龍とお姫様

 昔々……。
 高い山の麓に、広大な森が広がっていました。
 森の名は、龍ガ森と言いました。
 人々は、この森の奥に悪い龍が棲んでいて、村や町や国を襲い、家畜や人や兵隊を殺し、家や櫓やお城を壊して、金や銀や宝石をたくさん盗んでいって、住処の洞穴の中に隠していいると噂しておりました。
 そこで、たくさんの兵隊や軍人や武人が、この大きな龍を倒そうと、龍ガ森に入って行きましたが、そこから出てきた者は一人もおりませんでした。
 
 ある日、ある時、一人の若い勇者がこの森に入りました。
 龍ガ森の近くにある小さな国の、王様の弟です。
 深く、暗い森の中を、びくびくしながから進んで行くと、頭の上から声がしました。
「お前も私を倒しに来たのか?」
 これこそ、噂の「悪い龍」の声に間違いありません。
「そうだ、私はお前を倒しに来た」
 ぶるぶる震えながら、王様の弟は答えました。
 と。
 鬱蒼と茂っていた森の樹が、一斉にざわざわと、まるきり足でも生えたように動きだしました。
 そうして、王様の弟の目の前には、広い広い、気味の悪い空き地が広がったのです。
 風が、びゅうと吹きました。
 王様の弟は、びっくりして目を閉じました。
 風はすぐに収まりましたので、王様の弟はそっと薄目を開けてみました。
 するとどうでしょう。
 目の前に、お城の塔よりも大きな、一頭の龍が現れたのです。
 全身鱗に覆われ、前足にも後ろ足にも、死に神の鎌のような爪が生えてい、大きく裂けた口の中には鋸のよりも鋭い牙がびっしりと並び、頭には二本の角が生えていました。
 王様の弟は、恐ろしくなって、剣も抜けず、腰を抜かして、ただ、ガタガタと震えることしかできません。
 龍は、水晶玉のように光る二つの目で、へたり込んでいる王様の弟を睨み付けると、尋ねました。
「お前の一番大事なモノは何だ?」
「え?」
 王様の弟は、一瞬、龍の言っている意味を解りかねました。
 しかし、彼は頭のよい男でした。すぐに
『そうか。今までたくさんの人間が龍を倒しに行ったきり戻ってこなかったのは、この質問に答えられなかったからだ』
と、いうことに気が付いたのです。
『命が大事、と答えたら、龍はその者の命を奪うつもりなのだ。名誉が大事と答えたなら、名誉を……つまり、龍を倒した勇者であるという名声を……奪うために、やはり殺してしまうのだ。何も答えずに逃げ出そうとすると、臆病者とののしって、やはり殺すのだろう』
 どうすれば、この龍に殺されずに済むだろうか?
 王様の弟は、大きく息を吸って、こう答えました。
「私が一番大切なのは、私の血を引く娘です」
 龍は、小さく首を傾げると、
「お前のような答えを出した者は、初めてだ」
と言うなり、背中の大きな翼を広げて、空高く舞い上がって行きました。
 その羽ばたきで、また、強い風が吹きました。
 王様の弟が、もう一度目を閉じて、もう一度目を開けたときには、龍の姿どころか、不気味な空き地も消えていました。
 ただ、地面に、大きな虹色に光る鱗が何枚も落ちていました。

 何年かが過ぎました。
 お城の玉座に、一人の男が座っていました。
 龍を退治し、その証拠に龍の鱗を持ち帰ってきた英雄である、前の王様の弟です。
 お兄さんの王様が、ふとした流行病で崩御したので、数年前に彼が王位を継いだのです。
 前の王様に子供がいなかったわけではありません。一粒種のお姫様……ペリーヌ姫……がいました。
 ですが、まだ十五歳になったばかりの女の子に、国の政はできないだろうと言うので、王様の弟が王位を継ぐことになったのです。
 さて。
 新しい王様にも、一粒種の娘……ベリーヌ姫……がいました。
 ですから、前の王様のお姫様と、今の王様のお姫様は、姉妹のように育てられることになったのですが……。
 新しい王様も、新しいお后様も、そして新しいお姫様も、どうしても、前の王様のお姫様を好きになれませんでした。
 ペリーヌ姫が、特段美しいというのではありません。
 むしろ、赤毛でそばかすだらけで、痩せっぽちなこのお姫様よりも、金髪で色白で、豊満な従姉妹のお姫様の方が、ずっとずっと美人です。
 国中の、そして外国の貴族や王子からの求婚も、ベリーヌ姫にばかり集まります。
 それでも新しい王様とお后様がペリーヌ姫を好きになれないのは、
『もし、万が一、新しい王様が亡くなるようなことがあったら、その次の王様になるのは、前の王様の直系の子孫であるペリーヌ姫だから』
なのでした。
 ペリーヌ姫は、物静かな方です。優しすぎるくらい優しいお姫様は、自分が次の王様になろうなどとは思っていません。
 独り、ひっそりと暮らしたいと願う自分に、プロポーズする王子様がいないことは、むしろ喜ばしいことでした。
 誰からも忘れ去られて、静かに暮らすのが、ペリーヌ姫の望みだからです。
 ですから、舞踏会にも社交界のサロンにも、一切顔を出しません。
 その所為か、国の内でも外でも、ペリーヌ姫の名は知っていても、その容姿を知る者がほとんどいない、というありさまでした。

 ある日、ある晩のこと。
 お城に一人の男がやってきました。
 真っ黒なマントを着て、真っ黒なシャツを着て、真っ黒なズボンをはき、真っ黒なブーツを履いた、不思議な男でした。
 お城には、警備の兵隊がたくさんいます。
 しかし、不思議なことに、誰もこの男がお城に入ったことに気が付きませんでした。
 まるで、窓の隙間から霧が漏れ入るように、忽然と王様の寝室に現れたのです。
 王様は、恐ろしくなって、衛兵も呼べず、腰を抜かして、ただ、ガタガタと震えることしかできません。
 男は、水晶玉のように光る二つの目で、へたり込んでいる王様を睨み付けると、言いました。
「お前の一番大切なモノを、貰いに来た」
 遠い昔、まだ若い頃、どこかで聞いた声でした。
 男はもう一度言いました。
「お前があの時言った、お前の一番大切なモノ……お前の娘を貰いに来た」
 頭のよい王様は、すぐにこの不気味な男が誰であるか気付きました。
『この黒ずくめの男は、あの時の龍だ。あの時の龍が、人の形に化けて出たのだ』
「待ってくれ、待ってくれ」
 王様は震えながら言いました。
「なぜ、今になって娘を奪いに来たのだ?」
「愚か者よ。あの頃お前はまだ妻も子も無かったではないか。その上で、生まれてもいない娘が一番大切と言った。……だから我はお前に娘ができるのを待った。お前の娘が大きく育ち、本当に『お前の一番大切なモノ』になるのを、待ったのだ」
 王様は、全身が凍り付くのを感じました。
 そして、苦し紛れに言ったのです。
「今すぐ大切な娘と別れるのは辛すぎる。少しだけ時間をくれ。……1日……いや、半日で良い。別れを惜しむ時をくれ」
 男の水晶のような目が、きらりと光りました。
「明日、正午。……一分でも時間を違えたなら、この国を焼き払う」
 言い終わると、男の姿が、すぅっと消えました。
 暗い寝室に、ぽつんと一人きりになった王様は、震えながら考えました。
『可愛いベリーヌ姫を、恐ろしい龍の餌食にするなんてできはしない。……何とか龍を欺く手だてはないか? 私ならできる。あの時も龍を欺いて、己の命を守ったではないか』
 夜が明けて、カーテンの隙間から朝日が射し込みました。
 王様は、ポンと膝を打つと、にんまりと笑って立ち上がりました。

 お城の中庭を取り囲むように、王様とお后様と、百人の兵隊が、奇麗に列を組んで並んでいました。
 庭の真ん中には、花嫁衣装のような白いドレスを着たお姫様が一人、うつむき、ひざまづいていました。
 教会の鐘が虚ろな響きを立てています。
 鐘が十二回鳴り終わった時が、丁度正午です。
 鐘が十回鳴った時。……青く澄んだ空の彼方から、何かが猛スピードで飛んでくるのが、おぼろげながら見えました。
 十一回目が鳴った時。それは広げた翼の影が、お城の中庭全てを闇で覆うほど、巨大な龍であることが、誰の目にも解りました。
 十二回目。
 影は、無くなっていました。
 白いドレスのお姫様の姿も、そこから消えていました。
 しばらくの間、だれも口を開きませんでした。
 呆然と空を見上げ、立ち尽くしていました。
 最初に声をあげたのは、王様でした。
 腹の底から、湧き出るような、大きな大きな……笑い声でした。
「嗚呼、なんと愚かな龍だろう。あのでかい頭の中には、きっとサクランボほどの脳味噌しか入っていないに違いない」
 お后様も、大口を開けて笑いました。笑いながら、
べリーヌ。ああ、私の可愛い姫。もう安心ですよ、出てきなさい」
「はい、お父様、お母様」
 柱の影から、金色の髪を揺らし、色白の頬を赤らめて、掛け出たのは、ベリーヌ姫でした。
 王様はお腹を抱えて笑いながら言いました。
「これ、妻よ。その愛らしき姫はベリーヌではないぞ。今日、この時よりペリーヌだ。この国の正式なクラウンプリンセスじゃ。……このことは、決して他に洩れてはならない。決して、な」
 王様はまた、ニヤリと笑いました。

 その翌日、百人の兵隊達の家族の元に、それぞれ一通の手紙が届けられました。
 差出人は、王様です。
「あなた方の夫、あるいはご子息は、悪辣な龍と闘って殉職しました。龍は炎を吐き、辺りを焼き尽くしたため、あなた方の夫、あるいはご子息の亡骸は、鎖骨一つありません」
 王様が手紙がしたためている間、お城の中庭では、大規模な「模様替え」が行われていました。
 深い穴が掘られ、それがすぐに埋められ、その上には、強い芳香を放つ数多の花が、植えられたのです。

 月日は、あっという間に過ぎ去ります。
 ペリーヌ姫になったベリーヌ姫は、何百という求婚者の中から、一番ましな王子様を選び、結婚することになりました。
 城の中も、城の外も、お祭り騒ぎです。
 盛大華麗な結婚式が物々しく行われ、絢爛豪華な披露宴を兼ねる舞踏会が開かれました。
 すっかり夜も暮れ、騒がしくて退屈な踊りの輪に皆が飽きてきた頃、お城の大広間のドアが、静かに開きました。
 美しくたくましい黒髪の紳士にエスコートされた、痩せてはいるものの気品ある赤毛の婦人が、ゆっくりと広間の中に入って行きます。
 この二人の着ている物の、何と壮麗なこと。
 シンプルで、それでいて手の込んだ刺繍やレースがふんだんに使われたドレスといい、指輪や耳飾り、首飾りに施された細かな細工といい、すべてが華麗です。
 人波はまるで自然に、当前のごとくに、二つに割れ、この二人のために道を造りました。
 二人は四つ並んだ玉座の前で恭しく礼をしました。
 誰もが皆、この貴人は誰だろう? と首を傾げました。
 玉座の上の王様とお后様とお姫様とその新婿も、彼らが何者であるのか解りません。
 楽隊も、怠惰なワルツを奏でるのを止め、談笑も、うわさ話も途切れ、広間はシンと静まりかえりました。
「ご成婚、おめでとうございます『ペリーヌ姫』様」
 婦人がにっこりと笑って言いました。
 あたりは、一瞬ざわめきましたが、それはすぐに止みました。婦人が、二言目を発したからです。
「お久しぶりです『お父様』」
 広間の隅で、誰かがぽつりと言いました。
ベリーヌ姫様だ」
「ああ、そうだ。龍にさらわれた、ベリーヌ様に違いない」
 広間は、喧噪に包まれました。
 王様とお后様とお姫様は、真っ青な唇を噛み、声も出せずに、その紳士と婦人を見つめました。
 間違いありません。
 この上品な婦人は、王様が「一番大切なベリーヌ姫」を奪われないように、そして実の娘を正当な王位継承者とするために、龍を騙して人身御供にした、本物の「ペリーヌ姫」その人です。
 広間は、誰が何を言っているのか解らないくらい、やかましく、騒がしくなっていました。
 そのうるささの中で、婦人は
「『ペリーヌ姫』様のご成婚を聞き及び、お祝いの品を持って参上しました。私と、私の夫の、心からのプレゼントです。どうか、お納め下さい」
 婦人の傍らにいた紳士……つまり、婦人の夫……が、ベルベットで包まれた小さな箱を差し出しました。
 ペリーヌ姫になったベリーヌ姫の目の前で、紳士が箱を開けると、中には、巨大なダイヤモンドのネックレスが、入っていました。
 ペンダントトップは、鶏の卵ほどの大きさの、青みがかったダイヤ。
 チェーンはプラチナで、その鎖の一つ一つに、透き通った小さなダイヤがはめ込まれています。
 留め具にも、ピンク色のダイヤが輝いています。
「些細な贈り物です。どうか、お受け取りを」
 紳士が言います。
 『ペリーヌ姫』は、ぶるぶると震えながら、それでも頬をバラ色に染め、目を輝かせて、まるで奪い取るように、紳士の手からその箱を受け取りました。
「べ……『ベリーヌ』よ」
 王様はからからに渇いた唇を必死に動かして尋ねました。
「お、お前は、龍にさらわれた。恐ろしい、悪龍に……」
「はい、『お父様』」
 ベリーヌ姫にさせられたペリーヌ姫は、にこやかに笑みました。
「龍が、私を妃にしたいと申すので、『前過を悔い改め、善龍となられるなら』との約束で、縁を結びました」
「そ、そうか……」
 王様は額の脂汗を拭うと、ため息のような声で言いました。
「遠路、ご苦労であったな。今日は、懐かしきこの城に泊まられるが良かろう」

 その晩は新月で、城の中庭には、インク壷を倒したような闇が広がっていました。
 ただ一つ、ろうそくの明かりが、かすかに揺れています。
「悪かったと、思っているわ……ペリーヌ
 金色の髪のお姫様が、震えながら言います。
「でも、お父様の命令だったのよ。私は逆らえなかったわ」
「もう、過ぎたことです」
 赤毛の貴婦人が微笑みました。
「私は今、幸せですし、ベリーヌもそうでしょう?」
「ちっぽけな国の女王になることが、幸せだというのなら、それはそうかも知れない。でも……」
 コトン、という音がして、小さな燭台が大理石の床に落ちました。
「あなたは龍の妃になった。こんなに美しいドレスを当たり前のように着て、あんな大きなダイヤモンドのネックレスを『些細な贈り物』と言い捨てるほど裕福になった」
 ベリーヌ姫の細い指が、ペリーヌ姫の喉に巻き付きました。
「ねえ、ペリーヌ。私達、従姉妹同士で、顔立ちがよく似ているわよね? 違うのは髪の色くらい。ウエストは……もっときつくコルセットで絞めれば、たいして変わらなく見えるわ。ねえ、ペリーヌ。龍の住処には、黄金が唸っているのでしょう? それに、龍にさらわれたのは、ベリーヌでしょう? それはつまり、私でしょう?」
 ベリーヌ姫は指に、だんだんと力を入れました。
 ペリーヌ姫の首に、十本の指が食い込んで行きます。
「私、ベリーヌに戻るわ。そして、病弱なペリーヌは、急な病で死ぬの」
 ボキリ、という音がしました。
 ペリーヌ姫の身体は、ベリーヌ姫の足下に崩れ落ちました。
「髪よ。そう。髪を切らないと」
 ベリーヌ姫は隠し持っていた小さなはさみを、ペリーヌ姫の赤い髪の根元に当て、ざっくりと切り始めました。
「髪を切って、カツラにしないと……。私は赤毛の貴婦人にならなければいけないのよ」
 終いには、ペリーヌ姫の頭は、罪人のようにザンバラな坊主頭になりました。
「私の髪も切って、ペリーヌにかぶせるのよ」
 ベリーヌ姫も、自分の髪にはさみを入れ、奇麗な金髪を、ジョキジョキと切りました。
 ベリーヌ姫が、切った自分の髪をペリーヌ姫の身体の上に投げ捨て、代わりにペリーヌ姫の赤い髪の束を拾ったその瞬間です。
 赤い髪は、まるで蛇のようにベリーヌ姫の身体にまとわりつき、ぎゅうぎゅうと締め付けました。
「助けて!」
 そう叫ぼうとした時にはもう、赤い髪はベリーヌ姫の体中を覆っていました。
 叫ぶどころか、息もできません。
 しばらくは、のたうち、足掻き、もがいていたベリーヌ姫ですが、二分もしない内に、とうとう、赤い糸の巻かれた糸紡ぎ棒のようにぴくりとも動かなくなりました。

「約束通り、お前の大切な娘は貰い受けた」
 王様の寝室に、いつぞやと同じ声が響きました。
 身を起こし、辺りを見回しましたが、今度は人影すら見えません。
「私の妻の心根に免じて、お前のペテンも、女たちの強欲も見逃すつもりでいた。しかし……。私は、悔い改めたのだ。故に、私は人は欺かぬ。嘘も吐かぬ。……そして当然、約束は守る」
 王様の身体の周りにだけ、ゴウ、と風が吹きました。
 凍てつく、刺すような風でした。

 夜が明けました。
 ベリーヌ姫を名乗っていたペリーヌ姫と、彼女の夫の姿は、霞のように消えていました。
 庭師が中庭の真ん中で、ペリーヌ姫と呼ばれていたベリーヌ姫の遺体を見付けたのは、朝食の直前でした。
 ご自身の長い金髪が首に絡まり、その先が、背の高い、芳香を放つ花を付けた樹の枝に引っ掛かっていたそうです。
 初夜に妻を失った新婿は、その日の内に、自分の国に逃げ帰ってしまいました。
 
 こうして。
 一夜にして幸福の絶頂から、悲しみのどん底に落とされた王様とお后様は、まるで百歳を越えた老人のようになり、政どころか喋ることすらままならなくなりました。
 
 その後。
 クーデターが起きたり、隣国が攻め込んだりして、この小さな国は荒れ果て、人が住め無くなりました。
 そうして、かつて国だった土地は、いつの間にか龍ガ森に飲み込まれてしまい、今では、面影を偲ぶことも叶わぬようになっています。

〜終〜

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