フツウな日々 4文章書きに送る50枚の写真お題
 その日の一時間目は、国語の授業だった。
 読書感想文を書くために読書をせよ、と、教師は生徒達に告げた。
 龍のクラスの四十三名は、それぞれ図書袋を肩に下げて、第三校舎へ向かった。
 図書袋の中には生徒の名前の書かれた「代本」という厚い木の板が入っている。お目当ての本が見つかったら、貸し出しカードに記名した上で、書架から本を引き抜いて、代わりにその板を突っ込むという寸法だ。本の代わりにだから「代本」と呼ばれているワケだ。
 新しい校舎の新しい図書室は、ラッカー塗料の匂いがする。
 四十二人は思い思いの椅子の背に図書袋を駆けると、代本と本とを取っ替え引っ替えに書架へと出し入れし始めた。
 龍も他の生徒同様に図書袋を椅子に置き、その中に手を突っ込む。指先が代本に当たる。
 わずかに動いた木の板に何か別の硬い……しかし小さい……ものが当たる、軽い音がした。
 龍は袋の口を大きく開けて、中をのぞき込んだ。薄暗い闇が顔を覗かせている。
 あるはずの物がない。
 雨に濡れても、川の水にさらされても、破れたり千切れたりしない、紙切れの束。
 龍は袋の口を両手で閉じ、天を仰いだ。小さな穴が規則正しく並んだ白い板が視界を塞いでいる。
まぶたを強く閉じた。
 もう一度開ける……まぶたも、図書袋の口も。
 キャラクタプリントの内張布が、薄明るい青い影を作っていた。
 代本を持ち上げる。
 その下に、小さな固まりがあった。
 それは、差し入れた指先に、冷たく硬い感触を跳ね返してくる。
 つまんでみる。
 角のない、つるつると滑る、長細い丸の形。
 つまみ上げてみる。
 ほんのりとした闇の中から浮かび上がってきたのは、小さな石ころだった。色は明るい茶色で、濃い茶の縞がある。
 龍は、目の前が真っ暗になる……という感覚を、この時初めて味わった。
 その真っ暗の向こう側に、白い影が見える。
 妙に色白で、長袖と長ズボンで、刈上げ頭の人影。
 椅子と机が大きな音を立てて倒れた。
 その中心で、龍は目を剥いたまま昏倒していた。

 その後のことを、彼は覚えていない。
 運悪く頭の後側がぱっくりと割れて血が噴き出したので、女子生徒達が悲鳴を上げたことも、彼は知らない。学校に救急車が呼ばれて、脳外科に搬送されたことも記憶にない。半日目を覚まさずにいて、意識が戻ったかと思ったら病院食を三遍もお代わりしたことも思い出せない。検査のために二日も入院して、結果は当然のように「異常なし」で、無事に帰宅したとたんに、ようやくかさぶたが乾き始めた頭を、父親にぶん殴られたこともはっきりしない。
 つまり、怪我をしたことに関係する記憶は、龍の脳漿からすぽんと抜けているのだ。彼が思い出せるのは、退院してから後のことだ。
 良く晴れた日曜日だった……晴れていたのはその日だけではなく、その三日前からずっと晴れっぱなしだったのだけれど……ともかく、その日は目玉が痛くなるくらい良く晴れた日曜だった。

木漏れ日

 龍は、あの川瀬に出かけた。
 川には、澄んだ水がさらさらと流れていた。
 雨上がりの少し濁った奔流しか知らない龍は、その穏やかさにかなり驚いた。
 しかしこの日の彼の目的は「川」でも「漂流物」でもなかったから、彼は驚きもそこそこに川原に降りた。
 ポケットの中に柔らかい楕円の形をした、小さな虎目石を忍ばせて、彼は行ける範囲の川上から川下まで歩き回った。
 川下にほんの少し進むと、そこはもう整備されたコンクリートの護岸になっていて、その先へは歩いて行きようがなかった。
 川上は三十分ほど遡ることができたが、大振りな道路に突き当たった向こう側は、地面の下に潜り込む格好になっていて、やはりそれ以上は進めなかった。
 龍は、日が暮れるまで、その「行ける範囲」をうろうろと往復し続けた。
 この川岸のどこかに「トラ」が居る気がしてならなかった。
 あのひょろりと長くて、柔らかい白い影が、どこからかひょこりと現れて、大人びた笑顔を向けてくれる気がしてならない。
 そうして現れた「トラ」が、龍の怖くて不思議でわくわくしたあの体験の、どうにもわからない「理由」を、丁寧にかみ砕いて教えてくれるに違いないのだ。
 図書袋の中に詰め込んであった『人身御供の代わりの御札』が一枚残らず消えた「理由」も、その図書袋に入れた覚えのない虎目石(らしき石)が入っていた「理由」も、
「ああ、それはこういう意味だよ」
と笑って解説してくれる筈だ。
『そういうふうに「トラ」に説明して欲しいんだ。「トラ」に教えて欲しいんだ』
 龍は日が暮れるまで、川岸を行ったり来たりし続けた。何度往復したかわからない。
 そして何度往復しても、「トラ」は現れなかった。

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