フレキ=ゲー編によるガップ民話集

煎り豆

 
 子供のない老夫婦がありました。
 石の壁の小屋に住み、毛玉牛を二頭飼い、小麦の畑を三反ほど耕して暮らしていました。
 小屋は古くて、すきま風がぴゅうぴゅうと吹き込みます。
 牛は痩せていて、ぜいぜいと息をします。
 畑は荒れていて、ぼうぼうと雑草が生えています。
 老夫婦が若くて元気な頃は、すきま風が吹けばすぐに二人して漆喰で穴を埋めましたし、牛には二人して飼い葉をたくさん抱え持ってえさやりをしましたし、畑に草が生えたら二人して隅から隅まで草取りをしていました。
 ところが二人とも、すっかり歳を取ってしまったので、漆喰をこねると腕が痛くなり、飼い葉を担ぐと肩が痛くなり、草取りをすると腰が痛くなってしまいます。
 老夫婦は二人っきりで暮らしておりますから、おじいさんの肩が痛くなるとおばあさんがもんであげます。おばあさんの膝が痛くなるとおじいさんがさすってあげます。二人で腰が痛くなると、二人でベッドに横になります。
 二人は腕が痛くならないくらいに家を手入れして、肩が痛くならないくらいに牛の世話をして、腰が痛くならないくらいに畑仕事をして日々を過ごしております。
 家はどうやら崩れずにおりますし、牛はどうやら乳を出してくれますし、畑はどうやら収穫ができますから、二人はどうやら暮らして行けます。
 たくさんは食べられませんし、たくさんは着飾れませんし、たくさんの家具を揃えられはしませんけれど、二人とも今のままで良いだろうと思っておりました。
 ただ、たまに、ちょっとだけ、心の隅っこで、
「今のこのうちに、あと一人、いやもう一人、男の子と女の子の子供がいたなら、どんな楽しいだろうかな」
 と思うことがありました。
 お隣の家の同じくらいの歳の夫婦に、男の子と女の子の子供が一人づついるのを、とてもうらやましく思っていたからです。
 ただ、おじいさんはそう思っても口に出しませんし、おばあさんも言いませんでした。
 二人とももう歳を取りすぎていると分かっていましたし、二人とも相手がそのことで悲しんでいると知っていたからです。
 ある日のことです。
 二人はニワトリが鳴く前に目をさまし、日が昇りきる前にふすま粥を食べました。そうして朝露が乾く前に、小屋から出ました。
 その日は村の外れの神殿にお参りに行く日だからです。
 おじいさんは左手に杖を持っています。おばあさんは右手に杖を持っています。
 空いた右手と左手で手を繋いで、どっこいしょ、よいこらしょ、とゆっくり歩きます。
 神殿まで後半分まで来たところで、二人は道端の石に腰を下ろして休みました。
 おばあさんが煎った空豆の入った袋を出します。おじいさんがチーズの上澄みの入った水筒を出します。
 二人は煎り豆を口に入れましたが、堅くて噛むことができませんでした。
「若い頃にはパンと同じようにぱくぱく食べられたのに、歯が無くなってしまってはしゃぶるよりほかしかたがない」
 おじいさんは小さくため息を吐きました。
 それから二人は、チーズの上澄みを口に含みましたが、酸っぱくてむせてしまいました。
「若い頃には水と同じようにごくごく飲めたのに、喉ががさがさになってしまっては口の中を湿らせるだけしかしようがない」
 おばあさんは小さくため息を吐きました。
 二人は哀しくなりましたが、顔を見合わせるとにっこりと笑い合いました。二人とも同じように歳を取っているのですから、年寄りの気持ちがよく分かるのです。
 老夫婦はお互いの杖にすがり、お互いの手を引き合うと、よいこらしょっと立ち上がりました。そうしてまた、どっこいしょと歩き始めました。
 二人が神殿に着いた頃には、もう朝のお祈りの時間はとっくに終わっていました。村の人たちはおくれてやってきた老夫婦にちょっと頭を下げて、先に家に帰って行きます。
 人がいなくなった祭壇の前に行くと、老夫婦は辺りを見回してから、二人で一つのお財布を裏に返しました。中から銅貨が一枚きり転がり出ましたので、ふたりはそれを、浄財箱の中にそうっと入れました。
 老夫婦は杖を床において、床の上に直接ひざまづきました。お祈り用の敷物がなかったからです。それから目を閉じ、手を合わせました。
 おじいさんは歯のない口の中でもぐもぐとお祈りをしました。
「どうか私の奥さんが、元気で長生きできますように」
 おばあさんも歯のない口の中でもぐもぐとお祈りをしました。
「どうか私の旦那さんが、元気で長生きできますように」
 二人はほとんど同時にお祈りを終えて、ほとんど同時に目を開けました。ほとんど同じことをお祈りしていたから、ほとんど同じに、とってもゆっくりと立ち上がりました。
 すると、祭壇の上の方から光がすぅっと一筋、降りてきました。
 老夫婦が目をパチパチしばしばさせますと、祭壇の上に人の姿をした光が立っているのが見えました。
「持てる財産の総てを捧げた巡礼者に、神様のお告げがあります」
 人の姿をした光が、威厳ある人のように言うので、老夫婦は驚いてどすんと尻餅をついてしまいました。
 人の形をした光が、
「あなた方の子孫は大いに祝福されます」
 と言いましたので、老夫婦は驚いて今度はポンと飛び起きました。
「私たちには子供はいません」
 おじいさんが言いました。
「これから生まれる子供らと、そのまた子供らに祝福を」
 光の人が言いました。
「私たちは年寄りです」
 おばあさんが言いました。とても子供は産めませんと言いかけましたが、恐ろしくて口から言葉が出ませんでした。
「神様のお告げを信じないのですか?」
 光の人が怒ったような声で言ったからです。
 老夫婦が抱き合って震えていると、光の人は優しい声で
「さあ、帰ってあなた方の畑の一番日当たりの悪いところに、あなたの持っている煎り豆を一粒まいて、あなたの持っているチーズの上澄みを振りかけなさい。神様は例え火を通した豆に酢っぱい水をやったとしても、それを芽吹かせ、茂らせ、咲かせ、実らせることができます。それが証です」
 そう言うと、光の人はすぅっと消えてしまいました。
 老夫婦はがたがた震えて抱き合ったまま、ガクガクした足取りで神殿から出て行きました。杖を拾うのを忘れてしまうほど、恐れおののいていたのですが、二人は寄り添ったまま、ゆっくりゆっくり家に帰りました。
 古ぼけた石の壁の小屋に帰り着きますと、老夫婦は這うようにして畑へ行きました。そうして、狭い畑の中で一番日当たりの悪い、一番石ころのごろごろしたところを掘りました。
 老夫婦はお互いの顔を見合わせました。しわしわで真っ白な顔をしています。
 おじいさんが煎った空豆を一粒埋めました。
 おばあさんが煎った豆に痩せた土をかぶせました。
 おじいさんは地面をじっと見ました。おばあさんもじっと見ました。なにやら土が動いた気がしたからです。
「気のせいだったかな?」
「気のせいだったでしょうか?」
 二人ほとんど同時に言いました。
 ですが、すぐに二人はお互いの言葉が間違っていると気付きました。
 確かに、土の塊がひとつまみ、こそっと動いているのです。
 地面の下から突っつかれ、出っ張って、ぽこりと小さな山ができました。
 老夫婦は顔を寄せ、地面をのぞき込みました。
 山のてっぺんがぱっくりと割れ、土の小さな塊が崩れて落ちました。
 老夫婦はほっぺたをくっつけて、地面をのぞき込みました。
 小さな割れ間の中で、何かがきらりと光りました。
 老夫婦が地面に顔を近づけようとしたときです。きらりと光った何かが急に地面から突き出しました。
 おじいさんはひっくり返って尻餅をつきました。おばあさんは腰を抜かしてひっくり返りました。
 二人が驚いて円くなった目で見ましたら、地面から出てきたのは、青々としてつやつや光った、大きな豆のふたばでした。
「なんとあれまあ、芽が出た、芽が出た」
「煎った豆から、芽が出た、芽が出た」
 びっくりの上にびっくりした老夫婦は、思わず手を取り合ってピンと立ち上がりました。
「大変だ大変だ、水をあげねば育たない」
 おじいさんが言いましたので、おばあさんは酸っぱいチーズの上澄みをふたばの根元の地面にかけました。
 からからに乾いた痩せ土に、水気がぐんぐん吸い込まれてゆきました。
 撒いた上澄みが全部地面に吸い込まれると、ふたばがブルブルッと震えました。
 老夫婦がふたばをじっと見ますと、ふたばの間で何かがきらりと光りました。
 老夫婦がふたばに顔を近づけようとしたときです。きらりと光った何かが急にふたばの間から突き出しました。
 おじいさんはひっくり返って尻餅をつきました。おばあさんは腰を抜かしてひっくり返りました。
 二人が驚いて円くなった目で見ましたら、ふたばの間から出てきたのは、青々としてつやつや光った、大きな豆の本葉でした。
「なんとあれまあ、葉が出た、葉が出た」
「煎った豆から、葉が出た、葉が出た」
 びっくりの上にびっくりしたその上にびっくりした老夫婦は、思わず手を取り合ってシャンと立ち上がりました。
「大変だ大変だ、水をあげねば育たない」
 おじいさんが歌うように言いましたので、おばあさんは水筒に残った酸っぱいチーズの上澄みを全部地面にかけました。
 からからに乾いた痩せ土に、水気がぐんぐん吸い込まれてゆきました。
 撒いた上澄みが全部地面に吸い込まれると、本葉がブルブルッと震えました。
 老夫婦が本葉をじっと見ますと、本葉の間で何かがきらりと光りました。
 老夫婦が本葉に顔を近づけようとしたときです。きらりと光った何かが急に本葉の間から突き出しました。
 おじいさんはひっくり返って尻餅をつきました。おばあさんは腰を抜かしてひっくり返りました。
 二人が驚いて円くなった目で見ましたら、本葉の間から出てきたのは、青々としてつやつや光った、太い豆のつるでした。
「なんとあれまあ、つるが出た、つるが出た」
「煎った豆から、つるが出た、つるが出た」
 びっくりの上にびっくりしたその上にびっくりしたそのまた上にびっくりした老夫婦は、思わず手を取り合ってぴょんと跳ね上がりました。
「大変だ大変だ、水をあげねば育たない」
 おばあさんが歌うように言いましたので、おじいさんは家の中に飛んで戻り、すぐに瓶を抱えて飛び出しました。
 瓶の中には酸っぱいチーズの上澄みが少し残っておりました。
「大変だ、大変だ」
 おじいさんは瓶を抱えたままトントンと足拍子を踏みました。
「大変だ、大変だ」
 おばあさんは杓子ですくった上澄みを拍子に合わせてまきました。
 するとどうでしょう
 一まきするとつるが伸び、二まきすると枝が伸び、三まきすると葉が茂り、四まきするとつぼみが付いて、五まきするととうとう花が開いたのです。
「なんとあれまあ、花が咲いた、花が咲いた」
「煎った豆から、花が咲いた、花が咲いた」
 老夫婦は手を取り合って歌い出し、豆の木の周りでぴょんぴょんとはね踊りました。
 老夫婦はお互いの顔を見合わせました。つやつやでバラ色の顔をしています。
「なんと不思議なことだろう」
「なんと不思議なことでしょう」
 老夫婦は互いのつやつやした頬を重ねるようにして抱きつきました。
「実がなるだろうか?」
 おじいさんは……まるで働き盛りの元気な男の人のように、自分の奥さんを抱きしめていました。
「実がなりますよ」
 おばあさんは……まるで働き盛りの元気な女の人のように、自分の旦那さんに抱きついていました。
 夫婦はしばらく互いの顔をじっと見たあと、煎った豆から芽を出し育った豆の木のほうへ向き直りました。
 咲いたばかりの豆の花でしたが、ちょっと目をはなしたすきに、花びらがしわしわに縮んでいました。
 夫婦が見ていると花びらは枯れ落ち、小さな蕊《しべ》が顔を出しました。
「なんとまあ、実がなった、実がなった」
「煎った豆から、実がなった、実がなった」
 夫婦は抱き合って踊りました。一跳ねする間に鞘が伸び、二跳ねする間に天を指し、三跳ねする間に膨らんで、四跳ねする間に頭を垂れ、五跳ねするころにはすっかり穫り入れ時になっていました。
「これは大変だ」
 おじいさんは、慌てて農具置き場へ駆け込みました。
「これは忙しい」
 おばあさんは、大急ぎで家の中へ駆け込みました。
 おじいさんは小さな鎌と手斧を持ってきました。
 おばあさんは大きなカゴと鉄鍋を持ってきました。
 おじいさんは若い男の人のようにしゃきんと腰を伸ばして、たくさん実った空豆の鞘を、上から下まで順番に、一つ残らずつみ取りました。
 おばあさんは若い娘のようにしゃきんと背筋を伸ばして、たくさん穫られた空豆の鞘から、右から左まで順番に、一つ残らず豆を取り出しました。
 豆の鞘は、小さな鎌の刃がぼろぼろになるほどたくさん実っていました。
 豆の粒は、大きなカゴから溢れ出すほどにたくさん詰まっていました。
「豆の木が枯れてしまったね」
 おじいさんはちょっと寂しそうに言いました。
「豆の木は枯れてしまいましたね」
 おばあさんはちょっと寂しそうに答えました。
「さあ退いておくれ。豆の木が倒れる前に切ってしまうよ」
 おじいさんはそういうと、豆の木の根元を手斧で伐りました。
 不思議な空豆の木の幹は、まるでデオドラ杉のように堅かったのですけれど、おじいさんが手斧を一振りするとみしりと震え、二振りするとぐらぐら揺れて、三振りすると傾きはじめ、四振りすると斜めになって、五振りしたならどすんと倒れてしまいました。
 それからおじいさんは豆の木を五つに切り分けました。
 一番太いところは薄く割って大きな板にしました。板は夫婦の家のテーブルや扉や屋根を全部修理してもまだ余るほど取れました。
 次に太いところはきれいに削って角材にしました。角材は夫婦の牛小屋の柱や柵や格子を全部修理してもまだ余るほどたくさん取れました。
 次に太いところは円く削って太い棒にしました。棒は家中の天秤棒やチーズのかき回し棒や物干し竿を全部新調してもまだ余るほどたくさん取れました。
 次に太いところは、割って削って細い棒にしました。細い棒は家中のスプーンやかぎ針や洋服かけを全部新調してもまだ余るほどたくさん取れました。
 最後に余った細い枝は、短く切って薪にしました。薪は家中の暖炉やストーブで五年使ってもまだ余るほどにたくさん取れました。
 地面にまるあるく残った切り株は、まるで立派なカマドのようでした。
 おばあさんはそこに鉄鍋を置きました。
「さあ退いてください。豆の実が堅くなる前に炊いてしまいますよ」
 おばあさんは空豆の鞘の中の柔らかいわたに種火を付けました。
 種火は鉄鍋の下でモクモク煙を立てました。
 種火の上には豆がらをのせました。
 豆がらにうつった小さな火はパチパチとはじけました。
 小さな火の上には豆の木の小枝をくべました。
 小枝にうつった火はゆらゆらと揺れました。
「さあ鍋に水を入れよう」
 おじいさんは元気な声で言いました。
 井戸まで走ってゆきますと、大きなおけに二つ水をくみ上げました。
 おばあさんはおけを傾けて、鉄鍋に水を注ぎました。
「それお湯がわきますよ」
 おばあさんが元気な声で言いました。
 小屋まで走って行きますと、小さなツボを二つ抱えて戻りました。
 おじいさんはツボを傾けて、鉄鍋に塩とコショウを入れました。
「さあ豆を入れよう」
 おじいさんは元気な声で言いました。
 大きなカゴを持ち上げて、頭の上に掲げました。
 おばあさんはカゴを傾けて、鉄鍋に豆を入れました。
「それスープが煮えますよ」
 おばあさんが元気な声で言いました。
 豆の木の棒でかき回し、豆の枝の匙で味を見ました。
 おじいさんは鉄鍋を傾けて、チーズの上澄みのツボにスープを入れました。
 空豆は、たくさんのスープを煮てもまだ、カゴから溢れ出すくらいに残っていました。
「残りの豆は煎り豆にして、冬の蓄えにしましょう」
 おばあさんはからになった鉄鍋に、大きなカゴを傾けて、空豆をがらがらと流し込みました。
 煎られた豆は鍋の中で、ポンポンと元気に爆ぜました。
「まるで子供が踊っているようですね」
 おばあさんが言いますと、
「まるで子供が跳ねているようだね」
 おじいさんも言いました。
「この豆のように元気な子供が、この豆のようにたくさん生まれたらいいだろうね」
 おじいさんはそういって、自分の奥さんの顔をみました。
 奥さんはまるで結婚式が終わったばかりの晩の花嫁さんのような顔で、にこにこ笑っていました。
「この豆のように元気な子供が、この豆のようにたくさん産まれたらいいでしょうね」
 おばあさんは層って、自分の旦那さんの顔を見ました。
 旦那さんはまるで結婚式が終わったばかりの晩の花嫁さんのような顔で、にこにこ笑っていました。
 夫婦が不思議な豆の実の全部に火を通おえますと、太陽はすっかり地面の下に沈んでおりました。
 あたりはすっかり真っ暗で、足元さえも見えません。
「今日はなんて忙しい日だったのだろう」
 おじいさんは豆がらを燃した残り火を豆の木の枝を束ねたたいまつに移しました。
「今日はとても忙しい日でしたね」
 おばあさんはたいまつの明かりを頼りにしておじいさんの側に寄りました。
「お前は疲れたかい?」
 おじいさんがききました。
 真っ暗な宵闇の中でおばあさんの影が首を横に振りました。
「あなたは疲れましたか?」
 おばあさんがききました。
 真っ暗な宵闇の中でおじいさんの影が首を横に振りました。
 夫婦は手を取り合って、古い石壁の小屋に帰りました。
 次の日の朝になりました。
 古い石の壁の小屋の屋根の上に、元気な男の人が登っておりました。
 男の人はたくさんの板を抱えているというのに、煎り豆が爆ぜるように軽やかな足取りで、屋根の上を飛び回り、屋根板の隙間や割れ目や節穴をあっという間に全部塞いでしまいました。
 通りかかった村の鍛冶屋はその手際の良さにびっくりして言いました。
「あの若い男は誰だろう? 顔つきはこの石壁の小屋のじいさんによく似ているけれど」
 鍛冶屋が知っているおじいさんは、杖を突いてようやく歩けるほどのよぼよぼですから、屋根の上に上れるはずがありません。
 鍛冶屋は小さな声で呟いたのですが、屋根の上の人は大層耳がよいらしく、鍛冶屋の方へ顔を向けました。
「そこにいるのは、鍛冶屋じゃないか。丁度良かった。毛玉牛に引かせる鋤の歯が欠けているのを、大急ぎで直してくれないか? これからすぐに畑をたがやしに行くから」
 鍛冶屋は益々びっくりして、また呟きました。
「この若い男は誰だろう? 声はこの石壁の小屋のじいさんによく似ているけれど」
 鍛冶屋が知っているおじいさんは、耳元で喋らないとなにも聞こえないくらい耳が遠いのですから、屋根の上からこちらの声に気付くはずがありません。
 小首をかしげておりますと、屋根の上の男の人はいきなり屋根からポンと飛び降りました。そうして驚いている鍛冶屋に向かっていったのです。
「わしはこの石壁の小屋のじいさんさ。あんたはわしより二ダースは若いのに、目も耳も遠いらしい」
 確かによく見れば、目も鼻も口もおじいさんそのままですが、目尻にも花の下にも口の脇にも皺一本だってありません。
「じいさん、一体どうしなすった?」
 鍛冶屋は大変驚きました。
「訳を話すと長くなる。そうだ、小屋にお入り。豆のスープをご馳走しよう。食べながらきいておくれ」
 若者のようなおじいさんにうながされ、鍛冶屋が小屋に入りますと、窓の外側に若い娘さんが一人歩いておりました。
 娘さんは大きな瓶に毛玉牛の乳をたっぷり入れた大きな瓶を頭の上にせたまま、煎り豆が爆ぜるように軽やかな足取りで歩いています。
「あの若い娘は誰だろう? 顔つきはこの石壁の小屋のばあさんによく似ているけれど」
 鍛冶屋が知っているおばあさんは、杖を突いてようやく歩けるほどのよぼよぼですから、瓶を頭にのせたまま歩けるはずがありません。
 鍛冶屋は小さな声で呟いたのですが、娘はは大層耳がよいらしく、鍛冶屋の方へ顔を向けました。
「そこにいるのは、鍛冶屋さんじゃないですか。丁度良かった。毛玉牛の毛を刈る鋏の刃が欠けてしまったんです。大急ぎで直してくれませんか? これからすぐに毛糸を紡いで織物をしますから」
 鍛冶屋は益々びっくりして、また呟きました。
「この若い娘は誰だろう? 声はこの石壁の小屋のばあさんによく似ているけれど」
 鍛冶屋が知っているおばあさんは、耳元で喋らないとなにも聞こえないくらい耳が遠いのですから、部屋の外からこちらの声に気付くはずがありません。
 小首をかしげておりますと、外にいるむすめはいきなりまどからひょいと小屋の中に入ってきました。
 そうして驚いている鍛冶屋に向かっていったのです。
「わしはこの石壁の小屋のばあさんですよ。あなたはわしより二ダースは若いのに、目も耳も遠くなったのですか」
 確かによく見れば、目も鼻も口もおばあさんそのままですが、目尻にも花の下にも口の脇にも皺一本だってありません。
「ばあさん、一体どうしなすった?」
 鍛冶屋は大変驚きました。
「訳を話すと長くなる。そうだ、テーブルにお付き。豆のスープをご馳走しますよ。食べながらきいておくれ」
 娘のようなおばあさんにうながされ、鍛冶屋はテーブルに着きました。
 鍛冶屋は空豆がたっぷり入ったスープを飲みながら、若いおじいさんと若いおばあさんから、昨日起きた不思議なことを話を聞きました。
 若者のようなおじいさんと、娘のようなおばあさんは、神殿の合唱団のように節を付けて、声を揃えて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 鍛冶屋はびっくりして訊ねました。
「その豆を食べてじいさんたちは若返ったのかね?」
 おじいさんとおばあさんは首を振りました。
「食べる前から元気が出てね」
「食べる前から若返った気がしたよ」
「なるほどなるほど。それではきっと、じいさんたちが普段から良い人だから、神サマが元気をお恵み下さったんだろう」
 鍛冶屋は合点して、大きくうなずきました。
 すっかり若返って元気になった夫婦の話を聞きながら、豆のスープをたっぷり飲んだ鍛冶屋は、なんだか自分も力が湧いてきた気がしてきました。
 実際、鍛冶屋は元気になっていたのです。
 実は鍛冶屋の家も蓄えが多くないので、今朝は飯を食べずに家を出なければならなかったのです。
 そこへ不思議な豆のスープがおなかにたっぷり入ったので、体の端々まで力がみなぎったのでした。
 鍛冶屋は張り切って鋤を直しました。
 鋤は大きな石ころに当たったとしてもなにもなかったように真っ直ぐ進めるほど、見事に修繕されました。
 若返ったおじいさんはすっかり喜んで、
「ありがとうありがとう、これで明日には畑仕事ができるだろう」
 と、嬉しそうに言いました。
 鍛冶屋不思議に思って、
「すぐに仕事に取りかかったら、今日中にだっておわるだろうよ」
 するとおじいさんは、
「これから神殿にお礼参りに行くからね。畑仕事はそれからさ」
 にこにこと笑いました。
 それから鍛冶屋は張り切って鋏を直しました。
 鋏は脂で固まった毛玉があったとしてもなにもなかったように真っ直ぐ進めるほど、見事に修繕されました。
 若返ったおばあさんはすっかり喜んで、
「ありがとうありがとう、これで明日には畑仕事ができるでしょう」
 と、嬉しそうに言いました。
 鍛冶屋不思議に思って、
「すぐに仕事に取りかかったら、今日中にだっておわるだろうよ」
 するとおばあさんは、
「これから神殿にお礼参りに行きますからね。畑仕事はそれからよ」
 にこにこと笑いました。
 でもすぐに夫婦は困った顔をして、ふたり声を揃えて言いました。
「畑の麦ができて、毛玉牛の毛織物ができるまで、修繕のお金は待ってもらえないだろうか」
 すると鍛冶屋は大きく笑って、
「お金のかわりに煎り豆を少しくれないか。今食べたのがとてもおいしかったから」
 若返った老夫婦は大喜びして、煎り豆を袋に一杯詰め込んで鍛冶屋に渡しました。
 鍛冶屋は老夫婦の石の小屋を出ると、村の真ん中に向かいました。そこには村で一番の金持ち長者の家があるのです。
 村で一番の金持ち長者は、村で一番広い麦畑を持って、村で一番たくさんの毛玉牛を飼っています。
 村で一番大きな家に住んでいて、村で一番立派な服を着ています。
 広い広い麦畑には、畑仕事をする作男が幾人もおりましたが、みなお給料はちょびっとだけでした。
 たくさんの毛玉牛の世話をする牧童がいくにんもおりましたが、みなお給料はちょびっとしかもらっていませんでした。
 広いお屋敷には、お金持ちの家族の世話をする使用人がたくさんおりますが、みなお給料はちょびっとしかもらっていませんでした。
 村で一番の金持ち長者は、農具を作った鍛冶屋にも、家を建てた大工にも、服を作った仕立屋にも、お金は少ししか払いません。
 そのくせ、月に一度は新しい鎌を作らせますし、十日に一度は家の建て増しをさせますし、毎日新しい服を仕立てさせるのです。
 それでも鍛冶屋も大工も仕立屋も、金持ちの家の仕事をしたがりました。少しばかりでも貰えないよりはマシだからです。

 鍛冶屋は村で一番の金持ち長者の家に着いて、大きな門の呼び鈴を鳴らしました。
 疲れた顔の痩せた召使いが出てきましたが、何も言わずにすぐに顔を引っ込めてしまいました。
 主人に呼ばれたわけでもないのに屋敷へやってくる者は、おおよそ集金人だと解っています。そして主人が集金人が好きでなく、会う気が無いと言うことも解っています。
 会いたくない人を取り次ぐと、主人は召使いたちを怒鳴りつけるのです。
 だれだって怒られるのはいやですから、使用人も牧童も作男も、集金人が来ても知らんぷりで、挨拶すらしません。
「ちょっと待っておくれ」
 鍛冶屋は召使いを呼び止めて言いました。
「今日はお金のコトじゃないんだ。長者様に珍しくて面白いお話をしたいんだよ」
 召使いは口の中でもごもごと何かを言うと、屋敷の中に戻ってゆきました。
 ずいぶん長い時間、屋敷の中から人が出てくる気配はありませんでした。
 日が昇りきって、お昼が過ぎても、門は愛来ませんでしたが、鍛冶屋は辛抱強く待っておりました。
 不思議なことに、老夫婦の豆のスープのおかげで、おなかはちっとも減らないのです。
 ようやく重たい門がゆっくりと開きましたのは、太陽が西の方へ駆け足で走り出した頃でした。
 鍛冶屋が案内されたのは、台所の隅でした。
 もちろん、村で一番の金持ち長者がそこにいるはずはありません。やせっぽちの料理人たちがいるだけです。
 料理人の長は威張った声で言いました。
「おい鍛冶屋、ここのナイフを全部研ぐんだ。一本だって残らずだぞ」
 実を言いますと料理人たちは、村一番の金持ち長者から宴会の料理を百皿作れと言い渡されているというのに、錆びたナイフのせいで作業が進まず、昨日の夜から食べたり休んだりしていないのです。
「解った解った。その代わり、全部研いだら長者様に会わせておくれよ」
 台所には百と五本の錆びたナイフがありましたが、鍛冶屋はあっという間に全部研ぎ上げました。
 道具が治ったので、料理人たちは大喜びして仕事にかかりました。
 オーブンに火が入り、鍋がグツグツと煮え、見る間に料理ができあがってゆきます。
 料理長がたいそう驚いて、
「これは一体どうしたんだ?」
 とたずねますので、鍛冶屋は煎り豆の詰まった袋を取り出して、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 鍛冶屋が歌うように話すのを聞いているうちに、料理長の威張ってとんがった顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」 
 なぜだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いに料理長は節に会わせて足を踏みならして踊っておりました。
「さあ、長者様の所に案内しておくれ」
 鍛冶屋は小袋から煎った空豆をひとつ出して、料理長に渡しました。
 料理長は豆を口の中に放り込み、
「よし、長者様の所に案内しよう」
 元気に言いますと、前掛けのどんぶりの中にフスマの混じった粉で焼いた堅焼きのビスケットを詰め込みました。
 鍛冶屋と料理長は肩を組み、小さな袋から煎った空豆をつまんでかりかりかじり、前掛けのどんぶりからビスケットを出してぽりぽりかじりしながら、台所を出て行きました。
 鍛冶屋と料理長が行き着いたのは、刈り取った毛玉牛の毛を糸に紡いで布に織る作業場の隅でした。
 もちろん、村で一番の金持ち長者がそこにいるはずはありません。やせっぽち女織工たちがいるだけです。
 織工長の老嬢は威張った声で言いました。
「ねえ鍛冶屋、ここの鋏を全部研いでおくれ。一本だって残らずだよ」
 それから料理長に向かって、やっぱり威張った声で言いました。
「ねえ料理長、ここの織工たち全部に何か食べさせてやっておくれ。一人だってのこらず腹一杯にだよ」
 実を言いますと織工たちは、村一番の金持ち長者から美しい織物を百反つくれと言われているのに、錆びた鋏のせいで作業が進まず、一昨日の夜から食べたり休んだりしていないのです。
「解った解った。その代わり、全部済んだら長者様に会わせておくれよ」
 鍛冶屋と料理長は声を揃えて言いました。
 作業場には百と五本の錆びた鋏があり、百と五人の織工がいましたが、鍛冶屋はあっという間に鋏を全部研ぎ上げ、料理長はみなに堅焼きのビスケットを配って回りました。
 道具が治ったうえにおなかが一杯になったので、織工たちは大喜びして仕事にかかりました。
 糸車が回り、手機が音を立て、見る間に反物ができあがってゆきます。
 織工長がたいそう驚いて、
「これは一体どうしたんだい?」
 とたずねますので、鍛冶屋は煎り豆の詰まった袋を取り出して、料理長と二人で口を揃えて、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 鍛冶屋と料理長が歌うように話すのを聞いているうちに、織工長の威張ってとんがった顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 なぜだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いに織工長は節に会わせて足を踏みならして踊っておりました。
「さあ、長者様の所に案内しておくれ」
 鍛冶屋は小袋から煎った空豆をひとつ出して、料理長は前掛けのどんぶりからビスケットを一つ取り出して、織工長に渡しました。
 織工長は豆とビスケットを口の中に放り込み、
「よし、私も一緒に長者様の所へ行きましょう」
 元気に言いますと、スモックのポケットの中に毛玉牛の毛を細く細く紡いだ糸を一綛押し込みました。
 鍛冶屋と料理長と織工長は肩を組み、煎った空豆をかじりビスケットをかじりしながら、作業場から出て行きました。
 鍛冶屋と料理長と織工長が行き着いたのは、大きな風車のある粉碾き小屋の前でした。
 もちろん、村で一番の金持ち長者がそこにいるはずはありません。やせっぽちの人足たちがいるだけです。
 人足頭の中年男はほつれた上着の胸をグンと反らせて怒鳴りました。
「おい鍛冶屋、ここの歯車を全部磨くんだ。一つだって残さずにだぞ」
 それから料理長に向かって、やっぱり威張った声で言いました。
「こら料理長、ここの人足たち全部に何か喰わせるんだ。一人だってのこらず腹一杯にだぞ」
 それから織工長に向かって、やっぱり威張った声で言いました。
「やい織工長、ここの麦袋を全部を繕うんだ。一袋だって残さずだぞ」
 実を言いますと人足たちは、村一番の金持ち長者から蔵の麦を百袋分だけ粉に碾けと言われているのに、錆びた歯車が回らないせいで作業が進まず、の夜から食べたり休んだりしていないのです。
「解った解った。その代わり、全部済んだら長者様に会わせておくれよ」
 鍛冶屋と料理長と織工長は声を揃えて言いました。
 粉碾き小屋には百と五個の錆びた歯車があり、百と五人の人足がいて、百と五つの袋がありましたが、鍛冶屋はあっという間に歯車を全部研ぎ上げ、料理長はみなに堅焼きのビスケットを配って回り、織工長は瞬く間に袋を縫い上げました。
 道具が直った上に、お腹が一杯になり、袋も整ったので、人足たち大喜びして仕事にかかりました。
 風車が回り、臼が動き、見る間に粉が碾きあがって袋に詰められてゆきます。
 人足頭がたいそう驚いて、
「これは一体どうしたっていうんだ?」
 とたずねますので、鍛冶屋は煎り豆の詰まった袋を取り出して、料理長と織工長と三人で口を揃えて、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 鍛冶屋と料理長と織工長が歌うように話すのを聞いているうちに、人足頭の威張ってとんがった顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 なぜだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いに人足頭は節に会わせて足を踏みならして踊っておりました。
「さあ、長者様の所に案内しておくれ」
 鍛冶屋は小袋から煎った空豆をひとつ出して、料理長は前掛けのどんぶりからビスケットを一つ取り出して、人足頭に渡しました。
 人足頭は豆を口の中に放り込み、ビスケットをほおばり、
「長者様の所に案内してやりたいが、こんなぼろを着た格好では、きっとあってくれないだろうよ」
 とつぶやきました。
 そこで織工長がシャツのほつれを美しく繕いました。
 人足頭はたいそう喜んで、
「よし、長者様の所に案内しよう」
 元気に言いますと、何故かその場にどっかりと座り込みました。
「一体どういうことだね?」
 鍛冶屋がたずねますと、人足頭はにこにこと笑って言いました。
「案内はするが、連れては行かないよ」
「一体どういうことだね?」
 料理長が聞きますと、人足頭はにこにこと笑って言いました。
「ここにいるのが何よりの案内だからさ」
「一体どういうことだね?」
 織工長が聞きますと、人足頭はにこにこと笑って言いました。
「もうじき長者はここに来るんだ。だって、風車が回ったからね。きっと粉のことで催促にくるに違いないのさ」
「なるほどそれはそうかもしれない」
 鍛冶屋と料理長と織工長はそれぞれにうなずくと、人足頭を囲むようにしてその場に座りました。
 何しろみながみな、今朝や昨晩や一昨日や一昨昨日から働きづめに働いていましたから、すっかり疲れていたからです。
 脚は棒のようにかちこちですし、目は兎のように真っ赤です。
 それでもお腹の中から力が湧き上がってきて、黙りこくってはおられないほど楽しい気持ちが体に満ちておりました。
 ですから、誰が指揮をとるでもなく、誰が口火を切るでもなく、自然にみんなで歌を歌い出したのです。
 石の小屋の老夫婦が歌うように語ったあの話を、その場所にいた者全員が、大きな声で合唱したのでした。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 大きな歌声は、風車小屋の壁に跳ね返り、織物の作業場の壁に跳ね返り、台所の壁に跳ね返り、敷地を囲む塀に跳ね返って、益々大きくなりました。
 風車小屋では人足たちが声を揃えますし、織物の作業場では織工の娘たちが声を揃えますし、台所では下働きの者達が声を揃えました。
 歌声は村一番の金持ち長者さまの屋敷中に響きました。そればかりか、屋敷の外の麦の畑や、ぶどうの畑や、亜麻の畑や、チーズの加工場や、ぶどう酒の酒蔵や、リネンの保管庫や、遠く遠くの毛玉牛の牧場にまで響いたのです。
 仕事をしている人たちの疲れた顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 みんななぜだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いには長者の屋敷で働いている人々全員が、節に会わせて足を踏みならして踊り出しました。
 これに驚いたのは、誰ありましょう、村で一番の金持ち長者です。
 長者はお屋敷の門から一番遠い棟の、一番高い所にある、一番日当たりの良い、一番広い部屋におりました。
 部屋の四方はみな窓が開いていて、お屋敷の中も、遠くの畑も、無効の牧場も、それから村中の全部が手に取るように見渡せます。
 長者が東の窓から顔を出しますと、麦畑で働く者たちが、みな楽しげに歌い踊っているではありませんか。
「これは一体何事だ?」
 西の窓から顔を出しますと牧場で働く者達が、みな楽しげに歌い踊っているのが見えました。
「これは一体何事だ?」
 北の窓から顔を出しますと、織物の作業場で働く者達が、みな楽しげに歌い踊っているのが見えました。
「これは一体何事だ?」
 最後に北の窓から顔を出しますと、大きな風車がぐるぐると回ってい、その下で粉碾きをして働く者達が、みな楽しげに歌い踊っているのが見えました。
「これは一体何事だ?」
 長者はあわてて番頭を呼びました。番頭はいつも長者の部屋の隣にある狭い控えの部屋におりますので、小さな呼び鈴をチリンチリンチリンと三度振れば、すぐにやってきます。
 すぐに来なければ長者が酷く怒るので、番頭は一度目の小さなチリンで部屋から飛び出すようにしているのです。
 ところが、今日に限っては番頭はやってきません。
 なにしろ、屋敷の内外でみなが歌って踊っておりますから、その声も足音も、耳が破けてしまいそうなくらいに大きくて、小さな呼び鈴のチリンチリンチリンという音はきれいさっぱりかき消されてしまい、番頭の耳にはちっとも聞こえなかったのです。
 実を言いますと、番頭も外から聞こえる歌の声を聞いているうちに、なんだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いには狭い控えの部屋の中で歌い踊っていたのですけれども。
 屋敷中、牧場中、畑中、工場中のみなが歌い踊るその声と足踏みとは、長者にはそれはそれは酷く騒がしい音に聞こえました。
 村で一番の金持ち長者は両の手で両の耳を塞ぎました。ほんの少し音が小さくなったような気がしましたので、長者は大声を上げました。
「誰かいないのか!? このうるさい音は、いったい何の騒ぎだ!」
 誰の返事も聞こえませんので、長者は脚をドタバタと踏みならして、声をギャンギャンと張り上げました。
「ええい、うるさい! 静かにしないか!」
 ですが、ドタバタはみなの踊りの足音でかき消されましたし、ギャンギャンもみなの歌の声でかき消されてしまいました。
 村で一番の金持ち長者は両の人差し指を両の耳の穴に差し込みました。だいぶん音が小さくなったような気がしましたので、長者はもう一度叫びました。
「誰かいないのか!? このうるさい音は、いったい何の騒ぎだ!」
 それでも誰の返事も聞こえませんでした。
 もっとも、誰かが返事をしたところで、長者は両耳を塞いでいるのですから、返事の声など聞こえるはずもないのですけれども。
 屋敷中、牧場中、畑中、工場中のみなが歌い踊るその声と足踏みは、終いには長者の屋敷の壁という壁、柱という柱をビリビリと揺すぶり始めました。
 天井からぱらぱらと、埃のような砂粒のようなものが降ってきて、村一番の金持ち長者の頭の上に白く積もりました。
 長者は音と揺れとに耐えられなくなって、お屋敷の門から一番遠い棟の、一番高い所にある、一番日当たりの良い、一番広い部屋から飛び出しました。
 村一番の金持ち長者は、両の人差し指で両の耳の穴を塞ぎ、長い長い階段を駆け下りて、長い長い廊下を駆け抜けて、広い広い中庭を突っ切って、広い広いお屋敷中を走り回りました。
 何処に行っても騒がしい歌は聞こえますし、何処に行っても騒がしい足音は止みません。
 走り回った長者は疲れ果てて、顎が上がり、ぜいぜいと息を吐きました。
「これは一体どういうことだ」
 思わず、天を仰ぎますと、南に向かって羽を広げる背の高い大きな風車が、ぐるりぐるりと勢いよく回っているのが見えました。
 長者は一昨々日の夕方、粉碾きの人足頭に麦を挽いて粉を百袋作るように命令したことを思い出しました。
 村一番の金持ち長者はフラフラとした足取りで、粉碾き小屋に向かいました。
 粉碾き小屋の前では、人足頭と職工長と料理長と、それから鍛冶屋が、車座になって座っておりました。
 そして口を揃えて、石の小屋の老夫婦が歌うように語ったあの話を、不思議な節廻しで歌っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村一番の金持ち長者は驚きました。そして腹が立ちました。
「一体お前たちはなにをしているんだ。こんなところで、仕事もせずに!」
 精一杯の大きな声で怒鳴りつけたのですが、人足頭も、職工長も、料理長も、鍛冶屋も、長者に気がつきません。
 みなが声を合わせて歌う大きな響きに、他の声は全部かき消されてしまって、ちっとも聞こえないのです。
 とうぜん、誰も返事をいたしませんから、長者はますます腹を立て、脚をドタバタと踏みならして、声をギャンギャンと張り上げました。
「一体お前たちはなにをしているんだ。こんなところで、仕事もせずに!!」
 長者は喉が破れて血が出るのではないかと思うくらい、大きな声で叫びました。
 すると、粉碾きの人足頭が顔を上げました。
「おお、長者様がいらした。ほうら、俺の言ったとおりだろう?」
 粉碾き小屋はいつも歯車や石臼の回る大きな音が響いていますから、人足頭の耳は大きな音の外から聞こえる別の音を聞き分けるのが達者なのです。
 職工長も頭を上げました。
「おや、長者様がいらした。人足頭の言ったとおりね」
 織物の作業場はいつも機織りの機械や糸紡ぎの車が動く大きな音が響いていますから、職工長の耳は大きな音の外から聞こえる別の音を聞き分けるのが達者なのです。
 料理長も顔を上げました。
「おや、長者様がいらした。人足頭の言ったとおりだ」
 お屋敷の台所はいつもカマドの大なべやオーブンの金具がぶつかり合う大きな音が響いていますから、料理長の耳は大きな音の外から聞こえる別の音を聞き分けるのが達者なのです。
 それから鍛冶屋も顔を上げました。
「ああ、長者様がいらっしゃった。人足頭の言ったとおりに」
 鍛冶の仕事場はいつもごうごうと燃える炉や鉄を打つ槌の大きな音が響いていますから、鍛冶屋の耳は大きな音の外から聞こえる別の音を聞き分けるのが達者なのです。
 四人の職人は同時に顔を上げ、同時に腰を上げ、同時に声を上げました。
「長者様、長者様、お話があります、きいてください」
 村で一番の金持ち長者が怒鳴り声を上げようと口を開きかけたその時に、粉碾きの人足頭が言いました。
「長者様、長者様。すっかり遅くなりましたが、小麦の粉が百袋できました。さあさあ粉碾き小屋の中に入って、袋の数を数えてください」
 長者は大変驚きました。つい今朝方まで、風車が真っ当に回らなかったことも、粉の袋が全部破れていたことも、長者はちゃんと知っていたからです。
 それでいて長者は、石臼が回らなくても麦を碾けと命じ、入れても入れても穴から溢れるので満杯にならない百の袋を粉で満たせと命じていたのでした。
 人足たちができないと泣きついてきたら、仕事ができないことを理由にして、全員をクビにするつもりだったからです。
 そうすれば、人足たちに給料を払わずに済むだろうと考えていたのです。
 長者の目論見は外れてしまったのですが、命じた仕事が終わっているのですから、大声で怒鳴るわけには行きません。
 村で一番の金持ち長者は、怒鳴るために開けた口から、
「ああそうかね」
 という声をようやく出しました。すこし口惜しい気分でしたから、声は小さくてもとげとげとしていました。
 すると小さな声を出した口が閉じきるその前に、織工長の老嬢が言いました。
「長者様、長者様。すっかり遅くなりましたが、美しい反物が百反できあがりました。さあさあ作業場にいらして、布の数を数えてください」
 長者は大変驚きました。つい今朝方まで、鋏が真っ当に切れなかったことも、手機が動いていなかったことも、長者はちゃんと知っていたからです。
 それでいて長者は、糸が切れなくても布に織れ、糸がなくても機を動かして百の織物を織り上げろと命じていたのでした。
 織工たちができないと泣きついてきたら、仕事ができないことを理由にして、全員をクビにするつもりだったからです。
 そうすれば、織工たちに給料を払わずに済むだろうと考えていたのです。
 長者の目論見は外れてしまったのですが、命じた仕事が終わっているのですから、大声で怒鳴るわけには行きません。
 村で一番の金持ち長者は、閉じかけていた口を開いて、
「ああそうかね」
 という声をようやく出しました。とても口惜しい気分でしたから、声は小さくてもとげとげとしていました。
 すると小さな声を出した口が閉じきるその前に、やせっぽちの料理長が言いました。
「長者様、長者様。すっかり遅くなりましたが、美味しい料理が百人前できあがっています。さあさあ食堂にいらして、皿の数を数えてください」
 長者は大変驚きました。つい今朝方まで、包丁が真っ当に切れなかったことも、ナイフが全部さび付いていたことも、長者はちゃんと知っていたからです。
 それでいて長者は、食材を刻めなくても料理を作れ、料理がなくても百の皿を満たせと命じていたのでした。
 料理人たちができないと泣きついてきたら、仕事ができないことを理由にして、全員をクビにするつもりだったからです。
 そうすれば、料理人たちに給料を払わずに済むだろうと考えていたのです。
 長者の目論見は外れてしまったのですが、命じた仕事が終わっているのですから、大声で怒鳴るわけには行きません。
 村で一番の金持ち長者は、閉じかけていた口を開いて、
「ああそうかね」
 という声をようやく出しました。大変口惜しい気分でしたから、声は小さくてもとげとげとしていました。
 すると小さな声を出した口が閉じきるその前に、鍛冶屋が言いました。
「長者様、長者様。すっかり遅くなりましたが、今日はお話があってまいりました」
 村で一番の金持ち長者は、鍛冶屋の顔を見てたいそう驚きました。
 鍛冶屋には、広いぶどう畑を耕すためのたくさんの鋤と、広い麦畑をを刈り取るためのたくさんの鎌と、広い敷地を見回るためのたくさんの馬具と、広いお屋敷の戸締まりをするためのたくさんの錠を作らせたのですが、その代金をまだ銅貨一枚分だって払っていなかったからです。
 ですから長者は、鍛冶屋が代金を取りに来たのだと思いました。そうして、どうしても払いたくないとも思いました。
 払うお金がないのではありません。何しろ村で一番の金持ち長者ですから、金蔵にはたくさんの金貨や銀貨や銅貨が袋に入って、小箱に入って、大箱に入って、鍵をかけられて、しまわれています。
 村で一番の金持ち長者は、しまったお金を金蔵から取り出すことが、何よりも嫌いだったのです。
 鍵を外すのも、大箱のふたを取るのも、小箱のふたを開けるのも、袋の紐をほどくのも、絶対にやりたくないことでした。
 そんなことをしたら、折角貯め込んだお金が、減ってしまうからです。
 長者は閉じかけていた口を大きく開いて、
「金などないぞ、金などないぞ。お前に払う金などは、一文だって有りはしない」
 と怒鳴りました。
 それからげんこつを握って振り上げました。
 それで鍛冶屋を殴るつもりはありません。
 人を殴ったら手が痛くなります。長者は痛いのは大変嫌いでした。それに万一ケガでもしたら手当をしなければなりません。高い薬や治療の代金を医者に払ったりするのはもっと嫌いです。
 普段でしたら、長者がげんこつを振り上げるのを合図に、番頭や若い使用人が出てきて、長者のようにげんこつを振り上げ、長者のかわりにげんこつを振り下ろすのですけれども、今日は誰一人長者のところにやってきません。
 みな不思議な歌を歌い、不思議な拍子で踊るのに夢中で、長者が何を言っても聞こえず、何をやっても見えないのです。
 仕方なく長者は、げんこつを振り上げたまま、大きな声で鍛冶屋に怒鳴りつけました。
「さあこの屋敷から今すぐ出て行け!」
「それは残念です。石の壁の小屋のおじいさんとおばあさんが、神殿で御使いのからお告げを受けて、言われたとおりに育てたなら、お告げの通りにその日の内に実った、食べても別けてもちっとも減らない、不思議な豆の話をお教えしようと思っていましたのに」
 鍛冶屋は煎り豆の詰まった小袋を、顔の前に持ち上げました。
「何だって!?」
 長者は怒鳴るのとは別な色の大きな声を出しました。
 そうして、振り上げたげんこつをほどいて、その手を鍛冶屋の肩の上にのせますと、
「面白そうな話だ。ぜひとも聞かせておくれ」
 目を輝かせて言いました。
 村で一番の金持ち長者が話を聞きたいと思ったそのわけは、顔を見知っている石壁の小屋の老夫婦のことだからではなく、神殿の御使いの話だからでもなく、お告げの通りに豆が育った不思議な話だからでもありません。
 食べても別けてもちっとも減らないというのに、心惹かれたのです。
 村で一番の金持ち長者は、たくさんの畑と、たくさんの家畜と、たくさんの使用人の働きで、たくさんの蓄えを持っています。
 ですが、パンを食べれば麦の粉は減りますし、服を作れば布や糸が減りますし、買い物をすればお金は減ってしまいます。
 長者はそれが口惜しくてなりませんでした。
 端から見ますと、長者の蓄えは減った以上に増えておるように思えます。畑はどんどん広がっていて、毛玉牛はどんどん数が増えていて、使用人はどんどんクビになっているのですから。
 しかし長者は満足できません。
 できることなら麦の粒一つ、毛玉牛の毛一本、銅貨の一枚だって外に出したくはないのです。
 なにしろこの長者は、吸い込んだ息を吐き出すことがもったいなくて、どうすれば息を吐かずにしゃべれるのかを、医者や学者に調べさせたことがあるくらいの人なのです。その方法が判れば、医者や学者はたくさんの礼金をもらえるという約束でした。
 もちろん、息を吐かずにしゃべることなどできません。そのことを正直に申した医者や学者は、礼金をもらうどころか、屋敷から文字通りにけり出されてしまったのですけれども。
 そんなわけですから、村で一番の金持ち長者は、鍛冶屋が「食べても減らない豆」と言ったのに、心を惹き付けられたのでした。
 長者は鍛冶屋の両の肩をがっしりと掴んで言いました。
「もったいを付けるな。早く話せ」
 あんまり強く掴まれたので、鍛冶屋は肩が痛くて仕方がありません。
「もったいなど付けませんよ。今最初から話しますから」
 なだめるように言いますと、すぅっと息を吸い込んで、
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた」
 と、歌うような調子で話し始めました。
 ところが、まだ最初の一言を言い終わる前に、長者が掴んでいた鍛冶屋の両の肩を前後に揺さぶって
「年寄りの話などどうでも良い! 豆の話をするんだ」
 大きな声で怒鳴りました。
 肩は痛みましたし、耳はキンキンとしましたので、鍛冶屋は少し驚きましたが、
「二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった」
 と続きを話しました。
 すると、その言葉が終わる前に、長者は鍛冶屋の両の肩を、こんどは左右に揺さぶって、
「神殿などどうでも良い! 豆の話をするんだ」
 もっと大きな声で怒鳴りました。
 鍛冶屋はかなり驚きましたので、少し慌てて
「心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて……」
 と言いかけました。
 すると、言葉の途中だというのに、長者は鍛冶屋の両の肩を、前後左右に揺さぶって、
「御使いなどどうだって良い! 豆の話をするんだ」
 もっともっと大きな声で怒鳴りました。
 肩はとても痛みましたし、耳はビリビリとしましたので、鍛冶屋はとても驚きました。そうして、
「判りました、豆の話だけしましょう。ですから肩を揺さぶるのは止めてくださいまし」
 残念そうな声音で言いました。
 長者は大変嬉しそうに笑い、鍛冶屋の肩から手を放しました。
 鍛冶屋は一つ息を吐いてから
「煎った豆を蒔いて、酸っぱい上澄みで育てましたら、たくさんの豆が実りました」
 早口で言いました。
「煎った豆を蒔いて、酸い水で育てるのか?」
 鍛冶屋が何か言いかけましたが、村で一番の金持ち長者は、まるで怒鳴り声で彼の口を口を塞ぐような勢いで続けました。
「それだけ判れば充分だ。さあもうお前には用はない。さっさと屋敷から出て行くがいい」
 鍛冶屋は、一番大切なことをちゃんと話していないと思いましたけれども、長者はもう何を話しても聞いてくれないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 鍛冶屋がいなくなってしまったので、お屋敷の敷地と畑と牧場とで響いておりました大きな声も、いつの間にか消えてしまいました。
 鍛冶屋があのうねりのような歌の中心だったからです。
「煎り豆はどこだ!? 我が家で一番大きくて、一番つやつやしていて、一番上等な煎り豆を持ってこい!」
 あたりはすっかり静かになっっているというのに、長者は前と変わらない大きな声で言いました。
 料理長と職工長と人足頭は慌てて耳を塞ぎ、口々に、てんでバラバラに、ちっとも揃わない声で言いました。
「台所で探してみます」
「納戸で探してみます」
「蔵で探てみます」
 料理長と職工長と人足頭は三つの方向に駆け出しました。
 使用人たちの食事を作る狭い台所に着いた料理長は、台所中を探し回りました。
 戸棚の中、床下の倉庫、鍋の中、お皿の一枚一枚、カップの一つ一つ……。
 そうしてやっと大きなパン焼き窯の隅っこの灰の中から、ころりと一粒の黒くて焦げ臭い硬くなった空豆を見つけました。
 料理長は豆を前掛けに包んで、長者の元に駆け戻りました。
 織物の材料と布と道具をしまう小さな部屋に着いた職工長は、部屋中を探し回りました。
 棚の上、戸袋の中、行李の中、小箱の一つ一つ、麻袋の一つ一つ……。
 そうしてやっと小さな窓の枠の上の綿埃の中から、ころりと一粒の灰色でカビ臭い硬くなった空豆を見つけました。
 職工長は豆をエプロンに包んで、長者の元に駆け戻りました。
 小麦以外の雑穀を積み上げておく古い蔵に着いた人足頭は、蔵の中を探し回りました。
 レンズ豆の袋の下、ひよこ豆の袋の下、イナゴ豆の袋の下、箱と箱の間の一個所一個所、袋と袋の間の一隙間一隙間……。
 そうやってやっと土壁に開いた鼠の穴の土埃の中から、ころりと一粒の土気色で獣臭い硬くなった空豆を見つけました。
 人足頭は豆を前掛けに包んで、長者の元に駆け戻りました。
 戻ってきた三人は、それぞれに持ってきた豆を、長者の前に差し出しました。
 長者は三つの豆を奪うようにして受け取りました。
 そうして今度は、
「酸っぱい水はどこだ!? 我が家で一番酸っぱくて、一番濁っている、一番上等な上澄みの汁を持ってこい!」
 あたりはすっかり静かになっっているというのに、長者は前と変わらないどころか、前よりも一層大きな声で言いました。
 料理長と職工長と人足頭は慌てて耳を塞ぎ、口々に、てんでバラバラに、ちっとも揃わない声で言いました。
「台所で探してみます」
「納戸で探してみます」
「蔵で探てみます」
 料理長と職工長と人足頭は三つの方向に駆け出しました。
 台所に着いた料理長は、台所中を探し回りました。
 飲み水の桶、お酒の壺、油の瓶、お鉢一つ一つ、お椀の一つ一つ……。
 そうしてやっと生ゴミを捨てるバケツの中から、硬くなったチーズをひとかけら見つけました。
 料理長はチーズを水差しに入れてふたをしますと、長者の元に駆け戻りました。
 納戸に着いた職工長は、部屋中を探し回りました。
 染料の桶、色止め薬の壺、機械に指す油の瓶、染料皿の一枚一枚、糸くず入れの一つ一つ……。
 そうしてやっと麻を浸けたあとの酸っぱい臭いのする水を見つけました。
 職工長は豆を手桶に汲んで桶の上をボロ布で覆いますと、長者の元に駆け戻りました。
 古い蔵に着いた人足頭は、蔵の中を探し回りました。
 葡萄のお酢の瓶、林檎のお酒の樽、菜種の油の樽、瓶と瓶の間の一個所一個所、タルトたるの一隙間一隙間……。
 そうやってやっと雨漏りのしたたりが溜まった濁った水たまりを見つけました。
 人足頭は濁った水を瓶にすくってコルクで栓をしますと、長者の元に駆け戻りました。
 戻ってきた三人は、それぞれに持ってきた水を、長者の前に差し出しました。
 長者は三つの水の入れ物を奪うようにして受け取りました。
 そうしてにんまりと笑って言いました。
「豆が三粒、水が三杯もあるのだから、実も三倍に成るだろう。蔵の中が豆であふれて、しかも減ることはない」
 村で一番の金持ち長者は、料理人に向かって言いました。
「もうお前など用無しだ。食べてもなくならない豆があるのだから。さっさと屋敷から出て行くがいい」
 料理長は、豆は料理しないと食べられないのだということを話そうとは思いましたけれども、長者はもう何を話しても聞いてくれないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 次に、村で一番の金持ち長者は、職工長に向かって言いました。
「もうお前など用無しだ。決して減らない豆という財産があるのだから。さっさと屋敷から出て行くがいい」
 職工長は、豆があっても布がなければ着る物がなくなるということを話そうとは思いましたけれども、長者はもう何を話しても聞いてくれないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 それから、村で一番の金持ち長者は、人足頭に向かって言いました。
「もうお前など用無しだ。蔵一杯になってもまだ余る豆があるのだから。さっさと屋敷から出て行くがいい」
 人足頭は、豆はそのままでは腐ってしまうのだということを話そうとは思いましたけれども、長者はもう何を話しても聞いてくれないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 それぞれの頭がみなお屋敷を出て行きましたので、それぞれの下で働いていた者達もみなお屋敷から出て行きました。
 村で一番の金持ち長者は、三粒の豆を握りしめ、三種類の入れ物を抱えますと、自分の持っている畑の中の、一番土の肥えた、一番日当たりの良い、一番水の豊富な場所に行きました。
 ちょうど小作人たちがが鍬で地面を耕しているところでしたが、長者は押し退けるようにして彼等を追い払ってしまいました。
「もうお前など用無しだ。いくら食べてもいくら使っても減らない豆を蒔くのだ。もう畑を耕す人間はいらない。さっさとこの土地から出て行け!」
 小作人の頭は、豆を蒔いたらその後に肥をやったり草取りをしたりとたくさんの世話をしないとならないのだということを話そうとは思いましたけれども、長者には何を話しても聞いてもらえないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 頭がお屋敷を出て行きましたので、下で働いていた者達もみなお屋敷から出て行きました。その様子を遠くから見ていた他の畑の小作の人たちも、仲間と一緒に出て行きました。
 誰もいなくなった畑に残った長者は、
「さあ蒔くぞ、豆蒔くぞ。食べても減らない豆蒔くぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、畑の真ん中の良く耕された地面に、大きくて深い穴を三つ掘り下げました。
 一つの穴に毛玉牛の子が一匹丸々入りそうな暗いに、大きくて深い穴でした。
 穴を掘り終わりますと長者は、
「さあ蒔くぞ、豆蒔くぞ。食べても減らない豆蒔くぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、それぞれの穴に一粒ずつ豆を投げ込みました。
 一つの穴の底に真っ黒焦げの豆がぽつんころころ、真ん中の穴の底にカビだらけの豆がぽつんころころ、残りの穴の底に鼠の糞まみれの豆がぽつんころころと落ちました。
 種を巻き終わりますと長者は
「さあ蒔くぞ、豆蒔くぞ。食べても減らない豆蒔くぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、それぞれの穴にたっぷりと土を投げ込んで、最期にその上に飛び乗って踏みつました。
 一つの穴の上で三度、次の穴の上で三度、最期の穴の上で三度、どすんどすんと飛び跳ねましたので、地面は鏡のように固く平らになりました。
 土をならし終わりますと長者は
「さあ蒔くぞ、豆蒔くぞ。食べても減らない豆蒔くぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、古いチーズの溶けた水と、麻の茎を腐らせたあとの残り水と、雨漏りの泥水を、一度に全部撒きました。
 硬く踏まれた地面には、水が中々浸みませんので、三種類の水が混じった物は、そのまま水たまりになりました。水たまりからは、酸っぱいような腐ったような埃っぽいような、へんてこで厭な臭いが立ち上りました。
 村一番の金持ち長者は
「さあ蒔いたぞ、豆蒔いたぞ。食べても減らない豆蒔まいたぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、水たまりを真上から覗き込みました。すぐにでもここから芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実ると思ったからです。
 おかげで長者は、酸っぱいような腐ったような埃っぽいような、へんてこで厭な臭いを胸一杯に吸い込んでしまいました。とても気分が悪くなって、吐き気もしてきましたので、長者は顔を背けて、そこから逃げ出したい気分になりました。
 それでも、すぐに芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実るのだと思いましたので、ぐっと堪えて踏ん張って、中々浸みてゆかない水たまりをじっと見つめておりました。
 日がとっぷりと沈み、空は暗くなりました。
 固い地面の水は中々浸みてゆかず、深いところに埋められた豆は土の中でからからに乾いておりました。
 すぐにでも芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実ると思っておりました長者でしたが、
「三倍の豆を蒔いて三倍の水を撒いたのだからきっと三倍の時間がかかるに違いない」
 と思い直しました。そして、暗闇の中に目を凝らし、
「さあ芽吹け、豆芽吹け。食べても減らない豆芽吹け」
 と、口の中でもごもごと言いながら地面を睨み付けました。
 細い細い月が頭の上まで登り切って、遠くで山犬が遠吠えする声が聞こえるようになった頃、へんてこで厭な臭いのする水がぜんぶ地面に染み込んで、ようやっと水たまりがなくなりました。
 じつは、長者が穴を深く掘りすぎておりましたので、水が全部浸みても、豆は土の中でからからに乾いておりました。
 そのようなことは、土の上から眺めている長者には判らないことでした。けれども、すぐにでも芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実ると思っていたものですから、すこしイライラとしてまいりました。
 それでも、
「三倍の豆を蒔いて三倍の水を撒いたのだからきっと三倍の時間がかかるに違いない」
 と思い直し、
「さあ芽吹け、豆芽吹け。食べても減らない豆芽吹け」
 と、口の中でもごもごと言いながら地面を睨み付けました。
 どんなに地面を見つめていても芽が出るどころか、土の固まり一つ、砂の粒一つ動く気配はありません。

 ビュゥと冷たい音を立て、夜風が吹き抜けました。
 風の音が去ったあと、村で一番の金持ち長者のお腹から、ギュゥとねじれた音が鳴りました。
 そういえば晩のご飯を食べておりません。
 ご飯を食べに行こうにも、今ここを離れてしまっては、折角撒いた豆からすぐに芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実るところが見られなくなってしまうかもしれません。
 長者は立ち上がって背伸びをし、広い敷地の真ん中の、大きく立派なお屋敷の方へ目玉を向けました。
 右を向いても左を向いても、お屋敷の影も形も見えません。
 元より、とってもけちんぼな長者の言いつけで、夜になってもランプもろうそくも使わないお屋敷ですから、今日のように月の明かりが弱い夜には、真っ暗な闇の中に沈み込んでしまうのです。
 村で一番の金持ち長者は大きな声で叫びました。
「ここに食事を持ってこい!」
 普段なら、誰かが慌てて跳んできて、長者のいいつけをすぐに聞いてくれます。
 でも今は、誰一人長者の所へご飯を運んでは来ませんでした。
 それも当然のことです。なぜなら、長者が自分で屋敷で働いている人たちを、全部屋敷から追い出してしまったのですから。
 広い敷地の何処にも、大きな屋敷の何処にも、長者のいいつけを聞いて働く人はおりません。
「ええい、何奴も此奴も怠け者ばかりだ! 早く食事を運んでこんか!」
 長者は足をばたばたと踏みならし、腕をぐるぐる振り回し、ツバキをぺっぺと吐き散らして怒鳴りました。
 それでも誰も来られる筈がありません。返事をする者すらも、一人だっていないのです。
 見えるのは暗闇ばかり、聞こえるのは自分のお腹の音ばかり。さすがに長者は心細くなりました。
 地面をちらりと見ましたが、豆から芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実る様子はありません。
 お腹が空いて空いてたまらなくなった村で一番の金持ち長者は、とうとうお屋敷に戻ってご飯を食べる決心をいたしました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。屋敷へ行く道は何処だろう?」
 真っ暗な畑の中をとぼとぼと歩き始めた長者は、ふわふわに耕された地面に足を取られて転びました。
 あんまり暗いので、足元がちっとも見えなかったからです。
 長者は足首をひねって痛めてしまいました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。屋敷へ行く道はこちらだろうか?」
 真っ暗なあぜ道を足を引きずって歩き始めた長者は、きれいに刈り込まれた生け垣にぶつかって転びました。
 あんまり暗いので、一歩先もちっとも見えなかったからです。
 長者は腕を棘のある木の枝で引っ掻いて血を出してしまいました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。屋敷へ入る口はどこだろう?」
 真っ暗な通路をとそろそろと歩き始めた長者は、頑丈なレンガの壁にぶつかって転びました。
 あんまり暗いので、前がちっとも見えなかったからです。
 長者はおでこを固い壁にぶつけてコブを作ってしまいました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。食事は一体どこにあるだろう?」
 真っ暗な庭を手探りで歩き始めた長者は、立派なドアにぶつかって転びました。
 あんまり暗いので、何にも見えなかったからです。
 長者は尻餅をついて腰を痛めてしまいました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。ここは一体何処だろう?」
 真っ暗な廊下を這い蹲って歩き始めた長者は、テーブルの脚にぶつかりました。
 たんこぶのできたおでこにテーブルの脚の角っこをぶつけたものですから、長者は痛さのあまり豆のサヤがはじけたときのような勢いで身を起こしました。
 長者の頭は、テーブルの天板の裏側にぶつかりました。
 あんまり勢いよくぶつかったものですから、テーブルは大きな音を立ててひっくり返りました。
 テーブルがひっくり返ったものですから、テーブルの上にあった物も全部ひっくり返りました。
 パンが転げてぽとん。
 チーズが転げてごろん。
 ワインがこぼれてばしゃん。
 スープがこぼれてびちゃん。
 お皿が割れてぱりん。
 コップが割れてがちゃん。
 料理は全部で百人分。
 お屋敷から追い出された料理長が、追い出される前に作り上げた、百人分のご馳走が、転げてこぼれて散らばって、全部が大きな音を立て、全部が床に広がって、全部がダメになってしまいました。
 村で一番の金持ち長者は、真っ暗闇の中でただただ口をぽかんと開けておりました。
 お腹がぐぅと悲鳴を上げましたが、食べるものはありません。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った」
 長者はがっくりと肩を落とし、床にぺたんと座り込みました。
 灯りも火もないお屋敷は、深々と冷えております。立派な石を敷き詰めたお屋敷の床は、氷のように冷えておりました。
 村で一番の金持ち長者のおしりがじんじんと冷えました。
 痺れるような冷たさは、脚をつたってつま先に届き、背骨をつたって頭の先に届き、腕をつたって指先に届き、あっという間に体全部が氷のように冷えてしまいました。
「ああ、冷たい、ああ、寒い」
 村で一番の金持ち長者はもたもたと立ち上がりました。足元の床にはお皿や食べ物が散らかっています。    
 パンが蹴飛ばされてぽとん。
 チーズにつまずいてごろん。
 ワインの壺を踏みつけてばしゃん。
 スープの皿に足を突っ込んでびちゃん。
 お皿の欠片がぱりん。
 コップの破片ががちゃん。
 料理は全部で百人分。
 長者の足はぶつかったり、ひねったり、刺さったり、切れたりしてできた、赤いあざに青いあざに、刺し傷に切り傷で赤黒くなりました。
 長者はつまずかないように踏みつけないようにぶつからないように引っ掛からないように気をつけて、壁に手を付いて、そうっと歩きました。
 ようやっと廊下に出ますと、指の先になにやら当たりました。
 暗闇に目を凝らしますと、それは古い壁掛けの燭台でした。尖った先端に蝋燭の燃えさしがこびりついております。
 長者は大変よろこんで、火を付けました。
 小さな小さな明かりが点きました。手に持てば足元が見えず、床に置けば手元が見えない程に小さな灯でしたが、長者は少しだけからだが温かくなった気がしました。
「温かいところはないか? 温かい物はないか?」
 長者は燭台を手に持って長い廊下を歩き始めました。
 ところが、急いで歩きますと、小さな灯が大きく揺れて、今にも火が消えそうになりました。
「消えてしまう、消えてしまう」
 そこで、ゆっくり歩きますと、小さな灯は大きくなって、すぐにも蝋が燃え尽きそうになりました。
「消えてしまう、消えてしまう」
 長者は早く遅く、遅く早く、壁伝いに廊下を進みました。
 足は冷たくて痛くて、手も冷たくて痛くて仕方がありません。
 どれほど歩いたのかさっぱり判りませんが、ようやく長者は、どこかの部屋にたどり着きました。
 小さな明かりを掲げて部屋を照らしますと、たくさんの織物がたくさんの山になって積まれているのが見えました。
「これは助かった。この布を着込めば、寒くなくなるに違いない」
 大喜びで真っ暗な部屋の中に飛び込んだ長者は、高機の柱の角に脚をぶつけました。
 青あざ赤あざ刺し傷切り傷のできた足を柱の角にぶつけたものですから、長者は痛さのあまり豆のサヤがはじけたときのような勢いで飛び上がりました。
 長者はその拍子に、持っていた燭台をぽんと投げました。
 あんまり勢いよく投げたものですから、燭台は蝋を滴らせながら床に落ちました。
 火の付いた蝋が落ちたものですから、床の上にあった物は全部火の粉を浴びました。
 毛玉牛毛の織物がぷすぷす。
 絹の織物がぼうぼう。
 麻の織物がぱちぱち。
 地機の杼がめらめら。
 高機の枠ががらがら。
 反物は全部で百反分。
 お屋敷から追い出された職工長が、追い出される前に作り上げた、百反分の反物が、燻って焦げて燃え広がって、全部が大きな炎をあげて、全部に次々燃え広がって、全部がダメになってしまいました。
 村で一番の金持ち長者は、真っ赤に燃える炎の前でただただ口をぽかんと開けておりました。
 お腹がぐぅと悲鳴を上げましたが、食べるものはありません。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った」
 総身がブルブルッと震えましたが、着込む物はありません。
「ああ、冷たい、ああ、寒い」
 長者はがっくりと肩を落とし、床にぺたんと座り込みました。
 大きな火が燃える作業場は、熱々に熱せられております。節だらけの板を敷き詰めた床は、炙られて熱くなりました。。
 村で一番の金持ち長者のおしりがじんじんと熱せられました。
 突き刺さるような熱さは、脚をつたってつま先に届き、背骨をつたって頭の先に届き、腕をつたって指先に届き、あっという間に体全部が火のように熱くなりました。
「ああ、熱い、ああ、焼ける」
 村で一番の金持ち長者はもたもたと立ち上がりました。足元の床には反物や機の部品が散らかっています。
 毛玉牛毛の織物の燃えさしが蹴り飛ばされてぷすぷす。
 絹の織物の燃えさしを踏みつけてぼうぼう。
 麻の織物の燃えさしが煽られてぱちぱち。
 地機の杼が転がってめらめら。
 高機の枠に蹴躓いてがらがら。
 反物は全部で百反分。
 長者の足は火に炙られたり、ぶつかったり、まとわりつかれたり、刺さったりしてできた、赤い火傷に青いあざに白いなますに黒いかさぶたでまだら模様になりました。
 長者はつまずかないように踏みつけないようにぶつからないように引っ掛からないように気をつけて、壁に手を付いて、大慌てで走りました。
 ようやっと表へ出ますと、足先に何かが当たりました。
 妙に赤い光の中で目を凝らしますと、それは古いリネンのテーブル掛けでした。すり切れた布地に食べこぼしのシミが残っております。
 長者は大変よろこんで、体にはおりました。
 わずかにわずかに体が温かくなりました。肩に掛ければお腹が出て、お腹に巻けば背中が出てしまう程に小さな布でしたが、長者は少しだけからだに力が出た気がしました。
「温かい場所はないか? 熱くない所はないか?」
 長者はテーブル掛けを頭から被って、赤い光の揺れる中庭を歩き始めました。
 ところが、急いで歩きますと、小さな布はが熱風に煽られて、今にも飛ばされそうになりました。
「飛んでしまう、飛んでしまう」
 そこで、ゆっくり歩きますと、かじかんだ手から力が失せて、今にも布を落としてしまいそうになります。
「落ちてしまう、落ちてしまう」 
 長者は早く遅く、遅く早く、闇雲に庭を進みました。
 足は冷たくて痛くて、手も冷たくて痛くて、体も冷たくて痛くて仕方がありません。
 どれほど歩いたのかさっぱり判りませんが、ようやく長者は、どこかの蔵にたどり着きました。
 手探りで扉を開けますと、たくさんの袋がたくさんの山になって積まれているのが見えました。
「これは助かった。この袋に腰を下ろして寝ころべば、疲れも痛みも取れるに違いない」
 大喜びで広々とした蔵の中に飛び込んだ長者は、粉碾きの石臼の角に脚をぶつけました。
 火傷なます青あざ赤あざ刺し傷切り傷のできた足を大きな石にぶつけたものですから、長者は痛さのあまり豆のサヤがはじけたときのような勢いで飛び転げました。
 長者はその拍子に、持っていたテーブル掛けをぽんと投げました。
 あんまり勢いよく投げたものですから、テーブル掛けはばさばさと音を立てて宙を舞いました。
 あまり大きな音を立てた物ですから、蔵の壁の奥に棲み着いていた鼠達が驚いて、キィキィ鳴きながら走り回りました。
 大鼠が柱にぶつかってごつん。
 子鼠が梁から落ちてどすん。
 小麦の袋が揺さぶられてぐらり。
 小麦粉の袋が崩れてばさり。
 袋は全部で百袋。
 お屋敷から追い出された人足頭が、追い出される前に碾き終えた、百袋分の小麦粉袋が、倒れて崩れて裂けて、全部が大きく破れてこぼれて、全部が地面にぶちまけられて、全部がダメになってしまいました。
 村で一番の金持ち長者は、真っ白に漂う埃の前でただただ口をぽかんと開けておりました。
 お腹がぐぅと悲鳴を上げましたが、食べるものはありません。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った」
 総身がブルブルッと震えましたが、着込む物はありません。
「ああ、冷たい、ああ、寒い」
 体中がずきずきと痛みましたが、休める場所はありません。
「ああ、熱い、ああ、痛い」
 長者はがっくりと肩を落とし、地面にぺたんと座り込みました。
 粉袋からあふれた粉は、モウモウと煙ってあたりに舞広がります。蔵の外の石ころだらけの地面の上にも粉は漂って振り落ちました。
 村で一番の金持ち長者の鼻がむずむずとくすぐられました。。
 くしゃみの出そうな気持ち悪さは、脚をつたってつま先に届き、背骨をつたって頭の先に届き、腕をつたって指先に届き、あっという間に体全部がモゾモゾとか気持ち悪くなりました。
「ああ、むずがゆい、ああ、こそばゆい」
 村で一番の金持ち長者はもたもたと立ち上がりました。足元の地面には粉まみれの鼠が走り回っています。
 大鼠が粉の袋にかじりついてぼりぼり。
 子鼠が粉まみれの靴にかじりついてかりかり。
 小麦の袋が落ちてきてどっすん。
 小麦粉の袋に穴が開いてざらざら。
 袋は全部で百袋分。
 長者の足は鼠に噛まれたり、火に炙られたり、ぶつかったり、まとわりつかれたり、刺さったりしてできた、青黒い傷に赤い火傷に青いあざに白いなますに黒いかさぶたでまだら模様になりました。
 天を仰ぎますと、空は妙に明るく、細い月はいつのまにやら西の空の果てに消えておりました。
 丘の向こうの牧場あたりから、毛玉牛の悲鳴が聞こえます。牧童は全員お屋敷から出て行きましたから、山犬の群れが追い払われることなく柵を跳び越えているのでしょう。
 庭を挟んだ向こうの建物は火炎に包まれ、炎が天を赤く焦がしております。使用人は全員お屋敷から出て行きましたから、火は消されることなく燃え広がっているのでしょう。
 目の前の蔵では鼠が走り回っています。
 人足は全員お屋敷から出て行きましたから、鼠も虫もとがめられることなく穀物を食べ散らかしているでしょう。
「なんてことだ、なんてことだ」
 長者は山犬を追い払わなければならないと思いました。火を消し止めなければならないと思いました。鼠どもを追い出さなければならないと思いました。
 でも、お腹は空いておりますし、寒くて体の震えは止まりせんし、熱くて汗があふれ出しますし、痛くて体中が痺れております。立ち上がることも大声を出すことも、他の方法を考えることもできません。
 村で一番の金持ち長者の財産は、長者がぺたりと座り込んでいるうちに、どんどんと減っております。
 そう思いましたら、長者の体はますます震え、ますます汗があふれ、ますますじんじんと痺れ、指先一つも動かせなくなりました。
 とうとう長者は、その場にばたりと倒れ込んでしまいました。

 村の外れの石の壁の小屋に、髪の毛の真っ白な若者のような旦那さんと、髪の毛の真っ白な娘さんのような奥さんおりました。
 小さな小屋のせまい粉碾き部屋には大きな体の人足頭がいて、人足達に大きな石臼を回させていました。
 石臼がごろぉりごろりと回ると、空豆の実が碾かれて粉になり、ぱらぁりぱらりとあふれて出ました。
 小さな小屋のせまい機織り部屋には、細い体の織工長がいて、職工たちに大きな紡ぎ車を回させていました。
 紡ぎ車がぶぅんぶんと回ると、空豆の蔓が紡がれて糸になり、しゅぅるしゅると巻き取られました。
 小さな小屋の狭い台所には、痩せた体の料理長がいて、料理人達に大きな回転天火を回させていました。
 炙り串がぐぅるぐると回ると、空豆の粉がパンになり、ふかぁりふかりと焼き上がりました。
 小さな小屋の狭い庭先には、小柄な体の鍛冶屋がいて、使用人達に大きな滑車を回させていました。
 滑車がぎぃしぎしと回ると、空豆の幹が釣り上げられ、ばたぁんばたんと屋根が葺き上げられました。
 空豆の実は碾いても碾いてもなくならず、百の袋が全部粉でいっぱいになってもまだ余っておりました。
 空豆の蔓は紡いでも紡いでもなくならず、百のかせが全部糸でいっぱいになってもまだ余っておりました。
 空豆の粉は焼いても焼いてもなくならず、百の籠が全部パンでいっぱいになってもまだ余っておりました。
 空豆の幹は積んでも積んでもなくならず、百の小屋を全部新しく建てても、まだ余っておりました。
 旦那さんは、豆の粉百袋を荷車に積むと、毛玉牛に引かせて村の東の外れの一夜谷那へ持って行きました。
 一夜谷那にはたくさんの人たちが住んでいて、明日のご飯の心配をしていました。
 何しろこの村は、村長さんよりも村一番の金持ち長者の方が威張っているくらい、ぜんぶのことを長者が取り仕切っております。長者が仕事の支払いをしてくれなければ、明日の夕ご飯は我慢しなければならないのです。
 一夜谷那の井戸の端にはおかみさんたちが集まって、残り少ない小麦の粉でどんなご飯作ったらいいのかと、口々に話し合っておりました。
「やあ村の衆、こんばんは」
 白髪頭の旦那さんは、井戸の端に荷車を止めて、大きな声で言いました。
 おかみさんたちおどろいて、お互いに顔を見合わせました。
「この村にこんな男の人がいたかしら?」
 旦那さんはにこにこ笑って言いました。
「ほぅれよくごらん、石の壁の小屋の爺だよ」
 おかみさんたちは男の人の顔をじっと見ました。確かに石の壁の小屋のおじいさんによく似ています。
「確かに石の壁の小屋のおじいさんによく似ているけれど、あのおじいさんはもっとおじいさんですよ」
 おかみさんたちは口々に言いました。とてもとても信じられないからです。
「わけを話すと長くなる。この豆の粉をご馳走するから、運びながらにでもきいておくれ」
 若者のようなおじいさんの旦那さんは、豆の粉の袋を荷車から降ろしながら、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 おかみさんたちはびっくりして訊ねました。
「その豆を食べておじいさんたちは若返ったんですか?」
 旦那さんは首を振りました。
「食べる前から元気が出てね。食べる前から若返った気がしたよ」
「なるほどなるほど。それではきっと、おじいさんたちが普段から良い人だから、神サマが元気をお恵み下さったんでしょう」
 おかみさんたちは合点して、大きくうなずきました。
 すっかり若返って元気になった夫婦の話を聞いたおかみさんたちは、なんだか自分たちもすっかり元気になった気がしました。
 つい先ほどまで明日のご飯を心配していたおかみさんたちは、白髪頭の旦那さんが持ってきた豆の粉を家族一人に一袋ずつ、軽々担いで持ち上げて、それぞれ家に持って帰りました。
 みんなが明日の食事に必要なだけ粉の袋を持っていったので、旦那さんは毛玉牛に荷車を引かせて戻りました。
 石の壁の小屋に着いて、残った袋を数えますと、粉が詰まって膨らんだ袋が百と七袋ありました。
 入れ替わりに、白髪頭の若い奥さんは、豆の茎から取った糸百かせを荷車に積むと、毛玉牛にひかせて村の南の外れの刺草丘に持って行きました。
 刺草丘にはたくさんの人たちが住んでいて、明日の仕事の心配をしていました。
 何しろこの村は、村長さんよりも村一番の金持ち長者の方が威張っているくらい、ぜんぶのことを長者が取り仕切っております。長者が仕事の手配をしてくれなければ、明日からはどんな仕事もなくなってしまうのです。
 刺草丘の井戸の端にはおかみさんたちが集まって、財布の底に残った銅貨でどうやって明日から暮らそうかと、口々に話し合っておりました。
「あら村の衆、こんばんは」
 白髪頭の奥さんは、井戸の端に荷車を止めて、大きな声で言いました。
 おかみさんたちおどろいて、お互いに顔を見合わせました。
「この村にこんな女の人がいたかしら?」
 奥さんはにこにこ笑って言いました。
「ほぅらよくごらん、石の壁の小屋の婆ですよ」
 おかみさんたちは女の人の顔をじっと見ました。確かに石の壁の小屋のおばあさんによく似ています。
「確かに石の壁の小屋のおばあさんによく似ているけれど、あのおばあさんはもっとずっとおばあさんですよ」
 おかみさんたちは口々に言いました。とてもとても信じられないからです。
「わけを話すと長くなるわ。この豆の茎の糸を配るから、運びながらにでもきいてちょうだい」
 娘のようなおばあさんの奥さんは、豆の茎の糸のかせを荷車から降ろしながら、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 おかみさんたちはびっくりして訊ねました。
「その豆を食べておばあさんたちは若返ったんですか?」
 奥さんは首を振りました。
「食べる前から元気が出てね。食べる前から若返った気がしたの」
「なるほどなるほど。それではきっと、おばあさんたちが普段から良い人だから、神サマが元気をお恵み下さったんでしょう」
 おかみさんたちは合点して、大きくうなずきました。
 すっかり若返って元気になった夫婦の話を聞いたおかみさんたちは、なんだか自分たちもすっかり元気になった気がしました。
 つい先ほどまで明日の仕事を心配していたおかみさんたちは、白髪頭の奥さんが持ってきた豆の糸を家族一人に一かせずつ、軽々担いで持ち上げて、それぞれ家に持って帰りました。
 みんなが明日の仕事に必要なだけ糸のかせを持っていったので、奥さんは毛玉牛に荷車を引かせて戻りました。
 石の壁の小屋に着いて、残ったかせを数えますと、糸が巻かれて膨らんだかせが百と七つありました。
 入れ替わりに、旦那さんは、豆の粉で焼いたパン百籠を荷車に積むと、毛玉牛に引かせて村の北の外れの煙吹き山へ持って行きました。
 煙吹き山にはたくさんの人たちが住んでいて、今夜のご飯の心配をしていました。
 何しろこの村は、村長さんよりも村一番の金持ち長者の方が威張っているくらい、ぜんぶのことを長者が取り仕切っております。長者が麦を売ってくれなければ、今日の夕ご飯は我慢しなければならないのです。
 煙吹き山の井戸の端にはおかみさんたちが集まって、空っぽの袋からどうやって粉を振るい出す方法があろうかと、口々に話し合っておりました。
「やあ村の衆、こんばんは」
 白髪頭の旦那さんは、井戸の端に荷車を止めて、大きな声で言いました。
 おかみさんたちおどろいて、お互いに顔を見合わせました。
「この村にこんな男の人がいたかしら?」
 旦那さんはにこにこ笑って言いました。
「ほぅれよくごらん、石の壁の小屋の爺だよ」
 おかみさんたちは男の人の顔をじっと見ました。確かに石の壁の小屋のおじいさんによく似ています。
「確かに石の壁の小屋のおじいさんによく似ているけれど、あのおじいさんはもっとずっといっそおじいさんですよ」
 おかみさんたちは口々に言いました。とてもとても信じられないからです。
「わけを話すと長くなる。この豆の粉で焼いたパンをご馳走するから、運びながらにでもきいておくれ」
 若者のようなおじいさんの旦那さんは、豆のパンの籠を荷車から降ろしながら、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 おかみさんたちはびっくりして訊ねました。
「その豆を食べておじいさんたちは若返ったんですか?」
 旦那さんは首を振りました。
「食べる前から元気が出てね。食べる前から若返った気がしたよ」
「なるほどなるほど。それではきっと、おじいさんたちが普段から良い人だから、神サマが元気をお恵み下さったんでしょう」
 おかみさんたちは合点して、大きくうなずきました。
 すっかり若返って元気になった夫婦の話を聞いたおかみさんたちは、なんだか自分たちもすっかり元気になった気がしました。
 つい先ほどまで今日のご飯を心配していたおかみさんたちは、白髪頭の旦那さんが持ってきた豆の粉のパンを家族一人に一籠ずつ、軽々担いで持ち上げて、それぞれ家に持って帰りました。
 みんなが明日の食事に必要なだけパンの籠を持っていったので、旦那さんは毛玉牛に荷車を引かせて戻りました。
 石の壁の小屋に着いて、残った籠を数えますと、パンが詰まって膨らんだ籠が百と七つありました。
 入れ替わりに、奥さんは、何にも載せない荷車を毛玉牛に引かせて、村の西の外れの石ころ川原へ行きました。
 石ころ川原にはたくさんの人たちが住んでいて、今夜の寝床の心配をしていました。
 何しろこの村は、村長さんよりも村一番の金持ち長者の方が威張っているくらい、ぜんぶのことを長者が取り仕切っております。長者が家や部屋を貸してくれなければ、今日は橋の下で寒さを我慢して寝るより他にないのです。
 石ころ川原の橋のたもとにはいくつもの家族が集まって、毛布一枚でどうやって一家が一晩過ごす出す方法があろうかと、口々に話し合っておりました。
「はい村の衆、こんばんは」
 白髪頭の奥さんは、橋の上に荷車を止めて、大きな声で言いました。
 みんなはおどろいて、お互いに顔を見合わせました。
「この村にこんな女の人がいただろうか?」
 奥さんはにこにこ笑って言いました。
「ほぅらよくごらん、石の壁の小屋の婆ですよ」
 みんなは女の人の顔をじっと見ました。確かに石の壁の小屋のおばあさんによく似ています。
「確かに石の壁の小屋のおばあさんによく似ているけれど、あのおばあさんはもっとずっといっそうんとおばあさんだよ」
 みんなちは口々に言いました。とてもとても信じられないからです。
「わけを話すと長くなるわ。私たちの家でみんなにご馳走をするから、荷台に載って道すがらにきいて頂戴な」
 娘さんのようなおばあさんの奥さんは、たくさんの人たちを乗せた荷車を牛に引かせて、石の壁の小屋へと進ませながら、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 荷台に乗ったたんなははびっくりして訊ねました。
「その豆を食べておばあさんたちは若返ったんですか?」
 奥さんは首を振りました。
「食べる前から元気が出てね。食べる前から若返った気がしましたよ」
「なるほどなるほど。それではきっと、おばあさんたちが普段から良い人だから、神サマが元気をお恵み下さったんでしょう」
 みんなは合点して、大きくうなずきました。
 すっかり若返って元気になった夫婦の話を聞いたみんなは、なんだか自分たちもすっかり元気になった気がしました。
 つい先ほどまで今日の寝床を心配していたみんなたちは、白髪頭の奥さんに案内されて、家族一人に一ベッドずつ広々寝られる別棟の小屋を、それぞれの家族にあてがわれて休みました。
 みんなが一晩ぐっすり休めると安心したのを見ると、奥さんは毛玉牛を荷車をから放して牛小屋へ戻しました。
 元の石の壁の小屋に戻って、人がいない小屋を数えますと、新品の家具が据え付けられた小さな空き家が百と七軒ありました。
 こうして、一夜谷那の人たちは明日のご飯の心配がなくなり、刺草丘の人たちは明日の仕事の心配がなくなり、煙吹き山のひとたちは今夜のご飯の心配がなくなり、石ころ川原に集まっていた人たちは今夜の寝床の心配がなくなり、みんあ安心して眠りにつきました。
 村中をたずねて回って、全部の仕事をし終わったあと、白髪頭の旦那さんと白髪頭の奥さんは、肩を組んで庭先に出ました。
 冷たい夜風がぴゅうと吹きましたが、若くて元気の良い夫婦はちっとも寒くありませんでした。
「おばあさん、おばあさん。火が通っていたのに、日当たりの悪い痩せた土地に植えたのに、酸っぱいチーズの上澄みで育てたのに、あの一粒の豆は、なんと立派に育ったことだろう」
「おじいさん、おじいさん。たった一粒の豆から、たった一晩のうちにに育って、たった一日のウチに村中のみんなが満足するほどたくさんの実りになりましたよ」
「光の人の言ったとおりだ」
「光の人の言ったとうりですね」
「それならこれからのことも光の人の言ったとおりになるのだろうね」
「きっとこれからのことも光の人の言ったとおりになるのでしょうね」
「私たちの子孫は大いに祝福されるのだよ」
「これから生まれる子供たちと、そのまた子供たちは祝福されるのですね」
 二人が揃って天を仰ぎますと、空は妙に明るく、細い月はいつのまにやら西の空の果てに消えておりました。
 若者のようなおじいさんの旦那さんの、良く聞こえる耳に、たくさんの毛玉牛の悲鳴が聞こえました。
 娘さんのようなおばあさんの奥さんの、良く聞く鼻に、きな臭い焦げ臭い臭いが嗅ぎ取れました。
 若々しくて元気の良い夫婦の、良く見える目に、たくさんの小さな動物たちが、村で一番日当たりが良くて、村で一番良い井戸があって、村で一番土地の肥えた、村で一番広い丘に向かって、我先に走って行くのがゆくのが見えました。
 丘の麓には、村で一番の金持ち長者のお屋敷があります。

 村で一番の金持ち長者が目を覚ましますと、そこは神殿の中でした。朝なのか夕なのか知れませんが、赤々とした光が礼拝場の中をゆらゆらと照らしております。
 神殿の中にはたくさんの人たちがいるのですが、みな自分のお祈りが忙しくて、長者の方を見る者はおりません。
 長者は少し腹立たしくなりました。
 自分は村で一番の金持ち長者なのです。村長だって頭を下げる村で一番偉い長者です。村の人たちが自分に挨拶しないなんて、とても信じられませんし、とても許せませんでした。
 長者は大きな声を出してみようかと、少しだけ思いました。そうすればみんながこちらを向く筈です。
 でも、すぐに考え直しました。
 なにしろ神殿の神官や僧侶たちときたら、万一神殿の中で無駄に大きく騒ぎ立てる者がいたなら、子供であろうと年寄りであろうと、物乞いであろうと王様の家来であろうと、
「不敬をするものは地獄に堕ちるぞ」
 と怖い顔で呪いをかけるのです。
 もっとも、呪いはすぐに解いて貰えます。ただし、とても高い贖宥符《しょくゆうふ》のお札を買わなければなりませんけれども。
 村一番の金持ち長者は地獄に堕とされる呪いなどはこれっぽっちも怖いと思っていません。でも、余分なお金を出してお札を買わされるのは身震いするほど恐ろしいと思っています。
 ですから神官や僧侶たちが怒るようなことは、たとえ思いついたとしても、本当にやったりはしません。
 村で一番の金持ち長者は、大声を上げたりしないで、でも大きな騒ぎになる方法をよく知っていました。
 長者は急いで浄財箱の前に行きました。そうして銅貨を三枚ほど取り出すと、箱の中に投げ入れました。
 村一番の金持ち長者が投げた銅貨は、落ちてゆく途中でぶつかり合って、ちゃりんちりんと大きな音を立てました。
 あんまり大きな音なので、礼拝場にいた人たちの半分ほどが、浄財箱の方に顔を向けました。
 村で一番の金持ち長者はお金を普通に投げたのではありません。長者だけが知っている、少ないお金で大きな音が鳴る投げ方で投げたのです。
 僅かな銅貨で礼拝場全部に響くような音を立てる方法を知っているのは、この村では長者だけです。
 他の人には、そんな方法を知る必要がありませんでしたから、当然のことでした。
 大きな音に気付いた人たちは浄財箱とその前に立っている長者とをじっと見つめました。
「きっとあの人がたくさんのお金を投げ入れたのだろう」
 村一番の金持ち長者にはささやく声が聞こえました。長者はにんまりと笑いました。
 長者はもう三枚銅貨を投げました。
 投げた銅貨は落ちてゆく途中でぶつかり合ってちゃりんちりん、箱の底に落ちた銅貨が先に入れた銅貨にぶつかってちゃりんじゃりん、とさきほどよりももっと大きな音を立てました。
 あんまり大きな音なので、礼拝場にいた人たちのほとんどと、祭壇の前に控えていた若くて耳の良い神官や僧侶たちが浄財箱の方に顔を向けました。
 大きな音に気付いたその人たちは浄財箱とその前に立っている長者とをじっと見つめました。
「たくさんお金を投げ入れたあの人は、なんて信心深い人なのだろう」
 村一番の金持ち長者にはささやく声が聞こえました。長者はにんまりと笑いました。
 長者は最後にもう三枚の硬貨を投げました。
 投げたお金は落ちてゆく途中でぶつかり合ってちりんちりん、箱の底に落ちたお金が先に入れた銅貨にぶつかってちゃりんちゃりん、とさきほどよりもずっとちいさな音を立てました。
 それでも、礼拝場にいた人たち全員と、祭壇裏に控えていた年寄りで位の高い神官や僧侶たちが浄財箱の方に顔を向けていました。
 遠くの人にも近くの人にも金色に光るお金が箱の中に落ちてゆくのが見えたからです。
「金貨をあんなにたくさん寄進するなんて、あの方はなんと立派な人だろう」
 村一番の金持ち長者にはささやく声が聞こえました。長者はにんまりと笑いました。
 古ぼけた銅貨を古くなった葡萄のお酢で磨き上げて、金貨のようにピカピカ光るお金にする方法を知っているのも、この村では長者だけです。
 他の人には、そんな方法を知る必要がありませんでしたから、当然のことでした。
 さて、たくさんの人たちの目を自分に向けさせた長者は、襟を正して胸を張って祭壇の前へ行きました。そうして、恭しく頭を下げますと、大きな身振りと大きな声でお祈りを始めました。
 神殿はお祈りをする場所ですから、お祈りならば大きな声を出しても怒られません。逆に、神官も僧侶もその他の人たちも、熱心にお祈りをする信心が深い人だと思うことでしょう。
 本当に信心深い人ならば、それは本当に良いことなのですけれども、村一番の金持ち長者は本当に信心深い人とは違っておりました。でもどのように違っているのか、誰にも判りませんでした。村一番の金持ち長者自身も違いがちっとも判っていないのですから、仕方がありません。
 長者は大きな声でお祈りの文句を叫び、大きな身振りで拝礼をしました。
「なんて熱心なお祈りをする、偉くて立派な人だろう」
 村一番の金持ち長者にはささやく声が聞こえました。長者は、顔が上を向いている間は真剣な顔をしていましたが、顔が下に向いた途端ににんまりと笑いました。
 地面にひれ伏していた長者は、にんまり顔をきゅっと引き締めてから、とってもゆっくり頭を上げました。
 すると、祭壇の上の方から光がすぅっと一筋、降りてきました。
 村一番の金持ち長者が目をパチパチしばしばさせますと、祭壇の上に人の姿をした光が立っているのが見えました。
「有り余るものの中から僅かに捧げた巡礼者に、神様のお告げがあります」
 人の姿をした光が、威厳ある人のように言うので、長者は驚いてどすんと尻餅をついてしまいました。
 人の形をした光が、
「あなたの財産はあなたの片方の掌の中に握っていられる分と同じほどになります」
 と言いましたので、村一番の金持ち長者は驚いて今度はポンと飛び起きました。
「私にはたくさんの財産があるのに」
 長者が言いました。片方の掌の中に握っていられるだけの財産といったら、どれほど少ないものでしょう。
「これまでの行いと、これからの行いに正しい報いを」
 光の人が言いました。
「どんな報いもあるはずがない」
 長者が言いました。悪いことなどしていないのだからと言いかけましたが、恐ろしくて口から言葉が出ませんでした。
「神様のお告げを信じないのですか?」
 光の人が怒ったような声で言ったからです。
 村で一番の金持ち長者が自分の体を抱えて震えていると、光の人は優しい声で
「さあ、目を覚ましてあなたの友人があなたにしてくれたことに感謝をしなさい。神様は例え誰一人として見ておらず知ることのなかったことでさえも、よくご覧になってよく知っておられます。正しいことには正しく報われ、正しくないことには厳しい報いがあるでしょう」
 そう言うと、光の人はすぅっと消えてしまいました。
 光の人が消えるのと同じに、神殿の中の明かりもすぅっと消えてしまいました。
 薄ぼんやりとした赤い闇が、長者の回りに漂っております。形のあるものは何も見えません。それは、まるで光の中で目を閉じているような景色でした。
 村で一番の金持ち長者は、急に冷たい夜風が吹き付けているように体が芯から冷えてきたような気がしました。
 それでいて、火で炙られたように体中が火照っている気もしました。
 その上、鋭いものや硬い物で突かれたり叩かれたりしたように体中が痛む気もいたしました。
 長者は慌てて目を開けました。
 薄ぼんやりとした赤い闇ばかりで、まるで光の中で目を閉じているような景色だと思えたのは、長者が本当に目を閉じていたからでした。
 村で一番の金持ち長者は、凍えて震え、火に炙られて汗みどろになり、痛んで痺れる体を、どうにかこうにか動かしました。
 長者は、ゆっくりじっくり時間を掛けて、ようやくくたびれた獣のように両手両足を地面に突いた格好にまで起き上がりました。
 でも人のように両足で立ち上がることはできませんでした。体が寒くて熱くて痛くて疲れ果てていたからです。
「ああ寒い。ああ熱い。ああ痛い。ああお腹が空いた」
 なんだかとっても情けなく、なんだかとっても寂しくなって、村一番の金持ち長者は涙をひとしずくこぼしました。
 涙はほっぺたを伝って顎の先に流れ、ぽろりと落ちました。そうして地面にぴたりとくっついた手の甲にぽとんと落ちました。
 すると長者は、涙の滲んだその手の、掌の下に何かあることに気付きました。
 肩も肘も手首も指も少しばかりしか動きませんでしたが、肩と肘と手首と指を少しずつ動かしましたら、掌は地面から少し浮き上がりました。
 長者は掌と地面の隙間を覗き込みました。
 地面は平らで、石ころ一つありませんでした。
「確かに何かあると思ったのに」
 村で一番の金持ち長者は頭の中で言いました。口から言葉を出せないほど、寒くて熱くて痛くて疲れていたからです。
 長者はもう一度掌と地面の隙間をよく見ました。
 確かに地面には何もありません。
 ですが、真っ青に凍えて、真っ黒にすすけて、真っ赤に腫れ上がった掌の真ん中のくぼみに、丸い何かが貼り付いておりました。
 長者は目を凝らして、丸い物をよくよく見ました。
 空豆の粒でした。
 外の皮は黒く固く、中の実は白く堅くなっております。
 表にも裏にも中にも火のしっかり通った、煎り豆の粒でした。
 長者は光の人の言ったことを思い出しました。
『あなたの財産はあなたの片方の掌の中に握っていられる分と同じほどになります』
「ああ、これがわしの財産か」
 なんだかとっても悔しくて、なんだかとっても悲しくなって、長者は両手両足四つを地面に付いた格好のまま、ぼろぼろと涙をこぼして泣きました。
 泣きながら長者は光の人の言ったことを思い出しました。
『あなたの友人があなたにしてくれたことに感謝をしなさい』
 長者は考えました。
「誰に感謝をしろというのだ」
 料理人も織工も人足も小作人も使用人も、それからお屋敷に仕事に来る人たちも、全部クビにしてしまいました。今、長者の回りには、一人の人もおりません。
 長者は考えました。
「誰が友人だというのか」
 料理人も織工も人足も小作人も使用人も、それからお屋敷に仕事に来る人たちも、全部友達ではありません。元より、長者の回りには一人の友人もおりませんでした。
 なんだかとっても虚しくて、なんだか自分が哀れになって、長者は両手両足四つを地面に付いた格好のまま、大声を上げて泣きました。
 長者の耳にガラガラと物の崩れ落ちる大きな音が聞こえました。
 村一番の金持ち長者の立派なお屋敷が炎に焼かれて燃え尽きて、崩れて落ちた音でした。村一番の金持ち長者の大きな己惚れが炎に焼かれて燃え尽きて、崩れて落ちた音でした。

 薄ぼんやりとした赤い闇が、長者の回りに漂っております。形のあるものは何も見えません。それは、まるで光の中で目を閉じているような景色でした。
 村で一番の金持ち長者は、急に温かい春風吹き付けているように体が芯から暖まってきたような気がしました。
 それでいて、火で炙られたように体中が火照っている気もしました。
 その上、鋭いものや硬い物で突かれたり叩かれたりしたように体中が痛む気もいたしました。
 長者は慌てて目を開けました。
 薄ぼんやりとした赤い闇ばかりで、まるで光の中で目を閉じているような景色だと思えたのは、長者が本当に目を閉じていたからでした。
 村で一番の金持ち長者は、薄暗い場所にいました。
 自分の体からは酸っぱくて苦くて胸が悪くなるような臭いがいたしますし、まるで体中に何かが巻き付いているようで、手足の自由が利きません。
「ああ、わしは死んでしまった」
 長者は大声で言いました。
 遠くか近くか判らないところから、いろいろな音が聞こえました。
 カツンカツンと鉄を打つ音が聞こえます。
 ストンストンと肉を切る音が聞こえます。 グルングルンと輪を回す音が聞こえます。
 ゴロンゴロンと石を転がす音が聞こえます。
 パチンパチンと火が燃える音が聞こえます。
 ウワンウワンと声を揃えて歌うのが聞こえます。
 長者の目玉から涙が溢れ出ました。
「直に地獄の獄卒がやってきて、焼けた鉄ごてをわしの体に押しつけて、刀でわしの首を刎ね飛ばし、車輪でわしの体を轢きちぎり、石でわしの体を押し潰し、わしの体は地獄の竈にくべられて、焼かれてしまうに違いない」
 長者は泣きながら目を閉じました。
 目を閉じて震えておりますと、妙に耳が冴えるものです。
 鉄を打つ音はさっきよりもはっきり聞こえて、それが荷車の車輪の軸押さえを作る音だということが判るくらいです。
 肉を切る音はさっきよりもはっきり聞こえて、それがスープのだし汁を取るために塩漬け肉を切る音だということが判るくらいです。
 輪を回す音はさっきよりもはっきり聞こえて、それが赤ん坊の産着のための糸を紡ぐ音だということが判るくらいです。
 石を転がす音はさっきよりもはっきり聞こえて、それが年寄りのためのおかゆにする豆を荒く碾く音だということが判るくらいです。
 火が燃える音はさっきよりもはっきり聞こえて、それが病人の寝室を暖める暖炉にくべられた薪が燃える音だということが判るくらいです。
 声を揃えて歌う声もさっきよりもはっきり聞こえて、どんな言葉を言っているのかが判るくらいでした。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
「これはいったい何の歌だろう? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 村一番の金持ち長者は薄暗闇の中で耳を凝らしました。
 不思議な歌は何度も繰り返しに聞こえます。
 楽しく話して聞かせるようで、よろこんで叫んでいるようで、幸せに踊っているような歌声でした。
 長者は目を開けました。
 すぐに、自分が新しい部屋の新しい寝台の上にいるのが判りました。真っ白で柔らかい夜具と、薬と血膿で汚れた包帯で体を覆われているのが見えました。
 不思議な歌は何度も繰り返しに聞こえます。
 長者は体を起こしました。
 立派な暖炉で火が燃えていて、立派な鉄の金具に立派な鍋がかかっていて、上等の塩肉でだしを取った柔らかいおかゆが煮えているのが見えました。
 不思議な歌は何度も繰り返しに聞こえます。
 長者は寝台の上で立ち上がりました。
 あの歌は、しっかり閉まったドアと、少しだけ開いた窓の僅かな隙間から、漏れて聞こえてまいります。
 何度も何度も聞く内に、長者の恐ろしがって真っ白だった顔が、少しずつ赤身を取り戻して行きました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 なぜだか心がうきうきし、じっと横たわっていられなくなって、終いに長者は節に会わせて足を踏みならして踊っておりました。
 長者の脚は棒のようにかちこちですし、目は兎のように真っ赤でした。
 それでもお腹の中から力が湧き上がってきて、黙りこくってはおられないほど楽しい気持ちが体に満ちておりました。
 村一番の金持ち長者は踊りながら寝台から飛び降りて、踊りながらドアを開けて、踊りながら廊下に出て、踊りながら廊下を歩いて、踊りながら建物の外に出ました。
 外に出ますと、小さな川で小さな水車が回っているのが見えました。
 水車の軸は小さな小屋につながっております。小屋の中では小さな石臼が勢いよく回っております。小さな石臼からはたくさんの粉が溢れ出ております。細かい粒ぞろいの粉を大勢の人足たちが袋に詰めております。人足たちは大きな袋の隅と隅をしっかり合わせてと積み重ねております。
 袋は次から次へと重なり、粉は後から後からあふれ、石臼は止まることなく転がり、軸は休むことなく回転し、水車は止めどなく回っておりました。
 そうして、働いている人々はみな声を揃えて歌い踊っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、歌と踊りと仕事の真ん中にいる人足頭に声を掛けました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 人足頭は手を止めて、不思議そうな顔で答えます。
「あっしらはずっとこの歌を歌っておりやすよ。あなたのところにいたときにも歌っておりやした。もっともあなたは、年寄りの話などどうでもよいと仰って、歌を止めさせましたけども」
 人足頭は頭をぺこりと下げますと、すぐに仕事に戻りました。
「そんなことは知らないぞ」
 村で一番の金持ち長者は小首をかしげてその場から離れました。
 しばらく行きますと、小さな川の中で豆の枝を腐らせて糸の元を取っているのが見えました。
 川のそばには小さな作業場が建っております。作業場の中では小さな糸車と小さな機織機が良い音を立てて動いております。小さな作業場からはたくさんの織物が運び出されております。美しく粒ぞろいの織物を大勢の織工たちが反物に巻いております。織工たちは巻かれた反物の隅と隅をしっかり揃えて積み重ねております。
 反物は次から次へと重なり、織物は後から後からあふれ、機織機は止まることなく動き、糸車は休むことなく回転し、川からは次々と糸の元が引き上げられております。
 そうして、働いている人々はみな声を揃えて歌い踊っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、歌と踊りと仕事の真ん中にいる織工長に声を掛けました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 織工長は手を止めて、不思議そうな顔で答えます。
「私どもはずっとこの歌を歌っております。あなたのところにいたときにも歌っておりました。もっともあなたは、神殿の話などどうでもよいと仰って、歌を止めさせましたけども」
 織工長は頭をぺこりと下げますと、すぐに仕事に戻りました。
「そんなことは知らないぞ」
 村で一番の金持ち長者は小首をかしげてその場から離れました。
 しばらく行きますと、小さな川の岸辺で大きな鍋釜が洗われているのが見えました。
 川のそばには細い道があります。道を上った先の小さな小屋は、煙突からは良い香りのする煙がモクモクと立ち上っておりますので、厨房に違いありません。厨房からはたくさんの鍋釜や食器が運び出されております。立派で粒ぞろいの食器を大勢の料理人たちが洗い磨いております。料理人たちは鍋釜や食器の縁と縁とをしっかり揃えて積み重ねております。
 そうやって働いている人々は、みな声を揃えて歌い踊っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、歌と踊りと仕事の真ん中にいる料理長に声を掛けました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 料理長は手を止めて、不思議そうな顔で答えます。
「私たちはずっとこの歌を歌っておりますよ。あなたのところにいたときにも歌っておりました。もっともあなたは、御使いの話などどうでもよいと仰って、歌を止めさせましたけども」
 料理長は頭をぺこりと下げますと、すぐに仕事に戻りました。
「そんなことは、知らないぞ……」
 村で一番の金持ち長者は小首をかしげてその場から離れました。
 しばらく行きますと、小さな川の岸辺に大きな家を幾件も建てているのが見えました。
 家々はみな見るからに素晴らしい材木で作られていました。家々が完成する先からやはり良い材木で作られた家具が運び込まれました。頑丈で粒ぞろいの家具を大勢の職人たちが作り上げております。職人たちは家具のの角と角とをしっかり揃えて積み重ねております。
 そうやって働いている人々は、みな声を揃えて歌い踊っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、歌と踊りと仕事の真ん中にいる鍛冶屋に声を掛けました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 鍛冶屋は手を止めて、不思議そうな顔で答えます。
「私はずっとこの歌を歌っております。あなたのところに行ったときに、あなたの前で歌ったじゃあないですか。もっともあなたは、私の話をちゃんと聞き終わる前に、私たちをお屋敷から追い出されましたけれども」
 鍛冶屋は頭をぺこりと下げますと、すぐに仕事に戻りました。
「そんなことは知らない……」
 村で一番の金持ち長者は小首をかしげて言いかけましたが、
「いや、そうだったかも知れないぞ」
 口の中でぼそりと言い改めて、その場から離れました。
 しばらく行きますと、小さな川の岸辺で大きな水瓶に水を汲み上げている男の人の背中が見えました。
 男の人は腰をかがめて古いバケツで水を汲んでは、背を伸ばして大きな瓶に水を注いでおります。
 男の人の髪の毛は真っ白で、着ている物は長い間着たように古びておりました。
「はて、どこかで見たような年寄りだ」
 村で一番の金持ち長者は、腕を組んで考えましたが、さて何処で見かけた人なのかさっぱり思い出せませんでした。
 男の人は水を汲み上げる度に腰をかがめますが、なんどかがんでも
「よいしょ」
 とも言いません。
 水を注ぐ度に背を伸ばしますが、何度背を伸ばしても
「どっこらしょ」
 とも言いません。
 その代わりに、神殿の合唱隊が歌うような拍子で、歌のような物を口ずさんでおりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
「ああ、その歌だ、あの歌だ」
 村で一番の金持ち長者は思わず声を上げそうになりましたが、ようやく言葉を飲み込みました。
 男の人が歌を続けたからです。
「元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、一夜谷那まで歩いていった。
 空っぽの粉袋に、いるだけの粉を入れた。
 いるだけの粉をみんながとっても、荷車の粉はまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、刺草丘まで歩いていった。
 空っぽの糸車に、いるだけの糸を巻いた。
 いるだけの糸をみんながとっても、荷車の糸はまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、煙吹き山まで歩いていった。
 空っぽのパン籠に、いるだけのパンを入れた。
 いるだけのパンをみんながとっても、荷車のパンはまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、石ころ川原まで歩いていった。
 空っぽの荷車に、乗るだけの人を乗せた。
 いるだけの人をみんな乗せても、荷車の隙間はまだ減らない。
 そしてその豆、たくさんの豆。
 夕べみんなで食べて、今朝みんなで食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、男の人に声をかけました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 男の人は手を止めて、くるりと振り向きました。
「おや長者さん、目が覚めましたかね? それは重畳、重畳」
 石の壁の小屋に住む老夫婦の、一夜で若者のようになった旦那さんでした。
 旦那さんの髪の毛は真っ白で、着ている物は長い間着たように古びておりましたが、顔は皺一つ無く、頬は紅色で、眼は光り輝いておりました。
「はて、どこかで見たような若者だ」
 長者は、腕を組んで考えましたが、さて何処で見かけた人なのかさっぱり思い出せませんでした。
 長者は、石の壁の小屋の夫婦とは同じ神殿の信徒で、同じ頃に宮参りをして、同じ頃に成人の祝いをして、同じ頃結婚式をして、同じ曜日に礼拝をしておりますから、顔を知らないではありません。
 でも背筋の伸びた、元気の良い、若者の顔をしたこの旦那さんが、腰の曲がった、よぼよぼの、しわしわ顔のおじいさんとは思えなかったのです。
 旦那さんはにこにこ笑って言いました。
「ほぅれよくごらん、石の壁の小屋の爺だよ」
 長者は旦那さんの顔をじっと見ました。確かに石の壁の小屋のおじいさんによく似ています。
「確かに石の壁の小屋の爺ィによく似ているが、あの爺ィはもっとずっといっそずいぶん年寄りの筈じゃないか」
 長者はびっくりして言いました。とてもとてもとてもとても信じられないからです。
「わけを話すと長くなるし、わしはこの水を急いで運ばないといけないんだよ。歩きながらにでもきいておくれ」
 そういいますと、旦那さんは水のたっぷり入った大きな瓶を、ひょいと抱えて、ひょいと背負いました。
 村で一番の金持ち長者が目を円くしてみておりますと、旦那さんは踊るような足取りで飛ぶような勢いで、どんどんずんずん歩き始めました。
 長者は慌ててついて行きました。
 若者のようなおじいさんの旦那さんは、しっかり前を向いたまま、歌うような節回しで話し始めました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった……」
「それは聞いた、何度も聞いた。それにみんなが歌っていたぞ」
 長者は大声で言いました。
 なにしろ旦那さんときたら、水のたっぷり入った瓶を軽々と背負って、石ころだらけの川原道を歩いているというのに、まるきり御使いが足で歩くことなく地面すれすれを飛んでいるような軽やかさで、ずんずんどんどん歩いてゆくのです。
 長者がどんなに急いでも、一歩歩くうちにに二歩半遅れ、二歩進むうちに五歩遅れてしまいます。
 ですから長者が旦那さんと話をするには、ぐんぐん前を進んでゆく若々しい背中に大声で呼びかけないといけないのです。
「そうかねそうかね」
 村で一番の金持ち長者の大声を聞いた旦那さんは、立ち止まらずに振り向いて、にっこり笑って答えました。
「全く年寄りというのは、同じ話を何度もしてしまう。聞いている者は困ってしまうだろうが、長者さん、どうか勘弁してください」
「いいやそうじゃない、そうじゃない」
 長者さんは急ぎ足で歩きながら言いました。
「爺さんから聞くのは初めてだ。粉碾き小屋の人足と、機織り小屋の職人と、台所の調理人と、普請場にいた連中が、口を揃えて歌い語っているんだ」
「そうかねそうかね」
 旦那さんはにこにこ笑いました。
「では長者さんはすっかりこの話を聞き飽きたかね?」
 旦那さんがやっぱり立ち止まらずに言いましたので、長者は早足で追いかけながら答えなければなりませんでした。
「その通り、その通り、確かにその通り」
 ぜぇぜぇ息を吐きながら長者は言いました。
「ではこの話は止めにしようかね」
 旦那さんが言いました。
 すると長者は、首を横に振りました。
「いや止めないでくれ、続けておくれ」
 長者の答えを聞きますと、旦那さんは立ち止まりませんでしたが、歩幅を狭くいたしました。
 村一番の金持ち長者は駆け足で追いかけて、ようやく旦那さんに追いつきました。
「どうにも不思議な話だし、どうにも不思議な歌だから、何度も聞いてみたくなる。それから何度も何度も歌いたくなる」
 旦那さんは、横に並んだ長者のげっそり痩ているけど薔薇色な頬と、ぐったり疲れているけど輝いた目玉をみますと、にこにこ笑いました。
「では話そうか。最初から、最後まで」
「では聞こうか。最初から、最後まで」
 旦那さんと長者は横に並んで歩きました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、一夜谷那まで歩いていった。
 空っぽの粉袋に、いるだけの粉を入れた。
 いるだけの粉をみんながとっても、荷車の粉はまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、刺草丘まで歩いていった。
 空っぽの糸車に、いるだけの糸を巻いた。
 いるだけの糸をみんながとっても、荷車の糸はまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、煙吹き山まで歩いていった。
 空っぽのパン籠に、いるだけのパンを入れた。
 いるだけのパンをみんながとっても、荷車のパンはまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、石ころ川原まで歩いていった。
 空っぽの荷車に、乗るだけの人を乗せた。
 いるだけの人をみんな乗せても、荷車の隙間はまだ減らない。
 そしてその豆、たくさんの豆。
 夕べみんなで食べて、今朝みんなで食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 石の壁の小屋に住む一夜で若者のようになった旦那さんが、歌うように話すのを聞いているうちに、長者の疲れてしなびた顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 なぜだか心がうきうきし、普通に歩いてはいられなくなって、終いに長者は節に会わせて足を踏みならして踊るようにして走っておりました。
 しばらく行きますと、旦那さんが足を止めました。長者も足を止めました。
 旦那さんと長者の目の前には、古い石の壁の小さな家がありました。入り口には、古い板と新しい板が端切れの継ぎ接ぎのように組み合わさった、小さなドアが付いています。
「さあついた、さあついた」
 旦那さんは水のたっぷり入った瓶を抱えたまま、ドアの取っ手に手を伸ばしました。
 すると、瓶が傾いて、中の水がちゃぷんと小さくはねました。
 はねた水のしぶきは小さな固まりになって飛んで、旦那さんの顔をちょっと濡らしました。
「こりゃ冷たい、こりゃ冷たい」
 旦那さんは慌てて手を戻して、瓶をしっかり持ち直しました。あんまり慌てて抱えなおしましたので、中の水はざぶんと大きくはねました。
 はねた水のしぶきは大きな固まりになって飛んで、旦那さんの顔をびっしょり濡らしました。
「こりゃ大変だ、こりゃ大変だ」
 旦那さんは慌てて頭を振って、水を払おうとしました。あんまり慌てて頭を振りましたので、水瓶の水はばちゃんとたっぷりはねました。
 はねた水の飛沫はたくさんの固まりになって、旦那さんの頭と、長者の頭をぐっしょり濡らしました。
 村で一番の金持ち長者は大慌てになりました。
「一緒に持とうか? ドアを開けようか? いっそ一緒に持って、ドアを開けてやろう」
 長者は急いで片手で水瓶を支え、急いで片手をドアの取っ手に伸ばしました。
「いや有難い、やれ有難い」
 旦那さんはたいそう喜んで、にこにこ顔を一層にこにこさました。
 それを観ました長者は、なぜだか心がうきうきしました。じっと立っていられない気分でした。足を踏みならして踊りたくなるような心持ちになりました。
 でも長者は、本当に踊り出してしまいましたなら、益々水瓶が揺れて、益々水があふれてしまうと思いましたので、心の中のうきうきと、踊り出したいむずむずとを堪えることにいたしました。
「さあドアを開けたぞ、さあ水瓶を運ぶぞ。何処まで運ぼうか、何処へ置こうか」
 長者はとても大きな声で言いました。
 旦那さんは少し困ったような顔をしました。
「ああ済まない、ああ申し訳ない。どうか長者さん、手を放しておくれ」
 すると長者は言いました。
「いいや放さない、放せない。今手を放したら、水瓶は落ちて割れて、水は溢れて流れて、わしもお前もずぶ濡れになる」
 旦那さんは確かにその通りだと思いました。
 そこで旦那さんは言いました。
「台所の奥まで運んでおくれ。流しの脇に置いておくれ」
 長者は大きく頷きました。
「判った、判った。さあ運ぼう、さあ置こう」
 旦那さんと長者は歩幅を合わせて大きな水瓶を運びました。それから、息を合わせて大きな水瓶を床に置きました。
「いやありがとう、ありがとう。おかげでとっても助かった」
 旦那さんは笑いました。
「とんでもない、とんでもない。おかげでとても楽しかった」
 長者も笑いました。
 でも笑った後で、
「さて、いったい何が楽しかったのだろう」
 と首をかしげました。
 村一番の長者は楽しくなるようなことは一つだってしていないはずでした。
 すると旦那さんがいいました。
「歩いたり、走ったり、水に濡れたり、ドアを開けたり、瓶を運んだりしただろう?」
「歩いたり、走ったり、水に濡れたり、ドアを開けたり、瓶を運んだりしたところで、疲れるばかりで楽いことなどないだろうに」
 村で一番の金持ち長者は疲れることをするのが大嫌いでした。
 歩くのは足が疲れますから、普段はずっと座っています。
 走るのは腰が疲れますから、普段は馬車に乗ります。
 顔を洗うのだって手が疲れますから、水を被るなんてことはにしません。
 ドアの開け閉めだって腕が疲れますから、番頭や小僧にやらせます。
 もちろん、重たい水瓶を運ぶことなんて、体中が疲れ果てそうなことは、今までに一度だってやったことがありません。
「そりゃ長者さん、確かに動いて働けば疲れるばかりだが、家族や仲間や、それから友達と一緒なら、これほど楽しいことはないものさ」
 石の壁の小屋の旦那さんは、にこにこ顔を益々にこにこさせた上に、もっとにこにこ笑って言いました。
「長者さんはこの爺さんと一緒に歩いて走って水を浴びて、この爺さんのためにドアを開けて水瓶を運んでくれたんだ。友達と一緒に友達のために何かをするのは、この上なく楽しいことに決まっている」
「友達だって!」
 長者は頭のてっぺんから煙が吹き出すような勢いで叫びました。
 目玉の奥のずっと奥で、暗い神殿の祭壇の炎が揺れるのが見えた気がします。
 長者があんまり驚いたので、旦那さんはびっくりしました。
「ああ申し訳ない、申し訳ない。なにしろ同じ頃に生まれたし、おなじ神殿に参っていたものだから、なんだか他人とは思えなくて、勝手にそう思っていただけだ」
 旦那さんの困った声が、長者の耳に入ってきました。
 でもその耳の穴のずっと奥で、別の声も聞こえていました。村で一番の金持ち長者はブルブルッと身震いしました。
 長者がなんにも言いませんので、旦那さんは益々困ってしまいました。
「この爺さんが長者さんを友達扱いしてはいけなかった。申し訳ない、申し訳ない」
 旦那さんが頭を下げますと、長者はもう一遍ブルッと身震いをいたしました。そうして羽虫の羽音よりも小さな声で言いました。
「わしが屋敷に帰ると、食事の支度はあったのに、料理人も使用人もいなかった。反物はできあがっていたのに織工はおらず、粉は挽き上がっていたのに粉碾き職人はいなかった。田畑はあるのに耕す者がおらず、牧場はあるのに牧人はいない。種を蒔いても芽は出ずに、柵があるのに山犬が入ってくる。屋敷が火の海になっても消す者がいし、蔵は鼠の巣になっても追い出す者がいない」
 旦那さんも羽虫の羽音ほどの声で言いました。
「誰もいない理由は、長者さんが一番よく知っているだろうに」
 旦那さんの言うとおり、長者は理由を知っています。畑にいた者を追いだし、蔵にいた者を追い出し、工場にいた者を追いだし、厨房にいた者を追いだし、屋敷にいた者を全部追いだし、訪ねてきた鍛冶屋を追い出したのは、自分でしたから。
「ここに来る途中、粉碾き小屋に粉碾きの職人たちがいた。織物工場に織工たちがいた。厨房に料理人がいて、作業場に鍛冶屋と大工たちがいた」
「みんながいる理由は、長者さんが一番よく知っているだろうに」
 旦那さんの言うとおり、長者は理由を知っています。追い出された者は耕せる畑を探し、働ける作業場を探し、腕を振るえる場所を探し、雇ってくれる主人を捜す筈ですから。
 村で一番の金持ち長者だった老人は、ブルブルブルと身を震わせました。
「教会の祭壇に天から御使いが降りてきて、
 一人のじいさんに仰った。
 持っている物はなくなって、
 片掌の中に握っていられるだけになると仰った。
 大きな屋敷は燃えて落ち、
 大きな蔵は崩れて落ち、
 大きな工場は焼けて落ち、
 大きな畑は荒れ果てて、
 掌の中には何にもない」
 老人は、まるで神殿の合唱隊がお葬式の時に歌うような口ぶりで、ぼそぼそと言いました。
 村で一番の金持ち長者だった老人は、背中を丸め、肩を落とし、頭を下に向けました。
 老人の体は、まるで風に吹かれて雨に降られた枯れ木のように、がたがた震えてしずくを落としています。
 目玉から涙がじわりと溢れ出て、ほっぺたを涙がつるりと流れ出て、床の上に涙がぽとりと流れ落ちたのです。
 石の壁の小屋の旦那さんは、長者さんだった年寄りに言いました。
「光の御使いが言ったことは、その通りになるものさ。この爺さんと婆さんが言われたこともその通りになった。だから長者さんが言われたこともその通りになる」
「ああ、その通りだ。何もなくなった。何もなくなった」
 長者だった老人は益々震えて、益々泣きました。すると旦那さんは首を横に振って言いました。
「いいや何もなくなる訳がない。だって、光の人は仰ったのだろう? 片方の掌の中に握っていられるだけの財産、と。だから長者さんは全部なくしたんじゃあない。その証拠に、ほうれごらん」
 ガリガリのしわしわに痩せた老人の手を、ごつごつのつやつやに太い旦那さんの手が握りました。
「握り替えしてごらんなさい。そうすれば、長者さんの掌の中には、この爺さんの手があることになるだろう?」
 老人は旦那さんの手を握りました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 長者だった老人の体から、ガタガタ震えが消えました。ぼろぼろ涙も消えました。背中がしゃんと伸び、肩がぴんと張り、頭がしゃっきり持ち上がりました。
 すっかり顔色の良くなった老人をみて、旦那さんは少し遠慮がちに言いました。
「もしものことけどね、長者さん。もしも長者さんが、この爺さんを友達だと言ってくれるなら、この爺さんは長者さんの手を放さずにいようと思うんだよ。そうすれば、長者さんの掌が空っぽになることはないだろう?」
「友達だって!」
 長者は頭のてっぺんから煙が吹き出すような勢いで叫びました。
 目玉の奥のずっと奥で、暗い神殿の祭壇の炎が揺れるのが見えた気がします。
「嫌ならいいんだよ。無理強いをして仲よくなっても、それは友達とは言わないものだ」
 旦那さんは残念そうに手を放そうといたしました。ところが手を放すことができません。長者だった老人が、力を込めて握り替えしているからです。
「何を言っているんだね。こんなに素晴らしい『財産』を手放すバカ者はこの世にいない。ああ、わしは全部を失って、全部を手に入れた!」
 元気の良い老人は、踊るような足取りで飛び跳ねました。そうして若い旦那さんの顔をじっと見て、言いました。
「これまでのこととこれからのこと、全部謝って、全部お礼を言おう。そして、もしこれからさきのずっと先まで、お前がわしを友達と呼んでくれるなら、わしはお前のためになんでもしてやろう」
「何でもしてくれるだって!?」
 今度は石の壁の小屋の旦那さんがびっくり声を上げました。
「ああ、なんでもするさ」
 老人は大きく頷きました。
 旦那さんはすぐさま言いました。
「ならば、早速お願いだ」
 すぐさま老人は答えました。
「よしきた、早速聞いてやろう」
「この爺さんと婆さんの子供らの名親になってはくれないか?」
 名親といえば本当の親も同然です。老人は少し躊躇しましたけれども、旦那さんがにこにこにこにこ微笑んで、ギュッと手を握って真っ直ぐに、自分を見つめていますので、心を決めて答えました。
「その役目をくれたこと、心の底からありがとう。早速子供らの顔を見せてはくれないか?」
 石の壁の小屋の旦那さんは、村一番の財産持ち長者の手を引いて歩きました。
 台所のドアを開け、今のドアを開け、寝室のドアを開け、暖炉のそばの寝台の上、若い奥さんの腕の中、すやすや眠る二人の子を長者に紹介いたしました。
「さて、なんて可愛い子供だろう。まあるいおでことまあるいホッペが、お日様色に輝いている。まるで光の御使いの子供のようだ」
 長者はポンと膝を打ち、旦那さんに言いました。
「キラキラのクレールとピカピカのクラリスと、名前を付けてはどうだろう?」
「それは良い、それは良い」
 旦那さんと奥さんがよろこんで弾けるように笑いますと、暖炉にかけた鉄鍋のなかでもうひとつ、煎った空豆がその皮を、ポンと弾かせ笑ったとさ。

 さて、このお話はこれでお終い。
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