、自分の不始末の片を付けあぐねる頼りない「上役」に呆れ果てた。
そしてふと、このまま出て行かずにいたら、あの禿はどうするだろうかと思った。
まず間違いなく、フレイドマルの顔色は白粉まみれのグラーヴ卿と見まごうくらい蒼白になるだろう。
足下には、緊張が流れさせる脂汗と恐怖が漏らさせる小便の混じった、薄汚い水たまりができるに違いない。
大げさで見苦しい貧乏揺すりと身震いで、元々低い背丈をさらに磨り減らすがいい。
いっそ虫けらほどの大きさになってしまええば、人を下に見てふんぞり返る真似もできなくなる。自分でこしらえた足下の汚水で溺れてしまうえばいいのだ。
そこ意地悪い笑みが彼の顔面を覆った。
『試してやろうか。まずは百を五つ』
マイヤーは右の手首に左の指先を添えた。己の脈で「正確な五百数えるだけの時間」を計ろうというのだ。
ところが正確さを求めてした脈取りの当ては見事に外れた。
脈動が普段より五割は速い。
悪餓鬼のような悪戯心に興奮している自分のばかばかしいさまに、彼はむしろ少々愉快な気分を感じた。
風景幕にくるまって隠れつつ、笑いで肩を揺するマイヤーに、痩せた年増の踊り子が一人、声をかけた。
「センセ、あまり坊ちゃんを苛めなさんな。わたいに免じて、ここは許しておやんなさい。事が済んだあとで、わたいがたっぷりお灸を据えてやるからさぁ」
彼女も苦笑いしている。骨張った手を拳に握り、頭を小突く手振りをした。
この五十に手が届こうかという団員はルイゾンという名で、先代の座長、つまりフレイドマルの父親の頃から一座に所属する最古参だった。
周囲の者は尊敬を込めてマダム・ルイゾンと呼んでいる。もっとも、ルイゾンはファーストネームだし、なにより彼女は一度だって結婚をしたことがない。従ってこの呼び方は相当に奇妙なものだ。
それでも、皆が呼び慣れ、当人も呼ばれなれてしまっているため、その奇妙さに違和感を感じる者は、劇団の中には一人もいない。
マダム・ルイゾンは美人とは言い難い面相をしている。演技者としてもどちらかといえば地味な存在だ。
彼女は若い頃から端役脇役ばかりを演じ続けている。舞台の中央で喝采を浴びたことはない。
逆に、脇役であればどんな役でもこなすことができた。もし、早着替えの時間とタイミングさえあれば、一幕の間に十役を演じ別けることもできるだろう。
器用の後ろに貧乏が付くような踊り手だ。
しかし一座にとっては必要不可欠な人員だった。どんな演目も脇を固める彼女がいなければ成り立たない。
舞台の端から全体を見渡し見守り続けた彼女は、最長老となった今、総ての団員達から慕われる母親のような存在となっている。
マイヤー=マイヨールも、そして我意の強いフレイドマルも、例外ではない。
ことにフレイドマルは、かつて彼のおしめを替えてくれたこの古株には、三十路を過ぎた今でもまるで頭が上がらないときている。
彼女が握ったげんこつは、冗談でも比喩でもなく、間違いなく若禿の頭頂部に振り下ろされるはずだ。
「人聞きの悪いことをいいなさんな、マダム。むしろ私ゃ獅子の親心のつもりなんだよ。……向こうのが幾分年上だがね……。あの坊やが自分で千尋の谷を這い上がろうって気になるのを、こうしてそっと待っているって寸法さ」
マイヤーは悪戯を見つけられた子供の顔をし、マダム・ルイゾンは悪童を諭す母親の顔をした。
「だからねマイヤーちゃん、その谷底の岩なんかよりもずっと硬いゲンコをお見舞いしてあげようって言うの。それで代わりってことにして、今は助け船を出して頂戴な。大体、ここでお役人様の機嫌を損ねちまったら、坊ちゃんの首だけじゃ到底済まないってことぐらい、センセなら分かり切ってるはずじゃぁないの」
諭し持ち上げつついうルイゾンにマイヤーが反論できるはずはなかった。
錦の御旗を掲げるグラーヴ卿が、毒々しい赤で塗られた唇をゆがめて
「執行」
と呟こうものなら、即座にイーヴァンとかいう忠実の頭に莫迦が付く若造の剣が閃いて、あっという間に一座全員が処刑されるだろう。
昼間、呑み食い屋で「強制執行」されかけた時には、幾分かはこちらの立場に理があった。おかげでかばってくれる人が現れ、危ういところで首が繋がっている。
マイヤーは己の首筋をなで、肩をすくめた。
「クレールの若様に嫌われることになったとしても、すぐにお逃がしせずに、ちょっと顔を出してもらっていた方が、いくらか良かったかかもしれんねぇ」
大げさに身震いし、戯けた小心者の笑顔を浮かたマイヤーは、軽口の口調で言った。身振りも言い回しも不自然で、つたなささえもある小芝居だった。
これには見る者に芝居であることを印象づけ、言葉は台詞、すなわち「嘘」であると思いこませようという意図がある。
つまり逃げ腰な本音を隠したいのだ。マイヤーは自分の弱さを「母親」に見せたくないと思っている。
虚勢の張り方が歪んでいるのは、彼が嘘を真実にみせかけ、真実を嘘で覆い隠すことを本分とする「表現者」であるからからやもしれない。
エル・クレールのような素直な観客であれば、演技達者の不自然な演技から彼の意図を読み取ってくれるであろう。が、同じ表現者であり、彼よりも老練な役者であるマダム・ルイゾンが、小僧っ子の「稚拙」な演出演技に欺される筈もない。
彼女の目の奥に、怒りに似た寂しげな色が浮かんだ。
「あの人は剣術がお強いそうだけれど、まだまだ子供でしょうよ。しかも元々わたいらとはゆかりのないお子さんじゃないの。あの細い肩の上に、一座全員、裏方遭わせて四十とちょいの命を乗っけたんじゃ、あんまりにも可哀相ってものでしょう」
背の高い女顔の「少年」が言葉も態度も乱暴な劇団員達に気圧されて、身を縮めて下僕の背中に隠れるようなそぶりをしているのを、彼女も他の踊り子達と一緒に見ていた。
そのとき彼女は、この若者が、見た目に反してかなり幼いのではないかと感じた。
親が早死にし、若くして家督を継がされた幼子。
世間の荒波の中に放り出され、溺れぬために背伸びをし続けなければならない童子。
家名と責任の重さを喘ぐことさえ許されない小児。
最初にシルヴィーを抱きかかえてきたときの若様が見せた紳士然とした態度と、その後の小心翼翼とした様子のギャップが、マダム・ルイゾンにそんなイメージを抱かせたのだ。
その想像は、大筋では間違っていない。
団員の母代わりという立場であるためか、彼女は幼い者に対する慈愛の情が強い。そんな優しさが、彼女にある種の「真実」を見せたのだろう。
眉根を寄せて額に深い皺を作った彼女は、
「大体、最初から危ない橋を渡っているってのは承知の上のはずじゃないの。センセも一端の男なら、大人の責任の取り方というやつを体現して、わたいに見せておくれ」
マイヤーの肩を強く叩いたかと思うと、素早く背後に回り込み、尻めがけて脚を突き出した。勢いのない力と回転が、マダムの足先からマイヤーの尻に加えらた。
マイヤーは舞台裏から文字通りに蹴り出された。
彼はマダムから「貰った」、軸のずれた倒れかけた独楽に似た不安定な回転を、殺すことも増幅させることもせず、そのまま維持して舞台に躍り出た。
舞台の床をバタバタ鳴らすその足取りは、泥酔した酒飲みか、疲れ果てた労働者の如く、フラフラとしたおぼつかないものだった。
フレイドマル座長は不自然な音に気付き、舞台上を見た。途端、その顔面を覆い尽くしていた不安と焦りの土気色が、あっという間もなくバラ色に変じた。
壊れた木戸の軋みに似た、耳障りのする高いかすれ声で、
「兄弟! わたしの可愛い弟! グラーヴ卿をご案内したよ! さあ、愚兄にキスをしておくれ!!」
丸い額と眼玉をキラキラと光らせ、大きく腕を広げた。
ふらつき歩きを披露しつつ、マイヤーは微笑を浮かべた。
『禿め、自分の都合の悪い時ばかりおべっかを使いやがって。何が兄弟だ、可愛い弟だ。冗談はその面だけにしやがれ! 私ゃあんたのご両親のことは親とも思っちゃいたが、あんたに兄事した覚えはこれっぽっちだってありゃしない』
胸の奥でつばを吐いた。
もっとも、狼狽しきりのフレイドマルにマイヤーの心中を透かし見る余裕などない。
彼の疲れ果てた面に浮かんだかすかな笑みを、見た目以上に己に都合良く解釈した。
あとはマイヤー=マイヨールが上手く取りはからってくれるに違いない。口先三寸で言いくるめ、最高の演技をし、勅使様のご不興を晴らしてれる筈だ。
もししくじったら……そんなことはないだろうが、万が一にもこいつが失敗して、勅使様の逆鱗に触れたとしても、自分は悪くない。
不首尾の原因は書き損ね演じ損ねのマイヤー自身にあるんだ。
演目に関わっていない自分には非がない。
首を刎ねられるのはあいつの方だ。
非のない自分が閣下からお叱りを受けるはずがない。
自分は助かる。自分だけは助かる。
だいたい、この屑ときたら、我が侭勝手に団員を動かして、自分の言うことをこれっぽっちも聞かない高慢ちきだ。踊り子どもも、裏方どもも、皆こいつの口車に乗せられて、自分に逆らってばかりいる。
どだい、マイヤーが連中に指図すると言うこと自体が、おかしいんだ。
あいつはオヤジがどこからか拾ってきた、食い詰めた軽業師にくっついていたコブじゃないか。親が死んだあとも、可哀相だからって養ってやったんだ。
おとなしく舞台の隅で蜻蛉を切っておりさえすればイイっていうのに、ちっとばかり読み書きができるもんだから、オヤジに気に入られて、いつの間にか戯作者センセイ気取りに増長しやがって。
どこの馬の骨とも知らない薄汚れたボロ切れめ、偉そうな顔ができるようなご身分じゃないだろう。
こいつが一座からいなくなってしまえばいっそ清々するというものだ。
この一座の座長は誰だ? この自分だ。
この一座は誰のものだ? この自分のものだ。
想像というよりは、妄想、あるいは歪んだ願望と表した方が良い。
元々マイヤーに対して抱いていた嫉妬の悪感情が、恐怖のために更にねじ曲げられ、醜い方向に膨らんでしまったのだ。
もっとも、思考が歪んだ成長をするということは、もとより心の中の「そちら側」に隙間があったからに他ならない。フレイドマルの中にはマイヤーを疎ましく思う心があるのは紛れもない事実だ。同時に彼に依存しているのも真実であろう。
兎も角、その妄想により、座長は極度の緊張から解き放たれた。
殊勝に縮こめていた肥体を揺すり、青黒く硬直していた面の皮をだらしなくゆるませて、開放感を素直に表現してみせた。
口角を釣り上げて作った顔かたちの歪みは、マイヤーに投げ返す笑みのつもりらしい。
そのマイヤーは、本音を覆い隠す仮面の笑いを保持したまま、ふわりと舞台から飛び降りた。足取りは左右に大きくぶれているが、確実にフレイドマルに近付いている。
ただし、彼にフレイドマルが広げた両手の中に飛び込むつもりは、毛頭ない。弛んだ頬にキスをする気も更々ない。
座付き戯作者を絞め殺しかねない勢いで抱きしめようとするフレイドマルの、太くて短い腕がぎりぎり届かない所で、マイヤーはぴたりと立ち止まった。
座長が己の腕の勢いに振り回されてバランスを崩し、自分を抱いた奇妙な格好で前のめりに倒れそうになる滑稽な様子が、目玉の端に映らぬではなかったが、彼はそちらを全く無視していた。
疫病神の相手をしている暇はない。マイヤーはへたり込むようにグラーヴ卿の前に跪いた。
「閣下、お待ちしておりました。準備は万端とは申せませぬが、お望みとあればいつでも幕をお開けいたします」
疲労の色の濃い声音を絞り出す。
恐る恐るの仕草で視線を持ち上げ、マイヤーは勅使の顔色を窺った。
白塗りの顔に冷たい微笑が貼り付いている。
「ごまかしの帳尻合わせをするのは相当大変そうね」
グラーヴ卿の言葉が、兼任役者の疲労困憊振りを信じた上でのものであるのか、はたまた、演技と見破った上での厭味であるのか、厚化粧の下の本心はマイヤーであっても見抜き難かった。
「何分にも田舎者でございますゆえ、都の方々に見ていただくのに、不調法があってはならないと、手前共なりに考えましてございます」
「マイヨール、アタシは耳が良いのよ」
グラーヴ卿の声は耳元で聞こえた。
マイヤーはそっと顔を上げた。真っ赤な唇が目の前にあった。
何故か飲み込まれそうな気がし、背筋が凍った。
冷笑の大きな弧を描く唇が、大きく開いた。思わずマイヤーは身構えたが、グラーヴ卿は口の大きさと比例しない小さな声を出しただけだった。
「お前達が丁寧に通し稽古をしているのがとってもよく聞こえたわ。まあ、聞こえたと言っても音楽だけだったけれども」
「拙い演奏で閣下のお耳を汚しまして、会い済みませんことでございました」
マイヤーは再度頭を下げた。恐縮と慇懃の最敬礼を、本心ではないものと見抜かれかねないわざとらしさで演じてでも、グラーヴ卿の白い顔から目を背けたかった。
「そんなに卑下しなくてもいいのよ。とっても綺麗な楽譜通りの演奏で感心したのだから。まあ、音は良くても、それに合わせてお前達がどんな演技をしているのかまでは、知れたものではないけれど」
「耳の痛いことでございます」
頭を上げないまま、マイヤーは答えた。言葉が終わっても、彼は頭を上げることができなかった。
脇の下から嫌な汗が噴き出している。
『こいつは困った。真冬のムスペル山に放り出されたみたいに、頭が凍り付いて働かなくなっちまった』
大陸のほとんど真ん中にそびえ立っている尖った火山に、フレイドマル一座が脚を伸ばしたことはない。一座だけではない。ギュネイの民の九割方は、その山の実像を知らないはずだ。
それでもこの万年雪を頂く山の名前は、マイヤーも含めギュネイの民なら皆知っている。
夏でも雪が降り積もるとか、家々がみな氷でできているとか、土が凍り付いて作物も家畜も育たぬ故に民は川虫を捕らえて食しているとか、凍え死んだ人々の亡骸が眠る氷の棺が墓地をあふれて街中にまで置かれているとか、嘘と言い切ることはできぬが真実とは掛け離れている噂話が、人々の間でかわされる。
噂の根底に幾ばくかの事実が無いわけではない。
山頂は年中雪を被っているものの、麓はむしろ他の土地よりも雪雨が少ないくらいだ。
山奥では冬の間の雪を突き固めたブロックで狩猟のための特火点を造ることはある。それは使い捨てで、春には融けて無くなる。
川虫や蚕の蛹をタンパク源の一つとして重要視しているのは事実だ。しかしそれらは常食されるわけでなく、非常食か嗜好品(虫を捕らえることをレジャーとすることも含めて)の扱いだ。
氷の棺については、魚や獣の肉を一時的に保存するため氷をくり抜いた箱を造るのを、だれかが見間違えたか言い違えたのだろう。
人々が事実に尾鰭を付けてた噂を広げたがるのには、理由がある。
山懐に、御位を自分の腹心に譲った元皇帝陛下が移封された小さな国があったからだ。
哀れな老人が簒奪者から理不尽な仕打ちを受けている――物事を悲劇にしたがる判官贔屓な人々が抱く幻想が、無責任な噂を広げる。
何年か前の大きな噴火で、その小国が消し飛んだという伝聞も……それ自体何処まで本当のことなのか判らぬままに……流言飛語のいい加減さを加速させている。
兎も角も、ムスペルという言葉は寒い場所の代名詞して用いられる。
マイヤーの脳裏には、果てのない真っ白な雪原に一人放り出された己の姿が浮かんでいた。尖った氷柱が牢獄の檻を形作り、彼の周囲を取り囲んでいる。
鳥肌が立った。そのくせ、汗が噴き出る。
マイヤーもそれほどの莫迦ではない。この手強い役人貴族を言葉だけで言いくるめ、ごまかし通すのは無理なことだと、昼間の一件から察している。
それでもどうにか相手を自分のペースに巻き込んでやるぐらいはできるだろうと高をくくっていた。貴族嫌いの軽蔑心が彼の目先を曇らせていた。
あるいは、
『マイヤー=マイヨールとしたことが、クレール若様の美しさに魅入られて呆けているのか、ソードマンの旦那に睨まれて縮んだ肝っ玉が元に戻らないのか。全く、調子が狂っちまっていけない』
責任転嫁をしたくなるほどに、マイヤーは弱り果てていた。
主導権は完全に向こうが握っている。こちらは蛇に睨まれた蛙そのものに、身動き一つできない状況に追い込まれた。
湿った白い小さな固まりが、彼の足下にぽとりと落ちた。脂汗で浮き上がり、崩れ流れたドーランだった。
『ままよ』
ボロ布で額を抑え、マイヤーは頭を持ち上げた。口元に笑みが浮かんでいる。
「相済みません、閣下。只今踊り子どもに支度を直させ、すぐに幕を上げさせましょう。手前も顔を塗り直して参りますので、今しばらくお待ちいただけましょうか?」
開き直った。
策を弄するのは止めだ。やるだけのことをやってみようじゃないか。
全力の芝居だ。筋は先ほどやりかけた方で行こう。
たしかにやっつけ仕事の改変をしたが、踊り子達はマイヤーの意図の通りに演技をしてくれていた。それを観た「二人の観客」は、芝居に文句を付けていない。いや、むしろあの芝居を楽しんでさえいた風もある。
『確かに若様と旦那は物わかりの良い捌けた方だった。その分、頂いたのは糖蜜みたいな甘い評価だと思ったがいい。下駄を履かしてもらっているのと一緒だ。丸々信用しちゃぁならない』
彼は若い貴人のほそやかな顔立ちを思い起こしながら、痩せこけた雲客をじっと見た。
グラーヴ卿は真っ黒なマントで体全体を、黒い帽子の大きな鍔で顔の上半分をすっかり覆い隠している。
見えるのは、冷たい微笑を浮かべる真っ赤な口元だけだ。
『この白塗りオバケが「芸術」を理解してくれるかどうかは、分の悪い大博奕だが……その分当たり目が出れば、政府お墨付きというとんでもない配当が戻ってくる。どのみち退路はすっぱり断たれているんだ、大勝負に出てみようじゃないか』
覚悟を決めた。
笑みを満面に広げた。
グラーヴ卿を見、フレイドマル座長を見、小さく会釈をして後に、楽団溜まりに顔を向けた。
「さっきの調子で頼むよ、マエストロ」
マイヤーの声は小さく、言葉は強かった。
迷いのない眼差しには、白髪頭の指揮者が抱いていた不安を振り払うのに十分な力があった。
指揮者はうなずきを返し、楽士達を配置につかせた。彼自身も指揮台状で背筋を伸ばす。
彼らは普段は使うことのないぼろぼろに破けた楽譜を、おのおの譜面台に広げ、音符に神経を注いだ。
次いでマイヤーは舞台袖から様子を窺っていた裏方衆と踊り子達に鋭い視線を投げる。
「位置について。稽古の通りにやっとくれ」
団員達は一瞬、ざわめいた。マイヤーの顔が見えない場所にいる連中が、前方の仲間の背に声をかけている。
振り向いた踊り子達の安堵した顔を見ると、彼らの不安も消えた。
団員達が舞台裏に消えたのを確認したマイヤーの視線は、フレイドマル座長の顔の上に戻ってきた。
途端、それまで座長の顔面に広がっていた、弛んだ笑顔がかき消えた。
マイヤーは微笑している。清々しく笑っている。
吹っ切れた彼の、いっそ麗らですらある眼差しが、フレイドマルにはむしろ恐ろしげに見えた。
戯作者の瞳が、澄んだ鏡の面に思えた。
それも、覗き込む者の真の姿を写す魔鏡に。
己の薄汚い保身を見透かされた気がする。
「座長」
マイヤーが穏やかな声で呼びかけた。
小太りの体が小さく震えた。
「申し訳ありませんがね、どうにも人手が足りませんで。奈落の柱押しの員数が不足していると、以前にも言ったと思いますがね。それを手伝っていただけますかね」
言葉は要請のそれだったが、フレイドマルには逆らうことの許されない命令に聞こえた。
「あ、それか。分かっている、分かっている」
座長は小刻みに頷きつつ、ちらりとグラーヴ卿の顔色を窺う。
勅使様がこの場に残れとお命じにならないかと期待していた。傍らに座す光栄を与えてくださることを願った。
そうすれば、辛い奈落の肉体労働をせずに済む。
だが、卿は一言も発さない。そればかりか、顎で通用口の方を指し、彼に奈落行きを促しさえした。
座長は力なく頭を垂れ、とぼとぼと楽屋裏へ向かった。
粛々と準備が進む様子を、マイヤーは全身の神経で感じ取っていた。
『万全の体勢で芝居をするとなれば、シルヴィーを若様の所に置いてきたのは、我ながら失策も良いところだが』
一瞬、弱気が頭を持ち上げた。
マイヤーはそいつを臓腑の奥底へ押し込めた。
「小汚い椅子で申し訳のないことでございますが、どうぞそちらへ掛けてお待ちくださいませ。すぐに幕を開けましてございます」
殊更丁寧に言い、マイヤーは深々と頭を下げた。エビのように、腰を曲げたまま後ずさりする。
『若様、旦那、お願いだ。上手いことシルヴィーを連れて逃げておくれよ。この一座に万一のことがあったとして、あの娘なら別の劇団でも十分にやっていける筈だから』
下げた頭をちらりと横に振り、マイヤーは楽屋の方角を見た。
その頭頂部に、声が降り注いだ。
「まだ準備は終わっていないのじゃなくて?」
甘ったるく、ねっとりとした、うすら寒い声だ。
「閣下はお急ぎなのでございましょう?」
マイヤーは頭だけを持ち上げ、ヨハネス・グラーヴの顔色を窺った。
帽子の鍔に鼻から上を隠したまま、グラーヴ卿は笑っていた。
これがなにを意味する微笑なのか、白塗りの厚化粧の上からは読み取れない。
赤い唇が僅かに動く。
「ねえ、マイヨール。アタシは来る途中に、あのお店に寄ったのよ。ガップから来たという、あの美しい坊やを探しにね」
マイヤー・マイヨールは、腰を折り曲げて頭だけを持ち上げた不自然な体勢のまま、硬直した。背筋に冷たい物が走り、目の前に薄霞がかかった気がする。
「左様、で」
ようやっと、相づちを返す。
「我ながら、愚かしいこと。坊や達がまだあそこにいるだろうと思いこんでいたの……。よく考えれば判ることよね。彼らは旅人だもの。一つ所に長居するはずがない」
「左様、で」
マイヤーは愛想笑いを浮かべた。姿勢は不自然なまま変わらない。
「たくさん人がいたわよ。あの可愛らしい坊やが、みなにお酒を振る舞ったのだって。年若いのに、良く気が回る坊やよね」
「左様、で」
振る舞い酒を実際に行ったのはブライトであろうと、マイヤーは推察している。
『若様みたいな浮世離れした方が、ああいう飲み屋に集まる鄙俗でいじらしい連中の腹の内なんかを、判っていらっしゃる筈もない。人心をなごませるのに酒を使おうなんて「姑息」なことは……』
若様に歪んだ愛を抱いていて、若様のためなら……若様に愛してもらうためであれば……どのようなことでもしてのけるに違いない、俗で頭の回転と手の速い、大男の下男の発案に違いないと思い至り、マイヤーの頬はゆるんだ。
直後、グラーヴ卿が小さく嗤った。
「そうよね。坊やは良い家臣を持って、羨ましいこと」
本音を見透かされた。マイヤーは背を鞭でしたたかに打たれたかのような衝撃を感じた。
「アタシにはそういう賢い家来がいないのだもの。可愛いエル坊やごと、彼らをアタシの物にしてしまいたい……できれば直臣に」
「左様、で」
平静を装って相づちを打ちつつも、マイヤーの腹の中は煮えくりかえっていた。
『冗談じゃない。若様や旦那をこの白塗りオバケなんかに盗られてなるものか。お二方はこの……マイヤー・マイヨールのものだ』
ある種の嫉妬だった。当人達の考えの及ばない場所で、当人達の気持ちを顧みることをせず、全くの他人に対して焼き餅を焼いている。はた迷惑な岡妬だ。
「それでね。訊いたのよ。当の坊や達がどこにいってしまったのか。……アタシが坊やの立場だったら、あんな酒臭い場所には小半時だって居やしない。できるだけ早く、もっと落ち着く場所に移動したい。そうしたら……皆が皆、とても愚かだった。誰も彼も、知らないって言うのよ。いつの間にか、どこかへ消えてしまったって。……腹立たしいこと」
凍えるほどに冷たい声だった。マイヤーは手足の指先がじんじんと痺れるのを感じた。
含み嗤いの音が、グラーヴ卿の帽子の下から漏れる。
「アタシの所には優秀な家臣は居ない。アタシが対処に困ったようなとき、アタシの考えていることとは違うよい方法を考え出して、それを実行できるような、優秀な家来が一人もいない。アタシの家来はみんな、アタシの考えているのと同じことしか思いつけないの。困った子達でしょう?」
マイヤーの全身が粟立った。無惨で恐ろしいことがあの場所で起きたに違いないという確信が、彼の全身から熱を奪った。
相づちを打つことを忘れたマイヤーの、ただ開いているだけの眼の中に、黒い鍔広の帽子がぐるりと動くのが写り込んだ。
グラーヴ卿の顔は舞台の向こう側に向けられている。
やや遅れて、マイヤーの目玉が同じ方角を向く。
「アタシはね、食べてしまいたいほど可愛らしい白髪頭のエル坊やと、どうしても抱え込みたい下僕が、アタシ達よりも早くここに来ているのではないかと思ったの。お前は命の恩人を接待しているだろうから、舞台の側ではなく奥向きに居るだろう……だからイーヴァンに命じた。もし見かけたら、丁重ににお連れしろ、と」
グラーヴ卿が一歩足を踏み出した。
舞台の幕の向こう、壁の裏には細い通路があり、その先には楽屋がある。
そこには、こちらからの「合図」を待っている人間が三人居る。
マイヤーは慌てて腰を伸ばした。
「ええ、居られます。確かに居られます。閣下がおいでになる前にこちらにお見えになりました。裏でお待ちいただいておりまして……つまり閣下がご到着なさるまでの間しばらく……今、裏方の者に呼びに行かせましたから……」
卿の行く手を、彼は体で遮った。
勅使はマイヤーとほとんど密着した状態で立ち止まった。
地面の下から物の壊れる小さな音がした。舞台装置担当の怒声、端役の踊り子の悲鳴、座長の声に似た恫喝が聞こえる。
『ええい、このややこしいときに、禿チビめが奈落でなんのヘマをやらかしやがった?』
マイヤーが内心舌打ちをしたのとほとんど同時に、絹を裂く悲鳴が楽屋の方角で上がった。
グラーヴ卿が真っ黒なローブを波を打たせて、クツクツと嗤った。
「イーヴァンは……マイヤー・マイヨール、あの時あの酒場で、お前に斬りかかったあの子だけれど……あれはアタシの手の者の中ではすこしましな方なのよ。つまり、ときどきアタシが思いもしないようなことをすることがある、という意味でね」
卿のねっとりとした声と重なって、楽屋から男の叫び声が聞こえ、重い物が地面を砕く衝撃の轟音が芝居小屋全体をびりびりとゆらした。
「……ほらね。丁重にと命じたのに、力ずくになってしまった」
マイヤーの顔から血の気が引いた。
「シルヴィー……」
小さく声を漏らす。つぶやきは、だが周囲の誰の耳にも聞き取れなかった。
鼓膜を劈く破壊音が再び空気を振動させる。
男の叫び声がほとんど間をおかずに二回。最初は雄叫び、二度目は悲鳴に近かった。
攻め込んだ側が逆に痛手を喰ったのだろうということが「遠耳」にも知れた。
「おや、まぁ」
グラーヴ卿の声には意表外の驚きが混じっていた。
「イーヴァンたら、あれほど『力』を別けてあげたというのに、それでもエル坊やに適わなかったなんて。……それともあの子を泣かせたのは下男の方かしらん?」
声音の調子は変わらなかったが、口元に浮かんでいた冷たい微笑が、僅かに小さくなった。
「奈落の底の宝物の方は後回しだわ。坊やの方を見に行かないと」
言葉を聞いているものがいるだろうなどとは、どうやら考えもしいないらしい。それどころかマイヤーが目の前に立っていることすら見えていないようだ。グラーヴ卿は意味の通じない独り言を呟きながら、更に一歩足を前に出した。
マイヤーは確かに小柄だが、痩せた文官貴族の腕力に易々と屈するような脆弱者ではない。進もうとするグラーヴ卿を体全体で押し戻した。
その時、彼は貴族が着込む黒いローブの肩口の盛り上がりが、すとんと落ちたのを見た。中にあった物がいきなりなくなったような、不可解な動きだった。
卿が肩幅を広く見せかけるために大きなパットでも入れていたのだとしても、そしてそれが落ちたかズレたかでもしたのだとしても、合点が行かぬ。
初め、マイヤーは鍔広の帽子のために錯覚を起こしているのだと疑った。
それにしても、ローブの肩の幅が頭の幅とほとんど同じというのは、いくら何でも狭すぎはしまいか。
肩が、腕そのものが、突如としてなくなったのでなければ、このような急激な変化は起きないはずだ。
「閣下……」
何か言おうとしたが、マイヤーの口も頭も動いてはくれなかった。
ぴったりと体を付けた格好のグラーヴ卿が漂わせる、白粉と香水の強烈な芳香の後ろに、ひどい悪臭を感じた。
かつて嗅いだことがある、胸の痛くなる臭気だ。良い印象など小指の先もない。
物心つく前のかすかな記憶の中に。父母が死んだときに。先代の座長夫婦が亡くなったときに。
漂泊の旅一座の者が命を終えたとき、その亡骸を葬ることは容易ではない。
旅先で無縁の遺骸を引き取ってくれる墓地を探す困難は大きい。棺を曳いて幾日も歩くこともありうる。
かつて愛する家族であった腐り逝く亡骸も、胸を突き上げるあの臭いを発していた――。
マイヤーは身震いした。膝の力が抜けた。まともに立っていられなくなった。後ずさりし、楽団溜まりの囲いに尻をぶつけ、その縁に座り込んだ。
「死人だ」
グラーヴ卿は帽子の下で嗤った。
歪んだ唇からは、みるみるうちに口紅の赤の色が失せた。塗りたくられた顔料が覆った色を覆い隠せぬほど、その下の肉の色が変じたのであろうか。
死んだ血液の黒が、小さく動く。
「赤い、石……」
楽屋の方角から、獣じみた悲鳴が上がった。
女の声にはとうてい聞こえなかった。とすれば、シルヴィーが泣き叫んでいるのではないだろう。地の底から響く、煉獄の業火に炙られる亡者のごとき声が、可憐な「クレールの若様」の声音とも思えない。
マイヤーはめまいを起こした。恐怖や緊張と、胸の悪い臭気が、彼の神経を麻痺させた。
彼の背骨はまっすぐ立つ力を失い、後ろ川へ傾いた。頭が弧を描いて落ちる。引きずられる形で体が楽団溜まりの中へ倒れ込んだ。
白んでゆく脳漿で、しかし彼は必死で考えを巡らせていた。
『まさかにもソードマンの旦那が、あれほど情けなく泣き叫ぶとは思えない。万が一にもあの旦那が絶叫するようなことがあったとしたら、同時に若様の悲鳴だって聞こえて良いはずだ。あの人達はほとんど一心同体なのだから』
案ずることはない、案ずることはない。
彼は自分自身に言い聞かせた。
狭い楽団溜まりの中は蜂の巣を突いた騒ぎになっていた。
笛吹きたちが一度に舞台下へ通じる小さな潜り戸に殺到し、堤琴弾きは命より大事な楽器を抱えてしゃがみ込み、喇叭吹きと指揮者が身を縮めておろおろと辺りを見回している。
倒れ込んできた戯作者の体を受け止めたのは竪琴弾きのユリディスだった。
彼女は古い竪琴を打楽器弾きの胸ぐらに投げつけるように渡すと、開いた両腕を真っ直ぐに差し出して、落ちてくるマイヤーの頭を散らばった椅子への激突から守った。
マイヤーの上半身を抱え込んだ彼女は、白目を剥いたマイヤーの頬を平手で打った。
両頬を数度打っても意識を取り戻さないことに焦りを覚えたユリディスは、拳を握ると彼の顎げたを思い切り殴りつけた。
おかげで彼の魂は現世に引き戻された。その代償が奥歯二本だというのは、むしろ安く上がったと言わねばなるまい。
兎も角も、マイヤー=マイヨールは咳き込みながら口の中の血と虫食いの奥歯を吐き出し、瞼をどうにか見開いた。
霞む目は、細い黒い影を見た。
倒れ込み、仰ぎ見る格好になったおかげで、マイヤーはグラーヴ卿の顔立ち全体を見ることができた。
『この人の顔は、こんなだったか?』
昼間、酒屋で遭ったときとはまるきり別人のような気がした。
顔は青白く、唇は薄く、眼窩は黒く沈んだ色に染まっており、頬にも顎にも髭はない。
それはあの時と同じだ。
しかし、どこかが違う。
顔立ちが僅かに丸みを帯びている。
顎のあたりのラインが、若々しさを感じる曲線を描いている。
そのカーブが、
『誰かに似ている』
マイヤー=マイヨールは、己の脳みそに浮かんだ「想像」を懸命に打ち消そうとした。
そんなことがあってなるものか、そんなことを信じてなるものか。
鼻持ちならない年寄り貴族と、愛らしく愛おしい若い貴族の、まるで違う二つの顔が、ダブって見えるなどと、そんなことがあるはずがない。
鍔の下にぶら下がる、葉脈だけが残った虫食いの枯葉のようなヴェールの中で、青黒い唇が、ゆっくりと動いた。
「そう、やっぱり、そういうことだったようね。うふふ、思った通りだわ……」
独り言だということは明白だ。グラーヴ卿の目玉は、すぐそこにいるマイヤーの姿など見ていない。
灰色の目玉に、くすんだ赤の色が混じっている。赤く濁った球体の表面には、この場には存在しない、小さな光の反射が映っていた。
人の形をしている。不覚を恥じ、苦痛に歪んだ不安げな表情を浮かべている。
マイヤーがその影を見まごうはずはない。
「クレールの、若……様……」
グラーヴ卿は優しげな、しかし冷たい微笑を浮かべ、呟いた。
「つまりは、あなたはアタシだということ……アタシは、二人もいらないわよねぇ」
卿が何を言っているのか、マイヤーにはまるで意味が判らなかった。判らなかったが、直感した。
――卿は、クレールの若様に向かって喋っている。
締め付けられるような恐怖を感じた。
うっとりと笑いながら、グラーヴ卿は喉の奥から獣の悲鳴を絞り出した。
顔が歪んでいる。塗りたくった白粉がひび割れ、白い欠片がぼろぼろと落ちる。
グラーヴ卿は……いや、卿などという尊称を付けて良い「者」か。
マイヤーの脳に疑念が浮かんだ。疑念は即座に回答に達する。
目の前にいるのは、人間ではない。
何か得体の知れない人の形をした「モノ」だ。屍臭を漂わせているのだから、生き物ですらない。
『本物の化け物だ』
確信した途端、おかしなことに彼の腹の中から恐怖が消えた。
『化け物が、人の道理で人を裁けようものか』
マイヤーがヨハネス=グラーヴを畏れていたのは、彼を執達吏の類と思っていたからだ。
真っ当な法家によって真っ当に捕らえられれば、国家の法を横目に「綱渡り」をして飯を喰っている自分たちは、反論の暇もなく斬首されて当然であることは、さしものマイヤーも理解している。
彼は法を畏れているのではない。法そのものに畏怖を持っているのなら、例えそれが悪法であっても、法に触れるようなことはしないし、できない。
だが彼は、わざわざ法に触れるような芝居をしている。あえて危険な台本を書き、演じている。同時に、観た者がそそこから彼の犯した罪を連想せぬように、ごまかし、言いくるめてきた。罪に罪を、悪行に悪行を重ねている。
悪人呼ばわりならば甘んじて受ける厚顔無恥なマイヤーが畏れているのは、法の下で断罪され罪人と呼ばれることだった。
『悪人というのは場合に依るがむしろ尊称だ。でも犯罪者ってのは蔑称以外の何もんでもありゃしない』
歪んだ考えだった。
何故彼がそう言う思想を持っているのか、彼自身にもその理由は判っていないらしい。
思えば子供の頃から擦れっ枯らしじみたひねくれ者だった。どうしようもない叛骨は、あるいは親の代からもの書きという血筋のためかも知れなかった。
兎も角、彼は己の命が奪われることよりも、公的な書類の上に犯罪者の誹りを記されること、或いは、名を残すことなく罪人としてこの世から抹殺されることを嫌っている。
目の前にある「モノ」がよし人であったなら、例えそれが死人でもいくらは人の世界の決まり事に影響を与えられよう。
何しろこの世ときたら、とうの昔に死んだ人間が作った法の縛りや国の仕切りに満ちていて、生きた人間を操っているのだから。
だが相手が人間でないならば、官吏でも法家でもありはしない。人間でないモノが人の法を笠に着て、この世の書類に罪人の名を記すことなど有りはしない。
グラーヴ型のモノは、苦痛を喜ぶ叫びを上げつつ、床に倒れ込み、身悶えている。
マイヤーは立ち上がった。
楽団溜まりの連中を一人残らず通用口に押し込むと、彼は舞台の上に飛び乗った。
人に似た形のモノが客席の椅子をなぎ倒して転げ回る様子、「それ」に従ってきていた役人体の人間達までも蒼白な顔で「それ」からじりじりと遠ざかってゆくさまを、一段高い場所から見下ろす。
「毛物め」
つぶやき、マイヤーは舞台袖に固まって震えている団員達に視線を送った。
眼に力が満ちている。
彼の凛とした顔つきを見た途端、団員達のの膝の震えがぴたりと止まった。青白い顔に血の気が戻るまでには至らぬが、動けるほどには恐怖を克服できた様子だ。肩を寄せ合いつつ、そっと出口に向かった。
一塊の人間の、ほんの僅かな体の隙間から、別の人間の影が見えた。
座長フレイドマルだ。
見覚えのある大きな箱を抱え込んで、おろおろと周囲を見回しつつ立ちつくしている。
舞台の上にマイヤー=マイヨールがいることに気付いた彼は、禿頭のてっぺんまで紅潮させた。出て行く人の流れを強引に逆らい割って戯作者の元に近寄る。
「一体何のっ……」
大声で言いかけたフレイドマルだったが、
「……騒ぎだ」
語尾は消え入りそうなまでに小さく押さえられていた。
「見れば判りそうなものでしょう」
マイヤーが顎で客席を指す。
小柄なマイヤーよりもさらに背の低いフレイドマル座長は、ちょっとのびをするような仕草をし、その空間をじっと見つめた。
そこに何かを見つけたらしい彼は、急に卑屈に頭を何度も下たかと思うと、マイヤーの腕を引っ掴み、元来た舞台袖の方角へ彼を強引に連れ込む。
アルコールの混じったひどい臭いのする口をマイヤーの耳元に寄せて、抑えた声を出した。
「閣下が笑って居られるじゃあないか。どうやらお怒りではなく、むしろ芝居を楽しみにしておられる様子なのが幸いだ。早く幕を上げないか」
マイヤーが駭然とするのも道理だ。
観客席には一個所綺麗に椅子のなくなった空間があるのだ。その真ん中に、黒マントに包まれた、悪臭を漂わせる細長い何かが転がっている。
普通の光景であるはずがない。
それなのにこの男と来たら、見えているはずのものとはまるで違うことを言ってのけたのだ。
この様を異様と思わないほどに無神経なのか、そうでなければ、
「あんた、アレが見えないっていうのかい?」
マイヤーは思わず大声を出した。
ほとんど同時に、別の大声が、観客席側であがった。
男の悲鳴だ。
振り返ったマイヤーの目に飛び込んできたのは、客席の中に立つ、黒っぽい汚れた石を削って磨いた人の像、だった。
不可解な像だった。細身で、背ばかり高く、皮膚の下の筋肉がはっきり見て取れるような作りをしている。それでいて、体のラインは柔らかな曲線を描いている。
マイヤーは初め、少年兵の裸像かと思った。しかしすぐに少女の姿を写した物であると気付いた。
胸はふくらみを、腰回りは丸みを、僅かだが帯びている。
その部分をことさら強調し、時として巨大に表現しさえもする成人女性の像とは違った造形ではある。しかしながらマイヤーには、小さな隆起が鋭角な造形の上に生み出す儚げな曲線は、美麗にして劣情的な当たり前の造形よりも艶めかしく見えた。
確かに美しい形した像ではあったが、同時に不可解で不気味でおぞましいものだった。
まず材質が良くないように見える。黒い表面は周囲の風景が映り込むほどに磨かれているが、所々ボンヤリと曇り、赤錆色の亀裂が縦横に走っている。
両の腕は肩の付け根からそっくり無くなっていた。折れた、割れた、とは思えない滑らかな断面が、体の両端に残っている。鋭利な刃物ですっぱりと切断されたかのようだった。
肩口の断面から、粘った、しかし水気の多い汚泥が、流れ落ちる跡を残してこびり付いていた。
もしこれを、地中深くの遺跡からたった今掘り出してきたばかりの戦女神の像だと言われたなら、或いは納得したかも知れない。……ただし、半刻前であったなら、という条件付きで、だ。
像の足下には見覚えのある黒い装束が一塊に落ちている。頭の上には、これも見知った羽根飾り付きの黒い帽子が載っている。
つい先ほどまで、ヨハネス=グラーヴという人間の形をしていたモノだということを、マイヤーはどうにか「理解」した。そう判ずることが一番合理的だった。
何が起きているのか、何が原因なのか、深く追求することは無理だし、意義のないことだろうとも判断した。
「こいつは、まずい」
マイヤーの喉が引きつった。何が「まずい」のか、どう「まずい」のかに明確な説明を与えることはできない。ただ、彼の脳漿はこの場から離れよとだけ四肢に命じている。
命令は、遂行されなかった。膝が笑って言うことを聞かない。
羽根飾り付きの帽子の下、人でいうなら後頭部のあたりで、何かが動いていた。
一見すると、地に届くほどに長い髪の毛の束であった。太い一本の三つに編み込んで、光沢の有る生地で包み込み、先端を猛禽の嘴に似た大きな飾りで覆った髪を、背後に立つ人間の肩に掛け渡しているように見えた。
そう見えて当然だ。当たり前な思考を持っている者なら、頭の後ろから生えているモノを、一目で蠍の尾や触肢の類と見て取ることができようはずもない。
それが自ずから動き、背後の人間の肩口に巻き付き、締め付けている光景を、瞬時に、見たそのままに納得するなど、不可能だ。
ギュネイ皇帝の紋を刺繍した「錦の御旗」の旗竿を掲げていた従者だった。長い触肢が指物を持つ右腕の肩に巻き付き、先端が左の肩口に食い込んでいる。
硬い物が圧力を加えられて潰される薄気味の悪い音が、彼の体の中から聞こえた。
旗指物の竿を握った腕を中空に残し、従者は両膝を折って床にうずくまった。悲鳴は無かった。最初の絶叫の直後には、すでに彼は意識を……あるいは命を……失っていたのだろう。
触肢の巻き付いた細長い肉の塊は、鉄の臭いがする赤い液体を滴らせながら、ゆっくりと空中を移動した。
行き着く先に有るのは、腕のない女人像だった。黒い石像の右の肩口に右の腕の断面が、左の肩口に左の腕の断面が、それぞれ重ねられた。
触肢が解けた。腕はその場に止まった。
指先を僅かに痙攣させた後、腕はゆっくりと動いた。体の前に手を伸ばす。
像の頭が前に傾いた。帽子が落ちた。
頬の丸い少年の形をした真っ黒な顔面が、新しく生やした腕を眺め、うっとりと微笑した。
唇が動いた。
「これだから脆弱な男の体は嫌よ。美しさが微塵もないもの……」
耳障りのする……声の響く広いホールの人混みで聞いたような、雑音の混じった声だった。しかし、マイヤーには
「聞き覚えがある」
声だ。否定しようにも否定しきれない。
「クレールの若様だ。……どうなっているって言うんだ。あの化け物、女の体の上に若様のような顔をくっつけて、若様のような声をひりだしていやがる」
グラーヴ卿の厚化粧の下から化け物現れたことは、どうにか理解ができる。
初手から薄気味悪いと感じていたグラーヴ卿がついに本性を現したのだと、マイヤーは確信している。
しかも、この化け物は「別の姿を写し取る」能力を持っているらしい。
さすがに化け物が生まれついてグラーヴ卿の姿だったのか、あるいは途中からグラーヴ卿に化けたのかまでは解らないが、
「あの化け物め、よりにもよって若様に化けやがった」
マイヤーは拳を握った。今すぐにあの化け物に殴りかかってやりたい。だが彼は拳そ己の眉間に打ち付けることしかできなかった。
フレイドマルが目を擦りながら怪訝な顔をマイヤーに向けた。
「何が誰に化けたって? 大体、こいつは何の騒ぎだ? ええい、忌々しい。莫迦共が走り回りおって、埃が目に入った」
両腕に何か抱え込んでいる。一応、隠しているつもりらしい。上着を箱の上に掛け回してあるが、端の方がめくれ上がっていて、目隠しの意味がない。
革張りの木箱だ。
一見、ありふれた作りだが、蓋を開けるには複雑なカラクリを間違えずに動かす必要がある。手順を知っているマイヤーでなければ開けられない。
大事に抱え込んでいる本人はおそらく知らないだろうが、中身は空だ。
入っていた物はブライト=ソードマンという田舎侍に「奪われ」た。ブライトは主であるエル=クレールと名乗る若い貴族にそれを手渡した。
その若様は今、楽屋にいる。
『恐らく乱入者を苦もなく打ち倒し、定めしお恙も無く、多分留まっておられる筈だ』
それを知らない座長殿に対し、マイヤーは少々いやみたらしく
「あんた、なんでそんな物抱えてるのさ? いや、そんなことより、あんた目玉がどうかしちまったのかい? それともイかれたのは頭の方かね?」
「これは……」
言いよどんで、フレイドマルは慌てて箱を背中側に隠した。
いまさらそんなことをしても詮無いことであることを、彼も十分解っているようだった。その焦りや気恥ずかしさを何とか誤魔化そうと思ったのだろう、わざとらしく偉ぶった声を出した。
「そんなことよりも、だ。ほれ、閣下がお待ちなのだぞ。早いところ女共を舞台に引きずり出せ!」
「いくら阿呆でも、人間と、頭の後ろから尾っぽ生やした化け物の区別ぐらい付くだろう? この場所のどこに『閣下』なんて呼べる偉い『人間』がいるって言うんだ?」
掠れ震えた小さな声だったが、妙にすごみがあった。襟を掴まれたフレイドマルは、亀の如く首を縮めた。
彼にはマイヤーが戦きつつも怒っている理由が分からなかった。赤く濁った目をしばたたかせ、おどおどした口調で訊ねる。
「兄弟、どうしたっていうんだよ。いつものお前なら、お偉いさんの前で頭を下げないなんて利口じゃない真似はしないだろう?」
マイヤーは駭然とした。
「マジで見えてないってのか? あんたの脳みそは、粕取りの酒精でイかれたらしい」
「私は酔っちゃいない。おかしいのは、兄弟、お前の方だろう?」
フレイドマルは白目ばかりか黒目にまで赤い濁りが広がっている眼球を丸く見開いてマイヤーを見つめた。
途端、マイヤーの背筋に悪寒が走った。
丸い瞳孔は質の悪い赤鉄鉱を磨いた石鏡のようだった。鏡面には赤い筋が幾本も浮かんでいる。
曇った鏡の中に、人の顔が映り込んでいた。
卵形の柔らかな輪郭を持つ、真っ黒な顔だった。鼻筋の通った、少年じみた顔立ちをしている。
明らかに、マイヤーの顔ではない。
座長の目玉の中の顔は、優しげな、しかし冷たい微笑を浮かべた。
青黒い唇が、ゆっくりと動く。
「役立たずの子豚ちゃん」
「ぎゃっ!!」
フレイドマルが踏みつぶされた蛙のような悲鳴をを上げた。背に隠し持っていた木箱が落ち、装飾金具が床に大きな傷を付けた。
「目玉、目玉が焼ける!」
顔を覆う両の手の短く太い指の間から、赤黒い光のような、あるいは闇のような、不可解なものが一条、漏れ出た。
「座長!? おい、フレイドマル、何だ? どうした!?」
膝から崩れ落ちる肥体を、マイヤーが抱え起こそうとしたときだった。
「退きなさい」
鋭い声が背後から聞こえた。いや、言葉の最後が聞こえたときには、すでにその声の主はマイヤーのすぐ側にいた。
人間だった。少なくとも人の形をしている。頭から白い光があふれ出て、尾を引いて流れているように見えた。
きらめく光の帯と見えたのが、流れる髪の毛が弾く輝きであると気付いた彼は、思わず声を上げた。
「若様!?」
柳眉を釣り上げ唇を引き結んだ白い横顔は、しかし、彼が叫んだときには遠くへ去っていた。
厳密に言えば、マイヤーの体の方がその人影から遠ざけられたのだ。
猛烈な勢いで、彼は突き飛ばされていた。
客席に落ちるぎりぎりの舞台隅まで弾かれたマイヤーは、若い貴族が深紅の光を放つ細身の剣をフレイドマルの顔面に突き立てるのを見た。
何事が起きたのか、瞬時には理解できなかった。
初めはエル・クレールの姿を「盗み取った」件の化け物が、フレイドマルに襲いかかったのではないかと疑った。
だが座長の眼窩に剣を突き立てているのは間違いなく「クレールの若様」だ。マイヤーが「芸術と名声の守護神」とも思い決めた人物を、ことあろうかニセモノのバケモノと見まごうはずがない。
マイヤーは身を起こし、エル・クレールを凝視した。
人が人を襲う恐ろしい光景であるにも関わらず、マイヤーにはエル・クレールの姿が美しく思えた。
赤い剣のような物の切っ先がフレイドマルの顔面に突き刺さる深さは、親指の長さの半分よりも浅いようだ。その深さでは、目玉を貫くことはできても、脳漿に傷を付けるには至らないだろう。
つまり、クレールの若様はフレイドマルの命を脅かそうとしているのではないに違いない。
「あの方のやることに間違いはないはずだ」
何の根拠もなく感じた。
事実、エル・クレールにはフレイドマルを弑するつもりなど微塵もなかった。むしろこの彼を助けようとしている。
エル・クレールは浅く付き入れた赤い剣――【正義】のアームを、跳ね上げるような動作でフレイドマルの顔面から引き抜いた。
太った座長の丸い顔の中から、丸い塊が弾き出された。弧を描いて飛び、丁度マイヤー=マイヨールの目の前の亜麻仁油で固めた合板の床に、湿った音を立て落ちた。
目玉ほどの大きさの腐肉の塊だった。
初めは赤黒い潰れた玉の形をしていた。しかし見る間に形は崩れた。あっという間に、黄色みを帯びた濁った茶色の、粘りけのある、強烈な臭気を発する液体となって流れ出し、やがて床板の隙間に吸い込まれた。
フレイドマルの肥体が床に崩落ちるのと、ほとんど同時に、化け物の悲鳴が再び響いた。
マイヤーは思わず客席へ振り返った。
薄汚れた石像もどきの化け物が、相変わらずそこにいた。
右の手に旗指物の柄を握って杖に突き、残った掌で顔の半面を覆っている。
さながら、天を仰いで号泣しているポーズだった。実際、指の間からは水っぽい物が流れ出ている。ただし、マイヤーの目の前で流れて消えた物と同じ色の、濁った茶色でどろりと粘った液体が、涙でないのは明らかだ。
悲鳴を上げ、泣き叫びながら、化け物は笑っていた。快楽の歓喜に震えていた。
「テメェの『分身』をぶった斬られて、痛ぇ痛ぇと涙流して喜ぶたぁ、どうやらこいつがマジモンの変態ってヤツらしい」
低く押し殺した声の主は舞台袖にいた。
ブライト=ソードマンは腕組みをし、何故か安堵したような顔つきで化け物を眺めている。
目玉が動いた。顔の向きを変えぬまま、彼はマイヤーに
「おい、チビ助。そこの丸いのを引っ張って外に出ろ」
その口調は提案でも要求でもなく命令だった。もっとも理由や口調の如何を問わず、マイヤーがブライトに逆らえる道理はない。
床を這い、倒れ込んでいるフレイドマルの襟首を掴み、ブライトが立つのと逆側の袖へ後ずさった。
十三.黒い月
化け物は彼らが舞台から降りたことに気を止めていない様子だった。
「ああ、酷い男……『大切な人』が苦しんでいるのに、そんな言い種するなんて。なんて酷い、なんて酷い、ステキな人」
甘ったるい粘った声で繰り言を呟き続ける。
顔の上にあからさまな嫌悪を浮かべ、ブライトは石像もどきから顔を背けた。視線が移った先には、眉をつり上げて「鬼に堕ちた者」を睨み付けるエル・クレールがいる。
「こいつは、何だ?」
ブライトに問われると、エル・クレールの眼が針のように細くなった。
赤鉄鉱に似た色をしている。しかし鏡の原料ともなるその鉱石にあるべき金属光沢は、汚れた曇りに覆われてい、みられない。
人の形をしているが人の息吹は感じられないその「モノ」の銘が、彼女には読めた。
その言葉を表す文字が、アレに書かれているわけでも刻み込まれているのでもない。
見えている光景の他に別の情景が脳裏に浮かび、聞こえている物音の他に声が聞こえる。
漆黒の空に朔の細い光が赤く滲む人里離れた沼地。遠く聞こえる獣の咆吼――。
「【月】」
短く言い、エル・クレール=ノアールは武器の柄を握り直した。
錆の浮いた金属質の触肢が彼女の目の前にあった。直線的に、風を切って、迫ってきた。
蝕肢の切っ先は、形だけ言えば糸を巻いた紡錘に似ていた。突端が鋭く尖り、次第に太さを増した後、また尻つぼみに細くなっている。
それが多関節の長い触肢の先端にあり、【月】の、人の体で言えば後頭部にあたる部分に、繋がっていた。
顔面のすれすれにまで伸びたとき、尖った先端が二つに割れた。蟹や蠍の爪の形さながらに開いて、得物を掴み引き千切ろうとする。
標的は、
『私の、眼球』
だとエル・クレールは直感した。
上体を後ろに反らして避けた。
「二つも持っているのだから、一つぐらいアタシに別けてくれても良くないかしらん?」
エル・クレールはその声を、聞いたことのあると感じた。
妙に懐かしい音だった。しかし、嘘寒い。
蝕肢は彼女の顔の上を通り過ぎたかと思うと、直角に進路を変更し、下降した。
金属音がした。
床を蹴って跳ね上げられたエル・クレールのつま先が触肢を蹴り飛ばしていた。
はじき飛ばされた蝕肢は、弧を描いて舞い上がったが、軌跡をすぐに直線的なものに戻し、急速に後退した。
【月】の背後まで戻ったそれは、またしても垂直に降下した。
「欲張りな子。お前の持っている物は後で全部もらってあげるのだから。それまでは、コッチで我慢ね」
打ち倒されている旗手の頭に、蝕肢の先端が落下した。
頭蓋が苦もなく割られ、その中身は周囲にまき散らされた。
引き上げられた蝕肢の先は、丸い物を抓んでいる。白く、真ん中に茶色の円がある。
蝕肢の先端が上を向き、大きく開いた。嘴の大きな鳥が餌を飲み込む仕草に似ていた。
白い丸いものが開かれた中に落ち込み、飲み込まれて消える動きも、それを思わせた。
「この子、視力が良いとか腕力に自信があるとか、いつも言っていたのよ。……本当に嘘吐きで仕様のないこと」
まるで生きている人間のことを話しているかのごとき口ぶりで【月】は言うが、「この子」と呼ばれた旗持ちは、目も当てられぬ無惨な様の死骸となって地面に転がっている。
【月】はクスクスと笑いながら、半面を覆っていた掌を退けた。
無機質な黒い顔の落ちくぼんだ眼窩の中に、そこだけ肉の質感を持った眼球が嵌っていた。
「もっとも、近眼だということには、とっくに、気付いていたのだけれどもね。だってこの子ったら、書類を読むときに眉間にこんなに皺を寄せていたのだもの」
細い眉の形をした装飾の間に、【月】は三筋ばかりの溝を作って見せた。
「ああ、だからこうすると、アタシもあなたの顔が良く見えるのよ。横顔が……ちっともアタシを見てくれないつれない顔が」
【月】の言葉の通り、ブライトは彼女(と表現して良いのか判然としないが)から完全に顔を背けていた。【月】から目を背けているというよりは、顔を向けた方角にいるエル・クレールを見つめていると表現した方が正しい。
【月】はその存在すらも無視されている。
【月】はこれを侮辱と受け止めた。耐え難い屈辱とも感じた。肉体的な苦痛を快楽と感じる彼女(?)だったが、精神的な苦痛は好まないらしい。
掴んでいた幟旗の柄を投げた。
刺繍で分厚く縫い上げられた重い錦の布きれが、風を叩く音を立てた。
ブライト=ソードマンは上体を僅かに反らし、避けた。
そうするだろうと【月】も考えていた。元より視界を遮るつもりで投げたのだ。
こうすれば、投げつけられた側は少なくとも反射的に目を閉じるはずだ。
その瞬きの僅かな間は「エル坊や」から視線が外れる。
武芸者ならば、無意識に攻撃が発せられた方向を向くだろう。
「さあ、こちらを見なさい」
雑音混じりの声を【月】が上げた。が、直後、【月】は自分の淡い期待が見事に裏切られたことを知った。
彼は目の前を猛烈な勢いで横切ろうとする棒きれを、そこに置いてあるもののように掴んでいた。
瞬きをすることもなく、攻撃者を確認することも全くなかった。
「人間サマの皇帝に対する敬意は、まるでナシ、か。ま、コッチもヒトのことを言えた義理じゃねぇが」
ブライトは掴んだ竿を乱暴に振り、剣先形の飾りが付いた竿頭を下にして床に突いた。床にだらしなく広がった「錦の御旗」を、草臥れた革靴が踏みつけにした。
この、まさに瞬きするほどの間、彼の黄味の強い茶の瞳は、視線を送る方向を変えていた。
【月】に目を転じたのではない。
彼はずっとエル・クレールから視線を外さずにいる。見つめる対象が動いた、その走る軌跡を忠実に追っていた。
伸縮自在な蝕肢をかわしたエル・クレール=ノアールは、蜻蛉を切って身を立て直していた。彼女はアーム【正義】の抜き身をひっさげたままつむじ風の勢いで舞台から飛び降りた。
打ち合わせを重ねた殺陣を演じているかの如く、滑らかな動作だった。
客席の椅子を飛び越えて向かった先には、二人ばかりの男が震えて立ちつくしている。
勅使グラーヴ卿の家臣達だ。
目の前で主が得体の知れぬ化け物に変じ、それによって同僚が無惨な亡骸とされたことに、彼らは恐怖している。互いに寄り添い、抱き合うようにしてようやく立っている。
一人の男はなめし革の鎧の上にギュネイ皇帝の旗印を縫いつけた上着を羽織り、長い剣を下げている。剣術の稽古で潰れたらしい耳朶に、赤い石の嵌った耳輪を付けている。衛兵のような役目を負っていたらしい。
もう一人は体の幅の厚い男で、緑色のベストを着、鵞鳥の白い羽根が付いた赤いフェルト帽を片手に握りしめている。短く切りそろえたあごひげの下から、首に巻き付けられた短い首輪の赤い石の装飾が見える。これは勅書や触書を読み上げる伝令官であろう。
エル・クレールの緑色の目が衛兵らしい男を睨め付けている。
男は身を縮め、目を固く閉じた。
エル・クレールは駆けながら無言で剣を振った。下からすくい上げられた切っ先が、衛兵の男の耳を刎ね飛ばした。
べたりと湿った音を立てて地面に落ちたものは、初めは耳朶の形をしていたが、すぐに溶解しはじめ、やがて腐汁となって流れ出した。
悲鳴が上がった。衛兵の喉からではなく、化け物と化した彼の主の口からだ。狂喜と歓喜にうちふるえる雄叫びだった。
ほとんど同時に、他の叫び声も上がった。
読み上げ係の伝令官だ。
彼はしかし、同僚が斬りつけられたことに驚いて声を出したのではなかった。
急に胸が焼けるように熱くなった。
思わず掻きむしった指先に妙に柔らかい触感があった。
己の手をまじまじと見た読み上げ係の伝令官は、腐った蕃茄を握りつぶしたような赤と、融けた乾酪のような薄黄色が、指と言わず掌と言わず、べっとりまとわりついているのを見た。
それらが元は己の血肉であり脂肪でああったことを、彼は理解できなかった。物事を考える余裕がなかったのだ。
首輪が首を締めつけている。
主から直々に賜った装飾品だった。
赤い飾りの石が脈打つように蠢いているのは、彼には見えなかった。外そうと足掻いたその時には、もう呼吸ができなくなっていた。
「意識を保て!」
エル・クレールは叫び、アームを振り下ろした。
顎から胸までの肉ごと、この男を浸食し始めた【月】の汚れたアームの欠片をえぐり取るつもりだ。
深紅の剣先は、はじき返された。
勅書の中身を言葉として発させるのが「役目」であった伝令官の喉元から、別のモノ、見覚えのある蝕肢が突き出ていた。
「そうやって……己のアームを分け与えた他人の体を媒体にして……移動するのかっ!」
間髪を入れず、真っ直ぐに己に向かってくる蝕肢をかわしつつ叫ぶエル・クレールに、
「ちょっと当たっていて、ちょっと違うわね」
伝令官の喉の奥から、男のそれとは思えない声が発せられた。
「アタシは鏡。鏡はいろいろなモノを写す。例え小さな欠片でも、周囲をその表面に映し出す。アタシはそれを見る。それを聞く。そしてアタシ自身の肉体に投影する」
グラーヴ卿の声ではなかった。柔らかく、優しげでいて、粘り着くように甘いその声は、しかし【月】の声に違いなかった。ただし先ほどまでのざらついた雑音が消えている。
ブライトの耳には、聞き馴染んだ声に似て聞こえた。
彼ははほんの一瞬【月】の本体のある場所に片方の目玉を向けた。
『姿だけでなく声まで真似られると来たか』
エル・クレール=ノアールをモデルに匠が黒御影で性愛女神を彫り上げたなら……そしてそれが数百年の時を経たなら……おそらくこのような裸像ができるであろう物体があった。
『対象物を長く見、詳細に写し込むほどに、本物と虚像の差が縮まる……らしいな』
【月】にとって不幸であったのは、この一瞬間、彼女が「よそ見」をしていたことだった。
戦闘の相手を、衛兵や伝令に授けた小さな破片からのぞき見るのではなく、我が目で見、鏡本体、すなわち自分の体の表面に写し込もうとするあまり、彼女は邪恋の相手がこちらを見てくれたことに気付かなかった。
ニセモノの横顔に浮かぶような恍惚の色が本物のエル・クレールの顔に広がった所を、少なくともブライトは見たことがない。それでも彼女がその表情を浮かべたとしたなら、それはこの石像もどきと同じ顔になるに違いなかった。
本物が行っているところを直接映さずとも、本物と同様のことができる、ということらしい。
『この分だと、おそらく「能力」まで写し盗りやがるな。やれやれ、厄介な鏡の化け物め』
ブライトの目玉はすぐに元の位置に戻った。
直後、彼の眉間には深い縦皺が刻まれた。
【月】の声を聞いたエル・クレール=ノアールが、おびえている。
「アタシはとっても好奇心が強いの。あれもこれも、総てを知りたいし、総てを手に入れたい」
ブライトにエル・クレールの物真似と聞こえた【月】の声を、エル・クレールはかつて聞き覚えのある声と感じた。
その声の優しさ、懐かしさ故に、彼女の体は強張っている。
伝令官の喉元から、蝕肢ではない、もう一本の物が突き出た。どす黒いそれは左の腕の形をしている。手に、澱んだ赤の細身の剣を握っていた。
蝕肢の直線的な攻撃は、どうにかかわした。かわした先に筋張った腕が待ちかまえてい、弧を描いて斬りつけてくるのも、何とか防いだ。
それらはぎこちない動作だった。動きから精細さと柔軟さが失せていた。
飛び退いて、着地を失敗し、椅子の列の中に倒れ込んだ。
革靴の音がした。倒れ込んだ椅子を蹴り飛ばしながら、エル・クレールの側に寄って来る。
良く磨かれた革靴を履いた伝令官の肉体は、上体を反らした安定感のない体勢になっていた。頭は真後ろに落ちこんでいる。
彼の目に前が見えるはずはない。位置的にも、そして生物学的にも。
にもかかわらず、ふらつきながら伝令官の「体」は歩いている。喉元から生えた腕の脇、蝕肢の根元に、大きなコブができていた。
不気味な音がした。肉が千切れ、骨が砕ける音だった。
コブが大きくなって行く。
皮膚の下に、凹凸のある丸いものが埋め込まれているようにも見えた。
【月】は笑いながら言う。
「あなたにもアタシの気持ちがわかるでしょう? だって、あなたはアタシだもの」
ぬらした革製品が裂ける音が鳴った。ほとんど同時に、錆びた鉄と腐った肉の臭いが当たりに広がった。
伝令官の首と胸の間、破れた皮膚の下から、血肉に塗れた女の首が現れた。
額の丸い、彫りの深い、端正で、どこか幼い顔立ちの、真っ黒な女の頭が、男の体の胸の上に唐突に乗っている。
上体を起こしたエル・クレールは、真っ白い顔を化け物に向け、唇を振るわせた。
「お母様?」
ブライトの耳朶がピクリと振れた。それ以外に表情の変化はない。
しかし、彼は心中で叫びにも近い驚愕の声を上げていた。
『テメェの顔真似が、母親に見える、だと? いやそれ以前に、あの化け物の声を親の声に聞き間違えていやがったか』
伝令官の体から生えた頭の造形は、ブライトにはエル・クレールそのものに見える。ただし、元の【月】の淫奔さが声にも表情にもにじみ出ている。それは今の彼女の肉体からはほとんど感じられないものだ。
それがためにエル・クレールにはあれが自分の虚像だとは認識できないのだろうと、彼は考え至った。
彼女の耳は自分と似た、自分よりもずっと大人びた声を聞き、目は大人びた女性を見たのだ。
すなわち、彼女の母親の姿を。
ブライトはエル・クレールの口から直接両親のことについて詳しく聞いたことはなかった。
彼女が自ら話すことはないし、ブライトも聞き出そうとしなかった。
聞き出す必要はないと考えていたのだ。
山奥の小さな集落に押し込められた老いた元皇帝と若い妃が、鬼共にどのように殺され、いかように拐かされたのか、あえて聞くまでもなく見当が付く。
『親父は真っ当な死に様じゃなかったろうし、お袋が着衣乱れぬまま連れ去れれたなんてことは到底ありえねぇ』
鬼畜の所行という言葉はこの場合比喩ではない。童女であったクレール姫がどれほどのショックを受けたのか、想像に難くない。
しかも、しくじりに際すれば己を責めるあまりに鬼に堕ちかけたことが幾度かあるほどに、責任感の強い彼女のことだ。親と故国が受けた辱めすらも、自分に力があれば防げたと、自分が非力であるが故に皆を救えなかったと、思い極めているのだろう。
エル・クレール=ノアール、いやクレール=ハーン姫にとっては、両親、殊更生き別れてしまった母親という存在そのものがトラウマだと断じてもよい。
『ウチの可愛いクレールちゃんは、本人が見間違うくらいに母親似だってことか』
ブライトは男の体から生えた真っ黒な女の顔らしき物体を睨み付けた。
見る間に【月】の面に喜色が広がる。
「ああ、見て。アタシを見て」
蝕肢と腕が攻撃の動きを止めた。
エル・クレールが身を起こすのに十分な隙だった。それでも体勢を立て直すための猶予を与えてくれるほど【月】は情け深くなく、悠長でもなかった。
ブライトが見ているのが彼女自身ではないと気付くのにそれほど時間はかからなかった。僅かの間休んでいた蝕肢はすぐにまた鋭角な動きを取り戻した。エル・クレールの顔面めがけて真っ直ぐに飛びかかった。
避けつつ、撲つ――エル・クレールは判断し、行動した。
蝕肢は白金の髪を二筋ばかり引き千切り、彼女の顔の横を通り過ぎた。
すかさず剣を跳ね上げるように振った、筈だった。
エル・クレールの腕だけが、天に向かって突き上げられていた。
手の中には何もなかった。握り頼っていた武器がない。
通り過ぎた蝕肢の先端が、U字に舞い戻ってきた。身を縮めてやり過ごし、床を転げてその場は逃げた。
執拗な追撃が床にいくつもの穴を開けた。
壁……といっても厚織りの天幕地だが……の際まで転がった。逃げ場がなくなった。
顔を上げると、【月】は遠く離れた場所で顔面に焦慮を広げ、歯ぎしりしていた。
「本当に男の体という物は美しくない。重いばかりで動くことさえままならないなんて」
よたよたと歩いている。
どうやら乗っ取った伝令官の肉体が思うように動かないらしい。あるいは彼はまだかすかに意識を保っていて、必死に元の主に抵抗しているのやも知れない。
兎も角、体を「操縦」している間は、攻撃の手を弱めなければならないらしい。
エル・クレールは己の腰に手を伸ばした。
その場所にアーム【正義】が封印されている。手の内から消えた武器が戻る場所はそこしかない。
腰に触れた途端、鞭打たれたような音がし、指先に激しい痛みが走った。
アームが力を解放することを拒んでいる。
目の前が暗くなった。
「エル坊や、うふふ、あなたの武器は、とってもあなた思いなのね」
【月】の声が徐々に近付き、
「あなたの武器は、あなたを傷つけたくないのよ。だからアタシを斬ることができない。だってそうでしょう? アタシはあなたそのものなんだもの」
止まった。
【月】はエル・クレールから五歩あまり離れた場所に立ち停まっていた。移動することを止めたのだ。すなわち、攻撃に専念するということだ。
蛇蠍が気炎を吐き出すような、すれた音がした。
「厄介な」
ブライトは小さく舌打ちした。
「男親というヤツは、娘とニセモノの区別が付かないもンかね? それとも、娘と一緒であの化け物にテメェの女房の影を見ちまったか?」
焦思しているような言葉を吐き出しはしたが、実のところ彼はそれほどの危機感を抱いてはいなかった。
それよりも気にかかるのは、背後に現れたはっきりとした殺気の方だ。
彼は躊躇することなく戦いの中心から目をそらした。
抜き身の刀にすがってようやく立っている痩せた男がいた。背後には不安げな顔をした踊り子が一人いる。
「よう、腰巾着。何しに来た?」
イーヴァンは苦々しげに大柄な男を睨み付けた。
「チビ助は、どこだ」
粗い息の下から、掠れた声が出た。
ブライトは答えず、顎で客席側を指した。
イーヴァンは杖のように床に突いていた長剣を持ち上げ、構えた。
ブライトは若者……と言うよりは少年の、一途で混濁した目を見返した。
目の中に嫉妬の火が揺れている。
イーヴァンは、主人が執着しているのは美しい少年の方だけと信じている。
呑み喰い屋で気勢を殺がれたことが先入観となっていた。
自分を倒したあの「チビ助」が特別なのだ。崇拝していた主が固執していたのも、「彼」が特別な何かを持っているからに違いない。
この若者は、よく言えば一本気、悪く言えば短絡的な性格だった。実際に剣を交えていない「下男」のことは、まるで見えていない。その存在すらイーヴァンの念頭になかった。
その上不幸なことに、心身の衰弱が彼の心眼を狂わせていた。目の前の男がどれほどの力量を持っているのか、冷静に計ることができない。
「退け」
肩で息をしている。膝も笑っていた。剣の重さにようやく耐えて、どうにか立っている。
イーヴァンの霞む目に、男が貧相なまでに細い槍を左手に握り、みすぼらしい剣を一振り腰に下げているのが見えた。
この男がチビ助の家来であるならば、主を守るため、槍で突くか、剣を抜くかして自分に攻撃する筈だ。そうでなければこちらの攻撃を身を挺して防ぐに違いない。
ところが。
「ウチの可愛いおちびちゃんをぶっ倒して、あの化け物の寵愛を取り戻してぇってンなら、自由にするさ」
ブライトは体を開いて道を空けた。
「何を言っている?」
イーヴァンは目を見開いた。事態が飲み込めなかった。
「さっさと行けと言ってるのさ。てめぇと『愛しいご主人様』とが二人でかかりゃ、今のあいつになら或いは勝てるかもしれねぇぜ」
驚くべき言葉だった。主が殺されることを望んでいるようにすら聞こえる。
「貴様、主君を守ろうという気がないのか? この不忠者め」
イーヴァンの眼中の火が、嫉妬から怒りに変じた。彼は剣を振りかぶり、ブライトに斬りつけた。
剣は中空で停まった。ブライトは右の掌で剣の身を受け止めていた。
イーヴァンは愕然とした。
片刃の長剣は、重さと腕力で相手を叩き伏せ、撃ち斬る武器だ。体力を失っている今のイーヴァンでは十分な勢いを与えることができなかったため、斬撃に本来の攻撃力はない。
とは言え、抜き身の本身を、手袋一つの素手で受け止めることが、並の人間にできるはずはなかった。
エル・クレールが剣を使って防いだことでさえ、イーヴァンにとっては信じられぬことであった。その剣が木刀であると知った時以上に彼は驚愕した。
「不忠者たぁ、面白い物言いだな」
ブライトは長剣を掴むと、軽く引いた。釣られてイーヴァンの体が前へ倒れ込んだ。
床に伏して振り仰ぐイーヴァンの顔を一瞥すると、ブライトは右手に掴んだ剣を軽く放り投げた。
切っ先で半円を描き落ちてきた剣の柄を、彼は無造作に引っ掴んだ。
『死ぬ』
イーヴァンは直感した。
自分の剣で殺される。
一撃でとどめを刺してくれるのか、嬲り者にされるのかわからないが、間違いなく死ぬ。
悔しい。悔しく、情けない。一矢報いたい。しかし体は一寸も動かない。
イーヴァンは目を固く閉じた。
瞼の裏側に焼き付いた男の顔が、口元を歪ませた。吊れ上がった唇の下で、太く長く鋭い犬歯が白く光る。
「一匹を二人掛かりで倒すってのは面白くねぇから、員数あわせをしてもらおうと思ったンだが、テメェがそのざまじゃ数のウチには入れられねぇな」
ブライトはどこか楽しげに言った。
「大体、俺サマにゃあいつに忠義やら忠誠やらを尽くす義理なんぞねぇんだよ」
「何、だと?」
理解できない。疑念の色がイーヴァンの青白い顔の上に広がった。
「いや、そんな面倒臭ぇモノはいらねぇって言った方が良いかもしれんな」
ブライトはイーヴァンから奪い取った剣と錦の御旗をはぎ取った旗竿とを左右の手に握ると、それぞれを肩に担うように構えた。
両の目で別々の的に標準を合わせている。
二筋の風が僅かな時間差で起きた。大気が悲鳴を上げた。
剣は曇った鏡面の肌を持つ化け物の顔面へ、旗竿は武器を失った剣士の頭に、それぞれその切っ先を向けて真っ直ぐに飛んだ。
人力によって投げられたなどはとても思えない。攻城戦用の連弩から撃ち出されたかのような猛烈な速さと重さを持っいる。
右腕が発射した剣の方が僅かに早く目標に達した。【月】の眉間のど真ん中に、刃区に至るほどに深く、剣が突き刺さった。
「ああっ!」
叫んだのはイーヴァンだった。細い筋張った手指で顔を覆った。恐る恐る、指の隙間から「主であったもの」の様子をうかがう。
【月】は無言だった。攻め手が止まっていた。両方の目を中央に寄せ、己の額に何が起きたのかを確認した。口元に浮かぶ悦楽の笑みが大きくなった。
その耳に、別の風音が聞こえた。
赤い、細い、何かが飛んでくる。
申し訳程度に尖った切っ先が、エル・クレールのこめかみに突き立てられようとした。
「ああっ!」
この悲鳴もイーヴァンのものだった。思わず目をつぶっていた。
エル・クレールはこの「攻撃」を上体を僅かに反らしただけで、避けた。
そして、左の腕を持ち上げると、目の前を猛烈な勢いで横切ろうとする棒きれを、そこに置いてあるもののように掴んでいた。
彼女は瞬きをすることも「攻撃者」を確認することも全くしなかった。
エル・クレールは爆ぜるように立ち上がった。
手の腹に棘が刺さったような、小さな痛みを感じる。
武器とするには心もとない細さの棒きれを握りしめ、身構えた。
【月】はエル・クレールをじっと見た。
「ねえ、勇ましくて可愛らしい『アタシ』」
エル・クレールは唇を真一文字に引き結び、【月】をにらみ返す。
「あなたのお付きの、あの逞しい方ね……それからあなた自身もだけれど……賢いのかそうでないのか、アタシにはさっぱりわからなくなったわ」
蝕肢が、顔の形をした石くれに突き刺さっている剣の柄に巻き付いた。
「だってそうでしょう? こんなモノやそんなモノで、アタシを倒そうなんて……」
蝕肢が前後左右に動いた。骨にこびり付いた肉を大包丁でこそげ落とすような、薄気味の悪い音がする。
石くれの顔の表面がひび割れた。中からドロドロとした茶色い粘液があふれ出る。
一際大きく深いひびが頭蓋を取り巻くように走ったかと思うと、半球型の石の塊がごとりと落ちた。
「まさか本気で思っているの?」
眉から上の頭蓋がなくなった石像から、長い剣が引き抜かれた。
腐汁に塗れた剣が、エル・クレールに向かって投げ付けられた。
細い旗竿がしなる。剣の横腹を叩いた。
鋼の塊を払い落とした木の棒は、折れて、その先端部分は文字通りに木っ端微塵となり、吹き飛んだ。
降り注ぐ木切れの中から、蝕肢と赤黒い剣の形をしたものとが飛び出してきた。
エル・クレールは残った半分の旗竿を両の手で握り、防ぐ。
折れた棒きれごときで防ぎきれる攻撃ではなかった。竿は更に短く折れ砕けた。
ナイフ程の長さになった旗竿を、エル・クレールは右手に握った
【月】の左手が突き出される。
旗竿で打ち払った。剣を握った形の手首が、普通の肉体ならば決して曲がるはずのない方向に折れた。
淫猥な歓喜の悲鳴と同時に、蝕肢が伸びていた。先端の爪が開く。エル・クレールの頭に噛み付こうとした。
エル・クレールは咄嗟に左の腕を振った。硬い外骨格を平手で打つ。
金属と金属が当たる音がした。
【月】の蝕肢は、それが旗竿を砕いた時と同じように、ひび割れ、粉砕され、吹き飛ばされた。
そればかりか、【月】の本体も弾き飛ばされていた。
「なにごと!?」
仰向けに倒れながら、【月】はエル・クレールの姿を探した。
彼女の体は【月】が倒れる反対に向かって、やはり飛ばされていた。
十四.いにしえの【世界】
エル・クレールは意識を失った。深淵の底の深い闇に突き落とされたような、ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感が彼女を包んだ。
しかしそれは一瞬のことだった。目を開いた。
床があった。
四角く切りそろえられた石が、律儀に隙間なく組み合わされた床だ。
ならした土の上に薄い布を敷いただけの、移動式芝居小屋の床ではなかった。
長い間、日の光を浴びたことがない、燭台の灯火にすら照らされたことのない、冷え切った床。
彼女はその上に打ち倒れている。
敷き詰められた石の目地の中で、埃のような砂粒がブルブルと揺れていた。
床が、彼女のいる場所が、揺れ動いている。
床の振動の奥から聞こえるのは、人の声、足音、物が壊れる音。
『戦……』
直感したが、確かめられなかった。
身を起こすことができない。指の一本を動かすだけの力すら湧いてこない。
「望みは叶ったか?」
強い風のうねりのような低い声が、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
「ここがお前の【世界】だ。この場所に君臨するが良い。お前の民は誰一人として悲しむことはなく、誰一人として苦しむことはない。餓えも貧しさも、不平等も搾取もない。お前は誰からも攻められず、憎まれず、責められず、蔑まされない」
彼女は目を閉じた。血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
首を振った。実際にそうしたのかどうかは、彼女にも解らない。
しかし彼女の心は拒絶と否定を示していた。
「お前の言いたいことは判っている。お前が望んでいることを、こんな詭弁でごまかせるモノではないからね。だがね……」
仄暗い闇の奥から、赫い薄明かりを纏った逞しい拳が差し出されるのが見えた。
「隔絶され、閉ざされた、小さな【世界】、それがお前の【世界】なのだよ。そしてお前がここにいる限り、ここがお前の【世界】であり続ける」
「ここに、いる、限り……」
不意に体が軽くなった。
彼女は冷たい床から身を起こし、当たりを見回した。
狭い部屋だった。石を積んだ強固な壁に、丸く取り巻かれている。手の届かない高さに、一つだけ小さな窓があった。
歪んだ四角の枠の中の小さく青く澄んだ空を、白い雲と灰色の煙が流れている。
地揺れがした。
頭上から細かい土埃が舞い落ちる。
「外から崩されて、押し潰されるか。内から崩して切り開くか。お前の選ぶべき道はわかっているだろう? 勇敢なノアール……いや、賢いクレール」
大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、彼女は耳新しさを憶え、懐かしさをも感じた。
頭の上で、何かが壊れる音がした。
エル・クレール=ノアールは無数の椅子の残骸の中に身を横たえていた。
右の二の腕の関節のない場所が折れ曲がっている。
痛みは感じなかった。脳漿の中で沸騰する何かが、苦痛や恐怖を取り払っていた。
「右は……不要!」
跳ね起きた。
左の手に力を感じていた。使い慣れた【正義】のアームと似た、しかし別の、そして弱い力だった。
木切れを踏みつけ砕き割りながら、彼女は床を蹴った。
数歩先に【月】が倒れているのが見える。
エル・クレールがその直前に着地し、低く身構えた時、女の裸身が動いた。
腹の横から突き出た幾本もの尖った「脚」が、強張った【月】の体を床から持ち上げ、がさがさと移動させている。
割れた頭蓋が、いつの間にか元の形に戻っていた。その代わり、【月】の上半身の下にあった伝令官の頭がなくなっている。
「姿をお見せ、かわいいエル坊や! その美しい顔を、映し盗ってあげる」
叫び、腕を伸ばす。文字通りに腕が伸び、エル・クレールの喉元にからみついた。
腕はエル・クレールの首を締め付けながら縮んだ。引き寄せられるように【月】の上体が起き上がる。
このとき【月】は気付くべきだった。
エル・クレールが自身の腕を振り払おうとしなかったこと、引かれることに逆らってむしろ【月】の身を起こさせようとしていたことに。
起き上がった【月】の曇った鏡面に、白い顔が映り込んだ。
鋭い眼差しには、戦う決意が見える。
優しげな口元には、慈愛の微笑がある。
【月】の顔が歪んだ。
「お前は、誰?」
エル・クレール=ノアールの顔面は、埃で少しばかり汚れている。頬や額には血の滲む擦過傷と小さな切り傷とが出来、頬骨のあたりには打撲の痕が赤く腫れている。
しかしそれらは彼女の顔貌を他人にしてしまうほどの変容とは言えない。
彼女の顔立ちは、どこか幼さのある若者ようで、意志の強い少年のような、世間知らずな生娘のそれのままである。
エル・クレールの顔が【月】の鼻先に引き寄せられた。【月】は目玉を見開いて、彼女の顔を見た。
曇った凸面鏡に、女の顔が映った。
気の強そうな顔だった。
化粧気のない顔だった。
薄い傷跡がいくつも残る顔だった。
酷く痩せていた。
日に灼けた皮膚が髑髏の上にぴんと張られた顔の、落ちくぼんだ眼窩の奥で、灰色の瞳をぎらぎらと光っていた。
【月】の目が、針のように細く鋭く変じた。
「アタシ……」
ヨハネス=グラーヴの胸の奥に、一つの景色が浮かんだ。
酒場だった。
上等な社交場とは言い難い。薄暗い店内では、あまり身なりの良くない男達が、一人か二人ずつ席について、話もせずにちびりちびりと酒をなめている。
ただ一席、酷く騒がしいテーブルがあった。若い剣士達が数人集まって、笑い、呑んでいる。
明日とある良家の婿養子となる花婿とその友人達が、友の結婚を祝い、独身最後の日を惜しむ乱痴気騒ぎを饗しているのだ。
「――も、明日から城伯サマか。出世した物だな」
友人の一人が花婿の杯に強い酒を注ぐ。口調には厭味と軽蔑と羨望とが入り交じっていた。
皆、貧乏貴族の次男や三男だった。相続権は無いに等しく、身を立てるためには武功を上げるか実力者に取り入るか、でなければどこかの家付き娘の婿になるより他ない連中である。
ハーンからギュネイへの禅譲が平穏に執り行われたほどに、表面的には平和な昨今である。武に依る出世などというものは、夢のまた夢だ。
実力者に取り入るには多くの付け届け(有り体に言えば賄賂)が要る。元より領地の無いに等しい小貴族の家にはそのような「余分の費用」をひねり出す余裕など無い。
どこかの令嬢と縁を結ぶにしても、相続権付きの花嫁などは相続権付きの花婿と同数か、むしろ少ないのだから、やはり難しい。貴族の箔が欲しい平民の金持ちの所へ転がり込めればしめたものだが、そういった口も多くあるわけではない。
そんな中、この花婿は城伯という、言わば地方都市の「王」の娘と婚姻することとなった。友人達が羨み、嫉み、妬むのも当然であり、仕方ないことだった。
木の杯にあふれるほど注がれた強い安酒をあおりつつ、花婿はニタリと嗤った。
「まあ、しばらくはおとなしく猫を被って辛抱することになるがな」
「辛抱か」
「確かに辛抱が必要だろうな。花嫁殿のあのご面相は……」
一同、笑いを堪え、肩をふるわせている。
「なんでも城伯様は男の子を欲していたとか。生まれた赤子の顔を見て、願い適ったと小躍りしたが、産婆に『姫だ』と言われて失神したそうな」
「親が気を失う顔か!」
友人達がどっと笑った。
「それでも跡取りを作らぬ訳にはゆくまい」
「――に一番の贈り物は美女の面であろうよ。明日の夜、床に入る前に女房の顔にかぶせてしまえ」
「いやいや麻の袋で充分だ」
花婿が一番の大口を開けて笑っていた。
「思えば哀れな娘ごだ。広い額に尖った鼻。眼差し鋭い三白眼。まだしも男に生まれておれば、中々に勇ましき顔と言われはしても、こうして笑われることはあるまいに」
別の友人が杯を掲げた。
「気の毒なヨハンナ嬢に乾杯」
皆がそれに応じて笑いながら杯を掲げる。
「乾杯」
そのかけ声は、直後に悲鳴に変わっていた。
彼らは考えもしなかった。
よもやこんな場末の酒場に、城伯の姫がただ一人訪れていようとは。
哀れで愚かな男達は、自分たちが「男であればまだ見られる」などと言ったその顔立ち故、彼女が男の形で酒場の暗がりにいることにまるで気がつかなかったのだ。
しかも彼女がよく斬れる剣を携えていて、それをいきなりすっぱ抜くなどと、だれが思い至るであろうか。
城伯の一人娘・ヨハンナ=グラーヴは、瞬く間に男達を斬り倒した。
男装した姫の太刀筋は、彼らの急所から微妙にずれていた。
彼らは即死しなかった――そう、不幸なことに。
城塞都市の法律執行職を司る城伯は、本来は戦争の最前線施設の司令官だった。故に戦乱の時代にはその職にふさわしい人材、すなわち特に武に優れた者や、兵法に達者な者がその称号を得、職を任じられ、城を守っていた。
大きな戦の無くなった太平の世では戦争の司令官という職務の部分は完全に形骸化している。城伯の称号だけが他の爵位同様に漫然と世襲されていた。少なくとも、他の城塞都市では。
グラーヴ家はいささか違った。
初代は武を持ってハーン帝国の始祖ノアール=ハーンに仕え、武によって取り立てられた人物とされている。
武によって与えられた領地の、武によって守り抜いた城の中で、彼を武功を讃える数多のモニュメントが人々を睥睨していた。
「武人として得た地位は、武人として守らねばならない」
肖像画が、胸像が、レリーフが、壁画が、天井画が、無言の言葉を発し続ける。
時が流れ、平和な世となっても、歴代の当主達は「武人であること、軍人の誇りを持つこと」を己と己の子孫達に強いた。
ヨハンナ=グラーヴの父親ヨハネスが、一人娘を娘として扱おうとしなかった理由も、その血の妄執にある。
「グラーヴ家の総領は、勇猛な騎士にして苛烈な戦士でなければならない」
ヨハネス=グラーヴ城伯は娘に己の名を継がせた。父も家人達も「彼」をヨハネスと呼んだ。
母親だけはヨハンナと呼んでいだ。ただし、その女名前を口にできるのは、夫の目と耳が届かぬ場所に限られていた。
兎も角。若いヨハネス=グラーヴは、父親の望む通りの剣術使いになった。城下で「彼」に敵う者は数えるほどしかいないほどの手練れになった。
父が急死するまでの間、若いヨハネスは「理想的な領主の嫡男」であり続けた。
すなわち――。
花婿の友人達が即死しなかったのは、攻撃者の技量が足らなかったためではない。ヨハンナはあえて急所を突かず、思うところあって止めを刺さなかった。
それは慈悲によるものでも憐憫からのことでもない。城伯の娘は彼らの命を惜しんでなどいなかった。
彼らは長い間悶え苦しみ続けた。血潮が流れ尽きるまで、彼らは生きていなければならなかった。
彼らの霞む目に、花嫁と花婿の最初で最後の儀式を見せつけること。それがヨハネスと呼ばれたヨハンナの望みだった。
友人達の血に足を取られ、花婿は汚れた床の上に尻餅をついた。
「酒の上の冗談だ。羽目を外しすぎた。許してくれ」
花婿が声を震わせる。ヨハネス=グラーヴは小さく笑った。花婿の顔に安堵の血の気が戻ったのは一瞬のことだった。
彼の妻となるはずだった娘は、微笑を湛えたまま長剣を振った。彼の胸板は薄く斬られた。
長剣の切っ先にまとわりついた花婿の血を、花嫁は左の紅差し指で拭った。鉄の匂う朱の液体が指先からどろりと流れた。
「卿が主君を弑したことについてだが……」
ヨハネス=グラーヴの声は、暗く、低い。
花婿は頬を引きつらせた。
彼の主君とは、老ヨハネス=グラーヴであった。すなわち、いま彼の眼前で抜き身をぶら下げている「若いヨハネス」の、彼が花嫁と決めた「気の毒なヨハンナ」の父親である。
彼は自分の計画を秘密裏に立て、秘密裏に実行したつもりだった。城伯殺しの犯人は誰にも知られていないと信じていた。
震え上がった。同時に疑念が生じた。
「君は、それを知った上で僕との婚礼を?」
掠れた声で反問した。
「父を謀殺した仇を探さない者がいるかえ?」
当然のこという口ぶりの答えと、血濡れた剣の切っ先が花婿の胸を指し示す。
剣先は空中で停まり、動かない。花婿は固唾を呑んだ。
「そのことだが、私は卿に謝辞を述べようと思っていた。実は私も、廃された皇帝に対する感傷を忠誠と履き違えるような人物は、新しい皇帝が治める国から取り除くべきだと、常々思っていた」
ヨハネスと呼ばれていたヨハンナの言葉は花婿を驚愕させた。彼の知る「若いヨハネス」は父親に対して忠実であり、不平不満を述べることなど微塵も無かったからだ。
「僕は、つまり、君の望みを叶えたということになる」
花婿は硬い笑顔を作った。だがヨハンナは彼の言葉に対して返答しなかった。
「私は卿のとった手段については非難している。夜陰に乗じた暗殺は、騎士道に反する」
剣の先が花婿の左胸にあてがわれた。
「老伯の側にはいつも君がいる。君はこの城下で並ぶ者のない剣士だ……僕が正面から斬り掛かって、君に勝てるはずがない」
花婿は引きつった声で弁明した。
「だから卿は、あの年寄りが愛妾の所へ忍んでゆく夜道に襲った。『悪所』通いの父親を軽蔑した『倅』が、その時ばかりは護衛をしないと知って……。良い作戦だと思う。私が卿であったとしたら、やはりその策をとる」
「そうしなければ……老伯を殺さねば、君と結婚できなかったからだ。あの方は、あくまで君を男として扱っていた。あの方が生きている限り、君は婿を取ることができなかった」
まくし立てる花婿の胸元から、剣先が僅かに引かれた。花婿は息を吐き出し、
「妻よ」
小さく呼びかけた。ヨハンナは灰色の目を細めて彼を見つめ返した。
「そのことを……君は誰かに調べさせたのか」
「否。我が身一つで」
「では、知っているのは、僕と君だけか?」
「他の誰にも漏らしていない」
「では、夫婦の秘密だ」
ヨハンナは頷いた。彼女の唇に浮かぶ微笑は、しかし嘲笑だった。
「卿に美しい愛人がいることも……」
花婿は息を呑んだ。その場から逃げようにも、腰が立たない。
ヨハンナ=グラーヴは血に濡れた指先が薄い唇をなぞった。
土気色の生き生きとした赤に色づく。
指先は頬骨の上を滑る。
青白い頬が赤く輝いた。
「さようなら、愛しい人。私ではなく、城伯の爵位に恋した人」
十五.現世
「哀れな人」
潤んだ緑色の瞳から雫があふれ、白い頬をつたって流れ落ちる、怪我と埃にまみれた乙女の顔を見た【月】は、
「そう……哀れな男の、つまらない昔話よ」
薄い唇で大きな弧を描いた。
「ねぇ、男の服を着せられた、可哀相なエル坊や。男の子が欲しかった、男であれば良かった、女など要らない……そう言われて育った不憫な鬼子のお前だもの、そんな女の子のような顔は要らないでしょう?」
落ちくぼんだ眼窩の中で【月】は目玉を見開いた。
「要らないお前の姿なら、アタシに映し盗られたって、ちっとも構わないでしょう? お願いだから、もっとしっかり見せて頂戴。その目も、髪も、体も声も、全部よ」
得物の顔貌姿形を、己に映し、己の姿とするために、彼女はエル・クレールを睨め付けた。
ボンヤリと曇った黒い石には、痩せた中年男のような顔をした老嬢の、落ちくぼんだ灰色の目玉が映った。
この世で一番見たくないものだった。
「何故!」
【月】は叫び、顔をそらした。
頬のこけた横顔を見、エル・クレールは呟く。
「お前は私を『親が男でないことを憾み、男の服を着ることを強いられ、無理矢理男のように育てられた、不幸な女』だと思いこんでいる。お前が見ているのは都合良く勝手に解釈した私の上辺。いいえ、お前自身の姿に他ならない」
エル・クレールの首に巻き付いた『腕』の力が強くなった。
「憎たらしい子! 形を映しても、生かしておくつもりだったのに……もちろん鏡を植え付けてお人形にして、だけれども」
【月】の総身から殺意が噴き出ている。
気道が狭まり、頸動脈が圧迫された。
「憎らしいから殺してあげる。命がなくなったら、さすがに体は要らなくなるでしょうから、全部頂戴ね」
【月】の眉間の当たりに、赤い色が浮かんだ。黒く濁った赤は、欠けた円の形をしている。円は高さを帯び、やがて半球をかたどった。
【月】の、石像の顔から表情らしき物が消えた。それらは額の半球に移動していた。
ひび割れた半球の中に黒い炎が揺れている。女の顔のような男の顔のような獣の顔のような黒い影の、口らしき部分が歪んだ笑顔を作っている。
エル・クレールは喘ぐように息を吸い込んだ。
左の掌で左の腰に触れると、そこに確かな「力」を感じる。
『戻ってきた』
エル・クレールはその「力」を掴んだ。
「我が愛する正義の士よ。赫き力となりて我を護りたまえ……【正義】!」
一条の赤い光が、彼女の左手の中で一筋の刃に変じた。
下から上へ、跳ね上げざまに【月】の両腕を切断した。
その腕の張りで自らの体を支えていた【月】は、バランスを崩した。仰向けに体を反らし、よたよたと下がりながらどうにか立っている。
そのおぼつかない足取り以上にエル・クレールの体勢は崩れていた。
彼女の足に何かがからみついている。人の形をしていた。仰向けに倒れつつ、彼女はその何かの顔を見た。
「君は……!?」
イーヴァンだった。
青白い顔に脂汗を浮かべ、肩で息をし、地面に這い蹲った若者が、エル・クレールの足首を細い指で握っている。
弱り果てた彼の姿からは想像できない程の握力が、エル・クレールの自由を封じていた。 予想だにしない出来事だった。驚きのあまり、彼女は受け身をとることを忘れた。
運の悪いことに、彼女の体は骨の折れた右腕の側へ向かって傾いていた。
衰弱した若者の傍らの、粗末な敷物の上に、彼女は倒れた。
「くっ!」
痛みに苦悶の声を上げた。
イーヴァンは彼女の左腕を押さえ込み、叫んだ。
「ヨハンナ様っ! 早く!」
泥酔者の千鳥足に似た足取りが、後退から前進に転じた。
【月】は上半身を倒れたエル・クレールのそれに重ねるように身を投げ出した。額の半球をエル・クレールの額に打ち付けようとしている。
半球は【月】のアームだ。死した人間の魂の結晶だ。ヨハネス、いや、ヨハンナ=グラーヴの怨念だ。
生きた人間の体に取り憑けば、生まれ変われると信じる、死人の執念だ。
無機質な黒い顔が、エル・クレールに迫った。赤い半球が彼女の額に重ねられようとした。
耳障りな音がした。
重い物が地面に倒れ込んで壊れる音だ。
エル・クレールは音のした方へ顔を向けた。
イーヴァンもそちらを向いた。
椅子の残骸が散乱する空間に、男が立っていた。赤い剣を両手に一振ずつ持っている。一振は肩に担うように、もう一振は切っ先が足下を指していた。
赤い剣が指し示す先の古びた敷物の上には、女の下半身の形をした石像が転がっていた。
「さっき言ったろう? 一匹相手に二人掛かりは不平等だってな。こっちも片一方が怪我人になった訳だから、腰抜けでも員数合わせになろうってもンだ」
ブライト=ソードマンは釣り上げた唇の端から尖った犬歯を覗かせた。
「あ」
イーヴァンの顔が一層蒼白になった。彼はしがみつくようにして押さえていたエル・クレールの腕を放した。立ち上がろうとするも、膝が立たない。
もし彼が立ち上がれたところで、時間も力量も間に合いはしなかったろう。
ブライトは赤い幅広の刀の切っ先を、石像の臍下へ突き立てた。
エル・クレールに覆い被さっていた【月】が、弾かれたように人の背丈ほども飛び上がった。そのまま墜落した上半身は、悲鳴を上げてのたうち回った。音に表せず、文字にできない、不気味で恐ろしく、哀しい悲鳴だった。
彼女の二つに分かれた体は、おのおの、小刻みにそして不自然に振動した。
初めは筋肉の痙攣のようだった。ビクビクと伸び縮みするだけで、倒れ込んだその場から動くことはなかった。
だが振幅は次第に大きくなった。
下半身は両足をてんでに動かして暴れまわった。上半身も肩と言わず首と言わず、総ての関節がバラバラの方向を向いて、激しく振り回された。
さながら、操り手を失った傀儡人形のさまだった。
やがて下半身は収縮を始めた。暴れは根回りながら縮み、縮みながら人の脚の形を失ってゆく。
上半身も同様だった。縮んでゆく体から、他人から奪った腕が落ち、目玉が落ち、頭蓋が落ちた。
だが、額の赤い半球は、まだ赤々と禍々しい光を発している。
「誰も彼も、皆アタシの邪魔をする。アタシが、醜いから。醜いアタシが嫌いだから……。そうでしょう? 美しければ、皆アタシを愛してくれる……」
自由の利かない体を揺すり、彼女は未だ倒れたままのエル・クレールに襲いかかった。
「その顔を、お寄越し!」
エル・クレールは何も言わず、左手を前に差し出した。
握っていた【正義】のアームが見る間に光を失い、消えた。
アームの意志ではない。【月】による妨害でもない。エル・クレール自身の意思で矛を収めたのだ。
「あなたは……あなたの心は、あなたが愛した人を討ったとき、もう死んでいた。それは多分、【月】のアームに魅入られるずっと以前。あなたは『鬼』に堕ちる以前に、もうこの世の人ではなかった」
「小娘が、利いた風な口を!」
【月】は噛み付かんばかりに叫んだ。だがヨハンナ=グラーヴの体はぴたりと動くことを止めていた。
磨かれていない鏡のような彼女の顔に、ボンヤリとした人影が映り込んでいた。
目の前にいるのはエル・クレールだ。彼女以外の誰の姿も映るはずがない。
しかし、ヨハンナ=グラーヴには違うように思えた。
昔の自分、古い知己、忘れたい人、思い出せぬ顔、知らぬ他人。
全く別の誰かが、自分を見つめている気がした。
「お前の顔を寄越せ。お前の……顔を、わたしの顔を……」
【月】の叫びは、小さく弱くなり、そして消えた。
「汝の今あるべき所へ戻れ。汝の今いるべき世界へ還れ」
呪文のように呟くと、エル・クレールは【月】の、いやヨハンナ=グラーヴの頬にそっと触れた。掌が熱を帯びているのを、彼女もヨハンナも感じた。
【月】の……いや、ヨハネスと呼ばれ自身もそう称していたヨハンナ=グラーヴの顔の凹凸が、風雨にさらされた石像のように、薄く滑らかに減り始めた。
尖った顔立ちが、次第に丸く穏やかなものに変じていった。
「ヨハンナ様っ! ヨハンナ様っ!」
ようやく身を起こしたイーヴァンは、目鼻も判らなくなった石の柱に抱きついた。
「僕を見限らないでください。置いてゆかないでください。独りにしないで下さい。お願いです、お願いです」
狂乱し、泣き叫ぶ。
石の柱は細く短く姿を変容させていった。
イーヴァンの膝が折れた。地面にしゃがみ込む彼の腕の中から、赤く硬い半球の塊がするりと落ちた。
半球は埃だらけの敷物の上を滑るように転がった。
追おうとしたイーヴァンだったが、今の彼にその余力はなかった。体は一寸も動かない。彼は目玉をどうにか動かして、ようやく赤い石くれの動きを追いかけた。
半球はイーヴァンから遠く離れてゆこうという意思を持っているかのように転がったすえ、彼が動けないことに気付いたかのようにぴたりと停まった。
「ああ、あんなに遠くへ……。ヨハンナ様はとうとう僕を見限られた……」
若者は顔から倒れこんだ。腕にも背骨にも自身の体を支えかばう力が残っていなかった。
「そうでは、ないと思います」
エル・クレール=ノアールが小さく言った。
すっかり気力を失っていたイーヴァンは顔を上げることもできず、かすかな声が振ってくるのを待った。
「あの方は……君に力がないから離れた。君の心があまりに弱いから……」
事実だ。反論ができない。イーヴァンは瞼をきつく閉じた。眼球の上に満ちていた熱い液体が押し出され、溢れた。
「だから……君のご主君が君から離れたのは、君が死人に魅入られて、鬼に……人でない物に……堕ちて仕舞わぬように願ったからです……。君に自分の二の舞を演じて欲しくなかった……」
「僕は、それでも構わない。苦しくてもあの人と一つになれるなら」
イーヴァンは両腕に力を込めてどうにか身を起こし、顔を上げた。
暗がりの中に線の細い若者が立っている。
肩で息をしていた。だが鋭い目をイーヴァンに向けている。
「あの方に……また大切な人を殺させるのですか……」
エル・クレールの声は徐々に弱々しく、最後は聞き取れぬほどに細くなり、消えた。
語尾とほとんど同時に、彼女の体は大きく揺れ、後ろへ倒れた。
倒れ込む方向には、ブライト=ソードマンの広い胸があった。
十六.朝ぼらけ
この日、この村で奇っ怪な死に方をした人間は、合わせて九名だった。
勅使一行の旗持ちの若者と、付き従っていた伝令官の男、下男二人と下女三人。そして呑み食い屋にいた二人の農夫だった。
芝居小屋に駆けつけた村の役人は、勅使の従者達の死骸を見つけ、嘔吐し、卒倒しかけた。それほどに酷い有様だったのだ。
役人達は肉食の獣が爪や牙を持って殺害したに違いないと判断した。
幾人かの村人や一座の者が、小屋の裏の方から獣の咆吼や何かが暴れる大きな音が聞こえたと証言していたし、楽屋口の壊されようも、到底人間の行いとは考えられないものだった。
呑み食い屋の前の大通りにうち捨てられていた農夫達の死骸は、明らかに人の手によって殺されていると判った。一人を真正面から唐竹割に、もう一人の胴を両断した凶器は、断面の様子から、卓越した使い手が振るった鋭利な刃物であることが明らかだった。
不可解だったのは、農夫達はそのむごたらしい姿を半時も道端に晒されていたというのに、通りを行き交う者が誰一人として気付いていなかったことだった。
彼らが悲鳴を上げたのは、芝居小屋の中で真鬼が倒され、皆の目玉から砂粒ほどの赤い欠片がこぼれ落ちた後だった。
もっとも、彼らは何故自分の目が唐突に「開けた」のか、理由を知ることはなかった。彼らからしてみれば、突然足元に惨殺体が湧き出たようなものであった。
飲み食い屋の客の中には、その時になってようやく自分も怪我を負っていることに気付かされた者もいた。その数は、傷の大小を合わせて十数人に及ぶ。
残りの死体は、勅使ヨハネス=グラーヴ卿の一行が宿舎としていた屋敷で見つかった。
勅使一行に従っていた小者下女、合わせて五名。
しかし、それらはどう見積もってもここ数日に死んだ者とは思えぬほどに腐敗が進んでいた。
屋敷には生存者がいた。一行が村に着いてから雇い入れた年配の下男ただ一人だった。
腐乱死体の傍らで腰を抜かして座り込んでいた老人は、村役人に問われて、
「皆、突然動かなくなり、見る間に肉が腐り落ちた」
と証言をした。
「ただ黙々と良く働く人たちでございました。連中はこちらから話しかけても一言だって答えやしませんでした。ええ、連中同士も互いに声を掛け合うことはありませんでした。まるでカラクリの人形のようだと、少々薄気味悪く思いはしました」
役人は公式な書類に彼の言葉をそのまま書き留めた。
信じがたい証言ではあったが、他に目撃者はいない。状況から見てもこれを信用するより他なかったのだ。
役人は老人にもう一つ尋ねた。
勅使・ヨハネス=グラーヴの行方である。
「ご家来衆を引き連れて、芝居小屋にゆかれましたよ。晩には戻られるってぇ話だったんですがねぇ」
家臣達は村の広場の芝居小屋にいた。ただし、そのうち二人は物言わぬ惨殺遺体であり、証言は取れない。
残り三名も、まともに取り調べができる状態ではなかった。
耳朶を切り落とされた衛兵は何を聞いても貝のように口を閉ざし、返答しない。
別の一人は肉体的な外傷はなかったが、余程恐ろしい思いをしたらしく、錯乱状態にあり、話をするどころではなかった。
痩せた少年(イーヴァン)は衰弱しきってい、村にただ一人の医者が尋問を許可しなかった。
フレイドマル一座の座員達も尋問された。
木戸番が
「閣下はご家来衆を連れて……確か四人、ええ、旗持ちの方が先頭で、閣下とあと三人、全部で五人で、ウチの座長と一緒に小屋へ入られました」
と言った。その後のことは判らないと首を振る。
「閣下があっしのほうをちらりとご覧になったところまでは……。そこから先のことは良く思い出せません。目がチクチク痛んだことぐらいです」
木戸番の両の目は、酷く充血していた。
座長フレイドマルは、小太りの体をガタガタと震わせつつ、役人の問いに神妙に答えた。
「確かにお屋敷から小屋へご案内いたしました。途中、呑み喰い屋に? ええ、寄りました。店の中を覗き込んだとき、埃が酷くて目がチクチクしました。閣下は私を気遣ってくださいましたよ。小屋についてすぐ、私は用があって舞台裏に参りまして……戻ってきたときにはもうお姿はなく、奇妙な、真っ黒い化け物が暴れておりました」
座長は顔中を包帯で覆い隠していた。
「目玉が落ちた……らしいんで。ええ、覚えておりません、なにも。どこかで怪我をしたのか、化け物に喰われたのか、何なのかさっぱり」
団員達のほとんどは楽屋裏におり、皆、客席の側で何が起きたのか判らないと言う。
客席の側に居たのは指揮者一人と楽隊員五名、そして戯作者だった。
楽隊員達は異口同音に
「グラーヴ卿が化け物になった」
と証言した。
ところが、同じ場所にいた戯作者がそれを否定した。
「最初から化け物でしたよ。少なくとも、劇場にやって来たヨハネス=グラーヴらしいものは、人間の服を着て人間のふりをした化け物でした。……いつから本物と化け物が入れ替わってかなんて、それは私の知ったことじゃありませんよ」
村役人は、ヨハネス=グラーヴを「生死不明、行き方知れず」と断じ、報告書に記録した。
呑み喰い屋の外で農夫達を殺した犯人として真っ先に嫌疑をかけられたのは、身元のはっきりしない余所者である、エル・クレール=ノアールとブライト=ソードマンだった。
取り調べはブライト一人が受けた。
彼は役人にエル・クレールは重傷を負い伏せっていると告げると、あとは何も言わず、自分の腰の物と「主人」のそれとを役人に提出した。
古びた長剣と真っ二つに折れた細身の剣は、持ち主にかけられていた疑いをすぐに晴らしてくれた。
樫の木を削りだした模造刀では、人を「斬り殺す」ことは到底できない。
「俺達は……特にウチのかわいい姫若様は……人を傷付ける道具が大の嫌いでね」
律儀な村役人は、ブライトの不可解な物言いも一字一句違えることなく書類に書き記した。
次に疑われたのは片耳を削がれた勅使の衛兵だった。大柄な剣術使いの剣には、脂による曇りがこびり付いていた。
決定的といえる証拠があったにも関わらず、村役人は彼を捕縛することができなかった。
衛兵は件の長剣の切っ先を自分の喉元に向けると、勢いよく大地へ倒れ込んだ。
この「十人目の死者」が出たのは、夜明けの鶏が鳴く直前だった。
村役人は夜なべで書類を書き上げた。
正体不明のものが、屋敷の下男下女を殺害。
勅使ヨハネス=グラーヴになりすましてグラーヴの家臣を欺して農夫達を殺害させた。
人々が集まるであろう芝居小屋に赴き、人々に害なそうとして、家臣達を死傷させた上、逃走した。
そういった事件の概要を書きまとめると、彼らは何故かその書類を、ブライトの所へ持ってきた。
「貴公のご主君は……」
若い地方官は恐る恐る切り出した。
「ウチの姫若様が、何だって?」
ブライトは不機嫌を丸出しにして彼を睨み付けた。
利き腕の骨を折られ、全身を強く打ったエル・クレールは、村の宿屋の一室で手当を受けている。その「病室」に、彼は入ることを許されていないのだ。
宿屋の亭主に言わせれば「宿で一番上等」だという部屋の、立て付けの悪い古びたドアの前に、フレイドマル一座の踊り子が二人、門番よろしく立っている。
エル・クレールとブライトがシルヴィーを抱えて芝居小屋にやってきた時に、小屋の外で小道具の修繕をしていた娘達だ。
彼女らは二人とも本名をエリーザベトという。仲間達は二人を「痩せのエリーザ」と「雀斑エリーゼ」と呼び別けていた。
二人は一座の踊り子の中では背丈が高い部類だった。演目によりけりではあるが、男役を務めることが多い。
そのためもあってであろうか、普段から言葉も少々強めであり、態度も幾分横柄な所がある。
彼女らは医者以外の「男」がやって来ると扉の前に立ちふさがる。そうして、怪我人の見舞いをさせろという彼らに向かって、口角泡を飛ばしてまくし立てる。
「冗談じゃないよ。だれがお前なんぞをお可哀相な姫若様の寝所に入れたりするものか」
「医者様の見立てじゃ、腕の骨が折れているばかりか全身の骨という骨にヒビが入ってるうえに、筋という筋が切れたり伸びたりしてるんだよ」
「普通なら、死んじまったっておかしくない大怪我なんだ。上を向いたら背中の怪我に、下を向いたらおなかの怪我に障る」
「布きれ一枚だって傷にさわってご覧。気を失うくらいに痛むっていうんだ。しかたなしに、半分裸みたいな格好でおられる」
「息をするのだってやっとなんだ。その息だって、ホンの少しずつ、そっと吸ったり吐いたりしておられる」
「そんなところに、お前が吐きちらかす生臭い息なんぞが混じりでもしてたら、高い薬だって効き目が出ないに決まってるじゃないのさ」
「とっとと失せな。この下種どもめ!」
耳の先まで真っ赤に染めて激しい早口で言われては、男共には口を挟む余地がない。皆、彼女らの剣幕に押されてすごすごと引き返す。
では女の見舞客は総て通されるかというと、そうでもない。「門番」の同僚である踊り子の内の、ごく一部の幾人かは、男共とほとんど同じ台詞を頭の上から浴びせられ、追い払われる。
追い払う相手と通す相手の区別は、門番二人が着けているらしい。
「追っ払うのは、姫若様のお体に障る連中だけですよ」
ブライト=ソードマンの前に立ちふさがった二人のエリーザベトは口を揃えて言った。
「つまりは、色狂いの色気違いの助平の変態野郎ですよ。女の内にもそういうのがおりますからね。男だろうが女だろうが、そいつの心持ちが良くなけりゃ、一切姫若様には近づけたりやしません」
「すっかりお弱りの姫若様には、ほんの僅かな淫らがましい気配でも、酷い毒になりましょうからね」
「この俺からも毒気が出てる、ってか?」
居丈高に胸を反らせると、ブライトは目を針のように鋭く細め、尋ねた。踊り子達は一瞬おびえ、またひるんだが、すぐに勇気を振り絞って、
「旦那もです」
きっぱりと答えた。
「俺ほどアレのことを心配しているニンゲンは、他にゃ居ないってぇのにかね? 大体、俺はアレの……」
言いかけて、しかしブライトは言いよどんだ。自分とエル・クレール=ノアールとの間柄を的確に表す言葉が存在しない。
エリーザベト達は彼が言葉を探しているほんの僅かな隙間に、自分たちの声をかぶせた。
「旦那と姫若様が、ご家臣なんだか、師弟なんだか、友達なんだか、同志なんだか、兄妹なんだか、妻夫なんだか、家族なんだか、他人なんだか、アタシ達は存じ上げません。存じ上げませんけれど、特に別して、旦那はダメです。毒が強すぎます」
「この俺が何処からあいつの毒になるような邪さを出しているって?」
「頭の先から、足の先まで、全身からぷんぷんと」
エリーザとエリーゼは合唱でもしているようにぴったりと息を合わせて言い切った。
そしてブライトが何か言い返そうと息を吸い込んだその瞬間に、集団舞踊の振り付けのようにぴったりと動きを同調させて辺りを見回した。
宿屋の廊下には彼女らとブライト以外の者は居なかった。彼女らが全部追い返してしまったのだから、当然ではある。
二人はそれでも慎重に、声を殺して言葉を続けた。
「旦那が姫若様を心配しているのはあたしらにだってよくわかる。でもその心配の気配が、姫若様には良くないんですよ」
「ああいう真っ直ぐなお方は、自分の所為で相手が心配していると思えば、無理をして平気な風に振る舞っちまったりするもんなんです」
「自分を大人に見せたいお年頃でしょうしね。相手が大人であればあるほどにね」
「そうそう、旦那は大人でいらっしゃいますからねぇ。商売女の扱いは見るからにお上手そうだ」
踊り子達はブライトの頑丈な肉体を舐めるような視線で眺めた。
視線が彼の不興な顔に至ると、二人は気恥ずかしそうに取り繕いの笑顔を浮かべ、言葉を続ける。
「旦那は若い生娘が……いえ、娘に限ったことじゃないですよ。つまり姫若様のような年頃の純な子供ってものが、どんなに繊細で複雑なのか、自分だって子供の頃があったでしょうに、すっかり忘れっちまっているでしょう?」
「だから、旦那はご自分の心配を体中から吹き出させてることがどれだけむごいことなのか、心配される方の申し訳なさを察しておあげになれない」
「ま、あたし等も擦れ具合じゃあ旦那のことなんぞ言えやしませんけれどもね」
「もうすっかり真っ黒だからねぇ、あたし達は」
エリーザとエリーゼは顔を見合わせると、淫猥と自嘲を混ぜて、クツクツと笑った。
その笑いもやはりすぐに止んだ。
ブライト=ソードマンが笑っている。静かに、穏やかに、優しげに微笑んでいる。
「一つ、訊きたい」
彼の眼差しが、鋭く、険しいことに気付いたエリーザベト達は、顔を強張らせ、背筋を伸ばした。
「ウチの姫若の『秘密』を、知っている阿呆はどれくらいいるものかね? 医者は省くとして、だがね」
柔らかい声音で聞きながら、ブライトは忙しなく指先を曲げ伸ばししていた。節くれ立った手指が拳の形になる度に、エリーザとエリーゼは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「四人」
二人は声を揃えた。
「あんた方以外には、誰と、誰だね?」
「シルヴィーとおっかさん」
「おっかさん?」
「マダム・ルイゾン……ウチの一番の年寄りで、座長もマイヨール先生も頭が上がらない人です」
「つまり、『そのこと』を他の誰にも言わないと『命がけ』で約束ができて、しかも他の誰にも知られないように抑えが効く人、ということかね?」
妙に優しげな声だった。その穏やかさが、逆に恐ろしい。
「さようで」
「決して」
二人のエリーザベトは同時に、低く抑えた声を絞り出した。
「そいつは良かった」
ブライトは笑みを大きくすると、病室ドアに背を向けた。
彼の姿が廊下の角を曲がって消えるまで、エリーザベト達は無言で直立したまま見送った。
その後、彼女たちが
「あの旦那、よっぽど姫様が大事と見えるねぇ。……惚れてるのかね?」
「そりゃぁ、あんな綺麗な姫様だ。旦那じゃなくたってベタ惚れだよぉ」
などとささやき遭っていた言葉は、さすがのブライトの耳にも届かなかった。
彼があてがわれた宿屋の別の一室で村の役人と対峙したのは、それから小半時ほど後のことである。
小さな木のテーブルの上に質の悪い紙の束が積み上げられた。たどたどしさすらある筆跡で、細かくぎっしりと文字が書き込まれている。
気の弱そうな若い村役人は、背もたれ無しの粗末な椅子の上で身を縮めて、上目遣いにブライトを見ていた。
「諸々の証言を一言残らず正確に書きましたら、あまりにも常識外れな調書になりまして。このまま郡の上役や領主様に見せても、信じて貰えないでしょう。かといって、事実を曲げることはできません。でそこで、貴殿のご主君にご助力を願おうと思い至った次第です。つまり、ここに書かれていることに目を通した、といった具合の文言を、若君に一筆添えていただければ……」
「検閲済み、ってか? なるほど、テメェの要領の悪さを、ウチの姫若に押しつけようってけ魂胆だな。だがな、ウチの姫若のサインにそんな神通力があるとは、俺には思えねぇよ」
「グラーヴ卿が、そちら様を『同業』と仰ったとか。都の皇帝陛下の直属であられるなら、ここの貧乏領主などより余程格上です」
役人は真面目な顔で言った。頬には、都であるとか皇帝であるとかいう言葉に素直に憧れている、田舎者らしい笑顔があった。
「白塗り婆さんが、余計なことを言ってくれたもンだぜ」
ヨハネスという通り名の老嬢ヨハンナ=グラーヴにその言葉を言わせたのが自分の行動であることが口惜しい。
ブライトは天井を睨み付けた。薄っぺらな板の向こう側に、エル・クレールの病室がある。
「面会謝絶でね」
「ご家臣でも、お会いになれない?」
ブライトは返事の替わりに舌打ちをした。
「そうですか。ではお怪我の加減は相当にお悪いのですね」
役人は肩を落とし、机上の書類を眺めた。弱り果てているというのは、背中の丸みを見ればわかる。
「俺は医者じゃねぇンだ。診立てようがない」
態とがましく棘のある物言いだった。役人は、若い貴族に付き従う忠義者が主の身を案じ、苛立っているのだと、強く感じた。
「こんな片田舎にお寄りになったがために、わけのわからないものに襲われて、せずとも良い怪我をなされて……。なにやら、自分が申し訳ないことをしでかして、方々にご迷惑をかけたような気がしてまいりました」
若い田舎者の役人が益々縮こまる様を見たブライトは、小さなため息を吐き出た。
「全く面倒なことをしてくれる」
椅子を蹴るようにして乱暴に立ち上がった。
役人は肩をびくつかせた。目をつぶって、顔を伏せる。この腕っ節の強うそうな大柄の男が、嵩に懸かって怒鳴りつけるか、力任せに殴りつけるかすると思ったらしい。
ブライトは、もう一度ため息を吐いた。
「テメェにゃ関わりのないことの責任を勝手に背負い込むような青臭い莫迦の尻ぬぐいするなんて厄介事は、ウチの姫若の分だけで手一杯だっていうのに」
床を踏みつけ大股に部屋の隅に向かうブライトの声音には、呆れはあるが不機嫌がない。少なくとも、若い役人にはそう聞こえた。
彼は硬くつぶった目をそっと開いた。
部屋の隅の床に、古びているが頑丈そうな革袋が無造作に投げ置かれている。ブライトはその口紐を足先に引っ掛けた。鞠のように蹴り上げられた革袋を、彼は胸の前で無造作に受け止めた。袋の中から、金属が触れ合う高く重い音が漏れる。
「知ってるかい? およそ雲上人ってのは、やたらな書類のための文字ってものはご自分じゃあお書きにならないもンだ」
革袋の中に手を突っ込み中を漁りつつ、壁際の小テーブルに置かれていた燭台を掴むと、彼は元いた机の前に戻ってきた。革袋にしたのと同じように、足先で器用に椅子を立て直し、どかりと座る。
卓上に燭台を乱暴に置いた。革袋の中から火口箱と大振りな金属の円盤を取り出して、これも無造作に置く。
使い込まれた火口箱には磨り減って消えかけた焼き印が押されていた。
若い村役人は、その文様がハーン皇帝の徽章であることに気付かなかった。正確に言うと、知らなかったのだ。彼が物心ついた頃にはハーン最後の皇帝は「都落ち」していたのだから仕方がない。
だが、もう一つの金属盤に刻まれている、二匹の鬣のある蛇が絡み合う文様の「貴さ」は彼にもすぐにわかった。
生唾を飲み込む役人に一瞥をくれると、ブライトは火口箱から燧石と黄鉄鉱を取り出し、火口炭を燻らせた。火種はすぐに蝋燭に移され、小さな炎となった。
その動作の間、ブライトは口をへの字に曲げていた。しかし目には笑みがある。
若い村役人は痙攣に似た瞬きをした。ブライトの言わんとしていること、やらんとしていることが理解できていない。
きょとんとした顔で己を見上げる役人の鼻先に、ブライトは手を差し出した。
「ペンとインクと封蝋」
「あ……」
ようやく理解した様子だった。
村役人は携えてきた筆記具を彼に手渡しすと、自身が書きまとめた書類の最後の一葉を卓上に広げた。
書類の制作者の署名、彼の直接の上役の署名、村長の署名が、紙の上方三分の一に、押し込められるようにして並んでいた。
残り三分の二の空間に、所見と署名を記載せよということだ。
「用意のいいことだ」
ブライトは使い古しの鵞ペンをインク壺に漬けると、卓上の用紙を極端に斜めに置き直した。
強い筆圧で押し潰されたペン先が、起伏が少ないく平べったい続け字を、右肩上がりに記してゆく。
書き上げられたのは僅か二行。
『関係者の証言を一言一句間違えることなく記したものと認むるものなり。
なお、この地に訪れし“彼の者”はしかるべき場所にしかるべき如く在るなり。』
一行目は兎も角、次の行が何を意味する言葉であるのか、若い役人には理解できなかった。小首をかしげて書き手の手元をじっと見つめる。
「これかい?」
ペンをほ放り出すと、ブライトは唇の端に柔らかい小さな笑みを浮かべた。
もしこの場にエル・クレール=ノアールがいたなら、すぐさま、この笑顔が彼の感情から自然と湧き出たものではなく、物事を有利に進めるための狡猾ですらある作り笑いであると見抜いただろう。
蝋燭の炎の上に禿びた封蝋の先端をかざしつつ、ブライトは空いた手で卓上の銀色の円盤……すなわち「双龍のタリスマン」などと呼ばれるものに手を伸ばした。
絡み合う龍が描かれた表面も、いくつかの赤く丸い小さな石の象眼された裏面も、その細工は豪華で美しい。ブライトはそれらの文様を全く見ていなかった。
銀色の円盤を親指と中指でつまみ上げ、人差し指で分厚い外周に刻まれた文字の凹凸を弾くようにして転がし、指の腹で文字を読んでいる。
「その御託の意味なンざ、この俺だって知るものか。聞くところによりゃぁ、解る人には解る決まり文句みたいなもンだそうだ。例えばウチの姫若様や、お宅のゴ領主サマぐらいにゴ身分が高い方だけが、こいつをゴ理解なさるってものさ。俺達のような下々の者にゃ、関係のないことなンだろうよ」
厭味と卑下と慇懃無礼を練り混ぜたブライトの言葉に、村役人は素直な感嘆を返した。
「そういうものですか」
大きく何度もうなづいている。
「上つ方々の考えることなんてもなぁ、下っ端には到底理解できないものさ。くだらないといやぁ、とことんくだらないこったがね」
ブライトは鼻先で笑った。彼の言う「上つ方々」に向けた嘲笑だった。同時に、素直さも純朴さも欠片すら持ち合わせていない自分に対する冷笑でもあった。
やがて、ブライトの手の中の、銀の盤の回転がある一点で止った。節くれ立った太い指の先が小さく動く。金属の留め金が外れる小さな音が鳴った。
ブライトは「双龍のタリスマン」を卓上へ放り捨てるようにして置いた。彼の掌の中には、銀色のメダルの意匠はそのまに大きさだけ十分の一に縮めたような、丸い金属片が一つあった。
充分に熔けた封蝋を炎から取り出し、書類の上に滴らせる。あまり質の良くない蝋が赤黒く滲んだ円を描いた。低く盛り上がった蝋の上に、ブライトは小さなメダルを乗せた。
指先で軽く押しつけた後にメダルを退けると、蝋の上には印影がくっきりと残っていた。
しばらく書類を眺めていたブライトは、蝋が冷え固まったと見ると、紙の束を役人の前へ少々乱暴に押しやった。
受け取った若い村役人は、浮き彫りに描かれた「貴い紋章」に恭しく礼をしつつ、
「ご署名は、いただけないのですか?」
遠慮気味に訊ねた。
「そのハンコがありゃ、余計なモノいらねぇよ」
ブライトは唇の端に柔らかい小さな笑みを浮かべた。これも作り笑いだ。
役人も笑った。こちらは心から湧き出る晴れ晴れとした笑顔だった。肩の荷が消えたなくなった気軽さが、おのずと表に出たのだろう。
役人は、書類の束を大事そうに抱持し、幾度も頭を下げた。いそいそと出口へ向かった彼は、ドアを閉める直前室内へ振り返り、深々と頭を下げた。
廊下の靴音が聞こえなくなった頃、ブライトの顔の上に貼り付いていた笑顔がすっと消えてなくなった。
彼は椅子の上で大きな伸びをした。立ち上がり、窓辺によると、役人が大通り(というほど広くないのだが)を足早に行き去るのが見えた。
「あの手の小役人が一番厄介だ。ぶん殴るわけにも罵り倒すわけにもいかねぇ分、あしらうのがとんでもなく面倒臭ぇ」
独り呟いた後、彼は窓枠に足をかけた。
身を乗り出した頭の上に、上階の窓が空いている。
直後、ブライト=ソードマンの巨躯はその場から消えた。
十七.朝影
この宿屋で「一番上等」だと、宿屋の亭主自身が胸を張る客室というのは、簡易な炊事場の付いた狭い食堂と、折り畳みの書き物机が一台おかれた居間、枕二つが無理矢理並べられた寝台に占拠された寝室、という続き部屋だった。
確かに部屋数だけは他の客室の三倍ある。
しかしここは小さな村の安宿だ。祭りの時期はたいそう混み合うが、普段は行商人か伝令の小役人ぐらいしか泊まり客はいない。必要最低限の備えだけを有する建物は、そのものが小振りで、従って部屋も総じて狭い。
もう少し大きな町の宿屋であったなら、この床面積を三つに仕切って続き部屋にしようなどとは、恐らくは考えもつかないだろう。
水を張った手桶を抱えて主寝室の窮屈なドアを開けたシルヴィーは、思わず手桶を落としそうになった。
窓の外に人がいる。……宿屋の最上階、四階の窓の外に、である。
人影は窓枠にかけた両腕を支えに全身を持ち上げると、音もなく、ベッド脇の狭い床に降り立った。
『どろぼう!』
シルヴィーは叫び声を上げそうになった。「賊」はベッドの中の怪我人に視線を向けている。咄嗟に手桶を投げつけて追い払ってくれようと考え至った。
思いとどまったのは、その怪我人が掠れた呆れ声を上げたからだ。
「掏摸と強盗の次は空き巣の真似事ですか?」
「なんだお前さん、一服盛られて朦朧としている間に真ッパに剥かれたあられもない格好でベッドに縛りっ付けられてたンじゃなかったのかね?」
ブライトはベッドの上に身を起こしているエル・クレール=ノアールが、ゆったりとした夜着を羽織っていることに気付き、落胆の声を漏らした。
「誰がそのようないい加減なことを?」
「ドアの向こうっかわに陣取る薹の立った楽園の門番ども」
口惜しそうにいい、ブライトは大げさに肩を落として見せた。
「方便です」
水桶をテーブルに置いたシルヴィーは、彼に椅子を勧めながらその顔色をうかがい、おずおずと言う。
「エリーザベト姐さん達は、良くない見舞客を追い返す方便に、そんなことを言っただけです。ですから旦那様、どうか姐さん達を叱らないでください」
ブライトは背もたれのない小さな椅子にどかりと座って脚を組み、窮屈そうに身をかがめて膝の上に頬杖を突いた。
「初手から解ってらぁな。マジで『若様』が服をお召しにならないままに寝ていらっしゃったのなら、中に入れた連中が皆『姫様』のことを知ってなきゃおかしい。ところが、あの門番共は、うちのかわいいオヒメサマのことを知っているのは、テメェ等自身と、プリマと、それからそこのバァさんの四人と言った」
顎を支える手の人差し指が、開け放たれていた部屋のドアを指し示す。
寝室と居間との境目に、マダム・ルイゾンがの痩躯があった。闖入者を目の当たりにした彼女だったが、まるでブライトがここにいることが当たり前のような顔をしている。
彼の横顔に怒りがないのを見たシルヴィーは、カーテンコールに応じるプリマがするような、軽く膝を曲げた礼をして見せた。
「ま、ちょいとは期待してたがね。クスリが効いてぐっすり寝込んでいるンなら、少なくとも布団をまくる前に殴り返されるよなことはないんじゃなかろうか。よしんば殴られたとしても、いつもみてぇに顎の骨が砕かれちまうよなことにはなるまいってな」
「顎の、骨!?」
シルヴィーの黒目がちな瞳が大きく見開かれた。彼女はその目玉でブライトとエル・クレールの顔を交互に見た。
ブライトの横顔は真面目そのものに見えた。一方、エル・クレールは呆れたような顔つきで苦笑いをしている。
そのはにかんだ笑顔のおかげで、シルヴィーはブライトの言うことが「いくらか」大仰に過ぎるのだろうと察することができた。
ブライトは頬杖の掌を開いて無精髭の顎をなで回し、真剣な眼差しをエル・クレールに注いでいる。
「俺は前々から、お前さんにはワルい魔法使いのヒドイ虫除けの呪いがかかってるンじゃねぇかと睨んでるんだ」
「その呪いで、自分が避けられていると?」
ため息混じりにエル・クレールが反問する。ブライトは背筋を伸ばし脚をほどき、居住まいを正すと、真顔で大きく肯いた。
「もしそんな呪いがあるとして……あなたがそれを信じていて、そう仰っているのなら、ご自分が毒虫であると自覚していると言うことになるのでは?」
重ねて訊ねるエル・クレールに、
「胡蜂と蜜蜂の区別がついていねぇから、ワルい魔法使いの呪いだっていうんだ」
ブライトは下唇を突き出した。
「その大きな体で、ご自身を小さな蜜蜂に例えますか」
呆れの口調で言いながら、エル・クレールは微笑していた。
「俺サマが蜜蜂なら、お前さんはたっぷり蜜を隠した可憐な花ってことさね。そいつはつまり、美しい綺麗だ魅力的だと褒めてやっているってことだ。乙女らしく大喜びしてホッペにチューの一つもしてくれようって気にはならんかね?」
ブライトはおのれの頬をエル・クレールの顔の前に突き出した。ただし、顔つきはあくまで真剣であった。
滑稽だった。いい年齢をした無精髭の大人が子供のような真似をするのを見たシルヴィーは、堪えかねて吹き出した。
マダム・ルイゾンに視線でとがめられ、声を上げて笑うことは耐えた。それでも肩が大きく揺れるのを押さえることはできず、抱えていた手桶の水が跳ね上がった。
慌ててルイゾンが濡れた彼女の手や衣服を拭いた。ルイゾン自身もにんまりと笑っている。
「いいえ旦那は胡蜂ですよ。だって蜜蜂は一挿ししたが最後自分も死んじまうけど、旦那は何度だってぶっ挿すおつもりでしょうから」
自称蜜蜂には彼女の言いたいことがすぐに解ったが、可憐な花は卑猥なニュアンスをくみ取れる猥雑さがない。
ブライトが解顔したわけも、ルイゾンがシルヴィーを抱えるようにして強引に部屋から出て行ったわけも、彼女には解らなかった。
ドアが閉まった。二つの足音はドアから遠ざかって止まった。二人の踊り子は、恐らく廊下側のドアの前あたりにいるだろう。
ブライトの目つきが鋭くなった。その先端は、エル・クレールの左手に突き立てられている。
青白い紅差し指の付け根を、一本の赤い筋が取り巻いていた。
それは旗竿に仕込まれていた。
元は勅使一行の先頭にいた旗手が掲げる錦の御旗をぶら下げた、細い竿だった。
旗手の腕を奪った【月】が持ち、彼女によって投げつけられたブライトが持ち替え、竿の中にそれを隠し、エル・クレールに投げ渡した。
エル・クレールが、おのれに悪夢を見せた原因だと信じたものだった。ブライトが、エル・クレールの感覚を鈍らせた元凶と推察したものだった。
かぎ爪のように尖った切っ先をもつ、赤く小さな結晶。
かつて生きていたのであろう何者かの魂の、哀しいなれの果て。
あの時、小さな【アーム】の欠片はエル・クレールの掌に突き刺さり、彼女に取り憑いた。そして彼女の左の紅差し指の付け根に、おのれの刻印を焼き付けた。
「この指を……いえ、いっそ腕を根こそぎ、切り落として欲しいとお頼みしましたら、叶えてくださいますか?」
エル・クレール=ノアールの声は穏やかだった。感情を押さえ込み、平静を保とうとしている。その証拠に、翡翠色の瞳は暗く曇っていた。
「ずいぶんとしおらしい物言いをしやがるな。まるで年頃の娘みてぇで、『若様』には似合わねぇ」
文字にすれば軽口さながらの言葉ではあるが、実際は違う。ブライトの声は重く暗く沈んでいる。
「答えになっていませんよ」
エル・クレールの眼差しに、ほんの一瞬怒りの火が浮かんだ。
彼女にとって、これはブライトに「押しつけられたもの」だった。
武器を失ったエル・クレールを、敵に悟られぬように援護をすることが必要であったあの状況では、致し方のないことではあった。
そのことは理解している。
それでも不信は残る。
あれは彼自身が、自分から遠ざけたものではないか。ふれることを禁じ、見えぬように隠したのは彼自身だ。
彼がそうしたのは、自分が「それ」に恐れを抱いていたからだということを、エル・クレールも重々解っている。
自分のためにしてくれたこと。
遠ざけた理由も、託した訳も、どちらとも頭では理解できる。理解しようと努めている。
そうやって努力をしないと腑に落とせない自分が厭わしい。
エル・クレールは眼を閉じた。再び開けるときには、笑ってやろうと考えていた。
怒っている、恐れている、焦っている、不安を感じている――自分がそんな「子供っぽい感情」に支配されていることを覆い隠せる清々しい笑顔を、あの男に向けてやろう。
顔を上げた。
途端、エル・クレールの作り笑顔は吹き飛ばされた。
ブライトの顔が仮面の如く凍り付いている。
彼は表情の豊かな男だ。
何事が無くても機嫌が良ければにこやかで、不機嫌であれば眉間に皺が寄る。よからぬ企み事をしているときには、恐ろしく楽しげな思案顔になる。
作り笑いや妙に巧い小芝居も含めて、彼の顔の上に喜怒哀楽のいずれかが僅かでも表れないなどということはない。
その顔の上に、何の色も浮かんでいない。
それが何を意味するのか、エル・クレールには一つのことにしか思い至らなかった。
ブライト=ソードマンは怒っている。静かに怒っている。
不安に駆られた。見てはならない恐ろしいもの……彼の亡骸を見せつけられたような気にさえなった。
彼が何に対して怒っているのか、すぐに判ずることができなかったが、いずれ自分に対する怒りであろうと思われた。
しかし、彼がもしエル・クレールの不甲斐なさに立腹しているのであるなら、
「いくらでも叩き斬ってやる」
などという肯定の言葉は言わなかったろう。
確かに、その怒りの原因は彼女にある。だがブライトの憤りの矛先は彼自身に向けられていた。
「それでその下種をお前さんから引っ剥がせるなら、後先考えねぇこの能なしには、そうしてやらなきゃならねぇ義務がある」
彼は胸に親指を突き刺すようにしておのれの心臓を指し示した。
「あれは武器を失った私への、熟慮の上でのご配慮でしょう?」
あの時ブライトが立っていた舞台袖から、エル・クレールがいた客席の端までの距離は、瞬きの間に一足飛びで文字通りに飛んでくることができるほどには近くなかった。
しかも、ブライトの足元にはもう一人の敵……イーヴァン青年がいた。【月】に魂の残滓に取り憑かれていた反動で彼は半死半生だった。ブライトにとって敵とは言えない。だが、残った命を総てかける覚悟でいる若者の抵抗を、彼の命を奪わぬようにして躱すことは容易ではない。
ブライトはその場から動かないことを選んだ。
自ら駆けつけて助太刀をすることなく、それでも加勢をしなければならないのであれば、手近にある武器になる【もの】を投げつけるより
「……他に手立てはありません。あの場での最良の策です」
はっきりとした口調でエル・クレールは言い切った。
「お前さんにそう言わせっちまってるってことが口惜しいやな」
ブライトは顔を伏せた。エル・クレールの真っ直ぐな視線から逃れるためだった。
「俺ぁ、てめえの脳味噌はもう少し働きモンだと思ってたんだがな。とんでもねぇや。目も当てられねぇ愚者だ」
これが普段どおりの軽口なのか、あるいは本心の吐露なのか、エル・クレール=ノアールには解らなかった。
伏せられた彼の顔は、口元の小さな笑みだけを見せている。目の色は全く覗わせない。
彼の「ブライト=ソードマンに対する軽蔑」がどれほど深刻なものであるのか、判断が付きかねた。
エル・クレールは左腕を伸ばし、彼の顔の下へ手を差し入れた。
「それこそ、これの所為ではありませんか?」
薬指の付け根を取り巻く赤い一筋の痣が、エル・クレールの心拍と同じタイミングで脈動した。
「そのはすっぱな出来損ないの【アーム】が、お前さんの感覚と俺の脳味噌を鈍らせた、ってか?」
「はい」
エル・クレールは笑った。精一杯の笑顔を作った。ブライトの視線が自分に向けられていないなことは百も承知だ。
それでも笑った。
明るく、そして深い考えのない愚かな子供の笑顔を作った。少なくとも、自分ではそういう顔をしたつもりでいた。
エル・クレールは表情を「作る」ことが苦手だった。この点だけでいえば、彼女は権力者の卵(小国の跡取り姫)としても旅人としても「不器用」であると言わざるを得ない。いや、「不適格」と断じてしまっても良い。
臣民のために尽くさねばならない為政者であれば、時として自我を殺して感情を封じ、心にもない笑みで顔を満たさねばならないことが必要となる。
おのれのことを知らぬ人ばかりの土地に旅するものであれば、自分の身を守るために人なつこい笑顔を浮かべるべき場面に遭遇することもあるだろう。
山間の、少なくとも表面上は平和な小国の幼い姫君クレール=ハーンは、幸か不幸か無理矢理に作り笑いを浮かべなければならない状況に巡り会ったことがなかった。
嬉しいときに笑い、不機嫌なときにむくれ、哀しいときに泣いた。それで不都合はなかった。
姫若様は子供だった。老王に溺愛され若い母に偏愛された幼子だった。我が侭とは呼べない小さな無邪気を、彼女は許されていた。
そのためにハーンの姫若は作り笑顔の必要性を実戦的に学ぶことができなかった。経験のないことはできようがない。
国を失って放浪するエル・クレール=ノアールが社交辞令のため努力して笑顔を浮かべても、ブライト=ソードマンによって
「児戯」
と小馬鹿にされてしまうできあがりにしかならない。
エル・クレールは知らないことだが、実際のところ、彼は本心では彼女の笑顔の出来を否定していなかった。
彼女の「硬い笑顔」は芸術的な美しさを持っている。普通の人間に好意を抱かせるには十二分の威力を発揮した。事実、フレイドマル一座の構成員達のほとんどが、中性的な若い貴族の笑顔に魅了されている。
その実力を認めて尚、ブライトは彼女の作り笑顔を否定する。
作られた微笑は「嘘」であるというのが、彼の考えだった。
例え人々の心を打ち、幸福感を与えるものであっても、それは「贋物」に過ぎない。
ブライト=ソードマンはクレール=ハーン姫が「嘘吐きの贋者」になって貰っては困ると思っている。手中の宝を穢したくない、可愛らしいモノに可愛らしいままでいて欲しいという、歪んだ大人の汚れた独占欲がそこにある。
兎も角。
エル・クレールには今自分がどのような顔をしているのか、客観的に判断することはできない。自分の顔を自分で見ることはできぬし、この部屋にある鏡は寝台の上を映す角度にはなかった。
彼女は、自分が相当にぎこちない顔をしているであろうと確信している。酷く醜い表情をしているに違いない。
僅かに顔を上げたブライトが、すぐに視線をそらしたことが、その思い込みを一層強くした。
窓際の寝台の上で青白い顔の上に精一杯の作り笑いを広げる、世間知らずの若い娘の背後に輝く柔らかな春の陽光は、彼にはまともに見つめられぬほどまぶしかったのだ。
「姫若サマ、ご冗談はそのお顔だけになさいな。そいつは少しばかり都合の良すぎるご解釈ってもンだ」
ブライトは軽口じみたことを少しばかりうわずった声で言った。
そうやってはぐらかしでもしなければ、エル・クレールの顔から恐ろしく妖艶な色が消えてくれないだろう。
彼の策略は図に当たった。エル・クレールは
「そんなに酷い顔をしていますか?」
小さく拗ねて、唇を尖らせた。
ブライトは答えなかった。顔を背けたまま、無言で立ち上がった。
広い歩幅で、部屋の窓から一番離れた角に向かった。エル・クレールの僅かばかりの手荷物が、整然と並べ置かれている。
小さな背負い鞄、くたびれた革長靴、真っ二つに折れた細身の剣。
「あの小僧、大した馬鹿力だ」
鞘ごと両断された模造刀の鋭利な断面を眺め、ブライトは呆れたように言う。
火山の熱波に飲み込まれたエル・クレールの故郷で、燃えることのなかった紫檀の細工物だった。木であるにもかかわらず水に沈むほどの重さがある。並の剣士がなまくら刀で打ち込めば、刃こぼれだけではでは済まないほどのダメージで「返り討ち」にされてしまう。
「イーヴァン君は【月】の……真鬼の影響を受けていました。普通であれば出せない、体が壊れてしまうほどの力を出してしまった」
その反動で少年はいま昏睡状態にあるという。見舞いに行ったマダム・ルイゾンが医者に聞いたところによると、全身の筋肉が肉離れのようになってい、骨も所々ヒビが入り、肋骨あたりは潰れたように折れているのだという。体のあらゆる個所で皮下出血がおきているため、顔と言わず四肢といわず赤紫に腫れ上がっている。
当然起き上がることなどできない。薬を与えられてどうにか眠ってはいるが、時折うなされ、うわごとに女の名を呼んでいるそうだ。
「『道具』に振り回されるってのは、全くおっかねぇ話だ」
ブライトは呟くように言った。柄のある方の半身を手にしている。折れた木刀を短剣を扱うように振った。
風が切れた。エル・クレールの耳に空気の悲鳴が聞こえた。
「私も、彼と同様です」
エル・クレールは左の手の甲を暗い目で見つめた。紅差し指の付け根が疼く。
「なら、俺も同類だ」
ブライトの重い声に顔を上げたエル・クレールの眼前に、尖った硬い木の棒の先端があった。
切っ先に血曇りが薄く広がっていた。イーヴァンの血潮だ。当然、刀身は拭われている。それでもエル・クレールは折れた模造刀の先端から、血の臭いを嗅ぎ取った。命の臭気を感じた。
ブライトを振り仰いだエル・クレールの顔は、青ざめていた。
「お前さんの言うとおりだ。認めたかぁねぇが、俺達はそのちっこいのに翻弄されている」
ブライトは木刀の先をエル・クレールの左手薬指に向けた。
「そいつは相当に強い魂の欠片らしい。どうやら【月】のバァさんもどうやらそいつに引き寄せられて来たようだ」
「そうなのですか?」
「座長とかいうのが、バァさんに言われて奈落の底にそいつを探しに行ったそうだ。もっとも、座長自身はそいつの正体を知らないままにバァさんの前で口を滑らしたらしい」
「これが何であるのかを知らずに?」
エル・クレールは左の掌を窓辺の光にかざした。陰となった手の甲で、赤い一筋の痣が鈍く暗く輝いている。
「末生り瓢箪から『貰ってきた』モノがある、程度のことを、何の気ナシにぽろりとな。それだけのことから、【月】がそいつを何だと推察したのかまでは、もう知りようもないが」
ブライトの脳裏に、階下の机の上に放り出したままの「双龍のタリスマン」が浮かんだ。
その「裏面」には刻まれた文字とも文様とも付かぬ彫刻の中に、小さく赤い石がいくつか填められている。【月】もそこにいる。
かつて人の形をしていた存在が、無念の高まりにより自らを握り拳ほどの結晶に凝縮させた物質【アーム】。タリスマンはそれをさらに小さな枠の中に押し込めるために存在する。タリスマンに施された豪奢で細かな彫刻は、ギュネイ帝室の紋章も含めて、命の結晶を封印するための呪詛に他ならない。
同じ【月】という言葉が、エル・クレールの脳裏には別のイメージを思い浮かばせている。
痩せた、若い女性だ。親から男の名を与えられ、親に男の装いを強いられ、親により男として生きる決心をさせられた、ヨハネス=グラーヴという女性が、怒気を含んだ悲しげな眼差しをおのれに向けている。
若いヨハネスの背後に、また別の人影があるように思えた。
容姿は判然としない。男のようでもあり、女のようでもある。顔貌も解らない。ただ碧色の瞳だけが、やはり、怒気を含んだ哀しげな光を放っている。
真っ黒な闇の中で揺れる眼光は、別の心像をも想起させた。それは一つの言葉だった。
『私の【世界】』
エル・クレールの頭の中で、男の声がこの言葉を繰り返す。何を意味するのか解らなかった。
『この【アーム】の、銘?』
導き出した一つの回答例を、彼女自身の感覚が否定した。
彼女が普段【アーム】の正体を見抜くときに見える景色と、今自身の脳裏で繰り返される心像は、どこか異なる気がする。歴然とした違いではなかった。ただ、どこかが、何かが違うのだ。
心の耳をそばだてて、「声」を聞いた。
『私の【世界】』
――呼びかけている。
この命の欠片は自身の正体を明かしているのではない。誰かの名を呼んでいるのだ。誰かを捜しているのだ。
『私の【世界】』
この「声」を、知っている。
夢現にその声で呼ばれた気がする。
夢幻にこの声を聞いた気がする。
尖った爪と、尖った角と、尖った視線を伴って、胸を締め付ける声音だ。
低く、落ち着いた、男の声。
エル・クレールは気付いた。
夢で聞いた声ではない。
幻に聞いた声ではない。
現実に聞いたことがある。
この声は耳に馴染んでいる。
エル・クレールは日にかざしていた左手を、指を開いたまま移動させた。彼女に向けて突き出されている折れた剣の切っ先に、紅差し指の付け根をあてがう。
剣を持つ男が、言う。
「兎も角……そいつのおかげで、俺もお前さんも狂わされちまっている」
聞き馴染んだ声に、エル・クレール=ノアールの鼓膜が振るわされた。
青白い顔を上げて、声の主を見た。
ブライト=ソードマンはローズウッドの短い棒の先端に目を落としている。
その顔は相変わらず硬く冷たく凍り付いていた。笑みも怒気も沈鬱も安慮も、大凡表情の類は一切見えない。
『この人は、こんな顔立ちだっただろうか?』
ふ、とエル・クレールは心細さを感じた。
窺うように彼の顔を覗き込んだ。
瞳が赤く光っていた。
背筋に冷たいものが走った。
エル・クレールの心臓が、一瞬、停止した。
自身の白い指の付け根に残された細い一筋の刻印が、彼の瞳の中に映り込んでいるのだと気付くまで、そして得体の知れない不安に塗れた安堵が心臓に力を与えるまで、瞬き一つの時間も掛からなかった。
頬の肉が強張り引き攣れていると感じながら、エル・クレールはようやく一言、
「本当に……」
吐き出した。
「テメェの浅慮が悪ぃってのは確かだが、幾許かはそいつの所為だってことにしてくれれるンなら、いくらか気が楽になる……。情けねぇハナシだ」
ブライトの頬がゆるむのが見えた。エル・クレールの心臓を取り巻いていた不安が、僅かに晴れた。
「そういうことにしていただければ、私も自分の不甲斐なさが幾分気にならなくなります」
強張った笑顔のまま、エル・クレールが言うと、ブライトは顔を上げ、笑みを大きくした。
どこかはにかんだところのあるその笑顔は、エル・クレールの不安を晴らすのに充分な力を持っていた。
ブライトが利き手に握っていた模造刀を左の手に持ち直したことに、他意を感じ取れなかったのはそのためだった。
単に、仕舞うつもりなのだろう、程度の認識しかなかった。彼らしく、乱暴でいて無駄のない所作で、部屋の隅に放り捨てるような格好で始末しようとしているとしか思えなかった。
鋭利に切り落とされた木切れの切っ先が、彼の手によって彼自身の右腕に突き立てられるとは、毫も考えつかなかった。
何が起きたのか理解できなかった。何かの見間違いか、あるいは幻覚かとも思われた。
ブライトがすぐさま剣を引き抜き、乱暴でいて無駄のない所作で、部屋の隅に放り捨てるような格好で始末したものだから、余計におのれの目を疑ってしまった。
硬い木切れは床に落ち、不思議なほど澄んだ音を立てた。
エル・クレールは呆然と見開いた眼をブライトに向けた。彼は模造刀を投げ捨てるのと同様に、乱暴でいて無駄のない所作で自身のシャツの右袖を引き裂いた。
浅黒い皮膚に覆われた太い二の腕から、赤い血潮が流れ出ている。
エル・クレールは彼の腕に飛びついた。自由の利く左の掌で傷口を覆い、強く抑え付けた。出血個所を圧迫するのは血止めの基本だ。
出血はそれほど多くない。恐らくは、太い血管のないところを選んで刺したのだろう。
それでも血液はエル・クレールの指の間から滲み出した。
「何の、おつもりです?」
叫んだつもりだったエル・クレールであったが、実際に口から出たのは小さく震えた声だった。
「ん」
ブライトはくぐもった小さな声を一つ出した。顔を覗い見ると、裂いた袖口の片側を口にくわえていた。反対側の端は左の手に握られている。
彼は即席の包帯を傷口よりも上に器用に巻き付け、強く縛った。止血のためだ。エル・クレールが傷口を押さえる必要は、もうない。
だが、彼女は手を放すことができなかった。
手を放したが最後、彼の肉体が崩れ落ちるのではないかと、言い知れない、説明のできない不安に襲われている。
「これでお相子、ってことにしてくれねぇかね?」
ブライトは笑んだ。エル・クレールは彼の言わんとしていることを理解できなかった。
「え?」
彼の傷口を強く押さえたまま、不安げに首をかしげた。
「こんな程度の傷じゃあ、お前さんの怪我には及ばないがな。これ以上ヤっちまったら、さすがの俺サマも、怪我人抱えて立ち回りってのができなくなっちまう。共倒れしない程度にってぇことで、まあ、勘弁してくれ」
彼の言いたいことは、解った。
あの【月】との戦闘で、エル・クレールは右腕を砕かれた。
骨は複雑に粉砕されていたものの、肉を突き破って外にでるようなことはなかった。運がよかった、と表現するのが正しいとは思われないが、この怪我の仕方は有る意味幸いだった。
皮膚の内側への出血はあったが、外に溢れ出るようなことはなかった。血を大量に失えば、体力が落ち、回復が遅くなる。あるいはそのまま命を失うこともあり得た。
また、骨が皮膚を突き破るような怪我の場合、傷口から瘴気が入って重症化する可能性が高くなる。傷口が化膿し、肉が腐るようであれば、場合によっては腕を切り落とすような危険な「手当」をせねばならなくなる。
外科的な「手当」は諸刃の刃でもある。体力は落ち、酷く熱を発することもある。
危険な「手当」をするにせよ、しないにせよ、処置が間に合わなければ、死は免れない
そうならなかっただけでも運が良かった、というのがエル・クレールの本心ではあった。ブライトも口に出しかねているが、そう感じている。
今、彼女の腕は肩から手首まで宛て木に縛り付けられている。
鍛えられた肉体は並の人間よりも快復力がつよい。それでも、真っ当に動かせるようになるまでは、一月はゆうにかかるだろう。その後に、元通りに剣を振うための恢復訓練の期間が必要となる。
その間、彼女の自由は制限される。
ブライトの自傷は、彼女が負った不自由さへの、彼なりの謝罪であり慰藉であった。
エル・クレールは、頭の中では彼のこういった独特な……独善的な……やり方を了承できたが、納得することは到底できなかった。
エル・クレールの左手が、ブライトの腕から離れた。
直後、血の滴る掌は、乾いた音を立てた。
ブライトの頬に、ひりひりと熱く、チクチクと痛い、小さな疼きが生じた。
「あなたの勝手な正義を、私に押しつけないでください」
翡翠色の双眸から涙が溢れ出た。
「私は……誰かが痛い思いをするのも、辛い思いをするのも、悲しい思いをするのも、厭です。見たくありません」
血濡れた手で顔を覆った。血と混じり合った涙が、血を洗いながら、指の隙から流れ出る。
「酷い人。当て擦りにわざとがましく怪我をしてみせるなんて……そんなことで自分を傷つけるなんて……私の大切な人に怪我負わせて……私の目の前で……酷い……本当に非道い人」
嗚咽する彼女を前に、ブライトは沈黙するより他手立てを思いつかなかった。
ある種の呵責を感じている。申し訳なく、切なく、辛く、そして面はゆい。
のぞき見る視線を感じた。居間との間のドアが僅かに開いている。隙間から、四つの声がなにやら勝手なことをささやきあっているのが、耳をそばだてる必要もなく漏れ聞こえる。
動く方の手で頭を掻いた。
やがて、エル・クレールの背中の揺れが小さくなった。しゃくり上げながら、
「何か、仰ってください……」
指の隙間から、男を睨み付けている。充血した目に恨めしげな色をしていた。さすがに返答をしないわけにゆかない。ブライトは短く、
「何を?」
「莫迦とか……泣くなとか……女々しいとか……愚鈍とか……。不甲斐ない愚か者を叱りつける言葉はいくらでもあるでしょう?」
エル・クレールは一語ごとに鼻をすすりつつ、掛布の端で顔と手をゴシゴシと乱暴に拭いた。泣き腫らした目で、上目遣いにブライトを睨む。
暫し黙考したブライトは、不意に立ち上がり、ドアに向かった。
二人のエリーザベトとその背中に貼り付いていたシルヴィー、マダム・ルイゾンが、頬を引きつらせつつ、後ずさりする。
口を真一文字に引き結んみ、深く考え込でいるブライトの顔つきが、彼女らには途轍もなく恐ろしいモノに見えていた。
ブライトは音も立てずにドアを閉めた。ドアの向こう側で娘達が気を失わんばかりにしてへたり込んだことなどは、彼にとってはどうでも良いことだった。
エル・クレールに背を向けたまま、
「コッチがチャラにしてくれって言ってる意味を、これっぽっちも察してくれないあたりは、確かに不敏だがね……。まあ、そういう鈍いところがまた溜まらなくかわいいから、許す」
振り向きざまに、ニタリと笑った。
あっけにとられたエル・クレールだったが、内心ほっと息を吐いていた。
彼の下心のありそうな下卑たにやけ顔が、普段のとおりであったからだ。
「そうやって、私を子供扱いなさるのだから」
エル・クレール頬を膨らませた。本心から拗ねているのだが、目は笑っている。
「いつまでも子供でいてもらっちゃぁ困るンだが、いつまでも子供でいて欲しい……。男心は複雑でね」
ケラケラと笑いつつ、ブライトは窓辺に依った。
大通りの往来が激しくなっていた。
村祭りが始まる。規模の縮小は余儀のないことだったが、それでも人々は集う。
フレイドマル一座の芝居の芝居小屋は取り払われたが、舞台だけは残されている。誰かが音を鳴らせば、誰かが歌い、誰かが舞うだろう。
人の心の高まりは、止めようにも止められるものではない。
「暫くは温和しくしていることだ」
ブライトはもう一度振り向いて、笑った。
「暇つぶしに、何か持ってきてやろう。欲しいモノがあれば、言ってみな?」
「史書を」
エル・クレールが笑顔を返した。ブライトの太い眉が小さく上下した。眼差しには、困惑と驚きと、呆れがあった。
「幼い頃に『読まされて』以来、目にしておりませんから。もう一度しっかり『読んで』おく必要があると思うのです。本当のことを考えるために」
「模範解答だ。まったくお前さんの頭蓋の中には、美しい脳味噌が詰まっているに違いない」
言い残し、ブライトは窓枠を飛び越えた。
この章、了