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のこり香

「いいか、俺はIが嫌いなんだ」
 M氏は鼻の穴から煙を吹き出した。ほんのりとが匂うリトルシガーの先端から、灰が、ぽとり、と落ちる。
 差し向かいで茶を喫していた細君が、丸い顔に苦笑いを浮かべた。
 嫁いでからこの方、この話を何度聞かされたか知れない。言っている当人も何度話したか忘れているであろう。
 それでも語らずには居られないのだ。
 殊更、今日のこの時ばかりは。

 M氏は、田舎の、ある役所の役人だったが、若い頃は漫画描きになることを夢見ていた。
 その時分には、年に何度か東京へ出ては、同人の仲間と語り合ったり、出版社に足を運んだりしている。
 その日も、東京からの帰途であって、まだこの辺りに新幹線の通っていない頃であったから、特急に揺られていた。
 三時間ほどの旅路である。M氏はその間に、二名の仲間たちと、次に出す同人誌の内容を打ち合わせようと考えた。
 切符代を惜しんで、自由席の四人掛けに、大きな体を押し込んでいた三人の男共は、残り一つの空席に、如何にも品の良さそうな老婦人が、樟脳しょうのうが微かに匂う礼服を着て、ちんまりと座ったものだから、その場で「会合」をする気にならなかった。
 そこで連れ立って、ラウンジへ向かった。
 このラウンジは自由席車両の半分を区切ったものであって、通常の四人掛けの椅子は取り払われ、三人掛けのソファ席と、パイプの背もたれの付いた丸椅子が、車窓を眺めるに良いように並べられている。
 無論、これらの椅子は床に固定されており、動かすことは出来ない。
 窓枠下から天版が突き出るような恰好でテーブルが付いてい、客は好きな席に座って、思い思いに弁当を広げたり、茶を喫したりしている。
 つまり、自由席なのである。乗客であれば、誰が利用しても構わない。
 そういった訳であるから、ラウンジは大抵混んでいる。
 その日もそうであった。ソファ席は満席であって、丸椅子の方も二つばかりを除いて埋まっている。
「おい、あそこに行こう」
 M氏が一人の友人の袖を引くと、
「いや待て、あそこはダメだ」
 彼は空いた丸椅子の隣の席を指した。
 まだ禁煙だの分煙だのということがやかましくなかった時代で、ラウンジカーの空気は紫煙に霞んでいる。
 その霞の向こうに、小柄な年寄りが一人座っている。
 年寄りは、大変に目立っていた。
 着流しに細めの帯、白足袋に下駄履きという出で立ちで、足を通路側に放り出すようにして、半身をテーブルに向けている。
 その古体な身なりも、確かに目立つ代物であったが、それ以上にこの老人に近づきがたい心持ちにさせる物があった。
 斜に向かったテーブルの上に、白い紙らしきものが、十数枚も打ち広げられていたのである。
 紙は、その表面に升目を切ったような印刷がなされていた。紙束が年寄りの手元に重なり置かれているのだが、これは、綺麗に角を揃えてある訳ではない。乱れ崩されて、手の下から押し出されるように、いや、逃れるようにして広がり、丸椅子三つ分のテーブルを覆い尽くしていた。
 年寄りの手には万年筆が握られている。
 これを見れば、この年寄りがどうやら物書きであるらしいことは、誰にでも判ろうものである。
 年寄りは、瓶底のようなレンズの入った眼鏡の奥から、真っ白な紙を睨み付けたかと思うと、白髪頭を上げて天を仰いだり、窓の外を見たり。ようやっと頭を下げて紙を睨み付け、何文字かを紙にを書き付けて、甘藷じみた匂いの両切り煙草をシガレットホルダーに突き刺して吹かし、また頭を上げた。
 その益体もない動作を、際限なく繰り返している。
 そうやってテーブルを占拠している年寄りの、投げ出された下駄の歯が、かたかたと鳴るその下に、煙草の灰が積もっている。
 客車の、ことに在来線のそれの通路というものは、もとより広いものではない。ラウンジカーのような、席をゆったりと取った改造車両ともなれば、なおのことである。
 下駄履きのこの脚は、たいそう目障りであった。
 それにテーブルの上を占拠する紙の束も、
「邪魔くさい……」
 そしてなにより、人並み外れて空間を占めているこの年寄りの、それを悪びれもせずにいる態度が、
「気に喰わない」
 M氏は肩を聳やかして、年寄りの足先数センチまで歩み寄った。
 気配を感じ取ったらしい老人が、不機嫌顔を持ち上げて、M氏を睨み付けた。
 M氏は、ニタリ、と笑って見せた。
「爺さん、締め切りはいつだい? それとも、もう何ヶ月もぶっ千切っているのかね?」
 良い笑顔だった。だが、針のように細められた瞼の奥で、眼がぎらりと光っている。
 年寄りは、ギョッとして瞬いた。間、髪を入れず、M氏が、
「どうもそうらしい。だってそうだろう? その手元足下のだらしなさを見れば、時間にも相当にだらしないと、誰にでも判ろうよ。さて、約束事の守れない上に、他人様の通行に迷惑をかけるような、そんな物書きセンセイが、よもやプロであるはずはない」
 大声ではない。むしろ抑えた声であったと言ってよい。
 年寄りの顔が、一瞬赤くなった。怒ったようだ。
 何か言いたげに口を開けた、その鼻先へ、M氏が顔をぐいと寄せた。
 M氏は大柄である。小さな頃から剣道を習わされた御陰で、肩幅は広く、胸が厚い。その大きな体が、傘のように年寄りへ覆い被さっている。
 年寄りは相当に驚いたらしい。
 後ろへ身を引こうとした。
 ところが椅子は固定されている。上半身のみをのけぞらせるような恰好になった年寄りの、瓶底眼鏡は、鼻柱を滑り落ちて、鼻先でどうにか留まった。
 紅潮していた年寄りの顔が、見る間に紙のように白く変じた。
 M氏の笑みが大きくなる。その笑顔を、更に前へ突き出して、
「……爺さん、どこの同人作家だね?」
 と、決め付けたものだ。
 年寄りはぱっとM氏から目をそらした。
 吸い殻が溢れ出ている、備え付けの灰皿に、吸いさしの紙巻きを無理矢理押し込むと、テーブルの上へ手を伸ばした。
 列車に乗り込んだその時から、どれだけ唸っても一文字も書けなかったらしい、筆の遅さからは、信じられないほどの素早さを見せて、年寄りは、打ち広げられていた真っ白な原稿用紙をとりまとめた。
 そうして、それを揃えもせずに抱え込んで、大あわてで席を立ち、転げるようにして、指定席車両の方へ走って行ってしまった。
 ラウンジの中がざわついていた。乗客の中にも、この年寄りの横柄とも言える態度を苦々しく思っていた者がいたのだろう。笑い声さえ起きている。
「下駄履きで、よくもあれほど早く走れるものだ。感心するよ」
 M氏が仲間を見返って言うと、早くも一人が空いた席に陣取り、手招いていた。
 もう一人は青い顔をしていた。
「Mさん、ありゃ有名な作家センセイの……」
 名を言いかけるのを制して、M氏は、
「俺はあんなヤツぁ、これっぽっちも知らないね」
 恐ろしさのかけらもない、本当の笑顔を見せたものであった。

 吸い殻の山になった灰皿に、半分ほども吸わないリトルシガーを押し込んで、M氏は
「だからな、俺はIが嫌いなんだ。あんな迷惑千万なヤツを、誰が好きになれるというのだ。もちろん、アレの書いたものなんぞは……俺は死んだって読むものかよ」
 じろり、と細君の顔を見た。
 十年も昔になるだろうか。初めてこの話をされた時に、細君は、
「本当にI先生だったんですか?」
 と尋ねた。
 M氏は不機嫌に、
「他にそんな物書き紛いがいるかよ」
 と吐き捨てるように言ったものだ。
 Iというのは、それよりも更に十年以上も昔、つまりは二十数年前にこの世を去った、小説家ものかきであった。
 大変な流行作家であり、直木賞やら菊池寛賞やらを頂戴し、紫綬褒章まで賜っている。
 この先生、の生まれであるのだが、何故かM氏の故郷での人気が大変に高い。
 それというのも、土地ところを舞台にした作品が、テレビの連続ドラマとなったからであろう。
 件のドラマは、今でも時折、CS放送のチャンネルで放映されるものだから、I氏の死後に生まれたような若者でも、知っている者が多い。
 特に、土地ところのケーブルテレビなどは、盆暮れや、米や秋蕎麦しんそばの収穫が済んで、農家が一息を吐く頃になると、必ずこの作品の再放送をやるから、老若男女、知らぬ者はいないに違いあるまい。
 実に、そういった再放送が、大変に良い視聴率すうじを出すそうな。
 つまりは、掛け小屋で言うところの忠臣蔵のような、独参湯ドクジントウの役をなさしめているのであろう。
「聖地巡礼」
 などという言葉が流行はやりになったのは、つい最近のことのようだが、その言葉に、そういった意味が与えられる以前から、読み物や芝居の舞台を、
「訪れたい……」
 という、熱心な読者や観客は、少なからずいた。
 半世紀前までは、崩れかけた古城しかない、寂しい山奥の田舎であったこの街が、大変な観光名所になったのは、まさしくそのような熱心な読者の御陰であり、作品とそれを生み出したI氏よりの賜物なのであった。
 こうなると、街も予算を付ける。
 古城は修復され、小説とドラマを題材にしたが始まり、観光会館が建ち、博物館は収蔵品が増やされた。
 金を掛けたところに人が訪れ、掛けた以上のおたからを落として行く。
 こうなると、街は、I氏を恩人のように扱うようになる。
 そうなれば、I氏自身もこれを捨て置くことが出来なくなる。
 公的に呼ばれて来ることもあったが、私的に訪れることもしばしばであった。いや、その方が多いかも知れぬ。
 どちらにせよ、I氏は何度もとこの田舎町とを往復していることになる訳であるから、あの時、M氏と同じ特急に乗り合わせたとしても、
「何も可笑しくはない」
 のであった。
「あれも、そうやってタダ飯を喰った上に、講演料とかいう小銭をせしめようという道すがらだったに違いない」
 M氏はそう信じて疑わぬ。
「他に、こんな田舎止まりの、椅子の硬い、おんぼろ特急に乗るような、物好きな、俺の知らない有名な物書きセンセイがいる訳がない」
 これがM氏の言い分である。
 細君は苦笑した。

 これほどにI氏を嫌う夫を持つ細君が、それでも彼の人のことを「I先生」と呼ぶのは、土地ところの者がみな、そのように、必ず尊称付きで呼ぶがゆえであった。
 つまりはそれほどのほどの人気者であったのだ。よって、「嫌いだ」などと言いでもしたものなら、どのような目に遭うことか。
「俺も、いい年齢としだ。そこまで馬鹿じゃぁない」
 一度火を圧し消した、八割ほども燃え残っているリトルシガーを、吸い殻の山から引っ張り出して、M氏は再び火を点けた。
「あいつの名前が出そうな所へは、近づかないようにしている」
 その名を聞いたなら、嫌いだと言いたくなる。いや、もとより、名など聞きたくもない。
 しかしI氏は頻繁に訪れていたのだ。二十数年前に突然この世を去るまで、I氏がこの田舎を訪れた回数を、訪れた場所を、数え切ることは、そう簡単なことではなかろう。
 I氏は決して食通とは言えぬが、食道楽ではあった。
 値の高低には頓着がない。和、洋、中の別はもとより、飯でも蕎麦でも菓子でも酒でも、旨いと聞けば、躊躇なく口にした。珍しいと聞けば、予定を変更して脚を伸ばしもした。
 そういった訳であるから、街のちょっとした食物屋には、大抵はI氏の痕跡が残されている。
 壁にはサインの類が、飾られて久しく、黄色く変色している。書棚には手摺れのした単行本や文庫が、ぞろぞろと並べられてあった。
 M氏からすれば、そんな物は、
「見るも嫌だ」
 で、ある。
「そうさ、あの時だって、締め切りのことなど考えもせず、蕎麦を手繰たぐりに来ようという迷惑な道程で、輪をかけて迷惑千万なことをしでかしたのだ。いや、そうに違いない。畜生、あのことの元となったような店などに、金輪際近づくものか」
 そういう理屈をこねつけて、自然とそれらのある小店には、たとえ昔馴染んだ、味の好みの合う店であっても、顔を出さなくなった。
 かくて、今では、街のどこの飯屋にも行けなくなっている。
 そうやって、努めてI氏の痕跡や「匂い」じみたものから遠ざかろう、距離を置こうとしているM氏ではあるが、それでも、ただ一つ、遠ざけがたいものがあった。
 それは、今まさに、M氏の目の前にいる。
 誰あろうか、細君その人であった。

 細君は、押し掛け女房である。
 M氏の父親が、急な病に倒れた折りに、大振りのトートバッグに数日分の着替えと、十冊余の文庫本だけを詰めて、ほとんど無理矢理に、この家へ上がり込んだ。
 ちなみに言えば、M氏の母親という人は、M氏が若い頃……特急列車での件と前後して……亡くなっていた。
 もともと、二人は幼なじみの間柄であって、年齢は大分に離れていたが、そのために、細君はM氏を、
「兄様」
 などと呼んでいて、今でもたまさかに、その呼び名が口をついて出ることがある。
 M氏と細君は、二人で父親を介護し、看取り、送り、そしてそのまま細君が、
「居着いて……」
 しまった。
 だから祝言じみたものは挙げていない。
 葬式と四十九日の法要が済んでから、茶色い紙切れに各々名前を書き、判をついて、役場へ提出した。
 ただそれだけだったが、それでも大切な記念の夜に、M氏は細君の顔をまじまじと見て、
「いいか、俺はIが嫌いなんだ」
 と言ったのが、初めてだった。
 細君の持ち込んだ僅かな「私物」のうちの、半分ほどは、I氏の著作であった。
 以来、細君はその数冊を、自分用にあてがわれた古ダンスの、あまり開け閉てのない引き出しの奥深くに、しまい込んでいる。
 これを捨ててしまうことは、出来なかった。

「いいか、俺はIが大嫌いなんだ」
 M氏は鼻の穴から煙を吹き出した。今日だけで同じことを十遍は言っている。
 リトルシガーの箱も、もう二つばかり空になっていた。
 M氏は煙草の空箱を乱暴に放って、ちらりと食卓の脇を見やった。
 立派な水引と、のし紙の付いた一升瓶が、桜色の風呂敷に包まれている。
 これを、届けねばならぬ。
 役人を辞め、亡父の小商いを嗣ぐことになったM氏が、迷惑をかけ、世話を受けた大恩人の所へ、行かねばならぬ。
 その人も、役人であった。
 現場主義の人で、出世は最初からあきらめていた風であった。
 それでも永年勤続だということもあったものか、定年を少しばかり前にして、栄転が決まった。
 この街で一番新しい、公営の観光施設の館長職である。
 I氏が急逝した後に、その遺品のいくつかの寄付を承けて、この街に建てられた、その記念館の、だ。
 M氏は三箱目の封を、もどかしげに切りながら、
「畜生め、こんなことなら、あの時、口でのではなく、年寄り臭い白髪頭をぶん殴ってやるのだった。金輪際この街に来ようなんざ、思いもしないぐらいに、よ」
 物騒なことを吐いた。
 と……。
「白髪頭、ですって?」
 細君が頓狂な声を上げた。
 M氏がいぶかしげに細君を見やる。
「その、特急の、ラウンジの席を独り占めにしていた人が、白髪頭?」
「それ以外に、俺が嫌いな奴はいまい」
「どんな、白髪でした? いえ、そもそも、どんなお顔でした?」
が、か?」
 細君は背筋をぴんと伸ばすと、
「ですから、その、が、です」
 ゆっくりと言った。
 急に妙なことを……と思いはしたが、そういえば、あの時の年寄りについて、その顔つきの細かいところは語ったことはなかったやも知れぬ。M氏は手をこまねいて、目を閉じた。三十年近く前のことを、今一度、よくよく思い出そうとしている。
「着流しに、下駄履きで……」
 それは何度も聞いている。
「着物のことなどは、この際どうでもよいのです。私が確かめたいのは、背格好であるとか、顔立ちであると、もっと細かい所です。……で、どんな方でした?」
 口調は普段と変わらぬ、ゆっくりと穏やかなものであったが、細君は常には見えぬほど鋭い眼光で夫を見つめており、丸顔も心なしか引き締まって見える。
「う……俺よりは、小柄だった……気がするな……」
 M氏は、へどもど答えた。
「そりゃ、兄様は大柄ですから、大抵のお年寄りは、小柄でしょう。……それから?」
 細君の眼差しは鋭さを増し、まるで睨むかのようであった。
 M氏の大きな体が、僅かに縮んだように思える。
「妙に四角い顔で、四角い黒縁の眼鏡で、しかつめらしい顔をして、真っ白けの白髪ずるずる伸ばした……」
「真っ白な、白髪の、長髪……?」
「ああ」
「おでこは、前髪で隠してらした?」
「ん……?」
 M氏は小首をかしげたが、ややあって、
「ああ」
 と頷いた。
 途端、細君は、ばっ、と立ち上がった。
 驚いて、口を開けたM氏の顔など気にも留めず、細君は寝室へ走った。古ダンスの引き出しを、めいっぱいに引く。十年眠らせて、樟脳しょうのうの匂いの深くしみこんだ文庫本を、一冊、ひっ掴んで、細君は居間へ戻った。
 M氏が露骨に嫌な顔をするのを、やはり構いもせずに、細君は、文庫本の表紙を開いた。
 むっちりとした指がカバーの袖を示した。
「このお顔でした?」
 著者名とプロフィールと、いわゆる「著者近影」が印刷されている。いや、当の作者が身罷みまかった後の刷りであるから、「近影」というよりは、「遺影」と呼んだ方がよいのかも知れぬ。
 写真の老人は、四角い顔で、四角い黒縁の眼鏡で、しかつめらしい顔をして、白髪混じりの薄い短髪をオールバックに撫で付けていた。
 M氏の顔色が、変わった。気色ばんで赤黒かった顔の色が、僅かに薄くなったようだ。
 こわばった顔の唇に、リトルシガーを挟んだまま、もそもそとした声で、
「……違う……」
 絞り出すように言うのが、ようやく、であるらしい。
 細君は頷くと、また走った。今度は仕事場へ向かう。
 戻ってきた彼女の手には、今度はタブレットが掴まれていた。
 なにやらタップとスワイプを繰り返した後、細君は、ふっと、微笑とも付かぬ微笑を頬に浮かべた。
 液晶画面が、M氏の眼前に差し出される。
「こちら……?」
 M氏の顎が、力を失った。喉の奥から、
「あ……」
 という声が出て、火の消えたリトルシガーが、ぽとりと落ちた。
 M氏は奪うようにして、細君の手からタブレットを受け取ると、穴が空くほどにまじまじと画面を眺めた。
 やや長髪の白髪の、前髪で額を覆った、四角い黒縁眼鏡をかけた、四角い顔の年寄りが、紫煙の燻る紙巻きを指に挟んで、楽しげに笑っている。
「……この、面……」
 M氏はいま一度、言葉を絞り出した。
 I氏ではない。
 I氏よりも数年後にこの世を去った、別の小説家ものかきの名前が、その写真の下に添えられていた。
「……違った……」
 M氏の喉から、言葉が、ほとばしり出た。
 顔が奇妙に引き連れている。
 笑っているらしい。
 M氏はタブレットを細君に投げ返した。
 椅子を蹴って立ち上がりざま、M氏は桜色の風呂敷包みをひっつかみ、
「行ってくる」
 しわがれた声で言い、一つ大きく息を吐いてから、のっそりと勝手口へ向かった。
「行ってらっしゃい、お気を付けて」
 その背中に、細君が大きく声を掛けた。

 さて……。
 勝手口のサッシ戸がぴしゃりと閉まるその音を聞いた、M氏の細君は、すっかり冷め切ったお茶を飲み干して、長歎息をついた。
 タブレットの液晶の向こうで笑っている、その小説家ものかきの顔に、微苦笑を向けると、細君は電源ボタンをそっと押した。
 それから、ゆっくり立ち上がり、寝室に戻っった。
 開けっ放しのタンスの引き出しには、まだ数冊の文庫本が取り残されている。
 そこへ先に出した一冊を加えると、それをタンスの上に置き並べた。
 その僅かな、生活の隙間のような場所が、細君の「書棚」であった。
 書棚には、実家から持ち出した本の内の、を免れたと、後に買い足したものが、混然として並んでいる。
 細君はその中から、大分に手摺れのした、数冊の古びた単行本を取り上げた。
 そうして、先程来、引き出されたままの引き出しに、それを収め入れると、季節はずれの着物をかぶせて、ピシャリ、と締めた。
 樟脳の匂いのする風が、引き出しの隙間から吹き出して、部屋の空気と混じり、薄れながらも漂い続けている。
 細君の鼻腔は、そのさわやかな香りに、すっかり慣れきってしまっていた。

〈了〉


※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・列車ダイヤなどとは一切関係ありません。ええ、ありませんとも。

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