真田大石(改稿版)



目次

  1. 大殿様
  2. 我が城
  3. 鬼門
  4. 松代転封
  5. 狐狸
  6. 吝嗇
  7. 大きな石

大殿様

大殿、、にしては珍しく迂闊うかつなことをなさったものだ」
 矢沢頼康やざわ よりやすは白髪頭を横に振った。
 大殿とは、真田伊豆守信之さなだ いずのかみ のぶゆきである。
 迂闊なこととは、城の修築である。
 
 信濃国上田城が破却されたのは、関ヶ原合戦の後のことであった。
 いや、第二次上田合戦の後、、、、、、、、、、と表現した方がしっくりくる。
 局地戦に勝って大局的に負けた真田安房守昌幸さなだ あわのかみ まさゆきが召し上げられたこの領地を、その長子である信之が大御所・徳川家康から与えられた慶長六年(一六〇一年)の時点で、この城には建物は一棟も残されていなかった。
 建物どころではない。石垣も土塁も中半なかば崩されて、その廃材によって、古い川筋を利用した水濠みずぼりと深く掘り下げられた空壕からぼりが埋め立てられた。
 つまりその頃の上田城といえば、千曲川の支流が削る崖の上にある、僅かに凹凸おうとつのある平地であった。
 そんないわばただの地面、、、、、である場所を政庁として、藩政を行ことができるはずもない。
 それでも信之は城を直さない、、、、、、でいた。
 将軍・徳川秀忠から、上田城を修繕、、する許しが降りないのだ。
 真田信之は徳川に従順だ。従順でなければ、遠く九度山くどやまに流配となった父や弟たちの命を守ることができなかった。真田の家名を後世に残すことも望めない。
 信之はかつての二の丸の濠の外、三の丸にやかたを作った。
 作ったといっても、全く新たに造営したものではない。これも修復、、の願いを立てて、こちらのみ許された、という格好だ。
 元々は家臣で一族衆しんせきの一つである常田ときだ氏の居館だった。
 大きな改修はせず、元の屋敷割をおおよそそのまま利用する形を取った。新しく作った設備はといえば、屋敷を取り巻く水濠ぐらいだ。
 重臣の屋敷であるから、なるほど狭くはないが、それにしても領主の住処として、上田六万石のまつりごとを行う場所として、城の代わりにするとなれば、如何にも小さい。
 
 その藩主館の内である。

我が城

「もう二十年我慢をなさったのだから、これからも我慢をなさればよろしいものを」
 頼康は主君を前に臆面もなく言った。
 信之は怒りを見せなかった。むしろ頬に微笑を浮かべてさえいる。
 矢沢頼康といえば、若い頃は三尺三寸五分の野太刀を振るって無双に働く荒武者だった。当たるを幸いに切り倒す暴れぶりで、多くの戦で真田に勝利をもたらしてくれた。
 そんな彼も、亡父の跡を継いで沼田の城代を務める様になってからは、思慮深く真田家を支える家老となった。
 矢沢頼康の父・頼綱よりつなは真田一徳斎いっとくさい幸隆こうりゅうの末の弟である。
 真田幸隆は真田昌幸の父で、昌幸は信之の父であるから、この宿老は、殿様の父方の従兄弟伯父いとこおじにあたる。
 つまり一門衆しんせきなのである。
 信之より年上の親族は、この頼康とその弟の頼邦よりくにの他には、母方の従兄弟伯父である河原綱家かわはら つないえ、あとは、ほぼ同世代ではあるが、姉婿の小山田茂誠おやまだ しげまさ乳母子めのとご禰津幸直ねづ ゆきなおが残るのみになってしまった。
 そのほかに年上の、亡父と同年代の家臣といえば、父の代からの重臣の出浦昌相いでうら まさすけぐらいしか残っていない。
 他にも年寄が全くいないのではないが、殿様に真っ向厳しく意見ができる気骨のあるものは元より希少な存在であったし、なにより、殿様がその意見を素直に聞くことが誰から見ても許される、、、、、、、、、、立場のものは、もう殆どいなくなってしまった。
 信之の楽しげな微笑の理由はそこにある。
 頼康のような、若造の頃の自分を知っている親戚のお兄さん、、、、、、、から叱りつけられることを、この殿様はむしろ楽しみ、喜んでいる節がある。
「やれ、源三郎と呼ばれた四十年の昔ならいざ知らず、わしも六十に手が届く年になったというのに、まだ叔父殿から叱られるとはなぁ」
「それがしも八十に手が届く年になったというのに、まだ若様、、に説教をせねばならぬとは思い寄りぬませなんだ」
 笑みは目の奥に隠して、渋茶を飲み干したような苦い顔をしている、この文字通りの家老の顔を、信之はしみじみと眺めた。
「このところ、よく昔のことを思い出す。神川の戦のことやらなにやら……。そうすると、あの城、、、のことが思い起こされてならぬ。イヤ、わしもまことに年をとった」
 言葉の終わり頃には、その眼が見る先は、頼康の顔ではないところへ――二の丸濠、本丸濠のその中にあるあの城、、、へ――移っていた。
 
 上田城の縄張をし、建設の指揮をとったのは、間違いなく真田昌幸だ。しかしその資金は徳川が出している。
 家康にとっては、上田が対上杉家の最前線基地として重要不可欠な場所だったからだ。
 城が九分どおりできあがった頃、昌幸は――おそらくは熟考の上――徳川と手を切って上杉に付いた。ご丁寧に、次男・源二郎信繁のぶしげと従兄弟である矢沢頼康その人を証人、つまり人質として上杉家に差し出している。
 これに家康が怒るのは当然のことだろう。彼は自分の城、、、、を取り戻すために兵を送った。
 そして、徳川軍は失敗した。
 徳川方の家内外に様々な問題が発生していた、という理由はあるが、徳川の負けは負けだし、真田の勝ちは勝ちである。
 上杉景勝の斡旋により豊臣秀吉とよとみのひでよしが仲立ちをしてくれた。信繁は秀吉に取り立てられて一家を成し、長男・源三郎信幸が家康の養娘婿むすめむこという形で一種の証人ひとじちとなり、徳川と真田は和議を結んだ。
 そして改めて真田の城、、、、として完成を見た上田城は、若き日の真田信幸――後にの一字をに改めるのだが――の脳裏に強烈な印象を与える物だった。
 
 蛭沢ひるさわ蛇沢へびさわの川筋を付け替えて城下を囲う外濠そとぼりとし、その中に上州街道や善光寺街道の道筋を移し替え、海野うんのはらの市を入れ込んだ総構えの城下町が形成されている。
 沼や池を繋いで三の丸の濠割ほりわりとし、土橋どばしを組んだ上に町屋を建てて偽装した。いざとなればこの町屋ごと敵兵を巻き込んで橋を落とす算段だ。
 海野の市の道筋と大手の門はかぎの手で結び、敵方の進軍を阻める。行き詰まってひとかたまりになった敵兵は、城方からの集中砲火の的となる。
 南は崖を洗う千曲川の尼ヶ淵。付け替えた蛭沢の古い川筋を利用して掘り下げられた二の丸濠と丸馬出まるうまだし。その内側に広い武者溜りが作られた。
 湧き水を湛える本丸壕、その土塁の辰巳たつみの角をわざと削り落とした隅欠すみかきは、鬼門除きもんよけの役目も負っていた。
 七基の二層の隅櫓すみやぐらを乗せた石垣の石材は、北方の太郎山たろうやまから切り出し、蛇沢・蛭沢の川を伝って運び入れたもので、僅かに緑がかった灰色をしている。
 濠と石垣に囲まれた本丸は二段に整地されていた。
 下段は穀物倉と武器倉。その周囲には梅、松、箭竹やだけを植えた。梅は保存食になり、松は燃料になり、箭竹は武器となる。
 またここから深く掘り下げられた井戸からは、澄んだ水が豊富に湧き出た。
 おかげで長く籠城ろうじょうをすることになっても、飲食に不自由はなかった。
 他方、一段高く土盛された側が天守台だ。
 そこには漆喰しっくいの白壁と、黒漆くろうるし塗の下見板したみいた、金色に輝くいらかを頂く三層、、小天守しょうてんしゅがあった。
 
 後年、信之が上州沼田ぬまた領に居城を縄張りするに当たって、この故郷の城を参考にもしたし、また父の城作りを超越する野望を抱きもした。
 今、沼田には、利根川とねがわ薄根川うすねがわに囲まれた河岸段丘の上に、白壁と黒い下見板、金の甍を頂いた、五層、、大天守だいてんしゅを持つ城が建っている。
 

鬼門

 遠く若い日々を思い起こし、その眩しい懐かしさに浸っていた信之の魂は、呆れがまじった矢沢頼康の声で、老いの坂を下りつつある今に引き戻された。
「ならばきっちり、、、、と御公儀にお伺いを立て、お許しを貰ってからになさいませ」
 頼康の言は、まことに正論である。そしてそれに対する信之の答えも正論であった。
「頼康よ、わしが……この真田、、が上田に城を建てる、、、事に、徳川が許しを出すと思うか?」
 その頃の昌幸や信繁は、豊臣秀吉から認められた独立大名であった。
 ただし昌幸は徳川の与力よりきとされている。昌幸の嫡男として、徳川勢力圏である関東の沼田城に入っていた信幸、、は、家康の義娘婿むすめむこということも相まって、殆ど徳川の家臣のように動き、またそのような扱いも受けていた。
 そういう訳であるから、豊臣秀吉の死後に徳川家と敵対すること甚だしくなった石田三成いしだ みつなりを「いよいよ征伐する」と家康が決めたからには、そのために「秀忠を信濃国の押さえとして派遣する」と発令したからには、真田家は父も息子達もそれに協力するのが本筋であった。
 だが昌幸はそれを良しとせず、信繁と共に上田城に籠もった。
 他方、信幸は秀忠に従って進軍した。
 直接父や弟と戦うことは避けられた。
 あるいは秀忠が、親子兄弟が戦わぬようにと配慮したのかも知れない。
 あるいは昌幸が、親子兄弟が戦わぬようにと配慮したのかも知れない。
 支城の砥石といし城の調略を命じられた信幸は、敵味方とも一人も損なうことなくこれを落とした。手勢も相手も、最初から戦う気が無かった。
 占領したその山の上から、彼は上田城下の小競り合いを見守った。
 その眼下で、徳川軍はまたしても失敗した。
 
 二度の失敗を経て、上田城と真田家は徳川の鬼門と呼ばれるに至る――。
 
「大殿のお気持ちは、この頼康にもよう判りまする。さりとて、あれほどあからさま、、、、、に木材やら石材やらを買い集められては……」
 矢沢頼康が深く息を吐き出した。
「どうせやるならば、近郷に知られぬよう、こっそりとやれ、か?」
 大殿様、、、、子供の様ににやりと笑う。
「そういう意味ではございませぬ!」
 頼康が驚き慌てる様子を見て、信之はたまらず吹き出した。
「大殿! 笑い事にはございませぬぞ!」
 真っ白な眉毛をつり上げる家老に、どこか悲しげな眼差しを注ぎ、真田信之は大柄な体を縮こまらせた。
「わしも元来は性急せっかちたちでな。お前やお前の父や兄や、奥たち……」
 言葉が詰まった。無言はほんの一瞬で、すぐに、
「ともかくも家中皆々がわしを押さえ、引き戻し、諭してくれたからこそ、我慢も出来たし、これまで生きてこれた。だがもう年を取った。最近は、どうも殊更ことさらに気が急いていかぬ」
 結句はため息になった。磨かれた床板の継ぎ目のあたりに視線を落としている。
 頼康は口に出せる言葉を思い付くことなできなかった。
『お方様がお亡くなりになって以来、大殿は力を落とされること甚だしい』
 言葉を呑み込んだ筆頭家老と、言葉を失った殿様が、そろって力無く頭を垂れた。
 
 信之の正室・小松殿こまつどのこと本多忠勝女ほんだ ただかつ の むすめいなは二年前の元和六年二月二十四日に、側室・松尾殿まつおどのこと真田信綱女さなだ のぶつな の むすめ氷垂つららはその半年程前の元和五年九月二十五日に、この世を去っている。

 あの戦から二十余年の月日が過ぎた。
 天下は太平である。
 
 さりとて、真田家の領地である信州上田と上州沼田は、長い戦乱の時代で蓄積された疲弊から、今にもって恢復ししきってはいなかった。
 土地は荒れ、領民は疲れている。
 
 真田信之は領地の内、上田小県の政治を家老の矢沢頼康や小山田茂誠、木村綱茂きむら つなしげといった重臣に任せていた。
 沼田領のそれは当初は出浦昌相、禰津幸直、河原綱家、大熊勘右衛門おおくま かんえもん鈴木忠重すずき ただしげが行っていた。
 数年前、信之が沼田城主の座を嫡男・信吉のぶよしに譲った時、その体制が少しばかり変わった。
 自身を城無き上田、、、、、城主、、とした信之は、沼田差配だった昌相と幸直を率いて上田に移った。
 この二人だけは、信之は常に身近に置くことを望んでいる。
 故に、信之が沼田に軸足を置いていた頃はこの二人は沼田領に置かれていたし、上田に軸足を移すと決めたからには、この二人は連れて行かねばならないのだ。
 私心という物を表沙汰にしない真田信之は、滅多なことで我侭わがままめいたことは云わぬし、また行わない。その信之が、殆ど唯一行っているいる我侭が、この二人の人事だった。
 出浦昌相は、亡き父が「友」と頼んだ男であり、禰津幸直は己が「友」と頼んでいる男である。

松代転封

 真田信之が松代まつしろ海津城かいづじょうへの改封を下知されたのは、元和八年(一六二二年)十月のことであった。
 松代は、旧領信州上田から北国街道をたどっておおよそ十六里(約63km)。千曲川岸の土地だ。
 遠く離れているようにも思えるが、これは宿駅間の距離である。上田領の内でも、その北端である真田の郷からならば、峠を一つ超えればすぐに松代領に入ることが出来る。
 松代の石高は表向き十万石を数える。
 上田は表高六万石だったのだから、差し引き四万石の加増ということになる。
 しかも旧領のうち、上野国沼田の三万五千石はそのままに、というありがたい条件だ。
 真田家の総石高は合わせて十三万五千石となる。
 
 大殿様が急に江戸城に呼び出された時、家中の士たちは不安を隠さなかった。急仕立ての大名行列は、総じて青白い顔をしていた。
 最悪の事態――取り潰し――を懸念していたのだ。
 顔色が変じていないのは、お駕籠かごの中の殿様だけだ。
 真田信之は普段通りに具合悪げな顔つきをして、狭い駕籠の中で大きな体を縮こまらせていた。
 
 信之が加増の下知を頂戴して戻ってきても、その後に噛んで含めるような信之や重臣たちの説明を聞かされても、家臣も領民もすぐに安堵することは出来なかった。
 特に上田領内に広がった動揺の波は激しい。
 上田城の城下で、ひとたび戦があれば――城とは戦のために建てられたものであるから――領民達も城に入り、弓を取って戦う。
 犠牲者は出た。
 戦には勝った。
 死人はねんごろにとむらわれ、怪我人や遺族は十分な保証を受け、恩賞は充分に出た。
 だから領民は城主である真田家を強く慕った。
 上田の藩領にあって上州との境である真田クは、その名が示すとおり、真田氏の発祥の地である。
 城下の原町は真田クの原村から呼び寄せられた人々が住み、海野町は真田氏の本流である海野氏の発祥地である海野宿から移った人々の町である。これら町の発展には、信之自身が丹精している。
 家臣たちは近郷の村落に所領を与えられている。領民たちと共に鋤鍬すきくわを持って新田を開き、川筋を整え、道を通して、故郷を作り上げてきた。
 侍たちは自分たちが作り上げたこの地から離れがたく、民も自分たちと働いてきた主人たちと離れがたく思っている。
 この土地では、支配者と被支配者とが強く結びついていた。
 それこそが、徳川幕府が「真田信之を移封させたい、させねばならない」と決心させた原因の一つだ。
 領主と領民が結束し、幕府に反抗する力を蓄えることを防がねばならない。
 徳川が天下様となった後、多くの大名小名は幕府に従ったが、そうでない者もいた。
 たいていの場合、反感は芽のうちに摘み取られ、多くは反乱にも争いにならなかった。
 なればこそ、今後もその平穏を保ち続けるために、反抗は目に見えるほど育つ前に、徹底的に踏み潰す必要がある。
 その一心が、幕府を守り継ぐ使命を負った徳川秀忠に、心とは裏腹の冷酷とも取れる行動を起こさせている。
 
「どうあっても納得なりませぬな」
 父の代からの重臣である出浦対馬守昌相いでうら つしまのかみ まさすけが、主君の前であからさまに不満を言った。日頃、むしろ恐ろしくなるほどに穏やかな彼に似合わず、語気が荒い。
 信之もこの老臣が素直にこの度の加増、、、、、、を喜ばぬだろうとは予想していた。それ故に、その沙汰さたが下った直後、上田へ向かう途中の武蔵国・鴻巣こうのすの本陣で、中風ちゅうぶの後遺症で動きの悪い手指に筆をとり、わざわざ直筆の手紙を書き送って説得を試みている。
 返書はなかった。
 書簡のをやりとりする暇が無いほどの素早さで、信之は上田入りした。
 昌相を筆頭に、そのほかにも僅かながら存在する反対派の家臣達と、直接話をするためだった。
 江戸表から急ぎ帰国した大殿の自らの説得した意義は十二分にあった。反対派の家臣の大半が転封に納得をしてくれた。
 もっとも、本来なら家臣を説得する必要など無いのだ。主君であれば、家臣に命令を下せば良い。地名を示して「お前の領地はここだ」と云い、数字を示して「禄高ろくだかは何貫、何俵だ」と下知すれば良いだけのことである。
 だがこの殿様は、それができなかった。
 そして、真田信之自らが行った説得でも納得がゆかぬ者のもいくらかはいた。彼らは暇を願い出、ある者は故郷であり領地であった村に戻って帰農し、あるいは脱藩して松代でも上田でもない土地で浪人となった。
 出浦昌相は近年の上田領運営を殆ど任せていたといって良い人物だった。
 ことさら、町分の治安と村分の治水に関して、彼は、丹精に丹誠を込めて行ってきた。
 用水を引き、ため池を掘り、新田開発をする。人々の声を聞き、罪人を捕らえ、裁決を下す。森と山を見、木材・石材を切り出し、町並みを作る。
 こうして作り上げられた上田領の村や町は、彼にとって、謂わば手放しがたい作品、、であった。
 藩主館に藩士達が集められ、大殿様自ら諄々と説いて聞かせたその時、昌相は反論も異論も唱えなかった。
 何も言わなかった。明確な同意の言葉も、である。
 それゆえに、信之は彼が納得をしてくれたものと思っていた。
 だが、違っていた。
 出浦昌相は腹の内の異論や反論を口に出さなかっただけだった。
 とはいえ、この期に及んで文句を言ったところで仕様のないことだ。
 海津城へ移転の下ごしらえは八分通り済んでいた。
 すでに筆頭家老の矢沢頼康とが松代へ出向き、前領主・酒井忠勝さかい ただかつ――酒井家は出羽国庄内しょうないへ十三万八千石の加増となった――からの城受渡しろうけわたしを済ませていた。
 受け入れの体制は万端整えられており、頼康らが主君の到着を待ちかねている。
 他方、上田城を仙石忠政せんごく ただまさに受け渡す準備も、禰津幸直の差配によって着々と進められている。
 城の備品の目録は、備え付けの道具類、戸、畳の枚数に至るまで事細かに書き整えられていた。領内諸村の税収なども「総貫高寄帳」にまとめられている。
 今まさに幸直が藩主館内の一室で、冷や汗と脂汗を流しながら書き整えつつあるこれらの引き継ぎ資料は、一端すべて幕府に提出される。その内容を幕府が精査した後に仙石氏に引き渡す手はずになってるから、間違いは寸分も許されない。
 
 上田の藩主館の内外も、すっかり片付いていた。
 いや、幾分か片付き過ぎ、、、、、のきらいもある。
 建物の中には調度品は一つも無く、書庫の棚にに紙の一枚もなく、部屋部屋の仕切りは、障子と板戸が残されているばかりで、書画の描かれた襖の類いは殆ど取り払われている。
 柱ばかりの屋敷の中を通り抜ける秋風が寒々しい。
 庭も綺麗さっぱりとしている。
 築山に紅葉の一葉もなく、池には鯉一匹の影もなく、生け垣に箭竹の一本も生えていない。
 

狐狸

「有り体に申さば、同意をいたしかねます」
 柔和そうに見える出浦対馬守昌相の丸い顔から、下唇がぐいと突き出されている。
「有り体に言ってくれるでないぞ、対馬。松代は彼の川中島かわなかじまを有する北国の要地。そこを守れとの御命だ。これほど栄誉なことはあるまい」
 がらんとした領主館の大書院で、真田信之は高い上背をぴしりと伸ばした。家臣を諭す言葉は、鴻巣の本陣で書いた手紙の内容を、そのまま繰り返しているに等しい。
 今に限ったことではない。今日のこのときに至るまで、この主従はもう何遍も同じやりとりを繰り返していた。
 それでも昌相の不満は治まることがなかった。
 出浦昌相という男は、若い頃から一見ぼんやりとした狸面たぬきづらであったが、年を経てますます目尻が下がり、眼窩がんかは黒々としたくまに囲まれるに至って、今ではすっかり狸そのものの風貌となっていた。
 そんな彼の垂れ目が、ぎりぎりとつり上がっていた。
「上田城はご先代の長谷寺殿ちょうこくじどの……いや、安房守殿が若殿、、に残された形見にござる。上様には、に親の形見を捨てろ、と仰せですか?」
 長谷寺殿とは、長谷寺殿一翁千雪大居士ちょうこくじでんいちおうせんしゅうだいこじ、すなわち信之の父・真田安房守昌幸のことだ。真田クの長谷寺には、真田昌幸の遺髪が納められた「墓」がある。
 それ故に、徳川家に背いたがためにその名を呼ぶことがはばかられる存在となってしまったその人、、、を呼ぶ時、人々はその寺の名、、、で呼ぶ。
 出浦昌相は真田昌幸に臣下の礼を取っていたが、むしろ盟友ともいうべき間柄であった。数え年五十七で孫もおり、本来なら大殿、、と呼ぶべき親友の倅、、、、のことを、時折、若殿呼ばわりにするのは、それ故であろう。
 これは矢沢頼康などもそうであるが、彼らのような古くからの家臣は、無意識で先代の息子に「若」と呼びかけてしまうことがある。いや、希に、意識的にそのように呼ぶこともあるらしい。
 発言の主の意識の有る無しは信之には関係が無かった。老将、、には、この若造扱い、、、、が溜まらなくうれしい。
 うれしいが、このときばかりは眉が曇った。
「親父殿の形見だからこそ、捨てよと仰せなのだ……。上様はわしに二心のない事など重々御承知であられよう。だが、他の者はどうだ? わしの父が真田昌幸であり、弟が真田信繁であることを知っている者たちは、わしをどう思っていようか」
 
 関ヶ原合戦以後に徳川の旗下に入った武家は「外様」と呼ばれている。
 幕府は「支配力を強化する為」「領地を治める能力の無いものを除き、優れた者に加増するため」という理由から、外様大名の取り潰しや、譜代大名の領地替えを行った。
 真田家の改封も、そんな「外様潰し」の一環だと、陰でささやく者たちもいた。
 徳川に仕えて三十余年、二年前に没した正妻小松殿は徳川家康の養女、という真田信之は、譜代として遇されている。
 それは、並みの外様以上に危険視されている、その裏返しでもあった。
 徳川にことあるごとに反発した表裏比興ひょうりひきょうの者「真田昌幸」の嫡男。豊臣方最後の猛者、大御所・徳川家康を追いつめた男「真田信繁」の実兄。その二点が、幕閣の心に暗鬼を生ぜさせている。
 信之自身の赤心、徳川家への忠義の心は――家康や秀忠自身の個人的な感情を除いて――全く無視されている。
「憎むべき仙石兵部ひょうぶめ。彼の者が殿が木材石材をお集めになったと幕府に上訴したと……」
 出浦昌相の狸顔が朱に染まった。
 仙石忠政が本当に上訴をしたのかどうか、判然としない。
 大体、この領地替えについて事実として知れているのは、
『出羽国の最上源五郎義俊もがみ げんごろう よしとしがお家騒動のため領地の大半を没収された』
『甲斐甲府の徳川中納言忠長とくがわ ちゅうなごん ただながの加増にあたって、小諸領が選ばれた』
『小諸の仙石兵部大輔忠政せんごく ひょうぶだゆう ただまさが加増され、上田に移る』
『上田の真田伊豆守信之が加増され、松代に移る』
『松代の酒井宮内大輔忠勝さかい くないたいふ ただかつが加増され、最上家の領地の一部だった出羽庄内でわ しょうない鶴ヶ岡城つるがおかじょうに移る』
 ということだけなのだ。
「人が聞くぞ、対馬」
 信之が小さく鋭く言う。
 人の口はさがないものである。判らないこと、事実でないことも、そのさがない口から出でる内に、真実であるかように広まってしまう。
 ため息のような間を一つ吐き出した後、信之は小声で、気恥ずかしげに、
「大体、わしが建材を集めたのはまあ事実であるし、それがご政道からちいとばかり、、、、、、外れていることではあることに間違いは無い。ならばその『正しくない事』を咎めたという兵部殿は、むしろ正しい」
 信之の苦笑いを見る昌相の下唇が、さらに突き出た。反論はない。信之は続ける。
生まれ故郷だ、、、、、、だの親の形見だ、、、、、などというのは、それこそ言い訳にもならぬよ。現に、生まれた土地以外に領地を頂戴、、し、引っ越して、、、、、いった大名が、昨今どれほど多いことか」
 信之は具体例は挙げなかったが、手指を折って数える仕草をして見せた。
 
 関ヶ原の戦いで功があり、徳川家康の養女を嫡子の嫁に迎えていた福島正則ふくしま まさのりは、城の無断改築、、、、、、を口実に減転封されている。
 その福島正則改易の立会人を務めた最上義俊は、前述の通り、家中に騒動があったため、出羽秋田五十七万石から近江大森おうみ おおもり一万石へ大減封された。
 三河以来の家柄であり、関ヶ原の折は秀忠に従って信濃平定上田城攻めに同行していた――そして真田昌幸・信繁親子の助命に力を貸してくれた――本多正信ほんだ まさのぶの子・正純まさずみも、城の修築で許可の無い工事、、、、、、、を行ったことを理由の一つとして失脚している。
 
「よろしいか出浦殿よ。この改封は上様直々の有り難い御命だ。万一、家中に従わぬ士があれば……あると知れれば、謀反を疑われる。さすれば、真田家はたちまち取り潰しだぞ」
 口ぶりは柔らかく、口元に苦笑いという笑みがある。が、信之の顔つきは険しかった。
 ことにその眼の光は、射込むように鋭くありながら、悲しげである。
 背筋に冷気が走った。昌相は口を曲げ、下唇を引っ込めた。
 直後、信之は苦笑いを真の笑顔に変えた。
「ま、相応の形見分け、、、、はしてもらうつもりだがな。……対馬よ、来てくれ」
 主君は年上の家臣の袖を引いて館を出た。
 三の丸の屋敷を出て二の丸へ向かう。

吝嗇

 破却されており、元よりほとんど何もない城内で、人足たちが引っ越し支度に立ち働いている。
 もし、信之の上田城修築の願いが幕府に許されていたならば、今頃は城の建て直し工事に従事していたであろう大工町の職人たちが、そのために用意したはずの柱材や板材を、木っ端にして空壕へ投げ入れていた。
 瓦町の鬼師おにしたちも、手塩にかけた違いない金漆で彩られた瓦を、やはり砕いては壕へ投げ込んでいる。
「ええい、甲斐もないぇことだで。立派な城になるはずのものを打ち遣るべちゃるのは」
「だれぇ構うものか。これは立派な真田様の城、、、、、にするはずの材だらず? 後から来る何とかいう殿さまは、自分で立派な何とか様の城、、、、、、の材を用立てればええわえ」
 職人たちが小声で言う言葉が、出浦昌相の耳に届いた。七十をとうに過ぎているというのに、耳も目も実に良く利く。
 実を云えば、この男、忍びの頭領でもある。表向きは普通の家老職だが、裏では忍者を束ねている。若い頃には、手の者達を差し置いて、敵陣に忍び込んだりもしたらしい。
 さて、職人達は元々埋め壕にされていたその上へ様々なものを投げ込んでいるのだから、二の丸・本丸の壕はすっかり埋め立てられ、地面と場所と地続きに見えるほどに平らな姿となっていた。
 その一方で、庭師が松の木、梅の木に根回しをして、土から掘り起こしている。石工が石灯籠にこも、、を掛けている。
こんねん、、、、まで、殿様はねて行かれなさるのかね」
「そりゃそうじゃろう。元々真田の殿様が植えたり据えたりしなした、、、、もんだから、真田の殿様の持ち物ちうことになる。真田の殿様の持ち物なら、引っ越しの荷物になったとて不思議はねぇだら」
「そのくせ、奥方様や先代様のお墓は、残して行かれるときいたぞ」
「分骨なさるさけぇ、なんのことはないのじゃろうよ」
「後から来る殿様が、御陵墓ごりょうぼを壊したりせんかの?」
「なぁに、そしたらへぇ、俺達がどやせ、、、ばいいことずら」
 人足たちの声は小声だが、昌相の耳に良く通る。
 いや、良く聞こえ過ぎる。
『こやつら、よもやわしに聞かせるために喋っておるのではあるまいか?』
 疑いを持った老臣は、その疑いが真実であったなら、職人・人足たちに今のような台詞を吹き込んだ当人であるはずの人物の見た。
 背の高い老年の男の、十万石の殿様に見合わぬ地味なつむぎを着た背中を、チラリと、鋭く、睨む様に……。
 途端、信之が振り向いた。肩越しに家臣を見返した目が意地悪く笑っている。
 昌相は肩をすくめた。
 真田信之はこの引っ越し、、、、を楽しんでいる。
 徳川幕府に故郷を追われる哀れな「外様のお殿様」を装うことを。その非情な処置に僅かばかり手向かいする「反骨の武将」を演出することを。
 そんなことを楽しんでいる、、、、、、ことが幕府に知れれば、今度は改易では済まないというのに、まるで刃の上を歩くような危ない遊びを、真田信之は楽しんでいる。
 
 かつて、生死の狭間のギリギリの際を敢えて選ぶようにして、戦国の世を泳ぎ回りった男がいた。
 最後は、ギリギリの橋を見事に渡り抜いてたどり着いたその先が、大雨で崩れた崖の底であった……そんな不運とも自業自得とも言える生涯を送った、真田安房守昌幸という男の、
『紛れもない。源三郎、、、の中にはあやつ、、、の血が流れている』
 出浦昌相は背筋に震えが走るのを感じた。
 寒気ではない。
 熱い武者震いであった。
 老体の背骨がすっと伸びた。

 こうしている間にも、荷造りされた物が次々と代八車だいはちぐるまに乗せられている。
 大ぶりな代八車は北虎口から城外へ出、牛に引かれて北国街道善光寺道を北へ向かって進んで行く。
 小ぶりな荷車は車力しゃりき人足が轢いた。これは城外には出ない。櫓台の中半なかば崩れた坤櫓ひつじさるのやぐらの脇に付け、そこで荷物が下ろされる。
 人足たちに担がれた荷物は、そこから切り立った崖に作られた石段を降りる。降りた先の、坤櫓ひつじさるやぐらのちょうど真下が船着きになっていた。
 崖を洗う尼ヶ淵の水は、やがて千曲川に合流し、川中島へ向かって流れる。
 こうして、様々な引っ越しの荷物、、、、、、、を積み込んだ高瀬舟たかせぶねは、松代へと漕ぎ出して行く。
 そして元々何もない城であった上田城は、ますます何もない城になって行った。
『それにしても執拗しつようすぎる』
 昌相には信之が何故ここまで徹底的に「城の中のもの」を持ち出そうとするのか、その理由が測りかねた。
 いや、思い当たる節はある。
 仙石忠政への嫌がらせ。だがこれは、これは御当人が否定している。
 あるいは幕府への意趣返し。これも同様だ。幾分か不満はある様だが、大殿様は不平は言っていない。
 となれば、
『単なる物惜しみ』
 そこに考え至って、昌相は苦心して苦笑いを腹の中に封じ込めた。
『何しろこの大殿は、吝嗇ケチであられるからな』
 城下町を整備し、村分を開拓し、存命だった頃の父や弟の生活を支えつつ、幕府から命じられた橋や道の御普請、大坂の陣などへの派兵といった軍役、秀忠の京都御所参内への随身などの共奉、といった、様々な奉公を行った。
 これらへの出費を滞りなく行い、当然九万五千石の大名としての体裁を十分整えた上で、信之が個人的に蓄財した金子は、なんと十万両を超える。
『その金子を、隠し運ぶ心づもりか』
 そう考えれば、腑に落ちなくもない。
 十万両といえば、重さ一千貫。現代のメートル法に換算すれば三千七百五十kgとなる。
 この大量の黄金を、それと気付かせずに運び出すためには……それ以外の大量の荷物を創り出し、紛れ込ませることがが出来れば、あるいは……。
 こう思い至った昌相であったは、すぐにこの考えを否定した。
 件の金子に関しては、隠し立てするどころか、堂々「真田家御用」の札を立てて、陸路運搬する手はずであることを、家臣の誰もが知らされていた。当然昌相もわきまえている。
 その警護のために、昌相はの配下、つまり忍者たちを街道筋に配置する指図を、不承不承ながら行っていた。
『では何を隠しているのか』
 昌相はこの大荷物を「何かの目眩まし」であると決めつけた。
 
 信之が立ち止まったのは、東虎口ひがしこぐちの櫓跡であった。
 かつて櫓門を支えていた二基の櫓の内の北側、辰櫓たつのやぐらの石垣の前である。
 無論、櫓はない。石垣だけが残されている。
 そう、ここだけ「石垣」が残されているのだ。
 他の場所は全て崩された石垣が、この部分だけ残されている。
 理由は――。
「これも持って行くぞ」
 昌相は、主の指の先を見て、息を飲んだ。
 彼の視線と主君の指先の交点には、幅も高さも人の背丈を悠に越える大石がある。
 この、わずかに緑みがかった一枚岩は、表から見れば巨大だが、厚みは思った程のものではなかった。重さは見た目の印象よりはもずっと軽いはずだ。
 だが、上田城を破却した徳川方の城番たちは、これを動かすことが出来なかったらしい。
 そのため、城内にはこの大石を含む石垣だけが、上物を取り払われて何の役目も成さぬというのに、ぽつねんと残されていたのだ。
 昌相のつぶらな眼が大きく見開かれた。口はだらしなくぽかりと開いている。
 呆けた狸面で、彼はその巨石をみつめた。
 しばらく鯉か鮒のように目を瞬かせたり口を開閉させたりしていたが、やがて上吊った声を絞り出した。
「この石は安房殿、、、が……」
「そうだ。亡き親父殿が苦心して太郎山より切り出した大石だ」
 真田信之、満面これ笑み、である。
 主従の脳裏には、そのときの光景が鮮やかに蘇っていた。

大きな石

 太郎山は上田盆地の北方にある。その名は、この地方を昔から支配していた海野氏の総領名「小太郎」に因むとも伝えられるが、定かではない。
 硬質な緑色凝灰岩りょくしょくぎょうかいという優れた石材と、柱状節理ちゅうじょうせつりを呈する流紋岩りゅうもんがんというまれに見る奇岩を産するこの山は、古来から神聖視され、修験道の修行場としても名高い。
 山体からその石、、、が切り出され、コロで引かれ、牛馬の引く車に乗せられ、矢出沢川やでさわがわを渡った時、誰もが感嘆の声を上げた。車輪がきしむ音に、人々は興奮した。
 神職が祝詞のりとを上げる。僧侶が経文きょうもんを読む。百姓が田楽でんがくを舞う。
 歌が青空に満ちた。
 大気が歓喜で振動する中、石は悠然と列を成して進む。
 やがて石は組まれて橋を成し、水を堰き止めて濠を成し、積み上げられて垣となった。
 東虎口にこの巨大な石を据えた時、真田昌幸は満足そうに笑い、云った。
「この石こそ我が化身。たといわしがこの城を離れることがあっても、この石はこの城を守る。攻め来る敵は追い返す。慕い来る者を出迎える」
 組み上げられた石垣の上で、整地された土盛の上で、人々は舞い踊った。
 かねや太鼓が打ち鳴らされて、高らに響く笛の音に合わせて獅子ししが舞う。
 人々の足に踏み固められた土は、城の土台となり、町の守りとなる。
 満足げにこの祭り、、を眺めていた昌幸が、人々の歌声に吊られて立ち上がり、自身も調子外れに歌い出したのを、信幸、、と昌相とがやんわりと、且つ必死の思いで止めた、その三十数年前のあの日のことが、つい昨日の出来事のように思い起こされる。
 
 風が吹いた。
 微かに湿った土の匂いを嗅ぎ取って、昌相は今に引き戻された。
 主君・信之が淡い緑色の巨石を愛おしげに撫でている。
「二十年前、城番衆はこれを動かせなかったと云うが、なんの動かぬという筈が無い。親父殿は山からここまで運び出したのだ。今度はわしが上田から松代まで運ぶ番だ」
 齢五十七になる老大殿が、小童のように笑った。
『ああ、このためか。石灯籠も庭の木々も、襖も、鍋釜も、一切を私物と云い張ったのは、石垣の石を運び出すことを不審に思われぬ、そのためであったか』
 なんという大がかりな偽装工作であろうか。
 しかし、これは大きすぎる。かさがありすぎる。重すぎる。
 初め、昌相が反対しようと考えたのも無理はない。
 だが、結局は彼もこの「形見分け」に賛同した。
 信之が、
「わしから見ればこの大石は、上田城と、小県ちいさがたの地と、何よりも親父殿の化身に他ならない。わしは親父殿に松代まで御同行願うつもりだ」
 と、付け足したからだ。
「かしこまりました。直ちに石工と人夫を集め、大石を運び出しましょう。安房殿を、我らと共に松代へ!」
 昌相もあるじ同様に満面の笑みを浮かべた。
 
 早速に出浦昌相の手配によって、とりわけ屈強な人夫が集められた。石垣の周囲に足場が組まれ、支柱が立てられ、大石には綱が掛けられた。
 信之や重臣たちの見守る中、人夫たちは慎重に、力強く、綱を引いた。
 綱が、支柱が、足場が、人夫たちの骨が、音を立ててきしんだ。
 重く湿った風は、人夫の汗も侍たちの脂汗も、乾かしてはくれない。
 息の詰まる時間は長くは続かなかった。
 綱が切れ、支柱が折れ、足場が崩れ、人夫たちは地面にたたきつけられた。
 石は動かなかった。
 怪我人が運び出され、代わりに、前にも増してたくましげな男たちがやってきた。
 大石と石垣とのすき間に丸太を差し込んで、てこ、、の要領で石を浮き上がらせようと試る。
 丸太が折れた。
 石はびくとしない。
 馬奉行がうまやから軍馬を十数頭引いて来た。太い縄を大石と繋いで馬に鞭を入れた。
 四半刻の後、馬奉行は馬の背にちぎれた太縄を乗せて、厩へと逆戻りした。
 石は微動だにしない。
 大騒ぎを聞きつけて、人々が集まる。
 いつの間にか城内は人で溢れていた。
 神職が祈祷きとうの祝詞を上げる。僧侶がの降伏こうふくの経文を読む。百姓が祈願の田楽を舞う。
 歌は曇天に吸い込まれた。
 城下の力自慢たちが次々に石にとりついて揺さぶった。
 動くはずがない。
 落胆の声が上がる。
 そして、誰も口を利かなくなった。

 曇り空から、水滴が落ちた。
 叩く様な雨が人々を散らした。
 巨石の前にたたずむ人間は、真田信之と出浦昌相のみであった。
 
 雨だれが信之の前身をぬらした。目から頬を伝い、顎の先からしたたり落ちる水は、しかし果たして雨水なのだろうか。
 ふ、と信之の頭上を暗がりが覆った。
 藩主屋敷で膨大な書類を書き綴っている筈の禰津幸直が、傘を差し掛けている。
 
 動かない石を見ながら信之はぽつりと呟いた。
「やれやれ、頑固な御仁よの」
「は?」
 昌相が仰ぎ見ると、信之は悲しげに、大石を凝視ていた。
『この眼差し、かつて何処ぞで見たような……』
 主君の横顔に、昌相は二十二年の昔を……関ヶ原合戦で西軍に加勢した真田昌幸・信繁が九度山に流された、あの冬の事を……思い出した。
 
 父弟は謀反人である。徳川の家臣である信幸、、が二人を見送る事は、公には許されなかった。
 物陰に隠れて、山道を行く父弟の背を眺める事しか、彼にはできなかった。
 去って行く偉大な父と、従い行く父に認められた弟、そして二人に取り残された自分……。信之は寂しさの中に、羨望を溶かし込んだ、悲しげな眼差しを二人に向けていた。
 そして彼は、誰に言うとでもなく呟いた。
「私一人が、ここに置いて行かれてしまった……」
 その時、旧主の背に注いでいた視線と、今大石に注がれている視線は、まるで同じ物だ。
 昌相がそっと傘の中をのぞき込むと、主君の頬はわずかに紅潮していた。
『さようですか、親父殿。この地を離れたくないと仰せなのですね。源二郎共々、上田の地を死守すると。松代へはそれがし独りで行けと。……私はまた、父上に置いてゆかれる、、、、、、、のですね』
 
 油紙を大粒の雨が叩いている。
「万事、整いましてございます」
 幸直が小さく言上すると、真田信之は袖で顔を拭い、赤い目を細めて笑った。
 微笑む主君の瞳から抑えきれぬ熱いものが、なお止めどなくあふれ出るのを、昌相は確かに見た。
 
 追って上田城へ入った仙石兵部大輔忠政は、城跡にも藩主屋敷にも報告書通り本当に何一つ残されていない、、、、、、、、、、ことに改めて驚愕した。
 庭に庭木無く、家屋に家具無く、武器庫に矢の一条も無い。
 巨大な、あの石をのぞいて。
 
 それからやがて四百年も経とうだろうか。
 上田城跡公園に復元された櫓門脇の石垣に、その大石……真田石……は居る。
 彼ら、、は今な、お静かに上田の地を守っている。
【了】

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