龍蝨―りゅうのしらみ―



第3話 小童

「……それで俺にせんべつをよこせと?」

 源五郎がわざとらしい明るさでいう。
 一方、

「そうだ。よこせ」

 言葉短い兵部の声からは険しさが抜けない。二言の後に、また口を引き結ぶ。

「だがな、兵部殿よ……俺が所には、旅立つに送るに良いような、気の利いた品はないのだ」

 源五郎はおのれの部屋の中をぐるりと見回した。殺風景そのものの室内には、必要最低限の家具と必要最低限の衣服と、部屋の真ん中に置かれた火桶と、その上に組まれた櫓と、それにかぶせられた派手な小袖の他には、本当に何もない。

「ふん。誰が誰のだと?」

「おぬしが俺のだ。違うか?」

「知らぬな」

 兵部は口をとがらせて、ぷいと横を向いた。頬の辺りに僅かに血が上って見えた。
 ふ、と源五郎の手が動いた。自身おのれの腹の辺りを触っている。

『そうだこれを……』

 懐の中に二粒ほど残っている黒方のたきものをくれてやろうかと、ほんの一瞬思ったが、すぐに考えを打ち消した。

『こればかりは、やるわけにはいかん』

 この高貴な練香は、にょしょうからの贈り物だ。
 元々は、武田信玄の養女として来年早々に源五郎の妻となる予定の娘が、京の実家から携えてきた大切な宝だった。
 その大切な宝を自分にくれた娘の、うりざねの愛らしい顔が、しらうおのたおやかな指先が、源五郎の頭の中一杯に広がった。

『ダメだ。これだけはいかぬ』

 源五郎は首を振って、もう一度部屋の中を見回した。
 必要最低限の家具と必要最低限の衣服と、部屋の真ん中の火桶の上に組まれた櫓にかぶせられた派手な小袖が見える。

「これが良い」

 立ち上がった源五郎は、迷いなく小袖に手を伸ばした。
 掲げた上げた小袖にうやうやしく礼をし、丁寧に折りたたむ。それを兵部の膝先に置いた。
 ふわりと座り直して、

「急な事だから、を付けるどころか、とうで包むこともできん。裸ですまんが、どうか許してくれ」

 両の拳を床に突き、深く頭を下げる。僅かの迷いも感じられない、なめらかな動作だった。
 兵部の細い目が見開かれた。

「なんの冗談だ? たわごとも大概にしろ!」

 声が僅かに震えている。

「戯言など言うてはおらん」

 源五郎は真顔をまっすぐに兵部に向けた。小袖に右手を添えて、軽く押す。
 小袖はいっすんばかり動いて、兵部の膝元に押しやられた。
 兵部の体が、びくりと揺れた。

「お前っ! それは先の戦でお前が功を立てて、そのご褒美に、お屋形様から下げられたものであろうっ!?」

 覚えず叫んだ兵部は、まるで自分の声に驚いた蛙さながらの格好で、ぴょんと後方うしろへ跳ね飛んだ。二尺も向こうに着地したのだが、そこからさらに尻で後ずさる。
 兵部は、源五郎からではなく、小袖から逃げている。小袖の後ろに見える、武田信玄を恐れている。
 下がる兵部を、源五郎は膝で進み追う。

「うむ、俺の宝だ。だからこそ、良き友・・・であるお前への餞別にふさわしいと思う」

 さらに兵部は下がる。

「誰が友だ!」

「何度も言っているじゃないか。お前が俺の友だ。俺がお前の友だ。無二の友が無二の宝を送ろうというんだ。何を遠慮しているんだ。さあ、受けてくれ」

 にじり寄る。下がる。下がる。にじり寄る。

「冗談ではない。そのような宝物をお前から奪い・・取ったら・・・・、わしがお屋形様にお叱りを受けるではないか」

「奪われたわけでも脅し取られたわけでもない。俺がから進んでお主に送るのだぞ。お前には一分の非もありはしない。それでも心配だというなら、後から俺がお屋形様にそのように申し上げればいいだけのことだ」

「そういうものではない。そういうことではない」

 兵部はブルブルと首を振った。
 真顔を崩さないまま、源五郎はなおもにじり寄る。

「お屋形様の小袖だぞ。お主、欲しくないのか?」

 兵部は板間の際まで下がりきり、それ以上後ろへ行くことも出来ず、ましてや武田信玄の品をまたぎ越えて前へ出ることなどは出来る筈もなく、まさに進退きわまって、

「欲しくないわけがない。欲しい。欲しいが――」

 鼻が詰まった様な声を上げた。

「――わしだって、直接お屋形様から頂戴したい!」

 目に涙がにじんでいる。
 源五郎はにじる・・・のを止めた。

「……そうか」

 室賀兵部は決して平凡以下の男ではない。むしろ優秀な若者であると、源五郎は思っている。ただ、どちらかというと、武人の才ではなく、領国経営の才があるのではないか、とも見ている。
 つまりは戦向きではない。
 だから、未だに戦功てがららしい武功てがらは立てていない。

 昨今は、うちそとに戦の多いご時世だ。武田家でも、文に優れた者よりも、武に秀でた者の方が良しとされる風潮があった。
 信玄自身がそう考えているのではないだろう。ただ、信玄がちょうあいする部下に武勇優れる者が多いのは事実であった。
 そのために、家中のものは誰しも、いくさで功を上げさえすれば主君の目に留まる、と考え至っている。
 武功を立てねば出世は見込めない、と思い、焦っている。
 証人の身の重責は尚のこと重い。
 自分が引き立てられなければ、実家も冷遇されてしまう。
 自分が冷遇されれば、実家から価値なしと見限られてしまう。
 差し出された証人の命を見限った実家が、万一謀反を企てたなら、いくら当人が忠誠を誓っていたとしても、武田信玄はちゅうちょなくその首をね切るに違いない。
 だから証人は、

『生きるために主君の信任を得ねばならない、そのために戦功を立てねばならない』

 と信じて疑わない。

『生きるために家族から見捨てられぬように努めねばならない、そのために武功を上げねばならない』

 とおもきわめている。

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