岩長姫 1

 黒い霧の中を、貧しい身なりの女衆が3人、一塊りになって駆けている。
 腕に背に赤子や幼子を抱き、汗と涙と恐怖でグズグズに濡れた顔で、彼女らは山の頂を目指していた。
 山は低い。一見するとなだらかですらあるが、道は意図的に狭く、入り組んでいる。
 走る女の後を、生ぬるい霧が追いかけていた。ノタリと重たい霧が、風もないのに、山裾から斜面をはい上がってくる。
 そしてさながら黒い手のように、着物の裾や襟、そして振り乱した髪の毛にまとわりつく。
 だが、寸前で彼女らは霧に巻かれずにいた。
「走れ、走れ!」
 一番年上の女が叫んだ。
「武藤様のお屋敷まで……武藤様の御門をくぐれ! 間に合わなんだら、子だけでも御門の内へ投げ込め!」
「ああっ」
 同意と嗚咽が、女達の口から溢れた……直後。
「ひぃ!」
 一人の女が転んだ。背に負った赤子が、ワアと声をあげた。
 残りの女達が走りながら振り返ったとき、女と赤子は黒い霧の中にズルリと引き込まれていた。
「ダメだ! 取り込まれたよぅ!」
 全員が、叫んだ。
 と。
「諦めるな!」
 耳が裂けそうな声がした。
 大きいが、若々しさを通り越して、むしろ幼い声音だ。
「立ち止まるな、駆けよ!」
 別の大声もした。
 これもやはり幼さの残る声だった。
 女達が声がした方……山の上……を向き直ったとき、声の主達は女達の横を駆け抜けていた。
「協丸! 女衆を守れ」
 最初の大声が言った。
「承知! 弁丸、し損じるな」
 後の大声が応え、黒い霧の中に突き進んだ。
「抜かせ、ワシが今まで失敗したことがあるか!」
 言いながら、弁丸と呼ばれた方は刀を抜いた。
 短い刀だった。
 その刃がぎらりと光った途端、黒い霧が前へ進むのをやめた。
「妖かしめ、今更逃げても遅ぇぞ!」
 叫ぶと、弁丸は霧に向かって刀を振り下ろした。
「ぎゃ!」
 射止められた猪子のような声がしたかと思うと、黒い霧はスっとかき消えた。
 跡には、枯れた雑木と崩れかかった山肌と、がたがたと震える子守女達と、二人の少年がいた。
「怪我はないか?」
 穏やかな声だが、間違いなく先ほどの「後の方の声」と同じ耳触りがする。
 弁丸から協丸と呼ばれたその少年は、子守女の背で半ば気を失っていた赤ん坊の頬をなでた。
 子守女がコクコクと小刻みにうなずくと、
今度は協丸から弁丸と呼ばれた方が言った。
「早う、行け。行って、赤ん坊にたんと乳を飲ませてやれよ」



 盆地の底に住む者達はその山を「たろうさま」と呼んでいた。
 天辺が丸く、稜線がなだらかなその様は、大男がどっかりと腰を下ろしているようにも見えるからだ。
 だがその優しげな姿は外見だけなのだと、山肌を覆う森に一歩踏み入れば知れる。
「たろうさま」は、厚みは薄いが丈の高い岩の板を大地に突き刺したような山なのだ。
 「たろうさま」の頂上には龍神を祀った神社の本殿がある。願えば何でもかなえてくれるという噂だが、そこへ行く道らしい道は無い。
 だから大概の者は、まだ道のなだらかな二合目あたりにある下社に参いり、それで満足して帰って行く。
 どうしても本殿に行きたいのなら、下社のすぐ裏手から始まるうっそうとした暗い森を抜けねばならない。
 森の木々は、根の下に一抱えもある大岩を抱え込んでいる。大岩を上り下り、木の間を抜け、頂上まで一直線、天を突く崖のようなところを這い上がって行く……。
 時折キノコ狩りが迷い込んだり、猪狩りが入り込んだりもするが、大抵、転がり落ち、滑り落ちして帰って行く。
 たまぁに帰りきれずに岩場に叩き付けられ、身体中から血潮を吹き出して命を落とす輩もいる。
 我欲が強い物は龍神にたたられるのだと言う噂すらあるものだから、下社より奥へ入ろうという者はほとんどいない。
 その日。珍しく、身なりの少しばかりいい武士の子が二人、下社より奥へ入っていった。
 先を行く方は色黒で背が低く、後に続く方は色白でひょろ長い。だが目鼻立ちは良く似ていた。それに先を行く子供が帯にくくりつけている刀の柄と、ついて行く少年の小袖とに、同じ紋所がついている。
 兄弟だというのは、誰の目にも明らかだ。
 下社のやしろがはるか背後に見えなくなったころ、不意に先頭が立ち止まり、あたりをきょろきょろと見回した。
 殿軍(しんがり)も立ち止まり、周りの木々の間などをぐるっと見、ぽつりと言った。
「弁丸よ、随分と『いろんなモノ』がおるな」
 背の低い男ノ子……弁丸は、振り返りながらにんまり笑い、
「さすがに協丸は鋭いなぁ」
と、背の高い男ノ子……協丸の頭の上あたりを指差した。
「ほれ、そこ」
 協丸は指先を追って見上げた。
 横に張り出した太い木の枝から、頭を下にだらりと垂れ下がっている、人間の赤子ほどの大きさの真っ白いトカゲが、クルリとした目玉でおのれを見ている。
「うわっ!」
 思わず尻餅をついた協丸の耳に、ケタケタという笑い声が三つ聞こえた。
 一つは目の前の弁丸の口から、二つ目は頭の上のトカゲの口から、最後は弁丸のはるか後ろの方から。
「シロ、あまり人を脅かすでない」
 その三つ目の笑い声がいう。トカゲはずるずるストンと木から降り、弁丸の脇を二本足で駆け抜けた。
 やがてトカゲは声の主の元にたどり着き、抱き上げられた。
 白の単に紫の袴、帯の後ろに玉ぐしを差込み、下げ髪を稲穂のついた藁で切り結びにしている十三・四歳ばかりの娘だ。左右の手首と襟首に、水晶の数珠を光らせていた。
「お帰り、弁丸」
「おう、桜女(サクラメ)か」
 弁丸は両手を大きく振り回した。
「前に言ったじゃろう、ワシの乳兄妹の桜女じゃ」
 ようやっと立ち上がった協丸の目に、紙のように白い顔色をした娘の、墨のように黒々とした瞳が飛び込んできた。
「ほう、あれが……」
「愛らしかろう?」
「うん、確かに」
「あれは、ワシの嫁じゃ」
「嫁ぇ!?」
 協丸が頓狂に聞き返すと、弁丸はいたってまじめな顔で、
「武藤家の跡目は協丸に譲るが、桜女だけは譲らんぞ」
きっぱりと言い切った。
「それは……譲られても困る」
 小さな声で協丸はつぶやいた。もっとも、弁丸はその小さな声にまるで気付かなかったらしく、両手を振り回したままで桜女の方へ駆け出した。
「桜女、ババさまはまだ生きてるか?」
 シロと呼ばれたオオトカゲに勝るとも劣らない勢いで駆け寄っる弁丸に、桜女はきゅっと眉を吊り上げた。
「また口の悪いことをいう。ババさまではなく岩長姫さまと敬ってお呼び」
「誰が『姫さま』じゃ。あんな白髪頭の、皺くちゃの、がりがりの、よぼよぼは、誰が見たってババじゃないか」
 まくし立てる弁丸は、不意に袖を引かれて振り向いた。
 協丸が少々困惑した顔でこちらを見ている。
「弁丸、岩長姫さまはこの山の鎮めの巫女だろう? それにお前の育ての親だ。あまり口悪しく言うものじゃない」
 言われて、弁丸は目を丸くした。
「協丸は弟のワシより、他人の桜女の肩を持つのか?」
「いや、そうでなくて……」
「敬え敬えというが、ワシはちゃんと敬ってババ『さま』と呼んでおる」
「確かに、そうじゃが」
「協丸じゃとて、ババさまの顔を見たら『姫』などと呼ぶ気にはならんようになる。ババさまは、がなり屋で、強情者で、頑固者で、乱暴な、ただの年寄りじゃ」
 ケラケラと大口を開け、弁丸は笑った。
 直後。
 天地の開きだった弁丸の上顎と下顎か、ガチンと音を立ててくっついた。
 ぼさぼさ頭の脳天に、筋張ったげんこつがずしりと乗っている。
 弁丸の背後、桜女の隣に、いつの間にか白の一重と緋色の袴を着た、白髪頭で皺の深い痩せた老婆が立っていた。
「だから私は『口悪しく言うな』と……」
 老女の拳の下の弁丸の頭の上には、大きなこぶができていた。
「痛てぇ!」
頭を抱え込み、弁丸がしゃがみ込んだ。
「この寸詰まりのバカ息子が!」
 老婆のがなり声に、
「寸詰まりというな!」
弁丸は大声で口答えしながら立ち上がったのだけれど。……自分の出したその大声が頭蓋に響いて瘤を揺らしたので、結局またしゃがみ込んだ。
 それでも、
「ワシの背丈が伸びなんだのは、ババがちゃんと飯を喰わせてくれなかったからじゃ。
 その証拠に協丸を見ろ。同じ日に同じ母から生まれたのに、屋敷でちゃんと飯を喰って育ったから、ワシより三寸も背が高い」
と、反論した……ただし、酷く小さな声で。
 老婆は協丸へ目を移すと、深々と頭を下げた。
「武藤の若様に恥ずかしい所を見せてしもうて……。妾が岩長にございます」
「武藤協丸にございます。この度は、岩長姫さまのお力をお借りいたしたく、参上いたしました」
「妾の力とは……」
「悪さをする『あやかし』を懲らしめていただきたいのです」
「あやかしが、悪さを?」
 穏やかな笑みを浮かべたまま、岩長は足元でうずくまっていた弁丸の首根に手を伸ばした。そうして……枯れ木のように細い腕からは信じられないのだが……まるで子猫でも拾うかのように、弁丸を持ち上げた。
「これバカ息子。お前が武藤のお屋敷に戻るとき、邪悪を鎮める霊剣を守り刀にと持たせたハズじゃが?」
 つり上げられた弁丸は、きゅいっと口を尖らせた。
「おかげで屋敷にはあやかしが這い入って来ん。だからといって、領民全部を屋敷の中に詰め込むわけにはゆかんわい」
「それほどに強いあやかしかえ?」
「強い」
「ふむ」
 岩長は弁丸を大地に下ろすと、懐から紙の束を3つ4つ出した。
「桜女や」
 呼ばれると、桜女はすうっと岩長の足元に寄り、かしずいた。
「あい、姫さま」
「この護符と……それから適当に見繕った『式』を連れて、武藤さまのところへ退魔に行け」
「ババさま、桜女をウチへ連れ帰って良いのか!?」
 岩長の言葉に勇んだのは桜女ではなく、弁丸だった。
「バカを言うな。退魔が無事に済んだら、桜女はやしろに戻す」
 岩長は尖ったげんこつを弁丸の鼻面に突きつけて釘を刺し、桜女の顔を見た。
「あい、承知致しました」
 桜女が頭を垂れると、その胸に張り付いていたトカゲ頭のシロが、
「きゅうぅう」
と、啼いた。
「姫さま、シロは……?」
「行きたければ行くがいいさ」
と……
「シロはいらん!」
今度は弁丸、ぷいと拗ねた。この男ノ子、ほんにコロコロと顔つきが変わる。
「またそんなわがままを言う」
「わがままではないぞ桜女。
 さっきシロを見た協丸のあのザマ……。大の男が腰を抜かすバケモノを、あやかしに怯える屋敷の者達が見たら、腰どころか魂が抜けるわい」
「私の小心を引き合いに出すな」
 協丸が呆れ声を出すが、弁丸は丸で気にせずに、ちょいとシロの頭をこづいた。
 するとシロは小さく
「きぅぅぅ」
と啼いた。啼きながら、身を縮め、くるりと丸まった。
 丸まって丸まって、縮まって縮まって……やがてシロは、桜女の掌にすっぽりと収まるほどの小さな白い珠となってしまった。
「なんと!」
 目を丸くする協丸に、弁丸は不満丸出しの顔でいう。
「これがシロの得意じゃ。もっともこれ以外には何もできんがの」
「でも、これなら人が見ても怖がらないでしょう」
 桜女がにこと笑う。弁丸はまだ不服そうに、
「シロはそうやって桜女の懐に収まるのが好きなのじゃ」
下唇を突き出した。
「なるほど。つまり弁丸は、自分が桜女殿にしてもらえないことをシロ殿がたやすくしておるので、焼き餅を焼いておるのか」
 協丸が得心すると、弁丸の下唇はますます前へ出た。

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