殿様



【目次】
  1. 沼田城表書院にて。
  2. 沼田城奥の書院にて。

一、沼田城表書院にて。

 雨はんだ。

 本丸御殿の表書院は人であふれかえっている。障壁を取り払った廊下にも人々が目白押しに座っていた。その廊下からもこぼれ出た者達は、中庭にむしろを敷いて座している。
 冷たく濡れた空気が重い。
 誰も言葉を発しない。
 上段の間に座する大柄な城主も、その傍らに座るかたぎぬばかまに打ち掛けを羽織った奥方も、脇に控える笑っているのだか怒っているのだかよく解らぬ顔立ちの家老も、長く口をつぐんでいる。
 諸々が纏う肩衣は、木綿であったり麻であったり、あるいはかみであったりする。糸や織りの違いは、身分の上下の違いの表れである。
 だがその違いにもかかわらず、色はおおよそ蒼い。
 かちいろなん天鵞絨びろーど海松みるあさ
 空の青、山の青、森の青、河の青。
 その合間合間に、時折土のような赤や黄が混じる。
 沼田城は侍の海だった。
 暗いなぎの海の、さざなみの波頭のような侍達の顔を、城主は一つ一つ、順に、ゆっくりと眺めている。
 皆よく知っている顔だ。
 ここに五層の天守が建つ前から見知っている顔。大坂の屋敷で見た顔。そして、上田城にあった顔。
 おびえたような、悔しげな、安堵したような、嬉しげな、顔、顔、顔。
 一月ほど前に敵であった顔がある。その時自分の傍らにいた顔がある。
 真田伊豆守信幸はその顔々を、皆、知っている。

「さても――」
 息を吐き出した信幸の、頬に浮かんだ幽かな笑みは、浮かんだと見るやたちまちに深い海の底へ沈み込むように消えた。
「此度のことで、皆々には苦労をかけた。非道い仕打ちを被った者もおろう。済まぬ事をしたと思っている」
 凪の海がざわめいた。
 つきほど前まで、この場にいる者たちは、おおよそ半々に別れて、敵味方の間柄であった。
 あの時――真田信幸が徳川方に付くと決めたその瞬間、石田方に付くと決めた父・真田安房守昌幸と、弟・真田左衛門佐信繁の支配下にあったものたちは、信幸に敵対しなければならなくなった。同時に信幸の配下は、昌幸と信繁に敵対することになった。
 主君共の『勝手な』判断の為に、彼らの内には親兄弟、縁戚、顔なじみ、あるいは親しき友の間柄で、敵と味方に引き裂かれた者達が多くいた。
 沼田に残された昌幸方のものたちの家族は信幸夫人・小松殿から直々の呼び出しを受け、事情のわからぬままに城内に留め置かれた。
 ほとんど同時に、沼田に縁戚がいる上田の庄の人々も、上田城に呼び寄せられたという。
 証人ひとじちとされたのだ。
 そして双方の幾人かが「処罰」を受けた。
 敵味方に分かれた殿様達は、敵味方に分かれた家臣達を、裏切り者として処さねばならなかった。
 敵なのだ。
 昔見知った者でも、深く信頼する者でも、強く愛する者でも、敵となってしまったのだ。
 それ以外に理由はない。
 信幸は彼の大切な家臣達の顔を見回した。
 どれほどの時であったか、やがて、両の手を畳の上に付いた。
「この通りだ。許してくれまいか」
 言葉は苦しげに絞り出された。深く深く下げた頭は、小さくゆらゆらと揺れている。
「若殿!」
「殿!」
 侍達が口々に主君を呼んだ。
 信幸はその声の一つ一つを聞き取ろうとしている。下げた頭の中で、その声の主一人一人の顔を思い浮かべようとしている。
 己を『若』と呼ぶのは、上田城や京都・大坂の真田安房守屋敷にいた者達であろう。彼らの殿様は安房守昌幸であり、源三郎信幸はその若様に他ならない。
 他方、『殿』と呼ぶ声は、沼田城や江戸屋敷に仕える侍達のものだ。真田信幸が沼田城主となった時から、彼らにとって殿様という言葉は伊豆守信幸以外を指さなくなっている。彼らにとって昌幸は、『大殿』と呼ぶ存在であった。
 信幸は頭を上げようとしない。胃のあたりに疼痛を覚えていたが、動こうとしない理由はそればかりではない。
 聞こえる声と、思い浮かぶ顔を、すりあわせることが辛い。誰が上田侍で、誰が沼田侍かが解ってしまえば、その解ってしまった者達の背後に、彼らが『殿』と呼び『大殿』と呼ぶ者の顔が思い浮かんでしまう。
 敵となり、敗れ、去って行く者の顔が、思い出されてしまう。
 真田信幸は動けない。
 家臣達の主君を呼ぶ声から、徐々に力が失せてゆく。不安のさざなみが、表書院に白い飛沫をたててざわめいている。
 やがてまた、誰も言葉を発しなくなった。

 真田信幸は動かない。
 閉じた瞼の中で眼球だけを左右に振っている。右に左に、目玉と頭が小さく揺れる。
 右手に、彼の正室がいる。小松殿・稲姫がどのような表情かおで自分の言葉を待っているか、信幸は瞑目したまま想像してみた。
 幾分か、驚いたような顔はしているだろう。仮にも三万石の殿様が、自分がしたことに関して家臣達に対してわびを入れ、頭を下げたまま身じろぎもしないのだ。普通にはあり得ない。
 だから、驚いてはいるだろうが、かといって、不安がってはいないことだろう。
 左手に家老の出浦対馬守盛清がいる。
 この男は、信幸の父である昌幸と同年代だ。昌幸に対して臣下の礼を取って幕下に加わったものだが、もとは同じ信濃の国人衆であり、どちらかと言えば盟友の間柄である。
 しかしその容貌ときたら、背丈は小柄だし、面構えは狸そのもので、お世辞にも立派とは言えない。
 そしてその貧相にさえ見える体には、それに見合わぬ大きな剛胆が収まっている。
 だから彼も、自分のせがれのような若殿様が、殿様らしくなく土下座じみた行いをしていることに驚きはしても、不安や懸念は抱いていないはずだ。
 信幸の筆頭家老の大熊五郎ごろ左衛門ざえもん常光は、今この場にいない。
 徳川内大臣家康が徹底破壊を厳命した上田城には、諏訪因幡守頼水・大井石見守政成・伴野対馬守貞吉らが勤番している。年明けて雪が溶けるのを待って破却が始まる。
 城主の座を追われた真田昌幸・信繁の父子が、まだ形の残っている本丸屋形に住まうことは当然許されない。彼らは今、上田城三の丸の古屋敷と呼ぶ屋敷で蟄居謹慎している。
 大熊はそこに赴き、『大殿』昌幸に仕えながら役を仰せつかった。命じたのは「殿」である信幸だ。
 入れ替わりに、信幸は上田に「籠城」していた家臣のほとんどを沼田に呼び寄せてしまった。
 もちろん、だい家康の許しは得ている。
 もっとも信幸はあの戦が起こる前に内府から上田小県領安堵の確約を貰っているのであるから、この約束を盾にして、家臣達の処遇に関して憚ることはないと、強弁を張ることもできた。
 それを信幸はしなかった。
 今家臣達を前に垂れていると同じほどに深く平伏して、わざわざ許可を貰った。
 こうして、京大坂、上田のものたちが、沼田に集められた。いずれ、沼田、江戸の士達も含めて、配置の配分をし直さねばならない。

「申し上げます」
 広い表書院の端の方から声が上がった。信幸の耳に聞き馴染んだ声だった。
 古くから自分に仕えている家臣が、意見を述べようとしているのだ。信幸は頭を上げざるを得なくなった。
 ゆっくりと頭を上げ、その声がした方を見た。書院と廊下の堺のあたりで、助右衛門尉すけえもんのじょうゆきなおが平伏している。 
 幸直は信幸の乳母めのとだ。その妻は、真田家の血縁である矢沢頼康――信幸の祖父と頼康の父が兄弟――の婿であるから、彼は信幸の縁戚だといっていいだろう。
 確かに身分は高いとはいえぬ。しかし低い訳ではない。他ならぬ出浦家老に直属して働いているのだ。今この場で、あれほどの「末席」に座る必要はない。

 何か企んでいるに違いない――。

 信幸の目が、この無二の友の頭頂部の青々とそり上げた月代さかやきと、高々と巻きたてられたちゃせんまげもとゆいの、もえいろの平打ち紐に獲られた。
「申せ」
 静かな声で呼びかけると、幸直の頭が僅かに上がった。四角い額の下の細い目の中に、小さな光が見える。
「この度、殿におかれましては、上田小県六万石余を、御加増あそばされましたこと、誠にしゅうちゃく。家臣一同、お喜び、申し奉ります」
 渇いた喉からようやく絞り出したような痛々しい声で、一言一言、言葉を句切りながら幸直は言ったが、言い終えぬ内に、再び頭を床にこすりつけた。そのまま、凍り付いたように動かない。

 信幸の眼光が鋭くなった。同時に瞼が細く閉じられたから、誰も彼の瞳から、怒りを帯びた驚愕を読みとることはできなかっただろう。
 座は水を打ったように静まりかえった。が、それはほんの一瞬のことであった。
「申し上げます」
 この声は信幸の左手の極近いあたりから聞こえた。
「……申せ」
 静かに怒気を帯びた声音で、信幸が促す。
 家老・出浦対馬が、胡座の膝脇の床に両拳を突て頭を下げた。 
「助右衛門めが申すまでもなく、今より前も、これより後も、我ら家臣一同、殿の御為に、身を捨ててはたらく所存に御座います」
 出浦盛清の頭が僅かに持ち上がった。
 眼差しが常ならぬ鋭さを帯びている。強弓から放たれた矢のような視線に、満座の士の顔の一つ一つが射抜かれたようであった。
 何か重い蓋で波頭を押さえつけられ、無理矢理に凪にされていた水面が、にわかに泡立つ。
 表書院の中でも、廊下でも、中庭でも、侍達は小さくせわしなく身動きをしている。両隣の同僚を顔を見合わせ、居住まいを正したかと思うと、はなをすする。袖で涙をぬぐう者があり、声を殺して肩を震えさせる者があり、痴態を隠すことを忘れて声を上げて泣き出す者がある。
 不規則な波が、城内を静かに荒らしている。
 どれほどの時も流れていない。盛清はほとんど言葉と言葉の間に時を置かずに、満座に向けて、
そうないな?」
 鋭く、短く、断定的に問うた。
 途端、不規則であった人々の細波が、一つの大きなうねりとなった。
「相違御座いませぬ!」
 無数の声がした。叫ぶようであり、わめくようであった。
「我ら一同、殿の御為に、忠勤いたしまする!」
 怒号のようであり、熱狂のようであった。
 しかしその声は、一つにまとまることがなかった。
 同じ言葉が、違う間で、あちらこちらから飛び出し、信幸の眼前でぶつかり合う。
 声はこんぜんとして混じり、言葉としての響きを打ち消されてしまっている。

 信幸はそれを、じっと聞いていた。
 やがて、瞼がゆっくりと開きはじめた。
 薄く明けた目で見る沼田城は、やはり侍の海だった。
 暗いの海の、荒波の波頭のような侍達の顔を、信幸は一つ一つ、順に、ゆっくりと眺めた。
 皆よく知っている顔だ。
「殿!」
「大殿!」
 目をこらさねばそうと解らないほどに薄い微笑が、信幸の頬に浮かんだ。直後、
「一同、静まれ」
 低く鋭い声が、荒波を砕いた。
 侍達は押し黙った。主君の次の言葉を待った。
 真田信幸は再び深く頭を下げた。かと思うと、すぐに上体を起こし、
たい
 一言鋭く言い放つと、すっと立ち上がった。
「はっ!」
 満座が平伏するのを見届け、信幸は表書院を後にした。

二、沼田城奥の書院にて。

 本丸御殿の「奧の書院」は城主のいわば私邸である。
 その一番奥まった所、若い彼岸桜が葉を落とした枝が寒そうに微風に揺れる庭に面した一室に入り、部屋の中央まで進んだあたりで、信幸は糸の切れた傀儡くぐつのようにすとんと座り込んだ。
 二呼吸ばかり遅れて部屋に入った妻女のいなが、夫の背中がぐらりと揺れるのを見て、
「あ」
 と、小さく悲鳴を発した。

 大柄で筋骨隆とした体つきの真田信幸だが、じつのところ、厄介な宿しゅくに悩まされている。
 当人曰く「生まれつき」だという胃の腑の痛みは、気苦労がかさむと折々に頭をもたげてくる。
 それに加えて、八年ほど前、唐入りに備えて滞陣していたぜんから大坂へ戻ってきた時に始めて発症した「おこり」である。
 信幸は悪寒と高熱とに苦しみ抜いた。ところが三日も過ぎると、それこそ「瘧が落ちたように」症状が消えてしまった。
 一度は安堵し、この病の事を忘れかけていたころ、唐突に震えが襲ってきた。
 以来数回、前触れのない発熱とけいれんに、信幸も家族達も悩まされ、恐れている。
 稲は血の気を失った。だが自ら戦の前線に立つことをいやわない烈女である。絹裂くような悲鳴を上げて立ちすくむようなことはない。
 飛びついて支えようとした。しかし、間に合わない。
 横様に倒れる信幸の頭が床に落ちる直前、頃合いの高さの柔らかげな「何か」が、落下地点に先回りして滑り込んだ。
「あ」
 稲の口から、今度は小さな驚愕の声が漏れた。
 柔らかげなものは、人の腿である。稲は腿の「持ち主」の顔を見て、
あねさま……?」
 安堵の声を発し、気が抜けたようにその場に座り込んだ。
 二人の女性の、突き合わされた膝頭の真ん中に、真田信幸の頭がごろりと転がっている形となった。
 信幸は薄目を明けた。視線の先に、古く見知った顔が見える。
 どう見ても三十前のとしざかりである。だが実のところ、信幸よりも二つばかりとしかさだ。
 信幸の父の長兄のちゃくじょだった。つまりは従姉ということになるが、それと同時に妻女でもあった。十年余前までは正室であったが、今は側室の扱いとなっている。
 後から嫁いで、今は正室とされている稲が「小松殿」と呼ばれるのに対して、「松尾殿」と呼ばれている。
 松尾というのは、真田家の先祖伝来の地である信濃真田の郷にある地名であり、古い城の名であり、彼女の故郷の土地の名である。
 もっともその呼称で呼ぶのは信幸以外の者達だ。信幸のみは彼女を
垂氷つらら
 と呼んだ。

「大坂から無事戻ったか?」
 優しげな信幸の声だったが、奥深い所に僅かながらある種の「不快」が混じっている。あるいは「不可解の念」と言うべきであろうか。
 真田信幸の家族のうち、垂氷つららは大坂屋敷に住まわっていた。正妻の稲は、子供達と共に本領である沼田に置かれていた。この地の経営の一端を担うためであった。
 関ヶ原で戦が起きる直前、在坂していた諸将の妻子の多くが、大阪城内に入れられた。
 戦に巻き込まれぬよう保護するのため――と言えば聞こえはよいが、詰まる所、石田治部少輔三成方に証人に獲られたのである。
 この時、真田昌幸の妻・きょうぜんと、信幸の弟・信繁の妻であるも城内に「保護」された。信幸の大坂屋敷にいた垂氷つららも同様である。
 もっとも真田家の場合、石田三成の義弟に昌幸の娘の――つまりは信幸達にとっては妹の――きくが嫁いでいるし、信繁の妻は大谷刑部少輔吉継の娘であった。また、昌幸・信繁の二将は、比較的早い段階で石田方に味方することを表明していたのであるから、真田の縁者を大坂城へ入れたことは、真に「保護」の目的であったのかもしれない。
「大坂暮らしも、途中からは針の筵でございましたよ。若様が内府様にお味方すると、大坂の方々に知れてから――」
 垂氷つららは大げさにため息を吐いて見せた。
「途中?」
 稲が小首をかしげた。信幸もいぶかしそうに垂氷つららのへの字に曲がった口元を見ている。
「大殿様は、若様がアチラへ行ってしまったことを、途中まではナイショになさっていたご様子ですよ。於菊サマのハナシでは、治部様は若様のことを『しゅう殿は今まで戦に負けたことがない』と、それはそれは大変に頼りになさっていたとか。……かえって、大殿様よりもご期待をなさってたのかもしれませんね」
 信幸は胃の腑にちくりとした痛みを覚えた。
「私が内府様にお味方しておらねば、母上も子供達も、家臣達も領民達も、当然お前も、みな無事では済まなかったのだぞ」
 吐き出すように行った信幸だったが、心中に浮かぶ『言い訳めいている』という自責が、ますます胃の腑を痛ませる。
 垂氷つららはけろりんかんとした顔で、
「判っておりますよ。叔母上様も『源三郎はよくやった』とお褒めになっておいででした。それから、また胃の腑が痛むとイケナイからと……」
 なにやら袂を探り、なにやら白い物を取り出した。細長い紙である。その端をぺろりと舐めたかと思うと、
「はいっ」
 ぺちり、と信幸の額に貼り付けた。
 白い紙に墨跡が薄く透けて見える。信幸は両方の眼球を鼻柱に向けて寄せ、読んだ。
「白山大権現」
 小さく声に出した途端、信幸の脳裏に、尖った白く雪を頂いた故郷の山が浮かんだ。
やま神社に詣でたのか?」
「ついでですから」
 垂氷つららがにんまりと笑うのと同時に、稲がぷっと吹き出した。

 大坂に「保護」されていた人々は、石田方の敗北を知ると、徳川方によるらんぼうどり、つまり強奪や暴行を恐れて、それぞれ脱出を計った。
 真田家の者達も同様だった。一人も残さずに脱出することができたのは、大坂詰めの家老・河原右京介うきょうのすけ綱家の尽力の賜物だ。徳川方であった信幸も、彼らが無事に故郷へ帰れるように手配をしたのは当然のことである。
 彼らが向かった先は、上田であった。そこが真田家の本領であったからだ。同時に、石田方に付いた真田昌幸・信繁が仮に蟄居させられている場所である。
 大坂方から戻った者達は、昌幸・信繁の正式な処罰が決まるまで、そこに留め置かれることになった。
 ただし、やはり城内ではない。住み慣れた屋敷でもない。城下の寺社に仮寓している。
 垂氷つららが上田を出て沼田に来ることが許されたのは、彼女が信幸の室であるからに他ならない。
 ところで、大坂から上田を経由して沼田に来る街道筋には、真田の郷の氏神である山家神社はない。
 四阿山山頂を本宮とする山家神社は、真田の郷の奥まったところに鎮座する。険しい山道の奥にあり、ついでにひょいと寄れる場所などではないのだ。
 だから普通に見たなら、垂氷つららはわざわざ出向いたことになる。しかし彼女は冗談や軽口でそう言った訳ではなかった。
 垂氷つららは健脚だった。並はずれて頑丈で、しかも速い脚力を持っている。上田の城から太郎山の裏へ回って、山中の神社で守り札を授かってくる程度のは、並の者であれば酷い遠回りであっても、彼女にとっては寄り道でもなんでもないのだろう。
「小松の姫様はお笑いになりますけど、これはわたしの役目でもありますから。つまりは、これも若様の武運長久を祈願する、その一環でございますよ」
 垂氷つららは誇り高げに自慢げに、胸を反り返すように張った。

 しかしすぐに背が僅かに丸くなった。黒目がちな目をしばたかせて、小首をかしげて、稲の顔を見ている。
 信幸が白山権現の札の端からちらりとうかがい見ると、稲が少しばかり怒ったような、僅かばかり悲しげな眼で、垂氷つららにらんでいた。
「姐様。今日限りにて、殿様のことをとお呼びになるのを、お止め頂けますか?」
「はえ?」
 瞬きが速くなる。首の角度が深くなる。
 稲が背筋を伸ばした。まっすぐに垂氷の顔を見据えて、
ちちうえ様にはながのちっきょをして頂くことに決まりました」
 一息に、断定的に、言った。
「大殿様が、つまりはご隠居なさる?」
 垂氷は下を見た。膝の上に、額に白山権現のお札を貼り付けた夫の顔がある。
 信幸は僅かに顔を背けた。
「父上と源次郎に……生きていてもらうためのことだ」
 胃が差し込むようにギリギリと痛む。
「生きて……」
 垂氷つららの顔が凍り付いた。

 彼女の父親は彼女がまだ十ばかりのころに死んでいる。討ち死にだった。
 近従の者達がしゅきゅうを敵方に渡すまいと奮戦した結果、【それ】は彼自身が着ていた陣羽織に包まれて、持ち帰られた。
 垂氷つららの脳裏に焼き付いている父の姿は、まさしく【それ】である。血塗られ、傷み、朽ちかけた【それ】である。

「ですから姐様……これより先、殿様は大殿です。若殿と申せば、仙千代せんちよ殿のことになりましょう」
 稲は言葉を一つ一つ句切って、些か苦しげに言った。
 仙千代は信幸の嫡男である。稲の手元に置かれ、正室である彼女が養育しているが、生みの親は垂氷つららであった。
 垂氷つららは何か言いたげに開けた口を、すぐに引き結んだ。細めた瞼の隙間から、信幸を睨むように見ている。
 信幸の目は、垂氷つららを見ていなかった。視線は稲の方に向けられている。不機嫌な目の色だった。
「助右衛門をそそのかしたのは、やはりその方か?」
「唆した、とは?」
 顔を垂氷つららに向けたまま、稲は問い返した。
「私を……父上を差し置いて殿呼ばわりにするようにと、アレに命じたのは、お前か?」
 首が横に振られた。
「では、誰の悪知恵だ?」
「存じ上げません。強いて申すならば、皆の考えでございましょう」
「皆、だと?」
「真田の御家を思う、皆々の考えです」
「それを、私と垂氷つららにも強いるのか?」
「強いる……?」
 稲の目が丸く見開かれた。瞳が信幸と垂氷つららの顔の間を泳ぐように動き廻る。垂氷つららの目玉も泳いでいる。信幸と稲と、どこか知れぬ中空とを、泳ぎ回っている。
 やがて、視線が一つに定まった。
 二人の妻が、二揃いの膝頭の間に乗った、一人の夫の顔をじっと見ている。
 信幸は彼をのぞき込む二つの顔を――白山権現の御札の下から――交互に見た。
「私は、大殿などと呼ばれるほどの器量はないぞ」
 苦く笑ってみせる。嘘笑いであることは明白だった。

「ええ、最初から御座いませんね」
 唇を尖らせて言ったのは、垂氷だった。
「そもそも、わたしと婚礼をしたその時から、若様はなのですよ。源五郎の叔父上の大殿様は、つまるところ若様のです」
「あ……」
 信幸と稲が同時に驚嘆した。
 垂氷つららの言は、せいこくたものであった。
 信幸が、真田家の当主であった真田げん左衛門尉さえもんのじょう信綱の嫡女である垂氷つららと、十歳に成るや成らずで婚姻したのは、その頃は養子に入った武藤家の跡目を継いでいた昌幸が、真田の家督を相続する正当性を主張するための処置であると言えた。
「だのにちっとも若様は当主らしくない……ちっとも当主らしくなってくださらない」
 垂氷つららの思う「真田の当主らしい人物像」は、おそらく彼女の父のような、武勇に優れ、先陣を切って戦場を駆ける者であろう。そして父とは違って、戦場から無事に帰還して、妻子をほうようする男のことであろう。
「ですからわたしは若様とお呼びしてるんです。最初から、今も、これからも、若様が真田の当主と呼ぶに相応しい方になるまで、ずっと!」
 言葉の最後は、ほとんど叫び声のようになっていた。
「よろしいですね、小松の姫様。私は若様を若様と呼びますから。よろしいですね」
 信幸の胸板を小振りなげんこつで叩きながら、垂氷つららは稲を睨んだ。白目と鼻の頭が赤い。頬が濡れている。
 垂氷つららと稲と信幸が、ほとんど同時にはなみずをすすった。


 雲間から差した日が、障子に一つの影を映し出した。
「若」
と言いさして、慌てて、
「……殿
 と言い直した声は、出浦盛清のものであった。
「なにごとか?」
 主君の声を聞いて、盛清はそっと障子を開けた。
 部屋の真ん中で、額に白山権現の札を貼り付けた大殿様が、二人の恋女房を両手に従え、背筋を伸ばして端座していた。

《終》
 
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