【帰り道】

 
「ほい、そこの人」
 初夏の日差しがまぶしかった。
 りゅう叔郎しゅくろうは聞き慣れない声に、目深に被っていた編み笠を、わずかにあげて振り向いた。
 薄汚い童子と痩せた山羊を連れた、顔色の悪い食い詰め易者が、胡散臭気な笑みをこちらに向けている。
「俺の事かい?」
「そう、おまえさんの事だよ。……おまえさん、いい相をしているねぇ」
「いくらほめても観料は出ないよ」
 叔郎は笠の縁を引き戻して、立ち去ろうとした。
 踏み出した一歩目が大地を蹴る前に、易者はぼそりとつぶやいた。
「そうかね。……商売は繁盛したようだが」
 そういって彼が指したのは、叔郎が担いでいた天秤棒の先だった。
 そこには、売れ残りの草履が二足、申し訳程度に下がっている。
 叔郎は、ビタ銭で膨れた懐をさすった。
「こいつらは、もう、行き先が決まってるよ」
 銭という奴らはせっかちで、貧乏人の懐で長逗留する余裕を持っていない。
 易者は破顔して、
「要らん、要らん。ただ、おまえさんの人相が珍しかったんで、声をかけたまでの事さ」
「見えもしない笠の内の人相が珍しいかどうかを、老師センセイ、よく判りなすったね」
 叔郎が茶化すと、易者は自分の両耳たぶを引っ張って見せた。
耳朶じだの長いのは貴相かつ吉相でな。おまえさんのように特段立派なヤツは、『垂肩耳すいけんじ』てぇ言って、『九五の尊、身は実に賢し』な相だ。つまり、おまえさんの耳には、おまえさんは頭が切れてとことん出世する、と表れているのさ」
 易者に言われるまでもなく、叔郎の耳は、文字通りの『垂肩耳』だった。
 外耳全体が大振りな上に、垂れた耳たぶは深編み笠の縁からはみ出す程に長い。
 叔郎はこの耳を嫌っている。口さがない悪友共が彼を「兎」などと呼ぶのが、これの所為だからだ。
 彼は口をへの字に曲げて、己の耳たぶを摘んだ。
「これが貴相なら、兎は軒並み皇帝だ」
「高祖も光武帝も、耳朶のでかい方だった。また武帝も福耳だったぜ。……ま、拝顔の叶うた訳じゃねぇが」
 高祖こと劉邦りゅうほうは漢……西漢……を興した人物、その漢帝国が百有余年を経て佞臣に簒奪された時、帝室を復興させた……東漢……のが光武帝・劉秀りゅうしゅうである。
 易者が最後に名を挙げた武帝は、いみな(本名)を劉徹りゅうてつと言う。
 劉邦の曾孫に当たり、西漢の第七代皇帝である彼は、漢の版図を……その諡号しごうが示すように……武力に因って飛躍的に広げた。
 『平定』された側にとっては、いい迷惑だが、漢王朝の視点から見るには、英雄的皇帝である。
「肖像画なんて、当てになりゃしない。偉くなった人の顔は、偉く見えるように描くんだから」
 叔郎は憮然とした声音を出した。何とも子供じみた口調だったが、言うことは的を射ている。
 易者も頷いていた。
「然り、然り。偉い人は偉い顔をしてるってぇのが『易学』の考え方なんでね。だからこそ、何かの拍子に偉くなっちまった凡人は、さも自分が元々偉い人相をしていたかのように振る舞う、てぇ訳さね。つまり、それだけみんな『易』を信用しているってことさ」
「まあ、そういう言い方もできるけれど……」
 個人的には承知しかねない。けれども世の中の考え方はこうなのだ。叔郎は渋々易者に賛同して見せた。
 易者は更に大きく頷いた。
「だからおまえさんも、この儂の言うことに、少しだけ耳を傾けな」
 叔郎が返事に窮していると、易者はひょいと伸び上がって、強引に彼の編み笠を取りあげた。
 昼下がりの目映い光に目をしかめたのは、陽に焼けた、つるりとした頬の、整った顔立ちをした少年だった。
 彼の広い肩幅と高い上背から、二十歳前後の青年を想像していたらしい易者は、一瞬、目を見張った。
 しかし、すぐに出来の良いカブラでも観るかのように、彼の品定めを始めた。
「ふむ、やはり頭骨長く、面体は細長い。眼は切れ長で、眉も長い。上顎前歯も他に比ぶればやや長いか……。耳朶と併せて『六長格ろくちょうかく』よな。命数長く大志を達する相だ。それから、両腕長く膝下に達す……」
「いくら何でも、猿じゃあるまいに、そんなに長かぁないよ」
 叔郎はむくれて、二つ目の引け目を隠すように、胸の前で腕を組んだ。
 易者は少年の心地など意にも止めず、続ける。
「口を挟むでない。両腕が長く膝下に達するのは『領袖格りょうしゅうかく』と言ってな、王覇の相なのだぞ。……ほれ、次じゃ。目ン玉だけで横を向いてみぃ。己の耳が見えるか? それは『怙吉こきつ』の相だ。この相を持つ者は信頼に足るから、たよりにしていと言われておる。……つまるところ、お前さん、自身の好むと好まざるとに関わらず、いろんな連中から慕われるっちゅう相をしとる、という訳じゃ」
 しっかりと良く聞き取れる早口でまくし立てた後、易者は、ほう、と嘆息した。そうして、足下に目を転ずると、連れの童子に向かって言った。
「よう見ておけよ。教本の絵図なんぞよりも良い、吉相の見本ぞ」
 五・六歳ぐらいに見受けられる、汚れた、しかし利発そうな童子は、易者に言われるままに、叔郎の顔を穴の明くほどに見つめた。
「で、結局、俺はどんな人間なのさ?」
 とことん褒めちぎられて、ようやくその気になってきた叔郎が、身を乗り出して尋ねると、易者は眉を引き締めて答えた。
「漢高祖の相」
「それはまた、大仰な」
 叔郎の喉から、半分呆れ、半分昂揚した声が漏れた。
 すると易者は、
「当たるも八卦、当たらぬも八卦。信じる信じないは、おまえさん次第よな」
と、再び胡散臭い笑みを浮かべた。
「じゃぁ、当たる方の八卦を信じようか」
 劉叔郎はふんわりと笑うと、天秤棒の先から草履を取った。
「銭の行く先は決まっているけど、こいつらはまだ『嫁入り前』だ。観料代わりに貰ってくれよ。……老師のくつは、ずいぶんくたびれているようだしね」
 易者は深々と頭を下げて草履を受け取った。そして
「ああ、いけない。易を立てるってぇのに、おまえさんの生まれも名も、聞いちゃいなかったな」
と苦笑いした。
「延熹四年春の生まれ、名は劉叔郎」
 彼は満面の笑みを浮かべて答えると、直後に、
「老師の御名は?」
と、接げた。
李定りてい。……ま、おまえさんが大成した頃に思い出してくれや。それまでは、儂の事など忘れっちまいな」
 李定は、二足の草履を肩に振り分けると、童子と山羊を引いて、行った。