第 9回 テーマ「時代を感じさせる描写」

明治

 人の流れの大半が中村座に向かっているらしい。
「今夜はお江戸から来た太夫が一節謡うんだそうだ」
「おまえさんは、なんとも古いな。東京と呼ばれるようになって10年近いぞ」
 酔客がわめきながら歩いている。
 人間がみっしりと詰め込まれた通りの真ん中から、耕太はどうにか抜け出した。兵児帯の端を誰ぞに引かれたか踏まれたがしたらしく、帯はだらりと解けてあわせも乱れている。
「耕坊、無事かい」
 叔父さんが血相を変えて飛んできた。
「坊に怪我でもさせたら、義姉さんに申し訳が立たないからね。賑町に連れてくるのだって、ようやっと許しをもらったって言うのに」
 そうこぼしながら、叔父さんは耕太の頭やら背中やらをなで回し、何事もないのを確認すると、帯を縛りなおそうとした。ところが帯はどうにも旨く結ばってくれない。
「大丈夫」
 耕太は叔父の手から帯を引き抜くと、自分で結んだ。母親がしてくれた結び目にはほど遠いが、叔父さんの硬結びよりはずっと綺麗な結び目ができた。
「耕坊は器用だねぇ。きっと義姉さん似だよ。羽織の緒一つ自分じゃあ結べない不器用な兄さんに似なくて、本当に良かったな」
 叔父さんはやたらと耕太の母親のことを褒める。次には必ず父親のことをけなす。そしてそのあとですぐに、
「坊、今のは兄さんには内緒にしてくれよ」
と頭を下げる。
 耕太はこの叔父が好きだった。
 ひょろ長くて色白で、お蚕さんの顔を怖がるような弱虫だが、頭が良くて面白い話をたくさんしてくれる。
 それに、なにより優しい。
 父も母も祖父も祖母も、製糸工場の跡取りである一人息子の耕太に厳しい。
 一寸したことですぐ怒る彼らから、この叔父はいつも耕太を助けてくれる。
「良いよ」
 耕太はニコリと笑った。叔父さんもニコリと笑った。
「耕坊、落語がはじまるよ」
 叔父さんは耕太の手に寛永銭を握らせ、背中を叩いた。
「一刻したら迎えに来るよ」
 そう言い残し、彼は人混みの中に入って行った。
 一刻したら多分、叔父さんはからだからお酒とおしろいの匂いを漂わせながらここに戻ってくるに違いない。
『そのことも、内緒にしてあげる』
 叔父さんの姿が見えなくなるまで、耕太は小銭を握ったままその場に立っていた。
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