2010/05/31
※この小話はフィクションであり実在の人物・団体・思想とは関係ありません。

フレキ=ゲー編によるガップ民話集

地上に巨人が生まれて、そのあと絶えた訳


 昔々のその昔。
 天の御国の御使いが、天と地と人のために空と大地の間で舞い飛んでいた頃のこと。
 初め、広い広い大地には、人が最初の夫婦の二人しかおりませんでした。
 時が流れて、最初の夫婦の最初の娘と、最初の双子の娘と、この世で最初の逆子の娘と、この世で最初の掌に乗るほどに小さな体で生まれた娘と、この世で最初の大人のように大きな体で生まれた娘と、この世で最初のお母さんのお腹を裂いて取り出した最後の娘が生まれました。
 その後、銀色の雲の神殿から降ってきて、この世で最初の七人の娘たちと出会い、花婿となって土で肉を作った七人の御使い達が人として生まれました。
 この世には、年をとった夫婦が一組と、若い夫婦が七組しかおりませんでした。
 やがて月が満ちて、七人の花嫁と七人の花婿には、それぞれ子供ができました。

 この世で最初の歌い手のヌトと紫のアシズエルの夫婦には、最初に女の子供が生まれ、次に男の子供が生まれました。二人とも母親に似て声が良く、父親に似て美しい子供でした。
 赤ん坊たちは麦のお粥を一椀食べると一椀分だけ体が大きくなりました。毛玉牛の乳を二椀飲むと二椀分だけ体が大きくなりました。
 二人は嵐のように競い合ってご飯を食べるので、どんどん体が大きくなりました。
 両親は大変喜んで、女の子供をアナト愛しい戦いと名付けました。それから男の子にはハッドゥ優しい嵐と名付けました。

 この世で最初の大工さんのティアマトと黄緑のムルキブエルの夫婦には、最初に女の子供が生まれ、次に男の子供が生まれました。二人とも母親に似て力が強く、父親に似て美しい子供でした。
 赤ん坊たちは麦のお粥を一椀食べると一椀分だけ体が大きくなりました。毛玉牛の乳を二椀飲むと二椀分だけ体が大きくなりました。
 二人は山のようなご飯を見事に食べるので、どんどん体が大きくなりました。
 両親は大変喜んで、女の子供をカシラット上手な人と名付けました。それから男の子にはクル生きた山と名付けました。

 この世で最初の牧童さんのディーヴィと灰褐色のコカバイエルの夫婦には、最初に女の子供が生まれ、次に男の子供が生まれました。二人とも母親に似て目が良く、父親に似て美しい子供でした。
 赤ん坊たちは麦のお粥を一椀食べると一椀分だけ体が大きくなりました。毛玉牛の乳を二椀飲むと二椀分だけ体が大きくなりました。
 二人は牛が草を食べ続けるようにずっと食べるので、どんどん体が大きくなりました。
 両親は大変喜んで、女の子供をアイナエル家畜を守ると名付けました。それから男の子にはディヤウス空の牛と名付けました。

 この世で最初の仕立屋さんのポイベと黄色のエクサエルの夫婦には、最初に女の子供が生まれ、次に男の子供が生まれました。二人とも母親に似て手先が器用で、父親に似て美しい子供でした。
 赤ん坊たちは麦のお粥を一椀食べると一椀分だけ体が大きくなりました。毛玉牛の乳を二椀飲むと二椀分だけ体が大きくなりました。
 二人は機織りの(経糸を通す道具)や金細工ののみ先のように休むことなく食べるので、どんどん体が大きくなりました。
 両親は大変喜んで、女の子供をアラーニエ蜘蛛と名付けました。それから男の子にはエロワ金細工師と名付けました。

 この世で最初の料理人さんのジョカと褐色のニスロクエルの夫婦には、最初に女の子供が生まれ、次に男の子供が生まれました。二人とも母親に似て手先が器用で、父親に似て美しい子供でした。
 赤ん坊たちは麦のお粥を一椀食べると一椀分だけ体が大きくなりました。毛玉牛の乳を二椀飲むと二椀分だけ体が大きくなりました。
 二人はかまどの炎が物を焼き尽くすような勢いで食べるので、どんどん体が大きくなりました。
 両親は大変喜んで、女の子供をバツ熱を持つと名付けました。それから男の子にはカト火を食べると名付けました。

 この世で最初の猟師さんのマッハと赤いガドレエルの夫婦には、最初に女の子供が生まれ、次に男の子供が生まれました。二人とも母親に似て耳が良くて、父親に似て美しい子供でした。
 赤ん坊たちは麦のお粥を一椀食べると一椀分だけ体が大きくなりました。毛玉牛の乳を二椀飲むと二椀分だけ体が大きくなりました。
 二人はケンカをするような勢いで食べるので、どんどん体が大きくなりました。
 両親は大変喜んで、女の子供をヒルド戦いと名付けました。それから男の子にはモーディ立腹くんと名付けました。

 この世で最初のお医者さんのフッラと青いペネムエルの夫婦には、なかなか子供が生まれませんでした。
 最初の子供が生まれたのは、他の兄弟姉妹たちの子供がオムツを脱いだ頃のことでした。
 この夫婦にも初めに女の子供が生まれ、次に男の子供が生まれました。二人とも母親に似て物覚えが良くて、父親に似て美しい子供でした。
 赤ん坊たちは麦のお粥を一椀食べると一椀分だけ体が大きくなりました。毛玉牛の乳を二椀飲むと二椀分だけ体が大きくなりました。
 二人はお粥も乳もかみしめながら食べるので、ゆっくり体が大きくなりました。
 両親は大変喜んで、女の子供をエルダ知恵と名付けました。それから男の子にはミーミル知識と名付けました。

 七組の夫婦にはそれからも子供が生まれました。子供たちは皆、一椀食べれば一椀分、二椀飲めば二椀分、体が大きくなりました。
 大きくなったら大きくなった分食べましたので、もっともっと大きくなりました。
 子供たちはどんどんどんどん大きくなって、やがて背丈は両親を追い越しました。それでもどんどんどんどんどんどんどんどん食べるので、みな小山のような大きな体に育ちました。
 七組の新しい親たちは最初はたいそう喜んでいたのですが、そのうちたいそう困り始めました。
 子供たちが大きくなりすぎたのです。
 試しにフッラが夫のペネムエルの肘から指先を物差しにして、娘のエルダの背丈を測ってみました。
 踵から腰までが百クデ、腰から肩までが百クデ、腕を広げると指の先から指の先までが二百と五十クデ、髪の長さが三百クデありました。エルダは子供たちの中で一番背が低かったのですよ。
 親たちはとても困りました。
 マッハの一族がどれほど鳥や獣や魚を捕っても、みなのお腹を満たすことができません。
 ジョカの一族がどれほどパンやスープを作っても、みなのお腹の虫は泣きやみません。
 ポイベの一族が服や靴を作っても、みなの体を覆い隠すことができません。
 ディーヴィの一族が毛玉牛をどれほど増やしても、みなに乳や酪を行き渡らせません。
 ティアマトの一族が大きな家を建てても、窓から手足がはみ出してしまいます。
 ヌトの一族がどれほど良い声で歌っても、耳の高さの所まで詩が届かないのです。
 子供たちもとても困りました。
 ご飯は足りない、着る物はない、家もない。
 大きな大きな子供たちは、ご飯を争って食べ、服を取り合って着、家を奪い合って住みました。
 隣の子供を拳骨でゴンと撲ち、あちらの子供を踵でポンと蹴り、向こうの子供を頭突きでドンと打ち、押し退けて引きずり下ろして突き飛ばして、欲しい物を欲しいだけ手に入れようとしました。
 ですから、力の強い子供はますます大きく力が強くなりましたし、力の弱い子供はどんどん弱ってゆきました。
 親たちは考えました。自分の子供が弱くなって、ご飯も食べられずに死んでしまっては大変です。例えご飯が食べられたとしても、殴られてけられて落とされて突き飛ばされて、その怪我が元で死んでしまっては大変です。
 何分この子供たちときたら親たちよりも体がずっともっと大きいので、フッラの一族が作った薬を山のように飲んだとしても、少ししか効かないのです。

 ヌトとアシズエルの夫婦は考えて思いつき、自分の子供たちに言いました。美しい化粧を施して、耳に優しい言葉で話すように、と。
 この世で最初の詩を歌う人の子供たちは誰よりも美しく装い、誰よりも優しく語りました。彼等が美しい姿と優しい言葉で話すと、男は女のために食べ物を運ぶようになり、女は男のために食事を作るようになりました。
 ところが大変です。美しく化粧のできる男と女はヌトとアシズエルの子供たちより他にいませんので、男はその娘たちを奪い合い、女はその息子たちを奪い合い、大きな争いとなってしまいました。
 
 ティアマトとムルキブエルの夫婦は、考えて思いつき、自分の子供たちに言いました。立派な家を建て、優雅な暮らしをするように、と。
 この世で最初の大工さんの子供たちは、見上げるほど大きな家を建て、美しい調度品に囲まれて暮らし始めました。彼等が立派な家に住み、優雅な暮らしをしているのを見ると、男は女のために食べ物を運ぶようになり、女は男のために食事を作るようになりました。
 ところが大変です。立派な家に住んでいる男と女はティアマトとムルキブエルの子供たちより他にいませんので、男はその娘たちを奪い合い、女はその息子たちを奪い合い、大きな争いとなってしまいました。
 
 ディーヴィとコカバイエルの夫婦は、考えて思いつき、自分の子供たちに言いました。星の動きで明日起こる占って一日に一人だけにそっと教えなさい、と。
 この世で最初の牧童さんの子供たちは、明日一日に起きることを、毎日一人だけにそっと教えました。すると、それをどうしても知りたい男は女のために食べ物を運ぶようになり、女は男のために食事を作るようになりました。
 ところが大変です。明日の明日に起こることを知っている男と女は、ディーヴィとコカバイエルの子供たちより他にいませんので、男はその娘たちを奪い合い、女はその息子たちを奪い合い、大きな争いとなってしまいました。

 ポイベとエクサエルの夫婦は、考えて思いつき、自分の子供たちに言いました。女には薄い布できらびやかな服を、男に厚い布で派手派手しい服を仕立てなさい、と。
 この世で最初の仕立屋さんの子供たちは、着ているのに着ていないようなそれはそれはまぶしい衣服を作りました。目も眩むような服を手に入れようと、男は女のために食べ物を運ぶようになり、女は男のために食事を作るようになりました。
 ところが大変です。心が早鐘を打つような衣服を仕立てられる男と女はポイベとエクサエルの子供たちより他にいませんので、男はその娘たちを奪い合い、女はその息子たちを奪い合い、大きな争いとなってしまいました。

 ジョカとニスロクエルの夫婦は、考えて思いつき、自分の子供たちに言いました。甘い香りのするお酒を皆に飲たくさん飲ませなさい、と。
 この世で最初の料理人さんの子供たちは、たくさんの人々にお酒を飲ませました。おいしいお酒を貰いたいので、男は女のために食べ物を運ぶようになり、女は男のために食事を作るようになりました。
 ところが大変です。おいしいお酒をたくさん持っている男と女はジョカとニスロクエルの子供たちより他にいませんので、男はその娘たちを奪い合い、女はその息子たちを奪い合い、大きな争いとなってしまいました。

 マッハとガドレエルの夫婦は、考えて思いつき、自分の子供たちに言いました。弓矢や剣をよく研ぎ澄まして、獲物を奪いに来る者がいたら打ちのめしてしまいなさい、と。
 この世で最初の猟師さんの子供たちは、自分たちだけでは食べきれない獲物を室にしまい、その前に弓矢と剣を持って立ちました。無理矢理に奪おうとする者は矢で撃たれ、剣で切られてしまいます。彼等が獲物を別けるのは彼等の兄弟姉妹と、その妻や夫と、子供たちだけでした。男は彼等の姉妹の夫となるために財産を捧げ、女は彼等の兄弟の妻となるために身を飾りました。
 ところが大変です。マッハとガドレエルの子供たちが結婚を望む人々総てと夫婦になれるわけではありませんので、男はその娘たちを奪い合い、女はその息子たちを奪い合い、大きな争いとなってしまいました。

 フッラとペネムエルの夫婦は、考えて思いつき、自分の子供たちに言いました。困っている人や苦しんでいる人がいたなら、手助けしてあげなさい、と。
 この世で最初のお医者さんの子供たちは、お腹の空いた人には自分のパンを分け、寒がっている人には自分の肌着を分け、苦しんでいる人には良い薬を与えました。誰にも親切にしてくれる彼等を見ていると、男は女のために僅かな食べ物を運ぶようになり、女は男のために少しばかりの食事を作るようになりました。
 ところが大変です。充分な食事が食べられる人は少なく、充分な衣服を持っている人は少なく、怪我や病気で苦しんでいる人はたくさんいるので、男も女もみなフッラとペネムエルの子供たちの僅かな持ち物を奪い合うようになり、大きな争いとなってしまいました。

 広い広い大地には、あちらでもこちらでも争い事が起きていました。
 男たちは、拳で殴り合い膝で蹴り合い、木の棒で撲ち合い大岩を投げ合いました。
 彼等は相手が動かなくなるまで戦い、自分が動けなくなるまで戦いました。
 女たちも、初めは自分たちで殴り合い蹴り合い、撲ち合い投げ合いました。でも男たちと同じようには殴ったり蹴ったり撲ったり投げたりはできませんので、そのうちに強い男の味方について戦うようになりました。
 彼女らは相手が動かなくなるまで戦い、自分の身方が動けなくなると別の者の味方について戦いました。

 天を突くような大きな男や女が、あちらでもこちらでも戦いました。
 一人がどおっと倒れますと、大きな山がドドウッと崩れます。
 一人がどさっと倒れますと、長い川がゴウゴウと溢れ出します。
 一人がごろっと倒れますと、深い谷がガラガラと埋まります。
 一人がばたっと倒れますと、平らな場所にぼこぼこと穴が開きます。
 獣も鳥も魚も、皆いなくなってしまいました。住んでいた山や川が無くなってしまったからです。
 毛玉牛や他の家畜も、皆逃げ出してしまいました。住んでいた牧場の柵が壊れてしまったからです。
 家も倉庫も、皆倒れてしまいました。建てられていた土地が崩れてしまったからです。
 麦も豆も野菜も、皆枯れてしまいました。畑が大きな人々の血で穢されてしまったからです。
 食べる物はますます無くなり、着る物もますます無くなり、住む場所もますます無くなりました。
 大きな子供たちは少なくなった食べ物を奪い合い、着る物を奪い合い、住む場所を奪い合いました。
 争いはどんどん大きくなりました。
 この世で最初のお父さんの畑は、誰かの足に踏まれてしまいました。この世で最初のお母さんの機織り場も、だれかの足に踏まれてしまいました。
 この世で最初の夫婦は、急いで逃げ出しますと、この世で最初の子供の所へ行きました。
 フッラとペネムエルとその子供のエルダとミーミルと、その兄弟姉妹たちの所には、飢えている者たちと、渇いている者たちと、寒さに震えている者たちと、病におびえている者たちと、怪我に苦しんでいる者たちとがおりました。
 この世で最初のお父さんは、この世で最初の子供の夫に言いました。
「あなた方の兄弟が来る前までは、私たちの家族に争い事はありませんでした。姉は妹を思い、妹は姉を助けていました。ところが今は、兄が弟を殺し、妹が姉を裏切っています」
 この世で最初のお母さんも、この世で最初の子供の夫に言いました。
「私たちは最初、あなた方が降って来たことを喜び、家族が増えたことを慶びました。ですが今は、あなた方が来たことを哀しみ、増えた家族が減ってゆくことを悲しんでいます」
 ペネムエルは答えて言いました。
「偉大な兄弟姉妹よ、そして敬慕する父母よ。私は私たちが降って来たそのことは間違っていないと信じます。私たちが降って来たその後のことに、何か間違いがあったに違いありません。私はその間違いが何処にあるのかを、天にいる兄弟たちに訊ねたいと考えています」
 この世で最初のお父さんは悲しそうに言いました。
「天は高く、地は低い。あなたが御使いであったなら、翼を広げて一飛びに雲の上の神殿へ行けるに違いない。しかしあなたは人となったのだから、天に行くことはできないだろう。私たち人間は、天の楽園から出た者なのだから」
 ペネムエルはまた答えて言いました。
「私はここに下ってくる前に、雲の上の神殿に残った見張りの天使の兄弟に、私の帳面を渡し、渡しの仕事を引き継がせました。彼等は職務に忠実ですから、きっと地上の兄弟たちを見ています。私は大地の内で一番高いところへ行って、狼煙を上げ、彼等に合図を送りましょう。彼等はそれを見て、使者を送ってくるはずです」
 この世で最初のお母さんは、とても心配そうな顔をしました。
「兄弟よ、そして可愛い息子よ。この世で一番高い所と言えば、ここより遙か遠いムスペルの山の頂です。人の脚では一年掛けてもたどり着けません」
 この世で最初のお母さんは、この世で最初の娘を呼びました。
「娘よ、急いであなたの夫が長い旅路で飢え、渇き、凍え、疲れ果てない為の準備をしなさい。
 たくさんの麦の粉を集めなさい。できるだけたくさんのパンを焼くのです。
 たくさんの牛の乳を集めなさい。できるだけたくさんの乾酪を作るのです。
 たくさんの獣の皮を集めなさい。できるだけ丈夫な靴を作るのです。
 たくさんの麻の茎を集めなさい。できるだけ丈夫な衣服を仕立てるのです。
 たくさんの木の枝を集めなさい。できるだけ丈夫な杖を作るのです」
 この世で最初の娘のフッラは、急いで家中から麦の粉と牛の乳と獣の皮と麻の茎と木の枝を集めました。
 フッラは夫に悲しそうに言いました。
「私はあなたのために充分なものを用意することができませんでした」
 彼女が家中から集められたものは、三日分のパンと、三日分の乾酪と、履き古したサンダルと、継ぎを当てた肌着と、使い古した自分の杖だけだったのです。
 ペネムエルは妻に言いました。
「これはあなた方のために使いなさい。これを総て持っていっては、家族の者達が飢えて凍えてしまうでしょう。大事ない。私の行く道は正しい。正しい道を行く者には、最も尊き御方が必ず備えてくださいます」
「それでありましたなら……」
 と、フッラは小さな皮の袋を二つ差し出しました。一つからは苦い匂いがし、一つからは酸い香りがしました。
「どうかこれをお持ち下さい。没薬樹の脂ミルラ乳香樹の脂オリバナムです。私たちの声が、天のいと高きところに居られる、最も尊い御方の耳に届きますように」
 ペネムエルは喜んで二つの小さな袋を受け取りました。
「この二袋は同じ重さの黄金よりも重い」
 すると今度は息子のミーミルが言いました。
「お父さん、お願いがあります。どうか私に手伝いをさせてください」
 フッラが心配顔を上に向けて言いました。
「息子よ、あなたにどのような手伝いができますか? あなたはまだ子供であるのに」
 ミーミルがあまりに背が高いので、フッラは後ろ向きに倒れそうになりました。
 ミーミルの背丈と言ったら、踵から腰までが二百クデ、腰から肩までが二百クデ、腕を広げると指の先から指の先までが五百と五十クデ、髪の長さが三百クデでした。
 それはつまり、彼のお父さんやお祖父さんの五十倍を越えるような背丈ですが、それでも彼の従兄弟たちの中では二番目に背が低かったのですよ。
 それほど大きいというのに、母親のフッラは、彼が小さな赤子に思えたのです。
 ミーミルは母親に答えて言いました。
「私はあなた方からあなたよりもずっともっと大きな体を貰いました。この脚でであれば、山も谷も一跨ぎで越えられましょう」
 ミーミルは父親の前に膝を突いて頭を下げました。
「あなたには一年掛かりであっても、私には十日と掛からぬ道のりの筈です。私はあなたを背に負って、一足飛びに駆けましょう。どうか私もムスペルの頂まで連れて行ってください」
 ペネムエルはたいそう喜んで言いました。
「息子よ、行こう。野を越えて、川を越えて、山を越えて、谷を越えて、世界の中心の、世界の頂きに行こう。今は道が見えないが、進めば道が見えるだろう」
 するとフッラが泣いて言いました。
「夫よ、子よ、できることなら、私も共に行きたい。今までずっと家族が共にいたのですから。ですが、私の脚は萎え、手は震え、目は霞み、耳は遠い。あなた方の速さで歩くことはできません。どうかこの杖を私や家族と思って、持っていってください」
 ペネムエルは杖を受け取りますと、妻と、娘と、子供たちと、二親とを、それぞれに抱きしめました。
 それからミーミルの掌に乗り、肩にのせて貰うと、髪の毛の一筋を手がかりにして頭の上に登りました。
 そうして、フッラの杖をミーミルの髪に簪のように挿して、それにしっかりと捕まりました。
 ミーミルが立ち上がりますと、ペネムエルの目には今までに見たことのない物が見えました。
 彼がまだ翼持つ御使いであった頃は大地を真上から見下ろしており、人になった後は大地を大地も高さから見ておりました。今は御使いの目と人の目の丁度真ん中から物が見えるのです。
 御使いと人の真ん中の目から見ますと、大地は広く、そして荒れていました。
 あちらでもこちらでも、食べ物を巡る争いと、蓄えを巡る争いと、妻を巡る争いと、夫を巡る争いと、ただ腹立たしさ故の争いとが起きていました。
 地面にはおびただしい血潮が染み込んで、草や木を枯らしていました。腐った肉には獣と鳥と蠅と蛆と、それから欲深い人と、飢えた人とが群がっております。
 人々はその兄弟たちの死を悼むこともせず、また葬ることもしておりませんでした。
 ペネムエルは嘆きました。
「いったい何故こんなことが起きたのか? 私たちは何を間違えたというのだろう? なにより、何を持ってこれを贖えば、大地と人は栄えを取り戻せると言うのだろうか?」
 ペネムエルの涙は、ミーミルの髪の中に落ちますと、草の根元の小さな川のように流れました。そうして、頭から額へ流れ、瞼を流れ、ミーミルの涙と混じって頬を流れ、顎の先から雫となって落ちました。
 涙は初め地面に浸みましたが、地面に染みこむよりももっと多く二人が泣きましたのでやがて大きな内海となりました。
 このときできた内海は今でもラルムの海と呼ばれます。涙が溜まった塩辛い海だからです。
 ペネムエルは息子に言いました。
「彼等の骨を土に戻そう。それから清い水で穢れを落とすのだ。世界の頂を目指すのは、その後にしよう」
 ミーミルは大きな手で土をすくい、亡骸の上にかぶせて回りました。ですが、彼の従兄弟たちはみな彼よりも背丈が高かったので、それを埋めるためにはたくさんの土が必要でした。

 大地は削れて深い谷となり、亡骸の上に盛られた土は高い山となりました。
 たくさんの谷とたくさんの山ができた後、ペネムエルとミーミルは清い川へ行きました。そこで顔を洗い、口をすすぎ、手足を洗いました。すると見る間に川の水は茶色く濁りました。
 その川の水はそれから後もずっと茶色く濁っておりましたので、川の名前はトルーブル濁りと言うのです。
 身を清めたペネムエルとミーミルはすぐにムスペルの山に向かいました。
 ミーミルは彼の両親に言ったとおりに山も谷も一足で跨ぎました。平らな地面は風のような速さで駆け抜けます。大きな川も飛び越えました。ペネムエルは振り落とされないために、彼の息子の髪を体に縛り付け、彼の妻の杖をしっかりと握りました。
 ミーミルは食べもせず、飲みもせずにかけ続けました。ペネムエルも食べもせず、飲みもしませんでした。
 二日と二晩駆けますと、地平の果てに白い輝きが見えて参りました。
 ミーミルが訊ねました。
「お父さん、あれに見えるのはムスペルの山でしょうか?」
 ペネムエルは答えます。
「息子よ、あれがムスペルの山だ」
 ミーミルはすっかりお腹が空いて、すっかり疲れておりましたが、山が近いと知ると勇気を得て、さらに一日駆け続けることができました。
 一日駆けて近付きますと、それは大変高い山であるのがわかりました。山肌は赤く、火のように輝いておりました。
 さらに一晩駆けますと、ようやくその麓にたどり着くことができました。
 赤い山肌はギザギザに尖っておりました。
 地面は硬いギザギザの石に覆われ、僅かばかり生えている草もギザギザの棘で覆われておりました。山を登る道は、獣のそれすらも見えません。
 ミーミルがギザギザに尖った岩の先に手を差し延べますと、その一つ一つが熱を帯びておりました。
 ミーミルが訊ねました。
「お父さん、この山は岩も木々もまるで炎のようです。私たちは登ることができるでしょうか?」
 ペネムエルはミーミルの髪から簪に挿していた杖を引き抜き、髪の毛の一筋を綱のようにして息子の肩まで伝い降り、掌に乗り移りました。
 そうして赤い山をじっと見て、言いました。
「息子よ、私は登らなければならない」
 ペネムエルは妻の杖をしっかりと抱きかかえて、真っ赤な山肌に飛び降りました。
 サンダルの底からジュウジュウと皮が火に焼けて焦げる音と匂いがしました。杖を突きますと、石突きの先からパチパチと木が火に焼けて焦げる音と匂いがしました。
 音は次第に大きくなりました。匂いは煙になり、煙は炎になりました。
 ミーミルが驚いて言いました。
「お父さん、この山を登ればあなたの体が燃えてしまいます。どうか登るのを止めてください」
 しかしペネムエルは笑って言いました。
「息子よ、私は登ることができる。善き者のためには、良き道が備えられるのだ」
 ペネムエルは炎の靴を履き、炎の杖を突いて、ギザギザの山肌を上ってゆきました。
 するとどうでしょう。炎の靴に踏まれたギザギザの石は融け、炎の杖に払われたギザギザの草木は分かれてゆきました。ペネムエルの歩いた跡は、まぶしく輝く平らな道になったのです。
 ミーミルは更に驚いて言いました。
「お父さん、どうか私もご一緒させてください」
 そうして、ペネムエルが返事をするよりも先に、山に登り始めました。
 ミーミルの大きな足の裏の皮はパチパチと音を立て、モクモクと煙を出しました。煙はやはり炎となって、爪の先からくるぶしまでを覆い尽くしました。
 炎は大変熱く、ミーミルはたくさんの汗を流しました。ところが、不思議なことに、足が燃えて炭になるようなことはありませんでした。
 親子は炎の靴で炎の山を登り、やがてその頂上にたどり着きました。
 ペネムエルは白くて美しいギザギザの石を集めて、幾つも積み上げました。
「お父さん、お父さん、いったい何をなさるのですか?」
 ミーミルは驚いて訊ねました。ギザギザの石のギザギザがペネムエルの手に刺さり、傷口からは血潮が溢れ出して、白いギザギザの石を真っ赤に染めたからです。
「息子よ。ここに祭壇を作るのだよ。天のいと高きところにいる兄弟と、最も尊い御方の元に、地に住まう私たちの声を届けるために」
 ペネムエルはやはり笑って言いました。
「お父さん、お父さん」
 ミーミルが言いかけますと、ペネムエルは言葉を遮って、
「息子よ、私は止めることはない。私の流す血のことも、私の体が焼けることも、私にとっては苦痛ではないのだから」
 すると、ミーミルは首を振って言いました。
「いいえお父さん。どうか私にも手伝わせてください。私の腕はあなたより長く、私の力はあなたより強いので、すぐに大きな石を積み上げることができるでしょう」
 ペネムエルは大変喜びましたが、同時に大変心配になりました。
「息子よ、お前の腕は私よりも長く、お前の力は私よりも強い。お前は私よりも早く石を積むことができるだろう。しかしこの岩は硬く尖っている。私の手に棘が刺さったように、お前の手も傷つくだろう。私は親であるから、息子が苦しむところは見たくない。そして人として、お前が自分の苦しみのために、地上の人々の為を見放すところを見たくはない」
 ミーミルは力を込めて言いました。
「お父さん、あなたはあなたの兄弟のために翼を磨り減らして世界を巡り、良い土と悪い土を別けました。そしてあなたの妻は家族のために自分の体をふるいにして、口にして良い物と悪い物を別けました。あなた方の隣人を愛する心は、あなたの子供たちにも受け継がれています」
 言い終えますとミーミルは、大きなギザギザの岩を手に掴みました。燃えるように熱い、しかし、白くて美しく清らかで、祭壇を作るのに良い岩でした。ですが、一つ固まりでは大きすぎました。
 そこで両の手で掴んで二つに割り、更にそれぞれを二つに割り、それぞれを二つに割りました。するとギザギザの岩の一つの棘は二つに、二つの棘が四つに、四つの棘が八つに増えました。
 それぞれがミーミルの手を刺しました。ミーミルの手は焼けて裂けて、あっという間に傷だらけとなり、砕けた岩も血に染まりました。
 とても熱くて、とても痛かったのですけれども、ミーミルは歯を食いしばって割った岩を積み上げました。
 ペネムエルが積んだ石と、ミーミルが積んだ岩は、元の白い色と、二人の血潮で赤くなったところとの混じった、不思議な色になりました。
 こうして二人は、立派な祭壇を作り上げました。
 ペネムエルは大変満足して言いました。
「これは我らの血肉の石。我らの体そのものである」
 ミーミルも大変満足して言いました。
「さあこの上でを焚きましょう」
 ペネムエルは妻のフッラが持たせてくれた没薬樹の脂と乳香樹の脂を祭壇の上に載せました。するとミーミルが訊ねました。
「お父さん、私たちは火種を持っていません」
 ペネムエルは笑って答えました。
「ここでは人の手による火種は必要ない。火の山には初めから聖なる炎が燃えているではないか」
 ペネムエルが言った通り、祭壇に置かれたお香の元は、すぐにくすぶり、良い香りのする紫色の煙を上げはじめました。
 煙は真っ直ぐに天へと上ってゆきます。
 ペネムエルは祭壇の前に跪き、地に伏して、額を地面に付けました。ミーミルも父親に倣って、同じようにしました。
 尖った石がチクチクと膝と臑とに刺さりました。それから、額にも手にもチクチクと刺さりました。
 どれほどお辞儀をしていたことでしょう。辺りが急に暗くなったと思うと、二人の頭のずっと上の方から、雷のような声がしました。
「兄弟たちよ、顔を上げなさい。あなた方の声は聞こえている」
 ペネムエルとミーミルは体を起こし、頭を上げました。
 すると祭壇の傍らに、人の姿をしたものが立っているのが見えました。
 立っているのは一人の人でしたが、一人の人のその後ろには、幾万もの軍勢が控えていてます。空はその軍勢で埋め尽くされていて、そのために太陽の光がすっかり遮られていたのでした。
 ミーミルは急に恐ろしくなって、立っている人の足元でまた頭を下げました。
 すると立っている人は言いました。
「顔を上げなさい。私を拝んではいけません。私はこの世で最も尊い御方の使徒です」
 ミーミルは大変恐ろしかったのですが、そっと顔を上げました。立っている人の顔は大変恐ろしく、しかし大変穏やかで、大変優しそうでもありました。
 立っている人は震えているミーミルにほほえみを向けると、ペネムエルに向き直って、大変威厳のある声で言いました。
「兄弟よ。私たちは、かつてあなたが兄弟たちに託した帳面によって、あなた方のしたことを知っている。そして今あなたが捧げた祈りによって、あなた方がしていることも知っている」
「兄弟よ。この大地は人々の欲と怒りと哀しみで満ちています。私たちは何をなすべきなのでしょう?」
 ペネムエルは立っている人の顔をじっと見て訊ねました。立っている人は答えて言いました。
「天の最も高いところにおられるいと尊い御方は、あなた方の罪のために大変悲しんでおられる。兄弟よ、あなたは自分の犯した罪を知っているか?」
 ペネムエルは大変驚いて言いました。
「いいえ、兄弟よ。私は何の罪を犯したのでしょう? そしてその罪が、なぜ私の子供たちを、そして私の妻を苦しめているというのでしょう? 私に罪があるのなら、私だけに苦しみがあればよいと言うのに」
 立っている人は大変悲しそうな顔をしました。
「兄弟よ、あなたはかつて、今の私と同様に肉の体を持たない御使いであった。そして肉の体を持たないままあなたは地上に降り、肉の体を持たないまま人の娘に触れた。それがあなたの犯した罪なのだ」
「ああ、なんと言うことだろう。確かに私は肉の体を持たないまま地上におり、肉の体を持たないうちにフッラと出会った。人の夫となるならば、人と同じに肉の体を持たねばならないと知っていたのに」
 ペネムエルは肩も膝も落として、涙を流しました。
「私は私の犯した罪により、私の子供たちにも罪を犯させてしまった」
 ペネムエルが酷く落胆しているさまを見て、ミーミルはなぜだか腹立たしくなりました。
 そこで彼は、立っている人に言いました。
「私はペネムエルとフッラの子です。あなたの言う罪の結果に生まれた者です。あなたの言うとおりなら、私は生まれながらに罪人ということになります。私は生まれなければ良かった者でしょうか? 私の兄弟たちは生まれてはならない者なのでしょうか?」
 ミーミルは言っているうちにどんどん腹立たしさが大きくなって、最後には立っている人の胸ぐらに掴み掛かっておりました。
 立っている人は大変険しい顔をして、静かな声で言いました。
「あなたの怒りは正しい。誠にあなたに言います。この世に生まれなければ良かった者などいません。生まれてはならなかった者などいません。小さな兄弟よ、さあ行ってあなたの親と兄弟たちに言いなさい。今すぐ高台に逃れるようにと」
 ミーミルは立っている人の衣服から手を離して、訊ねました。
「大きな方、立っておられる方。あなたの仰っていることの意味が解りません」
 立っている人は少しだけ表情を軟らかくして言いました。
「小さな兄弟よ、よく聞きなさい。
 いと高き方のお側にあって、人々の犯した罪を数える役目の御使いがいます。彼がもし地に足を付けたならその頭が高き御国に届くほどに偉大な兄弟です。
 彼は心優しい御使いです。地上の人々が罪を犯し、またその罪のために苦しんでいるさまを見れば、他の兄弟たちは正義の故に怒りますが、彼は哀しみのあまり涙を流すのです。
 彼の涙は頬を伝って流れ落ち、川となって流れ、御国の海を満たしています。そのために御国の海は今にも溢れ出しそうになっています。
 なぜなら地上の兄弟たちが、互いに争い、傷つけ合い、自分たちを穢し、大地を汚しているからです」
 ミーミルは立っている人の言葉を聞きながら考えました。
 天の海が溢れ出て、その水が地に降り注いだなら、いったいどのようなことが起こるだろうかと。
 立っている人は続けて言いました。
「昨日までは、最も尊き御方が私の優しい兄弟を慰め、また涙を拭かれました。そうすると御使いの涙は一時止まり、海の水は一時引きます。ですから今までは水があふれることはありませんでした。
 良く聞きなさい、小さく賢い兄弟よ。
 今日も私の優しい兄弟は泣いています。最も尊い御方は彼を慰められましたが、流れる涙を拭いては下さらなかった。涙は流れ落ち続け、海の水は増え続けています」
 ミーミルは想像しました。そして自分の想像したことがあまりに恐ろしいので、顔を青くして体を震わせました。
 立っている人はミーミルの肩に手を置いて言いました。
「兄弟よ、聞きなさい。
 あなた方の声をお聞きになった最も尊い御方は、大地を水で満たすことをお決めになりました。大地に棲む人々の罪が消えるまで、大地はそこに人々が生きることを拒むでしょう」
 ペネムエルは訊ねました。
「兄弟よ、私は知っています。最も尊き御方は成すとお決めになったことは必ず成される御方です。そして必要なものは総て整えてくださる御方です。大地に棲む人々が助かる術は何処にありますか?」
「兄弟よ。あなたの息子をあなたの土地まで走らせなさい。そしてあなたの土地の人々に、その土地を捨てて高い山へ向かうように告げさせなさい。決して自分たちの土地を振り向くことなく、険しい山へ走るように言うのです。あなたの土地の人々があなたの息子の言葉を聞いたなら、その人々は助けられるでしょう」
 ペネムエルはミーミルの顔をじっと見ました。
「息子よ、私は知っている。お前は傷つき、空腹で、疲れ果てている。しかし私はお前に言わなければならない。行って、あなたがすべきことを成しなさい」
 ミーミルは奥歯をかみしめて小さく頷きました。
「お父さん、私は行きます。行って、私の親と兄弟たちに向かって言います。天の海があふれ、水が押し寄せるから、山へ向かって逃れるようにと」
 ミーミルは自分の父親と、それから祭壇の脇に立っている人とにお辞儀をしました。それから祭壇の前で天を仰いで言いました。
「最も尊き御方、私の父の父、善き者のために、良き道を備えてくださる方。どうか私の前に道を整えてください」
 ミーミルは赤い火と白い岩の山道を一またぎに駆け下りました。
 ミーミルは来たときと反対の道を、来たときよりも七倍も早く駆けました。山と谷を一足で跨ぎ、平らな地面は旋風のような速さで駆け抜けました。
 ムスペル山の火と尖った石とで傷ついた足の皮は裂けて、肉からは血が噴き出しました。
 このとき、大地に染みたミーミルの血潮が四角く固まったものが、燃える石(カーバンクル)という石です。
 ミーミルは足が痛くても止まることなく走りました。疲れて足がもつれましたが、やっぱり止まりませんでした。お腹が空いて目が霞みましたが、それでも止まりませんでした。
 やがて日が暮れました。ところが空にはなぜか月も星も出てきません。辺りは真っ暗になりました。
 ミーミルは走りながら思いました。
「天の海があふれて、天の水が空を覆い、月も星も隠されてしまった」
 ミーミルはますます急がないといけないと考えて、真っ暗な中をどんどん走りました。
 あまりに暗いので、ミーミルは自分が何処を走っているのかさっぱりわかりませんでした。でもちっとも不安には思いませんでした。正しいことのためには正しい道が用意されていると信じていたからです。
 真っ暗で何も見えませんので、足元にあるものは、固い地面も柔らかい沼も、草の原も杉の森も、構わず踏んで駆けました。
 やがて日の昇る時間が来ました。ところが空は僅かに明るくなるだけで、太陽の姿は見えません。
「天の海があふれて、天の水が空を覆い、いよいよ太陽すらも隠されてしまった」
 ミーミルはますますますます急がないといけないと思い、薄暗い中をどんどん走りました。
 そうしますと、薄闇の中に人の影が見えました。
「ああ、私の祖父が開いて、私の父が広げて、私と兄弟たちが生まれた、私たちの土地へ戻ってきた」
 ミーミルは行くのに三日かかった道のりを、一晩で駆け戻ったのです。
 薄闇の中の人影を、目を凝らしてみますと、大きな大きな人が別な大きな大きな人にこぶしを上げているのがわかりました。大きな人が地に立って、別の大きな人が地に倒れ手いるのがわかりました。
 争っている大きな兄弟たちは、お腹を空かせておりました。彼等は自分の畑の物も自分の蓄えの物も当に食い尽くしておりました。彼等は他人の持っている物を奪わなければ飢えて死んでしまうと思い極めておりましたので、どうあっても争うことを止められないのです。
 とは言いましても、戦っている相手も、彼自身の畑の物も彼自身の蓄えの物も当に食い尽くしております。争い事に勝ったところで奪い取れる物は彼等自身の血肉しかありません。
 大きな悲鳴が聞こえ、泣き声が聞こえました。大きな笑い声が聞こえ、雄叫びも聞こえました。
 誰かが苦しんでいて、それを見た誰かが喜んでいるのです。
「なんと言うことだろう。私の兄弟たちはまだ争っている」
 ミーミルは大きく息を吸い込みますと、大地の果てまで通るような大きな声で言いました。
「天の海があふれ、天の波が押し寄せる。地は水につかり、総ては水の底に沈む。兄弟たちよ、高い山へ向かえ。手の中にあるものは捨て、元の土地を惜しむな」
 ミーミルの声が皆の所まで届かなかったはずがありません。なぜなら、争う兄弟たちの足元の森で眠っていた鳥たちが、彼の声を聞いた途端に目を覚まし、高い山を指してさして飛んでいったのですから。
 それなのに、兄弟たちは争うのを止めませんでした。
 ミーミルは彼等の間に分け入って、もう一度言いました。
「兄弟たちよ、争うのは止めて、山へ向かいなさい。もうじき天の水があふれて、地上は水の下になる」
 争っている者達は口々に言いました。
「山の上に何があるというのか? 例えば、山へ行けばお前の肉を食わせるとでもいうのならついて行こう。いや、もしそうならば、今すぐお前の肉をオレに寄越せ」
 彼等は本当にミーミルを打ち倒して、その肉を食べてしまいそうでした。ミーミルは大変心苦しく思いながらその場を離れることにしました。
「兄弟たちよ、私は山の頂で待っている」
 言い残しますと、ミーミルはまた駆け出しました。駆けながら彼は、声の限りに叫びました。
「天の海があふれ、天の波が押し寄せる。地は水につかり、総ては水の底に沈む。兄弟たちよ、高い山へ向かえ。手の中にあるものは捨て、元の土地を惜しむな」
 土の穴の中の野鼠や、岩の洞の獅子や、草原の狼や、牧場の牛たちは、ミーミルの声を聞きますと、一目散に駆け出しました。
 しかしミーミルの大きな兄弟たちは誰一人として彼の声を聞きませんでした。
 日がちっとも差さないので目にはわかりませんでしたが、日が開けきるはずの時間になったころ、ミーミルは自分の生まれ育った家の近くまでたどり着きました。
 三日三晩駆け続けた上に、更に一日一晩かけ続けてきましたので、ミーミルはもう目が霞むほどに疲れておりました。
 とうとう、ほんの小さな芥子粒ほどの石につまずいて、両の膝と両の手を突いて倒れてしまいました。
 あまりに勢い強く倒れましたので、手足の下には大きなくぼみができました。その大きなくぼみからは、大きな石やたくさんの土が吹き出して、空の高いところまでまき散らされました。
 空の高いところかまで飛んだ石や土は、日のように燃えて、硝子のように融け、冷えながら落ち、緑や黄色や黒の固まとなって地に潜り込みました。
 このとき燃えて融け固まって石は、ずっと時間が経ってから美しい宝石となって、後に地面の深いところから掘り出されるようになりました。
 さて、ミーミルは自分を躓かせた小さな石に向かって言いました。
「なんと、私はお前ほどの物によって倒れたのか。私は心に留めよう。小さき物であっても、時に大きな障壁となるのだと」
 疲れ果てていたミーミルは、その場から立ち上がることができませんでした。しかし彼は止まることはありませんでした。手を突いたまま、獣のように四つ足で進みました。
 そしてようやっと、自分の生まれた家までたどり着きました。

 家の前には彼の姉妹のエルダがおりました。
 エルダはミーミルが這いつくって歩いているのを見ますと、大変驚いて、駆け寄りました。
「兄弟よ、私はあなたをねぎらいたいのですけれども、何も持っていません」
 エルダはそういいながら、自分の外套でミーミルの体を包みました。
 ミーミルは姉妹の顔を見て大変安堵しました。彼女が他の兄弟たちのように争うことも、ましてや人の肉を喰らうこともしていなかったからです。
「知恵ある姉妹よ、私たちの母親は何処にいますか? あなたは彼女を背に負って、高い山の頂に登りなさい。なぜなら、やがて天の海の水があふれ、地を水面の下に覆い隠してしまうからです」
 エルダは俄にはそのようなことが起こると信じられませんでしたが、兄弟が言うことを信用しました。
「わかりました。私は私たちの母と私たちの弟妹たちと、私たちの母の両親と、それからあなたを背に負って、高い山へ向かいましょう。私たちの家族はみな私よりも小さいのですから。それからあなたは疲れ果てていて、この先は一歩も歩けないのですから」
 するとミーミルは答えて言いました。
「姉妹よ、私はまだ行かない。私たちの兄弟姉妹たちにこのことを伝え無ければならないから」
 エルダは兄弟が立って歩くこともできないほどに疲れ果てていることを大変心配しました。そこで彼に言いました。
「あなたはまず、私たちの母の末の妹のヌト叔母の所へ行くべきです。あの人の声と言葉ならば、私たち家族全員の耳に届くでしょう」
 ミーミルは姉妹の考えは尤も正しいと思いましたので、早速ヌトの家に向かいました。

 ミーミルは立って歩けぬほどに疲れ果てておりましたので、獣のように四つに匍って進みました。
 やがて大変良い香りが鼻に届きました。この香りが、自分たちの従兄姉が身につけている化粧のものだということを、ミーミルはよく知っておりました。
「ああ私はアシズエル伯父とヌト叔母の家に近付いた」
 彼はそう言いますと、力を振り絞って立ち上がりました。父の兄や母の妹に会うのに、獣のように四つに匍っていては無礼にあたると考えたからです。
 ミーミルがふらふらと歩きますと、美しく化粧をした従兄姉のハッドゥとアナトが彼を見つけて駆け寄りました。
「小さな兄弟よ」
 ハッドゥとアナトはミーミルに呼びかけました。彼等はフッラとペネムエルの子供たちよりも背丈が高かったので、普段から彼等の従弟妹たちを「小さな兄弟姉妹」と呼んでいたのです。
 さて、ハッドゥとアナトはミーミルの側に駆け寄りましたが、彼の体が土埃と汗で大変汚れておりましたので、彼の体に触れることをしませんでした。折角きれいに白粉と爪紅を塗っている自分たちの手が汚れてしまうと思ったからです。
 ハッドゥとアナトはミーミルから半歩離れたところに立って、訊ねました。
「小さな兄弟、君はどこから来て何処へ行くのか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「私はムスペルの山の頂から戻って来て、あなた方兄弟姉妹たちの所へ行くのです」
 ハッドゥは更に訊ねました。
「何の用事があって兄弟姉妹たちの元に行くのか?」
 その言葉の後にアナトが付け足して言いました。
「もしあなたが、あなたの家族のための食物を求めて兄弟姉妹たちの家に行こうというのなら、止めておきなさい。私たちも他の兄弟姉妹たちも、自分たちの食物しか持っていないのです」
 ミーミルはヌトの家の蔵に食べ物がないことを知っていました。ヌトの家の蔵には、食べることのできない飾り物と化粧の道具ばかりが詰まっているのですから。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「兄弟姉妹よ、私はここに来る途中で、他の兄弟たちが争って、互いの血肉を貪るのを見ました」
 ハッドゥは嗤って言いました。
「そのことは知っている。彼等は愚かで、食べ物を得る術を知らないので、互いに争って奪い合うことしかできないのだ」
 アナトもわらって言いました。
「彼等が少しでも私たちのやり方を見習えば、互いの肉を食べ合うような愚かなことはせずに済むのに」
 ミーミルは小さく息を吐きました。
 ヌトとアシズエルの子らのいう「やり方」というのは、見た目に美しい装いをして持つ者の側に行き、持つ者の耳に甘い言葉を聞かせて喜ばせ、持つ者から財産を別けて貰うというものです。
 ミーミルは、この方法が「すでに有る物」が「横」に動きながら量を減らしてゆくだけのものである、と知っていました。この方法では「新しい物」が生み出されることはありません。「横」に動くうちにやがて「物」は無くなってしまいます。やがては「すでにある物」の奪い合いになるでしょう。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「最も尊き御方は、私たちの兄弟が大地を血で穢していることをお嘆きになっています。その穢れを流すため、天の海があふれることをお許しになりました。私はそのことを皆に知らせるために駆けてきました」
 ハッドゥは問いました。
「あなたは何故ほかの兄弟姉妹たちの所ではなく、私たちのところへ来たのですか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「あなた方の母上にこのことを伝えるためです。叔母上の歌と声で、このことを地上の隅々まで伝えてもらいたいのです。ああ、こうしている間にも時が過ぎてゆきます。やがて地上に天の波が押し寄せ、地は水につかり、総ては水の底に沈むでしょう」
 ハッドゥとアナトは俄にはそのことを信じませんでした。しかし彼等はフッラとペネムエルとその子供たちがいつも正しい人々であるということを知っておりましたので、ミーミルの言うことが嘘であるとも思えませんでした。
 従兄姉たちが返事ができずに黙ってしまったので、ミーミルは彼等に言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は皆の奴隷となって一生働きましょう」
 この言葉を聞くいてもまだ、ヌトとアシズエルの子らは、ミーミルの言葉を信用する決心がつきませんでした。
 彼等がまだ迷っているのを見て、ミーミルは更に言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は私の身を裂いて皆に血肉を分け与えましょう。兄弟姉妹よ、どうか私を信じて、すぐ高い山へ向かってください。今手の中にあるものを捨て、元の土地を惜しんではなりません。そのために命を失うことになるからです」
 この言葉を聞くいてもまだ、ヌトとアシズエルの子らは、ミーミルの言葉を信用する決心がつきませんでした。
 彼等はミーミルに言いました。
「あなたは私たちの一族の中で一番年若い。あなたの言葉は、例え私たちが信じても、他の兄弟姉妹たちは信用しないでしょう」
 彼等の言葉を聞いて、ミーミルは大変悲しくなりました。
「私には人々の心を動かすことができないのか」
 ミーミルの全身から力が抜けてしまいました。手も足も、彼の体を立たせておくことができなくなりました。彼は地面にうずくまって涙を流しました。
 彼の涙が落ちたそのすぐ脇には、小さな石ころが落ちておりました。
 ミーミルはこれを見て思いました。
「ああ、あの時、私が荒れ地を駆けてていたとき、ほんの小さな小石に躓いて、私は転んでしまった。眼には見えない小さな石にさえ、私をつまずかせる力があったではないか。大きな体のこの私に、あの石ころほどの力がないはずがない」
 彼は体を起こしました。今まで四つに匍っておりましたが、今度は二本の足で立ち上がりました。
 ミーミルはヌトとアシズエルの子らに言いました。
「あなた方自身が私の言葉を信用できなかったとしたなら、それは仕方のないことです。でも、どうか私の言ったことをあなたの家族に伝えてください。私と私の兄弟姉妹と、私の母とは、山の頂であなた方を待っています」
 ミーミルはハッドゥとアナトの返事を聞くより先に駆け出しました。
 自分自身で他の兄弟姉妹たちの所へ行かなければならないと思ったからです。
 
 やがて大変騒がしい音が耳に届きました。この音が、自分たちの従兄姉が建物を飾る大きな彫像を作るために石や木を叩いて刻んでいる音だということを、ミーミルはよく知っておりました。
「ああ私はムルキブエル伯父とティアマト叔母の家に近付いた」
 彼はそう言いますと、背筋を伸ばしました。父の兄や母の妹に会うのに、獣のようにふらついていては無礼にあたると考えたからです。
 ミーミルがふらふらと歩いておりますと、美しくて大きな彫像を抱え込んだ従兄姉のクルとカシラットが彼を見つけて駆け寄りました。
「小さな兄弟よ」
 クルとカシラットはミーミルに呼びかけました。彼等はフッラとペネムエルの子供たちよりも背丈が高かったので、普段から彼等の従弟妹たちを「小さな兄弟姉妹」と呼んでいたのです。
 特にクルは一族の中で一番背が高く、その高さはミーミルの倍よりも更に高いほどでした。
 さて、クルとカシラットはミーミルの側に駆け寄りましたが、彼の体が土埃と汗で大変汚れておりましたので、彼の体に触れることをしませんでした。
 自分たちが抱えている真っ白な石で作った彫像が汚れてしまうと思ったからです。
 クルとカシラットはミーミルから半歩離れたところに立って、訊ねました。
「小さな兄弟、君はどこから来て何処へ行くのか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「私はムスペルの山の頂から戻って来て、あなた方兄弟姉妹たちの所へ行くのです」
 クルは更に訊ねました。
「何の用事があって兄弟姉妹たちの元に行くのか?」
 その言葉の後にカシラットが付け足して言いました。
「もしあなたが、あなたの家族のための食物を求めて兄弟姉妹たちの家に行こうというのなら、止めておきなさい。私たちも他の兄弟姉妹たちも、自分たちの食物しか持っていないのです」
 ミーミルはティアマトの家の蔵に食べ物がないことを知っていました。ティアマト家の蔵には、食べることのできない美しい石材や木材と彫刻の道具ばかりが詰まっているのですから。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「兄弟姉妹よ、私はここに来る途中で、他の兄弟たちが争って、互いの血肉を貪るのを見ました」
 クルは嗤って言いました。
「そのことは知っている。彼等は愚かで、食べ物を得る術を知らないので、互いに争って奪い合うことしかできないのだ」
 カシラットも嗤って言いました。
「彼等が少しでも私たちのやり方を見習えば、互いの肉を食べ合うような愚かなことはせずに済むのに」
 ミーミルは小さく息を吐きました。
 ティアマトとムルキブエルの子らのいう「やり方」というのは、自分たちの作った見た目に美しい飾り物を携えて持つ者の側に行き、その飾り物で持つ者の家を飾り立てて喜ばせ、持つ者から財産を別けて貰うというものです。
 ミーミルは、この方法が「新しい物」で「すでに有る物」を「横」に押し出しすばかりで、結局「横」に押し出された「すでに有る物」の量をすり減らしてゆくだけのものである、と知っていました。
 この方法ではティアマトとムルキブエルの子らがいくら「新しい物」を作っても、そこからさらに「新しいもの」が生み出されることはありません。
 押し出された「物」は「横」に動くうちに、やがて無くなってしまいます。やがては「すでにある物」の奪い合いになるでしょう。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「最も尊き御方は、私たちの兄弟が大地を血で穢していることをお嘆きになっています。その穢れを流すため、天の海があふれることをお許しになりました。私はそのことを皆に知らせるために駆けてきました」
 クルは問いました。
「あなたは何故ほかの兄弟姉妹たちの所ではなく、私たちのところへ来たのですか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「あなた方の母上にこのことを伝えるためです。叔母上が高い塔を建て、そこから皆に声を掛ければ、このことを地上の隅々まで伝えられるでしょう。ああ、こうしている間にも時が過ぎてゆきます。やがて地上に天の波が押し寄せ、地は水につかり、総ては水の底に沈むでしょう」
 クルとカシラットは俄にはそのことを信じませんでした。しかし彼等はフッラとペネムエルとその子供たちがいつも正しい人々であるということを知っておりましたので、ミーミルの言うことが嘘であるとも思えませんでした。
 従兄姉たちが返事ができずに黙ってしまったので、ミーミルは彼等に言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は皆の奴隷となって一生働きましょう」
 この言葉を聞くいてもまだ、ティアマトとムルキブエルの子らは、ミーミルの言葉を信用する決心がつきませんでした。
 彼等がまだ迷っているのを見て、ミーミルは更に言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は私の身を裂いて皆に血肉を分け与えましょう。兄弟姉妹よ、どうか私を信じて、すぐ高い山へ向かってください。今あなた方の手の中にあるものをは捨てなさい。持っている土地を惜しんではなりません。そのために命を失うことになるからです」
 この言葉を聞くいてもまだ、ティアマトとムルキブエルの子らは、ミーミルの言葉を信用する決心がつきませんでした。
 彼等はミーミルに言いました。
「あなたは私たちの一族の中で一番年若い。あなたの言葉は、例え私たちが信じても、他の兄弟姉妹たちは信用しないでしょう」
 彼等の言葉を聞いて、ミーミルは悲しくなりました。
「私には人々の心を動かすことができないのか」
 ミーミルの全身から力が抜けてしまいました。手も足も、彼の体を立たせておくことができなくなりました。
 ですが彼は最初の時のように地面にうずくまって涙を流したりはしませんでした。
「私が荒れ地を駆けてていたとき、ほんの小さな小石に躓いて、私は転んでしまった。私はそのことを忘れていない。眼には見えない小さな石にさえ、私をつまずかせる力があったではないか。大きな体のこの私に、あの石ころほどの力がないはずがない」
 彼はしっかりと足を踏ん張って立ちました。
 ミーミルはティアマトとムルキブエルの子らに言いました。
「あなた方自身が私の言葉を信用できなかったとしたなら、それは仕方のないことです。でも、どうか私の言ったことをあなたの家族に伝えてください。私と私の兄弟姉妹と、私の母とは、山の頂であなた方を待っています」
 ミーミルはクルとカシラットの返事を聞くより先に駆け出しました。
 自分自身で他の兄弟姉妹たちの所へ行かなければならないと思ったからです。

 やがていくつもの歯車が軋む音が耳に届きました。この音が、自分たちの従兄姉が明日のことを占うために渾天儀と天球儀を操っている音だということを、ミーミルはよく知っておりました。
「ああ私はコカバイエル伯父とディーヴィ叔母の家に近付いた」
 彼はそう言いますと、背筋を伸ばしました。父の兄や母の妹に会うのに、獣のようにふらついていては無礼にあたると考えたからです。
 ミーミルがよろよろと歩いておりますと、毛玉牛の太い骨の髄を抜き、その周りを皮張りにして、金と銀とで星と月を描いた遠眼鏡を抱え込んだ従兄姉のディヤウスとアイナエルが彼を見つけて駆け寄りました。
「小さな兄弟よ」
 ディヤウスとアイナエルはミーミルに呼びかけました。彼等はフッラとペネムエルの子供たちよりも背丈が高かったので、普段から彼等の従弟妹たちを「小さな兄弟姉妹」と呼んでいたのです。
 さて、ディヤウスとアイナエルはミーミルの側に駆け寄りましたが、彼の体が土埃と汗で大変汚れておりましたので、彼の体に触れることをしませんでした。
 自分たちが抱えている遠眼鏡の透鏡レンズが脂で曇ってしまうと思ったからです。
 ディヤウスとアイナエルはミーミルから半歩離れたところに立って、訊ねました。
「小さな兄弟、君はどこから来て何処へ行くのか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「私はムスペルの山の頂から戻って来て、あなた方兄弟姉妹たちの所へ行くのです」
 ディヤウスは更に訊ねました。
「何の用事があって兄弟姉妹たちの元に行くのか?」
 その言葉の後にアイナエルが付け足して言いました。
「もしあなたが、あなたの家族のための食物を求めて兄弟姉妹たちの家に行こうというのなら、止めておきなさい。私たちも他の兄弟姉妹たちも、自分たちの食物しか持っていないのです」
 ミーミルはディーヴィの家の蔵に食べ物がないことを知っていました。ディーヴィ家の蔵には、肉を取り尽くして骨と皮ばかりになった毛玉牛の死骸と、それを組み合わせて作った星図や天象儀ばかりが詰まっているのですから。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「兄弟姉妹よ、私はここに来る途中で、他の兄弟たちが争って、互いの血肉を貪るのを見ました」
 ディヤウスは嗤って言いました。
「そのことは知っている。彼等は愚かで、食べ物を得る術を知らないので、互いに争って奪い合うことしかできないのだ」
 アイナエルも嗤って言いました。
「彼等が少しでも私たちのやり方を見習えば、互いの肉を食べ合うような愚かなことはせずに済むのに」
 ミーミルは小さく息を吐きました。
 ディーヴィとコカバイエルの子らのいう「やり方」というのは、自分たちの見立て知った「明日起こるかも知れないこと」を持つ者耳元で囁き、持つ者の耳に良いことばかりを聞かせて喜ばせ、持つ者から財産を別けて貰うというものです。
 ミーミルは、この方法が「すでに有る物」が「横」に動きながら量を減らしてゆくだけのものである、と知っていました。この方法では「新しい物」が生み出されることはありません。「横」に動くうちにやがて「物」は無くなってしまいます。やがては「すでにある物」の奪い合いになるでしょう。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「最も尊き御方は、私たちの兄弟が大地を血で穢していることをお嘆きになっています。その穢れを流すため、天の海があふれることをお許しになりました。私はそのことを皆に知らせるために駆けてきました」
 ディヤウスは問いました。
「あなたは何故ほかの兄弟姉妹たちの所ではなく、私たちのところへ来たのですか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「あなた方の母上にこのことを伝えるためです。叔母上が広い牧場で毛玉牛を呼ぶときの大きな声で皆に声を掛ければ、このことを地上の隅々まで伝えられるでしょう。ああ、こうしている間にも時が過ぎてゆきます。やがて地上に天の波が押し寄せ、地は水につかり、総ては水の底に沈むでしょう」
 ディヤウスとアイナエルは俄にはそのことを信じませんでした。しかし彼等はフッラとペネムエルとその子供たちがいつも正しい人々であるということを知っておりましたので、ミーミルの言うことが嘘であるとも思えませんでした。
 従兄姉たちが返事ができずに黙ってしまったので、ミーミルは彼等に言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は皆の奴隷となって一生働きましょう」
 この言葉を聞くいてもまだ、ディーヴィとコカバイエルの子らは、ミーミルの言葉を信用する決心がつきませんでした。
 彼等がまだ迷っているのを見て、ミーミルは更に言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は私の身を裂いて皆に血肉を分け与えましょう。兄弟姉妹よ、どうか私を信じて、すぐ高い山へ向かってください。
今あなた方の手の中にあるものをは捨てなさい。持っている土地を惜しんではなりません。そのためにあなた方は命を失うことになるからです」
 この言葉を聞くいてもまだ、ディーヴィとコカバイエルの子らは、ミーミルの言葉を信用する決心がつきませんでした。
 彼等はミーミルに言いました。
「あなたは私たちの一族の中で一番年若い。あなたの言葉は、例え私たちが信じても、他の兄弟姉妹たちは信用しないでしょう」
 彼等の言葉を聞いて、ミーミルは悲しくなりました。
「私には人々の心を動かすことができないのか」
 ミーミルの全身から力が抜けてしまいました。
 ですが彼の手や足は、彼の体をしっかりと立たせていました。彼はしっかりと足を踏ん張っていました。
「私が荒れ地を駆けてていたとき、ほんの小さな小石に躓いて、私は転んでしまった。私はそのことを忘れていない。眼には見えない小さな石にさえ、私をつまずかせる力があったではないか。大きな体のこの私に、あの石ころほどの力がないはずがない」
 彼は心の中で力強く言いました。
 ミーミルはディーヴィとコカバイエルの子らに言いました。
「あなた方自身が私の言葉を信用できなかったとしたなら、それは仕方のないことです。でも、どうか私の言ったことをあなたの家族に伝えてください。私と私の兄弟姉妹と、私の母とは、山の頂であなた方を待っています」
 ミーミルはディヤウスとアイナエルの返事を聞くより先に駆け出しました。
 自分自身で他の兄弟姉妹たちの所へ行かなければならないと思ったからです。
 
 やがて金鎚が金属を叩く甲高い音が耳に届きました。この音が、自分たちの従兄姉が金を打ち伸ばして金糸の織物や飾り物を作っている音だということを、ミーミルはよく知っておりました。
「ああ私はエクサエル伯父とポイベ叔母の家に近付いた」
 彼はそう言いますと、背筋を伸ばしました。父の兄や母の妹に会うのに、獣のようにふらついていては無礼にあたると考えたからです。
 
 ミーミルがよろよろと歩いておりますと、目に鮮やかな色で染め上げた服に金銀の細工物を飾り立てた、従兄姉のエロワとアラーニエが彼を見つけて駆け寄りました。
「小さな兄弟よ」
 エロワとアラーニエはミーミルに呼びかけました。彼等はフッラとペネムエルの子供たちよりも背丈が高かったので、普段から彼等の従弟妹たちを「小さな兄弟姉妹」と呼んでいたのです。
 さて、エロワとアラーニエはミーミルの側に駆け寄りましたが、彼の体が土埃と汗で大変汚れておりましたので、彼の体に触れることをしませんでした。
 自分たちが身に纏っている美しい装束が汚れてしまうと思ったからです。
 エロワとアラーニエはミーミルから半歩離れたところに立って、訊ねました。
「小さな兄弟、君はどこから来て何処へ行くのか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「私はムスペルの山の頂から戻って来て、あなた方兄弟姉妹たちの所へ行くのです」
 エロワは更に訊ねました。
「何の用事があって兄弟姉妹たちの元に行くのか?」
 その言葉の後にアラーニエが付け足して言いました。
「もしあなたが、あなたの家族のための食物を求めて兄弟姉妹たちの家に行こうというのなら、止めておきなさい。私たちも他の兄弟姉妹たちも、自分たちの食物しか持っていないのです」
 ミーミルはポイベの家の蔵に食べ物がないことを知っていました。ポイベ家の蔵には、もし着て働いたとしたら、袖や裾があちらこちらに引っ掛かって歩くもままならないような、大きな飾りの付いた衣服ばかりが詰まっているのですから。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「兄弟姉妹よ、私はここに来る途中で、他の兄弟たちが争って、互いの血肉を貪るのを見ました」
 エロワは嗤って言いました。
「そのことは知っている。彼等は愚かで、食べ物を得る術を知らないので、互いに争って奪い合うことしかできないのだ」
 アラーニエも嗤って言いました。
「彼等が少しでも私たちのやり方を見習えば、互いの肉を食べ合うような愚かなことはせずに済むのに」
 ミーミルは小さく息を吐きました。
 ポイベとエクサエルの子らのいう「やり方」というのは、自ら美しく着飾って持つ物の側に行き、持つ者の身体を美しく飾り立てる服や装飾品を渡して、持つ者から財産を別けて貰うというものです。
 ミーミルは、この方法が「すでに有る物」が「横」に動きながら量を減らしてゆくだけのものである、と知っていました。この方法では「すでにある物」は「横」に動くうちに磨り減って、やがては無くなってしまいます。「すでにある物」がもっとずっと少なくなった時には、折角彼等が作り出した衣服や飾り物は「すでにある物」の対価としては見向きはされなくなるでしょう。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「最も尊き御方は、私たちの兄弟が大地を血で穢していることをお嘆きになっています。その穢れを流すため、天の海があふれることをお許しになりました。私はそのことを皆に知らせるために駆けてきました」
 エロワは問いました。
「あなたは何故ほかの兄弟姉妹たちの所ではなく、私たちのところへ来たのですか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「あなた方の母上にこのことを伝えるためです。叔母上が大きく美しい色の布を縫い合わせて旗を作り、打ち振るいながら皆に声を掛ければ、このことを地上の隅々まで伝えられるでしょう。ああ、こうしている間にも時が過ぎてゆきます。やがて地上に天の波が押し寄せ、地は水につかり、総ては水の底に沈むでしょう」
 エロワとアラーニエは俄にはそのことを信じませんでした。しかし彼等はフッラとペネムエルとその子供たちがいつも正しい人々であるということを知っておりましたので、ミーミルの言うことが嘘であるとも思えませんでした。
 従兄姉たちが返事ができずに黙ってしまったので、ミーミルは彼等に言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は皆の奴隷となって一生働きましょう」
 この言葉を聞くいてもまだ、ポイベとエクサエルの子らは、ミーミルの言葉を信用する決心がつきませんでした。
 彼等がまだ迷っているのを見て、ミーミルは更に言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は私の身を裂いて皆に血肉を分け与えましょう。兄弟姉妹よ、どうか私を信じて、すぐ高い山へ向かってください。
今あなた方の手の中にあるものをは捨てなさい。持っている土地を惜しんではなりません。そのためにあなた方は命を失うことになるからです」
 この言葉を聞くいてもまだ、ポイベとエクサエルの子らは、ミーミルの言葉を信用する決心がつきませんでした。
 彼等はミーミルに言いました。
「あなたは私たちの一族の中で一番年若い。あなたの言葉は、例え私たちが信じても、他の兄弟姉妹たちは信用しないでしょう」
 彼等の言葉を聞いて、ミーミルは悲しくなりました。
 彼は肩を落としましたが、打ち倒れることはありませんでした。
「私が荒れ地を駆けてていたとき、ほんの小さな小石に躓いて、私は転んでしまった。私はそのことを忘れていない。眼には見えない小さな石にさえ、私をつまずかせる力があったではないか。大きな体のこの私に、あの石ころほどの力がないはずがない」
 彼は心の中で力強く言いました。
 ミーミルはポイベとエクサエルの子らに言いました。
「あなた方自身が私の言葉を信用できなかったとしたなら、それは仕方のないことです。でも、どうか私の言ったことをあなたの家族に伝えてください。私と私の兄弟姉妹と、私の母とは、山の頂であなた方を待っています」
 ミーミルはエロワとアラーニエの返事を聞くより先に駆け出しました。
 自分自身で他の兄弟姉妹たちの所へ行かなければならないと信念を持ったからです。

 やがてミーミルはすすり泣くような声と、嘆くような叫びを耳にしました。その声は彼のよく知った声でした。
「ああ私はニスロクエル伯父とジョカ叔母の家に近付いた。ガドレエル伯父とマッハ叔母の家にも近付いた」
 この世で最初の狩人さんのマッハと料理人さんのジョカは、この世で最初の双子でしたので、生まれる前からとても仲が良く、大きく育ってからも互いに近い所で住み暮らしていました。ですから、片方の家に近付くことは、もう片方の家に近付くことと同じ事でした。
 ミーミルが急ぎ足で歩いてゆきますと、ニスロクエルとジョカの子のカトとバツと、ガドレエルとマッハの子のモーディとヒルドとが、こちらに向かって駆け寄りました。
「小さな兄弟よ」
 カトとバツとモーディとヒルドはミーミルに呼びかけました。彼等はフッラとペネムエルの子供たちよりも背丈が高かったので、普段から彼等の従弟妹たちを「小さな兄弟姉妹」と呼んでいたのです。
 さて初め、カトとバツとモーディとヒルドは、彼等の従弟に笑顔を向けておりましたが、すぐに落胆して悲しそうな顔をしました。
 ミーミルの体が土埃と汗で大変汚れており、またその手に何も持っていなかったからです。
 カトとバツはミーミルから半歩離れたところに立って、訊ねました。
「小さな兄弟、君はどこから来て何処へ行くのか?」
 続けてバツが言いました。
「その手に何も持っていないというのに、どうしてどこかへ行こうと考えているのですか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「私はムスペルの山の頂から戻って来て、あなた方兄弟姉妹たちの所へ行くのです」
 するとモーディが言いました。
「もしあなたが、あなたの家族のための食物を求めて兄弟姉妹たちの家に行こうというのなら、止めておきなさい。私たちも他の兄弟姉妹たちも、自分たちの食物すら持っていないのです」
 ミーミルは大変驚きました。料理人のジョカの家の蔵にも、狩人のマッハの家の蔵にも、食べ物がない筈がないのです。彼女らと彼女らの一族の仕事は食べ物を作ることなのですから。
 ミーミルは彼等に尋ねました。
「あなた方の蔵の中の蓄えは、いったいどうしたのですか?」
 ヒルドが答えて言いました。
「あの人たちがやってきて、奪い盗り、食べ尽くしてしまいました」
 ミーミルには食べ物を奪っていった者達が誰であるのか、すぐに解りました。そこで従兄姉たちに言いました。
「兄弟姉妹よ、私はここに来る途中で、他の兄弟たちが争って、互いの血肉を貪るのを見ました」
 カトが答えて言いました。
「彼等は自分たちで食べ物を得る術を知らないので、互いに争って奪い合うことしかできないのだ」
 バツが続けて言いました。
「彼等は今のことばかり考えて明日の食べ物のことを考えることができませんでした」
 モーディが続けて言いました。
「彼等はそこにある物を全部食べ尽くしてしまっても、なお満ち足りるということを知らない」
 ヒルドが続けて言いました。
「ですから私たちの家の蔵は皆空です。誰かが私たちに何かを与えてくれなければ、私たちには今食べる物が一つもありません」
 ミーミルは小さく息を吐きました。
 ジョカとニスロクエルの子らも、ガドレエルとマッハの子らも、自分たちで食べ物を得ようとしないということ関しては、互いに肉を貪っている兄弟たちと大差が有りません。
 しかしミーミルはそのことを口にはしませんでした。そんなことを喋っている時間はないのです。
 ミーミルは彼等に言いました。
「最も尊き御方は、私たちの兄弟が大地を血で穢していることをお嘆きになっています。その穢れを流すため、天の海があふれることをお許しになりました。私はそのことを皆に知らせるために駆けてきました」
 カトは問いました。
「あなたは何故ほかの兄弟姉妹たちの所ではなく、私たちのところへ来たのですか?」
 ミーミルは答えて言いました。
「あなた方の母上にこのことを伝えるためです。叔母上が竈の火を大きく焚き、高く煙を上げたなら、このことを地上の隅々まで伝えられるでしょう。ああ、こうしている間にも時が過ぎてゆきます。やがて地上に天の波が押し寄せ、地は水につかり、総ては水の底に沈むでしょう」
 カトとバツは俄にはそのことを信じませんでした。しかし彼等はフッラとペネムエルとその子供たちがいつも正しい人々であるということを知っておりましたので、ミーミルの言うことが嘘であるとも思えませんでした。
 彼等はしばらく黙っていましたが、しばらくしてバツが悲しそうに言いました。
「私たちの母の竈の火は、すっかり消えてしまっています。彼等が油も薪も総て奪っていったからです」
 ミーミルは落胆しましたが、すぐに顔を上げました。そしてモーディとヒルドに向き直って言いました。
「あなた方の母上にこのことを伝えてください。叔母上が鏑矢かぶらやを空にはなったなら、その風を切る音で、このことを地上の隅々まで伝えられるでしょう。ああ、こうしている間にも時が過ぎてゆきます。やがて地上に天の波が押し寄せ、地は水につかり、総ては水の底に沈んでしまいます」
 モーディとヒルドも俄にはそのことを信じませんでした。しかし彼等はフッラとペネムエルとその子供たちがいつも正しい人々であるということを知っておりましたので、ミーミルの言うことが嘘であるとも思えませんでした。
 彼等はしばらく黙っていましたが、しばらくしてヒルドが悲しそうに言いました。
「私たちの母の矢は、一本も残っていません。彼等が争い事のために使ってしまったからです」
 これを聞くと、さすがにミーミルは力を失いかけました。彼と彼の父親とがようやく知った事実を、この世に伝える術が一つも残っていないからです。
 しかしミーミルは落胆しませんでした。彼は心の中で力強く言いました。
「私が荒れ地を駆けてていたとき、ほんの小さな小石に躓いて、私は転んでしまった。私はそのことを忘れていない。眼には見えない小さな石にさえ、私をつまずかせる力があったではないか。大きな体のこの私に、あの石ころほどの力がないはずがない」
 そして彼の従兄弟たちに告げました。
「兄弟姉妹よ、どうか、すぐ高い山へ向かってください。今あなた方の手の中にあるものをは捨てなさい。持っている土地を惜しんではなりません。そのためにあなた方は命を失うことになるからです」
 ミーミルの従兄弟たちは互いに顔を見合わせて黙り込みました。ミーミルは力強く言いました。
「あなた方自身が私の言葉を信用できなかったとしたなら、それは仕方のないことです。でも、どうか私の言ったことをあなたの家族に伝えてください。私と私の兄弟姉妹と、私の母とは、山の頂であなた方を待っています」
 ミーミルはカトとバツとモーディとヒルドの返事を聞くより先に駆け出しました。
 あと二人、このことを知らせなければならない人がいるからです。

 ミーミルは彼の一族が棲む土地の開墾されている場所の中で一番西の外れまで走りました。それは彼の歩幅でたったの七十歩でたどり着ける所でした。
 彼の従兄弟たちの中では一番小さい者でしたが、それでも背丈が二百と五十クデあるのです。この頃の一クデは、この世で最初のお父さんの指の先から肘までの長さと決まっておりました。
 七十歩行った先で、彼は二つの小さな人影を見つけました。一つの人影は、鉄の鍬をふるって畑を耕していました。もう一つの人影は、経糸の先を畦に生えた細い木に結びつけた居坐機いざりばたで帯を負っておりました。「ああ私は、私たちの母の母、母の父、この世の総ての人々の偉大な両親の家にたどり着いた」
 ミーミルはこの世で一番最初のお父さんと、この世で一番最初のお母さんの前に進んで、地面に頭が付くほどに腰を曲げ、跪きました。
 すると、この世で最初のお父さんが、彼を見上げて、
「偉大で小さな息子、私たちの最初の子供の最後の子供、遠いところから良くここまで来てくれたね」
 そう言いますと、小さな水瓶を彼の前に差し出しました。
「さあお飲み。ほんの一滴の水だけれども、ここにある総ての清い水を、お前にあげよう」
 それからこの世で最初のお母さんも彼を見上げて、
「偉大で小さな息子、私たちの最初の子供の最後の子供、遠いところから良くここまで来てくれたね」
 そう言いますと、小さな籠を彼の前に差し出しました。
「さあお食べ。ほんの一切れのパンだけれども、ここにある総ての食べ物を、お前にあげよう」
 ミーミルは二人の前にひれ伏して泣きました。彼等が持っている物総てを自分たちのためでなく、疲れた旅人のために捧げてくれたからです。
「お祖父様、お祖母様、どうかそれはあなた方自身のためにとっておいてください。私の喉は喜びの為に潤い、私の腹は幸福の為に満ちていますから」
 そういいますと、ミーミルは顔を上げて二人に語りました。
「偉大な両親よ、私はここに来る途中で、兄弟たちが争って、互いの血肉を貪るのを見ました」
 この世で最初のお父さんが答えて言いました。
「彼等は自分たちで食べ物を得る術を知らないので、互いに争って奪い合うことしかできないのだ。彼等がここに来たならば、一緒に畑を耕して、作物を作る術を教えてやれるのに」
 この世で最初のお母さんも言いました。
「彼等がここに来たならば、一緒に糸を紡ぎ機を織って、身に纏う物を作る術を教えてやれるのに」
 二人はとても悲しそうでした。
 ミーミルは彼等に言いました。
「最も尊き御方は、私たちの兄弟が大地を血で穢していることをお嘆きになっています。その穢れを流すため、天の海があふれることをお許しになりました。私はそのことを皆に知らせるために駆けてきました」
「ああ、とうとうそうお決めにななられたのか」
 この世で最初の夫婦は声を揃えて言い、肩を抱き合って泣きました。そして泣きながらミーミルに問いました。
「お前はそのことを他の子供たちに伝えましたか?」
 ミーミルは、彼が彼の父と一緒に火の山へぼったことから、御使いに告げられたこと、それから山を下って駆け戻り、総ての兄弟たちにこのことを告げたことを、最初から最後まで全部語りました。
 全部語り終えますと、ミーミルは言いました。
「もしも私の言ったことが正しくなく、いつまでも天の波が来ず、永遠に地が水につからなかったなら、私は私の身を裂いて皆に血肉を分け与えましょう。お祖父様、お祖母様、どうか私を信じて、すぐ高い山へ向かってください。今あなた方の手の中にあるものをは捨ててください。持っている土地を惜しんではなりません。そのためにあなた方は命を失うことになるからです」
 この世で最初の夫婦は、彼の目をしっかり見つめて言いました。
「私たちはお前の言うことを全部信じよう。そしてこれをお前に告げてくれた最も高き所におられる尊い御方に感謝しよう。私たち人間が総て滅んでしまうことを、あの方は望んでおられない。あの方は私たちを哀れみ、祝福して下さった」
 ミーミルは地にひれ伏して泣きました。嬉しくて悲しくて、涙が止まりませんでした。
 あまりにたくさん泣きましたので、ミーミルが流した涙の浸みた土地では、今でも井戸を掘ると塩気のある水が湧くのです。
 ミーミルはこの世で最初の夫婦に言いました。
「私たち兄弟総ての偉大な父母よ。どうか私の肩に掴まってください。そうして、私はあなた方を背負って、高い山へ登りましょう。そうすれば、例え水が大地を覆い始めても、私の背丈になるまでは、あなた方が溺れてしまうことはありませんから」
 この世で最初の夫婦は、
「偉大で小さな息子、私たちの最初の子供の最後の子供。私たちはあなたに従いましょう。私たちは老いてしまって、山へ行く力が残っていないのだから」
 こういって、素直にミーミルの肩に掴まり、振り落とされないようにと、彼の髪の毛で身体を縛りました。
 ミーミルは残る力を全部振り絞って立ち上がり、二人を背負って駆け出しました。
 空は真っ暗に曇っておりました。雷鳴は轟き、稲光が光り、稲妻が大地に幾つも突き刺さりました。
 黒い雲は大地の彼方からどんどん低く垂れ下がり、風は湿った土の匂いを運び始めました。
「天の門が開き、天の海があふれた!」
 ミーミルは叫びました。走りながら叫びました。お腹の底から、魂の奥から、叫びました。
「天の水が総て落ちてくる! 大地は水で満たされる! 兄弟たち、兄弟たち、私の声を聞け! 高みへ走れ、振り返るな、命を惜しめ、物を惜しむな!」
 湿った空気が震えて、ミーミルの声は地の果てまで届きました。喉が破けて血があふれました。ミーミルは血を吐き出しながら、ただひたすらに走りました。
 やがて大粒の雨が降り始めました。降ってきた雨は雨粒の形をしておりませんでした。空の端から端までが総て川になって、大地の端から端までがすべて海になったような雨でした。
 ミーミルが平らなところを走っている間に、水は彼のくるぶしまで達しました。
 ミーミルが少し坂になり始めたあたりまで走ってきた頃になりますと、水は彼の膝下あたりまで達しておりました。
 ミーミルが山道にさしかかりますと、水は彼の腰の下にまで達しておりました。
 雷鳴と雨音と、それから得体の知れない地鳴りの音に混じって、ミーミルは人の叫び声を聞きました。
 彼は振り返らずに、後ろにいるであろう誰かに声を掛けました。
「兄弟たち、兄弟たち! 高みへ走れ、振り返るな、命を惜しめ、物を惜しむな!」
 すると、あとから来た兄弟たちは、追い越して行きました。彼等はミーミルよりも背が高かったので、ミーミルが進むのよりも早く走れたのです。
 ミーミルを追い越していったのは、マッハとガドレエルの子供たちでした。
 彼等の肩の上には、彼等の両親と、彼等の年若くて身体の小さい兄弟たちが負われていました。
 マッハとガドレエルの子らは走りながら言いました。
「小さな兄弟よ、我々は君の言葉を信じて、他の兄弟たちにも声を掛けてきた。恐らくあとから兄弟たちが来るだろう。どれほどの兄弟たちが救われるのかは解らないけれども」
「ありがとう兄弟たち。あなた方の上に祝福がりますように」
 ミーミルは大きな声で彼等の背中に呼びかけました。
 ミーミルは更に山を登りました。

 雷鳴と雨音と、それから得体の知れない地鳴りの音に混じって、ミーミルは人の叫び声を聞きました。
 彼は振り返らずに、後ろにいるであろう誰かに声を掛けました。
「兄弟たち、兄弟たち! 高みへ走れ、振り返るな、命を惜しめ、物を惜しむな!」
 すると、あとから来た兄弟たちは、追い越して行きました。彼等はミーミルよりも背が高かったので、ミーミルが進むのよりも早く走れたのです。
 ミーミルを追い越していったのは、ジョカとニスロクエルの子供たちでした。
 彼等の肩の上には、彼等の両親と、彼等の年若くて身体の小さい兄弟たちが負われていました。
 ジョカとニスロクエルの子らは走りながら言いました。
「小さな兄弟よ、我々は君の言葉を信じて、他の兄弟たちにも声を掛けてきた。恐らくあとから兄弟たちが来るだろう。どれほどの兄弟たちが救われるのかは解らないけれども」
「ありがとう兄弟たち。あなた方の上に祝福がりますように」
 ミーミルは大きな声で彼等の背中に呼びかけました。
 ミーミルは更に山を登りました。

 雷鳴と雨音と、それから得体の知れない地鳴りの音に混じって、ミーミルは人の叫び声を聞きました。
 彼は振り返らずに、後ろにいるであろう誰かに声を掛けました。
「兄弟たち、兄弟たち! 高みへ走れ、振り返るな、命を惜しめ、物を惜しむな!」
 すると、あとから来た兄弟たちは、ゆっくりと彼を追い越して行きました。兄弟たちはミーミルよりも背が高かったので、例え疲れ果てた足であっても、ミーミルが進むのよりもすこし早く進むことができたのです。
 ミーミルを追い越していったのは、ポイベとエクサエルの子供の、エロワとアラーニエでした。
 彼等の肩の上には、彼等の両親と、彼等の年若くて身体の小さい兄弟たちが負われていました。
 ポイベとエクサエルの身体の小さい子供たちは、兄や姉の身体にしがみつきながら、同時にたくさんの美しい布や飾り物を抱えていました。美しい布は雨水を冷たく重くなっておりました。
 エロワとアラーニエは、彼等の兄弟たちが持つ水に濡れた布のために、彼等が負える以上の重さを背に乗せなければなりませんでした。
 ミーミルは小さな兄弟たちに言いました。
「あなた方とあなたの兄や姉と、それからあなた方の両親の命と、あなた方の持っている物と、どちらが尊いのか!?」
 小さな兄弟たちは互いの顔を見合わせますと、
「私たちの持っている物と、私たちの家族の命とでは、家族の命の方が遙かに尊い」
 と言って、手の中の荷物を水の中に捨てました。
 エロワとアラーニエは歩きながら言いました。
「小さな兄弟よ、どうか彼等を叱らないでくれ。彼等は家を出るときにはそれが必要だと思っていたのだ」
 ミーミルは、すっかり疲れているエロワとアラーニエのことが心配でしたが、今の自分には彼等の荷を負うだけの力がのこっておりませんでしたので、仕方が無く、
「気をつけて兄弟たち。あなた方の上に祝福がりますように」
 大きな声で彼等の背中に呼びかけるだけにしました。
 ミーミルは更に山を登りました。

 雷鳴と雨音と、それから得体の知れない地鳴りの音に混じって、ミーミルはまた別な人の叫び声を聞きました。
 彼は振り返らずに、後ろにいるであろう誰かに声を掛けました。
「兄弟たち、兄弟たち! 高みへ走れ、振り返るな、命を惜しめ、物を惜しむな!」
 すると、あとから来た兄弟たちは、のろのろと彼を追い越して行きました。兄弟たちはミーミルよりも背が高かったので、例え疲れ果てた足であっても、ミーミルが進むのよりもすこし早く進むことができたのです。
 ミーミルを追い越していったのは、ディーヴィとコカバイエルの子供の、ディヤウスとアイナエルでした。 彼等の肩の上には、彼等の両親と、彼等の年若くて身体の小さい兄弟たちが負われていました。
 ディーヴィとコカバイエルの身体の小さい子供たちは、兄や姉の身体にしがみつきながら、同時にたくさんの巻物や機械を抱えていました。巻物は雨水を冷たく重くなっておりましたし、機械はとても複雑な形をしておりました。そんなものを抱え込んでいる小さな兄弟たちは、今にもバランスを崩して荷物もろとも水の中へ落ちてしまいそうでした。
 それに、ディヤウスとアイナエルは、彼等の兄弟たちが持つ水に濡れた皮や木や金属のために、彼等が負える以上の重さの釣り合いが悪いものを背に乗せなければなりませんでした。
 ミーミルは小さな兄弟たちに言いました。
「あなた方とあなたの兄や姉と、それからあなた方の両親の命と、あなた方の持っている物と、どちらが尊いのか!?」
 小さな兄弟たちは互いの顔を見合わせますと、
「私たちの持っている物と、私たちの家族の命とでは、家族の命の方がずっと尊い」
 と言って、手の中の荷物を水の中に捨てました。彼等はしばらくの間、荷物が沈んでゆくのをとても惜しそうに眺めていました。
 ディヤウスとアイナエルは背中が少し軽くなりましたので、歩みを早めますと、振り返らずにミーミルに言いました。
「小さな兄弟よ、どうか彼等を叱らないでくれ。彼等は彼等の思う必要なを持ってきたのだ。それに私たちも最初はそれが必要だと思っていた」
 ミーミルはディヤウスとアイナエルのことが心配でしたが、今の自分には彼等の荷を負うだけの力がのこっておりませんでしたので、仕方が無く、
「気をつけて兄弟たち。あなた方の上に祝福がりますように」
 大きな声で彼等の背中に呼びかけるだけにしました。
 ミーミルは更に山を登りました。
 大分高く登ったというのに、水の高さはやはり彼の腰の下までありました。雨は降り続け、水は増え続けているのです。
 ミーミルはもう走ることができませんでしたが、しかし停まることもしませんでした。
 彼が止まれば、彼だけでなく、彼の背にいる祖父母も水に沈んでしまうからです。
 ミーミルはどんどん山を登ってゆきました。

 雷鳴と雨音と、それから得体の知れない地鳴りの音に混じって、ミーミルはまた別な人の叫び声を聞きました。
 彼は振り返らずに、後ろにいるであろう誰かに声を掛けました。
「兄弟たち、兄弟たち! 高みへ走れ、振り返るな、命を惜しめ、物を惜しむな!」
 すると、あとから来た兄弟たちは、のそのそと彼を追い越して行きました。兄弟たちはミーミルよりもずっと背が高かったので、例え疲れ果てた足であっても、ミーミルが進むのよりも僅かに速く進むことができたのです。
 ミーミルを追い越していったのは、ティアマトとムルキブエルの子供の、クルとカシラットでした。
 彼等の肩の上には、彼等の両親と、彼等の年若くて身体の小さい兄弟たちが負われていました。
 ティアマトとムルキブエルの身体の小さい子供たちは、兄や姉の身体にしがみつきながら、同時にたくさんの鉄や木や石や、それから鎚や斧を抱えていました。銘木は水を吸って重くなっておりましたし、鉄や石は氷のように冷え切っていました。
 ですから、クルとカシラットは彼等の兄弟たちが持つ水に濡れた材木のために、彼等が負える以上の重さを背に乗せなければなりませんでしたし、冷たい石のために身体が冷え切っておりました。
 ミーミルは小さな兄弟たちに言いました。
「あなた方とあなたの兄や姉と、それからあなた方の両親の命と、あなた方の持っている物と、どちらが尊いのか!?」
 小さな兄弟たちは互いの顔を見合わせますと、
「私たちの持っている物と、私たちの家族の命とでは、家族の命の方が尊いだろう」
 と言って、手の中の荷物から彼等が良いと思った物を一つずつ選び、残った大半を水の中に捨てました。彼等は長い間、荷物が沈んでゆくのをとても惜しそうに眺めていました。
 クルとカシラットは喘ぎながら進み、言いました。
「小さな兄弟よ、どうか彼等を叱らないでくれ。彼等は彼等が残したものが必要なものであると信じているのだ。そして私たちは彼等と同じように思っている」
 ミーミルは、クルとカシラットの為には、残りの荷物も捨てた方がよいと思いましたが、今の自分にはそのことを言うだけの気力が残っておりませんでしたので、仕方が無く、
「気をつけて兄弟たち。あなた方の上に祝福がりますように」
 小さな声で彼等の背中に呼びかけるだけにしました。
 ミーミルは更に山を登りました。
 水かさはどんどんと増し、水面はやがて彼の胸の下にまで達しました。
 雷鳴は一層強くなり、雨脚は一層激しくなります。 水は地面にある物のほとんど総てを飲み込みました。
 ミーミルの耳には、天を呪い人を呪う声が聞こえました。
 食べる物を争って血を流し、お互いに食い合っていた者達が、水に沈みながら上げた叫びでした。
 ミーミルは彼等を助けたいと思いました。ですが、立ち止まればたちまちに増え続ける水の中に飲み込まれるに違いありません。振り返ればたちまちに流れに足をすくわれるに違いありません。
 彼は泣きながら、歯を食いしばって前に進みました。
 しばらく行くと、誰かが後ろから歩いてくる気配がしました。
 ミーミルは振り返らずに、後ろにいるであろう誰かに声を掛けました。
「兄弟たち、兄弟たち! 高みへ走れ、振り返るな、命を惜しめ、物を惜しむな!」
 あとから来た兄弟たちは、彼の後ろになんとか追いついて、ようやく横に並んで歩きました。兄弟たちはミーミルよりも背が高かったので、ミーミルが進むのよりも僅かに速く進むことができた筈ですが、もうすっかり疲れ果てていて、止まらずに歩くのがやっとだったのです。
 ミーミルの横を歩いているのは、ヌトとアシズエルの子供の、アナトとハッドゥでした。
 彼等の肩の上には、彼等の両親と、彼等の年若くて身体の小さい兄弟たちが負われていました。
 ヌトとアシズエルの身体の小さい子供たちは、兄や姉の身体にしがみつきながら、同時にたくさんの鏡や香水の壺、それから楽器を抱えていました。鏡は冷たく、壺は重く、楽器は大変かさばるので、小さな兄弟たちはとても苦労してそれらを持っていました。
 アナトとハッドゥは彼等の兄弟たちが持ち物のために背中から落ちそうになるので、彼等を落とさないようにしようと、あちらこちらへとふらつきながら歩かねばなりませんでした。
 ミーミルは小さな兄弟たちに言いました。
「あなた方とあなたの兄や姉と、それからあなた方の両親の命と、あなた方の持っている物とでは、どちらが尊いのか!?」
 小さな兄弟たちは互いの顔を見合わせますと、
「私たちの持っている物と、私たちの家族の命とでは、どちらも同じほどに尊い」
 と言って、手の中の荷物をより一層強く抱え込みました。
 ミーミルは、アナトとハッドゥの為には、兄弟たちは荷物を捨てた方がよいと思いました。
 しかしアナトとハッドゥは、喘ぎながら言いました。
「小さな兄弟よ、どうか彼等を叱らないでくれ。彼等はそれが必要なものであると信じているのだ。そして私たちは彼等と同じように思っている」
 ミーミルが彼等の身を思って忠告しようとしたその時のことでした。
 ミーミルは大きな兄弟の背から、何かが落ちるのを見ました。
 荷が捨てられたのではありません。荷諸共に、幾人かの小さな兄弟姉妹たちが深い水の中に落ちていったのです。
 ミーミルも、それからアナトとハッドゥも、落ちた小さな兄弟たちを助けようと、手を伸ばしました。
 しかし兄弟たちは兄たちの手を掴むことができませんでした。
 彼等は溺れているというのに、なお荷物を手放さなかったからです。
 アナトの背の上でヌトが泣きながら声を上げました。
「私の子供、息子、娘! 私の血肉! 浮いておいで! その身だけで良いから!」
 大変大きな声でした。大変悲しい声でした。ですが、ヌトとアシズエルの小さな子供たちは、もう母親の声が届かないところにおりました。
 ヌトは泣き叫びながら水面に手を伸ばしました。
 彼女の夫のアシズエルはハッドゥの背にいましたが、そこから大きく手を伸ばして、ヌトの襟首を引きました。そうしないと、彼女もまた水の中に落ちてしまいそうだったからです。
 ヌトは美しい声が枯れるまで子供たちの名前を呼び続けました。ですが、彼等は荷物と一緒に沈んだきり、二度と浮き上がりませんでした。
 今でも彼等が沈んだ山の峰では、誰も弾かないのに琴の音や太鼓の音が聞こえることがあると言います。
 アナトとハッドゥは大声を上げ、獣が吠えるように泣きました。ヌトは涙がかれてなお泣き、アシズエルは声を上げずに泣きました。
 ミーミルは、叔母と伯父と従兄姉とその家族のために何か励ましの言葉を言わなければならないと思いましたが、彼等を慰められるだけの言葉は見つかりませんでした。ミーミルは仕方が無く黙っておりました。
 アナトとハッドゥは泣きながら、それでも歩くことを止めませんでした。むしろ最初よりも早足で山を登り続けました。歩かなければ、彼等自身と両親もまた溺れてしまいます。
 それと彼等は、彼等の兄弟達が沈んでしまった悲しい場所から、一刻も早く離れたいと思ったのです。
 彼等はミーミルを追い越して、山を登ってゆきました。

 彼等が先に行ってしまったあとで、ミーミルは自分の足元を見ました。胸のあたりまで迫ってきた水面の高さが、臍のあたりになっておりました。
「雨脚が弱まったようだ」
 次にミーミルは空を仰ぎました。天高くあると思われた真っ黒だった雲は、ずいぶんと低い所を漂っており、色も薄い灰色に変わっておりました。
「山の頂に近付いた」
 ミーミルの足は疲れのためにゆっくりになっていました。ですが、一歩一歩は力強く踏みしめられておりました。彼は休まず留まらず山を登り続けました。
 しばらく行くと、誰かが後ろから歩いてくる気配がしました。
 それは、両親の土地から離れて、自分たちの土地を見つけ、そこで暮らしていた者達でした。
 ミーミルは振り返らずに、後ろにいるであろう誰かに声を掛けました。
「兄弟たち、兄弟たち! 高みへ走れ、振り返るな、命を惜しめ、物を惜しむな!」
 後から来た兄弟たちは、彼の後ろに追いつくや、彼の背中や髪を掴み、強く弾いたのです。
 ミーミルが驚いて言いました。
「兄弟たち、疲れて歩けないなら、私に捕まりなさい。でも自分たちが歩くことを止めてはいけない」
 家を離れた兄弟たちは大声で答えました。
「我々の荷物は多く、担ぎきれないのだ。お前は何も負ってはいないのだから、我々の荷を負え!」
 ミーミルは答えて言いました。
「背負いきれない物は捨てなさい。あなた方は自分たちの命と、あなた方自身を苦しめている品物と、どちらが尊いと思っているのか?」
 すると家を離れた兄弟たちは言いました。
「これは命の百倍も尊い。我々は一から耕し、一から育て、一から掘り出し、一から積み上げ、一から蓄えたのだ。最初は無かった物を、ようやく百の百倍までに増やした財産だ。これを手放すことなどできるものか」
 ミーミルは何故かとても悲しくなりました。彼は家を離れた兄弟たちに言いました。
「兄弟たち、今は無くした物を惜しんではいけない。振り向いて泣いてはならない。前を向いてゆきなさい。そうしなければ、あなた方は山の岩場のようになって、無くした物といっしょに水の中に飲み込まれてしまうだろう」
 家を離れた兄弟たちは彼の言葉を聞きませんでした。彼等は口々に言いました。
「いったい誰がこんな雨を降らせたというのか。雨さえ降らなければ、我々の財産は失われなかった」
 家を離れた兄弟たちは、その場に立ち止まりました。
 ミーミルは何故かとても腹立たしくなりました。彼は振り返らずに言いました。
「あなた方はあなた方が財産を失ったことを他人の所為にしてはいけない。前を向いて歩きなさい」
 家を離れた兄弟たちはその言葉も聞きませんでした。彼等は後ろを振り返りました。
「ああ、今この手の中にある物だけでは足りない。残してきた物も持ってくるべきだった」
 ミーミルは彼等にもう一度言いました。
「あなた方はあなた方の失った物を惜しんではいけない。むしろこれから得る物のことを考えて、前を向きなさい」
 家を離れた兄弟たちはその言葉も聞きませんでした。
「我々の耕したあのあたりの土地はとても肥えていたし、あのあたりで飼っていた牛はとても立派だった。それからあのあたりの山からは金銀が出た」
 そして、彼等の中で一際背の高いメラロ猥褻という兄弟が言いました。
「今からでも遅くはない。我々は帰って我々の財産を持ってこよう」
 メラロは彼等の中の長でしたので、彼等はその言葉に従い、もと来た道へ戻り始めました。彼等は口々に自分の財産の多さと素晴らしさを自慢しながら歩きました。
 その時のことです。雷鳴が轟き、彼等の声は途絶えました。
 彼等の頭に雷が落ちたからです。
 しかし彼等は倒れませんでした。水に溺れることもありませんでした。彼等の暖かみを失った体は、黒い岩の柱になっておりました。
 こうして、彼等は永遠に座ることも横たわることもできず、前へ進むことも後へ戻ることも許されず、泣くことも声を上げることも禁じられ、死んでいる者の国からも生きている者の国からも追放されたのでした。
 今でもその岩の柱は残っていて、その場所はゲキ貪欲の石林と呼ばれています。

 さてミーミルは、悲しさと悔しさとを奥歯でかみ殺しながら、それでも前へ進み、山を登りました。
「私の言葉で私の兄弟たちを助けることができなかった」
 ミーミルは大粒の涙を零しました。彼があまりに強く悔しがり、悲しがったので、彼の涙は氷のように凍てついて、大きく硬い透明な固まりで溢れ出たのです。
 氷った涙はまつげのような尖った形で溢れ、水の奥底に沈み、地面の奥に突き刺さりました。
 ミーミルの肩の上にいた、この世で最初の夫婦は、これを見て言いました。
「見なさい、あの氷った水のためにあなたの悲しみは永遠に人々に伝えられる。あなたの知識とあなたの勇気とあなたの正義は、あの氷の石によって人々の心に残るでしょう」
 山の奥で採れる透き通った石が、今でもクリスタロスとか水晶などと呼ばれるのはこのためです。

 やがて雨が弱まりますと、水面は彼の腰よりも下となり、一歩進むごとに腿が乾き、膝が乾き、臑が乾き、くるぶしが乾き、足の指が乾きました。そして山の頂まで後数歩の所まで来た頃には、足の裏もすっかり乾きました。
 目を開けてよく見ると、山の頂の狭い平らなところに、先に行った兄弟たちがひしめいておりました。
 立っている者も、座っている者も、横たわっている者も、皆が疲れ、おびえ、震えていました。
 なぜなら彼等は、大地の大半が水に沈んでいるのを見たからです。
 また、互いの肉を食うために争っていた兄弟たちが、争いを続けたまま水の底に沈んでゆくのを見たからです。
「我々が立っているこの場所も、水に覆われるのではないか」
「我々も、水に沈むのではないか」
 彼等は口々に言いました。
 ミーミルが山の頂までたどり着きますと、彼の母親と兄弟姉妹達が彼を抱き締めました。
 彼の母親のフッラは、息子が背負って来たこの世で最初の夫婦を抱き締めました。
 フッラの姉妹達も依ってきて、両親を抱擁しました。
 ミーミルの従兄姉たちは、ミーミルに言いました。
「我々は君のおかげで命を得ることができた。しかしこの命を長らえることは難しい。私たちは、麦の一籠も、牛の一頭も持っていない。私たちは何れ飢えて死ぬだろう」
 ミーミルは答えて言いました。
「兄弟たち。最も尊い御方は、必ず総てを備えてくださる御方です。必ず私たちに必要な物が与えられます」
 兄弟たちはしかし安心できませんでしたので、もう一度訊ねました。
「もしも我々が何も得られなかったならどうするか?」
 ミーミルは天を仰ぎました。彼の目に白い雲が流れてゆくのが見えました。雨が止む兆しです。

 彼は顔を真正面に向け直しました。
「万一あなた方が飢えて死にそうになったなら、どうか私の体を捧げ物にして、その血肉を食べてください」
 兄弟姉妹達は大変驚きました。
 ミーミルは彼の兄弟たちの顔をしっかりと見て、言いました。
 まず彼は、ヌトとアシズエルの子供たちに言いました。
「歌う者の長ハッドゥよ、あなたが祈りの歌を唄ってください。皆の心が天に届くように」
 次に、ティアマトとムルキブエルの子供たちに言いました。
「家を建てる者の長クルよ、あなたが祭壇を築いてください。皆の真心が天からよく見えるように」
 それから、ディーヴィとコカバイエルの子供たちに言いました。
「織工と彫金師の長エロワよ、あなたはその祭壇を飾る布を仕立ててください。皆の悲しみが覆い隠されるように」
 また、ジョカとニスロクエルの子供たちにはこういいました。
「料理人の長カトよ、あなたは清い火をおこしてください。皆の苦しみが焼き尽くされるように」
 最後にマッハとガドレエルの子供たちに言いました。
「猟師と漁師と採集する者の長モーディよ、あなたは私の肉を裂いて下さい。皆の餓えが解消されるように」
 ミーミルは自分と両親が同じ兄弟たちには何も言いませんでした。ただ、姉妹のエルダを見て微笑んだだけでした。
 ミーミルの従兄姉たちは互いの顔を見合わせて、何かを語り合いました。その後でハッドゥが言いました。
「一番小さな兄弟、一番賢い兄弟。我々は君を信じると決めた。そして、もしも我々が飢えて死にそうになったとしても、君の血肉を食うようなことはしない。それでは私たちが、水の底に沈んでしまった、あの乱暴な兄弟たちと同じになってしまうからだ。私たちは私たちの住む土地を、私たち自身の血で穢すことはしない」
 高い山の頂で、この世で最初の家族達は、互いの肩を抱き合って、泣き、そして笑いました。
 それから皆で空を仰ぎました。次第にあたりが明るくなってきたからです。

 すると彼等の目に、厚い雲が割れ、青い空が割れ、眩しい光の帯が神殿の階段のように降りてくるのが見えました。その光の階段を、一人の人のような姿をした者が、ゆっくりと下ってきて、皆の前に立ちました。
 立っているのは一人の人でしたが、一人の人のその後ろには、幾万もの軍勢が控えていてます。空はその軍勢で埋め尽くされていて、そのために太陽の光が再びすっかり遮られしまいました。
 この世で最初の夫婦の娘達とその子供たちのうち、ミーミルを除いた者達は、恐れおののいてその場に伏しました。
 するとこの世で最初の夫婦が声を揃えて言いました。
「子供たちよ、彼等を畏れてはいけない。彼等は我々の兄弟なのだから」
 彼等の娘達とその子供たちは顔を上げて、降りてきた人を見ました。
 降りてきた人の顔は大変恐ろしく、しかし大変穏やかで、大変優しそうでもありました。 その人が威厳ある方に見えましたので、子供たちは彼の足元に跪きました。
 するとこの世で最初の夫婦の娘の婿達が言いました。
「子供たちよ、彼等の前にひれ伏してはいけない。彼等を崇めてはいけない。彼等は我々の兄弟なのだから」
 そういいますと、婿達は彼等の前に立って膝を突き、尊敬する家族にするような、深いお辞儀をしました。
 降りてきた人は彼等の顔を見回して言いました。
「肉を持って生まれた我が兄弟たち、肉を得て暮らす兄弟たち、あなた方の声は、あなた方の兄弟ペネムエルのために聞き届けられました」
「弟は今どこにいますか?」
 アシズエルが訊ねますと、降りてきた人は答えて言いました。
「ムスペルの頂きに」
 そうして、降りてきた人は彼の弟の子の顔を見て言いました。
「私が彼に語り、そなたに語ったことを、今一度皆に語る。ここの者達はそなたの言葉を耳には入れたが、聞き取ってはいないからだ」
 降りてきた人は、ムスペルの山の祭壇でペネムエルとミーミルに語ったことを、最初からもう一度語りました。
 銀色の雲の神殿から地上に降りた者たちは、大変驚き、悲しみ、そして悔いました。この世におきた大きな災いの元が、自分たちであると知ったからです。

 この世で最初の夫婦の子供たちも大変驚き、悲しみ、そして悔いました。この世におきた大きな災いの元が、自分たちであると知ったからです。
 この世で最初の子供たちの子供たちも大変驚き、悲しみ、そして悔いました。自分たちが生まれながらに罪深い者であると知ったからです。
 彼等は皆、この世の不幸は自分たちの為におきたと知りました。それはとても悲しく、辛く、苦しいことでした。皆はうつむいて、押し黙って、涙を流しました。
 しばらく経って彼等は言いました。
「我らの罪は我らが背負いましょう。どうか我らの子の、その子の、更にその子には、重荷を負わせられませぬように」
 降りてきた人、立っている人は言いました。
「兄弟よ、あなた方は天にあったときに良いことと悪いことの別を知っていたのに、それでもなお罪を犯した。あなた方の子、その子、更にその子に、そのことを伝えなさい。それが彼等の許される道です」
 それを聞いて口を開いたのは、この世で最初の人でした。
「兄弟よ、どうか我らの子の、その子の、更にその子の、更にそのまた子の、重荷を軽くしてください。その分を私が背負いますから」
 降りてきた人、立っている人は言いました。
「荷を重く思うか軽く思うかは、負った者の心一つです。誠にあなた方に告げます。あなた方はあなた方に与えられたものを各々負いなさい。あなたが他人の荷を替わって負うことはできませんし、自分の荷を他人に負わせることもできないのです」
 この世で最初の人は更に言いました。
「我らが弱いように、我らの子等も弱いでしょう。どうか我らの子の、その子の、更にその子に、重荷を負う力を与えてください」
 降りてきた人、立っている人は言いました。
「あなた方に告げます。強い者が力で道を開くことができるように、弱い者は智慧で道を開くことができるのです。自分にできることを成しなさい」
 この世で最初の人は更に更に言いました。
「兄弟よ、どうか怒らないでください。我らの子の、その子の、更にその子が、私たちが伝えたことを忘れてしまわないようにして下さい」
 降りてきた人、立っている人は言いました。
「ではあなた方に七つの言葉を言いましょう」
 そして彼は、アシズエルに言いました。
「我々の兄弟アシズエルよ。あなたの子等に言いなさい。他人を羨ましいと思っても、蛇のように嫉妬してはならない」
 それからムルキブエルに言いました。
「我々の兄弟ムルキブエルよ。あなたの子等に言いなさい。怒りを覚えたとしても、狼のように激怒してはならない」
 それからコカバイエルに言いました。
「我々の兄弟コカバイエルよ。あなたの子等に言いなさい。疲れたなら体を休めなさい。ただし驢馬のように怠惰になってはならない」
 それからエクサエルに言いました。
「我々の兄弟エクサエルよ。あなたの子等に言いなさい。恋しいと思ったとしても、山羊のように色欲に溺れてはならない」
 それからニスロクエルに言いました。
「我々の兄弟ニスロクエルよ。あなたの子等に言いなさい。空腹を満たしてなお、豚のように貪り食ってはならない」
 それからガドレエルに言いました。
「我々の兄弟ガドレエルよ。あなたの子等に言いなさい。良い物を手に入れてなお、狐のように意地汚く欲してはならない」
 それからペネムエルの子に言いました。
「我々の兄弟ペネムエルの子、小さな兄弟ミーミルよ。あなたの子等に言いなさい。己に自信をもちなさい。ただし、孔雀のように驕慢に振る舞ってはならない」
 降りてきた人、立っている人は皆に言いました。
「最後にあなた方に告げます。これは最も高きところに居られる、最も尊い御方の契約の印です」
 彼は東の空を指さしました。
 空には七色の光の弓が浮かんでおりました。水で満たされた大地の端から端までを繋ぐ大きな架け橋のようでありました。
「聴きなさい。この後あなた方の血のうちから、あの光の橋の高さを超える子供らは生まれないでしょう。あなた方が皆正しく人間となったからです。そして、あなた方は長雨が降ったとき、雨が上がったとき、その印を見て、私の言ったこと、すなわち最も尊い御方の仰せになったことを思い出しなさい」
 彼の背後にいた幾万もの軍勢が声を揃えて言いました。
「かつてあられ、今おられ、やがて来られる方。高き方、尊き方、清き方。荒ぶる方、慰める方、愛する方。いと尊き御方に栄えあれ」
 それは天が震え、地が揺れるほどに大きな声でした。天を覆い、地の果てまでも届く大きな声でした
 声の響きが消えた後、降りてきた人、立っている人は言いました。
「私はこれをあなた方に告げた。忘れずにいなさい。私は言葉を伝える者、私は神の力、名はギブリエル」
 彼が言い終わりますと、もう一度彼が率いてきた軍勢が声を揃えて言いました。
 彼の背後にいた幾万もの軍勢が声を揃えて言いました。
「かつてあられ、今おられ、やがて来られる方。高き方、尊き方、清き方。荒ぶる方、慰める方、愛する方。いと尊き御方に栄えあれ」
 声が静まったときには、そこには降りてきた人の姿も、軍勢の姿もありませんでした。
 ただ、海原に取り残された山の頂に、この世で最初の夫婦の一族が居るだけでした。

 地を覆った水は七日が七回過ぎるころに引きました。乾いた地面のあちこちに、今までなかった大きな山ができておりました。
 それは水の下になった、山のように背の高い人々の骸でした。
 今でも山々の中に人の名前のような名で呼ばれるものがあるのは、それがかつてその名で呼ばれた人であったからです。
 こうして、この世で最初の夫婦の娘達から生まれた、大きな子供たちの大半は死に絶えました。
 そして、生きて残った大きな子供たちからも、そのあと彼等ほど大きな子供たちは生まれてきませんでした。
 ただ、今でも時々、背丈が五クデもある人や、胴回りが十クデもあるような人が生まれ、人々が驚くことがあります。しかし私たちがそれを不思議に思う必要はありません。
 なぜなら私たちの体の中には、かつていたとても体の大きな、悪いことを悔いて良き人となった兄弟たちの血潮が、流れているのですからね。
終わり

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クレールお姫様倶楽部Petit