意外な話 或いは、雄弁な【正義ラ・ジュスティス


 それは君も良くわかっていることだと思うのだけれど……。
 君の書くモノに出てくるような、田舎の御城の奥の間から文を一通送って、世の中の流れをがらりと変えてしまうような、あるいは何人何十人かの命をいとも容易く消してしまうような、そんな恐ろしい御方などというものは、実際にはいません。
 ああいうのは想像上の生き物に過ぎないのです。……都にある御屋敷に、親の言うことを良く聞く息子がいるというのであれば、話は別ですけれどもね。
 大体、主上おかみの寵愛を篤く受け、都で権勢を誇っているといったお方は、おおよそご自分のご領地などにはお住みにならないものですよ。
 都で仕事をするならば、都に住まねばならないというのが道理というものでしょう? だから例え国元に立派な御城があっても、大抵は都にある御屋敷にお住まいになるのです。
 つまり、偉い方のお城であればあるほど、主たる人がいないのです。
 そういった殿様方の国元に建つ御城が、どんな状態なのか、お解りか? 住む者のいない屋敷と聞いて、何を想像されましたか?
 人気の無い、薄ら暗い、寂れた古城。閉ざされた窓辺に青白い明かりが揺れ、風の音の裏になにかの「声」が聞こえる屋形。
 幽霊屋敷?
 ご名答。でも、君が思うのとは恐らく違っていますよ。
 その手の御屋敷が、今君が考え、期待している……つまり、壁が崩れて、床は埃にまみれ、天井に蜘蛛の巣の張った、鼠と蝙蝠の巣窟で、絵の具の剥がれかかった不気味な肖像画が並んでいる、といった場所、という意味ですけれども……そういった「幽霊屋敷」になることはないのですよ。
 よく考えてもご覧なさい。都で権勢を振るう、すこぶる付きに『出来の良い』お殿様の国元なのですよ? その方の配下に人がいないはずがない。縁戚の摂政か、信頼深い譜代の国家老が必ずいます。そして、よく働く代官の目が領内隅々に至るまで光っている。
 確かに御領地にお住みになってお国の政に専念しておられるお殿様や、あるいは殿様の留守に権勢を振るう摂政やご家老の御屋敷と比べれば、主のいない城は幾分か手薄かも知れません。ですが、まったく無人というわけには行かないものです。
 むしろ一番偉いお殿様がいない分、働く者達が妙にのびのびと過ごすものだから、いささか騒がしかったりするくらいです。
 お解りになるでしょう?
 本来住むべき人がいないのに、誰か別の者がいて、すこぶる騒がしい。そういった御城や御屋敷は、まるきり「幽霊屋敷」のようではないですか。
 摂政が、家老が、代官が、主の目の届かないところで蠢いている。彼等が正しく「人」であるとは限りますまい。

 その御城も、長く「幽霊屋敷」でした。
 山の奥にある、すり鉢の底の様な土地です。平らなところは猫の額ほどもありませんでした。
 集落は、山の斜面にへばり付くようにしてできていました。人々は段畑を作って麦や蕎麦や果樹や桑を植え、雀の涙ほどの収穫を得て、どうやら暮らしています。
 当然、税収は低いものでした。実のところ、御朱印高の半分もありません。それを増やしたくても、狭い国土には開拓の余地がありませんでした。
 御領内には火を噴く山があったのです。灰が降り、地揺れも時々あります。耕せる土地は限られ、土壌は痩せていました。
 ですが、その土地の歴史は大変古く、由緒のあるものでした。
 歴史上の人物……あるいは伝説の中の幻なのか定かでないですけれども……高名な伝説の英雄が、一時雌伏の時を過ごした場所だと言われていました。
 今となっては役に立たぬ建物がそこかしこに建ち……いいえ、冷え固まった溶岩の下に半ば埋もれて、国中が丸ごと遺跡遺構といった風情です。
 そんな遺跡遺構の一つがその御城でした。
 崩れた塔があって、埋まった堀があって、潰れた屋根があって、突き出た石柱がある。
 そう、君が思うような、幽霊屋敷そのものです。とても人の住める状態ではありません。事実、その城に人は住みません。
 高祖が天下を定められてから最初の百年ほどは兎も角も、後の三百年ほどの間で、この土地の「領主」となられた歴代のお殿様方が、実際に土地に暮らしたことは、たったの一度だってありません。
 わざわざそこに暮らす必要がないのですから。
 領主となられた殿様たちは、主上の信任篤い方々です。何やら大臣であるとか、何やら家老であるとか、丞相、宰相、大将軍であるといった、重要な役職に就いておられる。
 そういった御方が都を離れて、遠い「領地」に住むことなどできますか? そんなことをしたら、たちまち都の政が回らなくなってしまいます。
 そういった方々が何故彼の土地を領有することになるのか、お解りになりませんか? 
 偉い偉いお殿様が、なにか主上のお気に召すこと、しかしそれが目に見え数字に見える報償を与えるほどの功績ではないと事をなさったというときに賜るのが、古い古い英雄に縁のあるこの土地の領主という「名誉」なのですよ。
 そう、あの勲章……金座銀座の作業場の隅で、腕の良い職人が作り上げる、あの小さくきれいなバッチと同じことです。
 リボンで飾ったあの金属片は、装飾品としての価値は別として、貴金属としての価値はそれほど高くはないということを、ご存じでしょう?
 あれは、授けられたという事実が重要で、勲章自体は持っていれば充分のものです。
 ええ、万が一にも紛失するようなことがあれば、確かに一大事ではありますけども、それでも、毎日身につける必要のある代物ではないでしょう。
 つまり、件の土地の領主になったからといって実際にそこに住む必要はないのです。その土地を領有しているということ、それを主上から与えられたことに価値があるのですから。
 勲章が、主上の前に出る時に箪笥の奥から引き出して礼服の胸元を飾ればよいのと同じことです。そこの領主という肩書きがあれば、それで良い。
 主上に愛され、信頼されている殿様方は、主上の宮殿に己専用の部屋を与えられ、都に大きな御屋敷を持っておられます。あるいはどこか別の所に広くて実り豊かな領地と立派な御城を持っておいでです。
 そのような方が、わざわざ遠くて狭くて寒い所に住む必要がありましょうか。件の土地は、一生涯に一度、物見遊山にお出かけになるの精々のことです。
 ですから、古ぼけて崩れ落ちた御城はずっと無人でした。壊れているところが修復されることもありません。もっとも元から壊れているお城でしたから、誰も住めるようにしようなどとは思いもしなかったのです。
 壊れたまま「現状維持」させるのが三百年前からの慣わしであったというわけです。
 ああ、殿様が一生涯に一度のご旅行をなさった場合のことですか?
 万々一、殿様がお国入りした場合に備えて、敷地の隅に小さな可愛らしい「離宮」が建ててあります。ええ、そちらはあくまで「離れ」扱いです。おかしな話ですけれどもね、本邸は崩れたお城というのが建前ですから。
 離宮にはちゃんと管理する者がいます。一月に一度床を磨いて、三月に一度庭を掃き清めて、半年に一度窓を開けて風を通し、年に一度は暖炉に火を入れる。
 まあ、結局住む者がいないという点では、母屋の方と大差がありませんけれども。
 兎も角も、領民は人のいない崩れた御城と、誰も住んでいない離宮を、まとめて「幽霊屋敷」と呼んでいました。
 最初は、他のそう呼ばれている屋敷と同じで、比喩や揶揄に過ぎななかったものでしょう。
 しかし、ねぇ君。名は体を表すと言うではありませんか。嘘から出た真実というではありませんか。
 時が経つにつれ、何もない廃屋をして、そのうちに誰かが「聞いた」と言い、あるいは「見た」と言うようになったとして、何の不思議がありますか。
 誰かが言って、誰かが聞いて、それをまた誰かに言って……。
 ほぉら、そこは本当に何者かの声が聞こえ、何者かの姿が見える場所となってしまう。例え実際に聞いた者がいなくても、本当に見た者がいなくても、ですよ。

 そんな御城に、その殿様がおいでになったのです。

 その殿様の場合、文字通りの都落ちでした。
 何のしくじりをしたかと訊ねるのですか?
 断じて何の失敗もしておられませんよ。
 ただ、新しく御位に就いた主上が、その人を「自分の都には不要な人材」と断じただけのことです。
 主上に対してこのような言い様をしては、不敬に当たるかも知れませんが、新しい主上はすこぶる優秀な方でした。またその自負も持っておられた。ですから、何に付けても先代の方とは違うやり方をなさりたかったのでしょう。
 だからといって、その殿様本人の首を刎ねることや、家名を断つことまではできなかった。
 実を言いますと、その人は一頃は大変な権勢を誇っていらっしゃったのです。
 新しく御位に就かれた主上がまだ即位なさる以前には、その人の前に出る度に地にひれ伏すようなのお辞儀をなさったというほどだったそうです。
 その勢いが失せたのは、殿様の奥方が茶会で薄荷のお茶を飲んだ途端に卒中を起こして亡くなられた少し後のことでした。
 ご次男が石ころ一つ無い馬場で落馬し、愛馬の蹄で頭を踏み割られてなくなられたもう少し後のことでした。
 ご長男が新品の装束に残っていた待ち針を指先に刺した後に、得体の知れぬ病に罹られて、苦しみ抜いてお亡くなりになった後のことだと聞いています。
 ……君の言いたいことは解りますが、これは事故です。総て不幸な事故だった。
 ただ当時、君のように考えた人も、多かったのは確かです。
 何分にも、奥方様が倒れられたその場所に主上の寵姫が居合わせており、ご次男と馬首を並べておられたのが太子であり、ご長男は第二皇子の学友でありましたからね。
 その時は色々様々な噂が立った様子です。
 そういった「根も葉もない」噂を、わざわざ噂の主に注進する者がいるから、余計にややこしいことになってしまう。
 ただでさえご家族総てを失われた悲しみの中におられるというのに、他人を疑いたくなってしまうような話を聞かされれば、身も心も疲れ果ててしまうのが道理でしょう。
 殿様は心労で御髪などが真っ白になられ、目に見えてやせ細られました。元々お若くはあられなかったのですが、年齢相応以上に老け込んでしまわれた。
 その様子を知ったご聡明な主上が、転地療養を命じられたというわけです。
 ええ。元々の所領と都の家屋敷を総て取り上げた上で。
 主上はとてもご聡明な方です。
 殿様から総てを取り上げてしまったら、未だ彼を慕う人々が、大いに不平を言うに違いない。口で言うばかりか、剣を持って抗議する者が出る可能性がある。それも一人や二人ではないだろう……その程度のことは当然すぐに察せられた。
 そういうわけで、その殿様は件の「名誉」の土地を代替地として領することになったのです。ですからこの領地替えは名誉の勇退なのです……少なくとも、形の上では。
 ご聡明で用心深い主上は、それでも足りないと思われたのでしょう。もう一つ、とても価値のあるものを殿様にお下しになった。
 一人の美姫です。絶世の美女です。
 主上はご自身の寵姫の娘を畏れ多くもご養女になさった上で、殿様の妻となさしめました。
 このことで、主上のご心配通りに、大いに不平を言う愚か者が、いくらかはいたそうです。直接間接に殿様に働きかけて事を起こそうと考える胡乱者もいたとか。
 しかし当の殿様が、財産を失ったことに関してはまるきり落胆などしていなかったものですから、何も起きようはずがありません。
 ええ、殿様はむしろそのことを喜んおられたのです。
 妻に先立たれ、ご子息二人までも失った殿様は、見れば彼等を思い出すに違いない先祖伝来の家宝などに、小指の先ほどの未練もお持ちではなかった。そんな物はむしろ捨ててしまいたいと思っておられた。
 殿様にとって、都そのものが悲しい思い出の器に他なりません。景色の何処を見ても、妻を、息子たちを、彼等の哀れで無惨な亡骸を、ありありと思い出してしまうのです。
 領地替えの前には、殿様は大変気落ちなさっておいででした。都を離れたい、家族のいるところへ行きたいと、主上に訴えたこともあったそうです。
 ですが遠回しな死への願いは叶えられませんでした。
 なぜって? そんなことをしたら、彼の一族に起きた不幸は、主上が謀ってしたことだなどという「下らぬ流言」が飛ぶに違いないではありませんか。
 ですから主上は殿様の寿命が短くなるような願いはお聞き入れにならなず、もう一つの方の願いのみを聞き入れた。
 そうですよ。殿様が全部を召し上げられ、新しい土地へ行くことになったのは、全部殿様のご希望です。殿様が主上に願い出て、それが適ったのです。
 他の者がなんと言おうとも、それが真実です。
 ですから、殿様は都を離れることに何の不満も抱いておられなかった。むしろ遠くへ離れられることを喜んでさえおられた。
 ただ、主上の養女を後妻にあてがわれたことには、少しばかり不満があったのかもしれません。
 若い奥方は殿様の亡くなられたご長男と同じ年頃でした。
 そのうら若い娘子が、親ほども年齢の離れた年寄りの所に嫁がされた上に、故郷を離れた遠い田舎に押し込められるなど、哀れでならない。……例え彼女が養父から与えられた「監視役」の職務を忠実にこなしているだけだとしても、殿様は奥方を本当に可哀相に思っておいででした。

 ああ、その人の名前のことは勘弁してください。いつの時代の、どんな立場の人であったかも、です。
 例え殿様ご自身が願った領地替えであっても、外から見れば都落ちの左遷です。ご家中の方々にとっては恥とも言えましょう。
 とうの昔に無くなった方です。死人に鞭を打つのはあまりに可哀相だと思って頂けませんか? 
 それが駄目なら、生きているこの私を哀れんで、どうか訊かないでおいてください。
 そう。これは昔話です。遠い所の昔話。
 色々な経緯いきさつがあって、深い山奥の、古い城跡に立つ寂しいお屋形……「幽霊屋敷」に閉じこめられることになった、お優しくてお寂しい殿様のお話。
 そう思って聞いてください。

 都から殿様に従ってきた数少ないご家来衆の中には、あまりにみすぼらしい離宮の様子を見て涙を流した者もいたと言います。
 殿様の都のお住まいは、壮大荘厳、優美華麗、光り輝くようなお城でしたから。ご家来衆もそれを誇りに思っておいでだったのです。気落ちするのも無理はない。
 尤も、当の殿様はその小さな屋形を大変お気に召されました。
 筆頭の御家老が「あまりに狭い」と嘆かれるのを聞いて、殿様は「その小ささが良い」と仰ったのです。
 立派なお城や御屋敷という物は、内装も装飾も大層美しいものです。しかし美しく広い部屋は実のところ薄暗く寒々しいのですよ。
 豪奢な燭台に幾十もの蝋燭を立ても、お部屋を明るく照らすことができません。炉で火を焚いても、その熱気は上座にまで届かぬことがああります。
 格式を重んじる家人たちの言葉は堅苦しく、誰と語っても気の休まることはない。
 一方で、小さな屋形の小さな部屋は内装も装飾も寂しいほどに質素でしたが、手を伸ばせば火桶の熾火の暖かさに届きました。小さな蝋燭一つで部屋中が明るく照らされます。
 当地で雇い入れた使用人たちは、さすがに最初は都人の前で堅苦しく振る舞っておりましたが、しばらくすると生来の田舎者の気安さが見え隠れするようになりました。
 ご家族を失い、お心寂しく過ごされていた殿様にとって、この狭さ、気安さは、何よりも嬉しいことでした。
 だから都から付き従ってきた忠実無比の家臣が、土地の者から聞き込んだ「幽霊屋敷」の噂を殿様のお耳に入れても、一笑に付したそうです。
 若い妻とその周囲には聞こえぬように、
「大事ない。都の方が人でないモノの方が多く住んでいる」
 と囁かれたと……ああ、これは噂です。他人の口から出た言葉ですよ。
 兎も角も、殿様が屋形に暮らしている間、殿様御自身は実際に「何か」を見たり「何か」を聞いたりはなさいませんでした。若い後添えの奥方様も、その目で見たり聞いたりなさらなかった。
 ところが家人の内には「見たという者の話」をする者がいました。怪しげな音や声を「聞いたという噂」をする者もいました。
 殿様はそういった「報告」もまた、一笑に付されました。ご自分が見聞きしなかったのですから、当然といえば当然です。
 ところが奥方は信じてしまわれた。……奥方様は何分にもお若く、真面目で、それに信心深い方でしたから、他人の話を素直にお聞きになってしまわれる。
 ええ。信心深いのならば、神ならぬものの怪異などむしろ信じなくても良さそうなものなのです。でも、怪力乱神というものは、そういう「神学的に正しい信心」とは無関係な存在のようです。
 目に見えず耳に聞こえぬ存在の、何とはなしに感じる恐ろしさに、奥方は大変お心を乱された。
 信心深い御方ですから、当然ご自身で熱心に祈りを捧げられました。ですが、不安は晴れなかった。
 奥方は、屋形からそう遠くないところにある古い神殿から神官を及びになられました。土地の者が、その神殿が一番由緒があると言ったのを信用されてのことでした。
 ただし、彼の神殿というのは、子宝祈願の霊験高いと評判の告知天使の神殿でした。子授けの祈祷は得意でも厄除けや悪霊払いは本職ではないのです。実際、神官たちはその手の祈祷を本格的にはしたことがありませんでした。
 それでも若く美しい奥方様から直接、是非にと乞われたなら、できぬと言うわけにもゆきません。
 神官たちは、聖典の今まで開いたことのない頁を繰り捲り、全霊を傾けて有難い御言葉を詠唱しました。今まで焚いたことのない調合の紫色の香の煙を屋形に充満させました。
 するとどうでしょう。
 たちまちのうちに、今まで「見た」と言わなかった者達と、「聞いた」と言わなかった者達が、「見た」「聞いた」と騒ぎ出したのです。
 君、今嗤いましたね? 確かにおかしな話でしょう。ですが、当人たちにとっては笑い話ではありませんよ。
 祈祷が失敗した形になった件の神官たちは、震え上がりました。
 奥方様は大層お怒りでしたから、殿様のお執り成しがなければ、神官たちがどのような目に遭ったか解りません。
 暫く後のことですが、彼等は「本来の霊験」の方での祈祷を、それこそ命がけで行いました。これが「効いた」ということで、奥方様のお怒りもどうやら収まったらしいのです。
 何分にも今となっては皆故人となっているものですから、本当のところがどうであったのかは、どうやっても確かめようがありませんけれども。
 兎も角も、ご自身が見たわけではないものの、奥方は得体の知れないモノに大変な恐怖を抱かれました。
 殿様の膝に縋って
「こんな恐ろしいところには住めない」
 と、お泣きになられました。
 若い女性の涙ほど強いものはないといいます。殿様は新しい「小さな御屋敷」を建てて、古い離宮から出ることになさいました。
 そうは言いましてもあまり豊かでない国の、まるきり豊かではない貧乏殿様のご普請です。
 ええ、都におられた頃の資産はほとんど没収されていました。それは平民の方と比べれば、幾分か持っている部類に入りましょうけれど、元の暮らしから考えればほとんど無一文と言っていい。
 だからといって、今の主上に縁があると思うと、奥方の化粧領に手を出すことは、さすがに憚られましたからね。
 どう足掻いても立派なお城など建つわけがありません。
 土地の頭領が縄張りをし、土地にある石材を使うことになさいました。内装も土地の樹木で土地の指物師が作り、土地の織り子が土地の山毛玉牛ヤギの毛と山蚕の糸で敷物や掛物を織ることになりました。
 まず第一に、奥方様の為の仮のご寝所が建てられました。奥方様が一日も早く古い屋形を出たいと仰ったからです。
 真新しい小屋ができ、真新しい寝台が組み上がり、真新しい寝具ができると、すぐに奥方はそのご寝所にお移りになりました。
 殿様は古いお屋形に残られました。
 何故、と? 建てられた仮のご寝所は狭く、仮の寝台も小さく、奥方一人が休むのが精一杯だったからですよ。……そういう寝所を作れと命ぜられたのは、殿様ご自身でしたが。
 それから、形ばかりの塀と門が作られて、浅い空堀が掘られて、形だけで跳ね上がらない跳ね橋が架けられました。
 家臣たちが控える部屋ができ、奥方様の衣裳部屋ができ、形ばかりの物見櫓ができました。奥方の仮でないご寝所が建てられ、殿様の御座所も完成しました。
 最後に手頃な広間のある天守が建ちました。
 それは殿様が昔住んでいた「都のお城」の十分の一すらもない小さな御屋敷でしたけれども、それでも、殿様が考えていた以上に立派で素晴らしい出来栄えでした。
 大工たちの普請が終わると、指物師たちが大いに仕事をしました。あっという間に家具調度が御屋敷の中一杯にできあがりました。
 それは殿様が昔住んでいた「都のお城」の調度品と比べたら、小振りで質素なものでしたけれども、それでも、殿様が考えていた以上に立派で素晴らしい出来映えでした。
 指物師たちの仕事が終わると、次に織り子たちが大いに仕事をしました。ふわふわの敷物が床と廊下の隅々まで敷かれ、ふわふわの掛け物が窓と壁とを覆いました。
 それは殿様が昔住んでいた「都のお城」の床や壁と比べたら……ああ、何度も同じことをしつこく言い過ぎですか? これは申し訳ない。
 ともかく、手頃な広さで、質素で、それでいて思いの外立派な御屋敷ができあがって、殿様は大変お慶びになったのです。
 総てができあがると、最初に立てられた奥方様の「仮のご寝所」が取り壊されました。
 殿様は初め、この建物を何か別の用途に使おうとお考えだったようですが、奥方様が、できあがった御屋敷と見比べると、あまりにみすぼらしいと仰ったので、勿体なくお思いになられながらも、大工たちに命じて解体させました。
 そんな次第でしたから、奥方は最初にお住まいになった古い「幽霊屋敷」も当然取り壊すものだと思っておられた。
 ところが殿様は仰せになったのです。
「あれは残さなければならない」
 奥方様の驚かれたことといったら! 青いきれいな瞳の目玉が、溢れて落ちてしまうのではないかというくらいに大きく目をお開きになって、
「あんな恐ろしい魔物の棲む場所を、お残しになられると!?」
 大きな声で仰せになられました。
 奥方様の言われるのは当然のことでしょう。あの建物が恐ろしすぎるから、と、新しい家を建てたのですから。
 すると殿様は娘のように若い奥方に微笑みかけておっしゃいました。
「あの場所を壊せば、奥の言う『恐ろしい魔物』が住処をなくして、外に出てくるやも知れぬぞ」
 奥方様は息を飲み込まれ、少しばかりお震えにななられました。
 殿様は続けて、
「万一、住処を失った『恐ろしい魔物』が、この新しい家に住み着いたなら、奥はどうするのだね? 立派なお城が建ったと領民たちが大喜びしているこの建物を、また取り壊すかね?」
 奥方の震えはガタガタと音がするほどに大きかったと聞きます。震えながらうなずかれて、古い屋形を残すことにご同意なさいました。
 とはいうものの、奥方様は余程に「人ならぬモノ」が恐ろしかったと見えます。以降、ご自身は件の建物ばかりか、ちらとでもその建物が見える場所には、決して近づこうとなさらりませんでした。
 一方で殿様は、都から持ってきた家財のうち特に「思い入れ」のある物を、その小さな離宮に押し込めました。
 その後、扉という扉から「引手」を総て取ってしまわれました。
 中に収めた物を、外に出したくなかったのでしょう。奥方は、年老いた夫が、忌まわしい物を総てあの建物の中に封じ込めてしまおうとしている、と思われたようです。
 総てが済んでから、殿様はご家中に命じました。
「あの建物に近寄ってはならない」
 と。

 何年か過ぎた頃。先ほどもちらりと言いましたが、件の神官たちが失敗を取り返そうと、本業の方で頑張ったおかげであったものか、殿様と奥方の間に跡取りが生まれました。
 初め殿様は子供は欲しくないと仰せだったようです。二人までも御子に先立たれる悲しみが、そう言わせたものでありましょう。
 ところが実際に生まれてみれば、年をとってからの子と言うこともあってでしょうか、その御子を大層お可愛がられました。
 殿様は御子には薄荷のお茶を決して飲ませませんでした。馬には決して乗せませんでした。新しい衣服が仕立て上がりますすと、縫い目の奥まで磁石を当てて調べ抜いてから着させました。
 ……そうですね。殿様も、心の奥底ではご家族の死にご不審を抱いておられたのやも知れません。口に出されるようなことは決してなさいませんでしたが、或いは……。
 いいえ、外へも出さぬ箱入りになさったわけではありません。
 薄荷のお茶が駄目なのであって、お茶を飲むことそのものをお禁じになったわけではありません。
 乗馬は禁じられましたけれど、戦車を御する術の習得はむしろお奨めになりました。
 尖った針を使わないもの、例えば組紐や透かし織りの技などは、殿様ご自身も一緒になって習得なさろうとしたほどです。
 ですから、殿様は例の三つのほかのことで、悪いこと以外は、一つを除いて全部、御子の願うようにやらせたのです。
 奥方も初めての子供を大層おかわいがりになりました。
 御子と二人きりのお茶会を催して、薄荷のお茶に慣れさせました。御子と二人きりで散歩に行った先には、必ず背の低い馬がを待たせてありました。御子と二人きりの夜には、リネンに自分の名を縫い取らせました。
 奥方は殿様が心の底でおびえていること……つまり、ご先妻やその御子等の死に対する不信感……が真実ではないことを証明したかったのでしょう。
 奥方は主上の一族の出ですから、一族の不名誉になるようなことは否定したかったに違いありません。
 あるいはご自分の御子には、その「不吉」を乗り越えさせたかったのかも知れません。
 まあ、これは私の想像です。奥方の本心が何処にあったのか、奥方ご自身にしか判りません。
 奥方は例の三つのほかのことで、悪いこと以外は、一つを除いて全部、御子の思うとおりにやらせました。
 お二人が異口同音に禁じたこと……それはあの古く小さな「離宮」へ近寄ることでした。

 十年ほど後のことです。御子はとりあえず無事に成長しました。病になることも、怪我をすることも、もちろん命を失うこともありませんでした。
 父君が危ないことを総て遠ざけ、母君が危ないことに挑ませた、その両方のおかげでしょう。
 ただ少しばかり、そうホンの少しばかり、性格が歪んだひねくれ者になってしまった。
 いいえ。乱暴粗暴になったとか、根暗陰険になったとか、そういうひねくれ方ではないのです。
 我が強いのに、引っ込み思案で、大笑いすることもなければ、むやみに怒ることもしない。融通が利かない生真面目な子供でした。
 まあ、殿様の子供ですから、不真面目では困ります。
 他家のことは、私は存じませんよ。その家それぞれに教育の方針という物があるのでしょうから。
 ただこの家の場合、父君の教育方針と母君のそれとが、言ってみれば全く逆のようなものだったのは、問題であったといえますね。
 御子はそれぞれのいいつけをそれぞれに守り、それぞれにとっての「よい子」でい続けねばなりませんでした。
 御子は、父君の殿様を悲しませてはならないと考えていました。母君の奥方を喜ばせなければならないと考えていました。
 そんなことを十年もしておれば、幾分かの歪みが出ない筈がないでしょう?

 ああ、どうやら君は、真面目な子供が嫌いらしい。特に親の顔色をうかがうような優秀ぶった子供は大嫌いだと見えます。
 つまり、子供は子供らしく、ほほえましく、愚かしく、我が侭で、そして悪意ない残酷さを持つ存在であるべきだと?
 ねえ君。この世に、絵に描いたような子供ばかりだなどとは、あり得ないでしょう?
 大体君自身のことはどうなのです? 君は、大人になった君が思うような、あるいは君が書く物の中に出てくるような、いかにも可愛らしくて無邪気な天使のような子供だったのですか?
 おや、黙ったね。そう、暫く黙っておいでなさい。
 大体、君が私に「話せ」と言ったのだから、とりあえずは最後まで口を挟まずに聞くべきですよ。
 宜しい。それでは、不運な殿様の所の、君の嫌いな真面目で捻くれた子供の話に戻りましょう。

 この子供は、なにがなんでも「長じては良い殿様となりました」と言われなければならない定めを負っていました。
 何分にも、母君の目の奥で、主上の目が光っていますから。
 都の主上は、殿様にはどうしても手を出すことができない。手が出せるくらいなら、左遷などという面倒なことをする前に、最初から首を刎ねています。
 でも数年辛抱すれば、主上の親ほどのご高齢である殿様が、主上より先にあの世へ行かれるだろうことは間違いない。
 だから主上が、殿様の家を潰すなら、跡取りの代になってから、とお考えになってもおかしくはないでしょう。
 代が変われば世情の風当たりもいくらかは弱くなるやも知れませんからね。
 潰す方は気が楽かも知れませんが、潰される方はたまった物ではないでしょう。家がお取り潰しになれば、家臣達が困る。領民達が困る。
 そうならないための二代目の使命は、取りつぶしにできないほどの名君に……父上以上に良い殿様になること。
 この十才ばかりの御子は、子供のクセに、こういう大人の事情をボンヤリと判っていた。
 君、やはりこういう子供は嫌いでしょう?
 私も好きません。こんな子供は大嫌いだ。
 しかし当人にとっては、好きも嫌いも言ってはいられないことです。選択の余地など、絹糸一本挟むほどもない。
 御子は勉強をちゃんとしたし、剣術もしっかり学んだ。禄高が増える見込みのない小国での貧乏暮らしに耐えるために必要であるならと、修道女のように畑を耕したし、手先の仕事も習った。
 馬無しの鷹狩り、川魚釣りは当然のこと、獣の解体も、鳥の絞め方も、魚の下ろし方も学んだ。
 そしてそれらを料理する術も教えられた。料理人が雇えなくなったら……経済的な理由だけでなく、料理人が買収されてお茶の中に何かを混ぜる可能性も、うっすらと考えた上で……自分でパンを焼かなければなりません。
 学ばねばならないことの多い子供でした。ほとんど一日中何かの勉強をしていた。昼間息を抜けるのは、午前の授業の後に、姉とも慕う乳母子めのとごとお茶を飲む僅かな休憩時間ぐらいでした。
 いささか窮屈な日々を送る子供でした。尤も、この子供は他の家のことは知りませんから、「殿様の家」ではみなこんな生活なのだと思っていたようですけれども。
 兎も角も、この御子は運良くぐれもせず、父君である殿様を尊敬し、母君である奥方を敬愛する真面目な子供になったというわけです。
 だから愛する両親の、どちらからの言い付けもきちんと守っていた。
 それでもどうしようもなく押さえきれない好奇心というものがあったのです。子供らしいところが少しはあったと見えます。
 御子は、それが気になって気になって、仕様がなかった。
 なにがあるために禁じられるのか、なにを自分に見せたくないのか、知りたくて仕方がなかった。

 ええ、離宮です。あの、古く小さな幽霊屋敷です。

 あの建物は何のための物なのか。なぜ古いまま残されているのか。あの中に何があるのか。
 知りたいと思った。
 しかし大人達は言葉を濁し、口を噤み、答えてはくれない。
 唯一、御子と年の近い乳母子が
「殿様がお国入りする前から、得体の知れぬモノが憑いていると噂する者がおるのです。莫迦々々しい話ですが、それを信じる愚か者者が居るので、殿様は近付かぬようにと仰せなのでしょう」
 と答えてくれたとは言え、この程度答えでは、御子は納得できなかった。
 ならば自分の目で確かめたいと思うのは必定でしょう?
 しかし毎日の日課が酷く詰め込まれていて、昼間はあの建物に近付くことすらできない。
 ある夏の夜、御子はそっと寝所を抜け出しました。
 裕福でない殿様とその家臣たちは、夜を照らすための燭台の蝋燭や油を節約していましたので、お城の中も外も、闇に包まれていた。
 御子は星明かりと記憶を頼りに離宮へ向かい…………。
 君の期待を裏切って悪いのですけれど、この夜、子供は幽霊屋敷にはたどり着けなかった。
 何分にも父親からは「決して近付いてはならない」と言われ、母親からはその影の見える所にすら行くことを許されない場所なのですよ。
 大凡の方角がわかっていたからと言って、闇夜に子供一人が迷わずにたどり着けるはずがないじゃありませんか。真面目な子だからといって、賢い子供だとは限らないのですよ。
 と言うわけで、御子は夜明けの前にどうにか寝所へ戻っりました。ほとんど寝ていないものだから、昼間は眠くて仕方がなかった。その日は学問でも剣術でも、それぞれの師匠に酷く怒られたようです。
 この御子に美点があるとすれば、あきらめの悪さでしょう。一度失敗したからといって、興味のある事柄を諦めることなどできなかった。
 御子は何度かその場所へ行くことを試み、何度目であったか定かでありませんが、漸くその場所の近くまでたどり着くことができました。
 その日、御子は短い佩剣を下げた簡単な「武装」をしておりました。
 殿様と奥方が「近寄ってはならない」と命令しているのだから、警備の者、見張りの者が幾人かいて、見回りをして目を光らせていて当然でしょう。
 ですから、勇ましい格好をしたつもりの、自分は賢いと思いこんでいる、しかし好奇心旺盛な、小さなお国の幼い跡取りは、茂みの中から、剣に縋るようにして、「武者震い」をしながら周囲を窺ったというわけです。
 それは全くの暗闇でした。目を凝らし、耳をそばだてて、御子は人の気配を探りました。
 しかし御子が「当然いる」と考えていた、古い離宮を警備する者や、近付いてはならぬ場所に入ろうとする者がおらぬか見張っている者の姿は、そこにはなかった。人も、犬も、猫の子一匹すらも、その辺りには生きているモノはまるでいなかったのです。
 御子は不思議に思いました。
『この場所を見張らなくて良いのだろうか』と。
 あるいは、『この場所に近付く者がいないとでもいうのだろうか?』と。
 そして『この場所に興味を抱いているのは、或いは自分だけなのだろうか?』とも。
 御子の父上である殿様は、外から新しくやってきた殿様であるにも拘わらず、この土地に元から住んでいた人たちにも随分尊敬されていました。殿様が元いた土地の人々の中も、去ってしまった殿様を慕っていた者達がいたそうですが、それ以上に新しい領民は殿様を愛していた。
 ああ、たしかにただの判官贔屓かも知れません。贔屓であろうが敬愛であろうが、元の感情などどうでも良い。殿様の領民達は、殿様がおふれを出せば、それをしっかりと守った。それだけのことです。
 そんなお国柄のことだから、御子は、殿様の命令があるために誰一人この場所に近寄らない……あるいはそんなことも有り得ると考えもしました。
 しかし総ての領民が殿様の命令を守るとは限らないとも考えました。どれ程優れた為政者の元であっても、犯罪は起きるものです。
 例えば、畏れ多くも高祖陛下はこの世に二人とない優れた支配者であられましたが、その治世に一人の罪人も出なかったなどと言う事実は、残念なことに無いでしょう? むしろ大勢の「罪人」が牢に入れられ、刻印を押され、切り刻まれ、焼かれ、土に戻された。
 どの世にも、どんな土地にも、不心得者は必ずいる。……悲しいことですけれども、これは動かせない真実です。
 だから殿様の命令が、それほど硬く、命令が出されてから十年以上時間が経ってなお、守られ続ける筈がない。そう御子は考えました。そして結論づけた。
「あそこには、人を寄せ付けない何かがある」
 殿様が「近寄るな」と命令を出さねばならない何かが、誰もがその命令に逆らえない心持ちにさせる何かが、奥方様にその場所のことを口にも出せない気分にさせる何かが、そこにある。
 そしてそれは……人ならぬモノに違いない。
 子供の考えです。妄想と言っても良いでしょう。
 おかしなもので、女子供というのは怖いモノを酷く嫌い、そのくせ恐ろしいものを好むものです。
 風にゆられる布簾を幽霊と見て怖がり、怖いなら近寄らなければよいのに、開け放たれた窓に近寄って窓から身を乗り出す。
 見るなと言われると見たくなる、やるなと言われるとやりたくなる。
 自分の仮想の恐ろしさに、御子の体は震え、胸は期待に膨らんだ。……いくら「子供らしくないよい子」であってもやはり子供ですから。
 そして御子は茂みから出た。目を見張り、耳をそばだてたまま、古い田舎の百姓屋のような離宮へ近付いた。
 そこは人気の無い、薄ら暗い、寂れた古城。閉ざされた窓辺に青白い明かりが揺れているように思え、風の音の裏になにかの「声」が聞こえる感じる屋形。
 御子は震えながらしっかりと剣を握った。人ならぬモノ、生きていないモノが万一現れたなら、これを引き抜いて闘おうというのです。
 そう、おかしな話です。人でないモノ、生き物でないモノならば、剣で切って捨てることなどできようものですか。
 いや、たとえ「それ」が斬りつければ倒れてくれる手応えのある体を持つようなモノであっても、国中の人々が、屈強な衛兵ですら、近付くのを怖れるような存在であれば、子供の膂力では適うはずがない。
 よく考えれば解りそうなことなのですが、そこでよく考えないのが子供というもの。中途に賢かったり、半端に武術を修めているような子供は、特にその傾向があります。
 往々にして根拠のない自信を持っているのです。
 学友の中で優れているとしても、それは学問所の中でのこと。道場の中でそこそこ勝てると言っても、それは道場の中でのこと。
 世の中には「上には上」の存在があることを想像だにしない。
 自分がいる場所の外のことを知らないモノだから、自分は間違いをしないと思い込み、しくじりなど微塵も考えない。
 御子はそんな子供でした。
 だから、父の命令を破っても、母のいいつけを守らなくても、自分が「恐ろしい何か」を倒せば、むしろ褒められる。単純にそう考えた。
 いや、そう考えて、自分の中の恐怖心を消そうとしたのです。
 何分にも優れた殿様になることを定められた子供故、父親を越える功績が必要だった……実際に必要と言うよりは、御子にとっては必要なものだった、と言った方が正しいかも知れません。
 そして、今日がその手柄を立てる日だと御子は信じた。信じ込んで、それを勇気の支えとしたのです。
 しかし子供の勇気というものは、すぐに萎んでしまうモノです。御子は茂みから出手すぐに、眼前を仄暗い一筋の光が横切ったのを見て、悲鳴も上げられないほど肝を冷やし、剣を投げ出して尻餅をつきました。
 ……いいや、生憎なことにその光は君の思うようなもの、つまり、鬼火やら人魂などと呼ばれるものではありません。
 臆病な蛍火虫が仲間を求めて灯す幽かな光でした。
 御子はそのことにすぐに気付きました。そして尻餅をついたまま、気恥ずかしげに辺りを見回しました。その直前までに、散々人気のないことを確認し尽くしているというのに……。
 蛍火虫がふらふらと飛んで、ある一点に留まった。御子は闇に目を凝らして、動かずに点滅する光を見つめました。
 そして蛍火虫の小さな明かりの中に、扉の木目を認めた。決して近寄ってはならない、あの幽霊屋敷の扉です。
 御子はゆっくりとにじり寄りました。尻餅をついたままですから。立ち上がれなかったのですよ。這い進むより他にありません。
 ひどく長い距離のように思えたようですよ。実際にはほんの数十歩ほどでした。ただ何分にも気持ちばかりは前へ進むのに、腰はすっかり抜けきって、頭の後を付いてきてくれないのですから、時間が掛かって仕方がなかった。
 当の本人は至極真面目に「ひたすらに前進している」つもりだったでしょうが、人から見れば相当に滑稽な様子だったに違いありません。ずるずると体を引きずって、それでもどうにか蛍火虫が飛び立つ前に扉の前にたどり着きました。
 御子は質素な木の扉に縋り付いて、崖でもよじ登るかのようにして漸く立ち上がり、扉に耳を押し当て、中の気配を探りました。
 何かが聞こえるはず。音か声か。不気味な唸り声か。
 もし聞こえたなら、これほど恐ろしいことはないはずです。誰もいない廃屋の中から、何者かの存在を匂わせる音がするなどとは!
 恐ろしくて、恐ろしくて、心の臓が飛び出るほどに恐ろしくて。しかしそれほど恐ろしいのに、その音を聴きたい。そこに何者かがいるということを確かめたい。
 御子は期待していました。大きな期待でした。
 しかし期待は裏切られました。
 どれ程強く耳を押し当てようとも、御子には、どっどっと打つ自身の心臓の拍動と、ざぁざぁと流れる血潮のざわめき以外は、何も聞こえなませんでした。
 御子は大きく息を吐き出しました。安堵の息であり、同時に落胆のそれでした。肺臓の中身が全部抜けるほどの息を吐き出すと、体の力も抜けてしまったようで、御子はその場に座り込んでしまった。
 そして扉にもたれかかるようにして、空を見上げましたた。暗闇の中に小さな星がちらちらと瞬いています。星はあくまでも冷た輝いていた……。御子には星々が自分を
「見栄っ張りの小心者よ、己の力量を知らぬ愚か者よ」
 と責め立てているようにさえ感じました。
 御子はまた息を吐いきました。体の力は益々抜け、首がかくりと後ろに落ちました。
 脳天が扉の板に当たる軽い音がした。その直後、蝶番が小さな悲鳴を上げました。
 ――いや違う。錆び付いた金属の重く湿ったような軋みではない。
 良く磨かれて、油を差された、ちゃんと手入れがされている、良く動く蝶番の音です。
 例えば、人々の喧騒のある昼間のお城の中では少しも気にならない程の小さな音。人気のない夜の幽霊屋敷であったからこそ、聞き取れたのであろう、かすかな音。
 御子は固唾を呑みました。この扉は、果たして開くのであろうかと、そっと考えました。
 見張りも置かれず、見回りもされない、しかし近寄ってはならない場所……戸も窓も鍵が掛けられて当然です。入り口が易々と開く筈など、あり得ない。
 御子はゆっくり、振り向きました。
 この扉は閉まっているはずだと自身に言い聞かせながら、扉に手を掛けた。
 この扉が閉まっていて、開けることが出来ないと判ったら、すぐにこの場を離れよう、そして自分の寝室に戻って眠ってしまおう……。つまり、それをその場から逃げ出す理由としたかったのです。
 御子は心臓を高鳴らせて、引き手を引きました。蝶番が滑らかな音を立て、扉は……開きました。
 御子の、驚きよう、そして怖れようと言ったら、他に比べるものがありませんでした。
 飲み込んだ息を吐き出すことが出来ぬくらいに驚愕していました。
 本来ならば、不信に思いはしても、恐ろしくなど思わぬはずでしょう? むしろ喜ぶべきです。
 何分にもこの幽霊屋敷の謎を解き明かして見せようと、そして殿様に相応しい立派な人間であることを知らしめようと、大望を抱いてこの場に来たのですから。
 子供らしい? 確かに考えの甘いところは子供そのものですが、この場合は、単に浅はかで愚かしくて情けないだけのことです。

 ……おや? そんな怒ったような顔をして、どうしたというのですか?
 え? 私の言い様が気に入らないと?
 これは申し訳ないことを。しかし、先ほども言ったとおりに、私はこの子供が大嫌いなものだから、どうしても厳しい物言いになってしまうのです。
 ああ、またそんな顔をして。君もこんな子供は嫌いだと、確かに言ったと記憶しているのですけれど?
 私の話が君のお気に召さないというのなら、ここで止めても……。
 あ、いや、相解った。解ったからいきり立つのはお止めなさい。なるべく優しく、いや中立的客観的に、話を続けましょう。

 何処まで話したか……。
 ああ、そうでした。

 扉は苦もなく開いた。封印も鍵も掛けられていませんでした。立て付けの悪さもほんの僅かな軋みもまるでありません。なんの手応えもなくすんなりと、あるいは人が来るのを待っていたかのようにあっさりと、扉は開いてしまった。
 開いたからには入らないわけに行きません。
 御子は扉と戸先の隙から中の様子を窺いました。
 そこは闇の中でした。
 外の闇夜に目が慣れていたとはいうものの、星明かりさえ遮られた幽霊屋敷の中の、真実深い闇の中は、目を凝らしても何も見えませんでした。
 御子は恐ろしさに震えながら、更に扉の隙間を広げました。開いた隙から首を差し入れて、中の様子を窺いました。
 何か動くモノがあったら、どうすればよいだろう? どのように逃げようか、どちらに逃げようか。
 逃げることばかり考えながら、しかし御子は、闇の中に足を差し入れました。
 底なしの闇に落ち込むかも知れぬと怖れて、つま先でそっと床を叩き、その場に足場があることを確認すると、用心深く、一歩、ゆっくり、踏み入れた。
 当然、無事に、足の裏全体が床の上に載りました。
 しかしこの一歩の先に、安全な床があるとは限らない。いや、この足の下にあるモノも、安全な床ではないかも知れない。
 恐れは恐れを呼び、恐怖は恐怖を引き寄せます。
 せめて明かりが欲しい、星明かりほどの幽かな明かりがあればよいのに。
 そう思った刹那、願いは叶いました。
 青白く、暖かみのない小さな光が、ぽっと御子の眼前で輝いた。
 御子はまたしても腰を抜かしました。尻餅をついて倒れましたが、その御蔭で、尻と手の感触から、この場所が真っ当な板張りの床であることが知れました。
 同時にか細い光が、その動きから、先ほど見たのと同じく蛍火虫のそれであることも知れました。
 御子は自身の小心振りが、自身で情けなく、そして可笑しくも感じられ、声を立てずに嗤いました。

 人間は「笑う」と力が湧いてくるそうですよ。嘘笑いであっても、心にもない作り笑いであっても、あるいは自嘲、あるいは嗤笑であっても良いとか。
 口角を持ち上げ、眼を細め、胸を揺すって、腹から息を吐き出しさえすれば、脳漿はそれを「笑顔」だと勘違いするのだと、私の師が言っていました。
 もっとも師は、異端的な思想を持っているという理由を付けられて学会から蹴り出されたほどのすこぶる付きの「変わり者」であったから、君はこの説を信用しない方が良いのかもしれませんが。
 ええ、私は我が師の説を信じている。
 だからあの時に、尻餅の腰を持ち上げられたのも、御子が自嘲である上に恐怖に引きつったとは言えど、ちゃんと自然に湧いて出た「本物の笑顔」によって、立ち上がる力を得たからだと確信しています。

 力の元が何であれ、その時御子は立ち上がったのは事実。そして立ち上がった御子は、蛍火虫の小さな光を灯火代わりに、辺りを見回しました。
 幽霊屋敷の中は、御子が想像していた……つまり、君が想像しているような……ものとは、大分違っていました。
 御子は、腐った床板や、崩れた土壁や、破れた窓、抜けた天板を想像していた。室内は埃やカビの匂いのする、生暖かい空気に満ちていると思いこんでいた。
 しかし実際はと言えば、床板は綺麗に並び、壁の漆喰にはヒビもなく、窓は隙間なく閉まり、天井から空やその他の何かが見えるようなこともありませんでした。
 空気はひんやりと澄んでいて、埃も、カビの胞子も、一つたりとも舞っていません。
 ただ、鼻を利かせると、薪を焚いた後の煤の匂いが僅かに漂っているのが解りました。
 誰かが住んでいて、ほんの僅かの間留守にしているだけの、普通の百姓家そのものとしか思えませんでした。
 では、その誰かとは、一体何者なのか? 御子は考えました。
 幽霊が家を手入れして美しく保ったりするか? 物の怪が室内を埃一つない状態にするために掃除をしているというのか? 悪鬼が暖炉に火をくべたりするのか?
 否、否、否。
 ここには人間がいる。
 人間ならば、生きている者であるならば、何を怖れることがあろうか。
 先ほどまで、見えぬ何かにおびえていた幼子は、俄然元気になりました。
 生きた人間ほど恐ろしいモノはないと言うことを、この子供はまだ知らなかったのですよ。
 盗賊も、暴力主義者も、快楽殺人者も、暴君も、皆「生きた人間」であると言うことをまだ知らない、本当の愚かな子供でした。
 ドアの向こうに盗賊がいるかも知れないとも、廊下を曲がった先に乱暴者が潜んでいるかも知れないとも、毒薬を持って屋根裏をはい回る者が居るかも知れないとも、地下に無数の武器が隠されているかも知れないとも、小指の先ほども考えられない子供です。
 御子は無謀にも、何の備えも気構えもなく、歩き出しました。
 玄関ホールと呼ぶには狭く、廊下と呼ぶには短い空間でしたが、その左右両側と、突き当たりとに扉が一つずつあるのが、闇の中にボンヤリと見て取れました。
 御子はまず向かって左の扉に近寄りました。
 闇に手を伸ばし、扉に触れました。
 古い扉であることは、すぐに解りました。
 板には割れもささくれさえなく、滑らかな表面から指先が感じ取ったのは、丁寧に打たれた釘の僅かな凹凸のみでした。
 何年もの間、何人もの人間がそれを使い、それによって滑らかになった材木と、大切に修繕された古材の優しい肌触りは、新品の建材のそれとは全く別の物です。
 ……区別など簡単につく。むしろ、好き嫌いの激しい「子供」だからこそ、違いが解るのでは?
 そう思いませんか?
 それにこの貧乏殿様の御子様には、新品の尖った滑らかさよりも、使い込まれた中古の品の手にこなれた肌触りの方が好ましかったのです。
 君は、織り上がったばかりのコシのある硬い亜麻の夜具よりも、晒して叩いて使い込んだそれの方が、好ましい肌触りだと思わ……ないのですか……。みっしりと繊維の詰んだ、硬い新品がお好み、か……。
 残念ですね、どうも君とは趣味が合わないようです。私も、それから件の御子も、大切に使い込まれた古い物の手触りが、大変に好きなのですよ。
 御子はその好ましい、古き良い手触りのする扉の磨り減った板の上に指を這わせました。取っ手を捜したのです。
 扉ですからね。木か金属か、どちらにせよ、古い扉に相応しい、手にしっくりと吸い付くような突起があるに違いない。
 しかしそれは存在しなかった。
 使い込んだ戸板を板壁に再利用したのか、ここは出入り口ではないのか……。いいえ、その古い扉は、間違いなく扉だった。
 取っ手のあるべき場所に、丁度取っ手が填るのに良さそうな穴があるのが、その証拠です。
 板壁に仕立て直したというのなら、そんな穴は塞いでしまうでしょう。
 もし、元は塞がれていたものが、つい最近詰め物が落ちてしまったというのなら、その詰め物が床に転げているはずです。
 あるいは大分前に詰め物が取れてしまったのなら、代わりの物で塞ぐでしょう。
 この掃除と手入れの行き届いた館の主が、「壁」に穴が開いていることに気付かず、穴が開いたままの「壁」に手を入れないことなど、考えられません。
 だからこの穴は、必要だから開いているのだと、御子は考えました。そしてわざわざ開けてあるからには、それなりの意味がある筈だと類推しました。
 御子は知らなかったのです。殿様がこの館中の扉と言う扉全部から、引き手を全部取ってしまわれたことを。
 御子は身をかがめ、その「取っ手が填るのに丁度良さそうな穴」を覗き込みました。
 扉の向こうには薄闇が広がっていました。
 ボンヤリと「何かが置かれている」らしい影が見え、その影の向こうで、何かが揺れているのが判りました。
 その影が何であるのか、揺れている物が何であるのか、目を皿のように見開いて見ていたとき、あることに気付きました。
 そう、見えた。見えたという不可解。
 星明すらも届かない、と思っていた場所です。今までいたところでさえ、運良くそこにいた、一匹の蛍火虫の僅かな輝きの御蔭で、どうにか物の形が見えるばかりの暗闇でした。
 この虫の明かりが届かぬ「筈」の、何も見えぬ「筈」の深い闇が、そこにある「筈」でした。
 御子は慄然としました。出来うる限り冷静に物を考えようと努めました。
 蛍火虫がこの「扉」の先にもいるのか。
 いや、あの虫の光は冷たく揺らぐものだけれど、「扉」の向こうの影からはむしろ仄かな暖かみを感じる。
 つまり、別の、虫や星や月ではない、なにかしらの光源があるのだ。
 自然光でないモノがあると言うこと、それは即ち、何者かがそこにいるということを表しています。
 何者かとは「何者」か?
 この屋の「主」か? いや、このお屋形の「主」はかの殿様です。
 確かにこの幽霊屋敷は、隅の隅とは言っても、一応はお城の堀割の内側にあります。つまり「家の中」です。夜中に家の中を家の主が歩いて回ったところで、おかしな話ではありません。
 ですが、やんごとなき御方というものは大層不便な生活をしているのです。年取った、都を追われたこの殿様は、手水場に行くときでさえ、二人か三人は近侍の武官を従えて行ったものです。
 殿様は守られなければならない御方で、同時に見張られなければならない御方でしたから。
 ですから、殿様が例え自分の「家」の「お庭」であったとしても、建物から外へ出るのに誰一人お側に控える者がいないと言うことは有り得ない。
 もしもこの引き手のない「扉」の向こう側に人がいて、それがこの幽霊屋敷の主人で、即ち今その場にいる御子のお父上である殿様であったなら、御子がその場にたどり着くずっと以前に、御子は近侍の一人や二人を見かけているはずです。
 あるいはあちらの者の方が先に御子を見付けていてもおかしくはない。
 しかし御子はそのような人影は一つも見ず、また誰からも見とがめられることなく幽霊屋敷の中に入り込んでいる。
 あそこに人がいたとしても、それは御父様おもうさまではない。
 では、殿様からこの屋の管理を任されている、家来の誰ぞか?
 この離宮の掃除をし、建物の繕いをする役目を仰せつかった者が居り、主命によりここに寝泊まりしているということは、充分考えられることでした。
 御子は安堵の息を吐きました。父親である殿様の家臣であるならば、自分にとっても家来であろう。ならば、何の怖れることも無い。
 そう考えたすぐ後に、御子はにわかに不安を覚えました。
 この忠義者の家来が……。

 ……そうですよ。件の殿様のご家来衆はみな忠義者だった。
 ああ、君の言うのはもっともです。確かに、現実には二心のある者も、少なからずいたことでしょう。殿様のお立場を考えれば、そう思った方が正しい。間違いなく、都の主上と繋がりを持っていた者が、殿様の周りには……と言うことは当然彼の子供の周囲にも、幾人もいたに違いありません。
 例えば……そう、奥方であるとか。
 ああ、なんと恐ろしいことを私は考えているのか。
 夫を見張る妻、妻を信用できない夫。互いの心持ちを互いに、そして周囲に、ほんの少しも感じさせない夫婦。
 その夫婦を、この世で一番のおしどり夫婦だと信じていた浅はかな子供。
 万一これが事実そうだったとしても、なんておぞましい。考えるだに気分が悪くなる。
 ……ああ、有難う。この宿の井戸水は、格別に美味しい。飲めば心が洗われるようです。
 あの頃のあの子供はにはこんな感情は無かったことでしょう。少なくともこの頃のまだ幼かった御子の目には、みな忠義者と映っていたのですから。
 良く言えば真面目すぎるが故に疑うことを知らなかったということでりましょうが、それにしても浅はかに過ぎました。
 仕方ないと思ってください。何分子供のことです。……本当に、仕方のないことです。

 兎も角も、御子にとっては殿様の家来は、隅々下々にいたる迄総て皆まとめて忠義者。これは疑うべきもなかったのです。
 だからその忠義者が、我が身が近寄ってはならない場所へ、近寄るばかりか入り込んだとことを両親に報告したなら、どうなるであろうか?
 御子はブルリと震えました。きっときついお叱りを受け、ひどいお仕置きを受けるに違いない。
 その恐怖よりも、しかし好奇心の強さ方がより勝っていました。
 御子はどうしてもその「扉」の向こうに行ってみたくなった。何があるのか判らない、何がいるのか判らない場所へ、どうしても行きたくなった。
 そうすれば、この館が「幽霊屋敷」と呼ばれている理由も、父母が我が身をこの館に近づけさせまいとしている訳も、きっとわかるだろう。
 それにはまず、この「扉」の開け方を考えなければなりませんでした。押したり引いたりといった「普通の方法」で開くとは考えられません。何分にも取っ手がないのですから。
 と、なれば、横へ、或いは上か下へ滑らせる事が考えられる。
 御子にとって幸いだったのは、殿様の新しいお城には、様々な工夫と珍しい家具調度品が幾つもあったことです。そこかしこに様々な扉、窓、蓋があった。
 遠国から献ぜられた戸板を横に滑らせて開ける螺鈿細工の戸棚、丈夫な帆布に細い板を幾枚も貼り並べた上蓋を巻き上げて開ける机、一度軽く持ち上げてから押すと隠し留め具が外れて開く鎧戸、といった物です。
 御子はそういった物に触れて育ちましたから、扉のと言えば押すか引くか、という観念じみた物が薄かった。あるいは、父母が目端の利く子供に育てるために、あえて様々な物を周囲においてくれていたのかも知れませんが、どちらにせよ、このような場合には、その環境は役立ったといえるでしょう。
 御子は取っ手のない「扉」の前に立つと、取っ手が付くのに丁度良さそうなあの穴に手を掛けて、右や左に横滑りさせてみようと試みました。それがうまくいかないと、上に持ち上げてみたり、下に押し込んでみたりしました。
 扉は、開いてくれませんでした。
 御子は今一度身をかがめて、件の穴の辺りを良く調べました。
 鍵がかかっているのかも知れない。あるいは扉の向こう側から心張りがあてがわれていることも考えられる。
 鍵穴らしき物は見付けられませんでした。穴そのものの周囲には何も仕掛けのような物は見あたりません。穴から見た範囲では、戸の開け閉ての障害になるような物も見えませんでした。
 ならば、見えないところに何か細工があるに違いない。自分には動かせない細工が。
 御子はため息を吐きました。
 この先には行けない。この先にある物を確かめることは出来ない。
 御子は落胆してあの「扉」に背を向け、その場に座り込んでしまいました。総身の力が皆抜けきっていました。背筋を伸ばすことさえ出来ないような気がして、御子は背中を「扉」にもたれかけました。
 それでも力はどんどん抜けて行き、ついには首さえも小さな頭を支える事を放棄しました。御蔭で、後頭部はがくりと後ろに落ち、戸板にぶつかりました。
 板と骨のぶつかるゴツリと大きな音がし、その後、ガチンという金属が何かに当たったような、耳障りな音がしました。
 先の音は自分の頭が出した物とすぐに察しが付いたものの、後の音の正体が知れなかった……。その瞬間は、音の正体などどうでも良く、探ってみようなどとは考えもしなかったのですが、直後に思い直しました。
 何分にも、自分の体が扉よりも向こうに倒れて行ったのですから。
 御子は、何が起きたのかすぐには判りませんでした。床に強か頭をぶつけてもなお、戸が開いたのだと言うことが暫く理解できなかったほどです。
 頭蓋の揺れと脳漿のそれとが収まり、鼓膜のキンキンとした震えが止まって、漸く御子は気付きました。
 扉は開いた。
 重い金属音は扉を閉じていた何かの細工が動いた音であることも察しました。
 その細工を作動させたのが自分の後頭部で、それが細工を動作させる釦になる場所と丁度同じ高さにあり、動作させるに見合った力加減でぶつかったのだろうことも、おぼろげに理解しました。
 仰向けに床に転んで、真っ暗な天井を見上げた状態で。
 御子は暫くそのまま寝ころんでいました。脳の揺れは収まっても、痛みはすぐには消えてくれませんでしたから。天井を見上げたまま、何度か強い瞬きをしまし、大きく息を吐いて、それからゆっくりと身を起こした……頭をぶつけたときにはあまり性急な動作をするべきではないと、剣術の師匠から教わって、知っていたのです。
 尻餅をついた格好で前を見ました。つまり廊下の側をです。
 蛍火虫の明かりは一所に留まって、ゆっくりと点滅していました。恐らく向かいの壁にでも止まっているのでしょう。
 御子は座り込んだまま、もう一度大きく息を吐きました。そして小さく
「嗚呼、痛い」
 と呟いてみたのです。
 何故、と? 誰かがいれば、その声に答えてくれるやも知れないと思ったからですよ。
 まあ、万一誰かが居たとしたら、扉の向こうで大きな音がして、扉の仕掛けが動いて、扉が開いて、何かが部屋の中に入り込んできたその時点で、何らかの反応をするのが当然でしょう。
 良い反応にしろ、悪い反応にしろ、何かしらの変化が起きるはずです。
 御子の声は、闇の中に吸い込まれてゆきました。
 期待した反応はなく、変化もなく、返答もない。
 この「幽霊屋敷」に居るのは、自分ただ一人。御子は漸くその事実を受け入れました。
 安堵したような、がっかりしたような、嬉しいような、寂しいような、奇妙な感情が御子の胸の中で渦巻きました。
 妙に可笑しくなって大声で笑い出しそうになるのを、御子は必死で堪えました。肩をふるわせながら立ち上がり、頭や背や尻の塵芥を払う仕草をしました。
 実際には床には塵も埃も一片たりとも落ちていませんでしたから、払う必要など無いのだということを御子は頭の中では理解していました。
 それでもそうやって恥ずかしさを誤魔化すような仕草をせずには居られなかった。誰にも見られていないのに。
 問題は、その仕草を、ずっと廊下を向いたまま行ったことでしょう。
 あれほど覗き見たい、入りたいと思っていたあの部屋の中なのに、何故かすぐには見る気分になれなかったのです。
 振り向き、見てしまうと、本当に底に誰もいないのだと言うことを「知って」しまう。
 そのことが、惜しい気がしたのです。
 いっそ後ろを見ないまま、前へ歩を進め、元来た道のりを戻ってしまおうか。
 いや、それも何やら勿体ない。折角、父母の言いつけを破ってまで「冒険」に来たというのに、たどり着いた場所で何もせずに帰っては、まるで何かを怖れて逃げたようではないか。
 御子は塵を払う動作をし続けている間、逡巡していた……いや、逡巡している間、ずっと塵を払うそぶりをしていた、と言った方がよいでしょう。
 どれ程時間が経ったか判然としませんが、おそらくは四半刻のそのまた半分ほどの長い時間過ぎた後、御子は漸く服を手で払う仕草を止めました。
 決心したのです。
 そう、決心した。
 迷いに迷って、漸く決めた。
 後ろを見る。
 後ろに、この部屋の中に何があるのか、この目で見る。
 そのためにここへ来たのだ。そのためにここにいるのだ。
 御子は何度も何度も心の内で言い、何度も何度も大きく息を吸い、何度も何度も大きく息を吐き出しました。
 そして、そっと、首を左にひねりました。
 ゆっくり、少しずつ、闇が流れてゆき、壁らしきものが見え、棚らしき影が見え、それから椅子らしき影、机らしき影が、徐々に視界に入りました。
 机らしき影の上には、小さくて丸い、うっすらと赤い色が見えました。
 途端、御子の鼻孔は菜種の油の燃える匂いを感じました。
 小さな食台の上で、金属の油壺の上の細い口金を殆ど締め切る程に絞った、小さな常夜灯の、幽かで弱々しい炎が、今まさに消え入ろうとしているところでした。
 これに気付いて、慌てふためかないでいられたら、その者は相当に剛胆だといえます。
 子供にその肝の太さを期待するべくもない。
「あっ」
 と短く声を上げ、同時に全身を灯のある方向へ向け、瞬時に足を前へ突き出して、心もとない明かりの側へ駆け寄ろうとしました。
 慌てているときと言うのは、何をやっても上手く行かないもの。しかも、いくら目が慣れたとはいえども闇の中のことです。
 御子は勢い余って食台の脚に膝頭をぶつけました。
 食台の脚が床を擦る音がしました。
 食台の周りに置かれていた、四脚の小さな椅子は、てんでバラバラの方向押し動かされ、あるいは壁に打ち付けられ、あるいは何かにぶつかり、あるいは倒れ、大きな破壊音を挙げました。
 肝心な台の上の灯も、クワンクワンといったような、心もとない音を立てて、大きく揺れました。小さな灯は揺れながら、それでもどうにか仄明るい赤を発していましたが、御子にはすぐに消えて当然に思われました。
 小さな光が、己の短慮のために消えてしまう。
 不安はそのまま口から飛び出しました。
「消える!」
 食台の端から手を伸ばす。台の中央で揺れている灯を押さえる。思った通りのことを思ったように成す。
 そして灯の揺れは収まりました。
 否、否、否。間に合いはしなかった。
 汗ばんだ掌の内にすっぽりと収まった小さな湯壺の上、細い灯芯の先の赤い光は、疾うに失せていた。揺れの所為ではありません。
 手の内の灯は、とても軽かった。
 金属の油壺と灯芯以外の重さがなかった。
 燃料が尽きていたのです。揺らされずとも、あの瞬間には消える定めだったのです。
 残ったのは、真の闇。
 右も左も、前も後ろも、何処を見ても、闇。
 机や椅子達は震えることと音を立てることを止めてしまった。
 灯芯がら立ち上っていた煙が絶え、油と煤の匂いも消えた。
 手の中の金属の器は、氷のように冷たく、御子の指先を凍えさせる。
 その冷たさは、あっという間に背筋まで伝わり、脳漿を凍り付かせた。
 見えず、聞こえず、感じず。
 何もない、闇の中に、自分一人。
 振り払ったはずの恐怖が、振り立てたはずの勇気を、あっという間に追い出して、全身を支配しました。
 手の先、足の先がビリビリと痺れ、感覚が失せてゆきました。
 肉体は闇に押し潰されました。
 何も出来ない。声も出ない。
 泣き叫ぶ? 手足をばたつかせて、床を踏み付けて、むずがる赤子のように?
 そんなことが出来るはずがない。
 陸に打ち上げられた公魚ワカサギのように、ただ口を開けて喘ぐのが精一杯でした。
 息が詰まって、死ぬ。
 いや、もう死んでいるのかも知れない。
 そうだ、そうに違いない。 
 肺の腑は呼気を取り込むことを拒絶し、心の臓は血潮を送り出すことを拒絶し、脳漿は考えることを止めてしまったのだ。
 私は死んでいる。
 懺悔の祈りの間も無かった。とすれば、魂の行く先は辺獄か煉獄か。あるいは一息に地獄の奥底へ堕ちるのか。
 御子は無性に悲しくなりました。
 地獄には知り合い一人いないでしょう。――御子は、自分の周囲にいた人々は皆おしなべて善人だと思っていましたから、例え彼等が死んだとしても地獄に堕ちる筈がないと考えたわけです――永遠の責め苦を、永遠に独りきりで受けるのだ。
 ああ、もしかしたらすでにその責め苦を受けているのかも知れない。誰もいない闇の中に、独り置かれるという責めを。
 この闇の中には地獄の獄卒共がいて、自分を嘲笑い、睨み付けているのだ。
 ブルリと震えたその後で、不意に御子は思いました。
 この闇の中に、本当にそんな者たちがいるというのなら、この目で見てやろう。
 何のきっかけも脈絡もない。正義漢も義務感もない。ただ不意に、本当に不意に思い付いたのです。
 しゃがみ込んでうつむいていた御子は、ただその思い付きのために頭を上げました。震えて瞼を閉ざしていた御子が、その思い付きによってだけ、薄く目を開ける決心をしました。
 怖いもの見たさ? ああ、そうとも言えましょう。
 御子は、目を開けたところで闇以外のものがあるはずはないと……。
 ……いや、違う。逆だ。全くの逆です。
 地獄の住人でも良い、自分以外に何者かが存在していることを確かめたかったのやも知れません。
 あの闇は、それほどに心細く、寂しかった。
 兎も角も、御子は頭を上げ、目を開いたのです。
 とは言っても、凛々しく上を見上げられた訳ではなく、雄々しく目を見開けた訳でもありません。
 そっと頭を上げ、ゆっくり目を開いた。
 縮こまっていた体の中から、針より細く瞼の隙を開けて、自分の体の外側にある世界を、恐る恐るのぞき見た。そんな具合です。
 そしてその世界は、薄暗い闇に包まれていました。
 御子は落胆し、しかし同時に気付きました。
 自分が畏れ、恐怖した、あの真の闇は、そこにない。
 どこからか、僅かに光が漏れてきている。先ほどの机の上の灯の、あの儚げなか弱い光ではない、もっと別の光が、どこかにある。
 そして、ほんのりと、ぼんやりと、何かが見える。
 そう、人影のようなものを、確かに御子は見たのです。
 御子は眼をこれ以上は開かぬと言うほどに大きく開きました。
 婦人でした。
 まるきり見知らぬ顔でした。
 見知らぬご婦人は、凡そ地獄には相応しくない、柔和そうな面差しに、古風に髪を結って、古風な身なりをしていました。
 お顔は真っ白でしたが、これは古風な化粧のためでしょう。唇は黒みのある深い赤で、頬は薔薇の色に塗られていました。
 年の頃はおそらく御子の母君、つまり殿様の後添えの奥方よりも、幾分か年上のように思われました。
 御子はこの婦人に声をかけようとして、はたと気付きました。
 ぺたりと尻餅をついた自分の視線と同じ当たりに、このご婦人の優しげな微笑があるのです。
 このご婦人がしゃがんでいたとしても、その高さに顔があるはずがありません。御子同様に尻餅をついておいでなのだとしても、まだ低い。
 ご婦人が御子よりも遙かに背が低いとも考えられました。それならば、床に座っておいでになれば、その高さにお顔があっても不思議ではありません。
 しかしそのご婦人の身なりは、胸元より上ほどがぼんやりと見えるだけでしたが、豪華で洗練されたものでした。ご身分の高いご婦人であることは間違いありません。
 そんな方が、腰を抜かして立てぬ御子のように、はしたなくぺたりと尻餅をついた状態で、柔和に上品に微笑んで居続けられるとは、考えられないでしょう。
 この高さにお顔があるためには、例えば床がそこだけ一段低くなっているとか、あるいは腰より下が床の下に「埋まって」いるか、あるいは胸より下の部分が「無い」状態でなければなりません。
 御子は自分の考えに驚き、思わず後ろに飛び退きました。
 尻餅をついていたのに、どうやって飛んだのか、不思議なことなのですが、尻餅をついたままの格好で、どうやってか後ろに飛んで下がったのです。
 御子の背や後頭部にぶつかった椅子や机の脚が、床を引っ掻く大きな音がしました。
 ところが件のご婦人は眉一つ動かすでもなく、柔和に微笑んだままでした。
 御子は何度も瞬きをし、幾度も目の辺りを袖で擦り、そのご婦人を見つめ直しました。
 すると、ご婦人の両隣に別の人影を見出しました。
 二人の少年でした。
 御子と同じくらいか、少しばかり年上と見受けられました。
 一人の少年の顔立ちは、薄闇の中でもはっきり見て取れました。顔色がご婦人と見まごうほどに真っ白だったからです。
 彼は額の広い、利発そうな面立ちでした。
 もう一人は目を凝らして漸くその姿をおぼろげに見て取ることが出来ました。どうやらよく日に灼けている様子で、ともすれば闇に紛れるほどに、黒い顔をしていたのです。
 彼は眉の太い逞しげな面立ちと見えました。
 一目見ただけでは、まるで印象の違う少年達でした。
 ところが、御子には彼等はどことなく似ているように見えました。目元口元の形というか、顔の作りというか、雰囲気がどことなく似通っている。
 御子は確信しました。少年達は兄弟に違いない。
 その上で、二人の面差しは件のご婦人によく似ていました。いえ、暗がりではっきり見えた訳ではないのですが、御子にはそう思えてならなかった。
 さすればこの三人は母子に違いない。
 直感です。何の根拠もない。ですが御子にはこの三人が、仲の良い親子以外には見えなかった。それほどによく似ている気がしたのです。
 しかしそれ以上に、この少年たちが別の誰かに似ているようにも思えました。
 どこかで見た、見知っている顔。
 城下の人々の誰かか?
 お城で働く人々の内の誰かか?
 剣友、学友の誰かか?
 否、否、否、否。そうではない。
 もっと、近しい、もっと見慣れた、もっと、もっと……。
 ふっと、御子の脳裏に浮かんだ顔がありました。その顔に御子自身が驚いて、思わず声に出してしまいました。
御父様おもうさま
 途端、まばゆい光が御子の目玉に突き刺さりました。
 御子は思わず身構え、腕をかざして光を遮ると、瞼を細く開いて、光の差してきた方角を見ました。
 光の中に、人の影が立っていました。
 いや、立っている人影が、光を携えていた、と言う方が正しい。
 角提灯が高くかざされ、人影が長く伸び……。



「来た来た来た来たぁっ!」
 戯作者マイヤー・マイヨールは、古びた帳面と羽毛の乱れた鵞ペンを握りしめると、口角泡を飛ばしつつ身を乗り出した。
「幽霊ですか、死神ですか、あるいは小鬼グール大鬼オーガですか?」
 エル・クレール=ノアールは、申し訳程度の背もたれ付いた小さな椅子の上で、
「いや、それは……」
 身を堅くした。どうにもこの小男の戯作者は苦手だ。あまり近寄られると、全身の毛穴が粟立って、自分の白髪じみた薄い色の髪の毛が逆立つ気がする。
 鼻先に、マイヤーの鷲鼻の先端が迫る。
 が、それはすぐに、猛烈な勢いで遠ざかっていった。
 大男の剣術使いに襟首を掴まれた戯作者は、
「いやいや、土に還るを拒んだ亡骸もいい! 白骨、いや、腐乱死体!! そうだ、胴薙ぎに真っ二つにされた死に損ないが、腕の力だけで床を躙り来るのも絵になる!」
 若く美しい流浪の貴族の語った話そのものよりも、自らの想像に興奮し、捕まった野良猫のように暴れながらまくし立て続ける。
 その野良猫を大男――ブライト=ソードマンは、片手一本で吊り上げたまま、壁際まで運搬した。
 田舎の安宿の唯一の続き部屋スイートルームの板張りの壁の際には、丸椅子が二つ並べられている。
 一つは、つい先ほど、つまり興奮してエル・クレールの近くまで文字通りに飛んでゆくまで、戯作者が座っていた場所だ。
 もう一つには、人が掛けている。包帯で体中を巻き止めた少年だった。
「ヨハネス“イーヴァン”グラーヴ!」
 ブライトは不機嫌な声音で少年の名を呼んだ。
「はい、大先生おおせんせい
 イーヴァン少年は重要な教えでも受けるかのように、背筋をぴんと伸ばす。
「押さえとけ」
 空いた方の椅子の足元の床にマイヨールが落とされると、
「はい、大先生!」
 手足をばたつかせる戯作者の襟首を、今度は少年が掴んだ。ただし、両腕で、ではある。
 とは言え、マイヨールの尻はその場からほんの指の幅一つ分一ディジットも動かない。決して大柄ではない、しかも怪我人の少年の力とは、俄には思えなかった。
「流石にイーヴァン君は力がありますね」
 エル・クレールが無邪気な乙女のように手を叩いて感心すると、イーヴァン少年は頬をぱっと輝かせた。
 すると何故かブライトが忌々しげに小さく舌を打った。
 自分が彼以外の人間に笑顔を向けたことが原因だ、などということが、エル・クレールに判るはずがない。判るはずがないということがまた忌々しく、再度小さく舌を打ったブライトは、日に灼けた無精髭まみれの顔面をむくれさせた。その恐ろしく機嫌の悪い顔をなおも暴れるマイヨールに向け、その手中からすこぶる乱暴に帳面とペンを取り上げる。
 戯作者は大仰な悲鳴を上げた。
「ああ、なんてことだ! 旦那。後生だから返してくださいな。そのネタ帳はあたしの商売道具だ。そいつがなきゃ、あたしは商売あがったりになっちまう。そいつは旦那にとってのお刀と同じなんですよ。ねえ、旦那。いや、ソードマン大先生だいせんせい! 旦那だって、万一お刀を取り上げられっちまっちゃぁ、途端に生きた心地がしなくなるでしょう?」
 一層暴れるマイヨールの鼻先に、ごつごつとした大きな握り拳が突き付けられた。途端、マイヨールの手足がぴたりと止まる。
「ああ、ええ、そうでしょう。判ってますよ。確かに旦那なら、刀なんていう長い棒っきれなんぞなくったって、その拳骨ゲンコツ一つで、あたしのサレコウベぐらいは粉微塵にばさっちまうでしょうよ。判ってます、判ってますよ。旦那ほどの大名人になれば道具なんてなくったって、岩を砕き、大地を裂いて……」
「よく回る口だ」
 ブライトは拳を開いた。節くれ立った長い指が、マイヨールの下顎を掴む。
「テメェの声を聴くと反吐が出そうなくらい苛ついてくる。たった今黙らねぇと、顎骨もろとも舌ベロを引っこ抜いて、二度と言葉を吐けねぇようにしてやるぞ」
 指が頬肉に食い込み、骨を軋ませた。戯作者は出せる限りの力で上顎と下顎を重ねる。そして無理に笑った、しかしおびえた目で、巨躯の剣士を見上げた。
 マイヨールの顎から手を離すと、ブライトはマイヨールの帳面と鵞ペンを床に放った。それも、続き部屋との境の扉の前へ、だ。
 暗に「出て行け」と言っている。
『冗談じゃない! 身性を明かしたがらない美貌の若様から、どうやらご自分の身の上らしい話を、ここまで引き出したんだ。オチも聞かずに引き下がれるものか!』
 この若様に懸想している(に違いない)嫉妬深くて頭が切れて腕の立つ変態剣術使いをどうにかしたい。
 戯作者は泣きそうな顔でブライトを見上げた。
 しかし彼はすぐに、己の顔面の表現力がブライトの表情とその心の内を少しも動かさないことを悟った。
 太い眉が吊り上がり、眼光が鋭さを増している。
 貧乏ドサ周り舞踏劇団の座付き作家兼自称看板俳優の演技力と言うものは、どうもこの大男の前ではどれ程のものでもないらしい。
『それにしたって、ソードマンの旦那ときたら、よもやあたしが心中で悪態吐いてるってのを、見透かしているんじゃあるまいか?』
 マイヨールは急に背筋に冷たいものを感じ、慌てて視線を転じた。
 下唇を突き出し、眉間から鼻の頭まで皺を寄せ、眉を下げた、これっぽっちも涙の出ていない泣き顔を見せられたのは、エル・クレールだった。
『若様は旦那ほど捻くれちゃぁおられまい』
 マイヨールは瞼をパチパチと激しく開け閉めし、声を出さずに若い貴族に訴えかけようとした。
「君が突然大声を上げて、話の腰を折ったのが、そもそもの原因。自業自得のような気がするのですけれど……」
 エル・クレールはため息を吐きながら微笑した。その柔らかな笑顔は、しかしマイヨールではなくブライトに向けられている。
 言葉のない問い掛けに対する返答は、ただ一言だった。
「手短に」
 ブライトのすこぶる拘束力の強い「提案」に、エル・クレールは小さく「同意」の肯きを返した。するとブライトは
「三センテンス以内」
 と、更なる「追加提案」をした。
 エル・クレールは一瞬困ったような顔をして首を傾げた。だがすぐに微笑を取り戻して、
「角提灯を下げた年寄りの殿様が部屋に入ってきましたので、御子は大層きつく叱られると不安になりました。しかし殿様は御子を叱らず、優しい声で、倒れた四脚の椅子と落ちた母子の肖像画を元の位置に直すように仰りました。片付けが全部済んでから、二人は揃って幽霊屋敷を出ました」
 指を三回折りながら一気に話した。若い貴族はマイヨールが――そしてその脇で彼を引き止めているイーヴァン少年が――目を見開いて呆然とこちらを見ているのへ笑みを返すと、
「お終い」
 と告げて、両の手を本を閉じるような仕草で叩いた。
 この一撃は、マイヨールに踏まれたカエルのような悲鳴を上げさせるのに充分な衝撃を放った。
 それでも戯作者は、脳の片隅で
『もし言葉を発したら、その途端、間違いなく、ソードマンの旦那の手によって――生物学的にか、物書的にかは兎も角――この世からきれいさっぱり抹消される』
 と考えるだけの「理性」は残っていたらしい。
 悲鳴という音は立てても、自分の落胆を、
『若様、そりゃあんまりだ。ヒトに期待をさせながら、ここまで引っ張ったのが、そんなつまらないオチを聞かせるためだなんて! あすこまで話を盛り上げたんなら、それなりの結末が必要でしょうよ! やって来たのがお父上であったってのは、百歩譲りましょう。だからそのお父上が、じつは最初にこの御屋敷に住まわったその時に亡霊共に取り憑かれていたのだとか、実は悪霊共を手なずけ使役して都の偉い人に復讐する機会を窺っていたのだとか、お父上の姿を真似た幽霊が若様を追い出すために一芝居打ったのだとか。聞いてる者は、そういう納得できる結末を期待するものでしょうよ! あたしだったらそうしますよ!』
 といった言葉にしてぶちまけたいという欲求は、どうあっても抑え込まなければならない。
 そこでマイヨールは、件の文言を頭の中で強く念じ、エル・クレールを見詰めることにした。見開いた眼の力でこれが伝わることを願ったのだ。
 この強い眼力に、エル・クレールは当惑した。何か訴えたいのだと言うことは大凡判った。しかし何を訴えたいのかまでが伝わってくるはずもない。
「君は、私の話を気に入らなかったようだけれど……」
『そうじゃない、そうじゃないんですよ、若様! 話そのものが気に入らないんじゃぁない。話の落としどころが問題なんです!』
 マイヨールは激しく首を振った。
「私は精一杯、君が求めているような話をしたつもりなのだけれども……。そう、君が求めた、『意外であった話』を」
『ですから、父親が出てきてお終い、じゃあ観客は納得しないんですって!』
 マイヤーは何故だか泣きたい気分になった。
 エル・クレールの困惑は深まる。
「私はあそこで化け物か何かが出てくるのが当然の展開だと思っていた」
『そう、そうですよ、若様! こういう話を好むお客はそういう展開を望んで……』
「所がそういう恐ろし気なモノは出てこなかった」
『それだからいけない。それじゃあ、高まるだけ高まったお客の期待を裏切っちまう』
「……だから私はこれは充分『期待を裏切る意外な展開をした話』だと思って、君に話したのですが……。違いますか?」
 マイヤー=マイヨールの目の前が真っ白になった。ブライト=ソードマンの部屋が揺れるほど高々とした嘲笑いも、耳に入らないほど茫然としていた。
 部屋から追い出され、宿から追い出され、劇団の野営地に戻って行きはしたが、何処をどう歩いたかも、恐らく覚えていないだろう。
 ブライト=ソードマンは腹を抱えて笑いながら、窓から頭を突き出して、力ない戯作者の背中が遠ざかるのを見ていた。
 マイヤー=マイヨールの姿が視野からなくなると、彼は笑い涙が溢れ出た目尻を袖で拭って、小首を傾げているエル・クレールに向き直った。
 この男装した姫君は、自身の語った話でマイヨールを一泡吹かせようなどとは微塵も思って居らず、求められるままに、本心「自分が意外に思った話」をしたに過ぎない。
 それ故に、彼女は自分の「誠意」が伝わらなかったことが不思議であり、残念で仕方がなかった。
 ブライト=ソードマンは、人を疑うことも自身が人とずれていることも知らない彼女の性格が、愛おしくてならない。
「ウチの姫若様はこうでなくっちゃぁならねぇや。自然体ってぇのは何より強ぇえからな」
「自然体、ですか?」
 エル・クレールは更に首をひねる。彼が自分の言動の何を指して自然体と評しているのか、さっぱり判らない。子供扱いにされ、小馬鹿にされている気がした。
 ブライトは空いた丸椅子を足で蹴り動かし、エル・クレールの真正面に座った。
「あの三センテンス、もう少し引っ張り伸ばして貰おうか」
 エル・クレールは益々混乱した。
「手短にと仰ったのは、あなたご自身ですよ?」
 呆れ声で言ったが、ブライトが自分にしてくる「提案」は、総て拒否の余地が残されていないのだと知っている。
「殿様は……」
 彼女が語り始めた直後、ブライトは続く言葉を遮って、
「あの禿助チビスケもいなくなったことだ。もう濁す必要もなかろう。つまり、お前さんの親父がどうしたって?」
 途端、
「えっ!?」
 大げさなくらいに叫んだのはイーヴァン少年だった。
 彼は戯作者が出ていった後も、律儀に壁際の椅子に納まっていた。その椅子から――驚きのあまりなのか、怪我ために足元が覚束無かったのか――転げ落ちると、立ち上がることも出来ず、床を赤子のように這いずって、ようやくブライトの隣まで来た。
 彼の慌て振りを面白そうに眺めていた「大先生おおせんせい」は、
「おめでたいぐらい鈍い奴だ。あの禿助の物書きですら、それぐらいのこと感付いてたろうに」
「そうですか?」
 落胆の声を上げたのは、イーヴァンと、エル・クレールだった。ことにエル・クレールは口惜しそうに口を尖らせた。
「私は、旨く隠しおおせたと思っているのですが」
「ええ、そうです。若先生わかせんせいは、ご自分のことだなんてちっとも仰らなかったです」
 イーヴァン少年はエル・クレール=ノアールという若い貴族に心酔していた。
 年頃は自分とあまり変わらないというのに、そして体つきなどは自分よりも小柄なくらいだというのに、剣術は自分よりも遙かに巧みで強い。
 イーヴァンは『この人に師事したい』と真剣に願い、しかしやんわりと断られた。するとその剣術の匠が歯が立たないというブライト・ソードマンに頭を下げた。
 ブライトは少年の願いを拒絶しなかった。しかし、弟子にするとも言わなかった。
 イーヴァンがブライトを「大先生」と呼ぶのも、エル・クレールを「若先生」と呼ぶのも、イーヴァンが勝手にやっていることだ。そして、いちいち否定するのを面倒臭がった怠惰な剣術使いは(そして彼の「提案」を拒めないエル・クレールも)、そう呼ばれるままにしている。
 ブライトは妙に楽しげに、
「自然体が二匹に増えやがった」
 呟いて、エル・クレールを見た。
「どうやら私には物を語ると言うことが旨くできないようですね……」
 彼女は落胆を苦笑で覆うと、今一度語り始めた。
「父は、私がそこにいることを知って大変驚いた様子でした。それでも大声を上げたり、私を叱ったりはしませんでした。ただ、
『火が消えているね』
 と言って、常夜灯の役を与えられていた小さな卓上灯の油壺に、持って来た菜種の油を注ぎ足しました」
「お殿様が、油を?」
 イーヴァン少年の声音の裏には、驚きと疑念があった。彼には一城の主がそのような雑用をするということが信じられなかった。
 エル・クレールは少しばかり気恥ずかしげに
「君の亡き父上や、あるいは姉上……ヨハンナ=グラーヴ殿であれば、このようなことは決してなさらないでしょうね。しかし、我が家は家格は高くても恐ろしく貧乏だったのです。お恥ずかしい話ですけれども、充分な数の従者を雇う余裕がありませんでした。よって、自分の手の届く範囲のことは、自分で行う。灯明の油が切れかかっているのに気付いたら、例え領主であっても、率先して補充するのが当たり前になっていたのですよ」
 エル・クレールが少々憚るように言うと、ブライトが、
「もっとも、流石に『やんごとなき奥方様』には、そんなこたぁさせなかったろうな」
 後頭部を掻きながら呟く。エル・クレールは小さく頷いた。口元に笑みが浮かんだが、眼の色は少しばかり曇っている。
「ですから、父は手慣れた手つきで油を注ぎました。油がゆっくりと流れ落ちるのを、父は楽しげに見ておられた……」
「油を差すのが楽しい、ですか? 若先生には申し訳ありませんが、若先生のお父君は変わった御方ですね」
 イーヴァンが言い終わるらぬうちに、彼の脳天がゴツリと大きな音を立てた。
『黙れ』を言葉として口から出すよりも、拳に言わせた方が早くて確実だ、と考えるのが、ブライトの思考の基本的な傾向だ。
 効果は覿面てきめんだった。
 イーヴァン少年は黙り込んだ。目に涙を滲ませている。
 エル・クレールは抗議の眼差しをブライトに送った。それは彼の「話を続けろと」指図するために突き出された顎で跳ね返された。
 指図に逆らうつもりはない。エル・クレールは小さな諦めの笑みを頬に浮かべた。
「卓上灯の明かりは小さなものでしたが、狭い部屋を隅々まで照らすにはそれで充分でした。父は部屋を見回して、机や椅子が元の場所より少しばかり動いているのを確認すると、
『さて、お前は何処をぶつけたのだね? さぞかし痛かったであろうよ』
 少し意地悪に言いました。
『背中を。ですが少しも痛くなどありません』
 私は意地を張って申しました。本当は頭の後ろも背中も、ひりひりと痛んだのですが、それを言うのが恥ずかしかったのです。父が、
『そうか』
 と、穏やかに笑ってくれたので、私は内心ほっとしました。まだ叱られるやも知れないという不安が残っていましたから」
 エル・クレールはちらりとブライトの顔色を窺った。彼は軽く目を閉じていた。
「それから父は、机を……それほど大きくはない、天板が殆ど真四角な机でしたが……それが元の位置からずれていたのを戻し、
『椅子を四辺に一つずつ』
 と私に命じました」
「椅子は四脚か?」
 ブライトは目を閉じたまま訊いた。
 だからエル・クレールが
「四脚です。質素な肘掛け付きの椅子が一つ、座面に柔らかい布が敷かれたものが一つ、残り二つは小振りなものでした」
 と言ったときの顔つきも、それに独り納得した彼が、
「やはり、な……」
 呟き頷くのを見た時の表情も、目にしていないはずだ。
「で?」
 ブライトがまた顎で指示を出す。エル・クレールは一つ大きな息を吐いた。
「それから父は、床の上に落ちてしまった貴婦人と二人の少年の肖像画を……」
「つまり、お前さんの親父の前の女房と、お前さんの死ンじまった兄貴二人の描かれた?」
 エル・クレールが頷くと、イーヴァンが目を見開いた。しかし口は閉ざしたままだ。
『それで二人の少年が「お殿様」に似ていた』
 という得心の言葉を呑み込まずに声に出せば、また「大先生」に殴られるに違いなかった。ちらりとブライトの顔を見上げる。
 彼はまだ瞑目していた。
「その肖像画を、肘掛け椅子の正面の壁に掛けるように言いました」
「ふん……肘掛けの付いた椅子に座ると一番よく見えるように、か」
 ブライトの瞼がゆっくりと持ち上がった。
「酷い父親だな」
 やや遅れて、口角も持ち上げられた。
 エル・クレールの唇も、彼と同じようなカーヴを描いていた。
 悲しげな、寂しげな、辛く痛々しい微笑だった。
 二人の間では、それが会話となっていた。微笑だけで互いの胸の内を悟り、心を交わすことが出来た。
 この二人からイーヴァンと呼ばれている、地方貴族の庶子ヨハネス=グラーヴは、締め付けられるような疎外感の中にいた。
 なぜ椅子が四つなのか。なぜ肖像画が肘付き椅子の正面に掛けられるのか。なぜ大先生は若先生の父上を「酷い親」と言うのか。なぜ若先生はそれを否定し、抗議しないのか。なぜこの二人は言葉無しに心を通じ合わせられるのか。
「解りません」
 イーヴァン少年は思いきって疑問を口に出した。また殴られるかも知れないと思いつつ、それでも言葉にせずにいられなかった。
 それが解らなければいつまでもこの疎外感の中に置かれ続ける気がした。
「何が?」
 ブライトの目玉が動いた。イーヴァンのむくれ顔の方にある片側だけが、針のように鋭く光っている。
「何がといわれますと、説明が出来ませんけど……つまり……何から何まで、全部です」
 イーヴァンは唇を尖らせた。
「物語の解説を話の途中でやるようじゃぁ『語り部』としちゃぁ三流以下だ」
 ブライトは薄笑いしながら言い、両の目を大きく開いた。
「私は一流の『語り部』などではありませんから」
 エル・クレールが完爾とすると、ブライトは目玉だけをイーヴァン少年に向けて、
「つまり、ネタバラシを『語り部』に要求する方も『聞き手』として三流だってことだ」
 イーヴァンは背筋を正すと、
「僕は一流の『聞き手』になりたいわけではありません」
 八つ当たり気味に言うと、エル・クレールに真っ直ぐな眼差しを向けた。
「教えてください。なぜ若先生のお父上が大先生から『酷い親』呼ばわりされねばならぬのですか? 僕にはお優しい方にしか思えません。御子の頃の若先生が言いつけを破ったことをお叱りにならなかったし、怪我がないかと心配をなさっておいでました」
「優しい方でしたよ。ただ、為政者は時に非情でなければならないと言いますから、大きな土地を収める殿様には向いていなかったのでしょうね」
「ならば何故、若先生は大先生が『酷い親』と言ったのを、御否定にならないのですか?」
 エル・クレールは微笑んだ。寂しげに微笑した。
「ある一方に見せた優しさは、他方にとっては辛い仕打ちということもあります」
「どういう意味でしょう?」
 イーヴァンは強い口調で言った。自分の理解力が足らないのが無性に口惜しかった。
「つまり父は……あの方は先の奥方とその子供たちを……おそらく後の奥方とその子供と同じように……愛していた」
 エル・クレールはわざと他人事のように言った。
「彼等の為の『家』に、彼等と自分のための机と椅子を用意して、姿のない彼等が自分と向き合っているように感じるために、自分の椅子の正面に肖像画を掛けて、彼等と語らう時を設けて……」
 突如、エル・クレールは天井を見上げた。目尻から溢れそうになっていた液体を、無理矢理鼻の奥に落とし込もうとしている。
「……それを、後の家族が知れば、今度はそちらが悲しむだろうからと……。優しい方ですから。自分だけの秘密を、誰にも知らせないために、その場所には近付くなと」
 エル・クレールは彼女には珍しい下品さで、音を立てて洟をすすり上げた。そうしなければ、涙が頬を伝ってしまう。
「あそこは、私が行って良い場所ではなかった。私が居てはいけない場所だった。父は何も言いませんでしたけれど、言わないからこそ、愚かな子供には痛いほどに良く判ったのです」
 エル・クレール=ノアールは深く息を吐くと、目と鼻の頭を真っ赤に充血させながら、
「あの場所にいるかぎり、私は父にとって必要のない存在だった」
 とびきり上等の笑顔を作った。
 しかしその笑顔は、すぐに当惑顔に変わった。
「あんまりです、あんまりです、あんまり酷すぎます!」
 イーヴァン少年が泣哭きゅうこくしたのだ。
「生きている、子供より、疾うの昔に、とっくに、死んでしまった、人間と、居ることを、望むなんて、そんなことをしたら、生きている、子供が、どれ程、辛く、悲しいか!」
 あまりに大泣きをするものだから、終いに少年は嘔吐くような荒い呼吸となり、激しく咳き込んでしまった。
 慌ててエル・クレールが手巾はんかちを差し出せば、イーヴァンはそれを乱暴に奪い取り、雷のような轟音を響かせて鼻をかむ。
 水分を出し切った彼は、背筋を伸ばして、
「僕の母は僕の父親が死んでから、ずっとその『死んだ人』のことばかり考えて、そのうち僕が生きていることも自分が生きていることも忘れて、一人で死んでしまった。だから僕はヨハンナ様……父の後を継いだ、父の一番上の子供のヨハンナ様の御屋敷へ行くより他にありませんでした」
 少年は唇を噛んだ。全身は強張り、小刻みに震えている。
「大した幽霊屋敷暮らしだったろうな」
 少年の頭上から降りてきたブライトの声は、穏やかで優しかった。
 途端、少年が一度は塞き止め、それ以上流さぬようにと必死で堪えていた涙は、彼の心の奥底にある願望と共に、堰を切って溢れ出た。
「だから僕は……僕は一人きりで……一人きりでも平気なように……強くなりたくて」
 少年が目鼻の周りを乱暴に拭くと、エル・クレールの手巾は、もはや乾いたところがなくなっていた。少年はびしょ濡れの手巾を強く握り、
「だから……僕には解ります。幽霊屋敷がどれ程辛い場所なのか、若先生がどんなにお寂しかったのか、僕には解ります」
 少年がぐしゃぐしゃな顔を持ち上げると、エル・クレールの晴れやかな笑顔が見えた。
「私と君は、同じ悲しさを知っている……。まるで兄弟のようですね」
 少年の胸を締め付けていた得体の知れない疎外感は、一度に吹き飛ばされた。
 うれしさのあまり、イーヴァンは飛び上がるようにして、
「それでは、若先生のことを姉上とお呼びしてよろしいでしょうか!」
「図に乗るな」
 低く鋭く言ったのはブライトだった。大きな掌が高く持ち上げられ、少年の頭の上にゆっくりと降りてきた。
『殴られる!』
 イーヴァンは身をすくめたが、彼の頭は痛みも激しい衝撃も感じなかった。
 少年の頭は乱暴に撫でられた。
「死んだ人間のことばかり思い出すのは考え物だが、きれいさっぱり忘れっちまうのはもっと悪い」
「は?」
 イーヴァンが不安げに「大先生」を見上げると、彼は怒りも呆れも嗤いも微笑もなく、ただ、暗く静かな瞳で少年の目を見つめ返した。
「もし貴様の本物の姉上が聞いたら、間違いなく気ィ悪くするようなことは止めておけ、と言っている」
「あ……」
 イーヴァンは己の察しの悪さを痛感した。
 胸の奥が熱く痛む。親子ほども年の離れた異母姉の白い顔が見えた気がした。
「……はい」
 少年は顔面に漸く作り上げた歪んだ笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「判ったら、テメェの部屋へ戻って、さっさと寝ろ。貴様がどうしても俺たちを師匠呼ばわりしてぇってンなら、早いところ稽古を付けてやれるくらいに体を治しやがれ」
 ブライトはイーヴァンの脳天を軽く小突いた。少年の、あちこちひびの入った骨格にとっては、相当な衝撃だった。しかし、彼は奥歯を噛み締めて堪えた。
「はい、大先生!」
 跳ね上がるようにして立ち上がると、ヨハネス“イーヴァン”グラーヴは、二人の剣士にそれぞれ一礼し、狭い「続き部屋スイートルーム」から退出した。
 足を引きずる少年の足音が階下へ消えて行くのを聞きながら、エル・クレールが
「可愛い弟を得損ねてしまいました」
 僅かに皮肉の混じった声音で良い、わざとらしく唇を尖らせて見せた。本気で拗ねているのではないことなど、ブライトにはすぐに判る。
「本物を頼みゃいいだろう。行き方知れずの、お前さんの母親を探し出して、さ」
 彼は無精髭に塗れた頬に厭味のない本物の微笑を浮かべた。
 エル・クレールが心からの笑顔を返そうとしたその時、
「まぁ、可愛い年下の男の子を自分のモノにしてぇってンなら、一番手っ取り早い方法を提案するぜ」
 ブライトの笑みの質が変わった。エル・クレールは嫌な予感を感じながら、
「手っ取り早い、とは?」
 一応、訊ねてみた。返答は彼女が想像して「しまった」ものそのものだった。
「今日から十月十日後に俺様の息子を産ンじまうってぇことさぁ」
 ブライト=ソードマンが本気で自身の下履ブライズの腰紐をほどこうとしているのに気付いた彼女は、
「却下です」
 心からの笑顔を彼に向け、その頬桁に、見事な弧を描く左フックを喰らわせていた。

この章、了

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