岩長姫 3

 それは、雀蜂ほどの大きさの蠅だった。百や二百では利かない赤黒い複眼が真っ直ぐに 三人に向けられている。
「操られている!」
 桜女が言うのとほとんど同時に、蠅はつむじ風の勢いで三人めがけて突っ込んできた。
 弁丸と桜女が左右に分かれて跳んだ。
 と。
「いかん、協丸を忘れておった!」
 跳びながら弁丸が叫んだ。
 三人が居た真ん中に、だだ独り協丸が取り残されていた。
 蠅の渦が彼を取り込んだ。
「うわ!」
 思わず協丸は両手で頭を覆った。
 突如、掴んでいた紙の束が、ぶわりと膨らんだ。
 紙の呪符は、薬売りが配り歩く紙風船のように厚みを増し、やがて女の童の形になった。
 全部で四人。
 緋袴に白の単衣。紙そのものの白い肌に墨そのものの黒い瞳。
 幼く、髪を耳のすぐ下で切りそろえている以外は、桜女とそっくりな顔立ちと姿をして いる。
「……式神か?」
 そう声をあげたのは協丸と「枯れた木」だった。
 四人の紙の童はふわりと宙に浮いた。
 四つの小さな御幣がざわっと振られた。
 無数の蠅が協丸の足下に落ちた。
「ぼうっとするでない!」
 協丸は襟首を後ろから引かれ、倒れるように後ろに下がった。
 振り向くと弁丸の額に脂汗が滲んでいるのが見えた。
「『あやかし』め、わしらが”たろうさま”詣でをしている間に、肥やしを吸って力を増しおった!」
「真事か!?」
 協丸の悲鳴のような問いかけに答える前に、弁丸は再び兄の襟首を引いて、そのまま跳 んだ。
 空になった足下の地面にぼこりとした土塊ができた……と思った直後、そこから腐った土 の臭いをまき散らす太い杭が突き出た。
 式神達が一斉にその杭……朽ちた木の根……に取り付いくと、一時、それの勢いが弱まった。
 ところが。
「うるさい!」
という怒鳴り声が朽ち木の中からした途端、逆に式神達の動きの方が止まってしまった。
「いけない、戻りゃ!」
 桜女が式神達に呼びかけたときには、もう遅かった。
 別の腐った根が、次々と地面を突き破って出た。そしてそれらは水っぽい音を立てて式 神達を打った。
 式神達の紙色の肌と紙色の単衣が茶色く染まった。
 女の童の姿がしぼんで、式神達は元の護符に戻った。
「書いた絵空事など、消してしまえばいい」
 木の中の声は忌々しげに言い放つと、太い根をうねらせて、泥と腐れた木の汁で汚れた 四枚の護符を破り捨てた。
 小さなキラキラした物が、破れた護符からこぼれ落ちた。
「シロ、拾え!」
 桜女がいうより早く、シロは珠の姿からトカゲの姿に戻り、蠢く木の根の間を駆け回っ て、四つの光る物を拾い、くわえ、集めた。
 朽ち木の根は式神達を打ったときと同様にシロにも迫ったが、シロは風よりも早く桜女 の懐へ舞い戻った。
「どいつもこいつもうるさくせわしなく邪魔な奴等だ!」
 朽ち木がめりめりと音を立てた。
 根本の地面が数多の骸骨を孕んだまま盛り上がった。
「うぬら、また我を暗闇に戻す気か? 何度も同じ手は喰わぬぞ。破魔覆滅の呪文など聞 く耳持たぬ。封魔退魔の札など破り捨ててやるわ!」
 木が、立ち上がった。
 うねる根を脚として、ざわめく枝を腕として、ぎしぎしときしみながら動く。
「やかましいわい、この独活の大木が!」
 弁丸は兄を突き飛ばして、物陰へ追いやると、目にもとまらぬ速さで剣を振るった。
 腐った木の根が五・六本、あっという間に本体から切り落とされた。
 切り口から青白い炎が上がった。
「ぎゃ!」
 悲鳴を上げた朽ち木だったが、
「餓鬼が、お前が何故銀龍の牙を持っておる?」
 とわめいて、いっそう太い根を弁丸めがけて振り下ろした。
「あやかしが、お前がなんでこの霊剣の銘を知っておる?」
 弁丸はその太い根に刀を突き立てた。
 今度は刀そのものが火を噴いた。
 火は根に燃え移り、さかのぼって幹へ迫った。
「桜女、助勢しろ!」
「言われるまでもなく」
 桜女は素早く弁丸の傍らにより、
「風!」
と唱えて御幣を振った。
 ごうと唸って風が起きた。
 青い炎は火勢を増して、枯れ木全体を包んだ。
 しばらく朽ち木は火の中でのたうち回っていたが、やがて動かなくなった。うねってい た根も、ざわめいていた枝も、すっかり炭になっていた。
「莫迦なあやかしじゃ。器にこだわらねば斬られることも燃やされることも無かったに」
 鼻で笑った弁丸は、炭になった根っ子から刀を引き抜こうとした。
 ところが。
「抜けぬ? 力任せに刺しすぎたか」
 つぶやきながら、弁丸は木の根に片足をかけ、それこそ力任せに引き抜こうとした。
 その時。
 ぶわん、と風を切り、根の形をした炭の固まりが宙に舞い上がった。
 それに体重をかけていた弁丸は、ひとたまりもなく吹き飛ばされ、地面に叩き付けられ た。
 気を失いかけた彼の頭の上で、朽ち木のあやかしが、川から上がった子犬が総身を震っ て水をはじき飛ばすような仕草をして、炭化した表皮を払い飛ばしていた。
「弁丸!」
 協丸と桜女が同時に悲鳴を上げた。
 互いの声が、互いには届いていなかった。
「莫迦はおのれだ!」
 朽ち木が怒鳴った。持ち上げていた根を、霊剣を突き立てたまま弁丸の頭の上に落とし た。
 思わず両目をつぶった弁丸だったが、額に小さな欠片が当たった軽い感覚に驚いて目を 開けた。
 根は、彼の身体の一尺ばかり上で止まっていた。
 そして、その五寸ばかり下に、桜女の身体があった。
 紙のように白い肌と紙のように白い単衣が茶色く染まっていた。
「さくら……め……?」
「ほんに、弁丸は、頼りない、男の子だこと」
 にこりと笑った桜女の黒々とした瞳から、徐々に精気が消えて行く。
 やがてその黒い丸は、ただ黒いだけの丸になり、紙のような色の顔が、ただの紙に変わ った。
 墨で書かれた呪文が汚い茶色の染み出被われ尽くすと、襟首と手首の数珠がばらけて散 り、キラキラと落ちた。
 弁丸の顔に、身体に、地面に、小さな水晶の珠が降り注いだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
 弁丸は大粒の涙を両のまなじりから吹き出させ、叫び、目の前の汚れた炭の固まりを殴 りつけた。
 ぐらりと、朽ち木が揺れた。
 揺れて、倒れた朽ち木は、しかしすぐに立ち直り、
「紙を破かれたくらいで泣き叫ぶか」
せせら笑いながら、三度太い根を振り下ろした。
 根は何もない地面を砕いた。
 弁丸は飛び込んできた協丸と一塊りになって、石くれだらけの山肌を転がり落ちていた。
 転がって転がって、谷底まで落ちてようやく兄弟は止まった。ところが、弟の方はすっ かり呆けていて、起きあがることすらできない状態だった。
 協丸も体中をしたたか打っており、やっと顔を上げるのが精一杯だ。
 その持ち上げた顔の、うっすら開いた目に映ったのは、山肌の遥か上から銀色の固まり が降ってくるようすだった。
「シロ?」
 真っ白なトカゲは口に刀をくわえている。
 シロは山肌に沿って急降下したかと思うと、兄弟の間際でいきなり突き進む向きを上へ 変えた。
「キュゥー!!」
 上昇しながら、シロは大きく一声鳴いた。
 くわえていた刀がストンと落ち、放心したまま倒れ込んでいる弁丸の頬をかすめて、地 面に突き刺さった。
「痛い」
 弁丸の口が僅かに動いた。協丸がのぞき込むと、彼は頬からほんの少し血を流していた。
「どこが痛い?」
 ざらついた声で訊く協丸に、弁丸は
「全部じゃ。どこもかしこも」
洟と涙を袖でぐしゃりと拭い、飛び起きて、
「腕も腹も背中も脚も頭も顔も胸の中も、全部痛い!」
喚きながら地べたから霊剣を引き抜いた。
「シロ、来い!」
 呼び声に応じて、天空からシロが舞い降りてきた。
 ただし、その姿は珠でも大トカゲでも無かった。
 銀色の鱗に覆われた身体に、蝙蝠に似た巨大な翼が生えている。大きな角を一対生やし た頭から尻尾の先まで、やはり銀色のたてがみが生えている。
 遠目には、腹の出た蛇のよ うにも見える。だが、四つ足があり、身の丈は人の三倍はある。
そして、頭が割れそうなほどの大声で、
「ゴォォウ」
と咆吼した。
「あれが、シロか?」
 協丸は震えながら訊いた。弁丸は相変わらず洟をすすりながら、
「そうらしい」
とだけ答え、巨大なシロが突き出した後足に跳び掴まった。
 そのままシロは舞い上がった。あの朽ち木のあやかしのいる場所の、そのまた遙か上ま で、一息に飛んだ。
 朽ち木の燃えさしが枝や根を空高く突き上げたが、届かなかった。
「おのれ銀龍! 何故その人間の小童に味方する!? おのれも我と同じモノであろうが ぁ!!」
 口惜しげな声で叫んだ朽ち木の上に、天空の銀色のモノの脚から人間の小童が落ちてき てた。
 弁丸は落ちる勢いと己の体重と剣の霊気とをその切っ先の一点に掛け、朽ち木に突っ込 んだ。
 朽ち木は真っ二つに割れた。だが、あやかしは動くのを止めなかった。
 2つに割れたその裂け目から、どす黒い霧が溢れ出て、それが弁丸ににじり寄った。
「よこせ、身体をよこせ。器をよこせ。器があれば我は生き物になれる」
 黒い霧の先端が弁丸の首にあと三寸ばかりに迫ったとき、
「身体が欲しいなら、来い」
天地が震える声がした。
 銀色の鱗を光らせて、巨大な姿のシロが黒い霧を睨め付けている。
「我はうぬと同じモノ。人でないモノ。人とは違う器を持つモノ」
 シロは大きく口を開けた。つむじ風が起き、黒い霧の塊はシロの口の中に吸い込まれて いった。
 塊を飲み込むと、シロは身悶え、
「ゴォォウ……コォォゥ……クォォゥ……」
しばらく鳴いていたが、次第にその声は小なものになっていった。
 そうしてついに
「きゅうぅぅ」
という愛らしいものになったと思うと、身体の大きさも元に戻っていた。

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